造田博は1999年9月に東京都豊島区池袋で発生した池袋通り魔殺人事件の犯人で、2007年に死刑判決が下されていますが現在も死刑執行されていません。この記事では造田博の生い立ちや両親など家族、出身高校、結婚の有無、犯行動機について紹介します。
この記事の目次
造田博が起こした池袋通り魔殺人事件の概要
1999年9月8日の11時35分頃から40分頃にかけて、東京都豊島区東池袋1-28-10にあった東急ハンズ池袋付近で、若い男が通行人に包丁とハンマーで襲い掛かるという通り魔事件が発生しました。
犯人の名前は造田博。当時23歳だった造田は、東急ハンズ横に位置するサンシャインシティ地下に通じるエスカレーターから地上に上がって来た後、突然「むかついた。ぶっ殺す!」と叫んで周辺にいた人々に切りかかっていったとされます。
そしてサンシャインシティ地下からのエスカレーターを上って地上に到着した住吉直さん(71歳)と住吉和子さん(66歳)夫妻に襲い掛かり、和子さんを殺害。直さんにも重傷を負わせました。
さらに東急ハンズ池袋店の正面入り口付近で高橋勝利さん(34歳)真弥さん(29歳)夫妻に襲い掛かり、真弥さんを殺害。
続いて造田はサンシャイン60通りを池袋方面に向かい、途中で4人組の高校生のうち3人を包丁で切りつけ、ほか2人の通行人にも怪我を負わせます。
最終的に造田は異常事態を察知した7人ほどの通行人らによって池袋駅前で取り押さえられ、駆け付けた警察によって現行犯逮捕されました。
逮捕後、2名の死者と6名の負傷者を出した造田博には死刑が言い渡されており、これは「犯行時に心神耗弱状態であった」という理由で減刑されることが多い通り魔事件としては異例の判決です。
造田博の生い立ち① 出生から高校入学まで
造田博は1975年11月29日に岡山県倉敷市で誕生しました。家族構成は両親と兄の4人家族で、父親は大工、母親はミシン縫製の内職をしており、1978年10月に一家で岡山市南区(当時は児島郡灘崎町)に引っ越しています。
経済的にも不自由のない幼年期を過ごした造田ですが、小学校高学年の頃に父方の祖父の遺産が手に入ると家庭環境は一変。真面目だった父親は仕事を辞めて、ギャンブルにのめり込んでしまったのです。
母親も造田が中学生になると内職を辞めて保険の外交員に転職し、「仕事のため」と言って高価なブランド品を購入するようになったといいます。そして父親同様にギャンブルに手を出し始めて、時間があればパチンコに通うようになりました。
一方で造田は両親の影響を受けずにしっかりとした考えを持つ少年だったようで「大学に進学して、事務の仕事に就きたい」と考えていました。
中学に入るとギャンブル依存が悪化していく両親を尻目に勉強に励み、県立倉敷天城高校へ入学。倉敷天城高校は難関校への進学者も輩出している進学校です。
高校に入学してからも造田は大学進学を目指して、真面目に学生生活を送っていました。
造田博の生い立ち② 両親の借金と高校退学
造田が高校に進学した頃から、一家の生活レベルは低下の一途を辿っていきます。
実は造田の両親はとっくに遺産を使ってしまっていたのですが、一度狂った金銭感覚を正すことはできず、消費者金融などに借金を重ねてまでギャンブルをしていました。
この頃には毎日のように両親のもとに借金の取り立てが来ていたのですが、すでに借り入れ総額は4千万円を超えていたといい、とても返済できる金額ではなくなっていました。
そして造田が高校2年生の時、彼の人生を大きく左右する事件が起こります。両親が多額の借金を残して家を出てしまったのです。
こうなると造田も高校に通っているわけにはいかないと考え、退学してアルバイトで家計を支える決意を固めます。
苦労して受かった高校ですから、辞めるときは断腸の思いだったでしょう。しかし、造田は進学の夢を奪った両親のことを恨まずにアルバイトに励んでいたといいます。
ところが両親はそこまでしてくれる息子を見ても借金取りから逃げ回るばかりで、たまに夜遅く家に帰って来たかと思えば、わずかな食費をおいてすぐに姿をくらましていました。
それでも造田は「父も母も、自分のことを遠くで見守ってくれている」と感謝していたそうです。
造田博の生い立ちと経歴③ 両親の失踪
しかし、両親は本来なら親の庇護のもとで高校に通っている年齢の息子が1人で頑張っていることを知りながら、さらに身勝手な行動に出ます。
