始皇帝(嬴政)の歴史や家系図!父と母や兄弟・嫁や子孫・死因もまとめ

中国の歴史上、初めて天下統一を果たしたとされる始皇帝・嬴政。どのような人物だったのでしょうか。この記事では始皇帝について家族、母親、兄弟、嫁、子供などの家系図や子孫にまつわる都市伝説、死因、発掘の進まない墓などをまとめて紹介します。

始皇帝・嬴政とは

 

出典:https://commons.wikimedia.org/

 

始皇帝とは戦国時代後期(紀元前221年)に趙、魏、韓、楚、燕、斉の6つの国を滅ぼし、中国の歴史上、最初の皇帝となった人物です。

 

秦の王としては6代目にあたり、秦王としての名は姓を「嬴(えい)」、氏を「趙(ちょう)」、諱は「政(せい)」または「正(せい)」といいます。

 

なお、姓は苗字を、氏は家系を、諱(いなみ)は名前を指すことから、嬴政(えいせい)または趙政と呼ばれることもあります。

 

紀元前259年2月18日 、趙の都である邯鄲で生まれた嬴政は、父親である荘襄王に太子に選ばれたことを機に秦へと帰国し、数え年にしてわずか13歳で6代目秦王に即位しました。

 

しかし、若すぎたがゆえに国を動かすことができず、22歳になるまでは名前だけの王、お飾りの王として過ごしたとされます。

 

そして嬴政は22歳を迎えると自分に代わって国を動かしていた宰相の呂不韋と、母・趙太后の愛人であり、太后との間に男児をもうけていた嫪毐(ろうあい)の排除に成功。

 

そこから他国に積極的に攻め込み、紀元前230年に韓を滅ぼすと次々に秦を除く戦国七雄を滅亡させていき、天下統一を果たしたのでした。

 

天下統一を果たしてからはこれまでの「王」という称号を改めて、自ら新しい称号「皇帝」を採名乗り、最初の皇帝という意味で崩御には「始皇帝」と呼ばれるようになります。

 

始皇帝となってからも嬴政は郡県制による中央集権の強化や貨幣や計量単位の統一、交通網の整備など、紀元前210年に50歳で逝去するまでにさまざまな偉業を成し遂げました。

 

また、万里の長城や秦始皇帝陵といった現在も世界遺産として残るような巨大建造物の造営も行ったことでも知られます。

 

 

 

始皇帝と歴史① 春秋戦国時代の勢力

 

出典:https://ja.wikipedia.org/

 

始皇帝が天下統一する前の春秋時代(前770年〜)には、中国には10を超える大小さまざまの国が乱立していました。

 

そして晋国が魏、趙、韓に3分割したことがきっかけとなって動乱の戦国時代(前453年〜)が幕を開け、前403年になって始皇帝が天下統一する前にあった秦、趙、魏、韓、楚、燕、斉の7つの国が勢力を争う「戦国七雄」の構図ができあがったのです。

 

もともと、秦は前900年頃に周の孝王に仕えていた非子という人物によってつくられた国で、非子は馬を繁殖させた功績が認められ、孝王より領地と「嬴」という名を賜りました。

 

その後、春秋五覇の一人に数えられることがある穆公の時代に秦は周辺10国を従わせ、国土の拡大に成功。

 

さらに前359年に「商鞅の変法」という大規模な国政改革を行って国力を増大させ、中央集権化を図ったのです。

 

これによって強国に成長した秦は、周辺諸国を圧倒するまでに成長し、前262年には趙の平城に攻め込み、中国の戦国時代のなかで最大規模の戦争となる長平の戦いが勃発します。

 

秦は前260年に長平の戦いに勝利したことでさらに勢いを増し、同時に趙の国力を大きく衰退させました。

 

 

 

始皇帝と歴史② 嬴政の誕生

 

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嬴政は前259年に趙の首都・邯鄲で誕生しました。なぜ自国の秦ではなく、敵地である趙で生まれたのかというと、父親の異人が趙の人質となっていたからです。

 

異人は後に秦の第5代の王・荘襄王となる人物ですが、父の安国君(始皇帝からすれば祖父。後の孝文王)には20人以上もの子どもがいました。そのうえ母の夏姫はすでに寵愛を失っていたことから、実の父親から捨て駒のように扱われ、休戦協定の人質として趙に追いやられていたのです。

