吉本せいの家系図や死因!旦那と子供・息子と笠置シヅ子の関係・孫の現在も総まとめ【吉本興業創業者】

吉本せいさんは吉本興業の創始者であり、朝ドラ『ブギウギ』の村山トミのモデルとなった人物です。吉本せいさんの経歴や結婚、旦那や娘・息子ら子供など家族関係、家系図、晩年と死因、笠置シヅ子さんが産んだ孫の現在について紹介します。

吉本せい(吉本興業の創始者)のプロフィール

 

出典:https://ja.wikipedia.org/

 

吉本せいさんは、1913年に大阪市南区に吉本興業(現在の吉本興業ホールディングス)を設立した人物で、吉本興業創始者として知られます。

 

また、息子の吉本頴右(えいすけ)さんが後に『東京ブギウギ』のヒットでブギの女王となる笠置シヅ子さんと婚約関係にあったこと、せいさんが2人の結婚を認めなかったことも、昭和の芸能界を賑わせたニュースでした。

 

伝説の女興行師とも呼ばれた吉本せいさんの生涯はこれまでに何度も映画やドラマ、舞台などのモチーフになっており、近年では2023年から2024年まで放送されたNHK朝の連続テレビ小説『ブギウギ』にも、彼女をモデルにした人物が登場しています。

 

 

吉本せいさんの経歴① 生い立ち・家族

 

出典:https://www.osaka-angenet.jp/

 

吉本せいさんは、1889年12月5日に兵庫県明石市で誕生しました。

 

父親は林豊次郎、母親は林ちよといい、夫婦の間にはせいさんを含めて12人の子供がいたとされ、彼女は林家の三女となります。(長女はせいさんが産まれた時にすでに死去していた)。

 

せいさんがものごころつく頃には一家は明石市から大阪の天神橋に引っ越しており、父親は米穀商を営んでいました。

 

林家は決して裕福なわけではなかったそうですが、当時は大きな会社であった天満合同紡績などにも米を卸しており、社会的には信用を得ていたようです。

 

兄弟も多く、当時は一般的に女子に教育をつけるという考えが薄かった時代でしたから、せいさんは義務教育を終えたのちに船場の事業家・島徳蔵氏のもとに花嫁修行として奉公に出されることになります。

 

出典:https://ja.wikipedia.org/

 

奉公先の家はたいへんな倹約家で、ここでの生活が彼女が経営者として成功するうえで役立ったのではないかとも指摘されています。

 

 

吉本せいさんの経歴② 結婚・旦那の吉本吉次郎(泰三)との関係

 

せいさんは1910年4月8日に、上町の本町橋際で荒物問屋「箸吉」を営む吉本家の次男・吉本吉次郎さんと結婚します。

 

出典:https://ja.wikipedia.org/

 

なお、戸籍上は上の日付で結婚したことになっていますが、せいさん本人は周囲に「19歳の時(1907年)に結婚した」と話しており、入籍前から事実婚関係にあったようです。

 

吉次郎さんはせいさんより3歳年上ですが、両家の間には商売上の取引もあったことから、2人の馴れ初めは不明ですが以前から知らぬ仲ではなかったのではと思われます。

 

入籍した翌日に吉次郎さんは父親から代々吉本家の戸主が名乗る吉兵衛の名を継いで、箸吉の5代目になりました。

 

同時に通称として「泰三」という名を使うようになります。正式に改名したわけではないのですが、せいさんの旦那はこの「泰三」という名を名乗る機会が多かったようです。

 

文献などでも吉本泰三と記しているものが多いため、以降はせいさんの旦那をこの名前で紹介していきます。

 

箸吉は老舗の荒物問屋でしたが、せいさんが嫁いできた頃には日露戦争の影響で経営が苦しく、泰三さんは現実から目を逸らすように芸事に現を抜かすようになっていきました。

 

芸や興行で身を立てて、傾きかけた家業でも起死回生を狙ったのではないかとも考察されていますが、そのようなうまい話があるわけもなく、泰三さんが芸事にのめり込んだことが原因で箸吉の借金はさらに膨れたといいます。

 

このように旦那が頼りにならなかったことから、債権者とのやり取りや面倒ごとはせいさんが任されていました。

 

しかも、それに対して泰三さんが感謝することはなく、やり取りにダメ出しをしてくる始末だったそうです。

 

くわえて姑による嫁いびりも酷く、せいさんは食事から商売に至るまで、何かと小言をつけられたといいます。

 

