太平洋戦争は大日本帝国とアメリカなど連合国が戦った国家総力戦でした。
この記事では太平洋戦争をわかりやすく開戦日から終戦まで年表形式でまとめ、原因やきっかけ日本がしたことと戦死者数、5つの激戦地、太平洋戦争中の人々の暮らしなどについてまとめました。
この記事の目次
太平洋戦争は日本と連合国との戦いで第2次世界大戦中の太平洋方面の局面
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「太平洋戦争」とは、1941年12月8日から1945年8月15日にかけて、大日本帝国軍とアメリカ、イギリス、オランダ、オーストラリアなどの連合国軍が戦った戦争で、枢軸国(日独伊を中心とするファシズム国家)と連合国(反ファシズムの連合)が戦った第二次世界大戦(1939年〜1945年)の太平洋方面の局面を指します。日本では当時は「大東亜戦争」と呼称してました。
日本軍は真珠湾攻撃でのアメリカ海軍の主力戦艦の撃破や、イギリスやオランダが植民地化していた東南アジアの資源地帯の占領に成功し、太平洋方面のアメリカ領であったグアム、フィリピン、ウェーク島などを占領するなど1942年の半ば頃までは連戦連勝を重ねて優勢でした。
しかし、ミッドウェー海戦やガダルカナル島の戦いでの大敗によって戦況が逆転し、以降はアメリカの圧倒的物量の前に押される一方となり、沖縄まで占領されて本土決戦を計画するまでに至りましたが、1945年8月の広島・長崎への原爆投下、ソ連軍の満州侵攻が決定打となり、日本政府はポツダム宣言受諾し無条件降伏しました。
太平洋戦争では日本軍の戦死者数が200万人超、連合国軍の戦死者数400万人超、民間人の犠牲者が日本で80万人以上、世界規模では推計で数千万人(アジア方面の国々が大半)という想像を絶する数の人々が犠牲になりました。
太平洋戦争をわかりやすく年表で解説
太平洋戦争の開戦日から終戦日までの大まかな流れをできるだけわかりやすく時系列でまとめます。小見出しを追うだけで太平洋戦争の大体の流れは掴めます。
ここでは開戦日から終戦までを年表形式でまとめ、戦争に至るまでの経緯や背景は「太平洋戦争の原因ときっかけ」の見出しで後述します。
太平洋戦争をわかりやすく年表で解説 1941年
1941年12月8日(開戦日):マレー半島上陸作戦と真珠湾攻撃、フィリピンへの攻撃開始
1941年12月8日未明(現地時間)、日本陸軍はマレー半島北東部のコタバルとタイ王国南部、マレー半島の英領マレーとの国境に位置するシンゴラにほぼ同時に上陸し英領マレーの占領を目標とする作戦を開始しました。
同日、マレー上陸作戦から約2時間後、日本海軍の機動部隊(正規空母6隻主力)から発進した航空機350機がアメリカ太平洋艦隊基地であるハワイ・オアフ島の真珠湾を空襲(真珠湾攻撃)し、停泊していた戦艦8隻のうち4隻を撃沈、残る4隻にも損害を与え、その他艦艇と約350機の航空機にも大きな損害を与えました。
同日真珠湾攻撃成功のすぐ後、日本軍はアメリカの植民地であったフィリピンへの攻撃も開始しルソン島北岸190km沖の離島バタン島へ上陸を成功させました。
同日に大日本帝国はアメリカとイギリスに対して宣戦布告しました。
1941年12月10日:グアム、ギルバート諸島の占領、マレー沖海戦
1941年12月10日の深夜、日本軍はアメリカ領のグアムに上陸を開始し、その日のうちに占領しました。同日にはイギリスの植民地だった太平洋中西部のギルバート諸島にも上陸しほぼ抵抗を受けず占領しています。
同日、シンガポールを出撃したイギリス東洋艦隊(戦艦1巡洋戦艦1駆逐艦4)を、サイゴン(現在のベトナムホーチミン市)の基地から出撃した日本海軍航空隊(陸上攻撃機約90機)が空襲し、戦艦プリンス・オブ・ウェールズと巡洋戦艦レパルスを撃沈し壊滅させました。(マレー沖海戦)
