金閣寺放火事件の犯人/林承賢の死因!俗名や父親/母親など家族・青酸カリや本堂焼失の誤解・責任能力と懲役判決や病死・その後現在まで紹介

戦後間もない日本を揺るがした金閣寺放火事件が注目されています。

 

この記事では金閣寺放火事件の概要と犯人・林承賢の俗名や生い立ち、父親や母親など家族、複合的な動機と青酸カリや本堂焼失という誤解、責任能力と懲役判決、病死と発表された死因と事件のその後と現在についてまとめました。

金閣寺放火事件の全貌…犯人・林承賢の生い立ちから動機と現在

 

出典:https://pbs.twimg.com/

 

1950年(昭和25年)7月2日、戦後の日本社会に計り知れない衝撃を与える大事件が発生しました。

 

室町時代から約550年にわたってその美しい姿をとどめ、国宝にも指定されていた京都・鹿苑寺(通称:金閣寺)の舎利殿(金閣)が、一夜にして業火に包まれ全焼したのです

 

法隆寺金堂の火災に続くこの歴史的建造物の焼失は、単なる文化財の喪失にとどまらず、犯人が同寺で修行を行っていた21歳の若き徒弟僧であったという事実、そしてその後の関係者の悲劇的な末路を含め、日本中を震撼させました

 

この記事では、この「金閣寺放火事件」について、事件の背景から犯人・林承賢の複雑な内面、文学作品への影響、そして復興を遂げた現在の金閣寺の姿に至るまでを詳しくまとめ解説します。

 

 

金閣寺放火事件の舞台と歴史的背景

 

出典:https://withnews.jp/

 

 鹿苑寺(金閣寺)の建立と価値

 

金閣寺放火事件を深く理解するためには、まず被害に遭った「金閣」がいかに貴重な存在であったかを知る必要があります。鹿苑寺は、室町幕府第3代将軍・足利義満が1397年(応永4年)に造営した別荘「北山第(きたやまてい)」を前身としています

 

義満の死後、遺言によって禅寺となり、義満の法号「鹿苑院殿」にちなんで「鹿苑寺」と名付けられました。

 

その中でも最も象徴的な建物が、池(鏡湖池)のほとりに建つ三層構造の楼閣「舎利殿(金閣)」です。第一層は公家風の寝殿造(法水院)、第二層は武家造(潮音洞)、第三層は禅宗仏殿造(究竟頂)という異なる建築様式が見事に調和した、他に類を見ない傑作でした

 

応仁の乱など幾多の戦火や火災に見舞われた京都において、金閣だけは奇跡的に破壊を免れ、室町時代初期の姿をそのまま後世に伝えていました。1897年(明治30年)には特別保護建造物(のちの国宝)に指定され、日本文化の至宝として世界的な価値を有していたのです

 

 

戦後日本の世相と「アプレゲール犯罪」

 

事件が起きた1950年(昭和25年)は、第二次世界大戦の終結からわずか5年後であり、日本社会が敗戦の虚脱状態から徐々に復興へと向かいつつあった過渡期でした。しかし、急激な価値観の転換や経済的混乱は、人々の心に暗い影を落としていました。

 

当時の世相を象徴する言葉に「アプレゲール(戦後派)」があります。戦前の道徳観や権威が崩壊し、虚無感や刹那的な衝動に取り憑かれた若者たちによって引き起こされた、従来の常識では理解しがたい異常な犯罪は「アプレゲール犯罪」と呼ばれました

 

東大生であった山崎晃嗣が違法な高利貸し会社を設立し、最終的に青酸カリで服毒自殺を遂げた「光クラブ事件(1949年)」などがその代表例です

 

金閣寺放火事件もまた、このアプレゲール犯罪の系譜に連なる、戦後精神の歪みが噴出した事件として世間の耳目を集めることになります

 

 

 

金閣寺放火事件の犯人・林承賢の俗名などの生い立ちと父親や母親など家族

 

出典:https://news.mynavi.jp/

 

