東海村JCO臨界事故は、1999年に茨城県東海村の核燃料加工施設で発生した放射能事故です。
この記事では東海村JCO臨界事故の詳細や原因、大量被曝者の大内久さんや篠原理人さんの写真や、生存者の横川豊さん、その後や現在などについてまとめました。
この記事の目次
- 東海村JCO臨界事故は茨城県東海村の核燃料加工施設で発生した原子力事故
- 東海村JCO臨界事故の発生から収束までの経緯詳細
- 東海村JCO臨界事故の原因はJCOの杜撰な作業工程管理体制
- 東海村JCO臨界事故の被曝者① 作業員・大内久さん【写真あり】
- 東海村JCO臨界事故の被曝者② 作業員・篠原理人さん【写真あり】
- 東海村JCO臨界事故の被曝者③ 作業員・横川豊さん(生存者)
- 東海村JCO臨界事故の被曝者④ 救助にあたった消防隊員や周辺住民ら多数
- 東海村JCO臨界事故のその後① JCOと生存者の横川豊さん含む管理責任者6名に有罪判決
- 東海村JCO臨界事故のその後② 茨城県全域に深刻な風評被害が出た
- 東海村JCO臨界事故の現在① 事故を風化させないための活動が続いている
- 東海村JCO臨界事故の現在② 健康被害を訴える男が東海村役場などに車で突入
- まとめ
東海村JCO臨界事故は茨城県東海村の核燃料加工施設で発生した原子力事故
「東海村JCO臨界事故」とは、1999年9月30日に茨城県那珂郡東海村の株式会社JCO東海事業所の核燃料加工施設内で発生した原子力事故(臨界事故)です。
当時は核燃料製造加工業務を行っていた株式会社JCOの東海事業所は、核燃料サイクル開発機構(現在の日本原子力研究開発機構)が保有する高速増殖炉の実験炉「常陽」で使用する核燃料の製造を行っていました。
東海村JCO臨界事故は、同事業所の「転換試験棟」での作業中に、本来の用途と異なる「沈殿槽」に濃縮度の高いウラン溶液を大量に投入した事が原因となって発生しました。
作業にあたっていたのは、大内久さん(当時35歳)、篠原理人さん(当時39歳)、横川豊さん(当時54歳)で、3人全員が大量被曝し、大内久さんと篠原理人さんが死亡しました。原子力施設の事故による急性放射線障害での死亡者は国内初でした。
その後、臨界状態は約20時間にわたって継続し、救助にあたった消防隊員、周辺住民ら認定されているだけでも667名の被爆者を出す大惨事となりました。
東海村JCO臨界事故の発生から収束までの経緯詳細
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続けて、「東海村JCO臨界事故」の発生から収束までの詳細な経緯を時系列で見ていきます。
東海村JCO臨界事故発生前の1999年9月22日〜29日
「東海村JCO臨界事故」を起こした、株式会社ジェー・シー・オー(以下、JCO)は、住友金属鉱山の完全子会社で、原子力発電用の核燃料製造におけるウラン加工事業(濃縮された六フッ化ウランを二酸化ウランの粉末に転換)を手掛けていました。
JCOは1999年度、本来の原子力発電所用の核燃料の中間加工業務以外に、特殊法人「核燃料サイクル開発機構」保有の高速増殖炉の研究炉「常陽」で使用される核燃料の原料となる濃縮度18.8パーセント、ウラン濃度380gU/リットル以下の硝酸ウラニル溶液約160リットルの製造を請け負っていました。(JCOが普段扱っていた発電所用の核燃料向けのウラン濃縮度は3〜5パーセントだった)
JCOが「常陽」向けの核燃料の転換作業を請け負うのは初めてではありませんでしたが、約3年ぶりでした。
まず、1999年9月22日から28日にかけてウランの精製作業が行われ、JCO臨界事故発生前日にあたる9月29日に硝酸ウラニル溶液の均一化作業が開始されました。
1999年9月30日午前10時35分、「東海村JCO臨界事故」の発生
