ピアノ騒音殺人事件の犯人/大濱松三の現在!被害者の奥村家や生存した夫・犯行動機・死刑執行されない理由まとめ

1974年に神奈川県平塚市の県営住宅で起きた日本初の騒音殺人事件「ピアノ騒音殺人事件」が話題です。

 

この記事ではピアノ騒音殺人事件の概要や背景、現場、被害者の奥村家や生存した夫、犯人の大濱松三の犯行動機や死刑判決、死刑執行されない理由や現在などについてまとめました。

ピアノ騒音殺人事件は騒音に腹を立てた男が階下に住む母娘を殺害した事件

 

出典:https://livedoor.blogimg.jp/

 

「ピアノ騒音殺人事件」は、1974年8月28日に神奈川県平塚市の県営住宅で発生した殺人事件です。

 

神奈川県平塚市田村(現在の平塚市横内)の県営住宅「県営横内団地」の4階に妻と2人で住んでいた大濱松三(事件当時46歳)という男が、階下に住む4人家族(父母と娘2人の奥村家)の出す生活音に腹を立てて殺意を募らせ、母親の奥村八重子さん(当時33歳)、長女の奥村まゆみさん(当時8歳)、次女の奥村洋子さん(当時4歳)の母娘3人を包丁で刺すなどして殺害。

 

犯人の大濱松三は事件の数年前から、奥村家の娘が弾くピアノの音や夫の日曜大工の音は自分への嫌がらせだと思い込んで怒りを募らせており、大声で怒鳴り込むなどして度々奥村家と騒音トラブルを起こしていました。

 

ピアノ騒音殺人事件は日本で初めて騒音トラブルが原因で起きた殺人事件としても知られています。この事件が起こるまでの日本の社会では騒音トラブルや防音対策への意識はあまり高くありませんでしたが、この事件をきっかけにして騒音問題への関心が高まりました。

 

事件後にはヘッドホンをつけられる電子ピアノや防音装置などが次々と発売され、集合住宅では壁を厚くするなどの騒音対策が施されるなど社会的にも大きな影響を与えています。

 

 

 

ピアノ騒音殺人事件の経緯

 

出典:https://livedoor.blogimg.jp/

 

「ピアノ騒音殺人事件」の経緯について詳しく見ていきます。

 

 

ピアノ騒音殺人事件に至るまでの犯人の大濱松三と被害者の奥村家のトラブル

 

「ピアノ騒音殺人事件」の約4年半前の1970年4月、犯人の大濱松三は、妻と2人で神奈川県営横内団地34棟4階の406号室に入居。それから約2月後の1970年6月に被害者となる奥村家の家族4人が大濱松三の住む部屋のちょうど真下にあたる3階の306号室に引っ越してきました。

 

この時、奥村家からの挨拶がなかったため、大濱松三は「礼儀作法を弁えない非常識な家族だ」と奥村家に対して悪印象を抱いています。

 

それから間も無くして、奥村家は日曜大工をするようになり、日中に金槌の音などが響くようになりました。次第に大濱松三は奥村家の玄関やベランダのサッシ戸、トイレ、風呂場の扉の開閉音も気にするようになり、階下の奥村家に向け「うるさい」などと怒鳴った事もありました。

 

さらに、大濱松三はこの頃から「団地に住む近所の人々が自分に対し冷たい態度を取っている」と感じるようになり、他の住民とは人付き合いの良い奥村家の妻の八重子さんが、自分と会っても挨拶をしなかった事から「(奥村八重子さんが)近所の人々に自分の悪口を言いふらしている」と思い込み、八重子さんへの憎しみを募らせていきました。

 

1973年11月、奥村家の3畳間の子供部屋に26万円24回払いで購入したピアノが運び込まれます。小学2年生になった長女の奥村まゆみさんがピアノを習い始めたためでした。

 

奥村家では小学校の終わる15時頃から毎日ピアノの練習音が聞こえるようになり、大濱松三はこれにも異常なほどのストレスを感じるようになり、1974年4月には妻と2人で奥村家へ赴き「自分が在宅している時はピアノを弾かないで欲しい」と申し出ています。

 

大濱松三は別の日にも「親が日曜大工でガタガタさせるから子供も遠慮しない。親の教育が悪い」などと苦情を言いに行くも余計に話が拗れ、また別の日に回覧板を持って行った大濱松三に対し、ピアノの騒音を出している長女の奥村まゆみさんが「おじちゃん、人間生きているんだから音は出るのよ」などと挑発的に言い放つような有様でした。