犯人・林承賢の生い立ちと家族① 俗名「林養賢」と生まれ故郷

 

国宝・金閣寺に火を放った犯人は、鹿苑寺の徒弟僧であった「林承賢(はやし・しょうけん)」、俗名を「林養賢(はやし・ようけん)」という当時21歳の青年で、1929年(昭和4年)3月19日、彼は京都府加佐郡東大浦村成生(現在の舞鶴市成生)に生まれました

 

生まれ故郷の成生(なりう)は、日本海に面した若狭湾の入り組んだ岬の突端にある、世間から隔絶されたような小さな寒村でした。切り立った崖と海に挟まれたこの閉鎖的な集落で、彼は禅宗(臨済宗)の末寺である「西徳寺」の子として生を受けます。

 

 

犯人・林承賢の生い立ちと家族② 父親・林道源との関係と重い宿命

 

養賢の生い立ちを語る上で欠かせないのが、父親である林道源(どうげん)の存在です。道源は西徳寺の住職を務めていましたが、決して裕福な寺ではなく、生活は非常に貧しいものでした。

 

道源はかつて、本山である相国寺や鹿苑寺(金閣寺)での修行経験があり、若き日の養賢に対して「金閣ほど美しいものはない」と繰り返し語り聞かせていたと言われています

 

この父親の言葉は、外界を知らない養賢の心の中に「絶対的な美の象徴としての金閣」という幻想を極端に肥大化させる原因となりました

 

また、道源は重度の肺結核を患っていました。当時、結核は「不治の病」として恐れられており、養賢もまた父親から病弱な体質を受け継いでしまいます

 

父親の死期が近づく中、「貧乏寺の子が生き残るには、大きな寺の僧侶になるしかない」という親心から、道源はかつての伝手を頼り、息子を金閣寺の住職(村上慈海)に託すことを強く願いました

 

その後、1942年(昭和17年)、養賢が中学生の頃に父親は結核でこの世を去ります

 

 

犯人・林承賢の生い立ちと家族③ 母親・志満子からの過大な期待

 

父親の死後、養賢の双肩には母親である志満子(しまこ)からの重い期待がのしかかることになります。志満子は非常に教育熱心であり、息子が将来は名刹・金閣寺の住職になり、一門の出世頭として自分を迎え入れてくれることを強く望んでいました

 

しかし、この「過剰な期待」は、孤独で繊細な養賢にとって強烈なプレッシャーとなりました

 

後に養賢が精神的に追い詰められた際にも、母親の期待が枷となり、彼を故郷へと逃げ帰ることすら許さない呪縛となっていたことが、幼馴染や大学の友人の証言からも明らかになっています

 

 

犯人・林承賢の生い立ちと家族④ 重度の吃音(きつおん)と孤立

 

養賢の心理形成において決定的な影響を与えたのが、彼が幼少期から抱えていた重度の「吃音(どもり)」でした。言葉がスムーズに出てこない吃音は、同年代の子供たちから激しいからかいやいじめの対象となりました

 

上手く自己表現ができない彼は、次第に他者とのコミュニケーションを避け、自分の内面世界へと深く引きこもるようになります。外界からの疎外感、病弱な身体、そして貧しい生い立ち。

 

これらの要素が複雑に絡み合い、養賢の心の中に世間に対する激しい劣等感と、それに対する反動としての「屈折した特権意識」を育んでいきました。彼は現実世界での敗北感を、父親から聞かされた「金閣」という観念的な美の世界に逃避することで補おうとしていたのです。

 

 

金閣寺放火事件の犯人・林承賢の金閣寺への入門と絶望

 

出典:https://www.hozugawakudari.jp/

 

徒弟僧としての生活と戦争の影

 

養賢は、父親の遺言通り、林養賢は金閣寺の村上慈海住職のもとに入門し、「承賢」という僧名を授かって見習い僧(徒弟僧)としての生活をスタートさせます。大谷大学予科に進学しながら、寺の雑務をこなす日々でした