 

しかも安国君の父・昭襄王(異人の祖父、始皇帝からすれば曽祖父)は休戦協定を破ってたびたび趙に攻め込んでいたため、異人は趙でも不遇な扱いを受け、貧しい暮らしを余儀なくされていたといいます。

 

当時の慣習では人質の生活費は出国側が賄うのが一般的だったのですが、戦争に明け暮れていた秦側は人質のことなど頭になかったのか異人の生活に必要な物資の運搬は滞りがちで、王族の子孫でありながら民衆以下の暮らししかできなかったのでした。

 

そのような暮らしのなか、父の異人と母の趙姫の間に生まれたのが嬴政だったのです。

 

なお、後述しますが嬴政の父親は異人ではなかったのではないか、とする説もあり、母親の趙姫についても正体や身分について諸説あり、姓や名は一切わかっていません。ここではいったん、嬴政の父親は異人であるという主流の学説に則って説明を続けます。

 

 

 

始皇帝と歴史③ 父と呂不韋

 

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昭襄王は孫とひ孫が人質として暮らしている邯鄲を陥落しようと包囲網を敷くなどしており、父とともに幼い嬴政も趙からの恨みや憎しみを一身に浴び、何度も命の危険にさらされていました。

 

そんな苦境のなか、父の異人を助けてくれる人物が現れます。後に嬴政が親政(王が自ら政治を行うこと)の邪魔として退けることとなる、呂不韋です。

 

韓の裕福な証人であった呂不韋は、異人を利用すれば秦の国政の中枢に就くことができるかもしれないと考え、投資として異人に手を貸すことにしました。この時の呂不韋の判断は、故事成語の「奇貨居くべし」の由来になったとされます。

 

呂不韋は孝文王の正室でありながらまだ男児を産んでいなかった華陽夫人に大金を渡し、異人を養子にするよう根回しをしました。そして華陽夫人の養子となった異人は捨て駒から一転、父の安国君が孝文王に即位すると正式な後継ぎ、太子の座に躍り出たのです。

 

この時、異人はすでに呂不韋の手引によって番人を買収して秦へ逃げ延びていましたが、嬴政と趙姫はまだ敵国・趙に残されたままでした。

 

命を狙われ続けながら潜伏生活を繰り返していたとされる嬴政が母親と秦に帰ることができたのは、昭襄王が逝去して安国君が孝文王に即位してからのことで、この時すでに嬴政は10歳になっていたとされます。

 

しかも孝文王は即位してから3日で死去し、異人はすぐにその後を継いで秦王に即位。荘襄王となった異人は恩人である呂不韋を丞相に任命し、東周の滅亡や上党の制圧など秦を強化していきました。

 

 

 

始皇帝と歴史④ 即位

 

孝文王は即位から3日で死去しましたが、荘襄王も即位から3年で死去したため、嬴政は秦に戻ってから4年の前247年、わずか13歳で秦の王となりました。これは過去に即位した秦王のなかでも異例の若さです。

 

当然、この年齢では嬴政が自ら政治を行うことはできなかったため、22歳で戴冠式を迎えるまでは呂不韋が「仲父(王の父親代理という意味)」として、国政を取り仕切ることになります。

 

さて、嬴政が秦王に即位した時、すでに秦の国家基盤は盤石なものとなっており、やることと言えば周辺国を侵略し、国土を広げることくらいでした。

 

君主の独裁性を重視する法整備がされていた秦で実権を握ることとなった呂不韋は、魏攻めを開始するなどして、領土拡大を図っていきました。

 

こうして嬴政は秦王に即位したものの、やはり政治の駒、お飾りとして利用され続けることとなったのです。

 

 

 

始皇帝と歴史⑤ 母親・趙姫の裏切り

 

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嬴政が秦王になったことで趙太后となった母・趙姫。彼女は不遇な環境にある息子を心配し、影に日向に応援するような母親ではなく、一筋縄ではいかない人物でした。

 

もともと趙姫は呂不韋の愛人だったのですが、異人が趙姫を気に入っって娶ったことから、2人の関係は終わっていたといいます。

 

しかし、荘襄王となった異人が逝去してから2人の関係は再燃。密通を繰り返していました。

 