姑は泰三さんの父親の後妻で、せいさんが嫁いだ当時の吉本家は、せいさん夫婦と泰三さんの両親、異母兄弟など10人の大所帯だったとされますが、その賄いの一切をせいさんが1人で任されていました。

 

大所帯で経済的に苦しかった吉本家の食事は非常に質素なもので、少しでも姑が望むものと違う食事を出すと「こんな無駄金を使って」「これで腹が膨れるか」「こんな所帯持ちの悪い嫁では、ワテら乞食せにゃならん」と嫌味を言われたそうです。

 

また、姑の命令で冬用の着物を10枚、手の皮が剥けてタライの中の水が血で赤く染まるまで洗わされたと言うエピソードもあります。

 

 

吉本せいさんの経歴③ 8人の子供を出産

 

出典:https://www.jprime.jp/

 

母親の血を引いたのか、せいさん自身も多くの子供を授かりました。しかしながら成人する前に亡くなった子供も多かったとされます。

 

・1910年11月6日…長女・喜代子誕生(10歳で死亡)

 

・1911年11月17日…次女・千代子誕生(生後10日で死亡)

 

・1914年1月14日…三女・峯子誕生(後に恵津子と改名)

 

・1915年4月12日…四女・吉子誕生(1916年2月に死亡)

 

・1916年12月1日…長男・泰之助誕生(1918年7月に死亡)

 

・1920年9月3日…五女・幸子誕生

 

・1922年7月6日…六女・邦子誕生

 

・1923年10月26日…次男・泰典誕生(後に頴右と改名)

 

 

吉本せいさんの経歴④ 第二文藝館

 

出典:https://www.nikkatsu.com/

 

1909年、店のある本間橋詰に市電が通ることが決まり、吉本家は立ち退きを命じられて大阪城の近くに引っ越すことになります。

 

これが決定打となって、箸吉は倒産。このような一大事の最中にも、泰三さんはチャンバラ興行にどっぷりハマって旅回りを続けていたそうです。

 

家業をたたんだ吉本家は無収入になってしまったものの、この期に及んで芸事に逃げている泰三さんが外に働きに出るとも思えません。

 

そのため、せいさんは旦那と子供を連れて実家に帰ることにします。しかし、妻の実家に転がり込んでも旦那は生活費を1銭も家に入れず、子供を抱えたせいさんは針仕事をして生活費を稼いでいました。

 

出戻って来た実家は決して居心地の良い場所ではなく、父親からは「あんな男と別れてしまいなさい!」と再三にわたって言われたそうです。

 

そんなせいさんにとって転機が訪れたのは、林家での居候生活が始まって3年が経った頃のことでした。

 

当時、大阪天満宮の北側一帯は寄席や演芸場が立ち並び、芸事の名所とされていたのですが、その一画にある「第二文藝館」が売りに出されることになったのです。

 

このことを聞きつけた泰三さんは、「第二文藝館を買い取って寄席を経営しよう」と、せいさんに持ち掛けたとされます。(一説には、せいさんの方から「そんなに芸事が好きなら、自分で寄席を経営したらどうか」と持ち掛けたとの話もあり)。

 

しかし、第二文藝館で寄席を経営するには、土地家屋はさておき少なくとも経営権は買い取らなければいけません。

 

第二文藝館の経営権を買い取るには、当面の運転資金をあわせて約500円(現在の貨幣価値に換算すると1000万円程度)が必要でした。

 

泰三さんの提案は無茶苦茶なものでしたが、なんとか八方から借金をしてお金を用立て、夫婦は第二文藝館で寄席をする権利を手に入れます。

 

この頃の大阪寄席演芸界は落語の桂派・三友派と、浪花反対派が勢力を競っている状況で、桂派・三友派の落語家は系列の寄席にしか出演しませんでした。

 

そのため、吉本夫婦は浪花落語反対派と提携することにするのですが、開場したばかりの寄席に出演してくれるのは、浪花落語反対派のなかでも仕事のない二流三流の芸人ばかりだったそうです。

 

意外なことに、これが功を奏すことになります。

 

吉本夫婦はわずか5銭という入場料で、浪花落語反対派の名の知れていない芸人による、落語や義太夫、曲芸などのバラエティに富んだ芸を披露し、誰でも楽しめる寄席を目指しました。

 