 

しかし、彼が実際に目の当たりにした金閣は、父親の言葉から想像していたような燦然と輝く美しいものではありませんでした。建立から何百年も経過した当時の金閣は、金箔の大半が剥げ落ち、黒ずんだ木肌が露出した古びた建物に過ぎなかったのです

 

最初は落胆した承賢でしたが、第二次世界大戦の戦局が悪化するにつれ、彼の心境に変化が生じます。

 

米軍の空襲によって京都の街が焼き尽くされれば、この金閣も運命を共にして灰燼に帰すかもしれない。その「滅びの予感」が、金閣に絶対的な美しさを付与し、承賢自身と金閣が「同じ死の運命を共有する存在」として同化していくような倒錯した連帯感を抱かせました

 

 

戦後の現実と「拝金主義」への嫌悪

 

ところが、1945年に終戦を迎え、京都は大規模な空襲を免れました。金閣は焼け残り、戦後の混乱が落ち着きを取り戻すにつれ、金閣寺には連日、国内外から多くの観光客や進駐軍が押し寄せるようになります

 

そして、承賢は自分だけが取り残された感覚を抱きます。承賢の目には、観光客から多額の拝観料を集め、寺の維持や利益を優先する金閣寺の姿が、本来の仏教が目指すべき自己無私の禅寺の修行から掛け離れた「堕落」と「拝金主義」に映ったのです。

 

有閑階級の参拝客が楽しげに写真を撮る風景と、貧しい農村出身で吃音に苦しみ、日々雑役に追われる自分との圧倒的な格差。それは彼の中で強烈なルサンチマン(怨恨)へと成長していきます。

 

 

大学生活の破綻と孤立の深まり

 

大谷大学に進学した承賢でしたが、学業への情熱は次第に失われていきました。友人を作ることもできず、大学の成績は最下位にまで落ち込みます。成績不振を理由に住職から厳しく叱責されることも増えました

 

事件の数ヶ月前、彼は思い詰めて故郷の舞鶴へ帰りましたが、住職になることを固く信じている母親・志満子からは冷たくあしらわれ、寺に追い返されてしまいます[。寺にも、大学にも、故郷にも、もはや承賢の居場所はどこにもありませんでした。

 

 

金閣寺放火事件の犯人・林承賢の動機…なぜ国宝に火を放ったのか

 

出典:https://www.raizofan.net/

 

林承賢を放火へと駆り立てた「動機」については、逮捕後の供述や精神鑑定、そして後の文学作品によって様々な角度から分析されています。動機は単一ではなく、彼の抱えていた複数の絶望が臨界点に達した結果でした。

 

 

金閣寺放火事件の犯人・林承賢の動機① 美への嫉妬と反発

 

警察の取り調べに対し、林承賢は「金閣寺という美を呪い、美に対する嫉妬から焼いた」と供述しました

 

彼にとって金閣は、自分を拒絶し、自分を見下す「世界」そのものの象徴であり、圧倒的な美を誇る存在を破壊することで、美から自分を解放したかったという心理です。三島由紀夫はこの供述に強く惹かれ、小説『金閣寺』のメインテーマとしました

 

 

金閣寺放火事件の犯人・林承賢の動機② 社会・寺院への復讐

 

林承賢は当初の取り調べでは「世間をあっと言わせたかった」、「社会への復讐のため」とも語っています

 

観光地化し拝金主義に陥った寺院の腐敗に対する義憤であり、誰にも認められない底辺の人間が、国宝を灰にすることで一矢報いるというテロリズム的な思考が存在しました。

 

 

金閣寺放火事件の犯人・林承賢の動機③ 個人的な絶望と精算

 

成績不振、吃音へのコンプレックス、結核発病の恐怖、母親からの過剰な期待による重圧など、自らの人生が行き詰まったことへの自暴自棄が林承賢の根源的な動機と考えられます

 

