岡崎一明(オウム真理教)死刑囚の最期!生い立ちと家族や結婚・飯田エリ子との関係・事件と死刑執行まとめ

岡崎一明はオウム真理教が起こした坂本堤一家殺害事件に関与した人物で、2018年に死刑執行されています。この記事では岡崎一明の生い立ちや結婚、嫁や子供など家族、同じく教団信者だった飯田エリ子との関係や最期の言葉について紹介していきます。

岡崎一明という人物【元オウム真理教信者・死刑囚】

 

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岡崎一明は麻原彰晃率いるオウム真理教の古参信者であり、1988年に起きた男性信者殺害事件と、1989年に起きた坂本堤弁護士一家殺害事件に実行犯として関与しました。

 

教団内で使われたホーリーネームはマハー・アングリマーラで、最終的なステージ(教団内での序列)は大師。

 

身の危険を感じて1990年に教団から逃げ出したため、以降に発生した松本サリン事件や地下鉄サリン事件には関与しておらず、省庁制が採用される前にいなくなったことから教団内での役職も持ちません。

 

教団から逃げ出した後に神奈川県警に連絡し、坂本堤弁護士一家殺害事件について自供をしており、「岡崎の自白がなければ、遺体の発見や真実の解明が遅れた可能性が高かった」と彼の行動は一定の評価をされています。

 

しかし、岡崎はなんの罪もない坂本家の幼い子供まで殺害しておきながら、「このままオウムにいたら自分も尊師に消されるかも」と怖気づいて教団から逃げ出し、その後は坂本堤弁護士一家殺害事件をネタに麻原をゆすって金を取る、多額の報酬を受け取って週刊誌のインタビューに応じるなどしており、逮捕後にも嘘の供述を繰り返していました。

 

そのため事件解決に協力し、自首をしたにもかかわらず、オウム真理教の幹部のなかでもっとも早く死刑判決が言い渡され、2018年7月26日に刑が執行されています。

 

 

 

岡崎一明の生い立ち① 家族と不遇な幼年期

 

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岡崎は1960年10月8日、山口県美祢市で生まれました。両親は市内の炭鉱で働いており、戸籍上は次男とされていますが兄は生後間もなく亡くなったため、事実上は長男として育ったといいます。

 

家庭環境は決して良かったとは言えず、岡崎が生後10ヶ月の頃、父が浮気相手を妊娠させてしまったことから母親はおかしくなっていったそうです。炭鉱長屋で行きあった赤の他人の女性に、幼い息子を養子に出す約束をしてきてしまいます。

 

そして1963年1月、岡崎が2歳3ヶ月の頃に両親が離婚。同時に父親は岡崎を前述の女性とその夫のもとに養子に出し、以降は「佐伯」姓を名乗って養親に育てられることになります。

 

幼いながらに母から捨てられ、会えなくなったことに大きなショックを受けた岡崎は4歳頃まで言葉の発達が遅れ、遊び相手と言えば飼っていた犬くらいだったそうです。

 

さらに養親となった佐伯家も、本来であれば子供を引き取るような余裕のない貧しい家庭で、一時期は水道すら通っていないような環境で生活をしていたといいます。

 

 

養父による家庭内暴力

 

養父は短気な性格で、喧嘩をしては仕事を辞めて帰り、転職を繰り返していたそうです。

 

また家庭内暴力もひどく、岡崎は4〜5歳頃から「口ごたえをするな」と殴られていたといいます。

 

何が原因で殴られるのか予測ができず、一緒にすき焼きを囲んでいただけで「お前は肉を食べるな」と手を挙げられた、との話もあります。

 

時には火のついた線香を肌にあてられ、火傷を負わされることもあったとのことです。

 

幼少期から「自分の父親は友達のお父さんとは何かが違う。普通の家のお父さんは、もっとおおらかで優しい」ということに気づいていたようで、「友達のお父さんは子供に『バカ』と言われても怒らなかった。うちでそんなことを言ったら、半殺しの目に遭っただろう」とも述懐していました。

 

