熊野一族7人殺害事件は1980年に三重県熊野市で発生した大量殺人事件です。犯人の池田一通は親族7人を殺害した後、自ら命を絶っています。
この記事では熊野一族7人殺害事件の動機や真相、現場、写真、被害者の死因や現在について紹介します。
この記事の目次
熊野一族7人殺害事件の概要
1980年1月31日の夕方、三重県熊野市二木島町で7人が殺害、3人が重軽傷を負う大量殺人事件が発生しました。
事件の現場となったのは農業を営んでいた池田一通(かずみち・当時44歳)の自宅で、この日、犯人宅には近隣に住む親族が集まっていました。
といっても、親族は宴会や協議が理由で池田家に集まっていたわけではありません。
池田一通はかねてから心身の不調を訴えて通院中であり、事件を起こす2、3日前からは意味のわからないうわ言を呟くなど顕著な異常が見られていました。
くわえて事件当日の正午頃には「体がだるい」と言いながら仕事から戻ってきたために、心配した母親が「息子の様子がおかしいから、見に来てくれないか」と近くに住む姉夫婦や弟、妹などに連絡したことから、わざわざ親族が池田家に集まっていたのです。
しかし、一時は自分を心配してやって来た兄弟らと一緒にテレビを観るなどして落ち着いた様子を見せていたという池田一通でしたが、夕方になって豹変。突然、斧やナタを手に暴れだして親族を殺傷したのです。
果てにはまだ5歳と4歳という幼い我が子まで猟銃と斧で殺害。その後は近隣住民の通報で駆けつけた警察官の説得にも応じず、自宅に籠城した後に自らも猟銃で自殺を図ったとされます。
最終的に7人が殺害、3人が重軽傷を負うという戦後日本の犯罪史上、稀に見る被害を出した熊野一族7人殺害事件は、犯人死亡というかたちで動機もわからないまま幕を引きました。
ただ、事件を起こす前に池田一通が振動病という職業病にかかっていたことや、中学1年生の長男が腎臓病を患って入院していたことなどから、ノイローゼ状態になって無理心中を図ったのではないかと指摘されています。
また、この事件をモチーフに中上健次氏が『火まつり』という小説を書き上げており、本作は北大路欣也さん主演で映画化もされています。
熊野一族7人殺害事件の現場
熊野一族7人殺害事件の現場となった池田一通の自宅は、三重県熊野市二木島町251番地3号にあったとされます。
国鉄紀勢本線の二木島駅から約1km離れた場所に位置する平屋建ての家で、池田一家はみかん農家を営んでいました。また、大黒柱の池田一通は石材会社でトラック運転手や石工の仕事もしていたといいます。
二木島町は当時人口1200人程度の集落で、みかん栽培と漁業が盛んな土地でした。小さな集落であったために住んでいる人達は全員が顔見知りや親族であったといい、これまでに大きな事故や事件が起きたことのない「静かすぎるほど静かな集落」だったそうです。
そのため熊野一族7人殺害事件は二木島町はもちろんのこと、熊野市にとってもかつて経験したことのない大きさの事件でした。
なお、池田家が事件当時に住んでいた二木島町に越してきたのは1959年のことで、伊勢湾台風でそれまで住んでいた熊野市内の家が被災したことが原因での転居でした。
当初は義理の兄の一家以外に知っている家もなく、馴染みのない場所に越してきたことで苦労もあったようです。
しかし父親が他界し、家を継ぐようになってからは池田一通が積極的に熊野市消防団二木島分団新田の班長や次男と三男が通う保育所の役員などのボランティアに積極的に参加していたといい、近所付き合いはしっかりしていたことが窺えます。
熊野一族7人殺害事件の犯人・池田一通の人物像
1935年、池田一通は三重県熊野市内で産まれました。地元の公立小学校、中学校を卒業した後は1951年4月に三重県立木本高等学校へ進学しますが、成績は非常に悪かったといい、くわえて遅刻癖がひどく、暴力沙汰を起こしてしまったことが決定打となって1952年8月31日に高校を退学。1年4ヶ月しか高校には通いませんでした。
