1992年、日本人旅行者ら5名がメルボルン空港でヘロイン密輸の罪で逮捕されました。今回は日本人が運び屋にされ、個人通報が行われたメルボルン事件について真相や犯人、自業自得との声、犯人とされた本多千香さんらのその後や現在を紹介します。
この記事の目次
メルボルン事件の概要
1992年6月16日、日本からクアラルンプールを経由してオーストラリアのメルボルン空港に到着した旅行者グループのスーツケースから、13㎏ものヘロインが発見されるという事件が起こりました。
日本人7人からなる旅行グループが所持していたスーツケースは底が二重になっており、その二重底の間にヘロインが隠されていたとされます。
当然ながら、その場でグループ全員が身柄を拘束されることに。そして、7人のうちヘロインの入ったスーツケースの持ち主である4人と、旅行を企画したグループのリーダー的存在の男性1名が違法薬物密輸罪で逮捕されました。
一見すると言い逃れのできない密輸犯にしか見えない5人。しかし、この話の裏には奇妙な事情があったのです。
実はこの前日の6月15日、一行はマレーシアのクアラルンプールで、スーツケースごと荷物を盗まれるというトラブルに見舞われていました。
すぐに荷物はすべて見つかったものの、スーツケースだけはボロボロに破壊された姿で発見されたといいます。
そして、クアラルンプールにいたグループのリーダー男性の知人が代わりにと壊された4人分のスーツケースを調達し、これを持って4人はオーストラリアに渡り、メルボルン空港で捕まったのでした。
つまりリーダー男性の知人が渡してきたスーツケースには、あらかじめ細工がされてヘロインを隠されており、4人は何も知らずに麻薬の運び屋をやらされていたわけです。
こうして4人は逮捕されることとなり、グループのリーダー男性も麻薬密輸の首謀者として同時に逮捕されました。
逮捕後、5人はオーストラリア当局に事情を話して無罪を訴えましたが、現地では「麻薬を持っていればそれだけで逮捕」という考えが取られており、彼らの主張は無視されてしまったといいます。
そのまま5人はオーストラリアで裁判にかけられ、有罪判決を受けることに。冤罪を主張しながら、10年以上も異国の地で服役することになったのです。
メルボルン事件で犯人として逮捕された人物と関係者一覧
メルボルン事件で犯人として逮捕されたのは、以下の5人です。このうち、クアラルンプールでヘロインの入ったスーツケースを手渡されていたのは、勝野正治さん、光男さん、浅見喜一郎さん、本多千香さんの4人です。
・勝野良男さん(当時34歳)
・勝野正治さん(当時43歳)
・勝野光男さん(当時36歳)
・浅見喜一郎さん(当時60歳)
・本多千香さん(当時36歳)
勝野姓の3人は全員兄弟で、長男が正治さん、次男が光男さん、三男が良男さんとなります。
この3人のうち、良男さんがメルボルンへのツアーを計画したグループのリーダー的な存在です。
良男さんは元暴力団関係者で、公文書偽造や拳銃所持などの逮捕歴がありました。事件前は輸入雑貨商をしており、頻繁に仕入れのためにマレーシアへ渡航していたといい、正治さん、光男さんとは疎遠だったとのことです。
オーストラリア旅行の直前に刑務所から出所して2人の兄に連絡をし、「オーストラリア旅行を企画しているので、誰か同行者を誘ってほしい。旅費はこっちで持つ」と言ってきたといいます。
この良男さんの誘いを受けて、光男さんは本多千香さんに旅行の話を持ち掛けました。
本多さんは当時、美容関係の専門学校に通いながら埼玉県内のパブで働いました。
そして店の常連客であった光男さんから「弟がオーストラリア旅行を企画しているんだけど、一緒にどう?費用は出すよ」と誘われて、旅行に同行したといいます。
ほかのメンバーについては最年長である浅見喜一郎さんは良男さんの知人、逮捕を免れた残りの2人は良男さんの知人女性と、さらにその友人の女性。
なお、荷物からヘロインが発見されなかった女性2人はメルボルンから日本へ強制送還されました。
そのほかの事件関係者
ツアー関係者のほか、トランクが盗まれた時にクアラルンプールのレストランで一緒に食事をしていた「チャーリー」という現地の男性も、メルボルン事件に関与していると見られています。
このチャーリーという男はクアラルンプールでガイドの仕事をしていたといい、新しいスーツケースの手配もチャーリーがしていました。
メルボルン事件の時系列① 出発~スーツケース盗難事件
1992年6月15日の午前、勝野兄弟の呼びかけで集まった男女7人が成田空港からマレーシアのクアラルンプールに向けて飛び立ちました。
