1982年、東京赤坂のホテルニュージャパンで火災が起こりました。
今回はホテルニュージャパン火災について、原因のイギリス人や横井英樹社長のその後、死者数、生存者による事件、場所やプルデンシャルタワーとなった現在、心霊の噂についてまとめます。
この記事の目次
- ホテルニュージャパン火災の概要
- ホテルニュージャパンの歴史と横井英樹社長
- ホテルニュージャパン火災の原因① 杜撰な防火管理体制と行政命令
- ホテルニュージャパン火災の原因② イギリス人宿泊客の部屋から出火
- ホテルニュージャパン火災の原因③ 宿泊客への避難勧告がなかった
- ホテルニュージャパン火災の原因④ 常識では考えられない延焼
- ホテルニュージャパン火災の原因⑤ 社長とホテル側の呆れた対応
- ホテルニュージャパン火災での死者は33名にものぼった
- ホテルニュージャパン火災の原因となったイギリス人宿泊客のその後
- ホテルニュージャパン火災で責任を問われた横井英樹のその後
- ホテルニュージャパンがあった場所の現在
- ホテルニュージャパン跡地・プルデンシャルタワーは心霊スポット?
- ホテルニュージャパン火災の生存者が殺人事件を起こしていた
- ホテルニュージャパン火災についてのまとめ
ホテルニュージャパン火災の概要
1982年2月8日の未明、東京赤坂の高層ホテル「ホテルニュージャパン」で史上例を見ない大火災が発生しました。
火元となったのは9階の938号室で、出火原因はこの部屋に宿泊していたイギリス人男性の寝タバコです。
出火時刻は午前3時24分とされていますが、消防に通報があったのは出火から15分が経過した3時39分10秒頃で、通報者はホテル関係者ではなく外から火災を目撃したタクシー運転手だったとされます。
もちろん従業員たちは火災に気付いていました。しかし、社長兼オーナーの横井英樹氏に知られるのを恐れて消防に連絡をしなかったのです。
後述しますが、ホテルニュージャパン火災の被害が甚大なものとなった責任は横井英樹社長の杜撰な防火管理体制や極端な利益第一主義にありました。そのため横井社長は裁判でも厳しく糾弾され、業務上過失致死罪で実刑判決が下されています。
火災当日、ホテルニュージャパンに宿泊していた客は442人。そのうち103人が火元に近い高層階の9階と10階にいました。
火の回りは早く、火災発生から瞬く間に9階と10階は炎に包まれたとされます。東京消防庁・特別救助隊の隊員らの奮闘もあり、高層階から逃げられた宿泊客もいましたが、この火災は死者33名、負傷者34名を出す未曾有の惨事となりました。
火がおさまったのは火災発生から約9時間が経った2月8日の12時36分。最終的にホテルの7階から10階までの4,186㎡が消失し、この火災が原因でホテルニュージャパンは閉業となりました。
ホテルニュージャパンの歴史と横井英樹社長
ホテルニュージャパンは1960年3月に東京都千代田区永田町2丁目で開業したホテルです。地下2階、地上10階建て、客室513室からなる都市型多機能ホテルで、藤山愛一郎氏が代表取締役を務める山王国際会館によって設立されました。
開業手続きが始められた当初は高級レジデンスとして運営される予定でしたが、1964年に東京オリンピックが予定されたことなどから国内外からの宿泊客の増加を見越して、建物の3分の2を客室に変更し、ホテルとしてオープンしたといいます。
日本初のトロピカルレストラン・ポリネシアンやショッピングアーケード、大中小14の宴会場などを併設し、立地も赤坂見附の交差点付近と恵まれていたことから、政財界・芸能界の利用客も多くありました。
開業当初は経営状態も良好で、1961年と1964年の2度に渡って増築もしていました。しかし、周囲にホテルオークラやホテルニューオータニ、東京ヒルトンホテルなどの大型ホテルが乱立するようになると客足は落ち始め、1979年にホテルニュージャパンは業績悪化による廃業を余儀なくされます。
横井英樹による買収
経営が傾いたホテルニュージャパンを買収したのが、火災時に社長兼オーナーであった横井英樹氏です。
横井英樹氏は1950年に江戸時代から続いた老舗デパートの白木屋(現在の東急百貨店日本橋店)の株買い占めで財界の注目を集めるようになった人物で、「乗っ取り屋」とも呼ばれていました。
