1985年の日航機墜落事故は真実が隠蔽され闇が深いと言われて注目されています。
この記事では日航機墜落事故の経緯と発表された原因、坂本九さんを含む520名もの死者、遺体の状態、闇が深い、生存者が自衛隊に殺された説やタブーの消えた男の子などの数々の噂や現在についてまとめました。
この記事の目次
- 日航機墜落事故はタブーとされる真実が隠され闇が深いとされる航空事故
- 日航機墜落事故の原因は過去のしりもち事故時の不適切な修理と公式発表
- 日航機墜落事故の死者数は520名で単独の航空事故では過去最多
- 日航機墜落事故の死者には坂本九をはじめ多くの著名人も
- 日航機墜落事故の死者の遺体の状態
- 日航機墜落事故の生存者は奇跡的に生還した4名の女性
- 日航機墜落事故が真実が隠蔽されていて闇が深いと言われる理由① 自衛隊の標的機衝突が原因説
- 日航機墜落事故が真実が隠蔽されていて闇が深いと言われる理由② 自衛隊の証拠隠蔽疑惑
- 日航機墜落事故が真実が隠蔽されていて闇が深いと言われる理由③ 生存者が殺された疑惑
- 日航機墜落事故が真実が隠蔽されていて闇が深いと言われる理由④ タブーとされる写真
- 日航機墜落事故の現在
- まとめ
日航機墜落事故はタブーとされる真実が隠され闇が深いとされる航空事故
「日航機墜落事故(日本航空123便墜落事故)」とは、日本航空が運用していたボーイング747SR-100型機が群馬県多野郡上野村の山中(事故後に便宜的に御巣鷹の尾根と命名された)に墜落し、乗員乗客合わせて520名もの死者を出した航空事故です。
単独の航空機事故としては2023年の現在に至るまで、世界最大の死者数を出した航空事故として知られています。
事故発生は1985年8月12日(月曜日)で、東京羽田空港から大阪伊丹空港へと向かう途中であった日本航空123便(ボーイング747SR-100型機、登録機体番号JA8119)が、離陸から約12分後に突発的な非常事態に陥って操縦不能状態になり、それから約30分ほど飛行し迷走した後に群馬県と長野県の県境に位置する高天原山系の無名の尾根へと墜落しました。
この日航機墜落事故では、調査委員会によって事故の経緯や原因が発表されてはいるものの、それによって全ての真実が解明されたとはとても言い難く不可解な点、納得の出来ない点が数多くあります。
関係者や遺族を含めて多くの人々がこの調査結果に対して疑問を感じており、それに関連して真実や本当の事故原因を追求する書籍も多数発表されています。
そうした書籍類への反響もあって、インターネット上でも日航機墜落事故は闇が深い事件として現在も話題にされており、原因に自衛隊が絡んでいる、タブーとして隠されている真実があるなどの様々な説が数多く出てきています。
これらの説の多くには簡単に陰謀論などとは言い切れないような、信ぴょう性を感じる根拠や証拠も示されているのです。
ここではそんな日航機墜落事故についてまとめていきます。
日航機墜落事故発生までの経緯
出典:http://blog-imgs-12.fc2.com/
まず最初に、日航機墜落事故の123便の離陸から墜落までの当日の経緯を紹介していきます。
日航機墜落事故で墜落した123便は、その日(1985年8月12日)5回目のフライトで、前4回のフライトでは特に異常は見られませんでした。(17時17分の離陸前の点検でも異常なし)
18時4分、123便は、予定時刻から4分遅れで羽田空港(東京国際空港)から大阪国際空港(伊丹空港)に向けて出発し、18時12分に離陸。搭乗者は乗員15名、乗客509名の合わせて524名でした。
18時24分35秒頃、伊豆半島南部の東の相模湾上空を23900フィート(約7300メートル)を時速約555kmで飛行中に123便のおそらく機体後部で「ガコン、ガコン、ガコン」のような音で3度立て続けに爆発音(衝撃音)が発生。
墜落後に回収された123便のコクピットボイスレコーダーには、この爆発音と、その直後の「なんか爆発したぞ」という機長の音声が記録されていました。
この衝撃音からわずか12秒後(18時24分47秒)、機長は緊急事態が発生した事を伝えるスコーク7700を発信(トランスポンダーにセット)しています。このスコーク7700は通常はこのようにすぐには発信せずに管制と連絡を取り合ってから発信しますが、この時はなぜか直ちにこの緊急事態を示すコード(緊急救難信号)が発信されています。
この衝撃音時、123便の垂直尾翼の大部分が破壊され、垂直尾翼下方に位置する油圧操縦システムが4系統全てが損傷して、油圧システムを利用した昇降や補助翼による操舵が不能となりました。
