小早川秀秋の死因!家系図や子孫・関ヶ原で裏切った理由・その後も総まとめ

小早川秀秋は関ヶ原の戦いで裏切った事で知られる安土桃山時代の戦国大名です。

 

この記事では小早川秀秋がどんな人だったのか、その経歴や性格、名言、家系図や家紋、現在の子孫、関ヶ原の戦いで裏切った理由、その後どうなったのかや死因などについてまとめました。

この記事の目次

小早川秀秋は関ヶ原の戦いで東軍に裏切った事で有名な安土桃山時代の大名

 

小早川秀秋

 

生年  :1582年(天正10年)

没年月日:1602年12月1日(慶長7年10月18日)

出身地 :近江国長浜(現在の滋賀県長浜市)

小早川秀秋(こばやかわ・ひであき)は、1600年に発生した「関ヶ原の戦い」で西軍(石田三成側)から東軍(徳川家康側)へと裏切った事で知られている安土桃山時代の大名です。

 

小早川秀秋は関ヶ原の戦いに1万5000(諸説あり)の大軍を率いて西軍として布陣するも、戦いの途中で突如として東軍へと裏切り、石田三成の盟友であった大谷吉継らの陣を攻撃して西軍を崩壊に追い込むきっかけを作ったとされています。

 

小早川秀秋は豊臣秀吉の親類だったにもかかわらず、関ヶ原の戦いでの裏切りによって、結果として豊臣家の滅亡へと繋がったとして、稀代の裏切り者として後世にも伝えられ、現代になってもなお、裏切り者の代名詞のように言われている人物です。

 

ここではこの小早川秀秋について紹介していきます。

 

 

 

小早川秀秋はどんな人か① 豊臣秀吉の義理の甥(正室・おねの兄の息子)

 

小早川秀秋の実父・木下家定

 

生年  :1943年(天文12年)

没年月日:1608年10月4日(慶長13年8月26日)

出身地 :尾張国朝日村(現在の愛知県清須市)

 

まずはじめに、そもそも小早川秀秋はどんな人だったのか、その経歴を追いながら見ていきます。

 

小早川秀秋は、羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)の主君であった織田信長が殺害された「本能寺の変」が起こった1582年(天正10年)に誕生しました。

 

父親は木下家定という人物で、羽柴秀吉の正室である「おねの方」(後の高台院)の実兄にあたる戦国武将でした。つまり、小早川秀秋は秀吉の義理の甥にあたります。

 

小早川秀秋は木下家定の五男として近江国(現在の滋賀県)の長浜(当時の秀吉の本領)で生まれ幼名は辰之助(たつのすけ)と言いました。

 

ちなみに、小早川秀秋の母親はおねの方の伯父にあたる杉原家次の娘で、小早川秀秋は秀吉の正室であるおねの方の一族に強いルーツを持つ人物だと言えます。

 

 

 

小早川秀秋はどんな人か② 一時は豊臣家の後継ぎ候補と見なされた

 

小早川秀秋の義理の叔父にあたる豊臣秀吉

 

生年月日:1537年3月17日(天文6年2月6日)

没年月日:1598年9月18日(慶長3年8月18日)

出身地 :尾張国中村(現在の愛知県名古屋市中村区)

 

羽柴秀吉の正室おねの方の兄の息子として生まれ、秀吉の甥の立場だった小早川秀秋でしたが、数え年で4歳になった1585年(天正13年)に、子供に恵まれなかった義理の叔父の秀吉の養子となります。

 

それからは秀吉の正室の高台院(おね)に養育され、7歳で元服して木下秀俊(秀吉は元々木下姓を名乗っており、一族や信頼された家臣は木下姓を名乗る事が多かった)を名乗り、次いで、羽柴秀俊、豊臣秀俊と名乗りました。

 

 

小早川秀秋を養育した秀吉の正室・高台院

 

別名  :おね、北政所

生年  :不明

没年月日:1624年10月17日(寛永元年9月6日)

 