ホテルニュージャパンの社長には、藤山愛一郎氏の長男で大日本製糖の社長であった藤山覚一郎に懇願されて就任したとされます。
この頃、日本は高度経済成長期のただ中にあり、ホテルでの豪華な結婚披露宴がブームとなっていました。そのため、とくに都心の一等地にあるホテルは「金のなる木」だったのです。
横井英樹氏はホテル経営についてはまるっきりの素人でした。しかし、金になるという理由だけで140億円でホテルニュージャパンを買収したのでした。
ホテルニュージャパン火災の原因① 杜撰な防火管理体制と行政命令
ホテルニュージャパンを買収した後、横井英樹社長は早々に建物の改装に着手しました。宴会場には大きなシャンデリアを設置し、ロビーにはルイ王朝時代の家具を飾るなどして、新社長就任後、ホテルニュージャパンは外見だけは高級ホテルに様変わりしたといいます。
しかし耐震や防火設備、災害時の避難経路の確保などはおこなわれず、火災前から東京消防庁はたびたびホテルニュージャパンに改修工事をするよう警告を出していました。
ホテルニュージャパン火災で救援活動にあたった東京消防庁の特別救助隊・元隊長の高野甲子雄氏は、2001年5月22日に放送されたNHKの「プロジェクトX 挑戦者たち」に出演した際、同ホテルへ視察に行った際に以下のことを感じたと語っていました。
・建物が直角ではなく、120°になっていて道が把握しづらい
・建物内の装飾やつくりが同じうえ、通路が入り組んでいて道に迷いやすい
・壁を叩くと空洞のような音がした
・天井にスプリンクラーが設置されていない
・室内の空気が異常に乾燥していて静電気が凄い
道が覚えられないような構造という点について、高野隊長は「ここで火災が起きたら、消防隊も出られなくなるかもしれない」と危機感を覚えたといいます。
また空気が乾燥していたのは、ホテルが経費節約のために空調機の外気取り入れ口にある加湿器を止めていたことが原因で、天井のスプリンクラー未設置は消防法違反でした。
ホテルニュージャパンの設備は、同ホテルが建設された1960年の時点では消防法の基準を満たすものでした。
しかし1972年に千日デパート火災が発生したことを受けて、1974年には不特定多数の人が利用する建物ではスプリンクラーや防火扉の設置、不燃材による内装施工を義務付ける改正消防法が施行されることとなり、ホテルニュージャパンはこの基準に沿った改修をしていなかったのです。
横井英樹社長はシャンデリアや豪華な家具など、目に見える装飾品にはお金を掛けていた一方で、建物の建材や防災設備、人件費などは徹底的にコストカットしていました。
このままでは万が一、火災が起きた場合には大惨事になると判断した東京消防庁は防火設備の改善を求めて、ホテル側に指導書を4回提出します。しかし横井社長はこれに応じませんでした。
そのため業を煮やした東京消防庁は、最終手段として1981年9月11日に行政命令を出します。
ところが行政命令を受けても、ホテルニュージャパンがおこなった改修は天井へのスプリンクラー設置のみでした。しかも、このスプリンクラーは配管工事をしておらず、ただのハリボテだったのです。
ホテルニュージャパン火災の原因② イギリス人宿泊客の部屋から出火
行政命令を受けてから5ヶ月後の2月8日、ホテルニュージャパンに来日したばかりのイギリス人ビジネスマンが訪れました。このイギリス人はフロントに来た時点でかなりの量の酒を飲んでおり、泥酔状態だったといいます。
ホテル側は彼を9階の938号室に案内しました。そしてこの日の午前3時半頃、ホテルのフロントスタッフの1人が仮眠を取りに9階にある休憩室(968号室)に向かう途中、あたりに焦げ臭いにおいが漂っていることに気づきます。
フロントスタッフは938号室の扉の下から煙が流れ出ているのを発見し、火災が起きていることを察しました。しかし、彼は消防に通報せずにフロントにのみ火災を連絡して、ホテルスタッフだけで火を消そうとします。
ボヤ程度で消防車を呼んで大事にしてしまうと、横井社長に怒られると思ったためです。
結局、消防に最初の通報が入ったのは午前3時39分10秒で、通報者はたまたま近くを通りかかったタクシー運転手でした。運転手はホテルの筋向かいにある銀行の前の公衆電話から119番通報をしており、「外からなんでよくわからないんですが、ホテルニュージャパンの4階か5階あたりから煙が出ています」と告げたそうです。