18時25分21秒、機長は東京航空交通管制部(東京ACC)に異常事態が発生したため、22000フィート(約6700メートル)に降下し同高度を維持する事および、直ちに羽田空港へ引き返す事を求める交信を行なっています。
東京ACCはそれを了承し、123便は伊豆半島の南部の中央付近で若干右に変針し、西北西に向かって伊豆半島を横切って駿河湾上へと出ました。
18時26分頃から、フゴイド運動(機首が上下して上昇と下降を繰り返しそれによって速度も変化する現象)とダッチロール運動(機体の傾きと機首の方向が横に変化を繰り返し進行方向が安定しなくなる現象)が発生しています。この現象は強弱に断続的に変化しながら墜落の直前まで続きました。
18時27分2秒、123便が緊急事態が宣言されています。東京ACCがどのような緊急事態か確認を取りますが123便からの応答はありませんでした。
18時28分31秒〜35秒、東京ACCは「伊豆大島へのレーダー誘導のため経路90度で飛行せよ」と指示するも、123便は「現在操縦不能」と応答。
18時30分〜31分、123便は駿河湾を横切り、静岡県焼津市北上空を通過し、右へ変針して北上。
18時31分2秒〜7秒、東京ACCからの「降下可能か?」の問い合わせに対し123便は「現在降下中」と回答。現在高度については「24000フィート(約7300メートル)」と回答。
18時31分14秒、東京ACCが「現在位置は名古屋空港から72海里の地点、名古屋に着陸できるか」と問い合わせるも、123便は「羽田に帰る事を要求する」と回答しています。
18時35分、123便は富士山の西約35キロメートル地点を高度23000フィート(約7000メートル)で右へ変針し東へと進路を変えています。このタイミングで航空機関士が「R5(機体右側最後部)のドアがブロークン(破損)しました」と報告。(後に墜落現場からR5ドアは損傷のない完全な形で胴体についたまま発見されているので誤報だった)
18時37分、機長は降下を指示するも、操縦不能に陥っており123便は1000メートルあまりの上昇と降下を繰り返しながら不安定な飛行を続けました。
18時38分頃、123便は富士山の北北西7キロメートル付近で左へ変針し北東方向へ進路を変えています。
18時41分から、123便は山梨県大月市付近で約3分間で360度右旋回しながら、高度21000フィート(約6400メートル)から、17000フィート(約5200メートル)まで降下。
18時45分36秒、支援に動いていたアメリカ軍横田基地から通信が入り、123便は「JAL123便操縦不能」と回答し、左へ変針して北東へ進行方向を変えています。
18時46分頃、コクピットボイスレコーダーに機長の「これはダメかもわからんね」という発言が記録されています。この頃までにはコクピット内の会話にも焦りが見え始めていました。
18時47分17秒、東京ACCからの「操縦できるか?」の問いに123便は「操縦不能」と回答。
この間、18時48分までに123便は、ほぼ東に向かって6600フィート(約2000メートル)まで降下しています。
18時48分頃、123便は高度を7000フィート(約2100メートル)で東京都西多摩郡奥多摩町上空から左へと変針、西北西に向かって徐々に上昇しながら飛行。(下の画像はちょうどこの頃に地上から撮影されたもの)
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18時53分頃、123便は高度13000フィート(約4000メートル)に到達後、再び降下し始めました。
18時53分31秒、東京ACCからの呼びかけに対し、123便は「操縦不能」と再度送信。
18時54分19秒、123便は高度11000フィート(約3300メートル)で、東京ACCの指示により周波数を変えて東京進入管制所(東京アプローチ)との交信に切り替えています。
18時54分25秒、123便が「現在位置を知らせてほしい」と求め、東京アプローチが「羽田の北西55海里(約101キロメートル)、熊谷の西25海里(約46キロメートル)の地点」と回答。
18時55分5秒、東京アプローチは「羽田空港も横田基地も最優先で受け入れ可能」の旨を送信。123便はこれに了承しますが、これを最後に交信が途絶えました。
推定18時56分30秒頃、123便は、標高約1530メートルの山上の樹木に接触。直後に標高約1610メートル地点に接触後、群馬県、長野県、埼玉県の県境に位置する三国山から北北西約2.5キロメートルに位置する標高1565メートルの尾根(群馬県多野郡上野村山中、事故後に「御巣鷹の尾根」と命名)に墜落しました。
