光クラブ事件とは、1948年に東大法学部の学生らによって設立された闇金業者による金融事件です。この記事では光クラブ事件について、犯人として検挙された山崎晃嗣の生い立ちや父親などの家族、過去の事件の判決、遺書や死因をまとめて紹介します。
この記事の目次
光クラブ事件の概要
光クラブとは、1948年9月に現役の東京大学部の学生・山崎晃嗣(あきつぐ)と、友人の大学生らによって設立された金融会社です。
光クラブのビジネスモデルは、興味を持った出資者から資金を募って個人や中小企業に貸し出すという至って普通のものでした。
しかし、その実態は出資者には年利約18%という配当を渡す一方で、債務者には「トイチ(「10日で1割」)」で利息を取るという法外な高利貸し。
トイチは年利に換算すると365%となり、現在では利息制限法で定められた上限利息を大幅に上回る違法な利息です。
ところが光クラブが創設された時点では闇金を取り締まる法律は施行されておらず、戦後間もない混乱した時期であったために、このような高利貸しが横行していたのです。
当時は学生による起業が珍しかったために「東大生による金融業」ということ自体が目をひき、さらに派手な広告をうったことが受けて多くの出資者が光クラブに資金を提供しました。
出資者としては銀行にお金を預けても金利は年利1.83%という時代でしたから、それを大幅に上回る配当を出す光クラブは投資家にとって魅力的な会社でした。
こうして多くの出資を受け、光クラブは設立から半年足らずで急成長を遂げたのですが、1949年6月に貸金業等の取締に関する法律(現在の貸金業法の旧称)が施行され、貸金業が登録制になると、一気に立場が危うくなります。
そして、翌7月には社長の山崎晃嗣が物価統制令違反で逮捕。物価統制令とは戦後のインフレ対策として定められた法令で、不当に高額を求める取引などを禁じたものです。
光クラブの利息も物価統制令違反に抵触すると判断されての逮捕だったのですが、東大法学部に在籍していた山崎は、法律の知識を駆使して1ヶ月後には不起訴処分となって釈放されました。
しかし、「違法な金貸し」という悪いイメージがついたことから光クラブの信用は失墜し、返金を迫る出資者が殺到。3600万円(現在の価値にすると36億円)もの負債を抱えてしまいます。
その後も山崎は株の空売りなどで資金を作ろうとしますが上手くいかず、多額の債務を抱えたまま1949年11月25日に青酸カリを飲んで服毒自殺を図りました。
こうして幕を閉じた光クラブ事件は、戦後の混乱期に若者が起こした犯罪・アプレゲール犯罪の代表とされており、三島由紀夫氏の著作『青の時代』のモデルにもなっています。
光クラブ事件の犯人・山崎晃嗣の生い立ち① 家族と幼少期
光クラブ事件の犯人である山崎晃嗣は、1923年1月23日に千葉県木更津市で5人兄妹の末弟として誕生しました。出生時は「明(あきら)」という名前で、幼少時に晃嗣に改名したといいます。
父親は同市内で代々続く医者の家系の出で、自身も医師で木更津市長も務めた地元の名士。母親は明治時代に財閥を形成した渋沢家の血縁者でした。
裕福で経済的には恵まれた家庭でしたが、山崎自身が残した遺書によると父親の子どもたちへの期待は大きく、とくに男児は「旧制一高から東京大学に進学し、末は教授になるべき」とされていたそうです。
ところが長男、次男、三男とあまり学業成績が良くなかったため、幼い頃から優秀であった山崎に父親の期待は集中。
さらに身体が弱かったことから母親も山崎を甘やかし、家庭内では暴君のように振る舞っていたといいます。
一方で家の外では幼少期から市内の名門家系の子息と親しく遊ぶなどしていたものの、小柄で引っ込み思案な性格で、同級生から「猿」というあだ名をつけられても言い返せないような子どもだったそうです。
光クラブ事件の犯人・山崎晃嗣の生い立ち② 東大入学と父親の評価
小学校卒業後、山崎は旧制木更津中学を卒業して旧制一高に進学、そして1942年に東京大学(旧帝国大学)法学部に入学します。
非常に優秀な青年です。父親の期待通りの進路を歩んでいるように見えます。
しかし、医師の家系の出である父親はこのことを喜ばず「法学部等に通って何になるのか、医学部以外で何を学ぶのか」と息子を叱りつけていたといいます。
父親は息子に旧制一高から東大に進学してほしかったわけではなく、東大医学部に進学し、医学部の教授になってほしかったのです。
光クラブ事件の犯人・山崎晃嗣の生い立ち③ 友人の死
出典:https://rekisisuki.exblog.jp/