事件の2週間ほど前から、彼は自分の蔵書など身の回りの品を売却して現金を作り、遊郭で放蕩するなど、死を前にした最後の清算行動をとっていました。金閣を道連れにして自分も死ぬ(心中する)という破滅願望が根底にありました

 

 

金閣寺放火事件の発生…1950年7月2日「本堂焼失」の誤解と舎利殿の全焼

 

出典:https://www.kosho.or.jp/

 

犯行の実行と沈黙した火災報知器

 

1950年(昭和25年)7月1日の夜、林承賢は寺の裏手に密かに自らの衣類や蚊帳、書籍、そして睡眠薬や短刀などの「死の準備」をまとめた荷物を運び込みました。

 

翌7月2日の午前2時50分から3時ごろの未明。林承賢は、金閣の第一層(法水院)に侵入し、あらかじめ準備していた藁束にマッチで火を放ちました。乾燥しきった室町時代の古木は、瞬く間に猛烈な炎を上げ、闇夜を赤々と照らし出しました。

 

当時の金閣寺には、火災に備えて7ヶ所の火災報知器(非常ベル)が備え付けられており、正常に作動していれば初期消火が可能だったかもしれません。しかし、なぜかこの日は報知器の電源コードがショートしており、全く作動しませんでした。

 

午前3時過ぎにようやく異変に気付いた関係者から出火の第一報を受け、京都市消防局から消防車10台が急行しましたが、現場に到着した時にはすでに舎利殿全体から火柱が噴出しており、全く手のつけようがない状態でした。

 

「本堂焼失」という誤解と、難を逃れた本来の「本堂」

 

ここで、金閣寺放火事件に関連してしばしば見受けられる「本堂焼失」という表現について、歴史的事実として整理しておく必要があります。

 

一般的に「金閣寺が放火された」というニュースから、寺の中心である「本堂」が焼け落ちたと思われがちですが、実際に火が放たれ全焼したのは、鏡湖池のほとりに建つ楼閣「舎利殿(通称:金閣)」のみでした。

 

鹿苑寺における本来の「本堂」は、ご本尊である聖観音菩薩像などを安置している「方丈(ほうじょう)」と呼ばれる別の建造物です。

 

この方丈は1678年(延宝6年)に後水尾天皇の寄進によって再建された単層入母屋造の貴重な建物(重要文化財)ですが、幸いなことに消防隊の懸命な延焼防止活動や風向きの偶然もあり、本堂(方丈)は類焼を免れ、現在に至るまでその姿を残しています。

 

 

舎利殿(金閣)の「全焼」と灰燼に帰した国宝

 

本堂や他の伽藍への延焼は防げたものの、火元となった舎利殿(金閣)への消火活動は空しく、火災発生から約1時間後には三層の楼閣は完全に焼け落ちて「全焼」しました。

 

この放火によって国宝の建造物が失われただけでなく、舎利殿の内部に安置されていた以下の貴重な文化財も灰燼に帰しました。

 

木造足利義満坐像(国宝)

観世音菩薩像

阿弥陀如来像

勢至菩薩像

仏教経巻などの宝物

 

唯一の救いは、深夜の火災であったため人的被害がなかったことと、屋根の頂上に飾られていた金銅製の「鳳凰(ほうおう)」の金具が、以前の修理の際(または火災予防措置として)取り外されて別の場所で保管されていたため、難を逃れ現存していることでした。

 

本堂は残ったとはいえ、日本文化の至宝であり、寺の象徴でもあった「金閣」が若き修行僧の放火によって一夜にして全焼したという事実は、敗戦の傷もまだ癒え切らない日本中に計り知れない衝撃と喪失感を与えることとなったのです。

 

 

金閣寺放火事件の犯人・林承賢の逃亡と自殺未遂…「青酸カリ」の噂と真実

 

左大文字山への逃亡とカルモチン服用

 

金閣が業火に包まれるのを目の当たりにした林承賢は、炎の凄まじい勢いに恐怖を覚え、現場から逃走しました。彼は寺の裏手にそびえる左大文字山(大文字山の西側)の山中へと分け入り、死に場所を求めました

