吉原の花魁は、どんな女性がいたかご存じですか?花魁はなんとなく知っていても、具体的に花魁にはどんな女性がいたのかは知らないという人も多いと思います。
吉原の歴代花魁の美人ランキングをまとめました。
この記事の目次
- 吉原の高級遊女・花魁とは
- 吉原の歴代花魁美人ランキング:第12位 揚巻太夫
- 吉原の歴代花魁美人ランキング:第11位 白縫
- 吉原の歴代花魁美人ランキング:第10位 春駒
- 吉原の歴代花魁美人ランキング:第9位 勝山
- 吉原の歴代花魁美人ランキング:第8位 榊原高尾
- 吉原の歴代花魁美人ランキング:第7位 万治高尾
- 吉原の歴代花魁美人ランキング:第6位 若紫
- 吉原の歴代花魁美人ランキング:第5位 夕霧太夫
- 吉原の歴代花魁美人ランキング:第4位 薄雲太夫
- 吉原の歴代花魁美人ランキング:第3位 紺屋高尾
- 吉原の歴代花魁美人ランキング:第2位 小紫太夫
- 吉原の歴代花魁美人ランキング:第1位 吉野太夫
- 吉原の歴代花魁美人ランキングのまとめ
吉原の高級遊女・花魁とは
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花魁とは吉原遊郭の遊女(娼婦)の中でも、特に位が高い人のことを指します。吉原遊郭は江戸幕府に公認された遊郭で、もともとは日本橋人形町にありましたが、明暦の大火後は浅草寺裏に移転しました。
吉原遊郭で花魁を座敷に揚げる(座敷に呼ぶ・花魁を買う)ためには、莫大な資金が必要であり、一般庶民が吉原で花魁と遊ぶことは到底不可能なことでした。
また、花魁を座敷に揚げるには引手茶屋を通じて、呼び出しをする必要があります。呼び出された花魁は禿や振袖新造を従えて、遊女屋と揚屋・引手茶屋の間を行き来することを滑り道中と呼び、この花魁の道中は花魁道中と呼ばれるようになります。
花魁はただ単に美人というだけではいけませんでした。花魁になるには教養も必要で、花魁候補となる女性は子どものころから徹底的に古典や書道、茶道、和歌、箏、三味線、囲碁、将棋などの教養・芸事などを仕込まれていました。花魁は美しく、しかも教養がある女性だったんですね。
厳密には花魁と太夫は違う
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花魁と似た意味の言葉に「太夫」があります。太夫も江戸時代の遊郭の位が高い遊女の名称です。花魁と太夫は同じ意味(=遊郭の高級な遊女)で使われることもありますが、厳密には花魁と太夫は違います。
江戸時代には京都や大阪にある遊郭の最高位の女性を太夫と呼びました。だから、太夫とはもともと関西の遊郭の最高位の遊女と指していました。ただ、江戸時代の中期までは、江戸の吉原遊郭にも太夫がいました。しかし、宝暦年間(1751年~1764べ年)の間に吉原遊郭の太夫は消滅し、それ以降は吉原遊郭の高級遊女のことを花魁と呼ぶようになりました。
つまり、厳密には江戸の吉原遊郭の花魁とは宝暦以降の高級遊女のことを指し、それ以前には花魁という女性は存在しなかったことになります。
ただ、現在は「花魁=高級遊女」という意味で用いられることが多くなったため、この記事内でも花魁は厳密の意味(狭義の花魁)ではなく、広義の高級遊女としての意味で使っていきます。
吉原の歴代花魁美人ランキング:第12位 揚巻太夫
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吉原遊郭の美人花魁ランキングの第12位は、揚巻太夫です。揚巻太夫は美人で人気があった花魁でした。揚巻太夫は歌舞伎にも登場します。揚巻太夫が登場する歌舞伎は歌舞伎十八番「助六由縁江戸桜」(通称・助六)です。
この助六は吉原一のモテ男である助六と吉原一の人気花魁である揚巻太夫の恋愛ドラマのようなストーリーです。
揚巻は美貌だけでなく、気品や知性を兼ね備えた花魁で、伝説的な花魁の1人となっています。
吉原の歴代花魁美人ランキング:第11位 白縫