1589年(天正17年)に元服して木下秀俊を名乗った小早川秀秋は、当時は直系の子供のいなかった秀吉の有力後継者の1人と位置付けられ、1586年に18歳で死去した羽柴秀勝(織田信長の四男で秀吉が後継にと養子にもらっていた)の領地だった丹波亀山城10万石をそのまま与えられています。

 

1591年(天正19年)には豊臣姓を名乗っていた史料が確認され、1592年(文禄元年)には、朝廷から権中納言兼左衛門督に叙任されています。(豊臣家は朝廷から叙任される官位を権威付けに利用していた)

 

当時、小早川秀秋(当時の名乗りは豊臣秀俊)は、関白職(天皇を補佐する官職で公家の最高位)を秀吉から譲られた豊臣秀次(秀吉の実姉の長男で、秀吉の養子となり、正式に後継者とされていた)に次ぐ、豊臣家の家督継承権者と見なされていました。

 

そのため、小早川秀秋は元服した直後から全国の有力者達からの接待を連日受けるようになり、7歳から毎晩酒を飲み続ける事になって、12歳になる頃には重度のアルコール依存症になっていたと言われています。

 

また、アルコール依存の影響もあってか素行が悪かったと言われており、養父である豊臣秀吉から、日頃の身だしなみや生活態度を改めるようにと叱責された書状が現存しています。

 

 

 

小早川秀秋はどんな人か③ 有力大名・毛利家の一族の小早川家の養子に

 

小早川秀秋が養子になった小早川隆景

 

生年  :1533年(天文2年)

没年月日:1597年7月26日(慶長2年6月12日)

出身地 :安芸国吉田郡山城(現在の広島県安芸高田市)

 

豊臣秀吉の後継者順位第2位と見なされていた小早川秀秋でしたが、1593年(文禄2年)に、豊臣秀吉に側室の茶々(淀君、織田信長の妹・お市の方の長女)との間に男子・拾丸(後の豊臣秀頼)が誕生すると、その立場は微妙なものとなりました。

 

もはや生まれないだろうと思われていた秀吉の実子が予想に反して誕生した事で、公式に家督継承者とされていた豊臣秀次やそれに次ぐ豊臣秀俊(小早川秀秋)の存在は将来的に権力争いの種になる恐れがありました。

 

そこで、秀吉の軍師(参謀)であった黒田孝高が、豊臣秀俊を毛利家の当主・毛利輝元(中国地方の大大名で、当時は豊臣家に従属)の養子に出すように進言します。

 

秀吉もそれを承認し、毛利家へ話が持ちかけられますが、ここで毛利家の宰相であった小早川隆景は、これをそのまま飲めば、将来毛利家が豊臣家の血筋に乗っ取られてしまうと危ぶみ、代替案として、自分が秀俊を養子に貰い受ける事を提案。

 

この小早川隆景という人物ですが、毛利家を一代で大大名へと押し上げた興隆の祖である先代当主・毛利元就の三男で、若い頃に安芸国の有力な豪族であった小早川家の養子に入りその家を継承していました。

 

才覚に溢れた傑物で、秀吉は小早川隆景の事を高く買っていたためこの提案に喜んで承諾し、秀俊は小早川隆景と養子縁組し小早川家に養子に入る事になったのでした。

 

これが拾丸(豊臣秀頼)誕生翌年の1594年(文禄3年)の事でしたが、その翌年の1595年(文禄4年)に、この養子縁組によって豊臣政権下での地位を大幅に上昇させた小早川隆景は五大老の1人に任じられています。

 

なお、公式に豊臣家の家督継承権者とみなされていた豊臣秀次は謀反の疑いをかけられ、1595年8月20日(文禄4年7月15日)に切腹に追い込まれ、その後、一族や家来も連座して皆殺しにされています。(最新の研究では、秀吉は秀次を殺すつもりはなかったが、秀次が自ら切腹してしまったため、辻褄を合わせるために謀反の罪がでっち上げられ、一族や家来はその巻き添えになったとされている)

 

この豊臣秀次切腹事件の影響は小早川家に養子に入った秀俊(小早川秀秋)にも及び、連座される形で丹波亀山城10万石の領地を没収されています。

 