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1999年9月30日、作業員3人(大内久さん、篠原理人さん、横川豊さん)は、酸化ウラン粉末2.4kgを10リットルのステンレス製バケツの中で硝酸と純水で順次溶解して硝酸ウラニル溶液を作り、濃度を均質化するため、溶液を5リットルのビーカーに移し替えて、攪拌機を備えた沈殿槽にサンプリングをする穴から漏斗を使い直接流し込む作業を行っていました。
午前10時35分頃、作業員らがバケツで7杯目の硝酸ウラニル溶液を沈殿槽に流し込んだタイミングで、沈殿層内で硝酸ウラニル溶液が臨界状態となり警報が作動しました。
核分裂の連鎖反応によって大量の中性子線とガンマ線(いずれも放射線の一種)が放出され、近くで作業していた作業員3名は大量被曝しました。
沈殿槽は「むき出しの原子炉」のような状態となり、施設内部だけでなく敷地外にまで放射線が拡散する事態となりました。作業員の1人は、臨界が発生した時に「チェレンコフ光」と呼ばれる青い光を見たと証言しています。(チェレンコフ光は、非常に強い放射線を出す物質周囲で確認される)
午前11時15分に臨界事故発生の通報、11時52分に作業員3名が救急搬送
東海村JCO臨界事故発生から40分が経過した午前11時15分、JCOは科学技術庁に「臨界事故発生の可能性」を通報。同時に消防への通報も行われていますが、JCOは消防に対しては原子力事故の可能性を伝えておらず、救助にあたった救急隊員が被曝する事態を引き起こしました。
11時52分、大量被曝した作業員3人(大内久さん、篠原理人さん、横川豊さん)が救急車で国立水戸病院(現在の国立病院機構水戸医療センター)へ向けて搬送されました。
大量被曝者3名は水戸病院で救急措置を受けた後、茨城県の防災用ヘリコプターで千葉県の放射線医学総合研究所へ搬送されています。
東海村役場は、国やJCOから事故についての詳しい情報が得られず、当時の村長の村上達也氏は、午後12時30分から独自の判断で住民への屋内退避の呼びかけをし、15時になってようやく事故現場周辺350メートル圏内住民への避難要請を行なっています。
午後12時40分頃、ようやく政府による対応が開始される
午後12時40分、当時の内閣総理大臣・小渕恵三のもとにようやく臨界事故発生の第一報がもたらされています。
これにより、ようやく政府による対応が開始され、小渕恵三首相が周辺住民へ外へ出ないよう呼びかけを行っています。夕方になってようやく、日本原子力研究所(現在の日本原子力研究開発機構)の東海研究所内に現地対策本部が設置されています。
しかし、対策本部には事態に対応できる原子力の専門家が1人もいなかったため、やむなく原子力研究所東海研究所所長だった斎藤伸三氏が現場指揮を取る事になりました。
夕方、東海研究所に国の現地対策本部が置かれた。原研は場所を貸すだけの立場だったが、そのうち事故対応を進めることになった。「現地対策本部が立ったものの、他に誰も対応できる人がいなかった」
斎藤伸三氏は部外者の立場で指揮にあたっており、対策本部員の肩書きが正式に与えられたのは、東海村JCO臨界事故の収束からさらに数日が経過した後でした。これも政府対応の遅さや杜撰さを示しているとして批判されました。
1999年10月1日未明、臨界を止めるため冷却水配管切断作業を開始
現地対策本部では、JCOからの説明により、臨界の発生元である沈殿槽の周りに冷却水が張り巡らされており、これが中性子の反射材の役目をして臨界の収束を妨げている可能性が高いとの結論が導き出され、冷却水を抜く方法が検討される事になりました。
JCOからの説明で、問題の沈殿槽は周囲に冷却水が張り巡らされていることが判明。沈殿槽から中性子が外部に放出され続ければ臨界は自然に収束するが、冷却水の層が放出を妨げ、事態を悪化させていた。
タンクの冷却水を抜く方策の検討に入った。
しかし、臨界事故の現場は高い放射線量が継続しており、人間が接近することは極めて危険な状況でした。
