小林多喜二は代表作『蟹工船』で知られるプロレタリア作家です。この記事では小林多喜二の生涯、母親や家族、嫁や子供の有無、特高に拷問死させられた事件や死因、最期の写真や子孫について紹介していきます。
この記事の目次
小林多喜二についての概要
小林多喜二は明治の末期から昭和初期にかけて活動していたプロレタリア作家です。
「プロレタリア」とは簡単に言うと底辺で社会を支えているような低賃金の日雇い労働者を指す言葉で、そういった無名の労働者たちにスポットライトを当てた小説を「プロレタリア文学」と呼びます。
作風から窺えるようにプロレタリア文学の作家のなかには共産主義革命や社会主義革命を目指す者も少なくなく、小林多喜二もまた北海道の小樽で労働運動に関わっていました。
そして、オホーツクの海で法の目をかいくぐって不当に労働者をこき使っていた「工船」を舞台にして描いたのが、多喜二の代表作である『蟹工船』だったのです。
多喜二が『蟹工船』を発表した1929年当時、日本は軍国主義の真っただ中にあり、社会主義や共産主義を掲げるプロレタリア文学は危険思想とみなされていました。
そのため『蟹工船』が高く評価されると、多喜二は特別高等警察から目をつけられるようになります。
また、多喜二が作品を発表していたプロレタリア文学の機関誌『戦旗』も危険思想を流布するおそれがあるとして、発売禁止の危機に追いやられました。
しかし、多喜二は地下活動に入りながらも作品の発表を続け、特別高等警察に逮捕されてしまいます。そして1933年2月20日、中央区築地の築地署内で不審死を遂げました。
警察側は多喜二が尋問中に苦しみだして急死したと説明しましたが、遺族によると遺体には凄惨な暴行の跡があり、拷問の末に多喜二が亡くなったことは明らかだったとされます。
享年29歳、若くして痛ましい最期を迎えることとなった多喜二ですが、彼の死から70年以上が経った2008年に突然『蟹工船』がベストセラーとなり、再注目を集めました。
まったくもって良いことではないのですが、この年に非正規雇や日雇い派遣、低賃金で労働力を搾取される若者らが多喜二の作品を支持し、『蟹工船』は漫画化や映画化もされたのです。
また、多喜二の遺した作品は海外でも高く評価されており、イタリアや台湾、中国などでも翻訳・出版されています。
小林多喜二の生涯① 家族と少年時代
小林多喜二は1903年12月1日、秋田県北秋田郡下川沿村で誕生しました。家族は両親と兄、姉、妹、弟の7人家族だったといいます。
小林家はもともと広い田畑を持つ地主だったとのことですが、多喜二の伯父が事業に失敗したために土地を手放すこととなり、多喜二の両親は小作人として働きながら子供を育てていました。
4歳の頃に伯父の提案で一家は北海道の小樽市内に移り住み、そこから小樽での生活が始まります。
なお、伯父は自分の事業の失敗で多喜二一家に迷惑をかけたことを心苦しく思っていたといい、せめてもの罪滅ぼしにと先に多喜二の兄を小樽に呼び寄せていました。しかし兄はほどなくして病死してしまい、多喜二が小樽に来た時には鬼籍に入っていたそうです。
小樽での生活も決して楽なものではありませんでしたが、伯父夫婦の援助もあって多喜二は小樽高等商業学校(現在の小樽商科大学)へ進学。
大学では文芸家の大熊信行に師事し、文学活動に取り組むようになっていきました。
小林多喜二の生涯② 結婚を考えた女性・タキさんとの出会い
1924年に大学を卒業した多喜二は、北海道拓殖銀行に就職しました。この頃の多喜二は労働運動に興味を持ち、学生時代には運動に参加していたものの、自らは大学卒の銀行員という状況にありました。
このまま何事もなければ銀行員として出世して筆を折っていたかもしれませんし、低賃金の労働者に寄り添うプロレタリア文学の道からは離れていったかもしれません。
しかし、多喜二は21歳の時に運命の出会いをします。小樽市内の料理屋で働いていた16歳の女性・田口タキさんに出会って恋に落ち、彼女との結婚を望むようになるのです。
多喜二とタキさんは一時期は一緒に暮らしており、多喜二の家族もいずれは結婚するのだろうと2人の仲睦まじい様子を温かく見守っていたといいます。
