地震や洪水など日本では様々な災害が発生しますが、火山の噴火も日本で頻発する災害の1つです。そして、火山の噴火よる災害の中で戦後最大級の人的被害をもたらしたのが1991年の雲仙普賢岳の噴火です。
1991年の雲仙普賢岳の噴火の詳細や当時の動画、死者数、死者の中にマスコミ・記者が多かった理由、消防団員が亡くなった理由、遺体の状況や慰霊碑、その後と現在をまとめました。
この記事の目次
雲仙普賢岳は1991年に大噴火した火山群

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雲仙普賢岳は長崎県の島原半島中央部にある火山です。長崎県島原市、南島原市、雲仙市にまたがるように位置する「雲仙岳」は20以上の山々からなる火山群の総称で、普賢岳が雲仙岳の主峰になります。
雲仙普賢岳の標高は1,359mでしたが、1991年の噴火で平成新山ができたので1,483mになっています。古くから温泉が湧く温泉山と呼ばれていて、霊山として山岳信仰(修験道)が栄えていましたが、江戸時代には1663~1664年に噴火、さらに1792年にも噴火しました。
1792年の噴火では山体崩壊とこれによる津波災害が起こり、死者・行方不明者1万5000人という大規模な被害をもたらしました。
雲仙普賢岳は1991年にも大規模な噴火があり、火砕流・土石流により死者・行方不明者が43人、さらに建物被害は2,511棟、避難対象者は約11,000人という戦後最悪の火山災害となりました。
雲仙普賢岳の火山噴火の詳細
1990年から火山活動が活発化

雲仙普賢岳は1968年頃から火山活動期に入り、群発地震が起こったり、火山性ガスが噴出したりしていました。そして、1990年11月16日、雲仙普賢岳の山頂付近にある神社周辺から噴煙が立ち上り、噴火が観測されます。
当初は熱水の吹き上げと雲煙のみで、1990年12月には小康状態となったため、このまま終息するかと思われましたが、1991年2月12日に再び噴火、さらに4月にも2回噴火を起こし、5月15日には水無川で降り積もった火山灰による土石流が発生しました。
その後も立て続けに土石流が発生しましたが、島原市は水無川流域の住民に対し、避難勧告をその都度行い、避難はスムーズに行われたため、この時点で人的被害はありませんでした。
1991年5月24日に火砕流が発生

それまでの状況が変わったのは1991年5月20日。
地獄跡火口から溶岩が噴出する様子が観測され、溶岩ドームが形成されました。その直径は40m!5月21日はこの溶岩ドームは4つに割れます。
そして、5月24日にはこの割れた溶岩ドームの一部が溶岩塊として崩落し、火砕流になりました。
火砕流とは、マグマ由来の火山噴出物(火山灰や軽石等)とガス成分(水蒸気や火山ガス)が混ざったものが、山腹を高速度で流下する現象のことです。
火砕流は気体と固体が混ざり合ったもので、数百℃以上になります。それが高速で山腹を駆け下りてくるのです。
1991年の雲仙普賢岳の噴火による火砕流は600℃で最高時速100キロだったそうです。
1991年に噴火した雲仙普賢岳の火砕流は600度ぐらいで、これは実測してわかりました。600度だから人間を含めてすべての生物は生きられない高温で、それが一気に流れ下った。
それに火砕流が流れる速度はとても速くて、最大で時速100キロメートル。ただ、これは推定で、実際にそこまで大きな噴火の火砕流の速度を測定した例はありません。
引用:【京大名誉教授が教える】時速100キロメートル、人間を含めてすべての生物は生きられない600度の高温…驚くべき「火砕流」の正体とは? | 大人のための地学の教室 | ダイヤモンド・オンライン
1991年5月24日から、雲仙普賢岳ではこの恐ろしい火砕流が頻発するようになりました。
5月26日の水無川の火砕流は2.5kmも流下して、民家までわずか500mの場所まで到達しました。また同日にはダムの作業員が火砕流で火傷を負い、災害対策基本法に基づく最初の避難勧告が上木場地区に出されました。
5月29日には火砕流が民家まで200mのところまで到達し、さらに山火事を発生させています。
1991年6月3日に大火砕流が発生