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吉原の歴代花魁ランキングの第11位は白縫です。白縫は江戸時代ではなく、大正時代の吉原遊郭にいた花魁です。広島県出身で、本名は山中つるゑと言います。広島高等女学校を卒業後に上京し、最初は新橋で芸妓として働いていました。しかし、母親の借金返済のために、吉原の「角海老楼」に娼妓として売られました。
1914年4月に白縫は風邪をひいて療養していましたが、楼主らによって明治以降は廃止されていた花魁道中に、無理やり参加させられています。1915年には客の紹介で、銀座の救世軍本部に行き、救済を求めています。一時は角海老楼に連れ戻されそうになりましたが、何とか自由の身となっています。その後は、花魁道中の廃止や廃娼運動に力を入れています。
白縫は借金の一部を払ってくれた男性と結婚して故郷の広島に戻っています。
吉原の歴代花魁美人ランキング:第10位 春駒
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春駒は明治生まれの吉原遊郭の花魁です。本名は森光子と言います。
群馬県高崎市に生まれましたが、19歳の時に父親が亡くなり、父親のお酒による借金のために花魁の仕事内容をよく知らないままに吉原遊郭に売られました。
吉原の長金花楼で春駒という花魁になり、地獄のような日々を送りますが、復讐として日記を書き続けます。そして、2年後に憧れの歌人・柳原白蓮に助けを求め、花魁から廃業することができました。この時の日記を1926年に『光明に芽ぐむ日』、1927年『春駒日記』として出版しています。
吉原の歴代花魁美人ランキング:第9位 勝山
吉原の花魁美人ランキング第9位は勝山です。勝山は1653年~1657年まで吉原の花魁(太夫)をしていました。
勝山はもともと江戸の神田にあった「丹前風呂」の湯女(銭湯であかすりや髪結いなどをする女性)でしたが、1653年に山本芳順に抱えられて吉原の花魁になりました。
湯女として働いていたころの勝山は、今でいうファッションリーダーのような存在でした。派手なファッションで、髪の毛は自分で考案した上品な武家風の髪型に結っていて、腰には木刀の大小を挿して歩き回っていたとのこと。この勝山の髪型は「勝山髷」と呼ばれるようになり、江戸の若い女性たちはみんな勝山のファッションを真似していました。
湯女は建前上は「あかすりや髪結いをする女性」ですが、実際は売春も行っていました。しかし、江戸幕府は吉原遊郭以外での売春は認めていませんでしたので、厳しい取り締まりが行われ、勝山も取り締まりで逮捕され、そのまあ吉原に身柄を引き渡され、花魁になっていきました。
勝山の贔屓客には諸藩の家臣や豪商などがいたとのことです。また、大阪の井原西鶴が『西鶴織留』の中に一代の名妓として紹介しています。吉原の花魁の名前が大阪にまで轟いていたということですね。
吉原の歴代花魁美人ランキング:第8位 榊原高尾
榊原高尾は6代目の高尾太夫です。もともとは花屋の娘で花屋の看板娘として人気になり、江戸中の男性が榊原高尾目的で花を買いに来たとも言われています。しかし、父親が病に倒れ、吉原に身売りされることになりました。
そこで、榊原高尾は花魁として人気になり、播磨姫路藩15万石の当主・榊原政岑に身請けされて、姫路に行くことになりました。しかし、時代は徳川吉宗の倹約令が敷かれていて、質素倹約が求められている時代。政岑の贅沢な振る舞いは江戸からにらまれ、姫路からへき地である越後高田への転封を命じられました。
榊原高尾も政岑と一緒に高田に行きましたが、政岑は数年後に亡くなってしまいます。政岑が亡くなった後は、政岑の側室に呼ばれて江戸に戻り、榊原家の屋敷に住んでいます。30代で亡くなったと言われていますが、79歳まで生きたという説もあります。
吉原の歴代花魁美人ランキング:第7位 万治高尾
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吉原の歴代花魁美人ランキングの7位は万治高尾です。「高尾」とは、吉原の太夫(花魁)の源氏名のようなもので、代々襲名されていく名前でした。