1941年12月11日〜25日:米領ウェーク島や英領香港を日本軍が占領
1941年12月11日、日本海軍は北太平洋のアメリカ領ウェーク島への上陸作戦を開始するも航空反撃と砲台の攻撃を受けて失敗。
12月12日、日本陸軍はイギリス統治下の香港へと進撃を開始し九龍市を制圧しイギリス軍を香港島へ撤退させました。
12月23日、増援を受けての再度の上陸作戦により日本海軍はウェーク島の占領に成功。
12月14日〜、日本陸軍は香港島の要塞に立て篭もるイギリス軍に猛攻し12月25日までに香港を占領しています。
太平洋戦争をわかりやすく年表で解説 1942年
1942年1月:マレー半島、フィリピンでの日本軍の進撃と蘭印作戦の開始
ルソン島各地に上陸し進撃を続けていたフィリピン方面の日本陸軍は1942年1月2日に主要都市マニラの占領に成功。
一方、マレー半島方面の日本陸軍は南へ進撃し1月11日までのクアラルンプールを占領しました。同日、大日本帝国はオランダにも宣戦布告。
太平洋方面では、1月22日から23日にかけて日本海軍の支援を受けた日本陸軍が南太平洋のニューアイルランド島とニューブリテン島に上陸しカビエンやラバウルなどの主要拠点を占領しました。
日本軍はさらに、東南アジアのオランダの植民地を奪い石油資源獲得を目指す蘭印作戦を発動し
1月25日にボルネオ島バリクパパン(現在のインドネシア)を占領。
さらに1月31日には、軍事同盟を結んだタイ王国の国境を超えて日本陸軍がイギリスの植民地であったビルマ(現在のミャンマー)へと侵攻しました。
1942年2月〜3月:シンガポール攻略と蘭印軍(東インドオランダ軍)の降伏
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1941年2月、マレー半島方面の日本軍は破竹の勢いで南下を続け、2月15日にはシンガポール(当時、イギリス軍の要塞と軍港がある東南アジア最大の拠点だった)を陥落させました。
その前日の2月14日、日本軍はオランダの植民地であったスマトラ島のパレンバンにある大油田と製油所を陸軍空挺部隊の落下傘降下作戦により占領に成功しています。(空挺作戦を実施したのは攻略に時間をかけると日本軍にとって貴重な製油所を破壊される恐れがあったため)
2月27日から28日にかけてのスラバヤ沖海戦、28日から3月1日にかけてのバタビア沖海戦にて日本艦隊は米英蘭豪の連合艦隊(ABDA連合艦隊)を撃破しこれにより東南アジア海域の連合軍の海上戦力は壊滅しました。
3月1日、日本軍はオランダ植民地だったジャワ島に複数の地点から一斉に上陸、ジャワ島には蘭印軍(東インドオランダ軍)と米英豪の援軍合わせて約8万の兵力がいましたが、日本軍は5万5000の上陸軍だけで電撃的に侵攻し12日までに蘭印軍を降伏させました。これにより、日本軍は南方の資源地帯の確保に成功しました。
3月8日には、日本軍はニューギニア(当時はイギリス、オランダ、オーストラリアが植民地化して分割統治)東部のラエとサラモアにも上陸し占領し米豪遮断作戦を開始しています。
1942年4月〜5月:英領ビルマ制圧と南方作戦の完了、珊瑚海海戦の発生
1942年4月18日、隠密行動で太平洋を横断し日本列島東方の海域に到達したアメリカ海軍機動部隊(空母艦隊)からB-25双発爆撃機16機が発進し東京府東京市(現在の東京都)、神奈川県川崎市、横須賀市、愛知県名古屋市、兵庫県神戸市などを爆撃しました。
突如として日本本土が爆撃され、天皇のいる東京までもが爆撃を受けた事に日本は驚愕し国民にも動揺が走りました。これにより日本海軍は米機動部隊を一刻も早く撃破する必要があるとの考えを強めました。
一方、5月4日には日本陸軍が英領ビルマの制圧を完了して南方作戦(日本軍の第一段作戦)が完了しています。
