鈴木嘉和さんは、風船で太平洋横断を志して行方不明になった実業家で、「風船おじさん」の別名で知られます。この記事では鈴木嘉和さんの生い立ちや経歴、家族、結婚、起こした事件や最後、死因、動画、嫁や子供(娘)のその後や現在を紹介します。
この記事の目次
- 鈴木嘉和さん(風船おじさん)とファンタジー号事件の概要
- 鈴木嘉和さんの経歴・生い立ち① 出生~会社設立まで
- 鈴木嘉和さんの経歴・生い立ち② 横浜博覧会立て籠もり事件を起こす
- 鈴木嘉和さんの経歴・生い立ち③ 会社が倒産する
- 鈴木嘉和さんの経歴・生い立ち④ ヘリウム風船不時着事件
- 鈴木嘉和さんが起こしたファンタジー号事件の詳細① 出発
- 鈴木嘉和さんが起こしたファンタジー号事件の詳細② 出発時の不安
- 鈴木嘉和さんが起こしたファンタジー号事件の詳細③ 最後に目撃された場所
- 鈴木嘉和さんが起こしたファンタジー号事件の詳細④ 行方不明になる
- 鈴木嘉和さんの死因は?
- 鈴木嘉和さんの動画はある?
- 鈴木嘉和さんのその後① 行方の考察
- 鈴木嘉和さんのその後② 結婚していた嫁や家族の現在
- 鈴木嘉和さんのその後③ 子供(娘)が美人だと話題になる
- 鈴木嘉和(風船おじさん)についてのまとめ
鈴木嘉和さん(風船おじさん)とファンタジー号事件の概要
出典:https://neutralman.exblog.jp/
1992年11月23日、東京都小金井市在住のピアノ調律師・鈴木嘉和(よしかず)さんが、風船をつけたゴンドラ「ファンタジー号」に乗って琵琶湖畔を飛び立ちました。
鈴木嘉和さんは風船での太平洋横断という目標を掲げており、アメリカのネバダ州を目指したとされます。
この日は飛行訓練としてマスコミや支援者などを集めていたのですが、ファンタジー号が上昇したところで気を良くしたのか、急に係留ロープを外して対空に飛び去っていったそうです。
その後、2日間は消息が確認できていたものの、以降は鈴木嘉和さんもファンタジー号も行方不明となり、現在も発見されていません。
この失踪事件は「ファンタジー号事件」としてマスコミで盛んに報じられ、鈴木嘉和さんには「風船おじさん」という愛称がつけられました。
鈴木嘉和さんの経歴・生い立ち① 出生~会社設立まで
鈴木嘉和さんは、1940年8月21日に東京都内で誕生しました。
親はピアノ調律師で、鈴木さんも国立音楽大学附属高等学校を卒業した後に契約社員としてヤマハ株式会社に就職。ピアノ調律師として働き始めます。
その後、1984年に音楽関係の教材を販売する「ミュージック・アンサンブル」という会社を起業。
オーケストラの演奏から特定の楽器の演奏を1つだけ外して録音した「マイナスワンテープ」というカラオケテープを、ピアノ練習用に編集し直したものを販売するなどしていました。
ほかにもミュージック・アンサンブル主催で定期的に音楽会を開催しており、1985年には日比谷野公会堂でも公演をしているのですが、鈴木さんは音楽会のフィナーレには決まって大量の風船を空に放つという演出をしていたそうです。
1986年からは喫茶店や雀荘、パブレストランの経営などにも手を出し始め、銀座に音楽サロン「あんさんぶる」を開業します。
1986年といえば日本はバブル前夜の好景気に沸いていた頃ですから、鈴木さんも本業と関係のない業務にもどんどん手を出したのでしょう。
しかし、たちまち経営難に立たされ、ミュージック・アンサンブルの運営さえ立ち行かなくなってしまいました。
高校時代に好きだった映画『赤い風船』
鈴木さんは高校生時代に『赤い風船』というフランス映画に傾倒していたといい、ファンタジー号で空を飛ぶという着想もこの映画から得たと見られています。
この映画は1956年に日本でも公開されており、アカデミー賞の脚本賞やカンヌ国際映画祭の短編パルム・ドールを受賞した作品です。
孤独な少年が主人公のショートストーリーなのですが、ラストに主人公が手にした風船で空に飛び立つシーンがあり、この場面に影響を受けてファンタジー号が誕生したのではないかと考えられます。
鈴木嘉和さんの経歴・生い立ち② 横浜博覧会立て籠もり事件を起こす