この通報を受けてすぐにポンプ車隊、梯子車隊、特別救助隊などが出動したのですが、その10秒後に、今度は近くにある国会議員の宿舎の職員から「ホテルニュージャパンが火事です」と通報があったといいます。そしてその後、3番目の通報でやっとホテルのフロントから消防に救助要請が来ました。
実はホテルニュージャパンの従業員たちは、消防法で年に2回以上おこなうことが定められているにもかかわらず、防火訓練をしていませんでした。そのためフロントスタッフも、火災が起きた時の正しい対処方法を知らなかったのです。
ですから938号室から火が出ていることがわかっていても、フロントスタッフは消防への通報どころか、ドアをノックしてイギリス人宿泊客の安否確認をする、同じフロアの宿泊客に避難を呼びかけるという客の安全確保のための行為をおこないませんでした。
フロントからマスターキーを持ってスタッフが938号室前に戻った時には、室内から英語で助けを求める声がしていたといいます。
そしてイギリス人宿泊客を廊下に出し、消化器を持ったスタッフが938号室の室内に入った時には、天井まで炎があがっているような状態でした。
ホテルニュージャパン火災の原因③ 宿泊客への避難勧告がなかった
出典:http://hanemone.blogspot.com/
フロントスタッフはホテル警備員には火災発生の報告をしていました。しかし警備員も防火訓練を受けていなかったため、ホテルに設置されていた手動式の非常ベルの操作方法がわからなかったのです。
またパニック状態にあったためか、警備員もフロントスタッフ同様に、宿泊客に避難を呼びかける緊急館内放送をおこないませんでした。
さらに938号室に駆けつけたフロントスタッフ達は消化器1本を使い切ったところで早々に鎮火を諦めており、ここでも宿泊客への避難誘導などは一切せずにフロントへ戻りました。
しかも鎮火しなかったばかりか、燃え盛る938号室のドアを開け放したまま1階に戻っていたため、フラッシュオーバー現象を起こして廊下まで炎が吹き出し、一気に9階全体に火が回ってしまったのです。
このように災害を目の当たりにしても従業員たちがピントのずれた対応をし続けていた背景には、横井社長による人員削減、経費削減、人件費削減といったものがありました。
横井英樹氏が社長に就任した後、その利益のみを重視した経営に違和感を覚えて多くの従業員がホテルニュージャパンを去っていきました。しかし横井社長は経費がかかるからという理由で、欠員の補充などは一切おこいませんでした。
そのため開業時には300人以上いたホテル従業員の数は、火災当時には3分の1程度にまで減っていたといいます。
ホテルはいつも人手不足で、火災が起きた2月8日当日も当直のスタッフは僅か9名のみでした。9名のみで一晩ホテルを運営するには、1人のスタッフがさまざまな業務を兼任する必要があり、1つ1つの仕事はどうしても雑になってしまいます。
しかもこの頃のホテルニュージャパンは自転車操業状態で、給与の支払いが滞ることもあったといいます。1人ではこなしきれない仕事量と、それに見合わない給与。このような環境で働くことで、従業員全体の士気も下がりきっていました。
そのためホテルニュージャパンの従業員には、自分たちは宿泊客の命を預かる仕事をしている、という意識があまりなかったのです。
また従業員用の仮眠室も専用の部屋が用意されていたわけではなく、その時に空いていた客室が使われていました。ですから災害時に休憩や仮眠に入っている従業員に連絡を取ることも、容易ではなかったといいます。
ホテルニュージャパン火災の原因④ 常識では考えられない延焼
「ホテルニュージャパンが燃えている」という通報を受けて出動した際、東京消防庁の隊員たちは「そこまで大きな火災にはならないだろう」と思ったといいます。
通常、ホテルの部屋は壁も天井も耐火構造になっており、1つの部屋から火が出ても隣の部屋に燃え広がるとは考えにくいためです。
しかし国会議事堂を過ぎて赤坂方面に差し掛かった時、隊員たちは空一面が真っ赤に染まっているのを見て愕然とします。ホテルニュージャパンの9階と10階からは黒煙と炎が吹き出し、建物そのものが巨大な火柱のようになっていたのです。
