ケンタッキーフライドチキンの創業者であるカーネル・サンダース。この記事ではカーネル・サンダースの経歴や晩年、死因、子孫、日本のKFCが好きな理由、都市伝説や阪神優勝時に道頓堀に像が落とされたことによる呪いについて紹介していきます。
この記事の目次
- カーネル・サンダースについての概要
- カーネル・サンダースの生い立ち・経歴① 少年時代
- カーネル・サンダースの生い立ち・経歴② 転職を繰り返す
- カーネル・サンダースの生い立ち・経歴③ 起業と失敗を繰り返す
- カーネル・サンダースの生い立ち・経歴④ サンダース・カフェの開業
- カーネル・サンダースの生い立ち・経歴⑤ またしても無一文になる
- カーネル・サンダースの生い立ち・経歴⑥ ケンタッキーフライドチキン開業
- カーネル・サンダースの生い立ち・経歴⑦ 65歳からの大逆転
- カーネル・サンダースの生い立ち・経歴⑧ 晩年と死因
- カーネル・サンダースの子孫
- カーネル・サンダースは日本のケンタッキーが一番好きだった?
- カーネル・サンダースの都市伝説① 道頓堀に投げ込まれた立像と阪神の呪い
- カーネル・サンダースの都市伝説② フリーメイソンだった?
- カーネル・サンダースについてのまとめ
カーネル・サンダースについての概要
カーネル・サンダースは1952年にケンタッキーフライドチキン(現在のKFC)を設立した、アメリカ合衆国の事業家です。
本名はハーランド・デイヴィッド・サンダーズといい、カーネルはケンタッキー州の知事から与えられた名誉称号で、「大佐」という意味を持ちます。
ケンタッキーフライドチキンは世界で初めて成功したフランチャイズビジネスとして知られますが、カーネル・サンダースの起業家人生は波乱に富んだものでした。
40回以上の転職と失敗、ケンタッキーフライドチキンを立ち上げた後も65歳で無一文になるなど、壮絶な人生を送ったとされます。
しかし、そのような背景を感じさせないカーネル・サンダースの柔和な笑顔はお店のアイコンとして人気を誇り、日本でも店頭に飾られたカーネル像とともに愛されてきました。
カーネル・サンダースの生い立ち・経歴① 少年時代
カーネル・サンダース(ハーランド・デイヴィッド・サンダーズ)は、1890年9月9日にアメリカのインディアナ州・ヘンリービルで3人兄弟の長男として誕生しました。
親は農業を営んでいましたが、カーネルが6歳の時に父親が病気で他界。母親のマーガレットは町に出て工場で働きながら、3人の子どもを養いました。
仕事で家にいられない母親に代わり、弟と妹の世話はまだ少年のカーネルが一手に引き受けていたといいます。
もちろん食事もカーネルが作っていたのですが、彼が7歳の頃に後の人生に影響を与えるような出来事が起きました。
1987年のある日、家で家族のためにパンを焼いていたカーネルはあまりに美味しいパンができたことから、弟と妹を連れて歩いて母親の工場へと向かったそうです。
家から工場までは遠く、一番年下の妹を負ぶっての道のりは困難でしたが兄弟は工場に辿りつき、母親に焼きあがったパンを渡しました。
息子から渡されたパンを食べた母親はあまりの美味しさに感動し、同僚たちにも「息子が焼いてくれたのよ」とおすそ分けをしたそうです。
するとその場でパンを食べた人々からも、「とても美味しい!」「料理の才能がある」と絶賛の声があがりました。
この時の体験が「美味しいものは人を笑顔にする、幸せにする」というカーネルの信条になったとされます。
カーネル・サンダースの生い立ち・経歴② 転職を繰り返す
1902年、カーネルが12歳の頃に母親が再婚します。しかし、生活は楽になったものの義父の連れ子との相性が非常に悪く、カーネルは家庭内で喧嘩を繰り返すように。
そして14歳の時、母親が止めるのも聞かずに家を飛び出してしまったのです。
家を出たカーネルは農場の手伝いや路面電車の車掌、塗装工など職を転々としながら暮らし、16歳の時に年齢をごまかして陸軍に入隊しました。
体格の良かったカーネルは周囲にバレることなく数ヶ月陸軍で勤務し、契約期間満了で退役した後はサザン鉄道で機関車の修理工として働き始めます。
