亀井エイ子(笠置シヅ子の娘)の現在!誘拐事件・吉本興業との関係・父親や兄弟・結婚情報もまとめ

亀井エイ子さんはブギの女王と謳われた笠置シヅ子さんの娘で、父親は吉本興業創始者の息子です。亀井エイ子さんのプロフィールや家族、経歴、兄弟、母親との関係、誘拐事件、結婚の有無、年齢や現在について紹介します。

亀井エイ子さんのプロフィール

 

出典:https://twitter.com/

 

亀井エイ子さんは、『東京ブギウギ』『買い物ブギー』などで知られる、笠置シヅ子さん(本名・亀井静子さん)の長女です。

 

2023年10月2日から2024年3月29日まで放送されていた、笠置シヅ子さんをモデルにしたNHK朝の連続テレビ小説『ブギウギ』では、エイ子さんも主役の福来スズ子の娘・愛子のモデルになっています。

 

エイ子さんが誕生したのは1947年6月1日で、東京都の病院で生まれました。出生時の体重は3,150gでした。

 

エイ子さんの父親は、吉本興業の創業者である吉本せいさんの息子の、吉本頴右(よしもとえいすけ)さんです。

 

笠置シヅ子さんと吉本頴右さんは結婚を誓い合う中でしたが、頴右さんは奔馬性急性肺炎を悪化させ、エイ子さんが誕生する直前に他界。

 

そのため吉本姓ではなく、母親の旧姓である「亀井」の姓を名乗ることになりました。

 

母親がブギの女王と呼ばれた人気歌手、父方の祖母は伝説の女興行師と呼ばれた吉本興業の創始者という芸能一家の生まれではありますが、エイ子さん自身は芸能の道には進まず、一般人としての生活を選んでいます。

 

 

亀井エイ子さんの家族関係・生い立ち① 父親と母親の馴れ初め

 

出典:https://ja.wikipedia.org/

 

亀井エイ子さんの父親・吉本頴右さんと、母親の笠置シヅ子さんが出会ったのは1943年6月のことでした。

 

当時、シヅ子さんは名古屋の大須にある太陽館で10日間におよぶ公演を行っており、その合間を縫って、6月28日に御園座で舞台を上演していた辰巳柳太郎さんの楽屋に挨拶に行ったとされます。

 

そこで出会ったのが、のちにエイ子さんの父親となる吉本頴右さんだったのです。

 

当時、シヅ子さんは30歳。頴右さんはシヅ子さんよりも9歳年下の21歳で、出会った頃は早稲田大学仏文科に在籍する学生でした。

 

2人とも出身地は大阪で、東京に引っ越してきたばかり。新生活に心細さを抱えていたこともあり、似た境遇に意気投合して、すぐに仲の良い友人関係になったといいます。

 

最初は友人として互いの家を行き来するなどしていた2人でしたが、しばらくしてそれぞれの生活に暗い影が見え隠れするようになります。

 

戦争の影響で各地の劇場が閉鎖されてシヅ子さんは思うように歌手活動ができなくなり、頴右さんは健康上の理由から学徒動員を免除されることになったのです。

 

先の見えない不安と恐怖の中、2人が結ばれたのはアメリカ軍による本土空襲が懸念されていた1944年末のことでした。

 

1945年の東京大空襲で互いに住む場所を無くした2人は、当時の吉本興業常務・東京支社長の林弘高氏に仮の住まいを提供してもらい、戦争が終わるまで一つ屋根の下に住むこととなります。

 

戦争が終わると、頴右さんは早稲田吉本興業御曹司を中退して吉本興業東京支社で働き始めました。頴右さんはシヅ子さんと結婚するために、大学を辞めて働き出したのです。

 

 

亀井エイ子さんの家族関係・生い立ち② 祖母・吉本せいと母親の関係

 

出典:https://ja.wikipedia.org/

 

吉本興業の御曹司と人気歌手という立場にある2人は、交際を公にできずにいました。頴右さんはシヅ子さんに舞台に立つのを辞めて家庭に入るように頼み、シヅ子さんもそのつもりでいたといいます。

 

しかし、頴右さんの母親のせいさんは息子の結婚を許せずにいました。

 