オウム真理教の幹部には比較的恵まれた家庭環境で育ち、幼い頃から神童と呼ばれて一目置かれていたような人物が多かったとされます。

 

しかし、岡崎だけは不遇な幼年期を過ごしていることから、「岡崎一明は口八丁で人を騙すのが得意であった麻原の表面上の優しさに騙され、麻原に父性を求めていたのではないか」とも指摘されています。

 

 

 

岡崎一明の生い立ち② 宗教

 

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岡崎の養父は小学校にさえ1年しか通っていなかったことから、文字の読み書きも満足にできなかったといいます。

 

そういった事情もあり、岡崎は他のオウム幹部のように幼少期から学問に親しむということはなく、母親は津和野稲荷の信者、父親は創価学会の信者だったために、5歳の頃から親に強いられて創価学会の御題目を唱えさせられていました。

 

ほかにも、まだ創価学会が破門される前の時代であったことから、養父に連れられて富士宮市にある日蓮正宗の総本山大石寺に参拝に行くなどしていたそうです。

 

自分の興味の対象が定まる前から宗教が身近にある生活をしていたためか、岡崎は小学校にあがる前に「死」に対して急に恐怖心を感じ、足がすくんで動けなくなる経験をしたとされます。

 

 

 

岡崎一明の生い立ち③ 小学生〜中学生時代

 

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小学校の頃の岡崎は4年生で器械体操部に入り、6年生になると新聞配達のアルバイトも始めていました。

 

これは養父が職場で事故にあい、生活保護を受けることになったためなのですが、養父は小学生の岡崎が稼いできたアルバイト代まで脅して取り上げていたといいます。

 

中学は学区内の公立中学に進学しますが、家庭の事情で2度の転校を経験。一時期は友達の紹介でプロテスタントの宣教師に会い、日曜学校に通って聖書を学んでいたそうですが、岡崎の転校が原因で縁が切れてしまったそうです。

 

もしもこの時、岡崎が教会通いを続けられる環境にあれば、その後も信仰の対象はキリスト教でオウムのような新興宗教とは縁のない暮らしを送っていたのかもしれません。

 

中学生になっても家庭に振り回されていた岡崎でしたが、3年生時に大きな事件が起こります。

 

親子喧嘩の最中に養父から「お前は実の子ではない」というカミングアウトをされてしまったのです。

 

当時、高校受験のために勉強をしていた岡崎が養父に対して「息子が勉強しているんだから静かにしてくれ」と頼んだところ、激昂した養父が「お前なんて本当の子じゃない、もらってきただけだ」と言い返してきたといいます。

 

普通であればショックを受ける話ですが、岡崎は内心「なんでこんな貧乏な家にもらわれたのか、孤児院に入れられたほうが余程ましだった」と冷ややかな感想を持ったそうです。

 

 

 

岡崎一明の生い立ち④ 県内の工業高校に進学

 

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高校は山口県立小野田工業高等学校の業計測科(現在の電子計測科)に奨学金で進学。学用品は休日にゴルフ場や遊園地、工事現場などで働いて得たアルバイト代で購入し、あまったお金から養父母に小遣いを渡していたそうです。

 

教団に強制捜査が入った後、岡崎のことをよく知る信者からは「面倒見が良かった」といった証言があったとされますが、高校時代の岡崎は剣道部に所属し主将を務めていたといいます。

 

さらに高校の文化祭ではのど自慢大会に出場して優勝しており、複雑な家庭環境に育ちながらも逞しく学生生活を楽しんでいたことが窺えます。

 

一方、高校時代の岡崎は哲学と倫理学に興味を持ち、友達との議論を好む、読書に励んでは自主的に感想文を残すなど学業にも興味を持っていました。

 

 

 

岡崎一明の職歴とオウム真理教入信のきっかけ

 

高校を卒業した岡崎は、土木会社では働きながら学費を貯め、山口大学の夜間部に進学するつもりでいました。しかし、この土木会社の社長が入学金を出し渋ったことがきっかけとなって3ヶ月で退職。

 