なお、この墜落までの経緯は、墜落後に回収されたブラックボックスのフライトデータレコーダーとコクピットボイスレコーダー、123便と管制官との交信内容などから判明し公表されている内容です。ただし、一部の情報が「判読不明」、「死者のプライベートに関わる」などを理由に開示されていない事などから、何か不都合な真実が隠蔽されているのではないかと疑う声も存在します。
日航機墜落事故後の動き
123便の墜落翌日の8月13日、墜落現場が特定され、地元の消防団が生存者4名を発見し、その後救助されています。
14日には墜落現場から遺体の搬出作業が開始され、15日になって機体の搬出作業も始まっています。
15日、ボーイング社と米国の国家運輸安全委員会(NTSB)の調査団が来日し、相模湾で回収された123便の垂直尾翼の調査検証を開始しています。
16日には、「後部圧力隔壁の修理ミスが事故の原因として有力」との内容を報道。この日にはメーカーのボーイング社の調査団も現地に入り、日米合同の調査が開始されています。
20日、運輸省の高官が「圧力隔壁が事故に重大な絡みがある」と発言。
9月6日、ニューヨークタイムズが、米国の国家運輸安全委員会(NTSB)の見解として、「事故原因と、同機が1978年に起こしていた『しりもち事故』の際のボーイング社の修理ミスが関係している」との内容を報道。
ボーイング社はそれまで、後部圧力隔壁の修理ミスが事故原因とする説を否定していましたが、ニュートヨークタイムズの報道を受け「しりもち事故の修理で、隔壁継ぎ目全体の17%に不備があった」と、修理ミスがあった事を認める発表をしています。
その後は、日本のメディアでも後部隔壁が破れた事で垂直尾翼が破壊されたのが事故原因とする説が有力とされていきました。
日航機墜落事故発生後に報道された事故原因に関連すると見られる内容
8月13日、相模湾の三浦半島沖に、123便から脱落した垂直尾翼の一部が浮いているのを試運転中だった護衛艦「まつゆき」が発見し回収しています。(大きさ長さ4.5メートル、上部1メートル、下部1.6メートルの変形四角形でJALのマークである赤い鶴丸が確認できた)
これにより、相模湾上空にて123便の尾翼部分が何らかの原因で破壊され操縦不能になったとの可能性が強まりました。
14日には、回収された垂直安定板の下の部分に通常の飛行では考えられない力によって出来たと見られる凹みがあるのが判明したと報じられています。この凹みから、垂直安定板は外れたのではなく外的な力が加わってちぎれ取られた可能性が高い事も判明。この部分は機体の中でも最も頑丈な部分であり、一体どのようにしてこの部分が破壊されたのかわからないとの専門家の見解も報じられています。
15日、三浦半島の城ヶ島西約12キロの海上で海上保安庁の巡視船が、相模湾で操業中の漁船が、それぞれ垂直尾翼の下部の破片を発見しています。いずれも捻れたり、激しく切れたりしていました。
また、墜落現場で発見された機体尾部は垂直尾翼の付け根のみが残った状態だと確認され、航空関係者は「こんな状態で機体の安定を保つのは無理」と断言しており、事故の直接的な原因が垂直尾翼の破損である事がほぼ決定づけられています。
16日、「後部圧力隔壁破壊、客室から与圧空気が噴出し、垂直尾翼を破壊」といった報道が流れ始めます。
報道によると、運輸省の事故調査委員会と群馬県警が、現場検証で隔壁が爆風を受けたように破損していた事を確認。客室内の与圧された空気に耐えられずに隔壁が破壊され客室内の空気が爆発的に尾翼内に吹き上げ、内部から垂直尾翼を破壊したと見られ、事故調査委員会は事故原因は「垂直尾翼の空中分解と断定」とも発表されています。
また、日航機墜落事故の7年前の1978年6月2日に123便が起こしていた「しりもち事故(胴体後部底部を滑走路でこする事故)」が、隔壁が破壊された事に関係していると見られるとの内容もこの時点で既に報道されています。
17日、後部圧力隔壁の破壊が墜落の原因との説を全国各紙の新聞朝刊が一斉に一面で報道しています。
ただ、その後も国内のメディアはこの後部圧力隔壁原因説に対して疑問を呈する論調も展開していました。しかし、9月6日に米ニューヨークタイムズが後部圧力隔壁の破損が原因の可能性が高いとの内容を報道したのを契機に、国内メディアも一斉に後部圧力隔壁原因説へと傾きました。
日航機墜落事故の原因は過去のしりもち事故時の不適切な修理と公式発表
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1987年6月15日、事故調査委員会は日本航空墜落事故の原因は123便の後部圧力隔壁が破壊され、垂直尾翼内部に客室与圧空気が爆発的に流れ込み、尾部胴体、垂直尾翼、操縦系統が破壊され、飛行性の低下と主操縦機能が失われたためと結論づけました。