この没収の理由ははっきりした事はわかっていませんが、秀吉が実子である拾丸(豊臣秀頼)の地位を脅かす事を恐れて力を削ごうとしたとする説や、日頃の素行の悪さが影響したとする説が可能性として示されています。

 

しかし、この1595年のうちに養父である小早川隆景が隠居したため、小早川隆景は小早川領30万7千石(筑前国)を継承しています。

 

経緯から見て、既定路線の転封(領地を変える事)であり、実質的には加増(領地を増やされる事)であったと考えられます。豊臣秀次切腹事件の辻褄を合わせるため、名目上小早川秀秋を連座させる形として、小早川領へ移したと見た方が辻褄が合います。

 

その後、小早川隆景の跡を継いで小早川家当主になった秀俊は、慶長2年(1597年)に小早川隆景が65歳で死去した後に名前を小早川秀秋と改めました。

 

 

 

小早川秀秋はどんな人か④ 小早川家当主として朝鮮出兵に参加

 

出典:https://upload.wikimedia.org/

 

小早川家の家督を継いだ小早川秀秋は、1597年の慶長の役(秀吉の命による朝鮮出兵)に小早川軍を率いて出兵し、朝鮮半島へと渡海しています。

 

朝鮮出兵では、小早川秀秋とその部隊は半島南東部に位置する釜山浦に駐屯し、前線と本土に置かれた本陣との連絡役を務めました。

 

この朝鮮出兵時、小早川秀秋は、1598年1月から2月にかけて発生した「蔚山城の戦い」に参加し、退却する明国軍と朝鮮軍を自ら馬に乗って追撃して多数の敵兵を討ち取ったとする史料が存在します。ただ、この逸話を裏付ける史料は江戸時代に成立したもので、信憑性は高くありません。

 

その後、1598年3月(慶長3年1月)に朝鮮半島から帰国した直後、小早川秀秋は秀吉から越前国北ノ庄15万石(現在の福井県福井市)への転封が命じられています。これは30万石から15万石への大幅な減封であり、何らかの処罰であったと考えられます。

 

定説では、小早川秀秋が蔚山城の戦いで大将であるにも関わらず敵を追撃するなどの軽率な行動を取った事に秀吉が怒り処罰したとされていますが、そもそも蔚山城の戦いに小早川秀秋が加わっていたとする説の信憑性が高くないため、最新の研究ではこの説は否定的に見られています。

 

最新の研究では、小早川秀秋の領有していた筑前国が、朝鮮出兵の国内の兵站基地となっていため、政権による直轄化が進められており、その煽りを受けての減封と転封だったのではとする見方が有力とされています。

 

 

 

小早川秀秋はどんな人か⑤ 関ヶ原の合戦に至るまで

 

小早川秀秋が越前国北庄に転封・減封されてから1年半後の1598年9月18日(慶長3年8月18日)に豊臣秀吉が死去します。

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その翌年の1599年3月1日(慶長4年2月5日)、豊臣秀吉の遺命という名目で五大老(徳川家康、前田利家、上杉景勝、毛利輝元、宇喜多秀家)の連署による知行宛行状(各大名に領地を配分する権利を保証する文書)が出され、小早川秀秋は旧領の筑前と筑後の一部、35万7000石に復帰しています。

 

一方で、豊臣秀吉の死去後には徳川家康が権力を強め、1600年7月には、会津の上杉景勝が軍備を増強している事に対して、徳川家康を主将とする大軍が起こされ「会津征伐」が行われました。

 

しかし、会津征伐軍が関東に入ったところで、石田三成、宇喜多秀家、大谷吉継、小西行長、毛利輝元らが挙兵し、家康討伐の軍を起こしました。

 

これが「関ヶ原の戦い」の始まりでした。

 

小早川秀秋は最初から東軍(徳川家康側)に味方するつもりで軍を率いていたが、西軍の首脳(石田三成、宇喜多秀家ら)に大阪で足止めされ、成り行きで西軍に味方する事になったとする説が有力とされていますが、はっきりとそれを裏付ける史料はまだ発見されていません。

 

ただ、少なくとも小早川秀秋の軍勢は、関ヶ原の本戦前に発生した「伏見城の戦い」(家康の譜代の家臣・鳥居元忠らが籠城する伏見城を西軍が攻撃した)では、西軍に加わって城を攻撃しています。