高校を中退した後は実家の農業を手伝いながら、養豚業や農林業にも携わったとされます。
学校は卒業できなかったものの、心を入れ替えたかのようにしばらくは真面目に家業を手伝っていたといいますが、20歳を過ぎた頃、またしても傷害事件を起こしてしまいます。
1956年10月、道を歩いていた池田一通はダンボールが落ちているのを目撃。これに猛烈に腹を立てたらしく、ダンボールが落ちていた付近の家に上がり込んで、なぜかその家の住民を殴打したのです。
この件については翌月の11月に熊野簡易裁判所から罰金20,000円の支払いを命じられるだけで済みましたが、その5年後の1961年にも和歌山県新宮市内で傷害事件を起こします。
トラック運転手として勤務していた際に、路上駐車をして後ろから来たバスの進路を塞いでしまい、それが原因となってバス運転手と20分近く揉めたうえに運転手を殴ってしまったのです。
そして今度は懲役10ヶ月、執行猶予付きの有罪判決を受けることとなりました。
結婚
高校中退と2度の傷害事件という経歴から見て、池田一通は頭に血が上りやすく、また普通の人が気にもとめないようなことが原因でカッとなって手が出てしまう人物であることが窺えます。
しかし、1961年以降は有罪判決がこたえたのか一転して真面目に生きるようになり、和歌山県内に出て土木作業員やダンプカーの運転手として働きだしました。
また結婚をして子どもも誕生するなど、この頃の池田一通の生活ぶりはごく普通で、前科があるようにはまったく見えなかったといいます。
酒を飲むと凶暴な性格になるためか結婚を境に断酒していたそうで、近所の人からも「真面目でおとなしい人だった」という証言も出ています。
1970年になると父親が死亡したことをきっかけに家業を継ぎ、妻とともにみかん栽培と稲作を始めることに。池田家のみかん畑は相当に広かったようで、当時はみかん栽培だけで年間3000万円を超える収入があったとのことです。
さらに池田一通は道路工事用の石を割る石工としても働きに出ていたため、池田家は二木島地区でも目立って裕福な家庭であったといいます。
猟銃の使用許可を取得
1973年10月29日、池田一通は熊野署で猟銃(散弾銃)の使用許可を取得します。
この猟銃は熊野一族7人殺害事件で凶器として使われたもので、もとはイノシシや猿などの有害鳥獣の駆除目的で入手したものでした。
イノシシなどを狩るために猟銃を使うことは年に数回程度しかなかったといい、猟銃や狩りの成果を周囲に自慢する様子もなく、事件以前には銃に対する思い入れや執着は見られなかったそうです。
また猟に向かった先で人間に銃口を向けるなどの問題行動もなく、猟銃の使用にも問題はなかったといいます。
しかし、熊野一族7人殺害事件が起きた後には「なぜ傷害の前科がある人間に簡単に猟銃の使用許可を出してしまったのか」といった指摘がされました。
折りしも1979年1月には猟銃を携えた男が銀行に押し入り、5名を殺害した三菱銀行人質事件が起きていたこともあり、「銃の所持には厳格な基準が必要なのではないか」との議論が起きたとされます。
振動病(白蝋病)
結婚してからは順風満帆であった生活に陰りが見えます。石工の仕事が原因で振動病(白蝋病)という職業病を発症してしまったのです。
振動病は以下のような症状の出る病気で、手指の血管が収縮して一時的に血流が止まり、指先がまるで蝋燭のように白くなることから白蝋病とも呼ばれます。
振動障害は、チェーンソー、グラインダー、刈払機などの振動工具の使用により発生する手指等の末梢循環障害、末梢神経障害及び運動器(骨、関節系)障害の3つの障害の総称です。具体的な症状は、手指や腕にしびれ、冷え、こわばりなどが間欠的、又は持続的に現れ、さらに、これらの影響が重なり生じてくるレイノー現象(蒼白発作)を特徴的症状としています。