旅行の日程はクアラルンプールで一泊してからオーストラリアに向かい、メルボルンで一泊、シドニーで一泊してから、同じ経路で日本に帰国するというものだったとのことです。
わざわざマレーシアに立ち寄る理由は、クアラルンプールにいるという良男さんの知人と合流し、一緒にオーストラリアに向かうからだと本多さんは説明を受けていたそうです。
しかし、クアラルンプールに到着してチャーリーと合流して現地の日本食レストラン「サクラレストラン」で食事をしていた最中に、全員のスーツケースを乗せたバンが駐車場から盗まれるという事件が発生します。
早々のトラブルに一行は焦り、「お金がなくなったらどうしたらいいのか」と騒ぎになりました。
ところが翌日の朝、チャーリーから一行のもとに「盗まれたスーツケースが見つかった」という連絡が入ります。
安堵する一行ですが、チャーリーがホテルに持ってきたのはなぜか真新しいスーツケース4つ。
なんでも盗まれたスーツケースのうち4つはズタズタに切り裂かれて使えないような状態になっており、急遽代わりのスーツケースを用意したのだといいます。
不思議なことにスーツケースの中身は盗まれていなかったとのことで、新しいスーツケースにそっくり荷物が入れ替えられていました。
後に本多千香さんは「私のスーツケースは鍵がかかっていなかったので、中身を盗むのが目的ならスーツケースを壊す必要はなかった」と証言しており、当時からスーツケース盗難事件に不信感を持っていたことを明かしています。
同じくスーツケースを盗まれた正治さんも、「新しいスーツケースにはほとんどすべての私物が入っていたので、不審に思う点はあっても良しとしようと思った」と話していました。
メルボルン事件の時系列② ヘロインが発見される
トラブルに見舞われたものの、予定通り16日にクアラルンプールを出発してメルボルン空港に到着した一行。
しかし、入国管理を通ろうとしたところ「日本人グループはこっちに」と止められて荷物検査を受けることになります。
止められた原因は良男さんの風貌が怪しく感じられたからでしたが、全員の手荷物をX線検査にかけたところ、朝にチャーリーから新しいスーツケースを受け取った4人の荷物からヘロインが発見されたのです。
もちろん4人はヘロインの所持に心当たりなどありませんし、当初は何を言われているのかまったくわからなかったといいます。
しかし、入管局員がスーツケースの底を裂いたところ二重底に細工されており、そこから大量のヘロインが出てきたのです。
隠されていたヘロインは、4つのスーツケースをあわせて13㎏にものぼりました。
本多さんは「新しいスーツケースを手渡された時、『あれ?重い気がする』と感じた」と言いますが、当時は親切でチャーリーはスーツケースを用意してくれたのだと思っていたため深く考えなかったそうです。
メルボルン事件の時系列③ 逮捕から有罪判決まで
7人は身柄を拘束され、荷物から薬物が見つからなかった2人の女性を除く5人が逮捕されることとなります。
もちろん本多さんら4人は、マレーシアでもともと持っていたスーツケースが盗まれ、現地ガイドから代わりにと渡されたのがこのスーツケースだ、自分たちは騙されただけでヘロインを運んでいたことは知らないと必死に主張しました。
しかし、取り調べの際に同席したのは片言の日本語しか話せず、日本語の理解も乏しいオーストラリア人の通訳で、4人の主張は警察には伝わりませんでした。
しかもこの通訳は1994年に開始した裁判でも同席することとなり、裁判でも無罪の主張は認めてもらえず、本多さんら4人は懲役15年が言い渡されてしまいます。
またヘロインを所持しておらず、麻薬密輸に関わった決定的な証拠のなかった良男さんも、事件の首謀者と判断されて懲役20年の判決が下りました。
こうして5人は言い分も聞いてもらえずにオーストラリアの刑務所に収監されることとなったのですが、男性4人は同じ刑務所に移送されたものの、女性の本多さんは1人だけ別の刑務所に行くことに。
言葉も通じない国で、囚人に囲まれてたった1人で過ごすことになってしまったのです。
メルボルン事件の時系列④ 日本の弁護団が冤罪を訴えて個人通報へ
一方、日本でもメルボルン事件のことは取り上げられ、メディアは冤罪、不当逮捕だと報じていました。
しかし外務省は報道を受けても「内政干渉になる」としてオーストラリアへの働きかけを行いませんでした。
そこで立ち上がったのが、山下潔弁護士を中心とした3名からなる日本人弁護団です。
山下弁護士は1996年5月にオーストラリアに渡り、本多千香さんらと面会をして事情を聞き、現地での裁判は正当なものではなかったと判断。
ジュネーブ自由権規約委員会に「正当な裁判を経ずに身柄を拘束されている日本人がいる、これは人権侵害にあたる」と、個人通報を行う準備を始めました。