その後は友人のツテで製造業に1年ほど従事し、学習教材の販売に従事することになります。この学習教材の販売営業の仕事は岡崎にあっていたようで、入社翌月には新人賞を授与されるほどの成績を出し、20歳の時には社内最年少で支店の所長に抜擢されていました。

 

しかし、好事魔多しとはよく言ったもので、同じ頃に養母がアルツハイマー型認知症を発症。

 

不幸続きの佐伯家という家系の業を感じた岡崎は、当時のベストセラーであった『守護霊を持て』に影響を受けて、精神世界に没頭するようになっていきました。

 

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そして養父とともに正しい先祖供養の方法を学ぶ、養父の紹介で老師に会う、仏具店で高額な木彫りの仏像を買うなどして、先祖の業を断ち切ろうとしたそうです。

 

怪しい道に進んでいっている印象を受けますが、精神世界に傾倒したことで良い変化もあったとされます。

 

1982年の春に禅の作法書である『天台小止観』を読んだ岡崎は、「部下の営業成績不振を叱りつけるのではなく、自分が変わらないと支店の売上はあがらない」と気付き、この意識改革がきっかけとなって殺伐としていた職場の雰囲気も改善されて任されていた支店の業績も一気にあがったとのことです。

 

しかしながら一度仕事で成果をあげた岡崎は営業成績第一主義となり、徐々に職場での人間関係は悪化していってしまいました。

 

そのため1983年には、営業成績は好調であったこの会社も退職し、系列会社に転職したものの部下にお金を騙し取られたことがショックでまたしても退職。そうして職を転々とするようになりました。

 

 

オウム真理教との出会い

 

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岡崎とオウムの出会いは1985年の夏頃のことでした。高校を卒業してから職を転々としていた岡崎は営業成績ばかり気にする生活に辟易しており、『ムー』や『トワイライトゾーン』といったオカルト雑誌に掲載されていた麻原彰晃の記事を読んで、麻原の唱える「魂の救済」などに強く惹かれるようになったのです。

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麻原に興味を持った岡崎は直接オウム神仙の会に電話をかけ、麻原が本物の修行者なのか確かめようとしたといいます。

 

連絡をすると麻原本人が対応し、「私も解脱したいのですが、営業の仕事で人を騙し、売上ばかりを考えて悪い業を積んできました」との岡崎の懺悔に対して、「あなたが罪を意識したときから、罪は消えています。解脱しようと思った時には、もうその道に入っているんですよ」などと諭したそうです。

 

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こうして1985年の12月には岡崎はオウム神仙の会の丹沢セミナーに参加し、そこで直接麻原に会って「なんて包容力のある、優しい人なのだろう。この人は『本物』かもしれない」と、心酔するようになってしまいます。

 

養父母の影響もあり、これまで岡崎はさまざまな宗教家、修行者を名乗る人に会ってきたのですが、彼らはみな傲慢で魅力に乏しい人物だったといいます。しかし麻原は他の宗教家とはまったく違い、柔和で明るく、岡崎の目には「自分が求めていた本物の指導者」に映ったのでした。

 

 

 

岡崎一明の教団内での活動

 

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1986年9月、26歳の誕生日を目前にした岡崎は故郷の山口から上京して出家、オウム真理教に入信しました。出家した際、岡崎はついに自分の居場所を見つけたと思ったといいます。

 

しかし、出家した先でも岡崎に求められたのは麻原が出版する本の営業でした。岡崎はオウム出版の営業責任者に任命され、同時期に出家した新実智光と業績を競わされることとなります。

 

結果として岡崎は麻原の著書『生死を超える』の販路を開拓し、次いで出版された『超能力秘密の開発法』の売上増大にも貢献しました。

 

これにより麻原から評価されるようになったのですが、1986年には麻原の愛人の石井久子を叱ったこと、1987年には戒律を破ったことが原因で麻原に叱責されて過酷な長期修行を命じられることに。

 

岡崎は1987年5月28日から7月25日の間、59日に渡って毎日16時間~20時間を通気口もない真っ暗な独房にこもり、1日1食で過ごすという修行をしました。

 