ところが年を重ねるごとに体力が衰えていく呂不韋に比べて趙太后の性欲は衰えず、彼女の相手ができないこと、そして密通がバレてしまえば自らの立場が危うくなることに悩んだ呂不韋は、自分の代わりになる男を探してきて趙太后にあてがおうと考えたのです。

 

そこで目をつけたのが、嫪毐(ろうあい)という食客でした。この男は自分の性器で馬車の車輪をまわせるという特技を持っており、呂不韋は「彼ならば趙太后とお似合いだ」と思いました。

 

当時、太后のいる後宮には女性か男性器を切除した宦官しか立ち入ることができなかったため、経歴を改ざんして宦官だと偽りの記載をしたうえで、嫪毐は後宮に送り込まれました。

 

趙太后は呂不韋の狙い通り、嫪毐に熱を上げ、密通を続けて2人の男児をもうけます。

 

本来、宦官には声が高く体毛が薄いという特徴が見られたそうですが、嫪毐はひげを抜いているだけでこれらの特徴には当てはまりませんでした。

 

そのため、この頃になると流石に「あの人は本当に宦官なのか」と嫪毐を怪しむ人も増えていましたが、趙太后は気にすることなく愛人を寵愛し、大きな権力を与えたとされます。

 

 

嫪毐の乱

 

出典:https://bibi-star.jp/

 

趙太后から権力を与えられた嫪毐は、前238年、嬴政が22歳を迎えたタイミングで反乱を企てます。

 

この「嫪毐の乱」の原因ははっきりしておらず、『史記』では「嬴政に『嫪毐はニセ宦官だ』という告発をした者がいたため」とされており、『説苑』では「嫪毐が酔った勢いで『自分は秦王の後夫だ』と喧伝したことが原因」と記されています。

 

また、趙太后と自分の間に生まれた子どもを王位に就けたかったために、邪魔だった嬴政を殺害しようとしたという説もあるそうです。

 

いずれにしても嬴政を亡き者にしたいと考えた嫪毐は趙太后の玉印を偽造し、嬴政が滞在していた雍城へ軍隊をやり、雍城を攻撃するように差し向けました。

 

しかし下級文官であった嫪毐は軍を動かした経験がなく、すぐさま嬴政の反撃を受けて逃走することに。

 

こうして嫪毐の乱はあっという間に鎮圧され、首謀者の嫪毐は嬴政が破格の懸賞金をかけたおかげですぐに捕縛され、逃亡先から秦へ連れ戻されたといいます。

 

秦へ戻された嫪毐は四肢をそれぞれ馬車に繋いで千切れるまで4方向に引っ張るという残酷な刑、車裂きの刑に処されました。

 

嬴政がこれほど残虐な刑を下した理由は、母を奪われた怒りと悲しみ、そして新たに秦王になった自分の威厳を周囲に見せつけるためだったのではないかと考察されています。

 

その後、嬴政は趙太后と嫪毐の間に生まれた2人の異母兄弟も、袋に入れて殴る蹴るの暴力をくわえるという処刑法で殺害。

 

自分を裏切った母・趙太后も雍城に幽閉し、「太后を非難した者は死刑」という命を出しました。これによって命を落とした者は非常に多かったといいます。

 

後に斉の客人であった茅焦という人物に諭されてこの命を取り消し、幽閉していた趙太后も開放したとされます。ただ、趙太后のその後については文献に記されていないため、どのような最期を迎えたのか不明です。

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始皇帝と歴史⑥ 呂不韋の排除

 

嫪毐が起こした反乱は、彼を後宮に送り込んだ呂不韋にも及びました。嬴政にとってはこれまで自分をお飾りとして傀儡政治を繰り広げてきた呂不韋を、正当な理由のもとに排除できるチャンスが巡ってきたわけです。

 

しかし残酷な刑に処すには呂不韋の功績は大きく、何より自分の父や自分が秦王の座に就けたのも呂不韋がいたからこそです。

 

さらに仲父としての活躍も目覚ましく、嬴政が22歳を迎えるまでに次々に周辺国を陥落させ、楚、魏、趙、韓、衛による合同軍の撃退に成功するなど、多くの戦績をあげていました。

 

