小平義雄の事件と最期!生い立ちと家族・結婚や子孫・死刑執行と最期の言葉まとめ

小平義雄は、戦後間もない東京近郊で連続強姦殺人事件を起こした性犯罪者です。40名もの女性を強姦し、うち7名を殺害したとされます。この記事では小平義雄の生い立ちや実家、経歴、家族や結婚、子孫、判決や死刑執行前の最期の言葉について紹介します。

小平義雄が起こした小平事件の概要

 

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1945年から1946年にかけて、東京を中心に若い女性を狙った連続強姦殺人事件が発生しました。

 

事件の犯人は小平義雄(おだいらよしお・当時41歳)。当時の東京は敗戦の影響でかつてないほどの食糧難に陥っており、街では高騰した食糧を求める人たちをターゲットにした職業斡旋も盛んに行われていました。

 

小平義雄はこのような時代を利用し、食糧の提供や農家での就職を斡旋する、米を買える場所を紹介するなど若い女性に声をかけては人目につかない場所に連れ出し、強姦を繰り返していたのです。

 

犯行が明らかになったのは、強姦殺人の7人目の被害者とされる女性が亡くなる直前に小平と一緒にいるところを目撃されていたためでした。

 

確認できただけでも小平義雄が殺害した女性は7名。本人の供述以外に証拠がないため定かではありませんが、強姦した女性は40名にものぼるとされます。

 

裁判では遺体の見つかっている7件の強姦、殺人についてのみ有罪判決が下され、小平義雄には1948年に死刑判決が言い渡されました。

 

 

小平義雄の生い立ちと経歴① 実家と家族

 

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小平義雄は1905年1月28日、栃木県栃木市に生まれました。実家は「橋本屋」という行商人を泊める商人宿を営んでおり、小平は5人の姉兄を持つ3男として誕生したといいます。

 

橋本屋は地元では有名な大きな宿でしたが、一家の暮らしは安定したものではありませんでした。

 

6人の子どものうち3人に性的放縦や知的障害が見られ、家業の商人宿も父親が賭博や飲酒にのめり込んだことが原因で経営難に陥って人手に渡るなど、苦労の多い家庭だった様子です。

 

もとより小平義雄の両親は母方の家系は優秀な人物が多かったものの、父方の家系には精神疾患の気が見られる者が多く、父の兄弟5人のうち4人に精神疾患が見られたといいます。

 

小平義雄本人も小学校時代の成績は良くなく、生活態度も「不熱心で乱暴」と問題のある評価でした。

 

小学校時代の担任からは、5年生の頃には棒で同級生を殴打して怪我を負わせた、6年生になると友人が死んだと嘘をついて祖母からお金を巻き上げていたといった証言も出ていたそうです。

 

一方で同年代の女子生徒をいじめるといったことはなく、異性との関りは少なかったといいます。

 

 

小平義雄の生い立ちと経歴② 海兵団に志願入隊・犯罪の端緒

 

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1918年、小学校を卒業した翌年に小平義雄は上京して工員や食品店員などの仕事に就きます。

 

当時は家計を助けるために幼くして親元を離れ、働きに出る子どもが多かった時代ですから、13歳での就労は決して珍しいことではありませんでした。

 

その後もしばらくは東京や地元の栃木で働き続けていた小平義雄でしたが、1923年、18歳で横須賀海兵団に志願入隊をします。

 

海兵団に入った小平義雄は練習艦でヨーロッパやオーストラリア、旅順、中国などに機関兵として出向。この海兵隊時代に、連続強姦殺人事件の端緒があったとされます。

 

少年時代に吃音のある友人の真似をしていたことが原因で、自身も吃音になってしまったという小平は、コンプレックスからか海兵になるまで女性とは縁のない暮らしをしていたそうです。

 

しかし、横須賀で娼婦を買って女性経験をしたのを機に性的放縦になり、寄港地で売春婦を漁るようになっていきました。

 