1993年11月のある日、造田がアルバイトを終えて帰宅すると、なんと家から家具や家電がすべてなくなっていました。
息子が留守にしている時間を狙って両親が家に入り、家財道具をすべて持ち出していたのです。
この日を境に両親とは連絡が取れなくなり、造田に残されたのは空っぽの家と4千万を超す借金だけとなりました。
両親から最悪と言える裏切りを受けた造田ですが、この時も恨みや怒りの感情ではなく「自分は親にとって不要だったんだ」「自分は家具以下の存在だったんだ」という悲しみや虚無感のみが湧いてきたといいます。
ただ、一つだけ良いこともありました。消費者金融など両親に貸し付けを行っていた債権者のなかには、親の借金を息子に払わせようと法外な要求をする者がいなかったのです。
連帯保証人になれる年齢でもないですし、親の借金を未成年者の子供に払わせようとすること自体が法律的には不可能なのですが、心無い闇金などであれば何も知らない造田を騙して搾取した可能性もあります。
運よく両親の借入先は常識的な業者ばかりだったようで、望んだ形ではなかったものの造田は借金から解放されることになりました。
造田博の生い立ちと経歴③ 兄を頼って
両親に去られたものの、造田には兄がいました。兄は大学進学を機に実家を出て1人暮らしをしていたのですが、親の借金のことで迷惑をかけたくないという一心で、これまで造田は兄を頼らずに生きてきたといいます。
しかし両親の失踪で借金がなくなったことから、造田は広島県福山市に住む兄のもとに身を寄せることにしました。
こうして1994年1月に福山市内に引っ越した造田は、兄に紹介されたパチンコ店で働き始めました。
この店には店員向けの寮があったことから、仕事に慣れた造田は兄のアパートを出て店の寮に入ったそうです。
ところが仕事は長続きせず、3月末には退職して兄の家に戻ってきてしまったといいます。
退職理由は「体を使う仕事は辛い」ということだったようで、兄は弟の将来を心配するあまりに「そんなことでどう生きていくのか」「次の仕事はどうするのか」と厳しくしかりつけました。
おそらく、この頃の造田はまだ両親から受けた裏切りのショックを引きずっており、とても将来を考えたり、仕事に打ち込めたりするような精神状態ではなかったのでしょう。
しかし兄もまだ大学生で、弟を受け止めるだけの余裕はなかったのだと思われます。
こうして兄との関係も悪化してしまい、造田は岡山、広島、兵庫と場所を転々としながら住み込みの仕事に就くようになりました。
職場での評価は「真面目で勤勉」というものばかりだったそうです。しかし周囲の人間に必要以上に気を使い、また高校中退という学歴から採用されるのは体を使う仕事ばかり、給与面でも納得いかなかったことなどから、どの仕事も長続きしませんでした。
造田博の生い立ちと経歴④ 浮かび上がる異常性
職も住居も定まらない暮らしを続けるなか、造田は異常性を見せるようになっていきます。
岡山に戻った際、造田は小学生時代の同級生の女性に対し、ストーカー行為をしていたことが明らかになっています。
造田は相手の女性の後をつけるだけではなく、5回に渡って一方的な内容の手紙を出し、女性の家にも無断で押しかけていました。
相手の女性は小学校が同じだったというだけで、造田と親しかったわけではなかったそうです。しかし、なぜか造田は彼女から小学生の時に告白されていたと思い込んでいたといいます。
造田は兄に対しても「大学生の彼女ができた。結婚を考えているから結婚資金を貯めないと」と話していました。この大学生の彼女というのは、ストーカーしていた女性のことです。
もちろん女性との間には小学校の同級生、ストーカーと被害者という関係以外に何もありませんし、交際や結婚は造田の妄想です。完全に精神状態が崩れてきていることがわかります。
その後も奇行は続き、1996年11月末には仕事を探して上京したものの就職する前に万引きで捕まり、ナイフを携帯していたことから銃砲刀剣類所持等取締法違反で逮捕されて、罰金刑に処されています。
さらに1997年7月には、以下のような内容の怪文書を外務省に送り付けていました。
〈日本の人口のほとんどが小汚い者達です〉
〈この小汚い者達は60年後、2057年にはすべて存在しなくなります〉