しかも逃げ遅れた人が9階から運を天に任せて飛び降り、下層階の陸屋根にそのまま叩きつけられる様子まで見られます。
この時、鎮火に駆けつけた消防隊員たちのなかには「花のトッキュウ(特別救助隊の略)」と呼ばれる、東京消防庁のなかでも選りすぐりのエリート集団、精鋭集団もいました。
そんな彼らであっても目を疑うような早さで、部屋から部屋へと火が燃え移っていたのです。このような異常な燃え方をした原因は、ホテルニュージャパンの構造にあります。
ホテルの壁は穴の空いたコンクリートブロックにベニヤ板を貼り付けたものでした。コンクリートブロックの間はモルタルで埋められていたものの隙間があり、火はブロックの穴や隙間を通って容易に燃え広がっていったのです。
しかもベニヤ板の上に貼られた壁紙も可燃性の安物で、ドアは木製だったとされます。また、防火対策がとられていなかったのは客室だけではありませんでした。
廊下には一応、火災を検知すると自動的に閉まる防火扉が設置されていたのですが、見栄えを重視して敷かれた絨毯に阻まれて、この扉もきちんと閉まらなかったのです。天井のスプリンクラーも前述のように水道管と繋がっていない、水の出ないものでした。
このような構造上の欠陥が重なった結果、普通のホテルではあり得ない早さでフロア中に火が燃え広がったのでした。
ホテルニュージャパン火災の原因⑤ 社長とホテル側の呆れた対応
ホテルニュージャパンが炎に包まれていた頃、社長の横井英樹氏は田園調布の自宅にいました。秘書から電話で火災の報せを受けた横井社長は「ロビーにある家具を運び出せ」と命じたといいます。
ロビーにある家具は、ルイ十四世が宮廷芸術家につくらせたとされる高級家具でした。横井社長にとっては宿泊客や従業員の命よりも、この家具の価値のほうが重かったのでしょう。
ホテル側の信じがたい対応はこれだけではありません。高野甲子雄隊長が率いる特別救助隊が9階に向かう道案内を頼もうと守衛に声を掛けた時も、守衛は「横井社長と通話中なので待っていてほしい」と返答したそうです。
「逃げ遅れた人の命がかかってるんだ!」と高野隊長に一喝された守衛は、しぶしぶ電話を切ったものの、のんきに「エレベーターを使いますか?」と聞いてきたといいます。
消防隊は火災時にエレベーターを使いません。移動中にエレベーターが停まってしまう可能性や、扉が開いた途端にフラッシュオーバーが起きるおそれがあるからです。
そもそも高野隊長が守衛に道案内を頼もうと思ったのは、視察に訪れた際に「この構造では道に迷うかもしれない」と感じたためです。エレベーターで9階に行って、救助と鎮火をして戻ってこられるような状況なら、道案内など頼まないでしょう。
ホテルの上層階が炎の海になっていて、100人近くの人が逃げ遅れている状態にありながら、社長も守衛もまるで危機感を持っていなかったことが窺えます。
ホテルニュージャパン火災での死者は33名にものぼった
間の悪いことに火災当日、ホテルニュージャパンの9階と10階にはさっぽろ雪まつりを目当てに訪れた中国や韓国からツアー観光客が多く宿泊していました。
そのため特別救助隊の隊員たちは、言葉が通じない外国人宿泊客を相手に救助活動をおこなわねばならなかったのです。しかも救助隊が高層階にたどり着いた時には、パニック状態になった宿泊客が窓や屋上から次々に飛び降りようとしていました。
救出された韓国人男性の1人は、当時を振り返り「あの時は、火と煙から逃げたいという考えしかなかったんです。自分がいるのはホテルの9階だということが頭からすっぽり抜けていて、救助隊に止められてはじめて、自分が高層階から飛び降りようとしていたことに気づきました」と語っています。
建物の外から宿泊客の救助にあたった梯子車隊も、複数の窓から助けを求める悲鳴が聞こえてきて、どこに梯子をのばせばよいのか判断できないような状態でした。はしごをのばしている最中に窓から炎が吹き出してきて、建物内にいる特別救助隊に救助を託すことになる場面もあったといいます。
また宿泊客のなかには自分たちでシーツを結んで命綱をつくり、窓から垂らして無事に逃げ出した人もいました。
宿泊客が互いに助け合い、その場にいた消防隊員全員が1人でも多くの人を救おうと奮闘した結果、逃げ遅れた99名のうち66名がホテルから逃げることに成功しました。しかし最終的に、台湾人の妊婦1名をふくむ33名が命を落とすこととなりました。