せいさんがシヅ子さんが歌手であることから「踊り子風情は息子の嫁にふさわしくない」と身分の差を気にして、結婚を反対していたとの話もありますが、芸能評論家の矢野誠一氏は別の理由があったと考察しています。

 

シヅ子さんも祖父は著名な漢学者、父は東大総長の南原繁氏の後輩という家柄だったうえ、本人も結婚前には芸能活動を辞めて家庭に入るつもりでしたから、それのみが理由で結婚に反対したとは思えないと指摘。

 

矢野誠一氏は、「誰が相手であっても、せいは息子の結婚を認めなかったのではないだろうか」としています。

 

シヅ子さんが嫌いだった、彼女に許せない欠点があったというわけではなく、身体が弱く、溺愛して育ててきた頴右さんが結婚して自分の元から離れていくことが許せなかったのではないかと言うのです。

 

一方、シヅ子さんはせいさんにも関係を認めてもらってから結婚したいと考えていました。

 

しかし、吉本家に結婚の許しをもらいにいく前にマスコミによって2人が交際していることと、せいさんが頑なに反対していることが報じられてしまい、ますます両者の間の溝は深まってしまいました。

 

 

亀井エイ子さんの家族関係・生い立ち③ 妊娠発覚

 

1946年6月、頴右さんは体調を崩していた母・せいさんに呼ばれて一時的に大阪に戻ることになります。

 

この頃、頴右さん本人も激務から身体を痛めており、シヅ子さんは大阪で親孝行をして休養をとったら良いと送り出したそうです。

 

頴右さんも出立に際して「秋までには帰れるやろ」と、結婚の承諾を取り付けてくると約束していきました。

 

10月7日、シヅ子さんは頴右さんの子どもを妊娠していることを知ります。この子どもこそが、亀井エイ子さんです。

 

当時、妊娠3ヶ月であったシヅ子さんは、産まれてくる子どものためにもせいさんに祝福されて結婚したいと考え、すぐには頴右さんに妊娠を伝えませんでした。

 

そして12月、公演で神戸に出向いたシヅ子さんはそこで久しぶりに会った頴右さんにようやく妊娠していることを伝えます。

 

頴右さんも妊娠を喜び、母親の説得に時間がかかるようなら、まず産まれた我が子を認知して、それから母親を納得させて入籍しよう、子どもの幸せを最優先にしようと約束しました。

 

しかし、この神戸での逢瀬が2人の永遠の別れになってしまうのです。

 

 

亀井エイ子さんの家族関係・生い立ち④ 父親の死

 

出典:https://autoslide.jp/

 

頴右さんは妊娠が判明した翌年の春には、帰京する予定でした。

 

ところが体調不良が原因で帰京予定はどんどん延びていき、ついに4月には吉本興業営業部長の前田米一氏からシヅ子さんの元に「病状が著しく悪化して、起き上がることも困難になった。そのため、大阪医大に入院する」という報せが入ったのです。

 

この時、すでに臨月であったシヅ子さんは周囲の猛反対などから大阪に大阪に行くことができず、東京で頴右さんの病気平癒を願うことしかできなかったといいます。

 

しかし、祈りも虚しく5月18日に頴右さんは逝去。享年23歳でした。シズ子さんは入院中の産婦人科で訃報を聞くことになります。

 

 

亀井エイ子さんの家族関係・生い立ち⑤ 誕生

 

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最愛の人の死を知ったシヅ子さんは深い悲しみに暮れ、臨月にもかかわらず睡眠薬を処方されるほど心身のバランスを崩したといいます。

 

それでもシヅ子さんは病室の机に頴右さんの写真を飾り、頴右さんが着ていた浴衣を部屋にかけて、我が子を抱くこともなく無念のなかで亡くなった最愛の人のことを想いながら、1947年6月1日に長女を出産。

 

初産で、付き添ってくれる家族が1人もいないという不安な環境であったため、陣痛に襲われた際にシヅ子さんは、手元に置いてあった頴右さんの浴衣を抱きしめて痛みを乗り越えたそうです。

 

現在では珍しいことではありませんが、この頃はまだ30歳を過ぎての初産というのは珍しい時代でした。

 

