「罪と罰」「カラマーゾフの兄弟」などの代表作品で知られる帝政ロシア時代の文豪・ドストエフスキーが話題です。
この記事ではドストエフスキーの代表作品やその凄さ、性格や思想、数々の名言の英語訳と和訳、2度の結婚と嫁、子供や子孫、晩年と死因などについてまとめました。
この記事の目次
ドストエフスキーは文学史に残る数々の作品を残した帝政ロシアの小説家
ドストエフスキーのプロフィール
本名 :フョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキー
生年月日:1821年11月11日
没年月日:1881年2月9日(59歳没)
出身地 :ロシア帝国時代のサンクトペテルブルク
フョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキーは、トルストイやツルゲーネフと並ぶ19世紀ロシア文学を代表するロシア帝国(帝政ロシア)出身の小説家で世界の文学史に残る文豪の1人です。
ドストエフスキーは、人間の内面の奥底にある闇と光を追求して描き出し、特に5大長編と呼ばれる「罪と罰」、「白痴」、「悪霊」、「未成年」、「カラマーゾフの兄弟」は文学史上最高傑作とも評され、170以上の言語に翻訳され世界中で高く評価されています。
ニーチェやサルトルなどの哲学者や思想家、アインシュタインなど世界中の偉人・天才達に影響を与え、日本人でも黒澤明や大江健三郎、三島由紀夫、村上春樹など多くの人物がその影響を受けた事を公言しています。
ドストエフスキーの代表作品① 罪と罰
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ドストエフスキーの代表作品の中でも最も広く知られているのは「罪と罰」ではないかと思います。
「罪と罰」は1866年に発表された作品で、ドストエフスキーの評価を一躍高めた傑作として知られています。
「罪と罰」の主人公のラスコーリニコフは、頭脳明晰ながら大学を除籍された貧しい青年で、「非凡な人間(選ばれた天才)は、社会の進歩のためであれば社会規範すら超越する」という過激な思想な持ち主でした。
ラスコーリニコフはその思想により、強欲な高利貸しの老婆を殺害し、奪った金を社会に還元しようと計画。しかし、偶然居合わせた老婆の歳の離れた義妹までも誤って殺害してしまいます。
この義妹は気弱で姉の言いなりで家事もこなしていた善良な人物で、ラスコーリニコフは思いがけぬ殺人に罪の意識に苛まれ次第に精神を病んでいきます。
そんな中、深い信仰を持ち慈愛に満ちた娼婦・ソーニャと出会い交流するうちにラスコーリニコフは心を動かされていき、最終的には自首を決意し再生への道を歩み始めるというのが大まかなあらすじです。
ドストエフスキーの代表作品② 白痴
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ドストエフスキーの代表作の1つ「白痴」は1868年に発表された長編で、同時代のロシアの文豪・トルストイにして「この作品には無数のダイヤモンドのような価値がある」と言わしめた傑作です。
「白痴」は、てんかんの持病により幼い頃からスイスの療養所に入れられていたが病気が良くなったために初めてロシアに戻ったムイシュキン侯爵という青年が主人公で、彼は純真無垢で滑稽に見えるほどの善人だがそれゆえに人々から愛される存在として描かれています。
そんなムイシュキン侯爵が、父の死により莫大な財産を得たロゴージンという男と帰国の列車の中で知り合ったのをきっかけとして、ナスターシャとアグラーヤという2人の魅力的な女性をめぐる複雑な恋愛模様とロシアの上流社会における複雑な人間模様が群像劇として描き出される作品となっています。
ドストエフスキーはこの「白痴」で、「無条件に美しい人間」を描こうとしたと語っていますが、この作品は最終的に無条件に美しい人として描かれたムイシュキン侯爵が最終的には現実的な人間社会で破壊され再び白痴へと戻っていくという残酷な結末を迎えます。
ドストエフスキーの代表作品③ 悪霊
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「悪霊」は、1871年から1872年にかけて発表された長編小説で、1873年に単行本化されたドストエフスキーの代表作の1つです。