さらに、日本航空墜落事故の7年前の1978年6月2日に起きた同機のしりもち事故(胴体後部底部を滑走路でこする事故)の際に行ったボーイング社の不適切な修理があり、それによって疲労亀裂が生じ、それが点検整備でも発見されなかった事により後部圧力隔壁が破損した原因になったとの推測も示されました。
この原因の最終結論は、6月19日に公式発表されています。
事故調査委員会の発表した事故原因には多くの疑問がある
ただ、事故調査委員会が結論づけたこの事故原因に対しては不可解な点があるとして疑問の声が上がっています。
まず、公式発表の通りに後部隔壁が破壊されて客室内の空気が尾部胴体に流れ込んだ事が事故の原因なら、客室内には相当な強風が発生していた事になりますが、生存者(後部隔壁に最も近い位置に座っていた)の証言や死者が緊急事態発生後にコンパクトカメラで撮影していた機内の様子からはそのような状況は全く見られませんでした。
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また、事故後に日本航空の技術陣が後部隔壁が破壊されて客室内の与圧空気が後部尾翼内部に吹き上げられた場合どのように破壊されるかの検証実験を1985年8月19日までに行っているのですが、その検証結果と実際の123便の垂直尾翼の破損状況に矛盾がある事が示されています。
これについては、1985年8月19日の毎日新聞夕刊や、8月22日の産経新聞の朝刊などが報じています。
日本航空の河野宏明整備部長は十九日の記者会見で、垂直尾翼の破壊と隔壁の破裂について、推論として、「突風など、何らかの外圧で垂直尾翼が壊れ、それと同時か、直後に機体の歪みに耐えられず、隔壁が破裂したと推定も出来る。」と外的要因強調の見方を明らかにした。
引用:1985年8月19日付の毎日新聞夕刊
日航技術陣が面目をかけて、垂直尾翼の強度実験を行った事がある。隔壁に大穴があいた事を想定してのことだが、その結果はやはり、一番強度の弱い垂直尾翼の突端が壊れ、ついで、前縁部がはずれる、という順番になった。単にはずれるのならば、海上で見つかった前縁部がなぜ、主要構造体の外板がもぎとられたようにくっついていたのか?
引用:1985年8月22日付の産経新聞朝刊
調査委員会の発表した事故原因に疑問点が多い事から、日航機墜落事故に対して闇が深い、真実が隠蔽されているといった声が上がるようになりました。
日航機墜落事故が真実が隠蔽されていて闇が深いとされている理由については後半で紹介します。
日航機墜落事故の死者数は520名で単独の航空事故では過去最多
日航機墜落事故の死者数は、単独の航空事故としては史上最大となる520名です。これは2023年5月の現在においても、単独航空機事故として過去最大の死者数となっています。
ちょうどお盆休みの帰省の時期と重なり123便は満席状態だったため、多くの死者数を出す事 になりました。
死者520人のうち、乗客は日本人が483名、外国人が22名の合計505名で、残る15名は乗務員でした。また、死者の日本人の乗客の構成は、大人が430名、子供が41名、幼児が12名でした。
乗務員15名の死者は、機長の高濱雅己さん(当時49歳)、副操縦士の佐々木祐さん(当時39歳)、航空機関士の福田博さん(当時46歳)と12名の客室乗務員でした。
客室乗務員12名は、チーフパーサーの波多野純さん(当時39歳)をはじめ、赤田真理子さん(当時31歳)、木原幸代さん(当時30歳)、藤田香さん(当時28歳)、宮道令子さん(当時30歳)、対馬祐三子さん(当時29歳)、吉田雅代さん(当時27歳)、海老名光代さん(当時28歳)、白拍子由美子さん(当時25歳)、大野美紀子さん(当時26歳)、大野聖子さん(当時24歳)、波多野京子さん(当時24歳)でした。
機長の高濱雅己さんは、海上自衛隊出身で乗務時間12404時間に及ぶベテランパイロットで、そのうちの4588時間がジャンボ機の機長としての乗務でした。
また、アシスタント・パーサーの1人対馬祐三子さんは1970年代から80年代にかけて活躍した俳優の森大河さんの妻だった事も事故後に報じられています。
日航機墜落事故の死者には坂本九をはじめ多くの著名人も
日航機墜落事故の520名の死者の中には、国民的な人気歌手であった坂本九さんをはじめとする著名人も含まれていました。
坂本九さんはその日、大阪の羽曳野市議会議員に立候補していた元マネージャーの選挙応援に行くために123便に搭乗していました。