鈴木嘉和さんは、ファンタジー号事件を起こす前にも2件の事件を起こして世の中を騒がせていました。
その1件が、1989年の「横浜博覧会立て籠もり事件」です。
鈴木さんは1989年3月25日から10月まで横浜市で開催されていた、横浜博覧会に飲食系のテナントを出店していました。
しかし、立地が悪かったことや博覧会そのものの来場者数が少なかったことから売り上げが振るわず、出店のために支払った権利金の回収も見込めない状態でした。
そこで鈴木さんは、横浜博覧会のマスコットキャラクターである「ブルアちゃん」を使って集客しようと考えます。
ブルアちゃんは漫画家の手塚治虫さんがデザインしたマスコットで、博覧会の来場者は伸び悩む一方で、ブルアちゃんグッズは20億円の売り上げを出すほど人気があったそうです。
この人気に目をつけた鈴木さんは、自作したブルアちゃんの着ぐるみを博覧会会場に持ち込み、これを着て勝手に撮影会とサイン会を開いたのです。
誰が見ても問題しかない行動ですが、くわえて鈴木さんは「閉幕が迫っているのに、博覧会の事務局は集客の少なさを解消しようともしない。許しがたい」として、ブルアちゃんの着ぐるみを持って博覧会会場に立てこもる事件まで起こします。
7月30日の早朝4時にブルアちゃんの着ぐるみを持って会場にやって来た鈴木さんは、高さ30メートルの鉄塔コロネードによじ登って、居座るという抗議活動を展開しました。
しかし、午前10時頃に鉄塔コロネードから「団体バス駐車場を開放してね」という垂れ幕をたらそうとして難航していたところを博覧会スタッフに見つかり、119番通報されてしまいます。
すぐに横浜消防局のレスキュー隊員が駆け付け、はしご車を使って鉄塔コロネードに上り、着ぐるみを着た鈴木さんの説得にあたりました。
最終的に1時間ほど鉄塔の上で問答をした後、11時45分頃にようやく鈴木さんが地上に降りてきたため怪我人などはでなかったのですが、現場ではちょっとした騒動になったといいます。
ファンタジー号の片鱗
この立てこもり事件に関しては、行動こそ過激だったものの鈴木さんの主張にも一理ありました。
この頃、日本各地では好景気の影響を受けて地方万博がブームになっていました。横浜万博もその一つだったのですが、「自家用車での来場禁止」という変わったルールが設けられていたのです。
横浜博覧会の会場周辺はみなとみらい21地区で、自家用車での来場を認めてしまうと横浜駅周辺から国道133号線にかけての渋滞が予想されました。
そのため遠隔地から訪れる人が少なく、運営側が「1日あたりの来場者10万人」を掲げていたにもかかわらず、実際には3~4万人程度の来場者数にとどまったといいます。
鈴木さんらテナント出店者は、運営側の「1日の来場者10万人」を信じて、出店すれば1日100万円の売り上げが見込めると考えていました。
しかし、実際には1日の売り上げが10万円にも満たない日もあり、店の内装や営業、テナント代でかかった合計3000万円をとても支払えない状態でした。
鈴木さんが出展していた場所はちょうど団体バスの駐車場の近くだったそうです。
そのため、ここを自家用車用に開放すれば、自分の店にそのまま客が流れるのではないかと考えた末に、鉄塔コロネードから「団体バス駐車場を開放してね」という垂れ幕をさげて、立て籠もるという抗議活動をとったのです。
立て籠もり事件の後、鈴木さんは博覧会運営から厳重注意を受けましたが、許可をとったうえで集客目的で新しいアトラクションを設置することを認められます。
これがファンタジー号の前身とも呼べるもので、鈴木さんが考案したのは、ヘリウムガスを入れた風船でロープで係留したゴンドラを地上20~30メートルまで浮かせ、空中散歩を実現するというものでした。
自腹で設置したというこのアトラクションはそこそこ好評だったようで、9月1日から10月1日までの1ヶ月の間に約2500人が挑戦したそうです。
鈴木嘉和さんの経歴・生い立ち③ 会社が倒産する
横浜博覧会立て籠もり事件を起こした翌年の1990年、鈴木さんが経営していたミュージック・アンサンブルが4億円から5億円の負債を抱えて倒産します。