火砕流をテレビカメラなどで撮影しテレビで放送したり、鮮明な映像で記録できたことは世界でも初めてのことで、マスコミや火山学者、行政関係者などが避難勧告地域に立ち入り、取材や撮影、調査などを行っていました。
また、テレビで火砕流の映像を見て、多くの見物客が雲仙普賢岳近くに押し寄せるようになり、6月2日は日曜日だったこともあり、近くの国道57号は見物客等で渋滞が起きたほどでした。
その翌日の6月3日。
15時半以降に小規模・中規模の火砕流が頻発し、15時57分に大規模な火砕流が発生しました。
この火砕流はマスコミが集まっていた「定点」と呼ばれる場所には到達しませんでしたが、この火砕流によって火山灰が発生し周囲にを覆ったため、視界が非常に悪くなりました。
そして、その11分後の16時8分。
溶岩ドーム底部が崩落し、最大規模の火砕流が発生しました。この火砕流は火口から真東の方向に進み、マスコミが集まる「定点」を襲いました。
マスコミの中にはすぐに逃げられるようにタクシーや車をエンジンをかけたまま待機させていたケースもありましたが、その前に発生した火砕流の影響で視界が悪く、逃げられなかったケースも多くありました。
また、この定点を襲った火砕流は火砕サージ(火砕流よりも気体が多い)も発生していて、定点付近では想像を絶するほどの熱風が吹き荒れていたようです。
火砕流では、報道陣の取材拠点だった「定点」(島原市北上木場町)から、タクシー車両2台が北東に約60メートル移動していた。今年2月に掘り起こされた車両を長井さんが調べたところ、うち1台は電線がボンネットにぐるっと巻き付いた状態で見つかったという。
タクシー2台を60m吹き飛ばすほどの威力を持った火砕サージが定点を襲ったことになります。
この6月3日の大火砕流により、死者行方不明者は43名、負傷者9名、焼失建物179棟という大惨事になりました。
その後も火砕流・土石流が頻発

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6月3日の大火砕流後も、火砕流はたびたび発生し、6月8日には国道57号のすぐ近くまで達しましたが、発生直前に住民はみんな避難していて、人的被害は出ませんでした。
1993年6月23日の火砕流では地元住民1人が巻き込まれて死亡しています。
その後も火砕流・土石流が頻発したことで、国道や鉄道が寸断され島原市街地が一時孤立する状況になったり、警戒区域が設定されたことで最大1万人以上の地元住民が避難生活を余儀なくされました。
1996年6月3日に終息宣言

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火山活動は長く続き、ずっと溶岩ドームが形成されていましたが、最初の溶岩ドーム形成から約4年後の1995年2月になって、ようやく溶岩ドームの成長が停止したことが確認されました。
1991年からの溶岩総噴出量は約2億㎥で、その半量が崩壊して火砕流などになり、残りの半量がそのまま溶岩ドームとして火口にとどまりました。
1995年以降、火砕流の発生回数は激減していて、1996年6月3日に噴火活動の終息宣言が出されました。
九州大学の太田一也教授は平成8年6月3日に「雲仙・普賢岳の噴火活動は終息した。」と宣言し、約5年半に及んだ噴火活動が終息しました。
1991年から続いた雲仙普賢岳の噴火は1996年6月にようやく終わったのです。
雲仙普賢岳の噴火の動画
雲仙普賢岳の噴火の様子は、マスコミのテレビカメラが撮影していて、火砕流を鮮明に映した初めてのケースとして非常に貴重な映像になっています。
そして、その動画を見れば、火砕流の恐ろしさを実感できるはずです。こちらの動画は火砕流が猛スピードで山腹を降りてくる様子がわかります(1分28秒~)。
こちらの動画はかなりショッキングな映像なので、見る方は自己責任でお願いします。
火砕流に巻き込まれて全身灰まみれになった消防団員や全員大やけどした人も(9分18秒~)が映っています。さらに12分50秒からは火砕流に巻き込まれて亡くなった方のご遺体も映っています。
これが当時、テレビで放送されていたと考えると、現在とはコンプライアンスの感覚がかなり異なることを実感しますが、同時に雲仙普賢岳の噴火・火砕流は本当に深刻なもので、地元住民の生活を一変させ、大きな被害を生みだしたことがよくわかります。
雲仙普賢岳の1991年の噴火の死者数