 

 

犯人の大濱松三が追い込まれて精神のバランスを崩す

 

1973年7月頃、大濱松三は持病の偏頭痛が悪化して耳鳴りがするようになり、就労意欲も無くなって生活費もままならなくなって自暴自棄になり、奥村家の夫が包丁を持って自分を刺しに来るという被害妄想も抱くようになります。

 

大濱松三は護身用としてテレビアンテナ用の棒に出刃包丁を取り付けた槍を自作。8月1日頃には、「奥村家がピアノを弾くのを止めないなら奥村八重子さんと、娘2人を殺害しよう」と考えるようになっています。

 

1974年4月頃から、大濱松三は失業中で夫婦仲も冷え切って離婚話も出るようになり、不整脈の症状も出て先行きへの不安からさらに精神的バランスを崩し始めて幻聴も表れ始め神経科も受診しています。

 

そして、大濱松三は6月分と7月分の家賃(月7000円だった)を滞納し、このまま8月分も支払えなければ団地を出て行かざるを得ない状況に追い込まれ、愛想を尽かした妻は東京青梅(八王子市とも)の実家へと帰ってしまいます。

 

この頃には、大濱松三は奥村家から日曜大工の音やピアノの練習音が聞こえるたびに、近くの相模川へ釣りに行くか、私立図書館で読書をしに行くかして自宅から逃避せざるを得ない状態になっています。

そして事件の数日前、大濱松三は奥村家の玄関ドアに「子供が寝ていますので静かにしてください」という張り紙がしてあるのを見つけ「(自分達は騒音を立てているのに)なんと自分勝手な!」と激昂。

 

大濱松三はこの時に奥村家の殺害を決意し、3日後には刃渡り20.5cmの刺身包丁を購入するなど、犯行の準備を始めています。

 

 

ピアノ騒音殺人事件の犯行当日の経緯

 

1974年8月28日、いつもは午前9時頃からなり始めるピアノの音が7時15分頃から聞こえ始めて、大濱松三は目を覚ましました。怒りが頂点に達した大濱松三は、あらかじめ購入していた刺身包丁と腹巻き用のサラシ(首を絞めるために用意)、通報させないよう電話線を切断するためのペンチ、背広などを買い物用袋の中に入れて犯行の準備を行いました。

 

午前9時20分頃に奥村家の夫が出勤し、妻の奥村八重子さんが次女の奥村洋子さんを連れてゴミ当番のためにゴミ集積所へ向かったのを確認した大濱松三は、刺身包丁を手に奥村家へと突入。

 

まず玄関口の電話線をペンチで切断すると、3畳の子供部屋でピアノを弾いていた長女の奥村まゆみさんを襲って刺身包丁で左胸を複数回刺すなどして殺害。

 

大濱松三はその後、襖の影に身を潜めて奥村八重子さんと次女の洋子さんが戻ってくるのを待ち伏せし、先に1人で戻ってきた次女の洋子さんを襲撃して腹などを複数回刺した上、サラシで首を絞めて殺害。

 

大濱松三は長女のまゆみさんと次女の洋子さんを殺害後、子供部屋と隣接する4畳半間を隔てる襖にマジックペンで犯行声明のような以下の文章を殴り書きしています。

 

迷惑をかけているんだからスミマセンの一言位言え。気分の問題だ。来た時アイサツにこないし、しかも馬鹿づらしてガンをとばすとは何事だ。人間、殺人鬼にはなれないものだ

 

この殴り書きをした理由について、大濱松三は後で帰ってくる奥村家の夫に犯行の理由を知らしめるためだったと取り調べや裁判の時に供述しています。

 

大濱松三はそのすぐ後に、ゴミ当番から戻ってきた奥村八重子さんが子供の名前を呼びながら3畳間へと入ってきたところを頸部などを複数回刺身包丁で突き刺して殺害しています。

 

 

犯人の大濱松三の逃亡と自首

 

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犯人の大濱松三は奥村八重子さんと娘2人への復讐を遂げた後、奥村家の玄関を施錠し用としているところを、隣室(305号室)の女性に目撃されたため、4階の自宅へと逃げ帰り、犯行に使用した刺身包丁とサラシ、ペンチ、背広などを手提げ袋に詰めると、手製の槍と釣り道具、リュックサックを持ってすぐに自宅を出てバイクに乗って逃走しています。