飢えと暑さから岡崎はやせ細り、修行から10日で麻原に遺書を書くように命じられた際には「自分はもう死ぬのだな」と死を覚悟したといいます。

 

こうした経験を乗り越えて精神的修養を重視するラージャ・ヨーガで成就したと認められ、岡崎は大師になったのでした。

 

 

 

岡崎一明が関与した事件① 在家信者死亡事件(不起訴)

 

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岡崎が教団内で最初に関与した事件は、1988年に静岡県富士宮市の富士山総本部道場で起きた在家信者死亡事件です。

 

この事件では麻原に命じられて岡崎、新実らが在家信者の真島照之さんを水責めにして死亡させ、秘密裏に遺体を焼却したとされます。

 

1988年9月22日、富士山総本部道場での修行中にてんかんのような症状を見せ、錯乱状態に陥った真島さんの様子を岡崎が村井秀夫に報告し、村井が麻原に伝えたところ「頭に水をかけろ」と指示されました。

 

その命令に従って2人の信者が風呂場で水を浴びせかける、水をはった浴槽に頭を漬けるなどしたところ、真島さんが脱力して意識不明に。

 

驚いた2人が岡崎や新実、村井らに報告し、駆けつけた岡崎らは人工呼吸を試みたものの真島さんは死亡してしまい、麻原の指示によって真島さんの死は教団内で揉み消されることとなります。

 

なお、この時麻原は一方的に遺体の処分を命じたわけではなく、幹部や真島さんの死を知る一部の信者を集めて「この事故を警察に届け出れば、救済計画に大幅な遅れが出る。今、教団は勢いに乗っているところだが、どう思うか。秘密裏に処理したほうがいいと思うか?」などと話したそうです。

 

麻原はあえて信者たちの方から「教団内で遺体を処理して、死亡事故を隠蔽しましょう」という意見を引き出すことで、「自分たちが真島さんの遺体を遺棄した」という罪の意識をより強く植え付け、教団のほかにいる場所はないと思い込ませて、いっそう教団への忠誠心と連帯意識を高めたわけです。

 

結局、真島さんの遺体は岡崎や村井らによって教団の敷地内で燃やされ、骨も細かく砕かれて上九一色村内の精進湖に捨てられました。

 

そしてこの事故が、次の悲劇を生むこととなるのです。

 

 

 

岡崎一明が関与した事件② 男性信者殺害事件

 

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1989年2月10日、オウム真理教のサティアン内で教団信者の田口修二さんがリンチの末に殺害される事件が起こりました。

 

田口さんは前述の在家信者死亡事件に関わっており、真島さんの遺体を遺棄した教団に疑問を持つようになっていました。

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岡崎の下でオウム出版の著作の営業を任されていた田口さんは、真島さんの一件があってから麻原を信じられなくなったことや、脱会したいと思っているという旨を岡崎に伝えたといいます。

 

これを岡崎から報告された麻原は、村井秀夫に田口さんを監禁するように命じ、田口さんは2畳程の狭さの窓も照明もない独房に閉じ込められることになったのです。

 

しかし、数日間に渡って監禁された後も田口さんの脱会の意志は変わらなかったそうです。

 

そして田口さんは外の世界に出て、真島さんの死をバラすつもりなのではないかと恐れた麻原は岡崎、新実、村井、早川、大内の5人を集めて「どうしても脱会したがるようなら、ポアするしかない」と、田口さん殺害を指示。

 

見張り役の大内以外の4人で、麻原から渡されたロープで首を締め上げて殺害を試みたものの、抵抗されたために最終的には新実が首の骨を折って田口さんの命を奪ったとされます。

 

田口さんの遺体は真島さん同様に教団の敷地内で償却され、粉々にした骨も敷地内にまかれました。

 

この事件の後に麻原は実行犯の5人を集めて「魂の救済が目的ならば、殺人は善行である」というデタラメな教えを説き、大内以外の4人が坂本堤弁護士一家殺害事件にも関与することとなります。

 

 

 

岡崎一明が関与した事件③ 坂本堤弁護士一家殺害事件

 