当時は喫茶店のコーヒーが1杯10銭でしたから、5銭というのがどれほど破格な値段だったかわかります。

 

出演する芸人たちも、自分たちに舞台を提供してくれた吉本夫婦に感謝して競い合うように芸を磨いていきました。

 

さらに、せいさんは以下のような工夫をして第二文藝館の経営を盛り上げました。

 

・収容人数より1割多い数の座布団を敷き、あえて居心地の悪い空間を作って客の回転率をあげた

 

・劇場内を人が多く暑苦しい環境にしたうえで、小屋の外で冷やし飴を販売した

 

・冷やし飴は氷の上で瓶をコロコロと涼しげな音をたてて転がしながら売るという手法をとり、これにつられて劇場に入る人もいた

 

・冷やし飴が売れるように、寄席の合間には焼きイカや酢昆布などの喉が渇くような、しょっぱいものを売った

 

これまで働かなかった泰三さんも、好きな芸事を仕事にできたことで人が変わったように真面目になり、夫婦は第二文藝館の経営を軌道に乗せることに成功します。

 

 

吉本せいさんの経歴⑤ 吉本興業部の誕生

 

出典:http://blog.livedoor.jp/

 

第二文藝館を開場した翌年の1913年1月、はやくも吉本夫婦は正式に吉本興業部の看板をあげます。

 

そして、第二文藝館の成功を足掛かりに1914年には福島の竜虎館を買収。さらに梅田の松井席、天神橋筋五丁目の都座など、経営が傾いた演芸場を次々に手に入れていきました。

 

こうした劇場の買収は主に泰三さんの仕事で、箸吉の若旦那だった頃には見せなかったような交渉や買収の手腕をどんどん発揮していったそうです。

 

そんな折、夫婦の運命を変える転機が再び訪れます。1918年になって、ミナミの法善寺横丁にある金沢席が売りに出るという噂が流れたのです。

 

金沢席は格式的な伝統落語を重んじる桂派の城ともいえる場所で、三友派の紅梅亭と並んで上方落語の聖地とされていました。

 

しかし、三友派と浪花落語反対派の勢いに押されて客離れが進み、桂派は金沢席を手放すことになったというのです。

 

金沢席の売値は、1万5000円でした。成功を重ねて余裕が出てきていたとはいえ、吉本夫婦に簡単に支払える金額ではありません。

 

が、ありったけの財産をかき集め、借金を背負って夫婦は金沢席を手に入れます。

 

吉本夫婦がこのような危険な賭けに出た理由として、華々しく吉本興業部という看板を掲げたものの、掌中にある劇場はすべて端席であり、どうしても一流の席が欲しかったからではないかと言われています。

 

夫婦は金沢席を南地花月という名称に改名して、経営を開始。それにあわせて、ほかの寄席にも「花月」の名前をつけて、大阪のみならず東京や京都にも進出していきました。

 

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吉本せいさんの経歴⑥ 泰三さんの死

 

吉本興業部が大きく成長していくなか、1920年に泰三さんが急逝します。

 

死因は脳溢血でした。享年39歳。せいさんは34歳で未亡人になってしまったのです。

 

この頃、泰三さんは仕事は真面目にしていたものの、女遊びが酷く、愛人の家で亡くなったという噂も流れたそうです。

 

さて、泰三さんを亡くした後もせいさんは休むことなく働いたとされます。泰三さんがいなくなったことで吉本興業部の経営が傾けば、「吉本は泰三あってのものだった。やはり女に経営の才覚はない」と世間に思われるのが怖かったのでしょう。

 

遺された28軒の寄席を守るため、せいさんは女社長としての手腕を発揮していきます。

 

人気のある者には惜しみなく給料を払い、専属契約をさせるなど、金銭で芸人を縛るという手法をとりいれたり、時代や社会の流れにマッチした新しい演芸を創り出すなど、せいさんは果敢に新しいことに挑戦していきました。

 

泰三さんの死の後も吉本興業部が躍進を続けた背景には、せいさんの実の弟である正之助さんと弘高さんの協力があってこそのことでした。

 

出典:http://blog.livedoor.jp/

 

正之助さんは泰三さんの生前から吉本興業部の仕事を手伝っており、すでにせいさんの右腕ともいえるほどの役割を果たしていたといいます。

 

しかし、泰三さんがいなくなって交渉の場などで頼りになる男手が必要になると考えたせいさんは、さらに8歳年下の弟の弘高さんも呼び寄せて東京部門の仕事を一任することにしました。