真面目な働きぶりが評価されてやっと生活も安定し、18歳の時には結婚。しかし家庭を持った矢先、20歳の時に仕事のミスが原因でクビを言い渡されてしまいます。
会社側は労働組合の住職に就いていたカーネルを疎ましく思っていたといい、クビにする理由を探していたそうです。
真面目にやりすぎる、自分にも他人にも厳しいという性格は仕事を続けるうえで相当なネックになったようで、この後もカーネルは新しい職場に馴染めずに転職を繰り返しました。
カーネル・サンダースの生い立ち・経歴③ 起業と失敗を繰り返す
29歳の時、カーネルは自分は勤め人に向かないのではないかと思い至ります。そして会社経営に興味を持つようになり、1919年に蒸気船会社の経営に参画。これが事業家としてのカーネルの第一歩でした。
この蒸気船会社はあまり儲けが出なかったため、カーネルは早々に手を引いて全財産をつぎ込んでアセンチネルランプの製造販売会社を立ち上げます。
しかし、折悪く石油ランプの登場と時期が重なり事業は大失敗。無一文になってしまうのです。
この後もタイヤのセールスなどの仕事に就くもののうまくいかず、妻と3人の子を養う生活費にも窮するようになったカーネル。転機が起きたのは37歳の時でした。
ある日、就職先を探してヒッチハイクをしていたところ、車に乗せてくれた男性がカーネルに「ガソリンスタンドを経営してくれる人を探しているのでが、やってみないか?」と話を持ち掛けてきたのです。
毎月の売り上げから指定の賃料だけ収めてくれれば良く、初期費用も不要とのことで、カーネルはこのチャンスに飛びつきましまた。
意気揚々とガソリンスタンドに向かったカーネルでしたが、来る日も来る日も客は来ません。実はこの店は前任者の仕事ぶりが非常に悪く、近隣住民から「最悪のガソリンスタンド」として嫌煙されていたのです。
ところがカーネルは諦めず、たまに来た客にはタイヤの空気圧チェックや窓ふきなど、思いつく限りのサービスを行い、誠心誠意尽くしたといいます。
この評判はあっという間に広がり、売り上げはうなぎのぼりに。カーネルが朝の5時から21までガソリンスタンドを開け、その後も深夜まで客から預かったタイヤの修理などを行ったとされます。
しかし、ガソリンスタンドの経営はうまくいっていたにもかかわらず、39歳でカーネルはまたしても無一文になってしまいます。
大干ばつで苦しんでいる農場主たちにガソリンを信用貸ししたところ、折悪く世界恐慌が起きてしまったのです。
大恐慌の影響で店の売り上げが下がり、そこに貸し倒れした負債がくわわって賃料が払えなくなり、カーネルは店の経営から退くこととなりました。
カーネル・サンダースの生い立ち・経歴④ サンダース・カフェの開業
40歳を目前にまたしても無職・無一文になってしまったカーネル。救いの手を差し伸べたのは、ガソリンスタンドの店主時代にライバル関係にあった「シェル石油」でした。
有能な店主がいるという噂を聞いていたシェル石油の経営陣らは、ケンタッキー州のコービンという街に新しくオープンするガソリンスタンドの経営を任せたい、としてカーネルをスカウトします。
こうして40歳の時にカーネルは再びガソリンスタンドの経営をはじめ、ついに飲食業に手を出すのです。
カーネルが任せられたガソリンスタンドは、ケンタッキー州の南北を貫く国道沿いにありました。しかしこの頃の国道沿いには飲食店が少なく、ある時カーネルは利用客から「この辺に簡単な食事がとれるカフェテリアがあると助かるのに」という愚痴を聞かされます。
そこでカーネルはガソリンスタンドに併設する恰好で「サンダース・カフェ」を開業。
店は物置を改装した簡素なもので、出す料理も母親譲りの家庭料理がメインでしたが、これが評判を呼び、カフェの利用客が急増します。
そして1932年、カーネルが42歳の時にはサンダース・カフェを拡大してメニューにフライドチキンを出すようになったのです。
当初、店で出していたフライドチキンはカーネルの母親のチキンをアレンジしたものでしたが、これが評判を呼んでサンダース・カフェは地元のグルメガイドに掲載され、チキン目当ての客が店に押し寄せました。