ニューギニア方面ではアメリカとオーストラリアを分断する米豪遮断作戦が進行しており、日本軍は5月3日にニューギニア諸島のツラギ島を占領しましたが、米機動部隊(正規空母2隻が主力)が接近し上陸部隊が空襲を受けました。この作戦の援護に日本海軍は2隻の正規空母(翔鶴と瑞鶴)、1隻の軽空母「祥鳳」を送っており、米機動部隊との空母戦(珊瑚海海戦)が展開される事になりました。
太平洋戦争で初めての空母部隊同士の戦いとなった「珊瑚海海戦」では、先に発見された祥鳳が5月7日に米空母艦載機の攻撃を受けて撃沈されました。これが日本海軍初の空母損失となりました。
一方、日本の空母部隊も翌5月8日に米空母部隊を発見して攻撃を仕掛け空母1隻を撃沈しもう1隻にも損傷を与えました。しかし、日本空母部隊も空撃を受けて空母「翔鶴」が大破し、珊瑚海海戦全体で航空機91機と精鋭のパイロット多数を失いました。これは国力に劣る日本にとって大きなダメージとなりました。
1942年6月〜7月:ミッドウェー海戦で日本軍大敗とフィリピン全土の制圧
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1942年5月末、日本海軍は、アメリカ空母部隊を誘き出し撃滅するために、ハワイ北西に位置するミッドウェー島を攻略するミッドウェー作戦を発動しました。参加戦力は空母6(正規空母4、軽空母2)と戦艦11隻を含む合計約300隻という大日本帝国海軍始まって以来の大作戦でした。
しかし、暗号解読に成功していたアメリカ軍は日本軍の動きを察知しその時点でできる限りの防御体制を整えていました。ミッドウェー基地に110機の航空機を配備し、また珊瑚海海戦で損傷を受けた空母ヨークタウンを突貫工事で応急修理して戦列に復帰させて3隻の空母を用意し艦載機は約230機となりミッドウェー基地航空隊を合わせると日本海軍の艦載機の数を上回っていました。
こうした状況の中で1941年6月5日〜7日にかけてミッドウェー海戦が発生。ミッドウェー基地からの航空機の波状攻撃を受けた後、米空母部隊艦載機に攻撃された日本の空母部隊は指揮の混乱もあって4隻の主力空母を失うという大敗を喫しました。
このミッドウェー海戦での敗戦が契機となり日本軍は太平洋での主導権をアメリカ軍に渡す事になりました。
一方、ミッドウェー作戦と同時に発動されたアリューシャン列島攻略作戦(AL作戦)は成功し、日本軍は6月7日にキスカ島に、6月8日にアッツ島に上陸し占領しています。
また、日本陸軍は1942年7月までにフィリピンの全土占領を完了しています。
1942年8月〜12月:ガダルカナル島の戦いの開始とアメリカ軍の本格反攻のはじまり
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ミッドウェー海戦に勝利した後、反攻の準備を整えたアメリカ軍は1942年8月7日に、ソロモン諸島のガダルカナル島、フロリダ諸島のツラギ島、ガブツ島、タナンボゴ島に同時上陸しました。
フロリダ諸島は、日本軍守備隊が8日までにほぼ全滅し占領されています。一方、ガダルカナル島の戦いでは、日本軍は増援部隊を次々と繰り出し、それに対する米軍も増援を送り込むという補給戦に発展。
兵站線の伸びきっていた日本軍は制空権の奪取にも失敗して補給に苦労し、輸送やその援護のために動員した輸送船や艦船や航空機を次々と失う消耗戦となり、ガダルカナル島上陸部隊は糧食が欠乏して飢餓や病気によって壊滅的な損害を受けました。しかし、日本軍首脳はガダルカナルからの撤退を決断できずに半年にわたって現場の将兵にとって地獄のような消耗戦が続く事になりました。
この頃より、アメリカ軍を主力とする連合軍の本格的な反攻(ウォッチタワー作戦)が開始されました。
太平洋戦争をわかりやすく年表で解説 1943年