「悪霊」はドストエフスキーの代表作の中でも難解な作品として知られており、時代背景と物語の舞台は農奴解放令が出て新しい思想が広まりつつあるロシアで、自由主義、社会主義革命、無政府主義、無神論、ニヒリズムなど当時のロシア社会に起こった新たな思想主義をテーマとして取り上げています。
登場人物が非常に多く、筋金入りのニヒリストの主人公・スタヴローギン、自由主義者で大学で教えた事もある知識人のステパン氏、大地主で息子のスタヴローギンを溺愛する傲慢な女性・ワルワーラ夫人、ワルワーラ夫人の養女でステパン氏と結婚させられそうになるダーシャ・ダーシカ、ステパン氏の息子でロシア旧体制を倒す事を目論むペトルーシャなど、あらゆる思想や様々な立場の登場人物が入り乱れ、当時のロシア社会における革命思想、組織の病理といった混沌と人間模様が緻密かつ複雑に描き出される作品となっています。
この「悪霊」という作品は物語自体もかなり混沌としているのですが、登場人物の面でも心の美しい人が1人も出てこず、人間の醜い点、愚かな点がひたすらに描かれていて救いがなく、癒される要素が全くありません。まるでドストエフスキー自身の憎悪が全て作品自体に向けられているような内容ですが、次第に登場人物達の狂乱ぶりに読むものも飲み込まれていくような感覚に襲われてハイになり癖になってしまったといった感想を語る方も多くいます。
この「悪霊」は、ドストエフスキーの代表作品の中で最も賛否が分かれる作品かもしれません。
ドストエフスキーの代表作品④ 未成年
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1975年に発表された「未成年」は、ドストエフスキーの代表作品の中では知名度が低く、難解で読みにくいとも評価されている作品です。
主人公は貴族と農奴の間にできた私生児・アルカージイで、物語はこのアルカージイが1年半前を回想するという一人称形式で描き出されます。私生児であるアルカージイは生まれて間もなく他人の家へ預けられ、寄宿舎では惨めな思いをして心に深い傷を負い、コンプレックスの反動からロスチャイルド家のような富豪になりたいという叶えることは難しいであろう理想を抱くようになります。
アルカージイは中学(現在の高校に相当)を卒業後に、父親に呼ばれてサンクトペテルブルク(帝政ロシアの首都)へと戻り、父親や他の家族と会い、様々な経験を積み成長していく過程が描かれ、アルカージイの成長小説、教養小説、青春小説として読む事ができますが、アルカージイは未成年かつ心に傷を負った者特有の混沌の中におり、右往左往し、その苦しみから解放される事なく物語は進行していくのです。
この作品で描き出される未成年であるアルカージイの目に映る混沌とした世界は、現代に生きる若者が見ている世界とも通ずるものがあるかも知れません。
ドストエフスキーの代表作品⑤ カラマーゾフの兄弟
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ドストエフスキーの代表作品のうち、最高傑作だとされているのが「カラマーゾフの兄弟」で、一部では人類史上最高の小説という声すらもある作品です。
「カラマーゾフの兄弟」は、成り上がった地主の家の3兄弟を軸にして、父親殺しという事件をめぐっての複雑な群像劇が描き出される作品です。
カラマーゾフ兄弟は、粗暴で直情的な性格の長男・ドミートリィ、無神論者だが実はそれに深い葛藤を抱いている次男のイヴァン、敬虔なキリスト教徒で慈愛に満ちた心を持ち兄2人を救おうとする三男のアレクセイを軸に描き出されるストーリーです。
物語の序盤はこの3兄弟を含む登場人物のキャラクター紹介に終始しますが、兄弟の父親である成り上がりの地主・フョードルが何者かによって殺害された事から物語が怒涛の展開を迎えていきます。
長男のドミートリィはグルーシェンカという美女を巡って生前の父親と争っていました。また、ドミートリィには婚約者のカチェリーナという女性がおり、カチェリーナはドミートリィに執着しつつも、次男のイヴァンにも心を惹かれています。
さらに、周囲からの絶大な尊敬を集めた修道院の長老・ゾシマの死とその後の顛末をめぐり神の存在に迷いを生じさせつつも兄弟達を救おうと奔走する三男のアレクセイ、実はフョードルの隠し子だと噂されるカラマーゾフ家の使用人で次男のイヴァンの唱える無神論に心酔しているスメルジャコフらが絡んで複雑な物語が展開してきます。