池田一通は月に10日ほど振動病の治療で病院に通うようになり、1978年10月25日付で労災認定も受けていました。
しかし、1日当たり7840円の休業特別支給金を受け取りながらも毎月20日前後は石工として働いていたといい、労災認定が降りてから1979年にかけて賃金と休業特別支給金の「二重取り」の期間があったことが判明しています。
1979年は「振動病のため330日間、石工としての仕事ができなかった」として支給金約260万円を受け取っていたとされますが、これとは別に石工の仕事をこなして賃金も受け取っていたわけです。
もちろんこの行動自体も不正受給にあたる問題行為なのですが、労災が認められるような病状で働き続けたために振動病が悪化したのも問題でした。
症状が中程度まで悪化して手足の震えに悩まされるようになり、1979の夏頃には「不安感がある」といった相談をかかりつけの病院で相談していたといいます。
息子の腎臓病
また事件を起こす前年の1979年5月には、ある悲劇が池田家を襲いました。中学校の集団検診で、当時15歳だった長男の腎臓病が発覚したのです。
長男はすぐに和歌山市内の病院に入院したとされますが、病状が思わしくなかったようで7月には三重県津市にある国立療養所三重病院に転院。
さらに同年の12月にはにまだ保育園児であった次男も肺炎に罹り、池田一通は息子達の病気について思い悩み、事件直前には「誰かに狙われている」「襲われる」などと口にしてノイローゼ状態にあったと言われています。
熊野一族7人殺害事件の詳細① 予兆
事件当日の1980年1月31日の正午頃、石工の仕事を早退してきた池田一通は在宅していた妻の楠美さんに「身体がどうにもだるい」と不調を訴えました。
この2日前に池田一通は夜間に突然、楠美さんの実家を訪れるという不可思議な行動をしていたのですが、その時も様子がおかしく、ひどく落ち込んでいるように見えたために義実家の人々から慰められていたといいます。
ほかにもここ2〜3日、家でも訳のわからない独り言を言うなどしていたため、心配になった楠美さんは同居していた池田一通の母親のとくさんに相談。
まずは振動病を診察してもらっていた主治医に連絡し、14時頃に検診に来てもらいました。しかし、池田一通は激昂し「ワシは病気ではない!帰れ!」と医師を怒鳴りつけたために、とても診察できる状態ではないと判断されてしまったといいます。
この時、主治医は「池田さんは分裂病のように見える。万が一を考えて猟銃は隠しておいたほうがいい」とアドバイスをしたそうで、楠美さんはこの助言に従って猟銃をロッカーに入れて鍵を隠していたそうです。
熊野一族7人殺害事件の詳細② 被害者が家に集まる
主治医が帰った後、ますます息子が心配になったとくさんは15時頃に親族に電話をして「お父ちゃんの様子がおかしい、家に来てくれないか」と要請しました。
そうして住人を含めて事件当日の池田家には以下の10人が集まったのです。
・池田一通(当時44歳)
・妻の楠美(当時38歳)
・次男の忠くん(当時5歳)
・三男の正和くん(当時4歳)
・一通の母親のとくさん(当時80歳)
・一通の姉のさなえさん(当時55歳)
・姉の夫の勇左ヱ門さん(当時58歳)
・勇左ヱ門さんの弟の岡本充さん(当時29歳)
・一通の妹の森本さん(当時41歳)
・一通の弟の寿一さん(当時38歳)
集まった親族たちもやはり池田一通の様子がおかしいことを心配し、16時30分には義兄の勇左ヱ門さんが再びかかりつけ医に連絡。
訪れた主治医は精神安定剤の注射を試みましたが、拒否反応を示されたため無理やり注射をするのは危険だと判断したといいます。義兄に精神安定剤と睡眠薬を渡して「何かあったら飲ませるように」と伝えたそうす。