債権者の数は20人以上いたといい、自己破産以外の道は残されていないような状況でした。
しかし、鈴木さんは破産を選ばずに債権者たちに「借金返済できるビジネスプランがある」と話していたそうです。
その計画こそ、「ヘリウムがすを入れた風船26個をゴンドラにつけて太平洋横断をする」というもので、出資者を募って計画を成功させれば借金返済できると債権者に説明していたといいます。
この時にすでに風船をつけたゴンドラを「ファンタジー号」と呼んでいたとのことですから、長年構想していたアイディアだったことが窺えます。
そんななか、1991年に鈴木さんに出資したいという人物が登場します。
正確にはファンタジー号計画への出資を申し出たのではなく、鈴木さんが経営する銀座のパブに出資する人物が現れたのですが、これを機にアルゼンチンの女性歌手グラシェラ・スサーナのマネージャー業に就くことに。
しかし、1年も経たずに1992年4月には契約解除しており、その後ついに再起をかけてファンタジー号計画を実行に移すことになります。
鈴木嘉和さんの経歴・生い立ち④ ヘリウム風船不時着事件
1992年4月17日、鈴木さんは東京都府中市の多摩川河川敷から風船で空に飛び立とうとします。
この時はゴンドラではなく、椅子に直径5メートルと直径2.5メートルの風船を2個ずつくくりつけて飛行しようと計画。千葉県の九十九里を目的地としていました。
鈴木さんの計画を聞きつけた府中警察は署員を河川敷に派遣し、「どこに飛ぶのかわからないのに危険すぎる」と諦めるよう説得を試みたそうです。
マスコミも河川敷に集まって「やめた方がいいのではないですか?」「風が強いですよ」と思いとどまるように促しました。
しかし、鈴木さんは「やめません。風船を信じていますから」「落ちない、上にいかないということで自分も信じてます」と言って聞く耳を持ちませんでした。
そして警察やマスコミの静止を振り切って、鈴木さんは12時45分頃に大空に飛び立っていきます。
ところが早々に事件が起こります。最初は高度400メートルを保って飛行する予定だったのですが、途中でおもりとしてつけていた15kgの砂袋2個が外れたため、予想外の高さに上昇してしまったのです。
なんと5,600メートルの高さまで浮かび上がってしまった鈴木さんは、持っていた100円ライターでロープを炙って大きい方の風船を切り離しました。
これによって高度が下がり、出発から約1時間後の13時40分頃には東京都大田区大森西七丁目の民家の屋根にあえなく不時着。
鈴木さんは民家の2階の屋根から宙吊りで引っかかったものの大きな怪我はなく、自分でこの家の住民に「ハサミを貸してください」と頼んで脱出を図ったそうです。
なお、この民家の住民によると鈴木さんが不時着したせいで屋根の瓦が割れ、テレビのアンテナが折れるという被害が生じたといいます。
しかし、鈴木さんからは謝罪も弁償もなかったとのことです。
側から見れば失敗に終わった鈴木さんの計画でしたが、本人は手応えを感じて「次はハワイに行く」とマスコミに向けて豪語します。
そして、このヘリウム風船不時着事件のすぐ後に、風船おじさんの名前を日本中に知らしめるファンタジー号事件を起こすことになるのです。
鈴木嘉和さんが起こしたファンタジー号事件の詳細① 出発
ヘリウム風船不時着事件で世間を騒がせ、警察や無関係の民間人にまで迷惑をかけたことにより、大手マスコミは鈴木さんと距離を取るようになりました。
また、これまで鈴木さんに大量のヘリウムガスを卸していた会社も「もうついていけない」という理由で販売を拒むようになったそうです。
しかし、このような事態になっても鈴木さんは風船で太平洋横断をするという夢をあきらめていませんでした。
同志社大学の三輪茂雄工学部教授が、和紙を使った風船を飛ばす計画を立てていると聞いた鈴木さんは、三輪教授が取り組んでいたネバダ州の鳴き砂の保護活動に協力することにします。
鈴木さんがファンタジー号に乗ってネバダ州のリノに着陸して、鳴き砂の浜の保全を訴えればアメリカの人々の心を動かせるのではないかと考えたのです。