〈この小汚い者達から存在、物質、生物、動物が有する根本の権利、そして基本的人権を剥奪(はくだつ)する。これは存在するものでもなく、物でもなく、生物でもなく、動物でもなく、人間でもなく、何をやってもいい、何も許さないという意味だ〉
造田博の生い立ちと経歴⑤ アメリカへの憧れ
1998年6月24日、造田は200ドルだけを持って突然アメリカのオレゴン州ポートランドに飛び立ちました。
この頃、造田はTVや週刊誌などの影響で「アメリカは日本と違って誰にでも再起の機会が用意されている国だ」と思い込んでいたそうです。
そのため自分もやり直せると思っての渡米でしたが、造田は英語を話せませんでした。
言葉が通じなければ仕事に就くこともできませんから、早々に所持金は底をつきかけてしまいます。
ところがここで造田は日本に帰らずに、所持金も仕事もない状態でパスポートを破いて捨てるという信じがたい行動に出たのです。
最終的に日本領事館に保護されてしばらく教会で生活した後、9月23日には日本に送り返されることとなりましたが、帰国後も「やはり日本はアメリカのように人を評価しない国だ」と不満を募らせていったとされます。
帰国後の造田は愛知県内で工場作業員として働くなどして、以前と同じように職を転々としていました。
造田博の生い立ちと経歴⑥ 犯行の動機となった無言電話
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1999年4月24日、再び仕事を辞めて無職となっていた造田は、東京都足立区内の新聞販売店に電話をかけ、雇ってもらえないかと直接交渉します。
この願いが聞き入れられて造田は新聞配達員として働き始め、勤務態度は至って真面目で問題ないと評価されていました。
9月1日に寝坊をして仕事に遅刻し、販売店の所長から「今後は何かあった時に連絡が取りやすいように」と携帯電話の購入を勧めらた造田は、その日のうちに携帯電話の契約をします。
そして翌日には所長に電話番号を伝えたのですが、なぜか同僚の1人がしつこく造田に絡み、電話番号を交換しようと迫って来たそうです。
もともと所長以外に番号を教えるつもりがなかったため、造田は同僚との番号交換を拒みました。
しかし、あまりにもしつこかったために根負けして、最終的には9月3日に電話番号を教えてしまったといいます。
造田は彼に番号を教えたことをずっと後悔していたといました。実は携帯電話の番号を教えるように迫ってきた同僚とは別に親しかったわけでもなく、むしろ相手を嫌っていたのです。
9月3日の夜、造田は新聞販売店の社員寮で携帯電話の説明書を読んでいました。所長に言われて所持したとはいえ、携帯電話に憧れがあった造田は早く使いこなせるようになろうと珍しく明るい気持ちになっていたそうです。
ところがその時、携帯電話に無言電話がかかってきました。番号を知っているのは所長と例の同僚だけだったため、同僚が嫌がらせでかけてきたのだと考えて激しい憤りを感じます。
もとより嫌っていた相手ですから憎しみはあっとう間に膨れ上がり、怒りの矛先は無言電話とは無関係な人々に向かいました。
翌朝にはレポート用紙に以下のような恨み言を綴った後、玄関のドアにこの紙を貼り付けて造田は家を出ました。
〈わし以外のまともな人がボケナスのアホ殺しとるけえのお。わしもボケナスのアホ全部殺すけえのお〉
〈努力しない人間は生きていてもしょうがない〉
造田博の生い立ちと経歴⑦ 池袋通り魔殺人事件
家を出た造田が向かった先は池袋でした。
苦境にありながらも努力して生きてきた自分が、その事情も知らない他人(無言電話の相手)に踏みにじられたと感じた造田は、「努力をしない人間を無差別に殺害することで社会に恐怖を与えて、自分を認めさせてやろう」と思ったのです。
無差別殺人をするのなら人通りの多い場所がいいと考えた造田は、過去に何度か訪れたことのある池袋をターゲットにしました。
この日は下調べだけをして帰宅。そして4日後の9月8日、宿泊していた赤坂のカプセルホテルをチェックアウトした造田は池袋に向かい、ハンバーガーショップで食事をした後、サンシャインシティの地下通路を通って東急ハンズ横に通じるエスカレーターを上り、凶行に及んだのでした。
造田博の裁判と死刑判決
現行犯逮捕であったため、殺人罪および殺人未遂罪、傷害罪などの起訴事実をすべて認めた状態で造田の裁判は開始しました。