万治高尾は「高尾太夫」の2代目の花魁です。子供の頃は木の葉の化石を湯治場で売り家計を助けていましたが、三浦屋の主人に見初められて、遊郭に入ることになりました。
万治高尾は陸奥仙台藩主の伊達綱宗に見初められた花魁です。ただ、万治高尾には鳥取藩士の島田重三郎という心に決めた男性いたため、身請けを断っていました。綱宗は万治高尾に執着したため、万治高尾の体重と同じ重さの金20貫(現在のお金で5億円)を支払い、無理やり身請けしました。
しかし、身請けされた後も万治高尾は綱宗に従うことはなく、隅田川を船で渡っていた時に身を投げようとしたため、怒った綱宗が万治高尾をつるし切りにしたという俗説があります。
万治高尾が亡くなったのは19歳のこと。東京の中央区日本橋箱崎町には高尾太夫の頭蓋骨を祭神にしているとされる「高尾稲荷神社」が現存しています。
万治高尾は陸奥仙台藩主に見初められたことから、仙台高尾と呼ばれることもあります。
吉原の歴代花魁美人ランキング:第6位 若紫
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吉原の歴代花魁美人ランキングの第6位は若紫です。若紫は吉原遊郭の中でも随一の美人と言われた明治時代の花魁でした。
「若紫」という名前は、源氏物語の主人公光源氏の妻である紫の上の呼び名です。源氏物語の紫の上は絶世の美女。その名に恥じない美貌を持った花魁だけが、「若紫」と名乗ることを許されたそうです。このエピソードだけでも、若紫が美しい花魁であることがわかります。
幼いころに遊郭に売られ、17歳で遊女として働くことになった若紫は、すぐに大人気となり、身請けの話もたくさん舞い込みました。
もちろん、身請けをするのは財力がある男性です。しかし、若紫には心に決めた男性がいました。若紫は好条件の身請けの話を断り、年季があけるのを待っていました。
そして、22歳。一般の花魁よりも早めに年季があけることになり、若紫は恋人と一緒になることが決まっていました。若紫の贔屓客も、若紫の引退を惜しみつつも、みんなが若紫が幸せになることを祝福していたのです。
しかし、年季あけまであと5日という時、若紫を思わぬ悲劇が襲います。別の遊女と無理心中をしようと計画していた男が、その遊女がほかの客と一緒にいるところを目撃してしまいます。その男はやけを起こし、まったく関係のない若紫の喉元を持っていた匕首で刺し、若紫を殺してしまいました。
吉原の歴代花魁美人ランキング:第5位 夕霧太夫
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夕霧太夫は、吉原ではなく京都の島原や大阪の新町にいた太夫(花魁)です。元々は島原の太夫でしたが、置屋が大阪の新町に移転したことで夕霧太夫も大阪に移り、大阪で初めての太夫となりました。
夕霧太夫は絶世の美女で、しかも芸事にも秀でていた花魁でしたが、新町移転6年後に病気で亡くなっています。
夕霧太夫が亡くなった後、その美貌・美しさは伝説となり、浄瑠璃や歌舞伎の題材となったほか、1680年の夕霧の三回忌(夕霧忌から節目ごとに行われ、1937年の260回忌まで続きました。
吉原の歴代花魁美人ランキング:第4位 薄雲太夫
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薄雲太夫は江戸時代の中期に吉原遊郭の三浦屋にいた花魁で、勝山や高尾、吉野太夫らと並び称される美女です。この薄雲太夫の特徴は、とにかく猫が好きなこと。
ヘアアクセサリーであるかんざしや着物なども猫の柄が入っていて、薄雲太夫の絵も猫を抱いています。
薄雲太夫はあまりにも猫が好きだったために、「薄雲太夫は猫に乗り移られてしまった」という噂が立ちました。その噂で客が減ることを恐れた楼主が、薄雲太夫から猫を取り上げてしまいました。薄雲太夫はひどく落ち込み、部屋に閉じこもって、客を取らなくなってしまいました。