1943年1月〜2月:ガダルカナル島の戦いに日本軍が敗北し撤退
1942年12月31日にようやくガダルカナル島からの撤退を決定した日本の軍部は、1943年2月1日〜7日にかけてガダルカナル島撤収作戦を行い約1万2000名の将兵の撤収に成功。
しかし、ガダルカナル島にそれまでに投入されていた兵力は約36000名であり、約2万人の将兵が戦死または餓死、あるいは病気によって亡くなりました。
1943年3月〜10月:日本軍が守勢に回り絶対国防圏構想が決定される
ガダルカナル島の戦いの後、日本軍は防戦一方となります。
1943年4月7日から15日にかけてはガダルカナル島やニューギニア島南東部に対する大規模航空攻撃「い号作戦」が発動されましたが、約400機もの航空機を投入したにもかかわらず、戦果は駆逐艦1隻撃沈、コルベット艦(小型の戦闘艦艇)1隻撃沈、油槽船1隻撃沈、輸送船1隻撃沈、航空機25機撃墜破という小さなものでした。日本軍はこの攻撃で50機から60機の航空機を失っており、国力の差を考えれば敗北と言っても良い戦果でした。
5月12日にはアリューシャン列島のアッツ島に米軍が上陸して守備隊2650名が玉砕。(玉砕=全滅の意味、この戦いからこの言葉が使用されるように)
アッツ島の玉砕によりアリューシャン列島のキスカ島の守備隊約6000名が孤立しましたが、7月29日に日本の水雷戦隊(軽巡洋艦と駆逐艦を主力とした速度の高い艦隊)が濃霧に紛れて突入し守備隊全員の救出に成功しています。(キスカ島撤退作戦、「キスカの奇跡」と呼ばれている)
こうした不利な戦況を受けて、大日本帝国政府(東條英機内閣)は9月30日に「絶対国防圏」として、戦争継続と本土防衛のために絶対に死守すべき範囲を定めました。しかし既に日本軍にはこの絶対国防圏を死守できるような戦力と能力はありませんでした。
10月21日には20歳以上の学生を徴兵する「学徒動員」も始まっています。
1943年11月〜12月:ギルバート諸島の日本軍守備隊が全滅
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1943年11月21日、ギルバート諸島のマキン環礁とタラワ島にアメリカ軍が上陸し、11月23日〜25日までに両島とも守備隊がほぼ全滅し陥落しています。
太平洋戦争をわかりやすく年表で解説 1944年
1944年1月〜2月:クェゼリンやエニウェトクなどマーシャル諸島の日本軍が全滅
1944年1月30日、アメリカ艦隊がマーシャル諸島への攻撃を開始。クェゼリン環礁が2月5日に、エニウェトク環礁が2月23日までに陥落。いずれの守備隊も激戦の末に全滅しています。
マーシャル諸島の他の島々は孤立状態のまま放置され、補給が不可能となって守備隊は終戦まで飢餓に苦しみました。
1944年3月〜5月:日本陸軍がインパール作戦や大陸打通作戦を発動
1944年3月、大陸方面の戦線では「インパール作戦」が発動されました。
インパール作戦は、日本陸軍が大陸で戦っていた中国軍(国民政府軍)を支援する補給線「援蒋ルート」を遮断するために、英領インド北東部の都市インパール攻略を目指すものでした。
しかし、約9万人もの大軍が険しい山岳地帯を470kmも行軍して突破するという無謀な作戦計画で、険しい行軍であるために糧食を充分に持っていけない事に加えて補給もままならず結果として3万人以上の損害を出して同年7月までに失敗に終わりました。
一方、4月17日は中国内陸部の航空基地を奪取し、南方資源地帯との輸送路を繋ぐために仏印(現在のベトナムやカンボジア、フランスの植民地だったが日本軍が進駐し占領下においていた)への陸路を開く事を目的とした大陸打通作戦が発動されました。大陸打通作戦は1945年1月までに完遂されましたが、戦局を変える事には繋がりませんでした。
1944年6月〜9月:サイパン島、テニアン島、グアム島、ペリリュー島の日本軍が玉砕