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岡崎一明が関わった事件のうち、もっとも凶悪であったのが1989年11月4日に発生した坂本堤弁護士一家殺害事件です。

 

この事件の被害者となった弁護士の坂本堤さんは、出家信者の親からの訴えを受けて教団について調査を進めていた人物で、オウム真理教被害者の会も彼の助言によって結成されたものでした。

 

1990年の衆議院議員選挙への出馬を考えていた麻原にとって、教団からの脅しに屈することなく信者家族のために動く坂本弁護士が、非常に邪魔な存在であったことは容易に想像できるでしょう。

 

坂本弁護士がマスコミの注目を集めるようになると麻原は、田口さん殺害に関与した大内以外の4人と、中川智正を集めて「ポアしろ」と塩化カリウムで坂本弁護士を殺害するように命令したのです。

 

上記の5人は腕力のある端本悟を誘い、坂本弁護士一家が暮らす横浜市磯子区洋光台の住宅地に向かいました。

 

そして坂本弁護士と妻の都子さん、さらに1歳の長男・龍彦ちゃんまで容赦なく殺害したのです。

 

一家の遺体は新潟県上越市にある大毛無山と富山県魚津市の僧ヶ岳に埋められ、事件後も遺体が発見されなかったことから、神奈川県警は「坂本弁護士一家は借金苦で失踪した」などという心無い発表をし、マスコミもこれを報道していました。

 

 

 

岡崎一明の逃亡から逮捕まで

 

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事件現場に中川がプルシャ(教団信者がつけていたバッジ)を落としていったことにより、かなり早い段階から坂本堤弁護士一家の失踪にはオウム真理教が絡んでいるのではないかと疑われていました。

 

一方で坂本堤弁護士一家の失踪はオウムとは無関係だと発表した神奈川県警や、一部メディアでオウムを庇うような発言がされたこともあり、教団もスポークスマンの上祐史浩や青山吉伸をマスコミに出して無実を訴えました。

 

このような騒動の最中、事件の実行犯でありすべてを知っている自分は麻原に消される恐れがある、と疑心暗鬼になった岡崎は1990年2月10日午後6時頃、現金2億2000万円と残高8000万円の預金通帳などを盗んで教団から逃げ出したのです。

 

現金は岡崎が潜伏先から知人の家に宅配便で送ろうとした途中で教団に勘づかれ、宅配業者に早川が「犯罪に関するものだから送らないでほしい」などと言って取り戻したといいます。

 

その後、1990年2月16日に岡崎は神奈川県警と坂本弁護士が在籍していた横浜合同法律事務所あてに、龍彦ちゃんの遺体を埋めた場所を示す地図を送りました。

 

しかし、これは罪の意識に苛まれての行動ではありません。麻原を強請ってお金をとるための手段だったのです。

 

岡崎は続いて坂本弁護士と妻の都子さんの遺体を遺棄した場所を記した手紙を、東京駅から神奈川県警と横浜合同法律事務所に送り、すぐさま麻原に連絡して口止め料として1,000万円を支払うように要求しました。

 

この時、岡崎は教団の選挙資金170万円をすでに着服していたため、麻原はそれを差し引いた830万円を指定の口座に振り込むことを約束。坂本弁護士夫妻についての情報が書かれた手紙は、横浜郵便局で回収されることとなります。

 

なお、裁判中に岡崎は麻原を強請った動機について「電話をした時に『本当はこういう気持ちでオウムを出ていったんだろう』『お前の気持ちもわかるよ』と言ってほしかった」と、麻原の関心を引くことが目的だったと話していました。

 

ただ、同時に岡崎は「教団を逃げ出した自分のことを麻原さん(裁判中、岡崎はこのように麻原を呼んでいたという)は殺しに来るはずだ。だから牽制するために手紙を送り、強請った」とも話していました。

 

自分を殺そうとしている人間の関心を引きたかった、というのは理解しがたい話です。どちらが本当の動機なのかは不明ですが、いずれにしても保身のために坂本弁護士一家の情報を使おうとしたことは間違いありません。

 

 

自首・逮捕までの足取り

 