楼主としては人気花魁の薄雲太夫が客を取らないのは大きな痛手です。猫の変な噂が立つよりもマイナスが大きかったため、薄雲に猫を返し、また薄雲太夫は客を取り、花魁として働くようになったとのことです。
吉原の歴代花魁美人ランキング:第3位 紺屋高尾
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紺屋高尾は5代目の高尾太夫です。紺屋高尾は、紺屋九郎兵衛に身請けされ、その後に身請けした紺屋は駄染めと呼ばれる量産染色で手拭いを製造し、それが流行したため、紺屋高尾は駄染高尾とも呼ばれています。3人の子供を産み、80歳まで生きたとされています。
この紺屋高尾は落語の題材にもなっています。真面目な奉公人である久蔵は紺屋高尾の花魁道中を見て、紺屋高尾に惚れ込みます。しかし、ただの奉公人である久蔵には花魁を座敷に揚げるなど到底不可能でした。
久蔵の雇い主である吉兵衛はお金さえ用意できれば、紺屋高尾に会わせてやると久蔵に伝えます。久蔵は一生懸命働き、お金を用意しました。久蔵は初めて紺屋高尾に会うことができましたが、吉原のしきたりで1回目は顔合わせのみ。紺屋高尾が次はいつ会えるのか久蔵に尋ねると、またお金を貯めなければいけないから、3年後になると答えます。それを聞いた紺屋高尾は感激し、もうすぐ年季があけるから、そうしたら嫁にしてくれと伝えました。
紺屋高尾の年季があけると、2人は結婚して夫婦となり、駄染めが人気となってお店は大繁盛しました。これはあくまでもフィクションですが、この落語ができるほど、紺屋高尾は人気のある花魁だっただったんですね。
吉原の歴代花魁美人ランキング:第2位 小紫太夫
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小紫太夫は吉原遊郭の三浦屋の花魁でした。紫式部のように和歌が得意だったため、「小紫太夫」と呼ばれるようになります。この小紫太夫は非常に美しく、器量が良くて、知性もあった花魁でした。
そんな小紫太夫に、藩士の平井権八が惚れ込みます。小紫の花魁道中を見て、一目惚れしたとも言われています。しかし、ただの藩士である平井権八は花魁を座敷に揚げるお金を用意することはできません。それでも、何とか小紫に会いたい権八は辻斬りをして、お金を稼ぐようになりました。
辻斬りで用意したお金で小紫に会いに行った権八でしたが、そんな健気な権八に小紫も惹かれていきます。しかし、権八は辻斬りの罪で逮捕され、斬首刑になってしまいます。
想い人の権八は死んでしまいましたが、小紫は身請けの話を全て断り、ようやく年季があけました。年季があけた小紫は、権八の墓参りに行きます。そして、お墓の前で自害してしまいました。
この小紫は、人気漫画の「ワンピース」に出てくる小紫のモデルになった花魁とも言われています。
吉原の歴代花魁美人ランキング:第1位 吉野太夫
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吉野太夫は江戸初期の太夫(花魁)で、夕霧太夫・高尾太夫と共に寛永三名妓と言われています。
14歳で太夫となった吉野太夫は、和歌・廉価・俳諧に優れていて、さらに琴や琵琶、書道・茶道・香道・華道・貝覆い・囲碁・すごろくを極めていて、さらに絶世の美女でした。ほかの太夫が豪華絢爛に着飾った中、寝起きで寝乱れ姿の吉野太夫が出てきたら、あまりの存在感でほかの太夫を圧倒したと言われるほどです。
才色兼備を讃えられた花魁で、明国にまで吉野太夫の名前は轟いていました。
贔屓客には関白・近衛信尋や文化人の灰屋紹益がいて、26歳の時に灰屋紹益に身請けされ、結婚しています。
吉原の歴代花魁美人ランキングのまとめ
吉原の歴代花魁美人ランキングをまとめました。吉原の花魁というと、江戸時代のイメージがありますが、明治・大正時代になっても吉原に花魁はいたんですね。
ただ美しいというだけでなく、教養もあった花魁。絵だと花魁の美しさはいまいちわかりませんが、写真に残る花魁を見ると、本当にきれいな女性であることがわかりますね。