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1944年6月15日、アメリカ軍がマリアナ諸島のサイパン島に上陸しました。
サイパン島は日本軍が絶対国防圏として定めていた地域の要となる拠点で、3万〜4万の兵力が配置されていましたが、防衛準備が著しく遅れており、米軍の大軍襲来を受けて苦戦。
7月7日までに守備兵力はほぼ全滅しました。また、サイパン島には約2万人の日本人民間人が居住していましたが、そのうち約1万人が戦闘に巻き込まれたり自決したりして犠牲になりました。
サイパン島陥落後、アメリカ軍はグアム島とテニアン島にも上陸し、テニアン島は8月2日までに、グアム島は8月11日までに陥落しました。いずれの島でも守備隊(テニアン島役8000、グアム島約2万)はほぼ全滅しています。
9月15日にはパラオ諸島のペリリュー島にもアメリカ軍が上陸し、激戦の末に11月までに日本軍守備隊が壊滅(守備隊約1万1000中生き残りは約450名)しています。
1944年10月〜12月:フィリピンへ米軍逆上陸、神風特攻開始、B-29による本土空襲激化
1944年10月20日、アメリカ軍は日本軍に奪われていたフィリピンのレイテ島に上陸し、再びフィリピンでの戦いが始まりました。
フィリピンでの戦いに伴って10月23日に発生したレイテ沖海戦では、神風特別攻撃隊(特攻隊)が初めて出撃しています。
また、サイパン島などマリアナ諸島がアメリカ軍の手に落ちた事で、日本本土の東京都を含む主要都市が戦略爆撃機B-29の爆撃範囲に入りました。11月末頃よりマリアナ諸島の基地から飛び立ったB-29の日本本土爆撃が激化する事になりました。
太平洋戦争をわかりやすく年表で解説 1945年
1945年1月〜3月:硫黄島の戦い、東京大空襲、沖縄戦の開始
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1945年に入り、いよいよアメリカ軍は日本の本領に迫りました。
1945年2月、大兵力で硫黄島に殺到したアメリカ軍は入念な空爆と艦砲射撃を数日にわたって浴びせた後、2月19日に上陸作戦を開始しました。
硫黄島の日本軍守備隊は圧倒的に寡勢でありながら地形を巧みに利用して粘り強く抵抗しアメリカ軍を苦戦させましたが3月26日にほぼ全滅となり組織的な抵抗を終えました。
3月10日には約300機ものB-29が東京に襲来し低空飛行で焼夷弾1665トンを投下。その日は強風で火災が瞬く間に広がり、東京都の下町の大部分を焼き尽くしました。罹災者は約100万人におよび、推計で約9万5000人もの人が亡くなりました。(東京大空襲)
3月26日には、アメリカ軍の沖縄上陸作戦が開始されました。
1945年4月〜6月:戦艦大和の水上特攻、沖縄戦の組織的戦闘終了
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日本海軍(連合艦隊)の象徴である戦艦大和が4月6日に沖縄に向けて出撃しました。目的は沖縄の守備隊の支援でしたが、沖縄の周囲はアメリカの艦隊で埋め尽くされておりはなから沖縄へ到達するのは不可能な「海上特攻」でした。
大和は出撃の翌日の4月7日にアメリカ軍航空隊合計約380機による3度にわたる波状攻撃を受け、30本から35本の魚雷と38発の爆弾を受けて撃沈されました。
沖縄ではなおも民間人を巻き込んだ悲惨な戦闘が継続し、軍人民間人合わせて少なくとも十数万人(沖縄の民間人の犠牲は約10万人とされる)の人々が亡くなっています。6月23日までに沖縄戦での日本軍の組織的な抵抗は終わりましたが、その後も小規模な戦闘が沖縄の各地で継続しました。
1945年7月〜8月:日本本土全域への米軍の空襲激化と広島と長崎への原爆投下