当初、自衛隊の遠距離からの射撃で沈殿槽周りの水を抜くといった案も出ましたが、射撃によって沈殿層内の硝酸ウラニル溶液が飛散すれば非常に危険だという事になり、最終的に人が行って冷却水の配管を切断する方法が採用されました。
10月1日未明になって、やっと冷却水配管切断作業が開始されましたが、JCOの幹部も社員も、放射線被曝の恐怖から積極的に作業をしようとせず、現場に派遣されていた原子力安全委員会委員長代理の住田健二氏が、「やる気がないのであれば関係各方面に連絡して強権を発動して命令することになる」と促して、午前3時にようやく作業が開始される有様でした。
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10月1日午前6時30分、東海村JCO臨界事故発生から約20時間後に臨界収束へ
作業は、選抜されたJCO社員18名が2人1組で1分ごとに交代して順繰りに現場に向かい、冷却管の結合部を破壊しそこからアルゴンガスを注入してその圧力で冷却水を抜き取る方法で行われました。
さらに、臨界収束を確実にするため中性子を吸収するホウ酸水を注入したところ、午前6時過ぎまでに放射線量は急激に低下し、午前6時30分頃に中性子線量が検出限界以下になり、臨界反応の収束が確認されました。
東海村JCO臨界事故の原因はJCOの杜撰な作業工程管理体制
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「東海村JCO臨界事故」の原因は、JCOの杜撰な作業工程と管理体制にあった事が結論づけられています。
東海村JCO臨界事故後の調査により、JCOでは本来定められていた正規のマニュアルを無視して、作業効率を重視した「裏マニュアル」に沿って作業が進められていた事が判明し、それが臨界事故の原因になったと結論づけられました。
原料となるウラン化合物の粉末を硝酸と純水で溶解する際、正規のマニュアルでは「溶解塔」という細長い形状(臨界に至りづらい形状)の装置を使用する事が定められていましたが、当時JCOで使用されていた裏マニュアルではステンレス製のバケツを使用する事にされていました。
さらに、東海村JCO臨界事故前日の1999年9月29日、現場ではさらに作業を効率化させるために裏マニュアルにも記載されていない方法が取られていました。
本来、ウランによる臨界事故防止のため、各装置は臨界に至りづらい形状として細長く設計されており、装置が密集しないように形状制限を加えて配置されます。
当然ながら東海村JCO臨界事故が発生したJCO東海事業所の「転換試験棟」においても同様の対策が取られていたのですが、作業員らは本来の用途は違う沈殿槽という容器(攪拌機を備え内径で直径45cm、高さ61cmで臨界に至りやすい形状)を使用していました。
さらに、本来は処理されるウランの量も制限が設けられ、クロスブレンディング(硝酸ウラニル溶液を複数の容器から同量ずつ取り出し別の複数の容器に配分する方法)という方法を使い、1バッチ毎の濃度を均一にして注入されるべきところを、作業員らはステンレス製のバケツを使って順次ウラン粉末を硝酸と純水で溶解し、沈殿槽のサンプリングをする穴から5リットルのビーカーと漏斗を使い直接流し込んでいました。
こうした正規の手順を逸脱した作業を行った結果、臨界量以上のウランを含む高濃度の硝酸ウラニル溶液が注入され、さらに沈殿槽の外周のジャケットを流れる冷却水が中性子の反射材となって臨界状態を引き起こす原因となり、東海村JCO臨界事故が引き起こされたと結論づけられています。
最終報告では、事故の直接的原因は、「硝酸ウラニル溶液を均一化する作業中に、そもそも使用目的が異なり、また臨界安全形状に設計されていない沈殿槽に、事業者が安全確保のための手順を逸脱して、臨界量以上のウランを含む硝酸ウラニル溶液を注入したこと」にあるとされた。
東海村JCO臨界事故の被曝者① 作業員・大内久さん【写真あり】
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「東海村JCO臨界事故」では、認定されているだけでも667名もの被曝者が出ました。