こうして1935年、カーネルはケンタッキー州知事から「州の食文化への貢献」が認められて「ケンタッキー・カーネル」の名誉称号を与えられます。
カーネル・サンダースの生い立ち・経歴⑤ またしても無一文になる
州知事から称号も与えられ地元の名士となったカーネルは、1937年にはサンダース・カフェを42席にまで拡大して「サンダース・コート」というモーテルを建築しました。
サービスが行き届いたモーテルもカフェ同様に高い評判を維持し、サンダース・コートは開業以降連日満室が続くほどの人気ぶりだったといいます。
続く1939年にはモーテルの2号店をアッシュビルを開業し、40歳を過ぎてカーネルはようやく成功を手にしたように見えました。
ところが、すべてがうまくいっていた1939年11月、サンダース・コートで大火災が発生。大切にしていた店が跡形もなく燃え尽きてしまったのです。
これまで不屈の精神で困難を乗り越えてきたカーネルも流石にこの事件は受け止めきれず、ひどく落ち込んでいたといいます。
しかし、優秀なカーネルを見込んで融資を申し出る人々や、カフェの再開を願う近隣住民からの声を受けて、もう一度レストラン経営に乗り出します。
50歳を過ぎたカーネルが新たに開いた店は140席を超える席数のレストラン。しかもこの頃、長らく続けていたフライドチキンの改良レシピもタイミングよく完成したといいます。
後のケンタッキーフライドチキンに受け継がれていく秘伝スパイス「イレブンスパイス」が完成するとともに、圧力鍋を使用して調理時間の短縮に成功したのです。
こうして1940年、フライドチキンをメインとして新生サンダース・コートがオープン。チキンが評判を呼び、今度こそ店は軌道に乗るかと思われました。
ところが、またしても不運がカーネルを襲います。1941年に太平洋戦争が勃発すると、石油、石炭、ガソリンなどの燃料費が高騰した挙句に配給制になり、ケンタッキー州を訪れる旅行客が激減。
泣く泣く2号店を手放すことになり、残った1号店て細々と営業を続けるも1946年には間違って多額の税金を課されて、またしても無一文に追い込まれてしまったのです。
さらに不幸なことに、ここまでついてきてくれた妻からもついに愛想をつかされたのか、離婚を言い渡されてしまいます。
カーネル・サンダースの生い立ち・経歴⑥ ケンタッキーフライドチキン開業
何度目かの絶望に立たされたカーネルでしたが、1951年に彼の人生を決定づける人物と出会います。
その人物の名前は、ピート・ハーマン。当時32歳だったハーマンはカーネルと同じレストラン経営者であり、2人はある料理講座で出会ってすぐさま意気投合したといいます。
彼を気に入ったカーネルは共同でフライドチキンの店をやろうと持ち掛けますが、最初、ハーマンは乗り気ではなかったそうです。
「あなたと一緒にレストランをやるのは構わないが、メインがフライドチキンなのは嫌だ」という理由で断られてしまったとのこと。
そこでカーネルは、自分の考えたスパイスを使って調理したフライドチキンをハーマンに振る舞いました。
するとハーマンはあまりのジューシーさに驚き、「これがフライドチキン?店で出せば大ヒット間違いなしじゃないか」と大絶賛。
こうしてハーマンがカーネルのオリジナルチキンを「ケンタッキーフライドチキン」と名付け、ついに世界一有名となるフライドチキンが世に出たのです。
カーネル・サンダースの生い立ち・経歴⑦ 65歳からの大逆転
しかし1952年にケンタッキーフライドチキンの1号店が開業した後も、カーネルの苦労は続きます。
戦後、アメリカでは交通量の増加に伴いあちこちで道路が建築されました。ケンタッキーフライドチキンの1号店(旧サンダース・コート)があった国道周りにも便利な迂回路が創設されて、国道の利用者が一気に激減してしまったのです。
さらに1954年には店の前に会った国道そのものが廃道になり、ついに店に客が寄り付かなくなってカーネルはまたしても無一文になってしまいます。
この時、カーネルは65歳。しかし「自分の考案したチキンが受け入れられないはずがない」という信念を捨てず、今度は車に調理機材を積んで、各地をまわりながらフランチャイズ契約をしてくれる加盟店を探しに出たのです。