ですが、タキさんには父親がつくった多額の借金のかたとして、13歳の時に身売りされていたという壮絶な過去がありました。
多喜二はこのことを知っており、友人らから借金をして身請けのお金を工面してタキさんと暮らし始めたといいます。
タキさんはこれを後ろめたく思っていたといい、自分の生い立ちや身分がエリート行員の多喜二とは釣り合わないのではないか、自分と結婚することで多喜二が不利益を被るのではないかと思い悩んでいました。
そして、多喜二が身請けをした7ヶ月後に、彼の将来を思って身を引くことを決意したといいます。
タキさんの置かれていた境遇や彼女との出会いは多喜二の考えに大きな影響を与えたとされ、彼がプロレタリア文学の道を選ぶ大きな転機になったともいわれています。
小林多喜二の生涯③ 『一九二八年三月十五日』を発表
1928年3月3月15日、日本共産党等の活動員数千名が逮捕される三・一五事件が発生します。これは軍国化を進める日本において、反戦を訴える共産主義者を逮捕したものです。
逮捕者のなかには多喜二の周囲にいた人物や仲間も含まれており、憤った多喜二はペンで戦うという決意を固めました。
そうして書かれたのが、三・一五事件をモチーフにした『一九二八年三月十五日』でした。
本作で多喜二は共産主義者に対する特別高等警察の拷問の悲惨さを描き、特高から「きわめて反抗的で危険な思想の持主」として目をつけられることとなります。
小林多喜二の生涯④ 代表作『蟹工船』を発表
特高に完全にマークされることとなった多喜二は、ペンネームを変えながらも執筆を続けました。
そして1929年5月に代表作となる『蟹工船』をプロレタリア文学の機関誌『戦旗』の誌上で発表します。
当時、多喜二は26歳。まだ年若い青年でしたが、『蟹工船』が「1929年上半期の最高傑作」として高い評価を集めると、一躍プロレタリア文学の旗手として名を馳せるようになります。
ところが、もともと特高から目をつけられたいた多喜二は、この『蟹工船』が原因となって不敬罪の疑いをかけられてしまうのです。
多喜二に嫌疑がかけられた理由は、作中で献上品のカニの缶詰を労働者たちが苛立ちまぎれに雑に扱うというシーンがあったためでした。
さらに『蟹工船』は演出家の土方与志によって『北緯五十度以北』という題名で劇作品としても上演されたのですが、これも特高の不興を買う原因となります。
当時の日本は軍国主義でしたから、社会主義や共産主義は国家の意思に反する危険思想とみなされていたうえ、日本にとって最大の仮想敵国はソビエト連邦でした。
プロレタリア作家たちはそのソ連が掲げる共産主義や社会主義を支持し、思想を広げようとしているわけですから、影響の強い活動をすればするほど反日的とみなされたのです。
最終的に多喜二は、このことが原因となって、多喜二は勤務先の北海道拓殖銀行からも解雇処分を受けてしまいます。
小林多喜二虐殺事件
拓殖銀行を解雇された後、多喜二は上京して日本プロレタリア作家同盟の書記長となりました。
そして1930年の5月には日本共産党に資金援助をしたとして逮捕され、2週間ほど拘留されました。
さらに同年7月には前述した『蟹工船』の内容の件で不敬罪で起訴され、8月には治安維持法違反でまたしても逮捕。今度は豊多摩刑務所に入ることとなります。
1931年1月22日には仮釈放されますが、多喜二はそれでもプロレタリア活動を辞めずに1931年10月には非合法の共産党組織に入り、執筆を続けました。
しかし、この時に多喜二が参加した党内に特高のスパイが潜んでいたのです。このスパイは三船留吉という男で、三船は旋盤工として働きながら労働運動に参加して、活動家に近づいては特高に売り渡していました。
こうした活動が買われて1930年頃からは特高直属のスパイとして活動するようになっていたといい、多喜二も三船によって特高に売られてしまったのです。
1933年2月20日、多喜二は三船に呼び出されて赤坂に向かい、待ち伏せしていた特高警察によって身柄を拘束されてしまいます。
そして中央区にある築地署に連れていかれたのですが、築地署で多喜二が受けた扱いは到底取り調べと呼べるものではなく、拷問・処刑としか言いようのない虐待だったのです。