また、この時に楠美さんが「猟銃はロッカーにしまって鍵も隠しました」と伝えると、主治医は「それは良いことです」と答え、「2月4日の月曜日まで様子を見て、変わらないようであれば精神科医の診察を受けましょう」と提案していました。
熊野一族7人殺害事件の詳細③ 凶行
17時頃になると池田一通も落ち着きを見せ、実の弟の寿一さんと自分の息子の忠くん、正和くん、そして義理の兄の弟の充さんとともに玄関脇の八畳間でTVを観るなどしていたといいます。
他の人々は玄関をはさんで向かいにある六畳間で、秋刀魚寿司をつまむなどして過ごしていました。
しばらくして池田一通は寿一さんに「みんなに出すジュースを買ってきてくれ」と頼み、18時前に忠くんと正和くん、妹の森本さんを伴ってライトバンに乗り、寿一さんが買い物に出掛けます。
するとその直後にこれまで会話に参加するなどしていた池田一通が豹変。突然、斧を持ち出してきて暴れだし、八畳間にいた充さんに2、3回斧を振り下ろして攻撃したのです。
すかさず義兄のの勇左ヱ門さんらが止めに入って斧を取り上げると、今度はロッカーに隠してあったはずの猟銃を手に親族を脅しつけたといいます。充さんを襲う前に斧でロッカーを壊し、中にあった猟銃を取り出していたのです。
こうして凶器を手にした池田一通は、母屋から離れまで追いかけていって斧で実母のとくさんを斬殺、続いて玄関で実の姉のさなえさんを猟銃で銃殺、と次々に親族を手にかけていきました。
熊野一族7人殺害事件の詳細④ 実の子まで殺害
さら池田一通は、買い物に出かけていた充さん、森本さん、忠くん、正和くんが戻ってきたことに気づくと彼らにも襲いかかりました。
家のなかで惨劇が起きていることなど知らない寿一さんは、池田家に戻ってくると帰宅を知らせるためにクラクションを2回鳴らしたといいます。するとこの音を聞いた池田一通が4人の乗るライトバンの前に駆けつけ、そのまま車に向かって猟銃を乱射。
この時点で寿一さん以外の3人は息があったようで、池田一通は斧を持ち出してライトバンに押し入り、実の妹と幼い我が子を次々に斬殺していったとされます。
熊野一族7人殺害事件の詳細⑤ 事件の発覚
18時5分頃、池田家の前を通りかかった人が銃声や悲鳴に気づいて熊野警察署へ110番通報します。
しかし、間の悪いことに地元の駐在所の巡査は車で約30分も離れた場所にある熊野署に行っており、駐在所には誰もいなかったことから通報を受けて警察官が現場に到着したのは18時36分のことでした。
その間に斧で殴打されて重傷を負った充さんが、池田家から約150m離れた鉄工所経営者の多川さん(当時61歳)宅に助けを求めに行きます。
血だらけの充さんから「池田さんの家で一通さんが銃を乱射して暴れている、助けてください」と言われた多川さんは119番通報するとともに、家にいた長男と2人で池田家に駆けつけました。
そこで多川さん親子は、玄関脇に止めてあった軽トラックに乗り込んで現場から逃げようとする妻の楠美さんと義理の兄の勇左ヱ門さんが、後を追ってきた池田一通に猟銃で撃たれるというショッキングな場面を目撃してしまうのです。
そして多川さんの長男はすきを見て池田一通から斧を奪うことに成功しますが、多川さんも狙撃されて太ももを撃たれてしまいます。後の多川さん親子の証言によると、この間、池田一通は一言も喋らず、無機質に襲いかかってきたとのことです。
18時20分には多川さんの通報を受けて救急車が到着しますが、道路に向かって銃を構える格好で池田一通が立っていたため救助に向かうことができず、少し離れた場所に隠れて待機することになります。
こうして凶行を止める手立てがないうちに熊野署から8人の警察官が到着するのですが、池田一通は説得を試みる警察官に対しても発砲。警官が怯んだすきに自宅に籠城してしまいました。