 

その後も小早川秀秋とその軍勢は西軍と行動を共にしつつも、積極的に戦闘に参加する事はありませんでしたが、関ヶ原本戦前日にあたる1600年10月20日(慶長5年9月14日)に、突如として関ヶ原南西に位置する松尾山城に軍勢を進め、城の修築を担当していた西軍方の伊藤盛正の軍勢を追い出してそこに布陣しました。

 

この松尾山城ですが、西軍側の総大将である毛利輝元(小早川秀秋の養父である小早川隆景の甥で毛利家の当主)の本陣とするために、西軍が整備を進めていたところでした。

 

そのため、この小早川秀秋軍の突然の行動は西軍に対する敵対行動のようにも捉える事ができ、その麓に布陣した大谷吉継を中心とする西軍の部隊は、松尾山城の小早川秀秋軍の方に向けて陣地を構築していたという事実も判明しています。

 

この時の小早川秀秋の本当の心中は史料が発見されておらずわかっていませんが、いずれにしても、この後に小早川秀秋は裏切りを行い西軍敗北のきっかけを作りました。

 

小早川秀秋の関ヶ原の戦い本戦における裏切りの詳しい経緯は後半の見出しで改めて紹介します。

 

 

 

小早川秀秋の性格① 優柔不断ではなく狡猾かつ勇猛な人物だった可能性も

 

小早川秀秋の性格については、よく「優柔不断」だと言われています。

 

関ヶ原の戦いにおいてギリギリまで、西軍に味方するか東軍に味方するか旗色をはっきりさせなかった事が、小早川秀秋が優柔不断な性格だったとする根拠とされているようです。

 

しかし、最新の研究では小早川秀秋は内心では東軍に味方する事を最初から決めており、東軍に味方するのに最適なタイミングを計算していたという説が有力になってきています。

 

小早川秀秋は東軍に味方するつもりで軍を率いて来たものの、家康討伐のために石田三成や宇喜多秀家らが挙兵し、大阪で足止めされて味方になるよう促され、状況から西軍の味方のフリをせざるを得なかったとするものです。

 

これは、当時大阪に集結した西軍の勢力は毛利軍を主力に8万人にも達しており、小早川秀秋の軍勢1万5000から8000の軍勢では太刀打ちで出来たとは思えないためです。

 

この説が正しいとすれば、小早川秀秋の性格は優柔不断というよりは、むしろ狡猾で頭の良い人物だったように思えます。

 

また、関ヶ原の戦いでは、突如として西軍が総大将毛利輝元の陣所にしようとしていた松尾山城を奪い取り、そこに陣取っています。

 

この行動からは、優柔不断で気弱な性格とは真逆の、豪胆で勇猛な性格も見えてきます。しかもこの松尾山という場所が絶妙な位置で、西軍に味方したとしても東軍に味方したとしても敵を包囲して攻撃できる位置でした。

 

こうした行動から、小早川秀秋はよく言われているような優柔不断で愚かな性格ではなく、むしろ戦国武将として優秀だったのではないかとする説も出て来ています。

 

 

 

小早川秀秋の性格② 優しい人物だったが酒に溺れ問題行動も起こしていた

 

他にも、小早川秀秋の性格を伝えるエピソードとしては、小早川秀秋と親交のあった公卿・近衛信尹が残した文書などから、少年時代の小早川秀秋は蹴鞠や舞などの芸事に才覚を示し、貧しい人々に進んで施しをするような優れた人間性を持っていた事などが確認できます。

 

しかし、すでに触れたように全国の権力者からの接待攻撃を受けて毎日酒を飲んでアルコール依存症になると、毎日友人らと飲み明かしたり、法要の場で暴力沙汰を起こしたりと問題行動が目立つようになった事なども近衛信尹は書き残しています。

 

また、小早川秀秋は身の程を超えた贅沢な生活を送っていたとされ、養母である高台院(秀吉の正室おね)から500両(現代の価値にして数千万円)もの借金をしており、他の関係者からも借金をしていた記録なども残っています。