1991年からの雲仙普賢岳の噴火での死者数は44名(行方不明3名を含む)、負傷者数は12名です。
<死者数の内訳>
・1991年6月3日の火砕流:死者40名+行方不明者3名=43名
・1993年6月23日の火砕流:死者1名
1991年6月3日の大火砕流では、43人もの尊い命が失われましたが、死者の職業・所属は非常に特徴的なものでした。
・マスコミ関係者:16名
・火山学者たち:3名
・警察官:2名
・消防団員:12名
・タクシー運転手:4名
・作業員2名(選挙ポスター撤去作業)
・地元住民:4名
地元住民で犠牲になったのは43名中4名です。地元住民は避難していた人がほとんどだったことがわかります。
火山学者たち3名はクラフト夫妻と案内役だったアメリカ地質調査所のハリー・グリッケンです。クラフト夫妻は火山の写真撮影と映画撮影のパイオニアとして高い評価を得ていたフランスの火山学者です。
今まで火砕流を写真でしか記録できていなかったクラフト夫妻は、雲仙普賢岳で火砕流が発生していることを知ると、すぐにハリー・グリッケンを伴って普賢岳に向かいました。
クラフト夫妻は大火砕流の前日に取材を受けた時、「火山へ接近することで死んでしまうとしても、それを恐れていない」と語っていましたが、その翌日に大火砕流に巻き込まれて命を落としました。
大火砕流発生時、クラフト夫妻はマスコミが集まっていた「定点」よりもさらに200m前方(普賢岳に近い場所)で火砕流の撮影をしていて命を落としました。
そして、何より注目すべきはマスコミ関係者の死者が多いことです。16人のマスコミ関係者が大火砕流で命を落としました。
・毎日新聞:3人
・テレビ長崎:3人
・NHK:2人
・九州朝日放送:2人
・テレビ朝日:1人
・日本経済新聞:1人
・読売新聞:1人
・フリー:1人
このマスコミ関係の死者の中には、アルバイトの学生も含まれていました。
なぜ、こんなにマスコミ関係者・記者に死者が多かったのか?それは取材合戦があったからのようです。
雲仙普賢岳の噴火ではマスコミ・記者の死者が多かった理由
1991年の雲仙普賢岳の噴火では、なぜマスコミ関係者・記者が多かったのでしょうか?
「定点」に多くのマスコミが集まる

雲仙普賢岳の噴火では土石流・火砕流が発生しましたが、その様子をカメラに収めて報道しようと、マスコミ関係者や記者が現場に殺到しました。
マスコミの記者たちは北上木場町の県道を撮影ポイントとして好むようになり、その場所はいつもマスコミがいたために「定点」と呼ばれるようになりました。
定点にマスコミが集まるようになった理由は以下の通りです。
・普賢岳を真正面から撮影することができる
・40メートルの高台になっていて撮影しやすい
・溶岩ドームからは4キロの距離がある
・水無川からも200m離れている
ただ、この定点は5月26日には避難勧告地域に指定されていました。それでも、マスコミの記者たちは火砕流撮影のために定点に集まっていて、そこに大火砕流が襲い、命を落としたのです。
迫力ある映像を捉えようという意識が強い