実は坂本九さんは日頃から日本航空の体質を非難しており、普段は必ず全日空を使っていたのだそうです。しかし、その日はお盆休みという事もあって全日空のチケットが取れずに仕方がなく日本航空の飛行機を利用したそうです。
坂本九さんの友人であるプロボウラーの矢島純一さんは出発前にそれを知り「全日空に変えたほうがいい」と勧めたそうなのですが、坂本九さんは「せっかく(元マネージャー側に航空券を)送ってもらったから」と言って変えなかったのだそうです。
坂本九さんは43歳の若さでした。
123便には、坂本九さんの他にも、女優の北原遥子さん(当時24歳)、阪神タイガース球団社長(当時)の中埜肇さん(当時63歳)、東京オリンピック代表の元自転車競技選手の辻昌憲さん(当時39歳)、元プロ野球選手の竹下元章さん(当時47歳)ら、多くの著名人が乗っていましたが全員が亡くなっています。
日航機墜落事故の死者の遺体の状態
日航機墜落事故の520名の死者の遺体の状態については、生存者4名(後述)が発見された機体の後部および付近で発見された遺体はほとんど損傷がなく、一見して生きているのか亡くなっているのかわからないほど綺麗な状態だったそうです。
しかし、それ以外の場所で発見された遺体の多くは、激しく損傷しており原型をとどめていないものも数多くありました。
実際に日航機墜落事故の遺体の検死にあたった元警察官である飯塚訓という方が記した「墜落遺体 御巣鷹山の日航機123便」という書籍には、壮絶な状態の遺体の様子が生々しく描かれています。
その中でも衝撃的な内容を引用して紹介します。
脳髄は噴出して無い。潰れているので、髪の毛が付いていなければ、体のどこの部分か見分けがつかないようだ。挫滅した顔面に三つの眼球がくっついていた。古川教授が綿密に調べた結果、頸部辺から、他の人の頭部、顔面が信じられないほどの力が加わって入った、ということであった。つまり、頭の中に頭が入っていたのである。
引用:飯塚訓「墜落遺体 御巣鷹山の日航機123便」55ページ〜56ページ
また、同書によると、検死された遺体の総数は2065体だったそうです。日航機墜落事故の死者数は520人なのですが、この遺体がバラバラにに破壊され、2065体分として検死が行われたのでした。
「墜落遺体 御巣鷹山の日航機123便」には遺体の状態について下のようにも描写されています。
離断遺体は、肉体の離れた皮の塊、炭化して分解した真っ黒い塊、内臓の塊、毛髪と顔の皮膚の一部、手、足、下顎、上顎骨に指一本、歯牙一本に至るまで、まさに想像を絶するものばかりであった。
引用:飯塚訓「墜落遺体 御巣鷹山の日航機123便」56ページ
日航機墜落事故の生存者は奇跡的に生還した4名の女性
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日航機墜落事故の生存者は4名だけでした。(上の日経新聞見出しでは生存者7名となっているがフジテレビ記者のカウントミスが原因の誤報)
生存者の4名は、川上慶子さん(当時12歳)、吉崎美紀子さん(当時8歳)、吉崎博子さん(当時35歳)、落合由美さん(当時26歳)で、全員が女性でした。
123便は墜落時、4つに分断されましたが、生存者の4人は全員がそのうちの機体の最後尾にあた座席に座っていました。
生存者らが乗っていた部分は、乗客の背中側から後ろ向きに約40度の斜面を約200メートル滑落しましたが、この一帯は1953年頃の山火事があって新たに植林された場所だったため、他よりも木の幹が細く、それがクッションになって衝撃が緩和されたと見られています。
また、生存者4人が乗っていた部分はスゲノ沢と呼ばれる神流川の上流で止まっており、ちょうど火災も発生しなかった事も奇跡的な生存につながりました。
生存者4人のうち、落合由美さんは日本航空の客室乗務員で、その日は非番で大阪の実家に帰省するために123便に乗っていました。この落合由美さんは関係者という事で緊急事態発生時の機内の状況を詳細に証言しており、事故原因の調査にも重要な役割を果たしています。
また、生存者のうち吉崎美紀子さんと吉崎博子さんは母娘で、家族で搭乗中に事故に遭いました。近くに座っていた父親と妹は亡くなっています。
日航機墜落事故が真実が隠蔽されていて闇が深いと言われる理由① 自衛隊の標的機衝突が原因説
日航機墜落事故は不可解な点が数多くある事から、闇が深い、真実が隠蔽されていると言われ続けていて、遺族や関係者の中にも調査委員会の公式発表に納得ができないと訴えている方もいます。
ここからは続けて、日航機墜落事故が闇が深い、真実が隠されていると言われる理由となっているいくつかの説を紹介していきます。
オレンジ色の物体が123便の墜落前に多数目撃され画像も残っている