そのため嬴政は呂不韋に対しては厳しい刑罰を科さず、相邦の罷免と蟄居のみを命じ、移送先も呂不韋の実家にほど近い河南に指定したとされます。

 

 

呂不韋の最期

 

ところが元商人の性がそうさせるのか、呂不韋は蟄居先の自宅にやってきた食客を以前と同じようにもてなし、「秦王の仲父」として歓待してしまいました。

 

これに怒った嬴政は、たびたび呂不韋に仲父を名乗って食客をもてなすのを止めるように申し入れましたが、呂不韋は態度を改めませんでした。

 

そしてついに怒りを爆発させた嬴政から「何を思って秦王の仲父を名乗るのか。一族郎党そろって蜀に行くがいい」という旨の書状が送り付けられ、呂不韋は蜀へ島流しされることに。

 

出典:https://ja.wikipedia.org/

 

当時の蜀は蛮族が跋扈する未開の地で、島流し先としてはあまりにも危険で、呂不韋にとっては死刑よりも辛い刑でした。

 

そのためショックを受けた呂不韋は、蜀に送られる前に鴆(ちん)という猛毒を持つ鳥の羽毛(鴆が実在したのかは不明。現在では空想上の毒鳥という見方が強い)をつけた酒を飲んで自害したと伝わっています。

 

 

 

始皇帝と歴史⑦ わずか9年で中国全土を統一

 

出典:https://www.smithsonianmag.com/

 

内政の悩みの種であった呂不韋を排した嬴政は、本格的に天下統一に向けて動き出します。

 

ここでは即位から16年、侵攻開始からわずか9年で中国統一を果たし、始皇帝になった嬴政の戦国七雄の侵攻について時系列ごとに大まかに紹介していきます。

 

 

①前230年・韓の滅亡

 

最初に嬴政が滅ぼしたのは、建国以降、秦の驚異にさらされ続け戦国七雄のなかで最弱とされた韓でした。

 

韓は前293年にも魏と組んで秦に戦いを挑んでいましたが、昭襄王に仕えた猛将・白起に敗北。さらに前263年には白起に攻め込まれて北方の上党を失っていました。

 

前237年、嬴政は自らのブレーンであった重臣の李斯の助言に従って最初に韓を攻めることを決めて動き出します。

 

出典:https://hojemacau.com.mo/

 

これに気づいた韓王は、公族の韓非を遣いに出して戦争を回避しようとしました。しかし、李斯の策略によって韓非は投獄されてしまい、前230年に秦は韓への侵攻を開始。

 

内史騰が率いる秦軍はその年のうちに韓王を捕らえて捕虜とし、韓を滅亡させました。

 

 

②前228年・趙の滅亡

 

続いて秦がターゲットに選んだのは趙でした。趙は299年まで在位したとされる武霊王の時代までは強固な国でしたが、彼が亡き後、前260年に起きた長平の戦いでは秦に大敗しており、それ以降は完全に弱体化していました。

 

しかし、趙の最後の砦とされた名将・李牧が秦の前に立ちはだかります。李牧に手こずった秦は趙王を謀って李牧を罷免・処刑するように仕向け、この謀略のおかげで前259年には趙を落とすことに成功。

 

趙に対して幼少期の恨みを持っていた嬴政は、国を滅ぼした後に自ら邯鄲に訪れ、自分と母・趙太后を虐げた者を生き埋めにしたとされます。

 

 

③秦王暗殺計画

 

 

前227年、順調に天下統一を進めていた嬴政を危機が襲います。燕の外交官である荊軻が嬴政の暗殺を図ったのです。

 

暗殺の首謀者となったのは燕の太子、丹でした。嬴政と丹はともに幼少期を人質として趙で過ごした者同士で、辛いときにも励ましあったという旧知の仲でした。

 

しかし、丹が人質として秦に差し出された際、嬴政は旧友とは思えぬほど冷酷な態度を丹にとったとされており、これを恨みに思っていた丹が暗殺を企てたとされています。

 

刺客として秦に送り込まれた荊軻は、謁見の席で袖に隠していた匕首を取り出して、嬴政の袖を掴んで胸を突き刺そうと試みました。ところが嬴政の着物が破れてしまい、暗殺は失敗。

 

怒り狂った嬴政はすぐさま燕の首都・薊に攻め込み、荊軻の血縁をすべて殺害。それでも気が収まらずに薊の住民をすべて殺害したといいます。

 