 

また、小早川秀秋には、家臣との関係が悪化して家臣が出奔したという記録も少なからず残されており、かなり癖の強い性格をしていた可能性もあるようです。

 

豊臣秀吉が小早川秀秋の生活態度を叱責する書状も現存しており、少なくとも品行方正な人物ではなかった事は間違いないようです。

 

 

 

小早川秀秋の名言

 

小早川秀秋の名言などは特に記録に残っていません。

 

そもそも名言どころか、小早川秀秋本人の言葉が記録された史料すら現在のところは見つかっていません。

 

 

 

小早川秀秋の家系図

 

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小早川秀秋の家系図です。

 

高台院は豊臣秀吉の正室のおねの事ですが、小早川秀秋がそのおねの家系と強い結びつきを持っている事が家系図で表すとよくわかります。

 

 

 

小早川秀秋の家紋は「丸に違い鎌紋」

 

出典:https://colorfl.net/

 

小早川秀秋の家紋は「丸に違い鎌紋」というデザインです。

 

2本の鎌がクロスされたものを丸で囲った印象的な図案ですが、これは小早川家の代々の家紋ではなく、小早川秀秋が独自に使用していた家紋でした。(小早川家の家紋は「左三つ巴」)

 

鎌は農機具として使われるため、この家紋には「五穀豊穣」の願いが込められていたと言われています。

 

他にも、鎌には邪気を払う力があるとも信じられており神社などでも鎌をモチーフにした紋を用いているところが多く見られます。小早川秀秋もこの邪気を払うという意味もこの家紋に込めていたと思われます。

 

また、刃物は武器を象徴する事から、「武運長久」(武運が長く続く事)を願う意味も込められていたと言われています。

 

ちなみに、小早川秀秋はこの「丸に違い鎌紋」の他にも、小早川家の代々の家紋である「左三つ巴」や、豊臣家の家紋である「五七の桐」も使用していたようです。

 

 

小早川家代々の家紋「左三つ巴」

 

小早川家の代々の家紋である「左三つ巴」には、水が渦巻く様子を図案にしたものです。水による火除け(災難避け)という意味の他に、日本では古くから川や湖と龍神信仰が結びついており、この家紋も龍神信仰がルーツになっていると考えられています。

 

 

豊臣家の家紋「五七の桐」

 

豊臣家の家紋として知られる「五七の桐」は、室町幕府が用いた事が知られ、それ以来、皇室や時の権力者が好んで用いました。現在も日本国政府の紋章として使用されています。

 

豊臣秀吉はこの家紋を、信頼の厚い家臣や親類に使用を許可して主従の結びつきを強める事に利用しました。豊臣の公達である小早川秀秋にもこの家紋の使用が許されていました。

 

 

 

小早川秀秋の直系の子孫はいないが小早川家は再興されている

 

小早川家の子孫・小早川隆治氏

 

生年月日:1941年3月8日

出身地 :東京都

 

小早川秀秋は関ヶ原の戦いからわずか2年後の1602年12月1日(慶長7年10月18日)に21歳でこの世を去っています。

 

小早川秀秋には子供はおらず、直系の子孫は存在していません。

 

しかし、1879年に毛利家の28代目当主・毛利元徳の三男の三郎を当主として小早川家が再興されています。この小早川三郎も子供に恵まれなかったため、弟の四郎が養子となって継承し、さらに毛利家第29代当主の毛利元昭の次男・元治が四郎の養子となって小早川家を継いでいます。

 

その後も小早川家は存続しており、現在の当主は元マツダの重役ではモータージャーナリストとして活躍されている小早川隆治さんです。

 

2017年にはこの小早川家子孫の小早川隆治さんと、石田三成の子孫の石田秀雄さんが会談し400年ぶりに和解したとするニュースが話題になりました。

 

「関ケ原の戦い」で西軍を率いた石田三成と、東軍に寝返ったとされる小早川秀秋の子孫が29日、三成ゆかりの観音寺(滋賀県米原市)で会談した。

(中略)

石田秀雄さん(67)が秀秋を「勇将だ」とたたえ、小早川隆治さん(76)と固い握手。約400年越しに和解した。

 