しかし、シヅ子さんは3150gという当時としてはかなり立派な、健康優良児の女児を無事に産みました。

 

シヅ子さん自身は150.3cmと小柄でしたが、頴右さんは長身で都会的、スーツが似合う外見だったとのことですから、体格は父親に似たのかもしれません。

 

実際に誕生した子どもを見た周囲の人々が「ぼん(頴右さん)の生まれ変わりだ」と言ったほど、父親似だったそうです。

 

シヅ子さんは生まれた我が子を「エイ子」と名付けました。これは生前に頴右さんが考えていた名前で、男児だったら「静男」、女児だったら「エイ子」という名前を考えていたといいます。

 

男の子であれば、母親の名前から「シヅ」をとって「静男」と名付け、女の子であれば父親の名前から「エイ」をとって「エイ子」とつけたかったのでしょう。

 

実際に亡くなるまで貯めていたという子ども名義の貯金通帳の表紙には、「吉本静男」と書かれていたとのことです。

 

 

亀井エイ子さんの家族関係・生い立ち⑥ 祖母との関係

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乳児時代のエイ子さんはとても健康で、母乳を飲む勢いもすごく、順調に成長していったといいます。

 

一方、大阪の吉本家ではエイ子さん誕生の報せを聞いて変化が起きていました。

 

これまで頑なに息子の結婚を認めようとしなかったせいさんが、孫に会いたい、息子の忘れ形見を生んでくれたシヅ子さんにもお礼が言いたいと考えるようになっていたのです。

 

実はせいさんはシヅ子さんが頴右さんの子どもを身ごもって産むつもりでいる、という噂を耳にしてからは、2人の結婚を認めようとしていたといいます。

 

しかし、3人で面会する場を設ける前に頴右さんの体調が急変し、そのまま亡くなってしまったために話をする機会を失っていました。

 

エイ子さんが誕生した頃には、せいさん自身もかなり身体が弱って瘦せ衰えていたとのことですが、9月に入ると自ら上京してシヅ子さんのもとを訪れ、「頴右がお世話になりました」と頭を下げたとされます。

 

これを機に、嫁と姑の間にあったわだかまりは解消され、頼る身内もいないシヅ子さんが1人で働きながら子どもを育てるのは辛かろうと、「孫を吉本家で預かろうか」との申し出もしたそうです。

 

が、シヅ子さんは自分自身も身分の違いから結婚を認められなかった両親のもとに生まれ、乳母をしてくれた女性の家に貰われていったという生い立ちだったことから、娘に同じ道を歩ませたくないとして1人で育てる決意を固めます。

 

 

亀井エイ子さんの家族関係・生い立ち⑦ 乳幼児時代

 

出典:https://kanahori.com/

 

1人でエイ子さんを育てると決めたシヅ子さんは、公演がある時には楽屋にエイ子さんを寝かせ、ステージの合間に楽屋に戻って娘をあやし、乳を与えるという慌ただしい生活を始めます。

 

シングルマザーとして逞しく生きるシヅ子さんの様子は、「夜の女」として生きることを余儀なくされた女性たちの心を掴んだそうです。

 

この当時は戦争によって夫や婚約者、頼れる家族を亡くし、女手一つで子どもや幼い弟妹を養わなければいけなくなった女性が大勢いました。

 

そういった理由で女給の仕事を始めた女性たちにとって、シヅ子さんは共感の対象であり、自分たちを勇気づけてくれる姉のような存在でもあったといいます。シヅ子さんもまた、彼女たちの境遇に共感し、夜の女たちのリーダー格とされた女性と交流を続けました。

 

こうしてファンにも恵まれたシヅ子さんは、1947年に『東京ブギ』(翌年に『東京ブギウギ』に改題)を発表。これが大ヒットとなり、一気に活躍の場を広げていきます。

 

エイ子さんも大きな病気もせずにすくすくと育ち、シヅ子さんが頴右さんの墓前で歌を口ずさむと、小さな手を振ってひらひら踊るなど、愛らしく、元気な子どもに成長していました。

 

シヅ子さんは『東京ブギウギ』のヒットで、一躍高額納税者の仲間入りを果たし、亀井家の暮らしも変化していきます。

 