熊野一族7人殺害事件の詳細⑥ 犯人・池田一通の自殺
すりガラス越しにぼんやりと池田一通が家の中を移動する様子が見えたものの、まだ屋内に囚われた被害者がいる可能性もあったために、警察も迂闊に手を出すことができませんでした。
そして18時51分、池田一通が自宅に立て籠もった直後に池田家の前の公道に停まっていたライトバンから幼児2名を含む4体の遺体が発見されます。
このことから事態を重く見た三重県警は、熊野市に隣接する尾鷲警察署と鵜殿警察署にも応援要請を出すとともに、県警捜査一課長ら本部の捜査員も5名現場に送り込みました。
19時10分には応援に駆けつけた警官20名が池田家の母屋を取り囲み、捜査員らも「まず出てきて、話をしよう」といった声がけを続けます。
しかし19時13分、説得に応じることなく池田一通は持っていた猟銃で自殺。命を絶った場所は息子達が使っていたこども部屋で、自分の頭と腹に銃弾を撃ち込んで自殺したとされます。
その後、銃声を聞いて19時15分に屋内へと警察官が突入したところ、左手に銃を持ち、右手で引き金を押さえ、胸に銃口をあてた状態の池田一通が、こども部屋で倒れていたとのことです。
熊野一族7人殺害事件の被害者の死因
1時間にも満たない短い時間で、7人の死者と3人の負傷者を出した熊野一族7人殺害事件。亡くなった被害者の死因は以下のとおりです。
・寿一さん…ライトバンの運転席にいたところを射殺される。
・森本さん…ライトバンの運転席にいたところを撃たれ、斧で斬殺される。発見時、寿一さんと森本さんの遺体は座席から前のめりに倒れ込み、頭は割れたフロントガラスの外に突き出していた。
・忠くん…ライトバンの後部座席にいたところを撃たれ、斧で斬殺される。
・正和くん…ライトバンの後部座席にいたところを撃たれ、斧で斬殺される。幼い兄弟は後部座席で重なり合うようにして息絶えていた。
・とくさん…離れ玄関先で、斧で斬殺される。息子から逃れようとしていたらしく、遺体の周辺には2mほど続いた血痕が残っていた。
・さなえさん…母屋の玄関で撃たれた後、東側の道路まで逃げていって射殺される。
・勇左ヱ門さん…楠美さんと軽トラックで逃げようとしたところ、射殺される。遺体はトラックの荷台で発見された。
また、勇左ヱ門さんと同じく軽トラックで現場から逃げようとしたところを襲われた楠美さんは、斧で切りつけられたことから頭と胸に打撲や切り傷を負い、救助後は意識不明の重体に陥りました。その後は意識を取り戻したものの、怪我は全治2ヶ月の重傷だったとされます。
多川さん宅に助けを求めた充さんは全治2週間、多川さんも全治10日の軽傷を負っています。
熊野一族7人殺害事件の動機・真相考察
犯人が自殺をしてしまったうえ、現場からも動機に繋がる物証が何も出てきていないことから、熊野一族7人殺害事件の動機や真相は不明のままとなっています。
ここでは事件後に発覚した事柄から、犯人の池田一通はなぜ熊野一族7人殺害事件を起こしたのか、動機と事件の真相を考察していきます。
①池田一通は酒癖が悪かった?事件は飲酒が原因?
事件後に『朝日新聞』の取材に答えた熊野市職員の証言によると、池田一通は「普段は大人しく、温厚で気の小さい人物であったが、酒を飲むと人が変わったように暴力的になった。酒が強くないため、飲酒の習慣はなかったようだ」と語っていたといいます。
また、事件当日の18時5分に現場を通りかかった近隣住民は「池田一通が酒に酔って暴れている」と熊野署に通報したとされています。
このことから事件当初は、親族が集まって気が大きくなった池田一通が酒を飲んでしまい、人が変わって犯行に及んだのではないか?とも見られていました。
しかし、司法解剖で遺体からアルコールは検出されず、飲酒が原因の犯行ではないことが明らかになっています。
②労災の不正受給に悩んでいた?