そのうち、臨界事故が発生する原因となった作業をしていたJCO作業員3名が重篤な被曝をしてうち2名が死亡しました。
東海村JCO臨界事故で死亡した大量被曝者のうちの1人が当時35歳だった大内久さんです。大内久さんは、硝酸ウラニル溶液を沈殿槽に注いでいた際に、サンプリングをする穴に差した漏斗を支えていました。
臨界の中心に近ければ近いほど重篤な影響を受けるため、大内久さんは大量の放射線を浴びました。大内久さんは東海村JCO臨界事故の大量被曝者3名の中でも最も被曝量が多く、生物学的ガンマ線相当線量を示すGyEq(グレイ・イクイバレント)という単位で、16〜20GyEqの放射線を、被ばく線量の単位であるシーベルトで17シーベルトもの大量の放射線を浴びたと発表されています。
10月2日、3人の大量被爆者の中で最も大きな放射線を浴びた大内久さんは放射線医学総合研究所から東大附属病院へと移送され治療を受けています。
大内久さんは、大量の放射線を浴びた事で染色体が破壊され、新たな細胞が生成されない状態になり、白血球が減少して免疫力が低下したため無菌病室に移され、実妹からの造血幹細胞の移植手術を受けて一時は白血球の増加が認められました。
しかしその後、移植された造血細胞にも染色体異常が見つかり、再び白血球が減少。さらに、1日3リットルもの大量の下痢が始まってやがて血便へと変わり、大量の輸血が必要な状態となりました。
また、染色体異常により皮膚の再生機能が失われ、大内久さんの全身の皮膚が剥がれ落ち、体液がとめどなく漏れ出してくるため、全身をガーゼで覆ってそれを交換し続けるという悲惨な状態となりました。
東大付属病院に移されてから3日〜4日後には、呼吸器の障害も深刻化して大内久さんは意識混濁状態となり、気管にチューブが通されて人工呼吸器に接続されています。
その後、東海村JCO臨界事故発生から59日後の11月27日に大内久さんは心肺停止となり、蘇生措置により心拍再開したものの、心停止によるダメージで脳と各臓器に深刻なダメージが残り、それからさらに24日後(東海村JCO臨界事故から83日後)の1999年12月21日の23時21分に多臓器不全で亡くなりました。
大内久さんには当時、妻と小学校3年生になる息子がおり、息子が小学校に入学した3年前に自宅を新築したばかりだったという事です。
なお、ネット上では東海村JCO臨界事故での治療を受ける大内久さんだとして、全身が真っ赤に爛れ、両手両足を吊り上げれている人間の痛ましい写真がネットで拡散されているのですが、実際にはこれは熱傷診療の有名な書籍である「TOTAL BURN CARE」に掲載されている写真で東海村JCO臨界事故の大内久さんとは何の関係もありません。
東海村JCO臨界事故の被曝者② 作業員・篠原理人さん【写真あり】
「東海村JCO臨界事故」の大量被爆者の2名の死者のうちのもう1人は当時39歳だった篠原理人さんで、臨界事故発生の原因となった作業では、硝酸ウラニル溶液を沈殿槽に注ぐ役割でした。
篠原理人さんも、6〜10GyEq、6〜10シーベルトもの大量の放射線を浴び、大内久さん同様深刻な染色体破壊を受けました。
篠原理人さんは、造血幹細胞の移植が効果をあげて一時は会話ができるまでに容態が回復し、しばらくは安定していました。
しかし、次第に放射線障害の影響が次第に強く出始め、染色体損傷により皮膚の再生能力が失われました。
さらに、MRSA(メチシリン耐性黄色ブドウ球菌)に感染して肺炎を併発し、東海村JCO臨界事故発生から211日後の2000年4月27日の午前7時25分に放射線障害による多臓器不全で亡くなりました。
東海村JCO臨界事故の被曝者③ 作業員・横川豊さん(生存者)
「東海村JCO臨界事故」の大量被爆者3名のうち唯一の生存者が、臨界事故の原因となった作業を行っていた製造グループスペシャルクルー班副長で当日の現場の責任者であった横川豊さんでした。