 

奥村家の隣室の女性は午前9時15分頃に「隣の部屋で男が暴れている」と110番通報しており、平塚警察署の警察官が駆けつけ奥村家で死亡している奥村八重子さんと奥村まゆみさん、奥村洋子さんの遺体が発見されています。

 

逃亡した大濱松三は、バイクで神奈川県高座郡寒川町方面へと向かい、国鉄相模線の宮山駅近くの農道にバイクを乗り捨てると、タクシーに乗って国鉄茅ケ崎駅まで行き、バスを乗り継いで藤沢市内に入り、清浄光寺山道の小屋の裏に刺身包丁や背広を捨てています。

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その後、大濱松三は東京都大田区蒲田へとバスで移動した後、上野駅から国鉄線越本線で群馬県碓氷郡松井田町横川の横川駅まで移動。この近くで下車して駅近くで野宿しています。翌日の8月29日は再び東京都内へと戻って日中を過ごした後、国鉄横浜線に乗って、神奈川県相模原市の橋本駅へと移動して、路上駐車の車に侵入して夜を明かしています。

 

8月30日には再び東京に移動して、夜には平塚市へと戻り、31日に日付が変わった頃に平塚署へ自首しています。この間について、大濱松三は自殺をしようとさまよい歩いたが、死にきれずに自首する事にしたなどと供述しています。

 

なお、大濱松三はこの逃走中に民家3軒に侵入して衣服を盗む窃盗事件を起こしています。

 

 

 

ピアノ騒音殺人事件の現場は神奈川県営横内団地34号棟で現在も存在

 

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「ピアノ騒音殺人事件」の現場は、神奈川県平塚市横内3907番地にある「神奈川県営横内団地34号棟306号室」です。(現場の当時の住所は神奈川県平塚市田村3907番地)

 

ピアノ騒音殺人事件の現場となった「神奈川県営横内団地34号棟」は現在も同じ場所に存在しています。

 

ピアノ騒音殺人事件の現場の神奈川県営横内団地の周辺地図

 

 

 

 

ピアノ騒音殺人事件の被害者は主婦の奥村八重子さんと幼い娘2人

 

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事件の経緯のところでも書いていますが、ピアノ騒音殺人事件の被害者は、犯人の大濱松三の自宅の真下の部屋に住んでいた母親の奥村八重子さん(当時33歳の主婦)と、その長女の奥村まゆみさん(当時8歳の小学2年生)、次女の奥村洋子さん(当時4歳)の3人です。

 

上の画像の中央が被害者の奥村八重子さん、正面から見て右がピアノで騒音を出していた奥村まゆみさん、左が次女の奥村洋子さんです。

 

犯人の大濱松三は特に奥村八重子さんに対して強い恨みを抱いており、八重子さんが団地の他の住人に自分の悪口を言いふらしていると妄想していました。

 

 

 

ピアノ騒音殺人事件の被害者の奥村八重子さんの夫

 

ピアノ騒音殺人事件の被害者の奥村八重子さんの夫については特に情報が公開されていません。

 

奥村八重子さんの夫は年齢や職業なども明かされておらず、現在何歳でどこで何をしているのかや、事件後にどのような人生を送ったのか、現在も生存しているのかなどは不明です。

 

また、奥村八重子さんの夫はピアノ騒音殺人事件の原因の1つともいえ、日曜大工が趣味だったために休みの日に音を立てており、それが大濱松三が殺意を募らせる原因になっています。

 

犯人の大濱松三はこの奥村八重子さんの夫の日曜大工に対しても何度か抗議していたようですが、夫が日曜大工を一向に止めようとしなかった事も奥村家への恨みを募らせる事につながり事件の原因の1つとなりました。

 

その他、大濱松三はこの奥村八重子さんの夫に恐怖心を抱いていたらしく、いつかこの夫が自分を刺しに来るという被害妄想も抱いていたようです。

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この奥村八重子さんの夫は、八重子さんの兄と共に裁判に出廷し、大濱松三の死刑を求めています。

 

 

 

ピアノ騒音殺人事件の犯人の大濱松三の生い立ち① 小学校〜旧制中学時代

 