亡くなった人の多くが焼死や一酸化炭素中毒など、火災が直接の原因であったものの、なかには火から逃れるために窓から飛び降り、そのまま転落死した人が13名もいたとされます。
もちろん炎のなかに突入していった特別救助隊の隊員も無事ではなく、最前線で消火活動をおこなった高野隊長は炎を吸い込んで気道熱傷を起こし、ホテル近くの前田病院の集中治療室に運び込まれました。
ホテルニュージャパン火災の原因となったイギリス人宿泊客のその後
ホテルニュージャパン火災の大元の原因は、イギリス人宿泊客の寝タバコでした。しかし放火をしたわけではなく、タバコの消し忘れという過失で火事が起きたために、彼が刑事罰に処されることはありませんでした。
イギリス人宿泊客には民法上の損害賠償責任のみ生じたとされますが、どの程度の賠償に応じたのか、また実際に被害者に金銭での賠償をしたのかなどは明らかになっていません。また、火災後の彼の生死についても明かされていません。
ホテルニュージャパン火災で責任を問われた横井英樹のその後
鎮火後、横井社長は「みなさま、今日はお集まりいただきありがとうございます」と、まるで慶事の挨拶のような蝶ネクタイ姿で記者会見の場に現れました。
また数多く集まった報道陣に対して「火災が9階と10階で収まったのは不幸中の幸い」「すべての責任は火元となった部屋にいた客」などと耳を疑うような発言を繰り返しました。
横井社長は一貫して自分の責任を認めず、しかも裏では夫のお見舞いのため前田病院に向かう高野隊長の妻を捕まえて、口裏合わせの賄賂を渡そうとしていたことも明らかになっています。
「これ、ホテルニュージャパンの社長さんから」と、中身を知らない妻に風呂敷包みを渡された高野隊長は、すぐに「裁判で口裏合わせをするように自分を買収しようとしているのか」と察し、激怒して受け取りを拒絶したといいます。
このような横井社長の対応には社会から批判が集中したほか、違法運営が被害を拡大した原因であるとして、社長個人が業務上過失致死傷罪に問われました。
そして1987年には禁錮3年の実刑判決を受け、1993年に最高裁判所で刑が確定。1994年から八王子医療刑務所に収監されることとなりました。
脱税発覚と資産売却
ホテルニュージャパン火災が起きた1982年には横井社長が10年間に渡って税金の申告漏れをしていたことが指摘され、1996年に仮釈放されるまでの間に、横井家が所有していた資産は次々と安価で叩き売られていきました。
出所後に残った資産はダイエー碑文谷店と池上のボウリング場のみとなり、1998年にこの2つの施設を巡回している最中に横井社長は虚血性心疾患で倒れ、そのまま他界。
なお、ラッパーのZEEBRAは横井社長の孫であり、ホテル火災時には慶応幼稚舎に通っていたものの、祖父の起こした事件が原因で「人殺し」と呼ばれ、いじめに遭うようになって退園したといいます。
観音像の建立
火災後、東京都港区にある増上寺で犠牲となった33名の宿泊客の仮通夜がおこなわれました。そして火災から5年が経った1987年2月8日には、増上寺の敷地内に火災事故の犠牲者を慰霊するための観音像が建立されました。
この観音像は横井社長によって建てられたもので、一審の判決が出る前に竣工していたことから「量刑を軽くするためのパフォーマンスなのではないか?」とも指摘されていたようです。
しかし、横井社長がどのような意図で建立したにせよ、現在も増上寺の観音像を訪れて手を合わせる人が絶えないことから、犠牲者の供養になっていると考えられるでしょう。
ホテルニュージャパンがあった場所の現在
ホテルニュージャパンは火災後も14年に渡って取り壊されずに放置され、横井社長はホテルの敷地を担保として融資を受けていたとされます。
そして1995年になって横井社長に巨額の融資をしていた千代田生命がホテルニュージャパン跡地を自己競落し、1996年に入ってやっと建物が解体されました。
しかし2000年に千代田生命が経営破綻に陥ったため、ニュージャパン跡地に建築中だったタワーはプルデンシャル生命保険と森ビルが共同で設立した会社が買い取ることとなり、2002年12月16日に職住一体のプルデンシャルタワーが完成しました。
ホテルニュージャパン跡地・プルデンシャルタワーは心霊スポット?