なお、個人通報とは以下のような制度で、国連で採択されている第一選択議定書を批准している国によって人権侵害を受けたと感じた場合には、国籍を問わずに救済を求められるとされています。
個人通報制度とは,人権諸条約において定められた権利の侵害の被害者と主張する個人等が,条約に基づき設置された委員会に通報し,委員会はこれを検討の上,見解又は勧告を各締約国等に通知する制度です。
引用:個人通報制度
ここまで献身的に動いてくれる弁護士が日本にいるのなら、なぜ裁判の時にひどい判決が下されてしまったのだろうか、裁判の時にも助けてくれればよかったのにと思う方もいるかもしれません。
しかし、山下弁護士らはあくまでも日本の弁護士であるため、裁判で弁護ができるのは日本国内で起きた犯罪のみ。いくら日本人が被告人でも他国が管轄の裁判では法廷に立てないのです。
そのため判決が下ってから個人通報で裁判のやり直しを求めるという、過去に日本ではとられたことのない方法を選んだのでしょう。
メルボルン事件の時系列⑤ 個人通報は却下されてしまう
弁護団は裁判のやり直しを求める準備として、4人をヘロインの運び屋に仕立て上げた疑いがあるチャーリーを探すことにしました。
そしてチャーリーが別件で逮捕されていることを突き止めてマレーシアに渡り、面会を申し入れます。
すると意外にもチャーリーは4人を騙して運び屋にしたことをあっさりと認め、反省まで見せたそうです。ところが釈放されると姿をくらましてしまい、証人として裁判に出廷させることは困難になってしまいます。
証人には逃げられてしまったものの、証言はとれたこともあり1998年9月についに山下弁護士らによってジュネーブ自由権規約委員会へ個人通報が行われました。この時には日本側の弁護団は総勢42名にまでなっていたといいます。
なお、この時に日本の弁護団が救済を求めたのは本多千香さん、浅見喜一郎さん、勝野正治さん、光男さんの4人のみです。
麻薬密輸の主犯格として有罪判決を受けた勝野良男さんは個人通報の対象には含まれず、2001年になってから遅れて追加されました。
個人通報を受けた委員会はオーストラリアの司法当局に確認を取り、日本の弁護団とオーストラリア双方の主張を聞き取りながら裁判のやり直しを認めるか否かの審理を開始しました。
弁護団は「逮捕や裁判の際に担当についた通訳に十分な日本語能力がなかったため、4人の主張が伝わらなかった」と訴え、新しい通訳をつけての裁判のやり直しを求めたとされます。
しかし、2006年11月にジュネーブ自由権規約委員会は個人通報の申し立ての却下を決定。
その理由は「通訳のせいで意思疎通ができていないと感じたのなら、被告人が自ら控訴してその点を訴えればよかった」というものだったそうです。
言葉も伝わらない国で孤立無援状態、身に覚えのないことで逮捕、起訴された4人にそこまで求めるのはあまりにも酷ではないかと感じます。
また、申し立てから8年も経ってから棄却決定がされるのか、時間がかかりすぎではないのかという点にも驚きが隠せません。
メルボルン事件の犯人とされた本多千香さんらの現在・その後
個人通報は棄却されてしまいましたが、この決定がされる前の2002年11月に運び屋にされた4人は仮釈放となって日本に帰国していました。
当時の報道では4人が無事に日本に戻れたことを喜びあう姿なども報道されましたが、2018年になって『爆報!THE フライデー』に出演した本多千香さんの話からすると獄中生活は非常に過酷であったことが窺えます。
模範囚として6人一部屋のコテージのような雑居房に収監された本多さんでしたが、小柄で言葉が通じないことからコーヒーに大量の待ち針を入れられるなどの酷いいじめを受刑者から受け、刑務官からも嫌がらせを受ける日々が続いたそうです。
庇ってくれる優しい受刑者にも出会えたものの、収監されてから日が経つにつれて「なんでここにいるのだろう」「日本に帰りたい」との思いが強くなり、精神安定剤を服用するように。
そして1999年4月には、精神状態が限界を迎えて作業場から持ち帰ったハサミで手首を切って自殺未遂を図るという事件を起こしてしまいました。
一命をとりとめた本多さんのことを仲の良い受刑者らは「千香は模範囚だから、もうすぐ出られるよ」「あと2年、頑張れば日本に帰れるよ」と励ましてくれたといいます。
しかし、励ましを受けるうちに今度は「こんなに刑務所で歳を重ねてしまって、帰国してどう生きたらいいのか」と釈放されることが怖くなり、さらに苦しむようになっていったそうです。
『爆報!THE フライデー』出演時の話によると、帰国後の本多さんはさいたま市内のパブで裏方として働いているとのことです。