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「ピアノ騒音殺人事件」の犯人の大濱松三の生い立ちについても見ていきます。

 

大濱松三は1928年6月4日に、東京府東京市亀戸町3丁目54番地(現在の東京都江東区亀戸)で書店を経営する家の次男として生まれています。

 

 

大濱松三の実家は当時は借金を抱えており、両親は仕事に忙殺されて子供達へのしつけや世話は不十分だったようです。

 

ただ、大濱松三は小学校時代までは明るく活発な性格で学校の成績も優秀だったようです。しかし、1938年頃(10歳頃)に、近所に住む吃音症の子供と遊んでそのモノマネをしているうちに自分も難発性吃音症となり、次第に無口で内向的な性格へと変わっていったようです。

 

その後、大濱松三は旧制錦城中学校へと進学しましたが、中学1年生の時に国語の教科書を読まされた際に、ひらがなを読めずに途中で放棄するという屈辱的な体験をして強い劣等感を持ち、学業への意欲も失って成績も悪化し、さらに暗く内向的な性格になっていきました。

 

 

 

ピアノ騒音殺人事件の犯人の大濱松三の生い立ち② 中学卒業後は職を転々

 

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1945年3月に旧制錦城中学校を卒業した大濱松三は、太平洋戦争終結までは山梨県北都留郡上野原町(現在の上野原市)の軍需工場で勤務しています。

 

戦争終結後は一時は親類の経営する鉄工所で働くなどしましたが、吃音の症状が一層酷くなるなどして職場では身勝手な行動を取り勤労態度も不真面目だったようです。

 

ほどなくして大濱松三は親元を離れて1人で生計を立てるようになり、18歳だった1947年5月には国鉄(現在のJR東日本)の中央本線・国立駅に就職しています。

 

しかし、1950年春に友人に誘われて競輪に行った際にたまたま大穴を当てた事でギャンブルにのめり込むようになり切符の売上金を使い込むなどした上、1950年9月には分納金39000円を持ち逃げして、向島の娼婦のところでその金を1ヶ月ほどで使い果たし、逃走中の10月に金に困って駅の定期券売り場で現金2000円をひったくろうとして逮捕されています。この時には懲役1年執行猶予3年の判決を受けています。

 

そのために国鉄を退職する事になり、以降は東京と神奈川県内で職を転々とし、一時は山梨県の実家に戻って農作業や山仕事の手伝いをし、1951年からは旋盤工場で働くも長続きせずに、神経性の頭痛を患っために1953年頃に実家に戻り、その後は定職につかずにブラブラとしています。

 

その後、兄に叱責されたため、大濱松三は逃げ出すように実家を出て新橋界隈で約1年にわたってホームレス生活を送っています。この頃は日雇いの肉体労働をして生活していましたが、ある時に人生に絶望して橋の上から飛び降り自殺を試みています。しかしこの時には「まだ結婚もしていないのに」と思いとどまり、再び山梨県の実家に戻っています。

 

 

 

ピアノ騒音殺人事件の犯人の大濱松三の生い立ち③ 音に対し病的に敏感に

 

1959年5月、大濱松三は最初の結婚をし、妻の実家の農家に婿養子に入っています。しかし、妻が別れた前夫に会っていた事などに腹を立てた大濱松三は家を出て別居するようになり、1960年4月には妻からの申し立てによる離婚調停を経て、1960年11月に大濱松三が30000円を受け取る事で離婚が成立しています。

 

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大濱松三は離婚前の1959年から妻と別居して東京都八王子市並木町のアパートに住んでおり、1963年まで住んでいます。1963年頃には日野自動車に勤務していましたが、この頃に隣人家族から「ステレオの男がうるさい」と苦情を受け、これをきっかけに物音に対して異常に敏感になり、神経過敏になって早朝のスズメの鳴き声すらもうるさく感じられるようになりました。

 

また、当時、大濱松三は夜間勤務後に早朝から昼間まで眠る事がありましたが、その時に「ドカーン」という激しい音で目が覚めるようになり、これを「ステレオがうるさい」と苦情を言ってきた隣人家族の主婦の嫌がらせだと考えるようなっています。

 

 

 

ピアノ騒音殺人事件の犯人の大濱松三の生い立ち④ 2度目の結婚から事件まで

 