横川豊さんは東海村JCO臨界事故発生時、隣室にいたため他の大量被爆者2人(大内久さん、篠原理人さん)と比べて被曝線量が少なく、1〜4.5GyEqでした。
しかしそれでも、一時は白血球の数が0になるなど危険な状態となり、放射線医学総合研究所の無菌病室で治療を受けて回復し、約2ヶ月半後の1999年12月20日に無事退院しています。
東海村JCO臨界事故の大量被爆者のうち唯一の生存者である横川豊さんですが、臨界事故の原因となった作業方法を考案した人物である事が裁判で明らかにされており、被曝者でありながら現場責任を問われて起訴され、裁判で禁固2年執行猶予3年の有罪判決を言い渡されています。
計画グループ主任の竹村健司被告(34)は、副長の横川豊被告(58)から臨界を防げない沈殿槽に大量のウラン溶液を注入する相談を受け承認、横川被告が実際の作業を指示した。
東海村JCO臨界事故の被曝者④ 救助にあたった消防隊員や周辺住民ら多数
「東海村JCO臨界事故」では、臨界事故の原因となる作業をしていて大量被曝者となった3人(大内久さん、篠原理人さん、横川豊さん)の他にも大勢の被曝者が出ました。
東海村JCO臨界事故の被曝者は国が認定しているだけでも667名で、施設内にいたJCO社員56名の他、通報を受けて駆けつけた消防隊員3名、周辺住民207名、臨界を止める作業を行ったJCO関係者7名などが含まれます。
これらの被爆者の受けた被曝線量は最大で120ミリーベルトで、50ミリシーベルト以上の被曝者は6名でした。また、周辺住民の被爆者では最大は25ミリシーベルト、1ミリシーベルト以上の被曝者は112名でした。
大量被曝者3名以外の被曝者のうち、最大の120ミリシーベルトであっても、CTスキャン1回分ほどの放射線量にあたり、健康に影響を与える放射線量ではあった事は不幸中の幸いと言っても良いかもしれません。(状況によってはもっと深刻な被害が出た可能性があった)
東海村JCO臨界事故のその後① JCOと生存者の横川豊さん含む管理責任者6名に有罪判決
「東海村JCO臨界事故」のその後についても見ていきます。
東海村JCO臨界事故から約1年後の2000年10月16日にJCO東海事業所長の越島建三さんが労働安全衛生法違反容疑で書類送検され、11月1日には所長、製造部長、計画グループ長、製造グループ職場長、計画グループ主任、製造部製造グループスペシャルクルー班副長(生存者の横川豊さん)の6人が業務上過失致死の容疑で起訴されています。
また、株式会社JCOも法人として、核原料物質、核燃料物質及び原子炉の規制に関する法律(原子炉等規制法)違反および労働安全衛生法違反で起訴され、その後、2003年にJCOに罰金刑、被告人6人に対しては執行猶予付きの有罪判決が言い渡されています。
茨城県東海村の「ジェー・シー・オー(JCO)」東海事業所で1999年9月に発生した臨界事故で、業務上過失致死罪などに問われた当時の事業所長・越島建三被告(56)ら六名と同社に対する判決が3日、水戸地裁で行われ、同社に求刑通りの罰金百万円を、また越島被告に禁固三年、執行猶予五年、罰金五十万円。ほかの五名の被告にも執行猶予付きの有罪判決が言い渡された。
東海村JCO臨界事故のその後② 茨城県全域に深刻な風評被害が出た
「東海村JCO臨界事故」ではその後、茨城県全域に深刻な風評被害が出ています。
東海村JCO臨界事故により茨城県全域が放射能汚染されているとった根拠のない風説が広まり、農水産物や加工品の返品や価格低下が引き起こされました。また、観光関連も風評被害の影響を受け、宿泊施設や観光施設の予約キャンセルが相次ぎ、集客数も大幅に減少しています。
東海村JCO臨界事故の現在① 事故を風化させないための活動が続いている
「東海村JCO臨界事故」に関する現在の状況についても見ていきます。
東海村JCO臨界事故が発生した東海村では、現在も事故を風化させないための活動が続けられています。