難解で読みにくいイメージのあるドストエフスキーですが、この「カラマーゾフの兄弟」に関しては複雑重厚でありながらエンターテイメント作品としても傑作と評価されており、思想や哲学を読むものに問いかけ思考を促す文学的な価値と、小説として読者を楽しませる娯楽としての価値が見事に融合調和している点はドストエフスキー最高傑作と評される所以となっています。
ドストエフスキーの凄さ
ドストエフスキーは死後150年以上が経過した現在においても史上最高の作家の1人として名前が上がるほど、その作品は高い評価を得ています。
なぜこれほど長い間ドストエフスキーがこれほどの評価を得ているのかその凄さとは何なのかが気になるという方も多いようです。
ドストエフスキーの凄さは、やはり人間の心理や行動の描写が極めて巧みで精緻を極めているところだと言えるかと思います。
ドストエフスキーの全ての作品では、人間の奥底にある葛藤や苦しみからの救済を願う心の動きを鋭く描き出し、人間心理の深層を抉り、かつそれによって重厚で混沌とした世界観を描き出します。
人々の誰しもが持つ心の闇や葛藤、欲望などに焦点が当てられ、読者はそれに否応なく心が揺れ動かされて感化される事になります。
ドストエフスキーの凄さは、こうした表現を、全く性格やバックボーンの異なる数多くのキャラクターを同時に登場させ、それを立体的な角度から絡み合わせ、複雑な会話のやり取りや掛け合い、それぞれの行動がもたらす結果などを組み合わせて複雑な物語を紡ぎ出し、最終的には1つの大きなテーマを浮かび上がらせる事によって成功させている点にあります。
しかもドストエフスキーは、そのキャラクター達や物語自体に深みを持たせるために数多くのサイドストーリーや無数の逸話を作品に盛り込んでおり、時系列も複雑に描いてミステリの要素までも含ませる事でエンタメ的要素まで加え、そしてそれが破綻しないというのは、天才にのみなせる業といっても決して過言ではないでしょう。
さらにドストエフスキーはこうした重厚複雑精緻極まる作品を口述筆記を駆使して極めて短時間で立て続けに発表している点もその凄さを際立たせています。
ドストエフスキーの性格
複雑かつ重厚な作品を数多く生み出したドストエフスキーの性格にも関心が集まっています。
ドストエフスキーの性格は、複雑かつ情熱的であったとされますが、極端な浪費癖とギャンブル依存症により財産を使い果たしたり、時には気前よく知人や友人に振る舞ってしまったりして前半生はいつも借金に苦しむなどだらしのない性格でもあったと言われています。
ドストエフスキーの考えなしにも見える浪費癖、ギャンブル好きの性格は、彼の父親が極端に貧乏を恐れる厳格な人物であったためその反動として形成された性格だとも言われています。
ドストエフスキーの思想
ドストエフスキーが抱いていた思想には色々な見解がありますが、前半生は理想主義的な社会主義思想が顕著で、ミハイル・ペトラシェフスキーが主宰の空想的社会主義サークルにも入っています。
しかし、この社会主義思想のために1849年に逮捕され、一時は死刑判決を受けて銃殺刑直前に皇帝の恩赦(最初から仕組まれていた)でシベリア流刑となって1854年まで服役したのを境にして、社会主義思想からキリスト教的人道主義思想へと変化があったとされています。
後半生のドストエフスキーは保守的な思想の作家として活動し「罪と罰」をはじめとする数々の名作を発表しましたが、それらの作品にはキリスト教(ロシア正教)の思想が色濃く反映されました。
こうした思想転換から、帝政ロシアが倒された後のソビエト連邦時代にはほぼ全てのドストエフスキーの著作は発禁処分を受けています。しかしソ連崩壊後の現在のロシア連邦においては、ロシア正教を尊重する民族主義的な思想が再評価されています。
一方で、ドストエフスキーの本来の思想は理想社会主義から変わっておらず、1度逮捕された事から検閲や監視を警戒した二枚舌だったという指摘もあります。
ドストエフスキーの名言の英語訳と和訳
ドストエフスキーの著作内や本人の名言は数多く残されていますが、多くの日本人にとっては馴染みのないロシア語であるためニュアンスが掴みにくいです。ここではドストエフスキーの名言の英語訳とその和訳をいくつか紹介します。
Happiness does not lie in happiness, but in the achievement of it.