多喜二が取り調べ室に入れられたのが逮捕当日の17時半頃だったといい、当初、多喜二は身元についても口を閉ざしていたそうです。
このことに激高した警視庁特高係長の中川成夫は、部下に指示して暖房器具もない極寒の取調室内で多喜二を丸裸にさせ、ステッキで何度も何度も滅多打ちにしました。
拷問には日本共産党潰滅の功績が称えられて昭和天皇から勲五等旭日章を授与され、戦後に埼玉県警の幹部に昇進した毛利基もくわわっていたと見られています。
小林多喜二の死因
激しい拷問の末に動かなくなった多喜二は、築地署の裏にある前田病院に担ぎ込まれますが、2月20日の19時45分に死亡が確認されました。
多喜二の遺体を医学博士の安田徳太郎氏とともに検査し、葬儀委員長を務めた作家の江口渙によると、多喜二の遺体には以下のような暴行の痕が見られたとのことです。
首には一まき、ぐるりと深い細引の痕がある。よほどの力で締められたらしく、くっきり深い溝になっている。そこにも、無残な皮下出血が赤黒く細い線を引いている。左右の手首にもやはり縄の跡が円くくいこんで血がにじんでいる。
さらに、多喜二の両腿には釘を打ち込んだような穴が十数十ヶ所もあいており、腸も膀胱も破裂しているのではないかと思われるほど、腹から下が青黒く変色して膨れ上がっていたといいます。
このことから実際に遺体を見た安田氏は、多喜二の死因を腹部から下半身への壮絶な暴行だったと指摘しました。
しかし、警察の発表は「突然の心臓発作により、小林多喜二は急死した」というものでした。
あくまでも警察は通常の取り調べをしていただけで、その最中に多喜二が急に苦しみだして病院に運んだが手遅れだったと主張したのです。
遺体の状態を見れば、警察の説明が嘘なのは明らかなことでした。それでも当時はどこの病院も特高の目を恐れて正式に多喜二の検死を引き受けてくれなかったこともあり、警察の言い分がまかり通ってしまったのです。
なお、多喜二の遺体がいかに凄惨な状態であったのかについては日本文学研究者の手塚英孝の著書『小林多喜二』に詳細に書かれています。
なぜ小林多喜二が激しい拷問を受けたのか
当時の法律が正しかったかどうかはさておき、多喜二が共産党に所属して活動していたこと、プロレタリア文学の作家であったことを考えるに、逮捕後に起訴、裁判という正式な手続きをとっていた場合には、懲役10年程度の判決が言い渡されたのではないかと考察されています。
これは多喜二と同じような活動をしていて、逮捕・起訴された仲間たちの判決と照らし合わせて予想される量刑です。
しかしなぜ、多喜二は裁判さえ受けられずに虐殺されてしまったのでしょうか。
この点については多喜二の影響力が大きすぎたからではないか?との指摘があります。
多喜二の代表作『蟹工船』は、発表された1929年に『戦旗』を刊行していた出版社・戦旗社から書籍化されて販売されましたが、すぐに発禁処分となりました。
ところがその翌年に発禁処分の理由となった箇所を削除・伏字にした普及版が発売され、これが半年で35,000部も売り上げるという快挙を果たしたのです。
しかも意外なことに、現在も大手の新聞社・出版社の『新潮』『中央公論』『読売新聞』といったメディアも作家としての多喜二を比較的高く評価しており、執筆の依頼をしていたことさえあったといいます。
このような人物が反戦を訴え、非合法の共産主義組織に所属しているとなれば、特高から危険視されるのは当然でしょう。
警察から戻って来た多喜二の遺体は、利き手の右手の人差し指が完全に折られており、手首を持ち上げると人差し指がぶらりと垂れ下がり、手の甲につくような状態だったそうです。
自分たちの意に反する作品を次々と生み出していく多喜二憎さに、二度とペンを持てないようにしてやると特高警察が指をへし折った結果ではないかと見られています。
小林多喜二の最期の写真
上の画像は小林多喜二の最期の写真として、教科書の副教材などにも掲載されているものです。
この写真は多喜二が亡くなった日の深夜に撮影されたもので、女優の原泉、俳優の千田是也、文筆家の田辺耕一郎、小説家の立野信之、壺井栄、鹿地亘ら文化人が多喜二の遺体を囲んでいます。