123便が操縦不能になる原因となったと見られる爆発音の直前に、乗客が近くを飛行する物体を窓から目撃してコンパクトカメラで撮影しています。(上の写真)この写真を現在の画像解析技術で分析したところ、色はオレンジ色が含まれる可能性が高く、形は円錐形か円筒形、向こう側に熱の波動が見えるとの結果が出たとの情報も一部書籍で書かれています。
また、墜落直前の123便を目撃した人からは、機体の胴体下部分にオレンジ色の物体がくっついているのが見えたという証言が多数出ていて、墜落の直前に地上から撮影した写真にも機体の胴体下部に何か物体が確認できる事も指摘されています。(下の画像)
出典:https://assets.st-note.com/
ただし、胴体の下にオレンジ色のものがくっついているのが見えたとの証言については、おそらく機体下部の衝突防止灯がそのように見えただけでないかと言われていて有力視されています。
しかし、8月12日の18時30分頃、静岡県藤枝市から上空をかなりの低空で飛ぶ123便が地元住民に目撃されており、その1人は、機体の後部後ろの左側あたりに濃いオレンジ色か赤色の円筒形、楕円形のように見える4〜5メートルくらいの物体が張り付いているように見えたと証言しています。証言が正確なら位置的には上の写真の衝突防止灯の位置よりも後ろで、横の位置もずれているという事になります。
公式発表されていないF-4EJファントム2機の目撃証言が多数
さらに、この目撃者は123便が飛び去った5分くらい後(18時35分頃)に、それを追うようにして飛行するF-4EJファントム2機も目撃しています。(西方向、おそらく浜松方向から飛んできた)
また、8月12日に実家に群馬県吾妻郡東村に帰省していたという陸上自衛隊員が18時40分頃に実家の上空を2機のF-4EJファントムが低空飛行していくのを目撃しています。
藤枝市と吾妻郡の直線距離は200キロメートル以上ありますが、F-4EJファントムが最高速度近くを出して飛行した場合は理論上は到達可能です。ただ、5分間にわたってジェット戦闘機が最高速度近くを維持し続ける事は通常の場合はありません。
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123便墜落後の19時1分に百里基地からF-4EJファントム2機が発進したと公式発表されていますが、上の2つの証言が事実であればその約30分前には既に2機のファントムが飛行していた事になり、その情報は何故か公表されていない事になります。
上の目撃証言の他にも、123便が墜落した地域の上野村の小中学校生がこの事故の目撃情報を文集に綴っていて、その中には、大きな飛行機を追うように飛ぶ2機の小型ジェット機を(18時45分頃に)見た、(午後7時の少し前に)真っ赤な飛行機を見たという証言が含まれています。2機のジェット機はF-4EJファントムで、真っ赤な飛行機とは複数目撃されているオレンジ色の物体と同じものではないかとの推測も出ています。
オレンジの物体は自衛隊標的機でこれの衝突が123便墜落の原因の真実とする説
こうした情報を根拠とし、ネット上や一部書籍ではこのオレンジ色の物体が、自衛隊でも使用する誘導弾用の標的機(ミサイル発射訓練に使用する飛行標的)である、通称「ファイアー.ビー」(下の画像左側)か、高速無人標的機MQM-74C(チャカ2、下の画像右側)だったのではないかとする説が唱えられています。
この説では、自衛隊のミサイル発射訓練中に、ファイヤー・ビーかチャカ2が123便に衝突し、それが墜落の原因になったのが真実なのではないかと推測されています。
自衛隊の偵察機であるF-4EJファントム2機が操縦不能状態で飛行する123便を追跡するように飛行していたという目撃証言も自衛隊が絡んでいる証拠だとされています。
日航機墜落事故が真実が隠蔽されていて闇が深いと言われる理由② 自衛隊の証拠隠蔽疑惑
123便の墜落原因が自衛隊にあるのではとの説が出ていますが、墜落後に自衛隊がその証拠を隠滅しようとしていたのではと疑う声も存在します。
重要証拠である後部圧力隔壁が調査前に自衛隊にバラバラに切断されている
事故調査委員会の公式発表では、事故原因はこの後部隔壁が破損して客室与圧空気が爆発的に流れ込んで垂直尾翼が破壊されたとしていますが、この後部圧力隔壁は日航機墜落事故発生翌日の8月13日、123便の機体後部の残骸が見つかった谷底では、お椀状の原型をとどめほぼ完全な状態で残った後部圧力隔壁が発見されています。