大濱松三は1965年4月には親戚が経営する神奈川県内の鉄工所で働き、知人の紹介を受けて2度目の結婚をしています。

 

しかし、大濱松三が物音に異常に敏感だったため妻との夫婦仲は当初からあまり良くなく、大濱松三は妻に対し、些細な事で殴る小突くなどの暴力行為を働いていました。

 

1967年頃からは大濱松三と妻は八王子市内の会社の社員寮に住み込みながら、大濱松三はボイラーマン、妻は寮の管理人として働き始めています。しかし、大濱松三は寮生の話し声や麻雀の音などを気にして何度も怒鳴り口調で注意し、多数の寮生と激しく揉めるようになって1968年には退職する事となります。

 

その後、大濱松三は1969年5月〜1970年7月にかけては、平塚市内の小松電子金属(現在のSUMCO TECHXIV)に勤務しています。会社内では内向的で身立たない存在と見られていたようです。

 

ピアノ騒音殺人事件の現場となる神奈川県営横内団地34棟4階の406号室には、1970年4月に入居しており、小松電子金属退職後は平塚市内の車体部品製造会社に工員として勤務しています。しかし、ここも1973年7月に「仕事に飽きた」事を理由に退職。

 

その後は失業保険を受給して生活していますが、就労意欲を持たずに釣りをしたり図書館に行ったりして無為の日々を送っていたようです。

 

しかし1974年7月頃には生活費も底をつき、家賃を滞納するなどしていました。

 

そして、1974年8月28日に大濱松三はピアノ騒音殺人事件を引き起こす事になります。

 

 

 

ピアノ騒音殺人事件の犯人の大濱松三の動機は奥村家の騒音に対する激しい怒り

 

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「ピアノ騒音殺人事件」の犯人の大濱松三が、被害者の奥村八重子さん、奥村まゆみさん、奥村洋子さんの母娘3人を殺害した動機は、横浜地方裁判所小田原支部判決文によると「被害者方から発されていた物音に対し、加害者大濱松三が『自分への嫌がらせのためだ』と思い込んだこと」とされています。

 

また、大濱松三は裁判では動機として「死刑になりたかったから被害者3人を殺害した」などと供述しています。

 

大濱松三は、病的な神経過敏であり、些細な物音も騒音に感じていましたが、自分の感覚がおかしいとは考えずに、奥村家の出す生活音を全て自分に対する嫌がらせだと思い込んでおり、被害妄想によって殺意を募らせた事が動機につながったと見られています。

 

 

 

ピアノ騒音殺人事件の犯人の大濱松三の判決は死刑

 

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「ピアノ騒音殺人事件」の裁判は1974年10月28日に横浜地裁小田原支部で始まり、犯人の大濱松三に対する精神鑑定も行われ「被告人大濱松三は精神病質者だが、犯行時に心神耗弱状態だった点は認められない」とする鑑定結果が示されています。

 

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1975年5月12日の第7回公判では、大濱松三の妻(事件後に離婚している)も弁護側の証人として出廷し、大濱松三については「怠け者なので離婚しようとずっと思っていた」と厳しい証言をした上で、奥村家が出していたピアノの音に関しては「自分にも度を過ぎて聞こえていた」と証言しています。

 

大濱松三の妻は、苦情を言いに行った翌日から朝7時から夜9時の間にピアノの練習が始まった事、大濱松三が帰宅するとそれに合わせたかのように奥村家でピアノが弾かれ始める事がしばしばあった事などを証言しており、被害者の奥村家側にも一定の非があった事を主張しています。

 

1975年6月2日の第8回公判では、大濱松三への被告人質問が行われましたが、大濱は被害者に対して「申し訳ないという気持ちはない」、犯行の動機も「死刑になりたくてやった」などと供述しています。

1975年8月11日の第9回公判では、検察側が大濱松三に死刑を求刑。大濱松三は最終陳述で「私としては、死刑台の椅子に座りたい、それだけです」と死刑判決を望んでいる事を述べています。

 

1975年10月20日の判決公判では、求刑通り死刑の判決が大濱松三に下されています。

この第一審の前、「騒音被害者の会」が緊急会議を開いて大濱松三の支援を決議しており、騒音問題に理解のある弁護士を立てる事を決めています。しかし、大濱松三は死刑を望んでいて裁判で争う気が無かったためその申し出を断り、結局、国選弁護人が弁護を担当しています。