山崎が大学に入学した頃、日本は太平洋戦争の真っ只中でした。そのため、大学入学からわずか1ヶ月後に山崎も学徒出陣で溝の口にあった十七部隊の教育隊に送られ、幹部候補生としての訓練を受けることとなりました。
山崎が残した手記『私は天才であり超人である』には、戦地に出なくて済むように後方勤務の経理将校に志願し、それが認められて階級もあがったものの軍隊とは非合理で知性のかけらもない場所だと感じた、という軍隊経験が綴られています。
山崎がこのような内容の手紙を叔父にも送っていたことが明らかになっていますが、戦時下の日本で軍隊を批判するような文章を残せば、憲兵隊に連れて行かれる危険が高かったはずです。
なぜ賢い山崎が危険を犯してまでこのような文を書き残したのかというと、軍隊配属時に友人が殺されるという悲惨な経験をしたからではないかと考えられています。
山崎が溝の口の教育隊に送られた際、一高から東大まで同級生だった友人も一緒の部隊に配属されていました。
この友人(以降Aとする)は、頭脳明晰で人望も厚い人気者だったそうです。
Aの父親はテキ屋でしたが、息子が一高に進んだ際に「自分がこんな仕事をしていたら、お前に迷惑がかかるかもしれない」という理由で仕事を変えており、恵まれた家系に育ちながら父親に評価されなかった山崎はAの育ちに思うところがある様子だったといいます。
さて、Aも山崎と同様に後方勤務の経理将校を志願していました。努力して東大にまで進学したのですから前線に出て命を落としたくないと願うのは当然のことで、実際に学徒のほとんどが後方支援を志願したそうです。
ところが教育隊の教官のなかには学生のこのような考え方を好ましく思わない者もおり、後方支援を志願する学生が体罰を受けることもあったといいます。山崎やAも、特定の教官からいびりや制裁を受けていました。
そしてある日、Aが教官に命じられて水風呂に飛び込み、心臓麻痺を起こして急死するという事件が発生したのです。
しかもこの教官は、自分がAを追い詰めて死に追いやったことを隠蔽するために山崎たちを集め、「急患だ」と叫びながら既に死んでいるAを病院に担ぎ込むよう芝居をさせました。
山崎はこの時、前途ある優秀な友人が理不尽に命を奪われたことに嘆き、怒り、軍隊から戻った後も古くからの友人に嗚咽混じりに「Aが殺されるなんてこと、あっていいのか」と話していたそうです。
また、山崎は大切な友人の命を奪った軍隊と、そこに所属して好き勝手する将校に嫌悪を感じながらも、陸軍の上官らに連れられて「軍の人間」としてAの葬式に参列させられたといいます。
葬儀の場で、Aの父親は軍の上官に「息子は事故死ではない、お前らが私刑で殺したんだろう」と食って掛かるのを目の当たりにしたそうです。
このAの父親の姿に気高さを感じたとともに、山崎は「自分もAを見殺しにした、Aの死の真相を家族に隠そうとした」という罪の意識を感じて苦しむようになりました。
そして理不尽なAの死を境に山崎の性格は一変したといい、「自分は人間的な感情や人情などはもう信じない」と口にするようになったとされます。
光クラブ事件の犯人・山崎晃嗣の生い立ち④ 横領で執行猶予付きの判決
もう一つ、山崎は軍隊にいる間にその後の価値観を変えるような経験をしていました。
終戦前に山崎は溝の口の教育隊から北海道旭川市の北部第178部隊に派兵されるのですが、そこで物資横流しの罪で逮捕されています。
といっても山崎が私腹を肥やすために軍の物資を着服したり、横流ししたわけではなく、上官が食料や毛布などを着服した罪を被っただけです。
ポツダム宣言受諾の後、軍から物資を持ち出す軍人が増え、山崎の所属していた旭川でも軍隊から持ち出されたと思しき食料が市内に流通していたといいます。
この情報が運送屋を通じて警察に漏れ、たまたま警察が調べに入った時に178部隊に残っていた山崎が横領罪で検挙されてしまったのです。
実際に横領を働いたのは上官だと説明しようにも証拠がなく、山崎は大人しく罪を被り、1年6ヶ月執行猶予3年の判決が下るまで刑務所に収監されました。
軍隊という巨大な正義の名のもとに友人を奪われ、犯罪者に仕立て上げられたという強烈な経験が、その後の山崎の行動に大きな影響を及ぼしたと考えられます。
光クラブ事件の詳細① 光クラブができるまで
戦争が終わり、東大に戻った山崎は学業に打ち込みました。専攻していた20の科目のうち、17で最高の評価「優」を獲得するなど、当時の山崎は同級生のなかでも抜きん出て優秀な学生だったそうです。
しかし、山崎はこの成績に納得せず「自分がどれだけ頑張っても、学業の評価は教授の嗜好や気まぐれで変わるのだ」ということに気づいて3年生になる頃には成績への熱意も失ったといいます。