多くの死傷者を出した現場となったホテルニュージャパンの跡地に建ったため、現在ではプルデンシャルタワーは都内有数の心霊スポットとして知られています。
プルデンシャルタワーでは以下のような心霊現象が起きたという情報があります。
・6階にお腹を抱えた妊婦の霊が現れる(火災でなくなった台湾人妊婦の霊ではないかと囁かれている)
・夜中になると窓から炎が出ているような幻が見える
・ビルの最上階に裸の人の霊が現れる。話しかけるとスッと消えてしまう
・取り壊し前のホテルの上層階から「助けて、助けて」という女性の叫び声が聞こえた
・10階の電灯が人がいなくても突然灯る
・取り壊し前のホテルの5階からボソボソと人が話す声が聞こえた
・心霊番組の取材に訪れたクルーに体調不良が生じ、機材トラブルが起きたこともある
ホテルニュージャパン火災の生存者が殺人事件を起こしていた
ホテルニュージャパン火災の生存者のなかに、広島から受験のために上京していた1人の女子高校生がいました。彼女の名前は前田優香。
火災当日、受験票と筆記用具を部屋に残したまま避難したという前田優香は、予定通り立教大学に進学しましたが、その後、殺人事件を起こして世間を騒がせています。
ここでは「あのホテルニュージャパン火災で九死に一生を得ながら犯罪者になるなんて!」と話題になった生存者、前田優香について紹介していきます。
ホテルニュージャパン火災の生存者が起こした品川同性愛者殺人事件
出典:https://matome.eternalcollegest.com/
ホテルニュージャパン火災の生き残りとなった前田優香でしたが、立教大学を卒業した後は定職につかず、キャバクラや風俗などで働いていました。
そのうちに愛人男性の1人からキャバクラの経営を任されるようになるのですが、この時期に鈴木友幸さんという女性に知り合い、交際を開始します。
しかし鈴木友幸さんが同性愛者であった一方で、前田優香は異性愛者で女性と付き合った経験はなく、単に40歳を過ぎて容姿に衰えが見え始めていた自分を美人、華やか、と持て囃してくれることから彼女と交際しただけでした。
後に借金を背負い、住むところにも困るようになった前田優香は鈴木友幸さんのマンションに転がり込み、2人は同棲することとなります。しかし前田優香は外に男の愛人がおり、2人の関係が純粋な恋人だと思っていたのは鈴木友幸さんだけでした。
そのような生活を続けているうちに、鈴木友幸さんが性病に感染していることがわかります。前田優香以外と性交していなかった鈴木友幸さんは「お前、隠れて男と会ってるんだろう」と激怒し、前田優香を自宅マンションに監禁するようになりました。
この件をきっかけに2人の仲は険悪になっていき、2005年3月1日に些細な口論からカッとなった前田優香が鈴木友幸さんを包丁で刺して殺害。
その後、前田優香は2007年3月に東京都北区の健康ランドにいるところを目撃されて逮捕され、懲役15年の判決を受けています。
なお、鈴木友幸さん殺害後、前田優香は11の偽名を使いながら逃走を続けたことから「第二の福田和子」とも呼ばれました。
ホテルニュージャパン火災についてのまとめ
今回は1982年に起きたホテルニュージャパンの火災事故と、火災が起きたその後について紹介しました。
ホテルニュージャパン火災が起きた翌日には羽田で日航機墜落事故が起きており、ニュージャパンで火災が起きなければ、あるいは通常のビル火災のように早々に鎮火できていれば、日航機墜落事故の怪我人救助に特別救助隊を動員できたはず、よりスムーズに救助活動ができたはずだと指摘されています。
このような杜撰な管理をしているホテルやオフィスビル、店舗などは現在は存在しない。そう信じたいですね。