多喜二の仲間たちは、彼を埋葬する前にデスマスクをつくろうと思い立ち、この晩に多喜二の遺体に石膏をあてて顔型をとりました。また、画家の岡本唐貴は多喜二の最期を油絵に描き起こしました。
彼らが何を思って多喜二の遺体を作品として残したのかは不明です。しかし、つくられたデスマスクは遺族に渡され、遺族が小樽美術館に寄贈するまで大切に守り抜いてきたことを考えると、ごく個人的な感情で作ったものなのではないかと思われます。
小林多喜二の最期の写真は心霊写真?怖いという話も
上で触れたように多喜二の最期の写真は教科書にも載るほど有名な写真なのですが、心霊写真ではないか?怖いとも囁かれています。
高校国語の副教材に載っていた「小林多喜二の死体を囲む人々」に写っている人(赤丸部分)が気になって今の今まで捨てられずにきた。|三谷栄一、峯村文人『大修館国語要覧』大修館書店、1987、p.227 pic.twitter.com/lT3FI8IFB0
— 吉川浩満 (@clnmn) July 14, 2019
写真が怖いと言われる理由は、赤丸部分に写り込んだ人影です。これを心霊現象ではないかと指摘する声もあるようです。
しかし、当時の撮影技術では少し動いただけで実体のあるものが透けて写ってしまうのが当たり前で、よく見るとほかの人の顔も透けていたり、顔のパーツがわからないほど歪んで写っていたりします。
そのため、多喜二の最期の写真は心霊写真ではありません。
小林多喜二の代表作『蟹工船』のあらすじとモチーフになった事件
多喜二の代表作『蟹工船』は、海でカニ漁をして採ったカニを船上でそのまま缶詰に加工する「蟹工船」を舞台にした小説です。
蟹工船とは老朽化した貨物船などを安く買い上げ、船内にタラバガニの釜茹でから肉詰めまでの加工工場の設備を載せた船のことです。
ひとつの船でカニ漁から加工、缶詰作業まで行う効率の良い船に見えますが、蟹工船は「航船」ではないという理由で航船法が適用されず、さらに海の上で水産物の加工を行っていたことから工場でもないとされ、労働基準法も適用されませんでした。
そのため、蟹工船で働く労働者を守る法律は存在せず、船上で長時間労働を強いても違法にならなかったのです。
小説『蟹工船』に登場する乗組員らは東北や北海道などで職を得られず、食い詰めた労働者たちで、彼らは1日16時間、休みなしという過酷な条件で船上で酷使され続けます。
しかしある時、転覆事故がきっかけでロシア人と知り合い、働いても生活が良くならないのはおかしい、労働者は誇りを持つべきだと言われ、ストライキを決意するというあらすじです。
『蟹工船』のモデルになった博愛丸事件
『蟹工船』にはモデルとなった実在の事件がありました。それが博愛丸事件です。
出典:https://corona.shin-dream-music.com/
事件の舞台となった博愛丸は、日魯漁業会社(現在のマルハニチロ)の所有する蟹工船で、1926年4月に漁夫ら250人を乗せて函館からカムチャッカ沖へと出港しました。
博愛丸には総監督として阿部金之助という男が乗っていたのですが、この男は蟹工船の乗船歴は長かったものの、冷酷で残虐な性格で、リンチやいじめが大好きという陰湿な性格でした。蟹工船の乗組員からは「鬼金」と呼ばれて恐れられていたといいます。
さて、長期のカニ漁を予定して港を出た博愛丸でしたが、当初から暖房設備や換気設備に不備があったうえに、食糧の備蓄も少ないというあまりにも粗末な状態でした。
そのためカムチャッカ沖に到着する前に栄養失調やビタミン不足から脚気になる者が次々に出るなど、不調を訴える乗組員が相次いだそうです。
阿部金之助ら幹部はこれを乗組員の怠慢だと激怒し、ハンマーや槌などで乗組員を殴打したといいます。
当然ながらそのようなことをしても乗組員の健康状態が改善するはずもなく、カムチャッカ沖に到着した時には乗組員の6割もが栄養失調か脚気の症状を見せるようになっていました。
しかも脚気患者のなかには立ち上がることもできないほど、重症化した者までいたとのことです。
それでも博愛丸の幹部らは乗組員を殴りつけて無理やり漁をさせ、1日20時間の労働を強いたとされます。