 

④前225年・魏の滅亡

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前225年、嬴政は王賁に魏を攻めさせ、秦軍は魏王が立てこもっていると見られる大梁を包囲しました。

 

王賁は大梁の城の外を流れる黄河からの灌漑水路を決壊させ、大梁を水攻めにしました。水攻めの後、3ヶ月は持ちこたえたという魏ですが、ついに水没して陥落。またたく間に魏を滅亡に追い込みました。

 

 

⑤前224年・楚の滅亡

 

楚に攻め込む際、まず嬴政は若い李信と蒙恬という2人の将軍に20万の兵を与え、李信らは2手に分かれて侵攻を行うことにしました。

 

しかし、最初こそ優勢であった秦軍ですが強国・楚の奇襲によって大敗。そこで嬴政はすでに一線を退いていた老将・王翦を呼び寄せ、彼が希望した60万という数の兵を与えて再び楚を攻めさせました。

 

結果、王翦は見事に楚を落とすことに成功し、南の大国を滅ぼしたのでした。

 

 

⑥前222年・燕の滅亡

 

前227年の暗殺失敗により、すでに首都を落とされていた燕。楚を滅ぼした王翦はそのまま燕に向かい、燕王が逃れていた遼東に攻め込みました。

 

燕王は嬴政暗殺の首謀者である丹の首級を届けて和睦を求めたとされますが、嬴政はこれを聞き入れず、前222年に燕は滅ぼされました。

 

 

⑦前221年・斉の滅亡

 

戦国七雄のなかで最後に落とされたのが、早くから秦に賄賂を送られて侵略戦争に対して中立的な立場を取り続けていた斉です。

 

嬴政は斉に対しては侵略を行わない予定だったのか、外交で動きを抑えて他の5国と引き離し、秦と和平を結ばせていました。

 

しかし、自国以外の戦国七雄が滅ぼされたことから斉王は危機感に襲われたのか、突然兵を国境の西側に固めて封鎖し、秦との連絡を断ったのです。

 

これを斉の反乱と見た嬴政は怒り、燕に留まっていた王翦と李信に命じて斉を落としました。

 

こうして前230年から前221年のまで9年を費やし、嬴政は39歳でついに中国全土を統一したのです。

 

 

 

始皇帝としての功績

 

 

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始皇帝となった嬴政は、以下のような政策で広大な中国の統一事業を進めたとされます。

 

郡県制の導入

 

国内を36の郡に分け、それぞれの郡に行政担当の守、軍事担当の尉などが置かれ、中央から官吏が派遣される。

 

人事は世襲ではなく、能力を基準に行われるようにしたため、これまでの封建制に比べて反乱が起こりにくいとされた。

 

インフラの統一

 

バラバラに使われていた書体を中国全土で「小篆」に統一。長さ、重さ、容積の基準となる度量衡も統一し、基準となる標準器が配布される。

 

また国内で使用される通貨も円形で中心に四角い穴の空いた半両銭に統一。交通をスムーズにするため、荷車の車輪の大きさ・車軌も統一させた。

 

刀狩り

 

地方の武力と経済力を奪い、反乱の目を潰す目的で刀狩りを実行。没収された武器は鋳潰されて鐘と金人にされた。

 

土木事業

 

経済力を衰えさせる目的で地方に残っていた富豪を首都の咸陽に集め、手狭になった首都を補うために新しい都市をつくるなどした。

 

ほかにも北の匈奴対策としての長城(万里の長城の前身)や、自身の陵墓建設などにも手を付けた。

 

 

巡行

 

出典:https://chinahistory.web.fc2.com/

 

また、始皇帝は在位期間に5度の巡行に出ていました。この巡行の目的は始皇帝の威厳を示すためだったとされますが、一説には不老不死の妙薬を探す目的もあったとも言われています。

 

巡行には天下統一の後に設けられた「馳道」という始皇帝専用の道が使われ、以下のような順番で行われました。

 

・前220年…初回の巡行。隴西〜北地を出て回中を通るルート。このルートで通る場所は秦と縁が深く、祖先に天下統一を報告する目的があったとされている。

 