 

夕方になって、寺の捜索隊や警察が山林を捜索した結果、山中でうずくまっている林承賢を発見します。彼は大量の睡眠薬(鎮静剤)である「カルモチン」を飲み、短刀で自らの腹部を刺して切腹を図っていました

 

しかし、カルモチンの致死量に達していなかったことと、切腹の傷が浅かったため死にきれず、昏睡状態のまま身柄を確保され、放火の容疑で逮捕されました。ただちに救命処置が行われ、一命を取り留めることになります

 

 

「青酸カリ」に関する誤解と時代背景

 

ここで、金閣寺放火事件に関連してしばしば検索キーワードとして浮上する「青酸カリ」について解説しておきます。

 

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結論から言えば、林承賢は青酸カリを使用していませんし、自殺の手段に用いたのはカルモチンと短刀です。また「自殺のために青酸カリを購入した」という説も事実ではありません

 

ではなぜ「青酸カリ」というワードが関連付けられるのでしょうか。それは、当時の「アプレゲール犯罪」と深い関わりがあります。事件の前年である1949年、東大生による闇金融「光クラブ事件」で、社長の山崎晃嗣が青酸カリを飲んで自殺し、世間に大センセーションを巻き起こしました

 

また、1948年には銀行員12名が青酸化合物で毒殺された「帝銀事件」が発生しています

 

さらに、三島由紀夫は金閣寺事件に強い関心を持ち小説『金閣寺』を執筆しましたが、同時期(1950年)に光クラブ事件の山崎晃嗣をモデルにした小説『青の時代』も発表しています。

 

これらの「戦後の虚無感を抱えた高学歴の若者による犯罪」、「三島由紀夫の文学」、「アプレゲール」という要素が世間の記憶の中で混同・交錯し、「金閣寺の犯人も青酸カリで死のうとしたのではないか」という都市伝説的な誤解を生んだと考えられます。

 

当時の青酸カリは、絶望した若者や犯罪者の「死の象徴」として強烈なインパクトを持っていたのです。

 

 

金閣寺放火事件の悲劇の連鎖…母親・志満子の自殺

 

金閣寺放火事件が引き起こした最も痛ましい二次的悲劇は、林承賢の母親・志満子の自殺でした。

 

7月2日、金閣焼失のニュースは全国に駆け巡りました。故郷の舞鶴にいた志満子は、実弟とともに急遽、京都へと見舞いに向かいます。彼女が二条駅に到着し、西陣警察署に呼び出されて初めて、国宝を灰にした大罪人が自分の息子・林承賢であることを知らされました

 

志満子は警察署で取り調べを受ける息子の面会を求めました。しかし、林承賢は「母には会いたくない」と頑なに面会を拒絶します

 

自らが全てを懸けて期待し、金閣寺の住職になることを夢見ていた息子が国宝の放火犯となり、さらに自分との対面すら拒んだことによる絶望は、筆舌に尽くしがたいものでした。

 

翌7月3日(または事件直後の数日内)、警察での事情聴取を終えた志満子は、故郷へ帰るために山陰本線の列車(京都発城崎行)に乗車しました

 

そして列車が亀岡市の馬堀駅手前、保津峡(鵜ノ川鉄橋)に差し掛かった時、彼女は突如として列車のデッキから眼下の保津川へと身を投じたのです。遺体はその後発見されました。母親の過剰な愛情と期待が、最悪の結末を迎えた瞬間でした。

 

 

金閣寺放火事件の犯人・林承賢の責任能力の判定と懲役の判決

 

精神鑑定と「心神喪失」

 

林承賢は逮捕後、京都府警および京都地検による厳しい取り調べを受けました。彼の動機が非常に観念的かつ特異であったため、刑事訴訟において彼が「責任能力」を有しているかどうかが最大の焦点となりました。

 