1950年に入ると、シヅ子さんは世田谷区弦巻に306坪の土地を購入。翌年には40坪ほどの赤い屋根の洋風の平屋建てを建築し、エイ子さんとともに引っ越しました。

 

土地に対して家屋が小さい印象を受けますが、母子2人で暮らす家のため、このくらいの方が手入れしやすいと考えたのかもしれません。

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出典:https://0u0-journal.com/

 

広大な庭にはシヅ子さんの手で花が植えられ、笠置家の庭は近隣の人から「笠置ガーデン」と呼ばれるほど、立派なものとなりました。

 

 

亀井エイ子さんの家族関係・生い立ち⑧ 学生時代

 

 

引っ越した自宅にはエイ子さんの面倒を見るために雇われたばあやと、その夫、家事や炊事をしてくれるお手伝いさん、運転手が同居するようになりました。

 

家がにぎやかになり、エイ子さんも小学生になる頃には、仕事で家に母親がいなくても寂しいと感じることがなくなっていったそうです。

 

シヅ子さんもばあや夫妻やお手伝いさんたちのことを家族同然に大切にしていたため、エイ子さんも躊躇いなく血のつながりのない彼らに甘えられたのだといいます。

 

エイ子さんによるとシヅ子さんは躾に関しては厳しく、悪いことをした時には押し入れに閉じ込められたこともあったものの、学業についてはいっさい口出しをしなかったとのこと。

 

そのためエイ子さんも通っていた中高一貫校の付属大学にそのまま進学しようと漠然と考えていたそうですが、大学進学に際して突然「大学のあるあたりは治安が悪いから、行かないほうがいい」と、難色を示したといいます。

 

思いがけない母親の言葉にエイ子さんは驚いたものの、この言葉がきっかけとなって大学進学ではなく、自分のやりたいことを考えるようになったとされます。

 

 

亀井エイ子さんの経歴

 

出典:https://www.pakutaso.com/

 

進路を考え直したエイ子さんは、フラワーデザインの仕事に就きたいと思い至りました。幼い頃から母親の手伝いで庭の手入れをしていたうちに、エイ子さんも自然と花を愛するようになっていたのでしょう。

 

しかし、当時の日本には洋風のフラワーアレンジメントの文化はなく、花を使った装飾というと生け花くらいしかありませんでした。

 

そのため、シヅ子さんにどうしたらいいか相談したところ「日本では花は添えもの扱いだから、まずは服飾の勉強をしてみたらどうか」というアドバイスがあったそうで、これを受けて高校卒業後は服飾デザイナーの田中千代氏のもとで勉強をしたといいます。

 

その後、エイ子さんはアメリカのオハイオ州グリーブランドの学校に入学し、フラワーデザイナーのディプロマを取得してからシカゴの花屋で修業を開始しました。

 

そうして1年が経った頃、シヅ子さんから「そろそろ日本に帰ったらどうか」と言われて、帰国。

 

日本に戻ってからも、東京都内のホテルの花屋で働いたそうです。帰国後も実家で暮らしてはいたものの、自分の部屋にひいた電話の通話料金は自分で支払うといったように、親子間で生活費の支払いはきっちりわけていたそうです。

 

シヅ子さんは生前、「私はあなたよりも先に死ぬのだから、きちんと経済的に自立しなくては駄目」とエイ子さんに話していたといいます。

 

それを守って、同じ家で生活をしていても母親からは1円の生活費援助も受けずに、エイ子さんは自分の収入で暮らしていました。

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亀井エイ子さんは誘拐事件に巻き込まれたことがある

 

出典:https://twitter.com/

 

亀井エイ子さんは、過去に誘拐事件にまきこまれかけたことがあります。

 

上で触れたように笠置シヅ子さんは歌手としてだけではなく、シングルマザーとして1人で子どもを育てる私生活の様子も世間から注目を集めていました。

 

そしてシヅ子さん自身も、自分が子育てに奮闘する様が同じく母子家庭で暮らす人たちに力を与えることができればと考えていたため、積極的に自宅にマスコミを入れて、取材に応じていました。

 

しかし現在では考えられないことですが、当時の雑誌などには取材に行った芸能人の自宅の住所などが書かれていたことがあり、これが原因となって事件が発生してしまったのです。