・前219年…2度目の巡行。東北から郡県をまわって南下するルート。この巡行中に始皇帝は斉の方士である徐福に会いに行き、不老不死の妙薬を探すように指示したという。

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・前218年…3度目の巡行。咸陽から東の之罘に向かい、瑯琊、上党をまわって咸陽に戻るルート。この巡行中、始皇帝一行の馬車に重さ120kgの鉄槌が投げ込まれるという、始皇帝暗殺未遂事件が起きる。

 

・前215年…4度目の巡行。碣石から上郡をまわり、咸陽に戻るという東北を巡るルート。この時も複数の方士に不老不死の妙薬を探すように命じたとされる。

 

・前210年…5度目の巡行。始皇帝、最後の巡行である。2度目の巡行とは逆に左回りのルートを通っており、東南の雲夢から長江を下って丹陽に向かい、そこから銭唐を通って北上。瑯琊から成山に行き、平原津まで来たところで始皇帝は病に倒れたとされる。

 

 

 

始皇帝の死因

 

5度目の巡業中に病に倒れた始皇帝は、前210年9月10日、沙丘平台で崩御しました。享年50歳でした。

 

病名は文献に残されていないため死因は病死だったということしか判明していませんが、平原津で倒れた時にはかなり悪化していた様子で、遺言を残すほどだったと伝わっています。

 

始皇帝が息を引き取った後、家臣である李斯らは崩御によって天下騒乱が起こるのではないかと危惧し、始皇帝の死を隠したまま咸陽に戻りました。

 

道中では、まだ始皇帝は生きていると見せかけるために遺体の乗った馬車に生前と同じように食事を運ばせたほか、腐臭をごまかすために大量の魚を積んだ車を並走させるなどしていたそうです。

 

出典:https://ja.wikipedia.org/

 

なお、始皇帝の死因については不老不死の妙薬を探し続けていたことから、当時は不老不死の薬だと信じられていた猛毒の水銀を飲み、中毒死したのではないかとも考えられています。

 

 

 

始皇帝の家族① 家系図・本当の父親は荘襄王ではない?

 

出典:https://somanystars.net/

 

異母兄弟や異父兄弟もいることから、始皇帝の血縁者をすべて記すと家系図は非常に複雑なものとなってしまいます。

 

そのため、上の画像のように曽祖父の昭襄王から始皇帝までの直系血族のみを記したコンパクトな家系図が多く見られます。

 

さて、このような家系図でも始皇帝の父と書かれていることが圧倒的に多い荘襄王(異人)ですが、始皇帝の本当の父親は呂不韋だという説もあります。

 

この説の裏付けとなっているのが『史記』の「呂不韋列伝」に「異人と結ばれた時、すでに趙姫は他の誰かの子供を妊娠していた」という旨の記述があることです。さらに『漢書』にも始皇帝は「呂不韋の子」と明記されています。

 

ただ、文献という証拠があるものの現在では始皇帝の父親は呂不韋だった、という説は否定的な見方をされています。

 

始皇帝父親が呂不韋だとすると趙姫の妊娠期間が異常に長くなってしまい、現代医学の観点からあり得ないと指摘されているためです。

 

ほかにもの「秦始皇本紀」では打って変わって「始皇帝は荘襄王の子」という旨の記述もあるなど『史記』のなかでも矛盾が見られることから、仲父・呂不韋が本当の父だった可能性は限りなくゼロに近いとされています。

 

 

 

始皇帝の家族② 兄弟

 

始皇帝には多くの異母兄弟がいたとされていますが、名前など詳細はほとんど明らかになっていません。

 

そのなかで同じく荘襄王を父とする弟の成蟜は、個人の情報は少ないながらも前239年に嬴政を殺害しようとしたことから『史記』に名前を残しています。

 

成蟜がなぜ兄を殺害しようとしたのかは謎ですが、前238年に嫪毐の乱が起きていることから嫪毐と成蟜は秘密裏に繋がりがあり、2回の反乱を起こすことで嬴政の政権を揺さぶるつもりだったのではないかとも言われています。

 

また、成蟜に同行していたとされる軍師・樊於期が彼をそそのかして、反乱を起こさせたのではないかとの説もあります。

 

この樊於期という人物は前227年に秦王暗殺事件を起こした燕の荊軻とも通じていたため、成蟜を使って嬴政を殺害しようとしても不思議ではないと考えられているようです。

 

 

始皇帝の家族③ 結婚していた?嫁は誰?