検察側は精神鑑定を実施します。当時の精神医学において、彼の生い立ちや吃音による人格形成、犯行に至る異常な心理状態が詳しく分析されました。

 

一部では統合失調症(当時の精神分裂病)の初期症状やスキゾイド(統合失調質)的な傾向が疑われ、巷では「心神喪失(精神障害により事物の理非善悪を弁識する能力がない状態)」という法律用語が流行語になるほど注目を集めました

 

 

完全責任能力の認定と判決

 

しかし、精神鑑定の結果、専門家は「承賢には事物の理非善悪を判断する能力があり、精神病による心神喪失状態にはない」と結論付けました。すなわち「完全責任能力」が認められたのです

 

この鑑定書をもとに起訴され、京都地方裁判所での公判が行われました。法廷でも林承賢は淡々と事実を認めました。

 

1950年(昭和25年)12月28日、裁判長は林承賢に対し、放火罪および国宝保存法違反などの罪で【懲役7年】の実刑判決を言い渡しました

 

国宝を全焼させたという結果の重大性に比べるとやや短くも感じられますが、前科がないこと、個人的な境遇への一定の情状酌量があったことがうかがえます。

 

林承賢は控訴せず、そのまま判決は確定しました

 

 

金閣寺放火事件の犯人・林承賢の服役と孤独な最期…病死と死因について

 

加古川刑務所から洛南病院へ

 

懲役7年の判決を受けた林承賢は、受刑者として兵庫県の加古川刑務所に収監されました。しかし、獄中生活が始まるとすぐに、彼の身体と精神は急激に蝕まれていきました。

 

父親の死因でもあった「肺結核」が本格的に発症したのです。さらに、逮捕時には責任能力ありとされた精神状態も著しく悪化し、幻聴や妄想を伴う重度の「統合失調症(精神分裂病)」の症状を呈するようになりました。独房での孤独な生活は、彼の心を完全に破壊してしまったのです。

 

 

林承賢の病死(死因と最期の日々)

 

結核と統合失調症の進行により、通常の刑務所での服役が不可能となったため、林承賢は医療刑務所的な役割を果たす京都府立洛南病院(精神科病院)へと身柄を移され、入院措置がとられました

 

その後、恩赦によって刑期が減刑され、1955年(昭和30年)10月に釈放(刑期満了または仮釈放扱い)となります

 

しかし、釈放された時点ですでに彼の身体は結核菌によってボロボロにされており、回復の望みはありませんでした。

 

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釈放からわずか半年弱が経過した1956年(昭和31年)3月7日、林承賢は息を引き取りました。享年26(満26歳没)。



死因は「肺結核およびそれに伴う合併症」でした。日本中を揺るがせた大事件の犯人は、家族を失い、自らの精神を壊し、誰に看取られることもなくひっそりとこの世を去りました。

 

 

金閣寺放火事件が文学界・文化へ与えた多大な影響

 

事件の特異性と犯人・林養賢(林承賢の俗名)という男の複雑な内面は、多くの作家の想像力を刺激し、日本文学史に残る傑作を生み出しました。

 

三島由紀夫『金閣寺』(1956年出版)

 

出典:https://www.shinchosha.co.jp/



三島由紀夫は、林承賢の供述した「美への嫉妬」という観念的な動機に強く惹かれました。小説の中では主人公・溝口として描かれ、吃音による世界との断絶、内反足の友人(柏木)との交流、そして金閣の絶対的な美に抗うための「行為」としての放火が、緻密で絢爛たる文体で哲学的に描かれています

 

この作品は三島由紀夫の代表作となり、後に市川崑監督・市川雷蔵主演で『炎上』(1958年)として映画化もされました

 

 

水上勉『金閣炎上』(1979年出版)および『五番町夕霧楼』

 

出典:https://m.media-amazon.com/



三島由紀夫が「美」というイデアの側面から事件を描いたのに対し、水上勉は全く異なるアプローチをとりました。水上自身が若狭(福井県)の貧しい出身であり、相国寺で小僧としての過酷な修行を経験し、還俗した過去を持っていました。