小平には趣味もなかったため、稼いだお金の大半を娼婦につぎ込んでいたといいます。

 

そして1927年、28年と第二次山東出兵、済南事変で中国に派兵されて日清紡工場の防備にあたった小平義雄は、婦女暴行や妊婦殺害といった蛮行に手を出し始めたのです。

 

逮捕後の取り調べによると、小平は中国で妊娠している中国人女性の腹部を銃剣で切り裂き、胎児を外に出して殺害するなどしていたといいます。

 

敵地でこういった非人道的なことを行っていたのは小平や日本軍に限ったことではないのですが、これを機に小平義雄は強姦殺人に喜びを感じるようになったと推察されています。

 

 

 

小平義雄の生い立ちと経歴③ 結婚と殺人

 

1929年5月、24歳になった小平義雄は戦績を認められて勲八等旭日章を受勲していましたが、上司への不満から除隊してしまいます。

 

その後は足尾の精銅所で働き始めたものの、私生活では遠い親戚の女性に手を出して妊娠させてしまい、認知せずに私生児を生ませるなどしていました。

 

その後、1932年に小平義雄は地元の神主の娘と結婚するのですが、入籍後に私生児がいることがわかって妻が激昂。新婚4ヶ月で実家に逃げ帰られてしまいます。

 

復縁を求めて妻の実家まで向かった小平は、あろうことか妻の父親、つまり義理の父親を鉄の棒で殴打して殺害。

 

ほか6名にも怪我を負わせて逮捕され、小菅刑務所で懲役16年の刑に服することとなりました。

 

運よく恩赦によって8年で仮出所した小平は、サイパンで飛行場の建設作業に従事した後に帰国し、1944年に再婚します。

 

この時、相手の女性は小平義雄が前科持ちであることを知らなかったといい、翌年には2人の間に男児が誕生。周囲から見た小平は愛妻家で、何の問題もない普通の家庭に見えたそうです。

 

 

小平義雄の生い立ちと経歴④ 最初の強姦殺人

 

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太平洋戦争末期、小平義雄は妻と息子を富山に疎開させて1人で東京に残り、海軍の衣糧廠で炊き出しの仕事を続けました。

 

当時の海軍は男手がなく、残っているのは疎開していない女性ばかりだったといいます。このことが再婚後、大人しく暮らしていた小平義雄の性的放縦人格に火をつけ、次第に小平は風呂場を覗くなどの行為にふけるようになっていきました。

 

そして5月25日、事件が起こります。この日、1人の女性工員(当時19歳)が疎開先に戻るとして同僚たちにあいさつまわりをしていました。

 

彼女は盲腸の手術のために疎開せずに東京に残っていたとのことで、手術が無事に終わったら疎開する予定だったといいます。

 

女性は、1人でボイラー室にいた小平のもとにも別れを告げにやって来ました。するとかねてからこの女性に目をつけていた小平は最後に、と肉体関係を迫ります。

 

しかし、女性はこれを拒否。カッとなった小平は女性の首を絞めて失神させ、彼女の意識が戻ってから強姦、その後に再度首を絞めて殺害したのです。

 

強姦殺人を隠ぺいするために小平は女性の遺体を中庭の防空壕に隠し、何食わぬ顔で仕事を続けていました。

 

そのため事件が発覚したのは7月になってからで、終戦間際のどさくさに紛れて満足な捜査もされずに、小平義雄は逃げ切ることとなります。

 

 

小平義雄が起こした連続強姦殺人の詳細

 

出典:https://ameblo.jp/

 

海軍で女性を殺害した小平義雄は、6月13日に衣糧廠を退職して姿をくらまします。

 

その後の衣糧廠では被害者の遺体が発見され、他の男性に女性殺害の容疑がかけられるなどしていましたが、それをよそに小平は次々に類似の事件を起こしていきました。

 

ここでは小平義雄が起こしたされる強姦殺人事件を見ていきましょう。

 

 

栃木出会ったで31歳の女性を強姦・殺害

 