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オウム真理教から逃げた後、岡崎は龍彦ちゃんの遺体遺棄現場の地図を送った犯人ではないかと疑われ、神奈川県警による事情聴取を受けていました。

 

手紙が送られてきた同時期に岡崎が教団から姿を消していたために目をつけられたとのことで、神奈川県警はこの時すでに遺体遺棄現場近くで岡崎を見たという証言も得ていたといいます。

 

実際に岡崎は地図を作成するために1人で遺体遺棄現場に訪れて測量をしていたそうで、それを目撃した人から情報が寄せられたとのことです。

 

しかも事情聴取時に神奈川県警はポリグラフ検査も行っており、岡崎本人の証言によると「この時、捜査官から『おかしいな、犯人にしかでない反応が出てるぞ』というようなことを言われた」そうです。

 

それだけ怪しい人物が目の前にいながらなぜか神奈川県警はあっさり岡崎を帰しており、龍彦ちゃんの遺体捜索もわずか1日で打ち切っていました。

 

そのため事情聴取を受けても岡崎は逮捕されず、その後は1,000万円を超える謝礼金を受け取ってマスコミの取材に応じる、故郷の山口で学習塾『學塾』を開くなどして暮らしていたとされます。

 

またこの頃、岡崎は黒いラブラドールレトリーバーを飼っていたといいます。大型犬の飼育費用は食事だけでも相当なものですから、それなりに良い暮らしをしていたのでしょう。

 

岡崎が自供をしたのは、1995年4月のことでした。同年3月20日に地下鉄サリン事件が起きたことで「こんなことをするのは麻原しかいない。麻原が捕まったら自分が坂本堤弁護士一家を手に掛けたことがバレる」と焦り、自分から神奈川県警に電話をしたといいます。

 

しかし、その後は警察に出頭するわけでもなく交際していた中国人の恋人と結婚するために中国に渡っており、岡崎は新しい生活への準備をしていました。

 

そして日本に戻ってからも逃げ回り、自首をしたのは同年5月20日。おそらく5月16日に麻原彰晃逮捕を目的とした教団に対する強制捜査が行われたため、もう逃げ場はないと観念し、少しでも罪を軽くしようと出頭したものと思われます。

 

 

 

岡崎一明の裁判

 

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自首をした後、岡崎の供述通りの場所から坂本弁護士一家の遺体が発見されたことにより岡崎は逮捕されました。

 

1995年9月6日に坂本堤弁護士、7日に妻の都子さん、10日に龍彦ちゃんの遺体がそれぞれ発見され、一家殺害もオウム真理教によるものだったことが判明したのです。

 

そして岡崎は田口修二さん殺害と坂本堤弁護士一家殺害の2つの事件で起訴されました。

 

 

第一審の公判

 

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岡崎一明の初公判は1996年4月17日、東京地裁で開かれました。

 

岡崎の裁判では、一連のオウム真理教関連の裁判のなかで初めて犯行当時の精神状態を調べる精神鑑定が行われました。裁判所が認めた鑑定項目は、犯行時の岡崎の心理状態とそれが犯行に及ぼした影響という2点だったといいます。

 

岡崎が麻原のマインドコントロール下に置かれていたため犯行時は心神喪失状態にあった、という鑑定結果が出るおそれも予想されたためこの結果には注目が集まりました。

 

しかし、精神鑑定では犯行時の岡崎の精神状態に異常は認められなかったという結論が出ます。

 

ただ鑑定を担当した医師からは、「教団内で行われた過激かつ個人の思考を奪う修行の結果、信者は通常ではあり得ない夢のような境地に至り、かつて感じたことのないような快感や多幸感、充足感を得ることがある」と指摘されており、岡崎も奇妙な体験をしていたといいます。

 

たとえば暗闇のなかで三色の光を見る、意識が身体を離脱して隣の部屋に飛んでいく、過去の自分を見るといったような神秘体験をした、と岡崎は証言していました。

 

それは疲労や極限状態による幻覚、幻聴ではないのかと首を傾げたくなりますが、麻原はこのような体験は教祖の特別な力によるもので、教団の修行でしか得られない特別なものだと説いていたそうです。