 

 

吉本せいさんの経歴⑦ 漫才の吉本へ

 

出典:https://twitter.com/

 

泰三さんの死後、関東大震災、大正天皇の崩御ときて元号が昭和に移り、急激に日本社会は変化していきました。

 

昭和の初期には「文化」という言葉が流行し、小市民と呼ばれる会社員が文化的な職業とされ、彼らの生活のすべてに文化住宅、文化鍋といったように文化の2文字がつけられるようになります。

 

そして、彼ら文化的な人々はみな洋装を着るようになり、街並みもモダンに変わっていきました。

 

こうした時代の変化を目の当たりにしていたせいさんは、いつまでも笑いの主役が和服に身を包んだ落語家による落語だけでよいものなのか、新しい世代から見向きもされぬ日が来るのではないかと危惧します。

 

そこで正之助さんが目をつけたのが、万歳でした。正之助さんは泰三さんと違って芸事に対する造詣は深くなく、吉本興業部に所属している落語家たちからも「芸がわからない」と揶揄されることがあったそうです。

 

そういったことから悔しさを感じていたこともあり、知識を必要としない漫才ならば広く受け入れられるのではないかと思い至ったのです。

 

1927年、正之助さんは文楽の本拠地であった弁天座(現在の朝日座)で、全国万歳座長大会を開催し、大成功を収めました。

 

このことに影響を受けたせいさんは、アメリカ巡業から帰った横山エンタツさんに声をかけます。

 

エンタツさんは吉本興業部の舞台に立つ条件として、花菱アチャコさんとコンビを組むことを打診。

 

こうして日本の演芸の歴史を変えるコンビ、エンタツ・アチャコが吉本の舞台に上がることになったのです。

 

エンタツ・アチャコの芸は、これまで落語を聞きに寄席に来ていた層からは非難を浴びましたが、若年層にヒットします。

 

これを受けて吉本興業部は新しい客にあわせて、万歳を漫才と改めます。せいさんは漫才を寄席に来ない潜在的な客にも知ってほしいと考え、エンタツ・アチャコの漫才をラジオで中継することに挑戦しました。

 

漫才の中継は大きな話題となり、寄席にも生でエンタツ・アチャコの芸を見たいという客が押しかけるようになります。

 

 

吉本せいさんの経歴⑧ 通天閣を買収

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出典:https://ja.wikipedia.org/

 

1928年、せいさんは文化への貢献が認められて勅定紺綬褒章を受勲します。漫才によって吉本はいっそう盛り上がり、収入は右肩上がり。

 

功績も認められてまさに順風満帆でしたが、吉本が大きくなっていく一方で、彼女には次なる野望がありました。

 

当時、まだ女性には参政権さえ認められておらず、いくら仕事で成功を収めても吉本せい個人としての社会的な地位は決して高くなかく、漫才を低俗な文化と見下す層もいました。

 

そのため社会的地位を手に入れるために、せいさんは日本赤十字社、愛国婦人会などに多額の寄付をするほか、吉本傘下の芸人を満州駐屯軍や養老院などの慰問に派遣します。

 

こうした慈善活動が認められ、1934年の2月には大阪府から表彰され、以降は「女小林一三」「女今太閤」などと呼ばれ、彼女の生き方が美談として語られるように。

 

言ってみればお金で社会的な地位を買ったわけですが、こういった点からも吉本せいという人物がいかに優れたプロデューサーだったのかがわかります。

 

そして1938年、せいさんは25万円を投じて大阪通天閣を買い取ります。大阪のシンボルとも呼べる通天閣のオーナーになったのです。

 

さて、朝ドラにもなった山口豊子氏の小説『花のれん』では、せいさんをモデルにした主人公・多加は、通天閣に広告看板を出すことで収益を狙ったとされていますが、実際には当時の通天閣は負債しか生み出さないお荷物だったそうです。

 

折りしも第一次世界大戦開戦の気配が近づいていた頃でしたから、通天閣もかつての華やかさを失い、名所としての価値も失墜していました。

 

それでもせいさんは、自身の成功のステータスとして通天閣を手に入れたかったのでしょう。

 

しかし、1943年には近所の映画館からの出火で塔脚が焼けてしまい、戦時下の金属回収方針に基づいて解体され、軍部に献納されてしまいます。

 