また、大学1年から3年までの山崎は仲間と米の転売などにも手を出していました。
毎月、裕福な実家から会社員の平均月収ほどの仕送りを受けていたため、お金には困っていなかったのですが、自分はどれだけ商売の才能があるのか知りたくて米の転売という犯罪行為を行っていたのです。
さらに本人の遺書によると2年生から3年生の半ばまで、山崎は複数の女性と関係を持ったといいます。
こちらも相手の女性に恋愛感情を持っていたわけではなく、女性との関係を客観的に見るための実験だったといい、この頃には一日の行動を電車のダイヤのように30分刻みで記すという「時計日記」をつけ始め、その生活内容への評価も自らつけるようになっていました。
生活内容への評価は満足度や充実感で左右されるものではなく、いかに合理的に無駄なく1日が過ごせたかで決まりました。
この生活日記の内容は山崎に自殺後に盛んにテレビや新聞で取り上げられましたが、普通の人間なら1日だけで音を上げてしまうような緻密な内容であったために、光クラブ事件を起こす前から山崎は精神を病んでいたのでは?との指摘もされていたといいます。
光クラブを開業したきっかけ
1948年、山崎は実家の資産を一部運用するように任されます。学生ではあったものの法律を勉強していることから資産運用を任されたようですが、この運用で山崎は大失敗をしてしまうのです。
運用に失敗し、資産を大幅に減らしてしまった山崎はたまたま「5千円以上の元金を預ければ毎月2割の配当を保証する」という金貸しの看板を町で見かけ、そこに10万円を預けてしまいます。
当時の10万円は現在の価値に換算すると約1,000万円です。とてもたまたま見かけた怪しい金貸しに預けるような金額ではありません。
結論から言うと騙されてこの10万円も失ってしまうのですが、詐欺に遭った山崎は悔しがるどころか「こんな仕事もあるのか」と驚き、「自分が貸金業をやればもっと効率的に大金を稼げるのに」と思ったのでした。
そして、自分から10万円を騙し取った会社で働いていた三木仙也という男と意気投合。一緒に金融会社を始めることにしました。
三木は医学生で、実家が裕福でゲーム感覚で貸金業にハマっていたという経歴の持ち主。山崎と共通点がありました。
こうして山崎を社長に、三木を専務にして設立されたのが光クラブだったのです。
光クラブ事件の詳細② 闇金業に染まっていく山崎晃嗣
光クラブは1948年9月に開業してからわずか半年間で銀座に本社を構え、40名以上の従業員を雇うまでに成長しました。
ほかの高利貸しがそうであるように、山崎らもエリート学生とは思えないような危ない橋も渡っていたといいます。
たとえば、他の貸金業者の不良債権を安く買い取り、光クラブの取り立て部門としてつくった別会社「光不動産」に対応を任せるなどしていたのですが、この光不動産の従業員は暴力団関係者でした。
また山崎は光クラブの広告だけではなく、求人も新聞に出していました。ある時、山崎は「求む、社長秘書。近代的教養ある女性、容姿端麗のこと」という求人を新聞に載せたとされます。
そして面接にやってきた女性(以降、K子とする)をいたく気に入って採用し、彼女と肉体関係を持つようになります。
山崎はすっかりのぼせ上がってK子に入れ込んでしまいますが、彼女には本命の恋人がいました。しかも、その恋人は光クラブの経営に目をつけていた京橋税務署の職員だったのです。
当時の山崎は二重帳簿を作成しており、税務署には表の帳簿のみを見せていました。秘書のK子も二重帳簿の内容は把握しており、中に書かれた数字まで暗記していたといいます。
結局、K子の行動を訝しんだ山崎が探偵を雇って彼女の身辺捜査をして税務署職員と家族公認の交際をしていたことが判明。
問い詰める間もなくK子が退職を申し出たことから、激高した山崎は「君の恋人の手足をもごうが僕の自由だね」と言って彼女を脅したそうです。
暴力団関係者との付き合いや、思い通りにならない女性への脅迫などから、山崎が成績優秀な学生ではなくすっかり闇金業者に成り果ててしまったことが窺えます。
光クラブ事件の詳細③ 逮捕と不起訴処分
1949年7月24日、光クラブは京橋署によって摘発を受けます。容疑は物価統制令違反で、この摘発の裏にはK子が恋人を通じて京橋税務署に流した情報が関わっていたとのことです。
K子の情報によって二重帳簿が明らかになり、誰がどのように配当金をまわし、どのように金が流れたのかがすべて税務署に把握されてしまったのです。
こうして山崎が逮捕されるとともに帳簿もすべて押収され、光クラブは活動できなくなりました。