(幸せは幸せの中にあるのではなく、それを手に入れる過程の中にある。)
If you want to be respected by others the great thing is to respect yourself. Only by that, only by self-respect will you compel others to respect you.
(人に尊敬されたいのなら、自分を敬うことだ。自分に敬意を払うことによってのみ、人はあなたを尊敬するようになるだろう。)
Man is unhappy because he doesn’t know he’s happy. It’s only that.
(人間が不幸なのは、自分が幸福である事を知らないからだ。ただそれだけの理由なのだ。)
God and the devil are fighting there and the battlefield is the heart of man.
(そこで神と悪魔が戦っている。戦場は人間の心である)
「カラマーゾフの兄弟」より
With love one can live even without happiness.
(人間は、幸せでなくても愛さえあれば生きていける。)
Taking a new step, uttering a new word, is what people fear most.
(新たな一歩を踏み出すこと、新しい言葉を発することは、人々が最も恐れることである。)「罪と罰」より
これらのドストエフスキーの名言の英語訳、日本語訳を知ると、その思想や性格が理解できるかも知れません。
ドストエフスキーの嫁
ドストエフスキーの最初の結婚の嫁のマリア・ドミートリエヴナ・イサーエワ
ドストエフスキーは生涯に2度結婚しています。
ドストエフスキーの1度目の結婚の嫁はセミパラチンスクで兵役についていた頃に恋をしたマリア・ドミートリエヴナ・イサーエワという女性でした。
ドストエフスキーが恋をした頃、マリアは別の男性と結婚していて子供もいましたが、この夫が急遽病死し、ドストエフスキーはあらゆる手を使ってアタックしてマリアを嫁に迎える事に成功しました。
しかしこの1人目の嫁・マリアはこの時既に結核を患っており、体調の悪化から精神にも悪影響を及ぼしてドストエフスキーと口論する日々が続いた末に1864年に亡くなりました。
ドストエフスキーの2度目の結婚の嫁のアンナ・スニートキナ
ドストエフスキーの2人目の嫁となるアンナ・グリゴーリエヴナ・スニートキナは25歳年下の女性で、元々はドストエフスキーが雇った速記者でした。1866年発表の「賭博者」を作家と速記者として完成させた後、2人は自然と惹かれ合う形で1867年に結婚。
ドストエフスキーの2度目の結婚の嫁・アンナはドストエフスキーのあるがままの性格や生き方を受け入れてそのサポートに徹した女性でした。金銭管理能力が皆無だったドストエフスキーは、この嫁・アンナがいなければ早々に破綻していたという意見もあり、「罪と罰」以降の数々の代表作品が生み出されたのは、この嫁のアンナの存在があってこそとも言われています。
「回想のドストエフスキー」はそんな嫁のアンナがドストエフスキーの死去後に嫁の目線から綴った伝記で、それまで知られていなかったドストエフスキーという人間が浮き彫りにされた名著です。
ドストエフスキーの子供
ドストエフスキーの2人目の子供の次女・リュボーフィ
ドストエフスキーの子供は2度目の結婚の嫁のアンナとの間に生まれた4人です。
最初の子供は結婚の1年後に生まれた長女のソーニャ(ソフィア)でしたが幼くして亡くなります。それから、2人目の子供として次女のリュボーフィ、3人目の子供として長男のフョードル、4人目の子供として次男のアレクセイが生まれています。