第一審から争点となったのは造田に責任能力があるか否かという点で、弁護側は「犯行に至るまでの生い立ちや奇行の数々から見て、犯行時に被告人は統合失調症を発症していた可能性がある」と指摘します。
しかし、2018年1月18日に東京地裁が下した判決は死刑で、その理由は主に以下のようなものでした。
・きっかけとなった無言電話から犯行に至るまでには時間があり、熟考したのちに犯行に及んだと考えられる。
・学業の成績や勤務評価から見て、被告人の知能は平均的で何ら問題がないと推測できる。
・犯行当日、凶器を購入した店で「包丁とハンマーだけを購入すれば怪しまれる」と考えて、まな板やドライバーも一緒に購入している。心神耗弱状態にある人間が、このような思考をするとは考えづらい。
・犯行時も途中で包丁の先端が欠けると凶器をハンマーに切り替えるなどしており、冷静かつ合理的な判断をしていた。
このような点から確かに奇行は見られるものの、犯行時の造田博には事理弁識能力があるとして死刑判決が下ったのです。
死刑確定
死刑判決を受けた造田と弁護士はすぐに控訴しました。しかし、2003年9月29日に東京高裁は死刑判決は妥当として訴えを棄却します。
さらに死刑の取り消しを求めて最高裁に上告しますが、2007年4月19には上告も棄却され、2007年5月2日付けで造田博の日系が確定しました。
造田博の現在…死刑執行は?結婚している?
2007年に死刑が確定してから15年以上が経過していますが、2023年現在も造田博の死刑は行われていません。
「池袋の通り魔を意識した」として、1999年9月29日に下関通り魔事件を起こした上部康明は2012年に死刑執行されているにもかかわらず、造田は東京拘置所に収監されたままです。
実は造田は2018年3月29日に日弁連が法務大臣などにあてて送付した「心神喪失が疑われる死刑確定者の死刑執行停止を求める人権救済申立事件」勧告書のリストに入っています。
この勧告書は刑事訴訟法479条1項で定める心神喪失状態であった疑いが強いにもかかわらず、死刑判決の出た死刑囚の刑の見直しを要請する」もので、造田ら8人の死刑囚の名前があげられていました。
造田のほかにも中村橋派出所警官殺害事件の犯人の柴嵜正一やピアノ騒音殺人事件の犯人の大濱松三、京都・滋賀連続強盗殺人事件の犯人の松本健次など、死刑未執行の死刑囚の名前がリストのあることが確認されています。
責任能力が認められて死刑判決が下されたものの、事件に至るまでの様子から造田が精神に異常をきたしていた可能性は高く、今後も死刑執行はないのではないか?との見方もされています。
造田博は結婚している?
前述のように事件を起こす数年前、造田は兄に対して「結婚の予定がある」という話をしていました。
しかし、これは造田の妄言であり結婚の予定など当然なく、事件を起こす前に交際していた女性がいたという話さえ出ていません。
収監されてからも宅間守のように獄中結婚したとの話もないため、48歳を迎えようとしている現在も独身と考えて間違いないでしょう。
造田博の家族のその後
造田博の両親は池袋通り魔事件の後も公に姿を見せず、息子の起こした犯罪に対して何の声明も出していません。
造田を置いて失踪してからはどこにいるのかも不明で、マスコミも居場所を特定できない様子です。
造田死刑囚を捨てた両親は事件後、被害者への謝罪などで名乗り出ることはなかった。事件を知らないはずはない。わが子の死刑判決をどう受け止めているのだろうか。
また、両親の失踪後に造田の面倒を見ていた兄も、池袋通り魔事件が原因で当時交際していた女性との結婚が破談となり、その後はどこでどう暮らしているのか不明だといいます。
造田博についてのまとめ
今回は1999年9月8日に池袋通り魔殺人事件を起こした造田博の生い立ちや両親、犯行動機、判決や現在について紹介しました。
もちろんまったく関係のない方々を殺傷した造田の罪は重く、犯行動機を聞いても凶行を許すことはできません。しかし、造田がこのような事件を起こしてしまった最大の理由は無責任で身勝手な両親だと考えられます。
道を踏み外してしまった息子のため、怒りをぶつける場所もなくやる瀬ない思いをしている被害者遺族のため、両親はきちんと公の場に出るべきではないのでしょうか。