鈴木さんは1992年の6月には同志社大学の講演会に登壇し、直径2.5メートルの風船16個をゴンドラにくくりつけて、アメリカ大陸を目指す計画を発表します。
前回の失敗から、これだけの風船があれば高度10,000メートルまで上昇できるとして、約40時間でネバダ州に到着するという試算を出したそうです。
当初は鳴き砂の保全を目的としていることにあやかって、島根県仁摩町(現大田市)の「仁摩サンドミュージアム」の広場から飛び立つ予定でした。
日程も1992年9月12日と決まっており、連邦航空局の飛行許可も受けていました。
そのため、鈴木さんは日本の運輸省(現在の国土交通省)の許可も得られるものと考えていましたが、以下のような理由で許可は出なかったといいます。
・ゴンドラに登場する人物が無線免許を持っていない
・ゴンドラにATCトランスポンダが設置されておらず、地上から位置が特定できない
運輸省は地面にゴンドラを係留した状態で浮遊するだけならば認めるとしましたが、当初の計画は白紙となりました。
こうして鈴木さんは運輸省の許可を得ないまま、ファンタジー号で太平洋横断をしようと考え始めたのです。
1992年11月23日・琵琶湖から飛び立つ
1992年11月23日、鈴木さんはファンタジー号の飛行訓練を行うとして、三輪教授や同志社大学の学生、フジテレビ系列で放送されていたモーニングショー『おはよう!ナイスデイ』の取材班と朝日新聞の記者、支援社らを琵琶湖畔に集めました。
ゴンドラを地面に係留したまま上空200〜300メートルまで浮上させる予定で人を集め、三輪教授や支援者らには「飛行実験で成功を繰り返せば、さらに出資者が集まり、太平洋横断の夢が近づく」と説明していたそうです。
しかし実際には、鈴木さんはこの日にアメリカに向かうつもりだったと考えられています。
飛行訓練の前に鈴木さんは「アメリカに飛び立ったらマスコミが家に押し寄せてくるから」と、妻子をホテルに泊らせ、子供たちにもアメリカ土産は何が良いか聞いていたそうです。
鈴木さんを乗せたゴンドラは地上120メートルほどまで上昇した後にいったん着地したのですが、16時20分頃に再び上空に舞い上がると、係留ロープを切って「行ってきます」と言い残して、そのまま飛び立っていきました。
話が違うと慌てた三輪教授が「どこに行くんだ!」と呼びかけたところ、鈴木さんは「アメリカですよ」と返したそうです。
最初のうちは琵琶湖周辺に植えられた桜の木に引っかかりそうなほどの低空飛行をしていたものの、10分もしないうちにファンタジー号は東の空に消えていきました。
この時、鈴木さんは52歳。あまりにも予想外の行動を目の当たりにした三輪教授や支援者らは、呆れて立ち尽くしてしまったといいます。
ファンタジー号の装備
ファンタジー号に使われたゴンドラは、約2メートル四方、深さ約1mのヒノキ製のものでした。
材料にヒノキを選んだ理由は浮力が高いからだそうで、やむを得ず着水した時のことを考えてのことです。
ゴンドラを製作したのは船大工などではなく、東京都江戸川区に住む桶造り名人・吉原誠一さんでした。
吉原さんは注文に応じてさまざまな桶風呂を作っていたといい、ファンタジー号も特注で作られたことから、かなりの金額になったのではないかと思われます。
さらにゴンドラにはおもりを積んでいたのですが、前回のように砂袋15kgではなく、今回は風船からガスが抜けて浮力が低下した際に、おもりの重さを減らして高度を微調整できるように、焼酎200本が積み込まれました。
焼酎の銘柄も寒冷地でも凍らない沖縄焼酎のどなんに限られ、1本あたり5500円のものが使われたそうです。
ほかに、装備品としては以下のようなものがゴンドラ内に積まれていたといいます。
・48時間分の酸素ボンベとマスク
・1週間分の食糧
・緯度経度測定器
・高度計
・速度計
・海難救助信号機
・パラシュート
・レーダー反射板
・地図
・携帯電話(NTT)
・防寒服
・ヘルメット
・紫外線防止サングラス
これだけ見ると意外と準備は怠りないのだなという印象を受けますが、鈴木さんは計器類の見方を勉強しておらず、使い方のわからないものも多かったそうです。