そして、釈放されて新しい生活を始めた現在も「失った時間は戻らなくても、せめて冤罪であったことだけは証明したい」と日々願っているといいます。
男性3人のその後
同じく冤罪で10年もの年月を奪われてしまった浅見喜一郎さん、勝野正治さん、光男さんの3人は、帰国後それぞれ家族のもとで暮らしているとのことです。
70歳を過ぎて帰国した浅見さんは東京で暮らす息子のもとへ、正治さん、光男さん兄弟はそれぞれ北海道の実家に戻ったと報じられています。
主犯格・勝野良男のその後
メルボルン事件で犯人として有罪判決を受けた5人のうち、唯一冤罪ではない可能性が考えられる勝野良男さん。
メルボルンの刑務所に入ってからは現地の牧師の支援を受けて獄中で洗礼を受け、キリスト教信者になったといいます。
洗礼を受けてからは人が変わったように真面目に刑務作業に取り組んでいたそうです。
2006年までに仮釈放されているとのことですが、その後はどのように暮らしているのかは不明です。
メルボルン事件の真相とは
当初から日本では運び屋の4人は何も知らずに利用された被害者で、ツアーを企画した勝野良男さんと、クアラルンプールで合流したガイドのチャーリーが組んでいたのではないかと疑われていました。
とくに本多さんと浅見さんの2人は良男さんと面識さえなかったことから、密輸計画に巻き込まれた被害者としか考えられません。
前述したとおり、支援弁護団の面会時にチャーリーは「悪いことをした」と話しており、自分が麻薬密輸に関与していたことを認めています。
さらに、2003年に長野智子さんが出版した、本多千香さんの獄中日記や取材内容をまとめた書籍『麻薬の運び屋にされて』や、2006年にテレビ朝日系列で放送された『ザ・スクープ』などのメルボルン事件を特集した番組から、良男さんとチャーリーの背後には大規模な組織がいた可能性も浮かび上がっています。
「後からメルボルンに向かって合流する」といって一行と一緒に飛行機に乗らなかったチャーリーは、事件発覚時にもマレーシアにいたものと思われます。
少なくとも一行が身柄を拘束された際にはオーストラリアにいなかったため、起訴はおろか取り調べさえ受けていませんし、証人としてさえ裁判には出廷していません。
事件の真相を知るためにはチャーリーから話を聞くことが必須と考えた日本のメディアは、これまでチャーリーの行方を捜してマレーシアに渡っているのですが、どの番組も本人の足取りさえつかめずに帰国しています。
そのためメルボルン事件の真相は完全には明かされていないのですが、おそらく良男さんとチャーリーは国際シンジケートが共謀して密輸計画を立てたのではないか、という説が有力視されています。
メルボルン事件は自業自得?
メルボルン事件で逮捕された4人が仮釈放される前後、「どうやら海外で麻薬密輸に関わった日本人が帰国するらしい」という情報だけを得た人々が、2ちゃんねるなどに「10年間服役でも自業自得ではないか」といったことを書き込んでいました。
しかし、ほかのユーザーから「事件の全貌を調べてから書き込め」「どこが自業自得なんだよ」とたしなめられていた様子です。
ただメルボルン事件から教訓を得るとするならば、よく知らない「個人」が計画したツアーには、有償であれ無償であれ参加しないほうが良いということでしょう。
旅行会社の企画型ツアーであれば万が一同じような目に遭ったとしても、代理店がトラブル対応をしてくれるなどの保証がありますし、個人企画の旅行や現地手配型のツアーと比べて事件に巻き込まれる危険性も下がります。
また、どんな事情があったとしても私物ではない荷物を持ち込まないこと、持ち出さないことも海外旅行時には大切です。
たとえば現地の知人からもらったお土産の中身を確認せずに空港に行ったら、罰金を取られてしまったというケースも存在します。
メルボルン事件は決して、冤罪の被害者となった方々の自業自得で起きた事件ではありません。
しかし誰もが本多さんたちと同じ目に遭いかねない危険性をはらんだ事件ですから、この事件から学べることも多いと言えるでしょう。
メルボルン事件についてのまとめ
今回は1992年に起きた海外での冤罪事件、メルボルン事件について紹介しました。
メルボルン事件は冤罪の被害者と弁護団の方々以外は信用できる人物がまったく出てこない、なんとも嫌な気持ちにさせられる事件です。
国内でも冤罪事件は起こっていますが、こんな杜撰な取り調べで有罪判決を受けて、その後の救済措置も何年も待たされた挙句に認められないのかと唖然とします。
失った時間は戻らないといえども、せめて汚名を着せられた方々の無罪が証明されてほしいと願うばかりです。