 

『史記』には、「始皇帝崩御の折、後宮にいる后妃で子のない者は殉死させられた」という旨が書かれており、犠牲になった女性が多かったとも記されていることから、少なくない后妃を抱えていたことが窺えます。

 

しかし后妃のなかで正室にあたる人物は誰なのか、名は何というのか等はまったく不明だといいます。

 

 

 

始皇帝の家族④ 子供・子孫

 

出典:http://kkomori.cocolog-nifty.com/

 

始皇帝には20数人の男児がいたといい、崩御した後に二代目皇帝に即位したのは、18番目の男子と見られる胡亥でした。なお、胡亥の母親は誰だったのかも明らかになっておらず、正室の第一子だったのか否かも不明です。

 

二代目皇帝となった胡亥は自分の地位を脅かす皇族や重臣を次々と粛清していったといい、兄弟も大勢処分したとされます。

 

しかし、『秦記』によると胡亥本人も即位した際にわずか12歳だったとされており、実験を握っていたのは彼の教育係の趙高でした。

 

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趙高は始皇帝の重臣であり、胡亥を二代目皇帝に擁立した李斯のことも謀略にかけて処刑し、事実上の独裁者として秦帝国に君臨しました。

 

表向き、胡亥は父の始皇帝陵や阿房宮、万里の長城などの建設を引き継いで行っていましたが、これらの指揮をとっていたのも趙高だったと言われています。

 

 

二代目皇帝・胡亥の最期と秦の衰退

 

大規模工事や匈奴討伐などを目的に強制的に民衆を徴用していたことから、始皇帝時代にはすでに民衆の不満は強くなっていたとされます。

 

それが二代目皇帝の時代になって爆発し、ついに各地で農民による反乱が勃発。前209年に貧民出身の陳勝と呉広が大掛かりな乱を起こしたことを機に、一気に秦帝国に対する反乱が広がっていきました。

 

趙高は、この難局を乗り切るには皇帝の首をすげかえるのが一番の得策だと考え、胡亥の首を差し出して民衆の怒りを抑えようとしました。そして1,000人ほどの兵を引き連れて胡亥のもとに向かい、自決を迫ったといいます。

 

趙高に裏切られた胡亥は死を選び、二代目皇帝を自殺に追い込んだ趙高は自ら三代目皇帝の座に就こうとしました。

 

しかし、人望がなかったためにこれは断念せざるを得ず、趙高は代わりに胡亥の甥の子嬰を三代目皇帝に擁立します。

 

そんななか、項羽と劉邦に率いられた反秦連合によって咸陽が落とされ、秦帝国は始皇帝が天下統一をしてからわずか15年で滅亡することとなるのです。

 

項羽によって子嬰も殺害され、始皇帝の子孫たちも歴史の表舞台から姿を消しました。

 

 

 

始皇帝にまつわる謎や都市伝説① 秦氏は始皇帝の子孫?

 

出典:https://ja.wikipedia.org/

 

日本人のルーツは秦帝国の始皇帝にあるのではないか、という都市伝説があります。

 

突拍子もない説に聞こえますが、この説の根拠とされているのが『日本書紀』に書かれている「弓月君(ゆづきのきみ)が、多数の民族を率いて日本に渡来してきた。これが秦氏の始まり」という旨の記述です。

 

この弓月君という一族が秦の始皇帝の血を引いているという伝承があることから、謎の多い古代の帰化氏族・秦氏は始皇帝の末裔であり、日本人にも始皇帝の血が流れているのではないかとの説がうまれた様子です。

 

 

 

始皇帝にまつわる謎や都市伝説② 始皇帝は残虐な暴君だった?