さらに食糧も「絶食の訓練をしているから大丈夫だ」と言い張って、煎餅やスナック菓子しか積んでいませんでした。
鈴木嘉和さんが起こしたファンタジー号事件の詳細② 出発時の不安
予定では主力風船6個と補助風船26個の揚力800kgで、荷物と鈴木さんを積んだゴンドラは宙に浮かぶはずでした。
しかし、実際には主力風船は4個に減り、補助風船も26個用意できなかったことから、実験当日になってゴンドラを軽くするための作業が行われました。
その作業というのも雑なもので、土壇場になって鈴木さんはノコギリでゴンドラのあちこちを切って軽量化するなどしていたそうです。
さらに後になって同志社大学の学生が証言したのですが、実は出発前から主力風船に傷があり、そこからヘリウムガスが漏れていたといいます。
本来ならば飛行訓練であっても中止した方が良い重大な瑕疵があったわけですが、鈴木さんは傷に粘着テープを貼り、「このことは誰にも言うな」と学生に口止めまでしていました。
こうして飛行実験が始まったのですが、浮力が足りなかったために積んでいた焼酎200本はすべて降ろすことになり、酸素ボンベも捨ててようやくゴンドラが宙に浮いたそうです。
鈴木嘉和さんが起こしたファンタジー号事件の詳細③ 最後に目撃された場所
鈴木さんが飛び去っていった直後に、フジテレビのスタッフが携帯電話に連絡をしたところ、「ヘリウムが漏れているが大丈夫だ」という返答があったといいます。
さらにホテルに避難させた家族にも頻繁に電話連絡を入れており、22時頃から1時間おきくらいに現状を伝えてきました。
内容としては、タバコを吸った、海上に出たというような簡単な報告から、風船の様子がおかしい、重っったより高度が上がらないという不穏なものまでさまざまだったそうです。
そして翌日24日の朝6時頃には「素晴らしい朝焼けだ」「行けるところまで行くから、心配しないで」という電話が、奥様の由紀子さんあてにかかってきました。
これを最後に鈴木さんの携帯電話は不通になり、電話での連絡はなくなります。
その後は24日の深夜に非常用位置指示無線標識装置からSOSの発信があり、海上保安庁が捜索を開始。
25日の朝8時半頃に宮城県金華山沖を東に約800キロメートル進んだ海上で、飛行中のファンタジー号が確認されます。
しかし、鈴木さんは捜索機に助けを求めるでもなく、手を振ったり、SOS信号を止めて積荷を投げ捨てて飛行高度を上げるなどのパフォーマンスをとり始めました。
そのため、海上保安庁も救助を要する状態ではなく、本人に飛行継続の意思があるとして追跡を打ち切ってしまいます。
なお、海上保安庁は3時間にわたってファンタジー号と鈴木さんを監視しいたといい、救助要請があれば助けに向かうつもりでいたそうです。
これ以降、ファンタジー号からSOS信号が送られてくることはなく、金華山沖が最後に目撃された場所になります。
鈴木嘉和さんが起こしたファンタジー号事件の詳細④ 行方不明になる
当初、鈴木さんは「うまくジェット気流に乗れば出発から40時間、そうでなくても4〜5日あればアメリカに到着する」と朝日新聞の取材に対して答えていました。
しかし、出発から1週間経っても連絡がなく、行方もしれないため、鈴木さんの家族は捜索願を出します。
これを受けて海上保安庁は12月2日にファンタジー号が不時着している可能性があるとして、アメリカ、カナダ、ロシアの3ヶ国に救助要請を出しました。
しかし、鈴木さんの行方は行方は杳として知れず、そのまま7年が経過。2001年2月1日付で鈴木嘉和さんの失踪が確定しました。
鈴木嘉和さんの死因は?
実際の鈴木さんの生死は30年以上不明ですが、行方が分からなくなってから7年が経過しているため、法律上は失踪による死亡という扱いになっています。
失踪宣告については民法30条と31条に定められており、生死不明の状態が続くことで家族や相続人などに不利益が生じるのを防ぐための制度です。
なお、本人が生きていたことが判明すれば失踪宣告は取り消すことができますし、取り消した後は戸籍や住民票なども失踪宣告前の状態に戻すことができます。
鈴木嘉和さんの動画はある?