沖縄が陥落しても、日本政府はなおも戦争を継続し本土決戦を目論みました。
アメリカ軍は連日連夜日本本土全域への大規模な空襲を実施し民間人を含む多くの人々が犠牲になりました。
そして、1945年8月6日、アメリカ軍は広島に原子爆弾を投下し広島市は壊滅、広島市の人口35万人の内、推定で9万〜16万6000人もの方が2〜4ヶ月までに亡くなりました。
8月9日には長崎に2発目の原爆が投下され、長崎市は壊滅し人口24万人のうち推定で約7万4千人が亡くなりました。
さらに8月9日には、ソ連軍が国境を越えて満州へと侵攻を開始しています。
1945年8月15日:ポツダム宣言受諾による日本の無条件降伏(終戦)
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1945年8月15日、日本政府はついにポツダム宣言を受諾し連合国に無条件降伏しました。
太平洋戦争の開戦日は1941年12月8日で真珠湾攻撃よりマレー作戦が先
太平洋戦争の開戦日は「1941年12月8日」です。
ただし、真珠湾攻撃が実行されたのは現地時間では1941年12月7日であったため、アメリカにおける太平洋戦争の開戦日は1941年12月7日で、英語の資料ではこちらの開戦日で書かれている事が多いです。
なお、太平洋戦争の開戦日については一般的に真珠湾攻撃によって始まったとされますが、正確には日米開戦が真珠湾攻撃によるもので、時系列のところでも書いたようにマレー半島への上陸作戦の方が約2時間ほど先でした。
太平洋戦争の原因ときっかけ(戦争に突入した背景)をわかりやすく解説
日本が太平洋戦争に突入した原因(背景や経緯)についてもできるだけわかりやすく解説します。
太平洋戦争の原因ときっかけ① 満洲国建国と国際連盟脱退による孤立化
日本は明治維新以来、列強国を目指して近代化富国強兵を進め、日清日露戦争の勝利、第1次世界大戦への連合国側での参戦などを経て、台湾や朝鮮半島、南洋諸島などを植民地として支配するようになり、列強の地位を確立しました。
そして日本は1931年の満州事変を起こし中国東北部に満洲国を建国して傀儡国家としましたが、国際連盟は日本の満州からの撤兵を求めましたが、1933年に日本は国際連盟から脱退して国際的な孤立を深めました。
太平洋戦争の原因ときっかけ② 日中戦争に突入し欧米との対立が深まる
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1936年2月、一部の青年将校がクーデター「二・二六事件」を起こし首相官邸などを襲撃。反乱は鎮圧されるもこれを契機に陸軍統制派が政権中枢を支配する軍部ファシズム体制が完成し軍事政権が成立しました。
1937年7月、盧溝橋事件が発端となって日中戦争に突入。日中戦争は泥沼化してこう着状態となって長期化します。中国国民党軍は重慶に立て篭もりますが、それをアメリカやイギリスが支援し、日本は英米との対立を深めました。
太平洋戦争の原因ときっかけ③ アメリカの経済制裁
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欧州では、ドイツでナチス党が政権を握りヒトラーの独裁体制が完成。ドイツ軍は1940年5月〜6月に列強国であるフランスとオランダに侵攻し瞬く間に降伏させました。
英米との対立を深めていた日本はこれを好機と捉え、南方にあるフランスとオランダの植民地へ武力で進出する方針を固めました。
1940年9月、日本軍は北部仏印(フランスの植民地、現在のベトナム)への進駐を強行し支配下に置きました。ほぼ同時に日本はドイツとイタリア(ムッソリーニの独裁政権でドイツと協調していた)との日独伊三国同盟を締結。