そうして動けなくなった者は監禁部屋に投げ込まれて、飲まず食わずの状態で放置されました。
また、こん棒で殴られて気絶させられた後、クレーンで吊り上げられて意識を失うまで放置された者もいたといいます。
こうした扱いの果てに死者が出ると、幹部らは遺体を麻袋に入れて海に投げ込み、殺人の証拠隠滅を図っていたそうです。
乗組員の方が圧倒的に人数が多いのだから、暴動を起こせばよいと考える人もいるかもしれません。
しかし、幹部たちが定期的に見せしめとして乗組員を選んで虐待して恐怖心を植え付けていったため、彼らも反抗する意識がなくなっていったのです。
出港から約5か月が経過した9月中旬、博愛丸は函館に戻ってきました。乗組員は2人減っており、幹部らは船上で殺害した2人の乗組員を「行方不明者」として届け出ました。
これで今回の漁は終わり、と阿部金之助らが思ったところで乗組員らが警察に駆け込み、博愛丸の中で何が起きていたのかが発覚します。
幹部らは高給を謳って人員を集めたにもかかわらず賃金の支払いをしぶったことが決定打となって、乗組員らがついに反旗を翻したのです。
最終的に阿部金之助ら幹部には罰金刑などのごく軽い処罰のみが言い渡され、博愛丸事件は幕を閉じました。
いくら当事者以外の目撃者がいない海の上で起きた事件とはいえ、死者まで出ているのに甘すぎる処分です。これは当時、カニ加工品が輸出品として人気があり、外貨獲得に役立っていたためと見られています。
小樽で育った多喜二にとって、海上で労働者が劣悪な環境で酷使されるという話は身近なものでした。
多喜二が幼い頃から、小樽の港には労働者たちを監禁するタコ部屋が複数存在していたといいます。
そうした幼児期の記憶と博愛丸事件がもとになって書かれたのが、『蟹工船』だったのです。
小林多喜二の母親・セキさんという女性
多喜二の死後、注目を集めた人物がいます。母親の小林セキさんです。
セキさんは特高から追われる身になっても多喜二のことを常に気にかけていたといいます。
貧しい小作人の家に生まれたセキさんは幼少期に教育を受けさせてもらえず、読み書きもままならなかったそうです。しかし、1930年に多喜二が治安維持法違反で刑務所に収監されると、息子とやり取りをしたい一心で字の勉強に励み、手紙を出していたといいます。
その後、多喜二が亡くなる前にセキさんが息子と会ったのはただの1度だけでした。多喜二は母親と会った時のことを私小説『党生活者』のなかで以下のように書いています。
母は帰りがけに、自分は今六十だが八十まで、これから二十年生きる心積つもりだ、が今六十だから明日にも死ぬことがあるかも知れない、が死んだということが分れば矢張りひょっとお前が自家うちへ来ないとも限らない、そうすれば危いから死んだということは知らせないことにしたよ、と云った。
引用:党生活者
息子の活動がどれだけ危険なものか理解したうえで、セキさんは遠くから無事を祈る覚悟を決めていたのです。信念を貫いた多喜二の母もまた、強い人であったことが窺えます。
多喜二の遺体を引き取りに駆け付けたのも、セキさんでした。この頃、タキさんは多喜二の妹一家と一緒に東京の杉並で暮らしていたといい、息子が急死したとの一報を受けてねんねこ半纏を着て孫をおぶった状態で前田病院に向かったそうです。
変わり果てた息子を自宅に連れ帰ったセキさんは、布団の寝かせた多喜二に縋り付き「ああ、痛ましい…よくも人の大事な息子を、こんなになぶり殺しにできたもんだ。どこがせつなかった?どこがせつなかった?」と涙を流しました。
そして「それ、立たねか。もう一度、立たねか。みんなのためにもう一度、立たねか」と、突然の死を受け入れられない様子で遺体を揺さぶったそうです。
その晩、セキさんは一睡もせずに多喜二の遺体に寄り添い、頭を抱いて頬ずりをしていたといいます。
戦後になるとセキさんは日本共産党に入って息子の遺志を継ぐ活動を続け、1961に86歳で亡くなりました。
『氷点』や『塩狩峠』で知られる作家の三浦綾子氏は、セキさんを主人公にすえた小説『母』を上梓しており、この作品は2017年に『母 小林多喜二の母の物語』のタイトルで映画化もされています。
小林多喜二は結婚していた?子供や子孫はいる?