引用:石田三成と小早川秀秋 子孫が400年ごしの和解

 

 

 

小早川秀秋の関ヶ原の戦いでの裏切りの経緯

 

出典:https://1.bp.blogspot.com/

 

小早川秀秋が関ヶ原の戦いで西軍から東軍へと裏切った際の詳しい経緯も見ていきます。

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小早川秀秋は関ヶ原南西部に位置する松尾山城に布陣し関ヶ原の戦い本戦の日を迎えました。

 

関ヶ原の戦いは午前8時頃に戦闘が始まり、当初は西軍が東軍を押しまくるような戦況となっていたとされています。

 

しかし、小早川秀秋は一向に松尾山から動こうとせずに傍観を決め込んでいました。西軍の実質的な総大将であった石田三成は、ここで小早川勢が戦いに加われば東軍を崩せると見て、小早川秀秋の軍勢に向けて参戦を促す狼煙を何度も打ち上げたとされています。しかし、小早川秀秋の軍が動く事はありませんでした。

 

一方で、事前に小早川秀秋から裏切りの約束を取り付けていた東軍の総大将である徳川家康も、一向に寝返りを実行に移そうとしない小早川秀秋に対して苛立っていたとされます。

 

そこで、徳川家康は小早川秀秋の陣に向かって鉄砲を撃ちかけさせた(これは事実ではないとする説も)ところ、小早川秀秋は突如として軍を動かし、松尾山の麓に布陣していた大谷吉継を中心とした西軍部隊へと突入させました。

 

大谷吉継らの軍勢は小早川秀秋の裏切りを事前に予想しており、陣地を構築して備えていたため、数度にわたって小早川軍の攻撃を跳ね返しますが、松尾山の北東麓に並んで布陣していた脇坂安治、朽木元綱、小川祐忠、赤座直保らの軍勢が相次いで裏切り、大谷吉継らの軍勢へと傾れ込んだ事でついに壊滅します。

 

これにより、西軍の右翼の陣形が崩れ、連鎖的に宇喜多秀家、小西行長らの軍勢も崩壊し、最後は石田三成の本陣も壊滅し、西軍は総崩れとなりました。

 

ただ、最新の研究では、関ヶ原の戦いが開始されたのは午前10時頃で、小早川秀秋はその直後に裏切ったとする説も浮上しています。

 

 

 

小早川秀秋が関ヶ原の戦いで裏切った理由① 徳川家康に恩義を感じていた

 

徳川家康

 

生年月日:1543年2月10日(天文11年12月26日)

没年月日:1616年6月1日(元和2年4月17日)

出身地 :三河国岡崎城(現在の愛知県岡崎市)

 

 

小早川秀秋が関ヶ原の戦いで裏切った理由については、確実な事はわかっておらず様々な説が存在します。

 

よく言われているのが、小早川秀秋が徳川家康に恩義を感じていたのが裏切った理由ではないかとするものです。

 

これは、小早川秀秋が慶長の役から日本に帰国した際、秀吉から突然転封と減封を命じられるも、秀吉の死後に、徳川家康の取りなしによって筑前・筑後の旧領に復帰する事ができたため、秀秋は家康に強く恩を感じていたとするものです。

 

 

 

小早川秀秋が関ヶ原の戦いで裏切った理由② 過去の確執が影響した説

 

小早川秀秋がどんな人だったのかのところでも書いたように、小早川秀秋は一時は豊臣家の家督継承権上位者の1人として扱われていました。

 

ところが、豊臣秀吉に子供(豊臣秀頼)が誕生すると、小早川家に養子に出された挙句、何度も領地を転封、減封され、豊臣家の都合によって振り回されました。

 

豊臣秀次切腹事件の事もあり、下手をすれば命を取られかねないという恐怖心も抱いていた可能性もあります。

 

こうした過去の経緯から、小早川秀秋は豊臣家そのものに対して恨みを抱いており、徳川家に味方して豊臣家を崩壊させようとしたというのが裏切った理由ではないかとも言われています。

 