これにより、ドイツと交戦状態にあったイギリスとの対立が明確となり、アメリカもこの動きを警戒し日本に対する経済制裁を強化しました。当時の日本は石油資源をアメリカからの輸入に頼っていたため1941年4月に日米交渉が開始されましたが難航。
同年6月にドイツがソ連に侵攻して独ソ戦が始まると日本軍部は行動を急ぎ7月に南部仏印進駐を強行します。日米交渉中に軍事行動を起こした事にアメリカは怒り8月に日本に対する石油輸出の全面停止を決定。石油資源を絶たれた日本は窮地に立つ事になり国民世論もアメリカ、イギリス、中国、オランダによる日本包囲網「ABCD包囲網」の打破を望む声が高まりました。
11月26日に、アメリカより日米交渉の提案「ハル=ノート」が提示されるも、その内容は中国や北部仏印からの日本軍の撤退と満州国の放棄という日本としてはとても受け入れられるようなものではなく、日本政府(東條英機内閣)は交渉の余地なしとしてアメリカとの開戦を決意。
そして、1941年12月8日に真珠湾攻撃とマレー作戦によって太平洋戦争が開始される事になりました。
太平洋戦争で日本がしたこと
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太平洋戦争で日本がしたことは、欧米列強国の植民地とされていた南方の資源地帯へ武力侵攻してそれを奪った事です。
また、第一次世界大戦の後に獲得した委任統治領である南洋諸島の防衛のために太平洋方面にも進出してアメリカの領土やイギリスやオランダ、オーストラリアが植民地支配していたニューギニアやソロモン諸島への進出も企てました。
こうした行動は、日本の立場からすると日本国を守るための自衛行動であったという考え方もできますが、実際に戦場となった地域の人々からすれば侵略戦争であると言えます。太平洋戦争で日本がしたことは立場によって見方が異なるという事です。
また、結果だけ見れば、太平洋戦争で日本が東南アジアや南太平洋の欧米列強の植民地を攻略した事が、戦後のそれらの地域の独立につながったという見方もでき、そうであれば日本がしたことは植民地の解放戦争であったという考え方もできますが、どのように捉えたとしても日本がしたことはあくまでも自国の利益のためであったのは間違いありません。
太平洋戦争の戦死者数
太平洋戦争での日本軍(軍人・軍属)の戦死者数は212万〜230万人と推計されていますが正確な戦死者数は不明です。
太平洋戦争での連合国軍の戦死者数は400万人以上と推計されていますが、こちらも正確な数値は不明です。
また、太平洋戦争でのアメリカ軍の戦死者数は約15万〜19万、イギリス軍の戦死者が約9万、オランダ軍の戦死者が約3万、オーストラリア軍の戦死者が約2万で、中華民国軍および中国共産党軍の戦死者が合計で160万〜460万とされており、太平洋戦争での連合国軍の戦死者の大半は中国軍でした。
太平洋戦争の激戦地
太平洋戦争の激戦地としては、ガダルカナル島、ニューギニア島、サイパン島、硫黄島、沖縄などが挙げられます。
太平洋戦争の激戦地① ガダルカナル島
ガダルカナル島の戦いは1942年8月から1943年2月まで半年にわたって続いた消耗戦で、双方が増援と補給を投入し合う補給戦でした。
日本軍は何度も総攻撃を加えましたが全て撃退され大きな損害を出し、飢餓や戦病死を合わせて約2万人の戦死者を出しました。一方の連合軍も約7100人の戦死者を出しました。
太平洋戦争の激戦地② ニューギニア島
ニューギニア島では、1942年3月から1945年8月15日の終戦まで泥沼の戦闘が繰り広げられた激戦地でした。
日本軍は制海権と制空権を失って孤立し補給が全くない状態で飢餓に苦しみ過酷な自然環境の中に取り残されました。ニューギニアには総計約20万の日本軍将兵が投入されましたが、生還者は約2万とその9割が死亡しました。
太平洋戦争の激戦地③ サイパン島