 

岡崎に限らず信者は全員この言葉を信じていたといい、神秘体験を繰り返すごとに麻原に対する信頼を深め、他のことには意識が向かなくなっていった、そうなると麻原の言うことに逆らえなくなるのだ、と鑑定医は指摘。

 

実際、岡崎は坂本堤弁護士一家を殺害した後、良心の呵責に苛まれるどころか自分たちの成果を喜ぶ麻原の顔を思い浮かべて多幸感にひたり、キラキラしたものが見えるという神秘体験をしたといいます。

 

 

第一審の判決

 

1998年10月23日、岡崎に対する第一審の判決が言い渡されました。東京地裁が下した量刑は死刑であり、これは一連のオウム関連の事件のなかでもっとも早い死刑判決でした。

 

前述の精神鑑定書では「精神状態に異常は見られなかったものの、犯行当時の被告人にとって麻原に従う以外の選択肢はなかった」「逮捕前から自らの知る情報を警察に提供しており、オウム関連の事件の全貌解明に寄与した」等とされており、減刑を求めるような記述が見られました。

 

しかし検察の求刑は死刑であり、下された判決も死刑。これは当初、岡崎が坂本堤弁護士一家殺害事件に関与したことは認めつつも「自分はただの見張り役だった」と嘘の供述をしたうえ、さらに自分と関係のあった田口さん殺害の件は反省しているものの、坂本弁護士一家の殺害についてはここに至っても反省していないように見えたためでした。

 

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また、公判中の岡崎の態度には「自分がいたから坂本堤弁護士一家殺害事件が解決した」というような驕りが見えたといいます。

 

この態度に対して証人として出廷した坂本都子さんの父・大山友之さんが、「岡崎がいたから事件が解決したのではない、岡崎がいたから3人が殺されたんだ」と訴えたこと、坂本弁護士の母・さちよさんが「取り乱さずに立っていられる自信がありません」という理由で出廷を拒んだことも、死刑判決への大きな後押しになりました。

 

 

死刑確定

 

その後、岡崎は減刑を求めて東京高裁に控訴しましたが棄却され、さらに最高裁まで上告したもののやはり棄却。こうして2005年5月6日に死刑が確定しました。

 

同じくオウム真理教の幹部で死刑以外あり得ないと見られていた林郁夫が無期懲役となった一方で、自首、早期の情報提供をした岡崎が死刑になった理由はなぜなのかという点は注目を集めました。

 

関与した事件の被害者だけを数えれば、地下鉄サリン事件の散布役・実行犯であった林郁夫のほうが罪が重いと言えます。

 

しかし、林郁夫は逮捕後から一貫して自分が不利になることも正直に話していたうえ、裁判でも終始、被害者と遺族への謝罪を重ね「心をかけてくれる人もいるけれど…私は生きてちゃいけない」と極刑を受け入れる姿勢を崩しませんでした。真摯に謝罪を続ける姿に、出廷していた被害者遺族の目にも涙が浮かんでいたといいます。

 

逮捕前ではあるけれど保身のために嘘の混じった自供をした岡崎一明と、逮捕後ではあるけれど被害者と遺族のために極刑覚悟ですべてを自発的に話した林郁夫。

 

それぞれの自供のおかげで、坂本堤弁護士一家殺害事件、地下鉄サリン事件の真相解明が早まったとされていますが、どのような気持ちで自供をしたのかという点が2人の判決を分けたとされています。

 

 

 

岡崎一明の死刑執行と最期の言葉

 

出典:https://www.youtube.com/

 

岡崎一明の死刑は、2018年7月26日に名古屋拘置所で行われました。享年57歳。

 

死刑判決を言い渡された後、2008年頃から岡崎は「言葉以外のものでないと表現できない」として筆ペンなどを使って野鳥や山河などの絵を描き、匿名でコンクールに出展するなどしていました。

 

また、死刑判決時には支援者の1人であった寺の住職と養子縁組をしており、苗字が「宮前」となっていました。

 