また、これは俗説ですが、小早川秀秋が改易されたり減封されたりしたのは、石田三成の讒言(いわゆる告げ口、ある事ない事吹き込む事)によるもので、小早川秀秋は石田三成への強い恨みから裏切ったとする説も存在します。

 

 

 

小早川秀秋が関ヶ原の戦いで裏切った理由③ 家康が鉄砲で威嚇した説

 

小早川秀秋が関ヶ原の戦いの最中に裏切る直接的なきっかけとなったのは、いつまでも動かない小早川勢に苛立った徳川家康が、その陣に向けて鉄砲を撃ちかけさせ威嚇した事だったと言われています。

 

しかし、この徳川家康による小早川秀秋の陣に向けての鉄砲の威嚇射撃は、後世の作り話だったとする説が有力とされています。

 

これは、激戦が展開されていた関ヶ原で、麓から鉄砲を射撃したとしても小早川秀秋の本陣までその音が届くとは考えづらく、そもそも家康から撃たれたと認識できなかったと指摘されている事によります。

 

 

 

小早川秀秋が関ヶ原の戦いで裏切った理由④ 養母であるおねに指示された

 

小早川秀秋の裏切った理由は、養母であるおね(高台院)に家康に味方するように指示されたためとする説も存在します。

 

豊臣秀吉の正室であったおねは、まだ秀吉が下級武士だった時代から内助の功で夫の出世を助け、小早川秀秋も含めて、福島正則や加藤清正といった秀吉子飼いの武将達を子供時代から母親代わりになって養育しました。

 

おねの立場からすれば豊臣家が天下を取った事には自分の支えも大きかったと考えていたのではないかと想像されます。しかし、秀吉は晩年になると側室の淀君を寵愛し、豊臣家の後継もその淀君の子供である豊臣秀頼が継ぐ事になりました。

 

おねはこうした状況に納得がいかず、それならばいっその事、豊臣家が滅びてしまえば良いとまで考え、自分を慕う豊臣家子飼いの武将達に東軍に味方するように促したとする説です。

 

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途中で裏切った小早川秀秋だけでなく、福島正則や加藤清正ら秀吉子飼いの武将達がこぞって家康に味方した事から出てきた説です。

 

 

 

小早川秀秋が関ヶ原の戦いで裏切った理由⑤ 重臣が勝手に内応した

 

稲葉正成

 

生年  :1571年(元亀2年)

没年月日:1628年10月14日(寛永5年9月17日)

 

小早川秀秋は西軍に味方しようと考えていたものの、重臣の稲葉正成と平岡頼勝が、勝手に東軍に内応し裏切らざるを得ない状況に持っていったとする説も存在します。

 

小早川秀秋の調略を担当していたのは東軍方の武将の黒田長政(黒田官兵衛の長男)で、平岡頼勝とは親戚関係にありました。

 

稲葉正成と平岡頼勝は共に、関ヶ原の戦いの後に家康に取り立てられて大名になっており、この時の功績に家康が報いたのではないかとも言われています。

 

 

 

小早川秀秋のその後① 関ヶ原の戦功で加増(領地を増やされる事)

 

小早川秀秋は関ヶ原の戦いのその後、戦功によりの旧宇喜多秀家の領国、備前国・岡山55万石に加増、転封されています。

 

 

 

小早川秀秋のその後② 当時も卑怯者と見なされて世間の批判を浴びた

 

小早川秀秋は、関ヶ原の戦いで東軍へと寝返り、結果として大幅な加増を受けました。

 

しかし、当時の世論でも小早川秀秋は豊臣家を裏切った卑怯者とみなされて世間からの批判を浴びていたようです。

 

春日社社司の中臣祐範の日記「中臣祐範記」に、「小早川秀秋が裏切って後ろから1万5000余で切りかかったために、どうにもならずに(豊臣方が)敗北した。秀秋が『太閤秀吉』の養子として、出世した人物であるにも関わらず、今回の事の次第は、武勇の上の事だとはいっても、卑怯の所業であると世間の嘲嘍(嘲笑される事)を受けた」と書かれています。

 

これはリアルタイムに書かれた日記であり、当時の世間の雰囲気がかなり忠実に記録されたものと考えられます。

 

 

 