ビジネスパートナーのハーマンもケンタッキーフライドチキンの美味しさを大々的に宣伝。徐々にフランチャイズ契約を結ぶレストランも出てきました。
しかし、当時のアメリカではフライドチキンは貧しい人々がカロリーをとるために食べる、栄養の偏った不健康な食事という印象があり、客層のよいレストランほど、フランチャイズ契約を渋ったといいます。
そこでカーネルは、オーナーの許可をとってレストランの客の前で実演販売でフライドチキンを売りだしました。
身長180㎝の白髪の紳士が目の前でチキンを調理するというデモンストレーションは客に大うけし、「カーネルおじさんのチキン」として一躍有名に。
1957年にはハーマンがバケツを模した円柱形の箱・バーレルでフライドチキンをテイクアウト販売するというアイデアを出すと、これも大ヒットしました。
こうしてケンタッキーフライドチキンは瞬く間に店舗を増やし、1963年までには加盟店の数も600店にまで拡大。アメリカ最大のフランチャイズ・レストランとなり、世界進出を果たしたのです。
カーネル・サンダースの生い立ち・経歴⑧ 晩年と死因
自身をモデルにしたキャラクター「カーネルおじさん」のグッズを展開したこともあり、チキンとともにカーネル自身の知名度もあがりました。
カーネルは1963年には「リンカーン以来、もっともアメリカで広く知られた人物」となったそうです。
世間での盛り上がりをよそに、カーネル本人は自分の手を離れて大きくなっていた事業から1964年に73歳で、ケンタッキーフライドチキンの経営から引退します。
しかし静かな余生を送ったわけではなく、会社の経営を自分が見込んだ後継者に託した後は、ケンタッキーフライドチキンの顔としてプロモーション活動で出回を飛び回り、時には直々に店の厨房に入り、調理指導を行うことまでありました。
カーネルが亡くなったのは1980年12月16日。享年90歳で、死因は肺炎でした。
この年の6月にカーネルは急性白血病を発症しており、病気が発覚した後もケンタッキーフライドチキンのPR活動を続けていたといいます。
カーネル・サンダースの子孫
カーネルには1947年に離婚しており、1949年には自分の店の従業員と再婚しています。
再婚後に子どもはもうけていませんが、前妻との間には長女のマーガレット・ジョセフィン・サンダース・アダムスさん、長男のハーランド・デイビッド・サンダース・ジュニアさん、次女のミルドレッド・マリー・サンダース・ラグルスさんの3人の子どもがいます。
長女のマーガレット・ジョセフィン・サンダース・アダムスさんと子孫
カーネルの第一子となるマーガレットさんは、2001年に91歳で亡くなっています。
生前は父親の暴露本『大佐の秘密』を出版しており、このなかで「カーネル・サンダースには愛人がいた」と書いて話題になったといいます。
一時期はソルトレイクのケンタッキーフライドチキンで、ウエイトレスとして働いていたこともあるそうです。
また、マーガレットさんにはアダムスさんとフランシスさんという子ども(カーネルの孫)がいることも明らかになっています。
アダムスさんは2005年に73歳で亡くなっており、2人の子どもがいるとのことです。
フランシスさんは2021年に84歳で亡くなっており、やはり2人の子どもがいるとのこと。人数は不明ですが、孫もいるといいます。
長男のハーランド・デイビッド・サンダース・ジュニアさん
カーネルの長男であるハーランド・デイビッド・サンダース・ジュニアさんは、20歳の時に亡くなっています。
結婚する前に亡くなったとのことで、彼の子孫はいません。
次女のミルドレッド・マリー・サンダース・ラグルスさんと子孫
次女のミルドレッドさんは91歳で他界していますが、生前はケンタッキーフライドチキンのフランチャイズ加盟者の研修とレストランの宣伝を担当していたそうです。
また、ミルドレッドさんには2人の子どもがおり、5人の孫と6人のひ孫もいるとのことです。
カーネル・サンダースは日本のケンタッキーが一番好きだった?