1945年6月、栃木県にやって来た小平義雄は新栃木駅で当時31歳の既婚女性に目をつけ、「この近くに知り合いの農家があって、そこに米を買いに行く予定だ」と声をかけました。

 

いくらでも米が買える場所だから案内すると言われた女性は、小平の話を信じてしまい人気のない山中までついて行ってしまいます。

 

女性は道中で小平を不審に思うようになり、引き返そうとしたそうです。しかし小平に3度にわたって強姦され、その後に絞殺。

 

女性を殺害した小平は、遺体から所持金180円と風呂敷を盗んで逃走しました。

 

 

渋谷で出会った22歳の女性を強姦・殺害

 

1945年7月12日、渋谷駅で切符を購入しようとしていた22歳の女性に目をつけた小平は、「日帰りで米を買える農家があるから一緒に行かないか」と声をかけて一緒に栃木方面に向かいますした。

 

栃木の山中まで女性を連れて行った小平は彼女を強姦しようとしましたが、女性側も護身用に持っていた小刀を取り出して抵抗。

 

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しかし、小刀を奪われた後に馬乗りになってきた小平に首を絞められて強姦された挙句、殺されてしまいます。

 

女性を殺害した小平は、遺体から所持金40円と腕時計などを盗んで逃走しました。

 

 

池袋で出会った21歳の女性を強姦・殺害

 

1945年7月15日、池袋駅で21歳の女性に目をつけた小平は、「芋の買い出しに行くのだが、一緒にどうか?すぐに売ってくれますよ」などと声をかけて、今度は奥多摩の清瀬村まで連れていきました。

 

そして「こっちが近道だから」とうそぶいて女性を雑木林に連れ込んで強姦した後に絞殺。

 

この女性は結核を患っていてやせ細っていたといいますが、小平は思いとどまらずに犯行に及んだとされます。

 

さらに小平は、この事件を起こした直後に妻子の疎開先である富山に向かい、富山の製鉄所で働き始めました。

 

 

東京で出会った21歳の女性を強姦・殺害

 

1945年9月28日、富山から一時上京していた小平は、東京駅で21歳の女性に目をつけると「清瀬村に懇意にしている農家があって、飼い出しにいくのだが、一緒に行きませんか」と声をかけ、またしても奥多摩に女性を連れ出しました。

 

強姦されると察した女性は自ら服を脱いで命だけは助けてくれと訴えましたが、姦淫中に人の声に驚いた小平は焦って彼女を殺害。

 

遺体から現金300円と縮緬洋服を盗んで逃走しました。

 

 

浅草で出会った18歳の女性を強姦・殺害

 

1945年12月26日、浅草の雷門駅で21歳の女性に目をつけた小平は、日光に向かう電車の中で「知り合いの農家で芋が好きなだけ買えるのですが、紹介しましょうか」と声をかけてました。

 

そして女性と一緒に金崎駅で降り、山中まで連れて行くと強姦した後に絞殺。

 

遺体から現金130円とリュックを盗んで逃走しました。

 

 

品川で出会った17歳の女性を強姦・殺害

 

1946年の初夏、この頃の小平は東京で若い女性に声をかけてはお菓子やパンなどを渡し、「就職口を紹介してあげる」などと言って住所や名前を聞き出していたといいます。

 

しかも、8月4日にはそのうちの1人の17歳の女性の家をわざわざ訪れて、豪胆にも彼女の母親にまで挨拶をして信用を得ていました。

 

そして8月6日、この17歳の女性を「就職試験を受けさせてあげる」と言って呼び出したうえで芝公園の裏に連れ込み、強姦して絞殺しました。

 

 

ほか小平義雄の犯行とみられる事件

 

裁判で正式に小平の犯行と確定している事件は、海軍の衣糧廠での強姦殺人をくわえた上の7件です。

 

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しかし、証拠不十分になったものの小平の犯行とみられている強姦殺人事件として、以下の3件があげられています。

 