多喜二には銀行員時代に結婚を望んでいたタキさんのほかに、もう1人一緒に暮らした女性がいました。伊藤ふじ子さんという方です。
多喜二の私小説『党生活者』に「笠原ふじ子」という家政婦が出てくることから、ふじ子さんは長らく、金銭契約で多喜二の身の回りの世話をしていた女性だと思われてきました。
しかし、ふじ子さんは正式な多喜二の妻であり、しかも多喜二が殺されるおよそ10ヶ月ほど前に結婚したばかりだったのです。
多喜二とふじ子さんが出会ったのは1931年の春の初めでした。豊多摩刑務所から出所したばかりの多喜二が新宿でビラ配りの活動をしていたところに近くの果物店に下宿していたふじ子さんが通りかかり、2人は知り合ったといいます。
この頃には特高の目を避けて各地を転々とする生活をしていた多喜二は、「七沢の蟹」という暗号めいた名前でふじ子さんにラブレターを送り続けました。
そして1932年に2人は結婚し、ふじ子さんは多喜二とともに地下生活を始めることになったのです。
結婚と言っても、追われる身であった多喜二が周囲に妻を紹介して回ることはありませんでした。自分の身内とわかれば、ふじ子さんばかりか彼女の家族にまで特高の手が及ぶ可能性があったためです。
実際に多喜二は一度、ふじ子さんの母親を呼び寄せて3人で暮らそうと試みたことがあったそうですが、すぐに隠れ家が特高にバレてふじ子さんが連れていかれてしまい、それ以降はふじ子さんとも離れて暮らしていたとされます。
多喜二の母親のセキさんすら、ふじ子さんの存在は知らされていなかったといい、葬儀の際にふらりと訪れたふじ子さんに対して「誰なのだろう」と思ったほどでした。
そのような状況でしたから、多喜二とふじ子さんの間に子供はおらず、多喜二に直系の子孫はいません。
しかし、少なくとも妹には息子がいることが明らかになっているため、傍系の子孫であれば甥っ子がいます。もしかしたらほかの姉弟にも子供がいるかもしれません。
タキさん・ふじ子さんのその後
多喜二がその生涯で愛した2人の女性、タキさんとふじ子さんはどのような生涯を辿ったのでしょうか。
タキさんは終戦後に実業家の男性と結婚して天寿を全うしたとのことで、ふじ子さんは政治漫画家の森熊猛氏と結婚しています。
なお、多喜二とは結婚できないと身を引いたタキさんですが、葬儀には駆け付けており、その後は墓参りにも訪れていたそうです。
ふじ子さんも分骨した多喜二の遺骨をずっと持っていたといい、ふじ子さんが亡くなった時には森熊氏が多喜二の骨も一緒に埋葬したとのことです。
小林多喜二についてのまとめ
今回は特高の拷問によって命を落としたとされるプロレタリア文学の作家・小林多喜二について、その生涯や代表作『蟹工船』、死因を中心に紹介しました。
搾取されるばかりの労働者を救わなければいけない、という多喜二の思想はもっともですし、拷問の果てに命を奪った警察側の行動は決して許されるものではありません。
では、時代を考えた時に多喜二ら共産主義活動家の主張が正しかったのかというと、そうとは言い切れない部分もあります。戦前の時代に日本を脅かしていた大国・ソ連の思想を受け入れることが、良い結果を招いたとは言い難いためです。
警察側も多喜二ら活動家側も、それぞれ別の正義を掲げて国を守ろうとしていました。その結果、起きてしまったのが虐殺事件だったのでしょう。