逮捕された山崎は、当時の貸金業者の金利が大蔵省によってのみ定められたもので、臨時金利調整審議会の審議を受けて定めたものではないことを主張し、利息を取り締まる法的根拠はないと訴え続けたといいます。
この山崎の主張は当時の日本では正論であり、逮捕から1ヶ月が経った8月の上旬には不起訴処分が決まって釈放されることとなりました。
しかし、釈放されて光クラブの事務所に戻ってみると会社はわずか1ヶ月で壊滅状態になっていたのです。
山崎逮捕の後、光クラブに出資していた投資家がいっせいに手を引いており、彼らに返済する元金さえ会社には残っていませんでした。
光クラブ事件のその後・山崎晃嗣の死因と遺書
債務者を食い物にする闇金業者だったはずが、自らが到底返せないような多額の負債を抱える債務者になってしまった山崎。
釈放後は大口の債権者と個別に会って秘密裏に自社所有の不動産の分割を持ちかけたり、債権者会議に光クラブの代理人を送り込んで会社に有利な提案をしたりと、債権者を丸め込もうと画策していました。
こうしてなんとか9月の時点ではその後の方針として、11月25日までに負債3,600万円のうち1割を弁済すること、新しい会社を興して事業の発展に応じて弁済を行うという話がまとまったとされます。
その後、山崎は銀座証券保証という社名の別会社を立ち上げて貸金業として登録。新たな出資者を募りましたが、すでに警視庁と大蔵省が「闇金業者にメスを入れる」と発表していたこともあり、投資家も闇金への出資を警戒していました。
そこで山崎は「1ヶ月で35倍になる証券金融」という商品を考え出して起死回生を図ります。
しかし、この商品は証券会社の社員が聞いたら失笑してしまうような株式市場の動きを無視した商品でした。
それでもなんとか素人投資家を騙して資金を得たものの、結果はもちろん大失敗。
また、経営パートナーであった三木に8万円の資本金を渡して北海道に向かわせ、北海道でも同じ商品を販売するように指示していましたが、こちらも撃沈。
しかも三木は、口では「有望な出資者が現れた」と上手く行っているようなことを話すものの、11月に入っても投資家の1人も紹介してこなかったといいます。
こうしている間に債権者に債務の1割を返済すると約束した期日、11月25日が迫ってきました。
頼みの綱であった三木も山崎を裏切って8万円を使い込んでいたらしく、電話をしても「出資してくれそうな人がいる。つなぎで3万円送金してくれ」などと金を集ってくる始末でした。
債務返済のあてもなく、経営パートナーからも裏切られて追い詰められた山崎は、1回目の返済期日であった11月25日に銀座の旧光クラブ本社の社長室で青酸カリを飲み、自殺を図りました。
享年26歳。なお、亡くなった時に同級生のなかでは山崎は「東大生」として認識されておらず「金貸し」と認識されていたといいます。
遺書
こうして山崎は上の画像にある辞世の句とともに、下のような内容の遺書を残してこの世をさりました。
ご注意。検視前に死体に手を触れぬこと。法の規定するところなれば、京橋警察署に直ちに通知し、検視後、法に基づき解剖すべし。死因は毒物は青酸カリ(と称し入手したるものなれど、渡した者が本当のことをいったかどうかは確かめられたし)。死体はモルモットとともに焼却すべし。灰と骨は肥料として農家に売却すること(そこから生えた木が金の成る木か、金を吸う木なら結構)
山崎の自殺とともに遺書の内容も大きく報じられ、戦後の典型的な若者犯罪者の一例、アプレゲール犯罪の末路として取り上げられました。
一方、返済するという約束を反故にされて山崎に逃げられた形となった債権者たちは怒り、11月26日には旧光クラブ本社に100人を超える人々が弁済を求めて詰めかけたといいます。
その後もしばらくは債務者が返済を迫る様子や三木の動向、アルバイト学生のその後など、光クラブ事件に関する記事はポツポツと新聞で報じられていました。
しかし、やがて山崎の死で事件は終わった、債務者も諦めるべきだという風潮になり、債務者や経営側のその後を追う記者もいなくなっていったのでした。
光クラブ事件についてのまとめ
今回は戦後の混乱期に起きた光クラブ事件と、その犯人である山崎晃嗣の生い立ちから自殺までを紹介しました。
山崎が道を踏み外してしまった理由についてはさまざなま観点から考察が重ねられており、両親との関係が原因だったのではないか、友人の死が原因だったのではないか等と指摘されています。
残された遺書も自分の気持を綴るというよりも「人生は劇場だ」という山崎の信条を表すような芝居がかったものであり、自殺の真相は不明のままです。
ただやはり山崎の生い立ちを見ると、生まれた時代が異なればまったく違う人生を歩んでいたのではないか、という気がしてなりません。