ところが、機体の搬出作業が開始された15日(まだ調査が入る前)に、後部圧力隔壁は自衛隊によってエンジンカッターで5分割に切断されています。自衛隊は搬出しやすくするためと説明しましたが、原因が判明する前に重要な証拠を切断したのは証拠隠滅のためではないかとの疑いが生じました。
上毛新聞(8月18日付)の記事内容などから、後部隔壁の検証はこの切断後に行われており、しかも検証時には報道陣は完全にシャットアウトされていたとの内容も明らかになっています。
この後部隔壁が日航機墜落事故の原因とされた証拠の1つに、これに放射状の亀裂が入っていた事が挙げられていますが、この亀裂が飛行中のものなのか、墜落時の衝撃によるものなのか、自衛隊による切断時に生じたものなのかの判別は詳細に調べる事が必要との内容が、墜落事故後の複数のメディアで報道されていました。
ところが、詳細な調査が必要とされていながらその後再び調査委員が現場を訪れた時には、後部隔壁は亀裂と放射状の骨組みに沿ってさらに細かく切り刻まれて積み重ねられていたとの新聞報道も確認できます。
自衛隊が嘘情報で時間稼ぎをし火炎放射器などを使って証拠を隠滅した説も存在
123便の墜落現場に13日の早朝に救助に入った地元の消防団の人々が、墜落現場でガソリンとタールが混ざったような臭いを嗅いでいます。
これが、ガソリンとタールを混ぜ合わせた「ゲル燃料」すなわち、火炎放射器の燃料の匂いだったのではないかとする説があります。
航空機燃料は灯油の成分に近いもので、墜落したとしても長時間燃え続ける事がないようになっています。事実、燃料タンクのある左主翼ややエンジンが発見された場所は全く火災が発生しておらず、遺体もほぼ完全な状態で発見されています。
ところが、どういうわけか123便が墜落時に激突した山頂周辺と、エンジンも主翼も何もない一帯が激しく燃えており、その地域で発見された遺体の多くが炭化して、触れるとポロポロと崩れ落ちるような状態でした。
そして、火炎放射器を使用した場合、遺体はこのように完全に炭化した状態になるようです。
それではいつ火炎放射器が使用されたのかというのが疑問ですが、123便が墜落した12日の夜間中、墜落位置が特定できないという理由で救助活動が開始されず、救助活動が始まったのは13日の早朝でした。この説では、自衛隊は123便の墜落後から13日早朝までの間に証拠隠滅作業を行なったのではないかと推測されています。
実は地元の人々の多くが123便の墜落直後に、墜落現場をほぼ特定しており通報を行なっていました。ところが、一向にその墜落現場は報道されずに、見当違いの場所が12日の夜から13日深夜にかけて一晩中報道され続けていました。
さらに、地元の一部の人々からは、墜落の直後から墜落現場と思われる場所で自衛隊のヘリや航空機が、何かを上げたり下げたりし、サーチライトで照らして何か作業をしていたようだとする目撃証言も出ています。
つまり、自衛隊は123便の墜落現場を墜落直後に(F-4EJファントムの追跡によって)正確に把握していたが、何か重要な真実を隠蔽する時間が必要だったため、時間稼ぎとして墜落現場を特定できないという嘘の情報を流して救助活動を遅らせた。
そして、墜落直後から13日の早朝までの間に自衛隊の部隊が極秘派遣されて、証拠の隠滅作業が行われ、完全に証拠を隠滅するために遺体もろとも火炎放射器で全て焼き払ったのではないかとする説です。
日航機墜落事故が真実が隠蔽されていて闇が深いと言われる理由③ 生存者が殺された疑惑
日航機墜落事故には4人の他にも複数の生存者がいたが、この生存者達が実質的に、あるいは意図的に自衛隊や国に殺されたのではないかと疑うような声があり、真実が隠蔽されている闇が深いとされる根拠のようにされています。
まず、生存者4名は、墜落からしばらくの間、周囲から「がんばれ」などの励ましの声や、「早く助けに来ないのか」などの話し声が聞こえていたそうです。しかし、救助活動が開始されたのは墜落翌日の13日の朝からで、それまでに生存者たちの声は次第に聞こえなくなっていったという事です。
そのため、救出活動がもっと早くに開始されていればもっと多くの生存者を救えたのではないかといった批判が出て、実質的に国や自衛隊に殺されたのと同じだと批判するような声も出ました。
そしてこれに上で紹介した自衛隊や国が何かの証拠隠滅の時間稼ぎのために意図的に救出活動を遅らせた説が絡められて、自衛隊が保身のために意図的に生存者を見殺しにした。事実上多くの人々が自衛隊に殺されたのだという恐ろしい説にまで発展しています。
墜落直後に現場を発見していた元アメリカ軍人の手記
日航機墜落事故から10年後の1995年8月20日に、アメリカカリフォルニア州の日刊紙「The Sacramento Bee」に、元アメリカ空軍中尉であるマイケル・アントヌッチという方の事故当日についての手記が掲載されました。