2023年9月27日には、東海村役場に職員約100名が集まり黙祷しています。これは、事故当時を知らない若い世代にも安全意識を共有する意味合いも込めて毎年実施されているようです。
作業員2人が死亡、周辺住民ら660人余が被曝(ひばく)した茨城県東海村の核燃料加工会社「ジェー・シー・オー(JCO)」の臨界事故から、30日で24年になる。それを前に27日、村役場では職員約100人が集まって黙禱(もくとう)し、「事故を風化させない」と思いを新たにした。
また、臨界事故発生からちょうど24年となった2023年9月30日にも、脱原発団体などが集会を開き犠牲者や被害者(被曝者)に黙祷を捧げた後、デモ行進を行っています。
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国内の原子力施設で初めて被曝(ひばく)による死者を出した茨城県東海村の核燃料加工会社「ジェー・シー・オー(JCO)」の臨界事故から24年となった9月30日、脱原発を訴える市民団体などが同村で集会を行った。180人が犠牲者に黙禱(もくとう)を捧げ、集会後にJR東海駅までデモ行進をした。
東海村JCO臨界事故の現在② 健康被害を訴える男が東海村役場などに車で突入
2023年12月7日、茨城県日立市役所広場と東海村役場に相次いで車で突っ込んだとして、自称運転手の益子泰容疑者(当時53歳)が建造物損壊容疑で逮捕される事件がありました。この事件では3名の負傷者が出ています。
益子泰容疑者はこの事件を起こす前に、東海村JCO臨界事故で健康被害を受けたと村役場や株式会社JCOに訴えていたという事です。
茨城県内の日立市役所広場と東海村役場に車が突っ込み、3人が重軽傷を負った事件で、村役場への建造物損壊容疑で逮捕された自称運転手、益子泰容疑者(53)=日立市久慈町=が、約24年前に東海村で起きた核燃料加工会社ジェー・シー・オー(JCO)の臨界事故で「健康被害を受けた」と村役場や同社に訴えていたことが7日、関係者への取材で分かった。
その後、益子泰容疑者は事件を起こした動機について、「東海村JCO臨界事故が原因で体調不良になり、東海村に対して恨みを持っていた」と供述しているとの情報も報道されています。
茨城県の日立市役所と東海村役場に車が相次いで突っ込んだ事件で逮捕された男が、「JCO臨界事故が原因で体調不良になり恨みがあった」と話していることがわかった。
まとめ
今回は、1999年9月30日に、茨城県那珂郡東海村の株式会社JCO東海事業所の核燃料加工施設内で発生した原子力事故「東海村JCO臨界事故」についてまとめてみました。
東海村JCO臨界事故は、核燃料の材料となるウランの加工を正規の手順ではない方法で行った事が原因で発生しました。作業を行っていた3名の作業員が大規模被曝してうち2名が死亡し、敷地内にいた社員数十名の他、駆けつけた消防隊員や周辺地域の一般住民ら認定されているだけでも667名もの被曝者を出しました。
大量被曝者は作業を行っていた3名で、そのうち大内久さんと篠原理人さんの2人が放射線を浴びた事によって染色体が破壊され、全身の皮膚が剥がれ落ちるなどの悲惨な症状で長い期間苦しんだ末に多臓器不全で亡くなっています。
東海村JCO臨界事故ではその後、JCOが法人として、核原料物質、核燃料物質及び原子炉の規制に関する法律(原子炉等規制法)違反および労働安全衛生法違反で起訴され、責任者6名も業務上過失致死容疑などで起訴されています。この中には大量被曝者3名のうち唯一の生存者である横川豊さんも含まれています。
JCOに対しては罰金刑が、被告人6名に対しては執行猶予付きの有罪判決が言い渡され確定しています。
現在も東海村JCO臨界事故を風化させないための活動が続けられており、東海村役場では毎年黙祷が、脱原子力団体も毎年デモ行進などの活動を行っています。
2023年12月7日には、東海村JCO臨界事故が原因で体調不良になったと訴える男が、東海村役場に車で突入する事件を起こして逮捕されています。