1992年4月17日に鈴木さんが起こしたヘリウム風船不時着事件の動画であれば、現在もYouTubeに当時のニュース映像がアップされています。
飛行前のインタビューや警察との問答なども収められているので、かなり貴重な映像と言えるでしょう。
この時は警察から厳重注意を受けただけで済んだとのことですから、あまり大きな事件ではなかったのではないかと思いきや、実際に飛行しているところを映像で見るとゾッとします。
椅子に座った状態で風船の浮力だけで、飛行機より高い上空に飛んでいく様子は正気の沙汰とは思えません。
鈴木嘉和さんのその後① 行方の考察
出典:https://www.maruha-nichiro.co.jp/
ファンタジー号に取り付けられた風船を製造・販売したアド・ニッポー社によると、風船はもともと気球のように人を運ぶ用に作られたものではなく、上空での気圧や気温の変化に耐えられるものではないといいます。
専門家によると、そのような風船を使っていることを考えると1日に約10%のヘリウムガスが抜けていく試算となり、太平洋を横断する前に海に落ちる可能性が高いとのことです。
このことや当時の風向きを考えると、ファンタジー号は北に流されていってカムチャッカ半島付近に着陸したのではないかとも見られましたが、ロシアでの発見報告はありませんでした。
また、事件からしばらく経ってまことしやかに囁かれたのが、本当はすでに家に帰っていて、生命保険を受け取った後は隠れて暮らしているのではないか?という説です。
家族からのコメントがないため真偽は不明ですが、鈴木さんはファンタジー号事件を起こす前に「5000万円の生命保険をかけている」と話したり、「2億円の保険をかけた」などと話していました。
一方で事件前の鈴木さんには会社が倒産した際の借金があり、くわえてファンタジー号がらみの借金も嵩んでいました。
そのため保険金詐欺で失踪を偽装したのではないか?という噂が流れるようになったのです。
これに似た説で、保険金目的の自殺でファンタジー号事件を起こしたのではないか?という話もありますが、どちらも噂の域を出ません。
鈴木嘉和さんのその後② 結婚していた嫁や家族の現在
ファンタジー号事件を起こす半年前の1992年5月に、鈴木さんはピアニストの石塚由紀子さんと結婚していました。
由紀子さんは鈴木さんの会社の共同経営者であったため、鈴木さん失踪後は約1億円の借金を支払い続けていたそうです。
半年しか結婚期間のない夫に振り回されて恨んでいるだろうと思いきや、由紀子さんは鈴木さんのことをとても愛していたようで、2000年に出版した手記『風船おじさんの調律』でも夫婦仲が良かった様子が見て取れます。
なお、由紀子さんは鈴木さんの失踪宣告が出た5年後の2016年にポルトガル人の男性と再婚したのですが、その直後に胆管癌に罹っていることが発覚。2017年4月に亡くなっています。
鈴木嘉和さんのその後③ 子供(娘)が美人だと話題になる
出典:https://famirosaharmony.my.canva.site/
鈴木さんと由美子さんはともに再婚同士で、結婚時に由美子さんには3人の娘がいました。
鈴木さんの残した借金を返すために、由美子さんは1994年に3人の娘と「ファミローザ・ハーモニー」というグループを結成し、国内外で演奏を行っていました。
そのため3人の娘も顔を公表しているのですが、美人ぞろいであったことから話題になります。
由美子さんが亡くなった後は長女の恵美子さん、次女の優美子さん、三女の富美子さんに孫の彩音さんがくわわり、ファミローザ・ハーモニーとして活動を続けているとのことです。
ファンタジー事件が起きた直後に長女の恵美子さんが取材に応じ、「(父は)馬鹿です」「お騒がせして申し訳ございません。もう探していただかなくて結構です」と深々と頭を下げていたことから、一時期は鈴木さんの生存を信じている由美子さんと娘たちの間には溝があるのでは?とも言われていたそうです。
しかし、一緒に音楽活動を続けていたことから見ても、母と子の仲は決して悪くはなかったのではないかと思われます。
鈴木嘉和(風船おじさん)についてのまとめ
今回は1992年に日本を騒がせたファンタジー号事件と、鈴木嘉和さん(風船おじさん)について紹介しました。
風船で空を飛ぶことに情熱を傾ける人というのは意外と多いようで、海外でも似たような事件が複数あります。
ただ、2008年にも風船を体にくくりつけて空を飛ぶというパフォーマンスをしていたカトリックの司祭がそのまま風に飛ばされて行方不明になり、その後に遺体で発見されていることから見ても、危険すぎる挑戦だとわかります。
鈴木嘉和さん(風船おじさん)も存命なら80歳を超えている頃ですが、発見される日は来るのでしょうか。