アントヌッチ氏の手記によると、8月12日に彼はC-130輸送機で沖縄の嘉手納基地から横田基地に帰還する途中に、123便の緊急事態を傍受した横田基地からの指示を受けて墜落現場に上がる火炎を発見したが、その後派遣された米海兵隊のヘリは救助人員の降下直前で中止を命じられ、その後横田基地で、123便の事について箝口令が敷かれたのだとか。
これも自衛隊や国が意図的に墜落現場を隠した事を示す証拠の1つとしてよく挙げられています。
日航機墜落事故が真実が隠蔽されていて闇が深いと言われる理由④ タブーとされる写真
日航機墜落事故直後に髪の短い10歳前後の男の子が自衛官に抱き抱えられて救助される場面が写真に撮影されています。
また、救出現場で生中継を行なっていたフジテレビ山口真記者が、「今12、3歳の少年が救出され自衛隊員に担がれ尾根に向かいました。まもなく自衛隊のヘリコプターで救出されるものと思われます」とリポートをしていました。
しかし、その後に発表された123便の生存者は女性4名のみでした。
この事も「消えた男の子のタブー」などと言われるようになり、日航機墜落事故は闇が深い、真実を隠蔽しているという説に繋がる事になりました。
ただ、生存者4名が見つかった、一帯で発見された遺体にはほとんど損傷がなく、一見すると生きているのか亡くなっているのかわからないほどだったようです。
そのため、撮影された写真の男の子も既に亡くなっており、自衛官はその遺体を大事に抱き抱えて搬送していた可能性が高いと見られています。その光景を見たフジテレビの記者も、男の子が救助されたものと勘違いし、それを慌ててリポートしたのではないかと考えられます。
これを日航機墜落事故のタブーとする説では、男の子は生きていたが証拠隠滅に殺されたのだというような恐ろしい話にまで発展していますが、いくらなんでも報道陣がいて映像や写真が撮影されている中で、そのような事が行われるとは考えられません。
したがって、この消えた男の子のタブーの話は根拠のない噂話だと言えるでしょう。
日航機墜落事故のタブーだと言われている自衛官に抱き抱えられている男の子の写真は検索すれば見られますが、既に亡くなっている遺体の写真である可能性が高くここでの掲載は控えます。
日航機墜落事故の現在
出典:https://news.tv-asahi.co.jp/
日航機墜落事故の墜落現場では現在も、遺族や関係者が毎年慰霊登山に訪れています。ただ、遺族の高齢化やコロナ禍なども影響してか年々登山者数が減っているとも報じられており、事件の風化を危惧する声も上がっています。
また、生存者4人の現在についても興味が集まっていますが、事故当時12歳だった川上慶子さんは現在は結婚して3歳の子供がいるとの内容を毎日新聞が2020年に報道しています。他の3人の生存者の現在については情報がなく不明です。
一方、事故調査委員会の発表した日航機墜落事故の原因について現在も疑問を感じている遺族や関係者が多くおり、2021年に遺族により、ボイスレコーダーとフライトレコーダーの生データの開示を求める裁判が起こされています。
この裁判は現在も続いており、2023年6月1日に控訴審の判決が言い渡される予定です。
まとめ
今回は、1985年8月12日に発生した「日航機墜落事故」についてまとめてみました。
日航機墜落事故は、JAL123便が羽田空港から大阪国際空港へのフライト中に緊急事態に陥り、操縦不能に陥った上、群馬県多野郡上野村の御巣鷹の尾根に墜落し、乗員乗客合わせて520名もの死者を出した航空事故です。
日航機墜落事故の原因は、事故調査委員会より、後部圧力隔壁が破損した事により、客室与圧空気が後部尾翼内部へと流れ込み、それによって垂直尾翼が破壊され操縦不能に陥った事と公式発表されています。
日航機墜落事故の死者520人は、単独航空機事故としては史上最多で2023年の現在もこの死者数を超える航空機事故は1度も起こっていません。死者の中には、坂本九さんをはじめ著名人も多く含まれていた事も衝撃を与えました。
また、遺体の状況は凄まじく、多くの遺体が損壊し一部の遺体は炎で焼けて炭化し、触れるだけでポロポロと崩れ落ちるような状態だったという事です。
日航機墜落事故では、事故調査委員会の発表した事故原因に不可解な点が多いとして疑問の声が上がっており、真実が隠蔽されていて闇が深い、タブーがある、事故原因に自衛隊が関わっているなどの様々な説が囁かれ、ネット上でも話題にされています。
現在もこれに関連して遺族による裁判が起こされており、2023年6月に控訴審の判決が言い渡される予定です。