生前、カーネルは何度か日本を訪れているのですが、その際に「日本のKFCが一番好きだ」と言っていたそうです。
ケンタッキーフライドチキンが日本に初上陸したのは1970年のことで、カーネルが来日したのは1972年でした。
この時からカーネルは一貫して「日本のケンタッキーは私の製法を一番忠実に守っている」と高く評価していたといいます。
カーネルの立像を店頭に置くのも、実は日本発祥です。もともとカーネルの立像はカナダでのイベント用に作られたもので、たまたま本社の倉庫でそれを見つけた日本法人の幹部が、日本に持ち帰って飾ったところ、これが店のアイコンとして定着したのだといいます。
なお、立像を店頭に飾るというアイデアはカーネルにも非常に喜ばれたそうで、この点でも日本のケンタッキーを高く評価していたと思われます。
カーネル・サンダースの都市伝説① 道頓堀に投げ込まれた立像と阪神の呪い
阪神のリーグ優勝が決まった1985年10月16日、狂喜した阪神ファンがカーネル・サンダースの立像を道頓堀川に投げ込むという事件が起こりました。
ファンがカーネルの立像を店から盗み、道頓堀に投げ捨てた理由は「カーネルの顔が優勝に貢献したランディ・バースに似ていたから、胴上げしたい」というもので、制止する定員を殴りつけて像を強奪したとされます。
この事件の翌年の1986年から阪神の成績は低迷し続け、これが道頓堀に捨てられたカーネルの呪いではないのか?と囁かれるようになったのです。
カーネルの呪いの話が広く知られるようになったきっかけは、1988年に放送された『探偵ナイトスクープ』で、「道頓堀に沈んだカーネル・サンダースを救え!」という特集が組まれたことでした。
この番組でも発見されなかったカーネルの立像ですが、2009年に道頓堀の整備事業が行われた最中にやっと発見され、ニュースにまでなりました。
カーネル・サンダースの都市伝説② フリーメイソンだった?
カーネル・サンダースはフリーメイソンの会員だったことが明らかになっており、結社のなかでも位の高い「ミスティック・シュライン」という会合に参加していたそうです。
カーネル・サンダースの立像の胸には2つのバッジがついているのですが、上の丸いバッジが彼の参加していたロータリークラブのもので、下のものがミスティック・シュラインのものだといいます。
ただ、それがカーネルが影の権力者だったという話に繋がるというオカルトめいたことはなく、顔の広かったカーネルが、誰かから誘われてフリーメイソンの会員になって慈善事業を行っていただけとの説が有力です。
なお、上位の会合というミスティック・シュラインの会員には高須クリニックの高須克弥院長も名を連ねているそうです。
カーネル・サンダースについてのまとめ
今回はケンタッキーフライドチキンの創業者であり、波乱万丈の人生を送った起業家のカーネル・サンダースについて紹介しました。
カーネルは亡くなる直前まで店のことを考え、トレードマークの白いスーツを身にまとって天国に旅立ったといいます。
どんな苦境にあっても前を向き続けたカーネルの生涯は、死後に囁かれた都市伝説よりも人を惹きつけ、驚かせるものと言えるでしょう。