 

出典:https://ja.wikipedia.org/

 

500年を超す春秋戦国時代を終わらせ、天下統一という偉業を成し遂げた始皇帝。しかし、近年まで彼の人となりに対する評価は芳しいものではありませんでした。

 

なかでも良く言われているのが「始皇帝は冷酷非道な暴君」という評価です。これは主に『史記』のなかの以下の記述と、彼の行ったある政策が原因ではないかと考えられています。

 

尉繚による始皇帝の人物像

 

蜂のようにとがった鼻と切れ長の目、ワシのような胸、山狗のような声、虎狼の心を持つ。

 

方士の盧生と候生による始皇帝の気質

 

生まれついての傲岸さと独断。始皇帝は古来より自分に及ぶ者はいないと思いあがっている。

 

これを見ると、家臣からは慕われておらず、恐怖政治で従わせていたのだろうかという印象を持ちますが、現在の研究結果では尉繚は始皇帝よりも100年前に生まれた人物の可能性が高く、2人は同時代に存在し得ないと指摘されています。

 

また、盧生と候生の発言についても「始皇帝」という本人の崩御後に使われるようになった呼び名を使用していることから、本当に2人がこのような話をしたのか、捏造ではないのかとの指摘がされているそうです。

 

また、始皇帝を在位中に詩経、尚書、諸子百家の書を読むことを禁じ、これらの書物を燃やす焚書を行ったこと、さらに儒家を生き埋めにする坑儒をしたことから、思想弾圧をした暴君とも言われています。

 

しかし、始皇帝地震も孔子の教えを引用した碑文を書いており、決して反儒教という考えではなかったことが窺えます。

 

焚書令が布かれた時期には匈奴との戦争を開始した時期と重なるため、戦争に向けて国民の心を1つにするため、政治批判が起きないように焚書を命じたのではないかともされており、焚書という行為そのものは評価できないものの、心情は理解できるというのは現在の評価のようです。

 

焚書令が布かれた1年後に行われた坑儒についても、460人あまりの学者を生き埋めにしたと伝わっていますが、その理由を「妖言をもって人心を不安にさせる者がいる」としていることから、やはり戦争という非常事態に国民の心を惑わす人間を粛清したかっただけなのではないかともされています。

 

坑儒も残酷極まりない処刑方法なのですが、始皇帝は苛烈な性格ではあるものの、これまでに言われていたような「冷酷無比」「気分で人を殺す暴君」ではないのかもしれません。

 

 

 

始皇帝にまつわる謎や都市伝説③ 始皇帝の墓を暴くと災いがある?

 

出典:http://www.cnta-osaka.jp/

 

中国陝西省西安に位置する驪山の北側にある始皇帝陵。始皇帝は生前から自分が入る予定の巨大な陵墓を造営しており、崩御した2ヶ月後に始皇帝陵へと埋葬されたといいます。

 

この始皇帝陵は1974年3月に、井戸掘りの農民が近くで兵馬俑を見つけたことを機に発見され、世界中に存在が知られるようになりました。

 

しかし、発見から50年近くが建っても始皇帝陵の発掘調査は行われていません。

 

考古学的には新発見の宝庫とされる始皇帝陵の調査が一向に進まない理由については、墓荒らしを防ぐ目的で危険な仕掛けがされているため、始皇帝陵は掘り返しが不可能なのではないかと言われています。

 

ともに見つかった兵馬俑と違い、始皇帝の墓は深さが30mもあり、明らかに盗掘を拒むようなつくりになっています。

 

さらに墓に到達するまでには水銀の海があると言い伝えられてきたのですが、発見後の調査で始皇帝陵付近の地中で検出された水銀量は自然界の100倍にまで及んだと報告されたことから、この伝承が事実に近いことが明らかになりました。

 

これは自らの墓を荒らされないために始皇帝が施した仕掛けと考えられており、始皇帝陵は今後も決して発掘されず、全貌が明らかになることはないかもしれないと言われています。

 

また中国政府も「過去の地震や水害の影響で、始皇帝陵の構造は脆くなっている恐れがある。発掘による事故や、陵墓そのものの倒壊を防ぐためにも、このまま保存する」という意向を発表しています。

 

 

 

始皇帝についてのまとめ

 

今回は史上初めて中国全土統一を成し遂げた秦帝国の始皇帝・嬴政について、生まれや歩んだ歴史、戦歴、崩御後の子孫をふくめて紹介しました。

 

漫画『キングダム』のヒットによって、始皇帝はこれまでの残酷な暴君というイメージを脱し、苦境から這い上がって天下統一を成し遂げた不屈の英雄という印象が定着したと言われています。

 

始皇帝に興味を持つ人が増えれば、まだ謎が多いとされる彼やその周囲の人々についても盛んに議論がされ、新しい見解が生まれるかもしれませんね。

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