・1945年10月31日…渋谷の道玄坂で芋の買い出しに来ていた17歳の女性を東横デパートの別館地下に誘い出して殺害

 

・1946年6月9日…品川で出会い、食べ物を与えて仲良くなった15歳の女性を港区の廃車置き場に連れ込んで殺害

 

・1946年7月22日頃…17、8歳の女性(被害者のうち、この女性のみ身元不詳)に「銀座で遊ぼう」と声をかけ、芝公園・増上寺の境内で殺害

 

発見された遺体などの状況から検察側は、これらの事件も小平によるものと見ていましたが、本人が否認。現在も犯人は不明のままとなっています。

 

 

 

小平義雄が連続で事件を起こせた理由

 

現代の感覚で考えると、初対面の素性の分からない人物について行ってしまう被害者にも問題がったのではないか?と疑問に感じます。

 

しかし、初対面の女性たちが相次いで小平について行ってしまったのには理由がありました。小平が簡単に犯行を成功させた原因を見ていきましょう。

 

 

時代背景

 

出典:https://www.youtube.com/

 

小平が連続強姦殺人事件を起こしていった当時、日本経済は敗戦の影響で破滅的な状況にありました。

 

失業、住宅難、食糧難、物資不足といった問題が国民に襲い掛かり、戦争で生き残った人々の生活は過酷を極めたとされます。

 

こと食糧難は緊急に解決するべき問題だったのですが、戦中と同じく輸入に頼ることは困難であったため国内での食糧生産、管理が急務となりました。

 

しかも終戦前後の1944年と1945年は歴史的と呼べるほどの米の凶作が続き、新米の季節になっても米がまったくとれず、戦中以上に食べるものがなく、配給も滞るような異常事態が発生。

 

それでも農村部では自給自足の生活が送れていたとされますが、都市部では飢餓に苦しむ人が増え、闇価格で米や芋の売買が横行するようになっていきました。

 

あまりに食糧難に苦しむ人が多かったことから、1946年の5月には昭和天皇が国民の助け合いを促す「食糧問題に関するお言葉」を発したほどで、このなかで天皇も「食糧難は未だ例を見ないほど悪化」としています。

 

東京中心部で暮らす人々は、親族に農家でもいない限りは闇市で米や芋を買うにも仕事もなく、お金も稼げないという八方ふさがりの状況で、とくに夫や父親を戦争で亡くした女性たちは、子どもや弟妹らを養うために職や食べ物を探して奔走していました。

 

小平義雄がターゲットにしたのは、まさにこのような女性だったのです。

 

被害に遭った女性は、家族のために買い出しを頼まれてお金を持っていた人や、仕事から帰る途中だった人、就職口を探して都心に出てきた人など、その日を生きるのに精いっぱいの人たちばかりでした。

 

時代が違えば見知らぬ人についていくことはなかったでしょうに、「家族が満腹になるほどの食べ物がありますよ」という誰もが魅力的に感じる言葉を使って、小平は女性を毒牙にかけていったのです。

 

 

小平義雄の外見

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公開されている写真を見てわかるように、小平義雄は紳士的な見た目をしていました。

 

また、身長も158cmと小柄で、幼少期こそ粗暴と評価されていたものの大人になると周囲からは「小心者」と言われるような性格だったといいます。

 

このようなことから初対面の女性にも威圧感を与えず、無害な人物を装うことが可能だったのだと考えられています。

 

 

小平義雄の逮捕

 

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上述のように最後の被害者となった17歳の女性とその母親に対して、小平義雄は自分の本名と住所を伝えていました。

 

女性は、事件当日も家を出る際に「前に会った小平という人に就職先を紹介してもらう」と言って家を出ていたとされます。

 

それきり娘が帰ってこなかったことから、母親はまず小平の家を訪れて娘の行方を尋ねましたが、小平は「お嬢さんは就職試験を受けに来ませんでしたよ」としらを切ったそうです。

 

そのため母親は行方不明の届けを出したうえで、警察に小平の情報も伝えました。

 