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雲仙普賢岳の噴火でマスコミが集まっていた定点は、1991年5月26日に避難勧告地域に指定されていました。
それでも、マスコミの記者たちはこぞって定点に集まっていたのです。
それはなぜか?「迫力ある映像が欲しい」「他社よりもいい写真が欲しい」という過熱報道が原因です。
まず、マスコミ各社の記者たちは、間違った方向での記者魂に燃えていました。長崎文化放送の記者は、当時を振り返って次のように述べています。
中尾さんは「勧告区域内に立ち入るのは、ジャーナリストとして当然の権利だ」と考えていたという。むしろ、「報道の自由を当局が規制しようというのか」と反発さえ感じていた。
また、5月26日には朝日新聞の記者が火砕流に巻き込まれそうになったこともあり、「定点」も危険であるという認識を持つ記者もいました。
NHKなどは5月下旬から避難勧告地域での撮影を中止しましたが、民放各社が迫力ある溶岩ドームや火砕流の放送したことから、ニュース報道番組の担当者が現地撮影スタッフに対して、「もっと迫力ある映像を!」と注文を付けるようになり、再び定点で撮影するようになりました。
新聞・テレビなどマスコミ各社は少しでも迫力ある映像を撮りたい。スクープをものにしたい。という思いから、報道が過熱していきました。
マスコミ各社の報道合戦があり、たくさんのマスコミが定点に張り付いている中、6月3日の大火砕流が定点を襲い、多くのマスコミが犠牲になりました。
危険意識が低かった

また、当時雲仙普賢岳の噴火を取材していた記者たちは、あまり危機感を持っていなかったようです。「火砕流は危険」ということはわかっていましたが、「避難勧告は大げさ。巻き込まれても死なない」くらいに思っていました。
中尾さんは「行政が大げさに言っているだけ、ぐらいにしか考えていなかった。最初のけが人がやけどで済んだため、『巻き込まれても死なない』という誤った認識を持ってしまった」と打ち明ける
5月24日に火砕流が初めて発生しても、そこから死者は出てなかったし、約10日間「定点」に火砕流は到達しなかったことから、徐々に「まあ大丈夫だろう」という意識が強くなっていったのでしょう。
雲仙普賢岳の噴火でマスコミは非常識な問題行動も

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避難勧告が出ている地域で行政の勧告を無視して、雲仙普賢岳の噴火を取材していたマスコミは、地域住民にも迷惑をかけていました。
フジテレビの記者は、避難して無人になっている民家に無断で侵入し、電話やコンセントを勝手に使ったり、周囲にゴミをポイ捨てして散らかしていることが島原警察署長の会見で発覚しました。
無人の民家に勝手に侵入するだけで、不法侵入になるのに、電話や電気を勝手に使うなんて、普通に考えるとあり得ないですよね。
雲仙普賢岳の噴火では消防団員や警察がマスコミ・記者の退避勧告のために犠牲に…