なお、この時に回収された鉄屑も空襲によって燃やされてしまったといい、せいさんは周囲に「通天閣が人殺しに使われなくてよかった」と話していたそうです。

 

 

吉本せいさんの経歴⑨ 息子・頴右さんの死

 

出典:https://popsfanlife.com/

 

通天閣が焼けてから、せいさんの人生にも不幸が続くようになります。吉本興業部は1932年に改組設立され、吉本興業合名会社に生まれ変わっていました。

 

せいさんは吉本興業合名会社の社長職に就任。すでに吉本は彼女の指揮がなくとも機能するようになっていたのですが、彼女は弟たちに経営の全てを任せず、自分の息子である頴右さんが成人し、跡取りとなることを望んでいたとされます。

 

息子に跡を継がせるまでは、一線を退くわけにはいかなかったのでしょう。

 

しかし、戦争によって不安定になっていく日本の中で、吉本興業とせいさんは荒波に飲まれていくこととなります。

 

1944年2月には国民の士気を高揚するという目的で「決戦非常措置」に基づく高級享楽停止に関する要項が政府から発令され、大阪花月劇場など吉本直営の劇場3ヶ所の休業を命じられます。

 

さらに空襲により、せいさんが築き上げてきた血と汗と涙の結晶である劇場や寄席が、いくつも焼け落ちてしまったのです。

 

過酷な状況に置かれた彼女の支えになっていたのが、溺愛していた息子の頴右さんの存在でした。

 

せいさんは泰三さんが急逝した際に、親権を行使して吉本家の家督を頴右さんに継がせており、彼が立派に成長することを楽しみに、これまでもさまざまま困難を乗り切ってきたといいます。

 

しかし、頴右さんは幼い頃から身体が弱く、1947年に24歳で帰らぬ人になってしまうのです。

 

 

吉本せいさんの経歴⑩ 晩年と死因

 

 

吉本興業合名会社は1948年に資本金48万円で株式会社になり、実質的な会社経営の采配は正之助さんが任されることになりました。

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引き続き社長の座にはせいさんが君臨していましたが、すでに名ばかりの役職だったといいます。

 

そして1950年3月14日、吉本せいさんは西宮市瓦林弁天の自宅で息を引き取りました。死因は肺結核で、享年60歳でした。

 

もともと吉本家の本宅は南区笠屋町(現在の大阪市中央区笠屋町筋)にあったのですが、戦災で燃えてしまったために、晩年は西宮の別宅を自宅としていたそうです。

 

もっとも頴右さんが亡くなって以降、せいさんは体調を崩して大阪日赤病院の特別室に入ったきりになってしまい、病室が定宿のような状態だったといいます。

 

入院したからは金に糸目をつけずに占領軍に手を回して入手した高価な新薬や、高額な治療法を片っ端から試していたとの話もありますが、どれも功を奏しませんでした。

 

死後、せいさんの本葬儀は天王寺で盛大に営まれ、豊中の服部霊園に埋葬されました。

 

 

吉本せいさんと笠置シヅ子さんの関係

 

出典:https://ja.wikipedia.org/

 

吉本せいさんの息子の頴右さんは、生前、スウィングの女王として名を馳せていた歌手の笠置シヅ子さんと恋仲にありました。

 

頴右さんは1943年、早稲田大学の学生だった頃に名古屋の劇場の楽屋で笠置シヅ子さんに会い、そこから友人としての交流を経て交際を開始していました。

 

2人の年齢差は9歳、シヅ子さんの方が年上ではありましたが、交際開始後すぐに結婚を誓い合うほどの深い仲にあったとされます。

 

当時、笠置シヅ子さんは歌手として大きな人気と支持を得ていた一方で、「つけまつげをつけている」「ダンスの動きが激しすぎて不謹慎である」といった理由で軍から睨まれていました。

 

一方で頴右さんは吉本の御曹司・たった1人の跡取り息子です。2人は周囲に自分達が認められるまでは、関係を隠し、戦時下で住む場所が亡くなった一時期を除いては距離を置いて生活をしていたといいます。

 

戦争が終わると頴右さんは大学を辞めて吉本興業で働き始め、シヅ子さんも結婚したら家庭に入るつもりで仕事の整理を始めていました。

 

しかし、マスコミによって2人の関係は早くも嗅ぎつけられてしまい、頴右さんの恋は母・せいさんの知るところになってしまいます。

 

せいさんは2人の交際を猛反対し、結婚を認めようとしませんでした。

 