これが原因となって8月19日には小平は警察に身柄を確保され、そこからこれまでの犯行が明らかになっていったのです。なおこの時、小平義雄は42歳になっていました。

 

 

小平義雄の裁判・判決

 

上で小平義雄は7件の強姦殺人事件を起こしたと説明しましたが、実際にはもう3件強姦殺人事件を起こしている疑いがあり、強姦だけならば30件以上もの余罪がある疑いがありました。

 

しかし、証拠不十分であったために7件以外は不起訴、もしくは無罪判決を受けています。

 

とはいえ食糧難、就職難につけこんで7人もの女性を騙して誘い出し、自分の欲を満たして殺害したというだけでも死刑は免れません。

 

1947年6月18日に東京地裁は小平義雄に死刑判決を言い渡し、小平はこれを控訴しましたが、東京高裁も一審の死刑判決を支持。

 

さらに上告したものの、1948年11月16日には最高裁が上告を棄却したことから、小平義雄の死刑が確定しました。

 

なお、精神鑑定では小平の人格について以下のように結論付けられたといいます。

 

「小平の性欲衝動も感情激発性も相当強いものであったには違いないが、しかし、いかにしてもこれらを制御し得ないほど重篤かつ高度の精神異常者ではなかったと判断する。従って小平は甚だ珍しい型の生来性性格異常者で、しかもなお、責任能力のある人格と判定する」

 

引用:「私が狙った女は一人として失敗したことがない」終戦直後の日本で「性欲一本に集中」…30人以上の若い女性を襲った“淫獣”の最期

 

裁判では小平の家系も調べられ、父方に知的障害のある者、精神疾患の気が見られる者がいたことなどから、本人の責任能力の有無も問題になったそうです。

 

結果として責任能力ありと判断されましたが、小平の人格については「珍しい型の生来性性格異常者」と曖昧に述べただけで、このような犯行に及んだ原因がどこにあったのかまでは精神鑑定でも解明できませんでした。

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小平義雄の死刑執行前の最期の言葉は?

 

小平義雄の死刑執行は1949年10月5日に、宮城刑務所で執行されました。享年44歳。

 

刑場に向かう前に小平は、教誨師に「こういう落ち着いた日に死ねるのは幸福だ」と伝えたそうです。これが最期の言葉として伝わっています。

 

この言葉を残した後に小平は饅頭を食べ、「ひかり」をふかして一服した後で死刑台に向かいました。死刑台に向かう際は落ち着いた様子で、死を恐れるような様子はなかったとのことです。

 

また、小平はこの言葉のほかに以下の辞世の句を残しています。

 

亡きみ霊 赦し給へし過去の罪 今日の死を待ち 深く果てなん

 

 

小平義雄の子孫

 

小平義雄の妻のセキさんは、事件が明らかになった後も「主人があのようなことをした原因は私にもあります」「そばにいてあげられなかった私が悪いのです」として、離婚することはなかったといいます。

 

同じ人とは思っていないような残酷さで被害者を蹂躙した小平でしたが、妻の前ではよき夫だったのかもしれません。それが一層、小平義雄という人物を不気味にに感じさせます。

 

息子のことも可愛かったらしく、妻に対して「子どもを頼む、自分のようにならないように育ててほしい」という趣旨の遺書を残していました。

 

現在、小平義雄の子孫がどのように過ごしているのかは不明ですが、悪い話も出ていないということは小平の妻は息子を立派に育て上げたのではないでしょうか。

 

 

小平義雄と小平事件についてのまとめ

 

今回は戦後、食糧難に陥っていた時期の東京を中心に複数の女性を食糧で釣って連れ出し、強姦、殺害を繰り返していた小平義雄について、生い立ちや事件に至るまでの流れを中心に紹介しました。

 

死刑判決を受けた直後は荒れていたという小平ですが、刑が執行される頃には反省する様子も見られたといいます。

 

しかし、辞世の句を見る限り、最期まで自分のことしか考えていなかったような印象を受けます。

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