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雲仙普賢岳の噴火で犠牲になったのはマスコミの記者だけではありません。消防団員や警察官、タクシー運転手も死亡しました。
この犠牲になった消防団員や警察官、タクシー運転手の中には、マスコミの過熱報道が原因で亡くなったと言われる人もいます。
タクシー運転手は記者を定点に送ったり、マスコミがすぐに逃げられるようにエンジンをかけた状態で定点にタクシーを待機させたりしていました。そこで犠牲になってしまった人がいたのです。
警察官は避難誘導をしていましたし、消防団員はマスコミが民家に侵入していたことが発覚して以降はマスコミが変なことをしないように監視したり、いざという時には避難誘導をするために避難勧告地域に残っていました。
つまり、マスコミの過熱報道が原因で死者が増えてしまったのです。このことは内閣府の雲仙普賢岳噴火に関する報告書の中でもはっきりと明記されています。
また、新聞、テレビ各社による報道が過熱し、避難勧告地域での撮影が続けられたため、6月3日の火砕流によりマスコミや報道関係者の警戒にあたっていた警察・消防関係者から犠牲者が出た。
マスコミの過熱報道は消防団員や警察官、タクシー運転手の死者を増やしただけではありません。
「マスコミの記者たちが定点で撮影しているのだから、その辺りは安全なのだろう。」と勘違いして、避難勧告地域に入って農作業をしていた地元住民もいました。亡くなった地元住民4人は農作業中だった方たちです。
このため日中だけ避難所から畑に通っている人もいた。『報道の人が入っているから大丈夫だと思った』…被災から半年後・一年後など時間が経ってからの取材で、何人かの住民からそう聞かされた。
マスコミの過熱報道が、1991年の雲仙普賢岳噴火の被害を大きくした一因と言っても良いと思います。
雲仙普賢岳の噴火の遺体は黒焦げだった…
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雲仙普賢岳の火砕流で亡くなった方たちのご遺体は黒焦げだったと言われています。
実際に、火砕流に巻き込まれて救急搬送された人たちは皮膚が黒く焦げていました。また、遺体を収容した自衛隊員は「ゴムまりみたいだった」という旨の証言をしています。
また、大火砕流が襲った直後は危険が大きかったためすぐに現場に立ち入ることができず、ヘリコプターから現場を見て亡くなった方のご遺体を目視で確認するだけで、なかなか収容できませんでした。ヘリコプターはマスコミ各社も飛ばしていたので、ご遺体が全国放送で流れたこともありました。
ヘリコプターから現場を確認した陸上自衛隊の連隊長は「生存者がいるのはきついんじゃないですかと。それはそうかなと思います。全然人っ子一人動きません。みなさん、見た通りです」と語っていました。
5ちゃんねるには次のような投稿がありました。
ちな摂氏300度に達する
、まず喉が焼かれ次に皮膚最期に脳みそや脳みそは固い頭蓋骨に守られてるからなかなか死ねない
これがどこまで真実かはわかりません。ただ、火砕流に襲われて即死でなかった人たちもいたはずです。即死でなかった人たちは(即死の人もですが)本当に最後苦しい思いをしたはずです。
また、6月3日の大火砕流での死者は43人ですが、そのうち3人は「行方不明」扱いになっています。つまり、まだご遺体は見つかっていません。遺体が見つからないということからも、火砕流がいかに甚大な被害をもたらしたかがわかりますね。
雲仙普賢岳のその後と現在:慰霊碑

雲仙普賢岳の噴火は1996年6月3日に終息宣言が出されましたが、火口付近に残った溶岩ドームは「平成新山」と名付けられ、雲仙岳の最高峰(1,483メートル)となりました。この平成新山は長崎県の最高峰であり、国の天然記念物に指定されています。
また、島原市内には慰霊碑が3ヶ所建立されています。
・雲仙岳災害記念碑
・消防殉職者の碑
・平成3年雲仙普賢岳噴火災害犠牲者追悼之碑
島原市では島原半島雲仙普賢岳噴火災害復興伝承マップを作っているほか、火砕流によって破壊された旧大野木場小学校の校舎が資料として残されたり、土石流被災家屋保存公園や雲仙岳災害記念館などが作られ、当時の被害を忘れないように、そして未来に伝えていくようにしています。
2026年6月には大火砕流から35年の追悼行事が行われ、発生時刻の16時8分には市内全域でサイレンが鳴らされ、黙とうが捧げられていました。
マスコミ・報道各社では、この雲仙普賢岳の噴火と大火砕流以降、きちんとした普遍的なルールはないものの「安全を重視した報道」の意識が強くなり、災害を報道する時には「災害を記録する」よりも住民の安全を守るための報道・防災行動を助けるための報道という側面が強くなってきています。
雲仙普賢岳の噴火のまとめ
1991年の雲仙普賢岳の噴火の概要と当時の動画、火砕流による死者数やマスコミ・記者の死者が多かった理由、マスコミに巻き込まれた消防団員、遺体の状況や慰霊碑・その後と現在をまとめました。
マスコミの過熱報道が一因で亡くなった消防団員や警察官、タクシー運転手のご冥福をお祈りします。また、マスコミの記者たちも過熱報道が批判されがちですが、その当時は「そうするのが当たり前」であり、そのような報道を求められたという側面もあると思うので、一概にマスコミが悪いとは言いきれないと思います。
とにかく、この災害を教訓にして、同じような悲劇を起こさないことが一番大切だと思います。

