 

1954年3月31日、笠置家に脅迫状が届きます。脅迫状の内容は「天神橋の下に6万円を置け。さもないと1人娘のエイ子の命はないぞ」というもの。ちなみに当時の6万円は、現在の紙幣価値に換算すると約120万円です。

 

驚いたシヅ子さんは警察に連絡し、天神橋に張り込みをしてもらいますが犯人は現れずじまいでした。

 

翌日はエイプリルフールだったため、ただのいたずらだったのかと思いきや、その後も犯人から脅迫の電話がかかってきて、今度は自由が丘駅前でお金を渡すように言われたそうです。

 

そして4月8日、シヅ子さんのマネージャーが紙幣に見せかけて新聞を包んだ風呂敷を持って自由が丘駅前に向かったところ、怪しい男が現れたのです。

 

男は包みを受け取って立ち去ろうとしましたが、街頭テレビを見ていた人々に紛れて張り込みをしていた警察がいっせいに飛び出し、その場で逮捕されます。

 

犯人の男は事業の失敗で借金をしてしまい、出来心で脅迫してしまったとのことですが、手紙が届いてからシヅ子さんは気が気ではなく、エイ子さんとともに家に閉じこもっていたといいます。

 

この時のことが原因となって、シヅ子さんは「こんな危険な目に遭うのなら、絶対に娘を芸能人にしたくない」と考えるようになったそうです。

 

 

亀井エイ子さんは結婚している?兄弟はいる?

 

誘拐未遂事件が起きて以降、シヅ子さんはエイ子さんを一般人として育てようと心に決めました。

 

そのため、エイ子さんのプライベートというのは大人になって本人の口から語られたこと以外は明らかになっていません。

 

結婚しているのか、子どもはいるのかなどの情報は、本人もいっさい公開していないため不明となっています。

 

おそらく夫や子どもがいたとしても、自分が有名人の子どもとして怖い思いをした過去があることから、公表しないのではないかと思われます。

 

また、亀井エイ子さんは笠置シヅ子さんの1人娘です。兄弟はいません。

 

 

亀井エイ子さんと吉本興業の関係

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亀井エイ子さんの実の祖母は、吉本興業の創設者である吉本せいさんであり、エイ子さんは正式に発表されているせいさんの唯一の孫とされています。

 

せいさんは2男6女の母親でしたが、そのうちの5人が早逝するという不幸に見舞われています。

 

とくに長男の泰之助さんは2歳で亡くなっており、唯一の跡取りである頴右さんも23歳で亡くなったため、内孫はエイ子さんしか存在しません。

 

しかし、我が子が生まれるよりも先に頴右さんが亡くなっており、また、せいさんも孫には会えたものの1950年に亡くなりました。

 

エイ子さんが吉本家の孫だということを公的に認める手続きをする前に、せいさんが亡くなった可能性も考えられます。

 

そのため、法的にエイ子さんが吉本興業の創業者一族とどのような関係になっているのかは不明です。

 

 

亀井エイ子さんの現在や年齢

 

出典:https://www.amazon.co.jp/

 

亀井エイ子さんは2024年の誕生日で、77歳になります。アメリカから日本に戻ってきた当時は、フラワーデザインのアトリエも開いていたそうですが、現在はお花関係の仕事はされていない様子です。

 

直近の活動として、宝島社から2023年9月に刊行された『笠置シヅ子-その言葉と人生』の観衆を務めています。同書の末尾にはエイ子さんのインタビュー記事も掲載されました。

 

 

亀井エイ子さんについてのまとめ

 

今回は『東京ブギウギ』で知られる笠置シヅ子さんの1人娘、亀井エイ子さんについて、プロフィールや家族、生い立ち、経歴、過去に巻き込まれた事件を中心に紹介しました。

 

芸能界とは距離を置いて生きると決めていることから、エイ子さんの情報はあまり多く世に出てはいません。

 

しかし、母親のシヅ子さんとのエピソードから、大切に育てられたこと、そして実家が裕福だからと甘えずに、「自活しなさい」という母親の言葉を心に生きていらっしゃる様子が窺えます。

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