上でお伝えしたように、池田一通は1978年10月に振動病で労災認定を受け、毎月約20万円の特別休業支援金を受け取っていました。そして支援金を受給しながらも石工の仕事を続け、支援金の不正受給をしていました。
実は1979年12月に労働基準監督署が、池田一通が仕事を受けていた石切り事務所に帳簿を提出するように要請があったそうです。
これは一般的な労働環境の調査が目的のものだったのですが、帳簿をチェックされたら自分の不正受給がバレるのではないかと池田一通は思い悩むようになり、この頃からどんどん様子がおかしくなっていたとの話もあります。
たしかに不正受給が明るみに出れば家族にも迷惑をかけますし、場合によっては詐欺罪に問われるおそれもあるでしょう。このことも池田一通が犯行に及んだ理由の一つなのかもしれません。
しかし、不正受給だけが原因であれば何も周囲を巻き込んでの心中を起こさなくても良かったのではないかと思われるため、ほかにも動機があるような気がします。
③長男の病気などを苦にしての心中
自身の振動病の悪化を苦にしてノイローゼ状態に陥ったのではないか、等の考察もされましたが、最終的に『中日新聞』などが動機ではないかと報じたのが「長男の腎臓病を苦にしての心中」でした。
もともと池田一通は子煩悩な性格だったといい、突然発覚した長男の病気をたいそう心配し、悩んでいたといいます。
裕福であったという池田一通が不正受給に手を出してまでお金が欲しかった理由も、もしかしたら長男の病気を治すため、よりよい治療を受けるためだったのかもしれません。
自分も振動病を発症しており、いつまで働けるかわからない。だからこそ稼げるうちに長男のために稼ぎたい、そう思って不正行為にまで手を出したところ、今度は幼い次男が肺炎を発症。
くわえて石切事務所が帳簿を提出すれば自分の不正受給が明らかになるのではないかと怯えて暮らすようになり、徐々に精神を病んでいったのではないかとも指摘されています。
なぜ、自分の親族が集まった日に犯行に及んだのかについて、精神科医の野田正彰氏は著書『犯罪と精神医療』のなかで、「自殺を考える人にとって自らの死=消滅は、世界の消滅に等しい」とし、「閉ざされたコミュニティで生きている人にとって、世界の大きさというのは自分と身近な親族までである。そのため自分の死=世界の消滅=親族の死となる」と考察しています。
野田正彰氏によると「残された人が不憫だから道連れにしよう」という心中行為そのものが日本特有のものだそうで、一族全員巻き込んで心中を図るケースというのは非常に稀だとのことです。
母親が「一通の様子がおかしいから見に来て」と頼んだら近隣に住んでいる兄弟姉妹がすぐに集まるという点や、義理の兄までが心配して主治医に連絡した点から見ても、池田家の結束は現代の生活からは想像がつかいないほど強固なものだったのでしょう。
自分は不正受給が原因で逮捕されるかもしれない、そうなれば狭い町内で生きてきた兄弟姉妹にも迷惑がかかる、子どもも病気なのにどうしたら良いのかわからない…。
これらすべてのことに悩み、頭の中を整理できない状態で池田一通が導き出した解決策が「自分の周りの世界を丸ごと消滅させる」ことだったのかもしれません。
熊野一族7人殺害事件の現場の写真は残っている?
2月1日まで現場保全のために被害者の遺体が残されたままになっていたことから、熊野一族7人殺害事件が発生した直後の新聞には、勇左ヱ門さんの遺体が積まれた状態のトラックの写真などが掲載されて物議を醸したといいます。
しかし、現在ではネット上では当時の新聞記事の一部を見ることはできても、被害者の遺体が写された写真を見ることはできません。
親族間の殺傷事件で生き残った被害者もいたこと、そして犯人の自殺によって新しい情報が出なくなったことから、事件は次第に報じられなくなり、写真も多く残らなかったのではないかと考えられています。
また、現場となった池田家も現在は家屋も畑もなくなっており、熊野市二木島町251番地3号という地番も登記簿上に存在するだけで、道具小屋1棟と空き地が広がっているだけだそうです。
なお、上の画像は「熊野一族7人殺害事件の現場」として一時期ネットに出回った廃墟のものですが、これは鱒池亭という三重県伊賀市にある廃旅館です。
どうやらかつてTV番組で熊野一族7人殺害事件の再現VTRが撮られた際にロケ地に鯰池亭が使われていたらしく、そこから事件の現場との噂が出たのではないかと言われています。
熊野一族7人殺害事件の生き残った被害者の現在
熊野一族7人殺害事件の被害者一家のうち、生き残ったのは池田楠美さんと岡本充さん、そして入院していた池田夫妻の長男の3名です。
3名が現在、どのような生活を送っているのかは不明ですが、1980年2月3日に加害者、被害者あわせての葬儀が行われた際には、病気療養中の長男が喪主を務めたと報じられています。
熊野一族7人殺害事件についてのまとめ
今回は1980年1月31日に発生した熊野一族7人殺害事件と犯人・池田一通の人物像、事件の動機や真相考察について紹介しました。
今となってはなぜこのような痛ましい事件が起きてしまったのか、なぜ子煩悩と評判だった人物が幼い我が子にまで手をかけてしまったのか、知る手立てもありません。
しかし、もしもここまで精神的に追い詰められる前に池田一通が専門の医療に繋がっていれば、悲劇は防げたのかもしれません。なんとも遣る瀬なさを感じる事件です。