シヅ子さんの仕事が芸能関係だったから、家柄の差があったから息子の恋を認めなかったという説もありますが、嫉妬深いとされていたせいさんは、単純に溺愛していた頴右さんが他の女にとられるのが許せなかったのではないかとも言われています。

 

そんななか1946年10月、シヅ子さんが頴右さんの子供を妊娠していることが発覚。

 

2人は産まれてくる子供のためにも、せいさんに結婚の許可を得たいと考えるようになります。

 

せいさんもシヅ子さんが妊娠しているという話を伝え聞いてからは、息子の結婚を容認する方向に心が動いていたそうです。

 

しかし、妊娠発覚時に頴右さんは大阪に戻っており、シヅ子さんは身重で大阪に向かうことができず、さらに穎右さんは肺炎を発症してどんどん体調を悪化させるという事情が重なり、息子の生前には2人の結婚を認めることができませんでした。

 

穎右さん亡き後、シヅ子さんが無事に娘を出産したことを知ったせいさんは、シヅ子さんに「息子がたいへん世話になりました」と頭を下げ、2人は和解。

 

自らもほぼシングルマザーのような環境で子供を育て上げ、また芸能の仕事の辛さを知っていたせいさんは、「仕事を続けるのなら、子供は私が預かろうか」と申し出ました。

 

自らも幼い頃に育ての親の手に渡っていたシヅ子さんは、この申し出を断ったとされますが、シヅ子が娘を連れてせいさんの葬儀に出席していたことから考えて、2人の関係は決して険悪なものではなかったと考えられます。

 

 

吉本せいさんの家系図

 

出典:https://ameblo.jp/

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兄弟が多く、自分の子供も多いために吉本せいさんの家系図は複雑なものとなっています。

 

また、上の家系図では吉本家の孫は穎右さんとシヅ子さんの間に生まれたエイ子さん1人となっていますが、吉本興業によるとせいさんの娘の恵津子さんにも2人の娘がいるため、孫は3人いるそうです。

 

 

吉本せいさんの孫(笠置シヅ子さんの娘)・亀井エイ子さんの現在

 

出典:https://twitter.com/

 

笠置シヅ子さんの娘のエイ子さんは母親の姓の亀井を名乗っており、成長してからも芸能界には関わらずに一般人として生活をされています。

 

これは幼い頃に「笠置シヅ子の娘」という理由で誘拐事件に巻き込まれかけたことが原因で、シヅ子さんが我が子は芸能界とは関係のない世界で生きてほしいと願うようになったことが、大きな理由だといわれています。

 

そのため、エイ子さんについてはあまり情報が公になっていません。

 

大人になってからはフラワーデザイナーの仕事に就いたとの話がありますが、現在は70歳を過ぎていることから仕事を引退している様子です。

 

なお、吉本家の跡を継いだのはせいさんの娘の恵津子さんの長女・圭比子さんの夫の公一氏(現在の正和吉本社長)であり、エイ子さんは吉本興業の経営にも関わっていません。

 

 

吉本せいさんの『ブギウギ』での描かれ方

 

出典:https://www.oricon.co.jp/

 

吉本せいさんは2023年から2024年まで放送された、笠置シヅ子さんの生涯を描いた朝ドラ『ブギウギ』では、「村山興業社長のトミ」として登場しています。

 

『ブギウギ』では小雪さんがせいさんをモデルにしたトミを演じ、その圧倒的な存在感から初回登場時には「ラスボスだ」とSNSで話題になったほどです。

 

実際には生後3ヶ月のエイ子さんを連れてシヅ子さんがせいさんに会いに行ったところを、せいさんが上京してシヅ子さんに頭を下げたと描かれているなど、ドラマと実話では少し異なる箇所もあります。

 

 

吉本せいさんについてのまとめ

 

今回は吉本興業の創始者の吉本せいさんについて、経歴や結婚、家族、息子の恋人であった笠置シヅ子や孫との関係を中心に紹介しました。

 

激動の時代にうまく順応し、たった一代で吉本興業を築いた女傑・吉本せいさん。彼女の人生はこれまで幾度も小説や映像作品で取り上げられてきましたが、どの時代にあっても多くの人を勇気づけてきました。

 

「時代を先取りして、誰の意見でもありがたく聞くことです」という吉本せいさんの名言とともに、彼女の生涯はこれからも語り継がれていくことでしょう。

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