 

彼は林養賢とすれ違ったこともあり、自分と重なる境遇の青年がなぜ罪を犯したのかをノンフィクションの視点で徹底的に調査しました

 

『金閣炎上』では、三島由紀夫のような「カッコいい美への嫉妬」ではなく、禅宗寺院の封建的なヒエラルキー、観光地化による拝金主義、貧困、結核への恐怖といった「生々しく泥臭い現実的絶望」こそが動機であったと結論付けています

 

この二人の巨匠による異なる解釈は、現在でも金閣寺放火事件の全貌を理解する上で欠かせない両輪となっています。

 

 

金閣寺放火事件のその後と現在

 

金閣寺放火事件のその後と現在① 灰燼からの再建工事

 

国宝を失った悲しみの中、事件のわずか2年後である1952年(昭和27年)から、国や京都府の補助金、そして全国からの莫大な寄付金をもとに、金閣の再建計画(3か年計画)がスタートしました

 

再建にあたっては、明治時代に行われた解体修理の際に作成されていた詳細な図面が残されていたことが大きな助けとなりました。木材の調達や宮大工の招集が行われ、創建当時の姿を忠実に再現するための工事が進められました。

 

そして1955年(昭和30年)10月10日、ついに新しい金閣が完成し、落慶供養(らっけいくよう)が盛大に営まれました。事件からわずか5年での復活でした。

 

 

金閣寺放火事件のその後と現在② 「昭和の大修復」と現在の姿

 

再建された金閣は、戦前の古びた姿を知る人々を驚かせました。創建当時の足利義満が意図したであろう姿に近づけるため、第二層と第三層にはまばゆいばかりの金箔が張られたからです。

 

さらに、1987年(昭和62年)には「昭和の大修復」が行われました。再建時の金箔が風雨で剥がれてきたため、通常の5倍の厚さを持つ最高級の金箔(総重量約20kg)を用いて全面的な張り替えが行われました。2003年(平成15年)にも屋根の葺き替え工事が完了しています。

 

【現在】の金閣寺(鹿苑寺)は、1994年(平成6年)にユネスコの世界文化遺産「古都京都の文化財」の構成資産の一つとして登録され、日本を代表する国際的な観光名所として連日多くの人々で賑わっています



また、二度と同じ悲劇を繰り返さないために、現在の金閣寺には24時間体制の厳重な防犯システム、最新の火災報知器、熱感知器、スプリンクラー、そして放水銃が境内の至る所に完備されており、防火対策には万全が期されています。

 

 

まとめ

 

今回は、戦後間もない日本を揺るがした「金閣寺放火事件」についてまとめてみました。

 

1950年に起きた金閣寺放火事件は、一人の孤独な青年僧・林承賢(養賢)の個人的なルサンチマンと精神の崩壊が、日本の歴史的至宝を消滅させた未曾有の悲劇でした。

 

吃音というハンデ、結核で亡くなった父親の遺言、重圧をかける母親、そして拝金主義へと傾倒していく戦後社会への嫌悪。

 

彼がカルモチンを飲んで死のうとした左大文字山から見下ろした炎は、彼自身の人生の終焉を告げる炎でもありました。

 

連鎖的に引き起こされた母親の投身自殺や、彼自身の洛南病院での孤独な病死(結核と統合失調症)を含め、この事件には勝者といえるような存在は誰一人として存在しません。

 

しかし、その灰の中から、三島由紀夫や水上勉の文学が生まれ、そして現在の眩いばかりに輝く黄金の金閣が再建されました。

 

現在の美しい金閣は、室町時代の栄華の象徴であると同時に、戦後日本の深い闇と、一人の青年の悲劇的な人生の上に建っている「破壊と再生のモニュメント」と捉える事もできます。

 

事件から70年以上が経過した現在でも、金閣寺放火事件が私たちに問いかける「美とは何か」、「人間の孤独とは何か」というテーマは、決して色褪せることはありません。

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