 

また、第一審の間に騒音被害者の会が中心となって助命嘆願活動が行われており、100通近い嘆願書も集まっていました。

 

第一審の死刑判決を受けて、大濱松三は「騒音の苦痛や無期懲役より、ひと思いに死んだ方がいい」として控訴する意思を示しませんでしたが、弁護人は大濱松三の意思を無視して控訴手続きを取っています。

 

1975年5月11日に東京高裁で控訴審が開かれました。「騒音被害者の会」はこの時にも弁護人の推薦を申し出ていますが、大濱松三は再びこれを断り、国選弁護人が弁護を担当しています。

控訴審では弁護人が依頼した精神鑑定の結果が示され、「被告人は本件犯行当時、偏執病に罹患しており、妄想に基づいて殺人行為を実行した」、「事理弁識能力を欠いており、妄想に動機づけられた本件犯行の殺人に関して責任無能力が認められるべき」とする鑑定結果を示しました。
 

この鑑定結果は、大濱松三の無罪の可能性や減刑になる公算を示すものでしたが、大濱松三は留置先の隣の房の水洗便所の音にも耐え難い苦痛を抱くようになり、無期懲役になるくらいなら死刑になりたいと強く望んで弁護人の知らぬまに控訴取り下げの手続きを行ってしまいます。

 

弁護人は「この控訴取下げは妄想に基づくものであり、無効である」との申し立てを行いましたが、1977年4月11日に高裁は異議申し立て棄却を決定し、1977年4月16日に最高裁への特別抗告の期限が切れた事を持って、大濱松三の死刑判決が確定しました。

 

 

 

ピアノ騒音殺人事件の犯人の大濱松三の現在…死刑は執行されないまま

 

「ピアノ騒音殺人事件」では犯人の大濱松三の死刑判決が確定していますが、現在も大濱松三の死刑は執行されないままになっています。

 

大濱松三は現在も生存しており、現在は94歳で日本国内で最高齢の死刑囚となっています。

 

大濱松三は現在も死刑確定囚として東京拘置所に収監されている事がわかっています。

 

 

 

ピアノ騒音殺人事件の犯人の大濱松三の死刑が執行されない理由

 

「ピアノ騒音殺人事件」の犯人である大濱松三は1977年に死刑判決が確定しながら、50年近くにわたって死刑が執行されないままになっています。

 

大濱松三の死刑が執行されない理由は明かされておらず不明ですが、大濱松三が拘置所内で精神に異常をきたしているため死刑が執行されないとの見方が有力です。

 

大濱松三は裁判でも小さな物音すら耐え難い騒音に感じると訴えており、拘禁症状あるいは統合失調症のような症状が出ており、廃人のような状態になっているのではないかと推測する見方もあり、そのような状態にあるため死刑が執行されないのだろうと推測されています。

 

 

 

まとめ

 

今回は、1974年8月28日に神奈川県平塚市の県営住宅で発生した日本初の騒音トラブルによる殺人事件「ピアノ騒音殺人事件」についてまとめてみました。

 

ピアノ騒音殺人事件は、「県営横内団地」の4階に住んでいた犯人の大濱松三という男が、真下の部屋に住んでいた奥村家の母親の奥村八重子さん、当時8歳の長女と当時4歳の次女の3人を包丁で刺して殺害した事件です。

 

ピアノ騒音殺人事件の現場となったのは、神奈川県平塚市横内3907番地にある「神奈川県営横内団地34号棟306号室」で、現在も同じ場所に存在しています。

 

被害者の奥村家は、事件の数年前から騒音をめぐって犯人の大濱松三とトラブルを抱えており、動機は大濱松三が音に対する病的なまでに過敏になり、奥村家の出すピアノの練習音や夫の日曜大工の音に対して恨みや殺意を募らせた事でした。

 

ピアノ騒音殺人事件の犯人の大濱松三に対する判決は死刑が確定しています。しかし、死刑判決確定から50年近くが経過した現在も大濱松三の死刑は執行されないままです。

 

大濱松三の死刑が執行されない理由は、大濱松三が精神病を悪化させて、拘置所内で廃人のような状態になっているためではないかと推測されています。

 

大濱松三は現在は94歳になっており、日本国内で最高齢の死刑囚となっています。大濱松三は現在も東京拘置所に死刑確定囚として収監されています。

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