小早川秀秋のその後③ 関ヶ原の戦いの2年後に21歳で急死

 

小早川秀秋は関ヶ原の戦いからわずか2年後の1602年12月1日(慶長7年10月18日)に21歳で急死を遂げています。

 

上方(京都方面)から帰国の途上に鷹狩りを行った際に体調を崩し、それから3日後に死去したとの史料があり、かなり突然の急死だったようです。

 

 

 

小早川秀秋の死因① アルコール依存症による内臓疾患

 

21歳で急死した小早川秀秋の死因については、アルコール依存症による内臓疾患だったと推測されています。

 

当時の高名な医師である曲直瀬玄朔が治療記録をまとめた「医学天正記」には、1601年に酒疸による黄疸の症状が激しくなった小早川秀秋を治療した事が書かれています。

 

この「酒疸」とは、説明されている症状から現代でいうところの「アルコール性肝硬変」と見られており、これが小早川秀秋の死因になったと推測されています。

 

 

 

小早川秀秋の死因② 大谷吉継の祟りだとも人々の間で噂された

 

出典:https://upload.wikimedia.org/

 

小早川秀秋の死因については、関ヶ原の戦いで小早川秀秋の裏切りにあって戦死した大谷吉継の祟りで呪い殺されたのではないかとする説が人々の間で噂されたようです。

 

この大谷吉継の祟り説は、江戸時代中期に著された軍記物「関原軍記大成(せきがはらぐんきたいせい)」などに記されています。

 

大谷吉継が自刃する際に、小早川秀秋の陣に向かって「人面獣心なり。三年の間に必ずや祟りをなさん」と叫んで腹を切ったとする逸話もこうした軍記物などで書かれていますが、あくまでもエンタメ要素の強い軍記物に書かれた内容なので信憑性は高くありません。

 

この小早川秀秋の死因が大谷吉継の祟り説は江戸時代の日本でもかなり流行したようで、不気味な大谷吉継の幽霊に恐れ慄く小早川秀秋を描いた浮世絵なども残されています。

 

 

 

まとめ

 

今回は、関ヶ原の戦いで東軍に裏切り、豊臣家が滅亡する最初のきっかけを作った安土桃山時代の大名・小早川秀秋がどんな人だったのかなどについてまとめてみました。

 

小早川秀秋は、豊臣秀吉の正室のおね(高台院)の実兄の息子で、子供に恵まれなかった秀吉の養子となりました。

 

豊臣家の世嗣候補第2位とみなされましたが、秀吉に実子の豊臣秀頼が誕生すると、その立場は微妙なものとなり、毛利家の一族である小早川家へと養子に出されてしまいます。

 

その後は、小早川家の当主として朝鮮出兵にも出陣しますが、帰国後に大幅な減封命令を受けるなど秀吉から冷遇されるようになります。

 

その後、秀吉が死亡すると、徳川家康の取りなしによって旧領を回復し、家康に対して恩義を抱くようになり、これが関ヶ原の戦いで裏切った理由となったとも言われています。

 

小早川秀秋は、関ヶ原の戦いでは当初は西軍と行動を共にしたものの、関ヶ原での本戦闘中に突如として裏切り、西軍敗北のきっかけを作りました。

 

関ヶ原の戦いのその後、小早川秀秋はその戦功により大幅な加増を受けますが、戦いからわずか2年後の1602年12月に21歳の若さで急死しました。

 

小早川秀秋の死因は、現在の医学による推測ではアルコール依存症による内臓疾患とする説が有力とされています。ただ、江戸時代には小早川秀秋は、関ヶ原の戦いで自害した大谷吉継の祟りによって死亡したのではとする噂が人々の間で囁かれました。

 

こうした経歴から、小早川秀秋の性格は優柔不断で暗愚といったイメージを持たれていますが、実際の性格についてはわかっておらず、その実際の行動などから、意外に勇猛果敢で頭の良い人物だった可能性なども指摘されています。

 

小早川秀秋には子供がおらず、直系の子孫はいませんが、小早川家はその後、毛利家の一族により再興しており、現在の当主は元マツダ重役の小早川隆治さんという方です。

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