拘置所内では自分の罪を深く悔いていたようで、養父の住職の話によると岡崎は部屋の壁に坂本弁護士と田口さんの戒名を書いた札を貼り、毎日深々と頭を下げていたそうです。

 

2018年の3月に収監されていた東京拘置所から処刑施設のある名古屋拘置所に移送された岡崎は、自分の最期が近いことに気づいており、死刑執行当日も取り乱したり反抗したりすることなく、大人しく刑務官に従ったといいます。

 

岡崎の最期の言葉は不明ですが、刑の執行後に遺体と対面した支援者は「安らかな顔だった」と語っていました。

 

 

 

岡崎一明と飯田エリ子の関係は?

 

出典:https://kwsklife.com/

 

前述したように岡崎は戒律を破ったことによって麻原に責められ、1987年に長期修行を命じられていました。

 

この原因となったのが、古参女性信者の1人である飯田エリ子との肉体関係だといいます。信者同士で肉体関係を持つことは、教団内ではご法度だったのです。

 

しかし岡崎は1997年3月27日に行われた早川紀代秀の裁判に出廷した際、飯田エリ子と自分が世間一般でいうような恋人関係ではなかったことを明かしていました。

 

この時の証言によると飯田エリ子は麻原とも肉体関係を持っており、自分たちの関係を麻原に密告したのも彼女だったとのこと。

 

麻原は教団内に後宮をつくると豪語していたそうで、実際に正妻との間の6人の子供以外に、愛人信者との間に6人、合計12人もの子供をもうけていました。

 

飯田エリ子も「尊師の後宮」にいた愛人の1人であり、岡崎の恋人以前に麻原の愛人であったことが、この証言から窺えます。

 

 

 

岡崎一明は結婚していた?嫁は誰?子供はいる?

 

岡崎一明は麻原の命令でオウム真理教の女性信者と結婚しており、嫁を伴って教団から逃げたことが明らかになっています。

 

オウム真理教では基本的に出家信者同士の結婚は許されないことなのですが、例外として麻原の指示があれば結婚が可能でした。

 

とはいえ麻原は想い合っている恋人同士の結婚を許していたわけではなく、家族が連れ戻しに来るなどして脱会したいと言い出す可能性が高い信者を、適当な者と結婚させて教団に縛り付けようとしていたのです。

 

岡崎の嫁の両親も、何度も彼女を連れ戻そうと教団にやって来ていたといい、脱会が危ぶまれる信者の1人でした。そのため彼女が好意を持っていたという岡崎と結婚させることで、教団に引き止めたのです。

 

結婚に岡崎の同意はなかったそうで、本人の知らぬ間に麻原に命じられた新実が婚姻届を出していたといいます。

 

この女性とは1991年に協議離婚をしており、坂本堤弁護士一家殺害事件への関与を認め、自首する直前に再婚したことが明らかになっています。

 

再婚相手はかねてから交際していた中国人女性で、自首する前に岡崎は自分の財産を妻名義にしていました。

 

1人目の嫁、再婚相手ともに子供がいたのかは不明ですが、裁判時にも子供の話はいっさい出ていないことから、結婚はしても子供はもうけなかった可能性が高いと思われます。

 

 

 

岡崎一明とオウム真理教で関与した事件についてのまとめ

 

今回はオウム真理教の元信者であり、男性信者殺害事件、坂本堤弁護士一家殺害事件などに関与して死刑となった岡崎一明について紹介しました。

 

岡崎の複雑な生い立ちは少なからず教団入信、麻原への盲信の原因となっており、気の毒な面があるのも事実です。

 

しかしながら岡崎は坂本弁護士一家を襲撃する際、麻原の指示があったわけでもないのに1人で勝手に坂本家の鍵が開いていないか確認に行くなどしており、同事件の実行犯からは「岡崎があんな確認をしなければ、『住宅密集地でバレずに殺人なんて無理でした』と麻原に報告できた」との証言まで出ています。

 

最終的には死刑を受け入れ、罪に向かい合っていたという岡崎一明。最期には人間らしい気持ちを取り戻せたのだなと思うと、なんとも複雑な気持ちにさせられます。

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