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サイパン島では1944年6月から7月にかけて戦闘が行われました。
日本軍は「絶対国防圏」の要としてサイパン島を位置付け、陸海軍の司令部をおいて約3万人の将兵を配置していました。
アメリカ軍はそこへ約13万の大兵力を差し向けて攻略戦を展開し、日本軍は3万人ほぼ全てが戦死するほど徹底的に抗戦。サイパン島には多くの民間人がおり、約1万人が巻き込まれて犠牲になりました。
太平洋戦争の激戦地④ 硫黄島
硫黄島では1945年2月から3月にかけて戦闘が行われました。
日本軍は硫黄島に約2万の兵力を置いて地形を利用した巧みな防御陣地を構築。11万ものアメリカ軍を迎え撃ち粘り強く抗戦しました。
日本軍守備隊はほぼ全滅し、アメリカ軍も約7000もの戦死者が出ました。
太平洋戦争の激戦地⑤ 沖縄
沖縄は1945年3月26日に50万を超えるアメリカ軍の侵攻を受け、12万の日本軍がそれを迎え撃ちました。沖縄の民間人も徴用されるなど巻き込まれ大勢が犠牲になりました。
沖縄戦は実質的に終戦後の1945年9月頃まで続き、日本側は民間人を合わせると20万に近い人がなくなり、アメリカ軍も1万2000人から1万4000人という戦死者を出しました。
太平洋戦争中の人々の暮らし
太平洋戦争中の日本の人々の暮らしも戦況が逼迫するにつれて悲惨なものになりました。
太平洋戦争中の人々の暮らし① 食料や生活必需品が配給制に
太平洋戦争の戦況が悪化するにつれて、日本の物資は著しく不足し食料や衣服や燃料など生活に必要なものが配給制になりました。
「欲しがりません勝つまでは」、「ぜいたくは敵だ」などのスローガンが宣伝され、子供達が学校で作物を育てたり、自然の中から食物を採取するなど貧しい生活を余儀なくされました。
太平洋戦争中の人々の暮らし② 思想統制と監視社会
太平洋戦争中は、軍部による思想統制と国民同士が相互に見張り合うような監視社会が出来上がっていきました。
国家のために自己を犠牲にする精神が強要され、物資の供出や勤労奉仕、防空演習、竹槍訓練なども義務付けられました。
また、10戸を単位とした「隣組」が組織されて国家への協力体制の管理と相互監視の体制が作られました。
この体制に異議を唱えたり、軍部や戦争自体に批判的な発言や行動をとったものは「非国民」とされて社会的な制裁を受け、逮捕されたり罰を与えられたりといった場合もあったようです。
まとめ
今回は1941年から1945年にかけて大日本帝国とアメリカやイギリス、中国などの連合国が戦った太平洋戦争についてまとめてみました。
太平洋戦争をできる限りわかりやすく年表でまとめましたが、紹介できたのは一部で実際には他にも多くの戦闘や悲惨な出来事がありました。
太平洋戦争の開戦日は1941年12月8日で、終戦は1945年8月15日です。
太平洋戦争の原因やきっかけは、日本が帝国主義に突き進んで満州国を建国し国際連盟を脱退して国際的な孤立を深め、日中戦争を泥沼化させた事により英米との対立が深まり、アメリカの経済政策により追い詰められた日本が南方の資源地帯を求めて軍事侵攻を推し進めた事でした。
太平洋戦争で日本がした事は、国益の維持と資源獲得のための侵略戦争でしたが、日本の立場では自衛のための戦争だともいえ、また結果的に見れば植民地の解放戦争であったと言えなくもありません。
太平洋戦争の戦死者数は日本軍が212万〜230万人、連合国側が400万人超と推計されていますが正確な数値は不明です。
太平洋戦争の激戦地としては、ガダルカナル島、ニューギニア島、サイパン島、硫黄島、沖縄などが挙げられます。
太平洋戦争中の日本の人々の暮らしは、食料や生活必需品が配給制になるなど貧しくなり、また、戦争に反対するものは弾圧されるという物質的にも精神的にも逼迫したものでした。