ドストエフスキーの3人目の子供の長男・フョードル(父親と同じ名前)
ドストエフスキーの子供達のうち、3人目の子供である長男のフョードルは父親と同じく作家を目指しましたが大成せず、父親の残したアーカイブの保存に力を注ぎました。
ドストエフスキーの子孫
ドフトエフスキーの子孫では、ひ孫のドミトリー・ドストエフスキーがサンクトペテルブルクにあるドストエフスキー博物館に勤務し、日本にも来日し講演した事がありました。
ドミトリー・ドストエフスキーには子供や孫(息子のアリョーシャとその子供のアンナ、ベーラ、マリヤ)がおり、ドストエフスキーにとっては玄孫や来孫にあたります。
ドストエフスキーの子孫のうち、玄孫のアリョーシャ・ドストエフスキーは1990年のソ連映画『少年たち「カラマーゾフの兄弟」より 』にコーリャ役で出演しています。
ドストエフスキーの晩年
ドストエフスキーの晩年ですが、1880年11月に「カラマーゾフの兄弟」を完結させ、それからわずか数ヶ月後の1881年1月28日に亡くなっています。
「カラマーゾフの兄弟」の続編の計画があったという事でしたが、ドストエフスキーはそれを執筆し始める前に亡くなりました。
ドストエフスキーの死因
ドストエフスキーの死因は肺気腫による肺動脈の破裂と伝えられています。
ドストエフスキーの葬儀には数万(3万とも10万とも)の人々や72の団体、15の聖歌隊が参加したと言われています。
1881年1月31日にドストエフスキーの遺体はアレクサンドル・ネフスキー大修道院墓地に埋葬されました。
まとめ
今回は、「罪と罰」、「カラマーゾフの兄弟」などの文学史に残る数々の代表作品を残した帝政ロシア時代の文豪・ドストエフスキーについてまとめてみました。
ドストエフスキーの代表作品には「罪と罰」、「白痴」、「悪霊」、「未成年」、「カラマーゾフの兄弟」などがありますが、その凄さは緻密な人物描写により描き出された多くの濃密なキャラクターが複雑に絡み合い重厚な1つのテーマが浮かび上がってくる事にあります。
ドストエフスキーの性格は複雑かつ情熱的で、ギャンブル狂で金銭管理能力に乏しい一面もありました。また思想は理想主義的な社会主義から、保守的なキリスト教的人道主義へと変化したと言われています。
ドストエフスキーの名言の英語訳や和訳も多く話題になっており、これらを知ることでドストエフスキーの思想や性格が理解できるかも知れません。
ドストエフスキーは生涯に2度結婚しており、1人目の嫁はドストエフスキーの熱烈なアプローチにより結婚したマリア・ドミートリエヴナ・イサーエワという女性でしたが結核により死別。2度目の結婚の嫁は、ドストエフスキーが速記者として雇ったアンナ・グリゴーリエヴナ・スニートキナという女性で、アンナはドストエフスキーという人間をそのまま受け入れて献身的に支えました。「罪と罰」以降の代表作品の数々はこの嫁のアンナの存在無くして生まれなかったとも言われています。
ドストエフスキーには嫁のアンナとの間に4人の子供が生まれていて、1人目の子供の長女・ソーニャは早くに亡くなり、その後に次女のリュボーフィ、長男のフョードル、次男のアレクセイが生まれました。
ドストエフスキーの子孫も存続していて、ひ孫のドミトリー・ドストエフスキー、玄孫のアリョーシャ・ドストエフスキーが著名です。
ドストエフスキーは晩年まで作家活動を続け、生涯最高傑作とも評される「カラマーゾフの兄弟」を完結されてからわずか数ヶ月後の1881年1月28日に59歳で没しています。死因は肺気腫による肺動脈の破裂だったとされています。