えたひにん(差別用語)の地域と苗字一覧!現在は教科書から消えた真相・芸能人やアイドルとの関連もまとめ

江戸時代に採用された身分制度の最下層として、歴史で習う「えたひにん」という単語。

 

この記事では、えたひにんの意味や現在は教科書から消えたという噂、多い苗字や被差別地域一覧、芸能人との関係、この言葉が原因で炎上したアイドルについても紹介します。

「えたひにん」の意味・身分の違い

 

えたひにんは、「えた」と「ひにん」という2つの身分をあわせた言葉です。

 

「えた」は漢字で「穢多」と書き、神道における「穢れ」が多い仕事に就く人々を指します。江戸時代の身分制度で創設された被差別階級と思われがちですが、「えた」という身分は平安時代には存在していました。

 

出典:https://ja.wikipedia.org/

 

日本では人徳天皇の代から、天皇や貴族が鷹狩をすることが習わしとされてきました。鷹狩をするためには当然ながら鷹が必要であり、鷹に与える餌を用意する人間も必要となります。そこで創設されたのが「えた」だとされています。

 

猛禽類の鷹が食べるのは獣肉。仏教には殺生禁止の教えがあることから、天皇の鷹を世話するための職業とはいえ、屠殺をおこなう者は穢れていると見なされてしまい「えとり(餌取り)」が転じて「えた」と呼ばれ、蔑視されるようになったのです。

 

平安中期に編纂された『延喜式』でも、すでに「穢れが及ぶため、穢多は下鴨神社の近くに住んではならない」という記述が見られます。

 

そして時代が下って江戸時代になると、「えた」と呼ばれる人々は獣皮の加工や革製品の製造、牛馬の死体の処分、刑吏官、草履・雪駄作りなどの職業を担うようになりました。

 

しかし、血を穢れとして扱う神道の考えからも見ても、殺生を悪とする仏教の考えから見ても、獣皮の加工や刑吏(現在で言う刑務官。主に死刑など刑罰の執行を担っていた)の仕事に従事する「えた」は差別と恐怖の対象だったとされています。

 

一方、「ひにん」は「非人」と漢字で書き、罪人や親族から勘当された者、伝染病患者など主に物乞いで生計を立てる人々を指す言葉でした。

 

出典:https://ja.wikipedia.org/

 

平安時代には囚人の世話や病人、障がい者の世話、井戸掘り、死者の埋葬など、「えた」同様に町民が嫌がるような仕事を引き受けていました。また「ひにん」のなかには、「河原者」と呼ばれ芸能関係の仕事に従事する者もありました。

 

この2つの被差別階級をあわせて「えたひにん」と呼ぶのですが、「えた」は身分を変えることができないものの、「ひにん」は身元引受人の有無などで元の身分に戻れる、被差別階級から脱することができるという明確な違いがあります。

 

 

 

「えたひにん」の現在は教科書から消えた?

 

出典:https://nihonsi-jiten.com/

 

現在30代以上の人のなかには、中学校の歴史の授業などで「えたひにん」について以下のように習った方も多いのではないでしょうか。

 

江戸時代には「士農工商」という厳格な身分があり、身分制度の下層にいた町人たちの不満のはけ口として「えたひにん」という被差別身分を置いた。また、農民は年貢の取り立てが過酷であったことから、形だけでも労をねぎらい、持て囃すために武士の下の階級とした。

 

実はこの記述については1990年代後半に出版された歴史の教科書から変更がくわえられ、2000年以降に出版された教科書からは「江戸時代の主要な身分は武士、百姓、町人という3つにわけられる」というザックリとした説明に変わっています。

 

河合敦氏や上杉聰氏らの歴史研究家によると、もともと「士農工商」も日本の身分制度を指す言葉ではなく、古代中国で使われていた言葉で、意味としては「皇帝以外の人々」程度のものだったそうです。

 

さらに百姓、町民という身分も職業ではなく、百姓は村に住む人、町人は城下町などの町に住めば職業に関係なくそう呼ばれていたとされます。

 

では「えたひにん」についてはどう説明されているのかというと、「武士、百姓、町人のほかにえた身分、ひにん身分と呼ばれる人々もいた」という程度に書かれており、「庶民の鬱憤晴らしのために置かれていた」という記載は消えているのです。

 

「えた身分、ひにん身分の人々は職業や居住地などを制限されていた」など、差別が存在した旨はしっかりと書かれていますが、かつての教科書のように平民の奴隷的な存在とも受け取れる記述ではなくなっています。

 

また「江戸幕府が、えた身分、ひにん身分を置いた」という昔の教科書にあった記載も消えています。

 

前述のように「えたひにん」という蔑称が平安時代から存在していたこと、えた身分、ひにん身分の人が江戸幕府のある関東よりも関西に多く居住していたことから「幕府が置いた」という説は否定されるようになったそうです。

 

 

 

「えたひにん」が受けた差別

 

皮の加工や牛馬の死体の処分など、においのきつい仕事をしていたこともあり、「えた」は川のそばなど集落から離れた場所に住んでいることが多かったといいます。

 

また「えたひにん」は死体や血に関わっていたために不吉な存在として、遠ざけられていました。そのため彼らが住んでいる場所は塀や垣で閉ざされていることもあり、武士はもちろんのこと普通の町人や村人の家にも上がれなかったそうです。

 

穢れた存在と見なされていた「えたひにん」は神社仏閣への参拝も禁止されており、他の身分の人々と飲食をともにすることも禁じられていました。「えたひにん」と飲食をすると穢れが移ると考えられていたのです。

 

 

「えたひにん」は一般的に貧しかったとされていますが、江戸時代に「えたひにん」の頭領として江戸幕府からさまざまな権限を与えられた弾左衛門のように、皮革産業で財を成して豊かな生活をしていた者もいます。

 

しかし、そのように幕府から権限を与えられた者であっても町人や村人と交流することは許されておらず、差別の対象だったといいます。

 

 

 

「えたひにん」は差別用語?

 

「穢多(えた)」「非人(ひにん)」「特殊部落」などの、日本の中世で差別的に使われていた言葉は現在でも差別用語とされています。

 

そのため個人や集団に対して使用すれば、名誉毀損罪などで訴えられるおそれもあります。

 

教科書にも掲載されている言葉ですから歴史用語として使用するぶんには問題はありませんが、誰かを貶めるため、または被差別部落出身の人を揶揄する目的などで使用することは固く禁じられているのです。

 

 

 

「えたひにん」が住んでいた地域

 

明治時代に入り、明治政府が賤民制度を廃止する解放令を発令したために「えたひにん」という身分はなくなりました。

 

そして「えたひにん」が住んでいたとされる地域は被差別部落、同和地区と呼ばれるようになります。

 

江戸時代まではほかの身分の人と関わることを禁じられていたため、「えたひにん」は近親者で子孫を残しており、被差別部落の住民は同じ血筋で固定されていると考えられることもあるようです。

 

しかし実際には解放令以降、「えたひにん」のなかでも財産を持っていた人々は故郷を出て行き、逆に貧しい人々が被差別部落に流入するようになったとされています。

 

そのため現在、被差別部落、同和地区と呼ばれる場所に住んでいる人々も全員が全員、「えたひにん」を先祖に持つわけではありません。

 

また在日韓国・朝鮮人が占拠している地域や、彼らが多く居住する地域(京都のウトロ地区や大阪の生野区)と被差別部落が混同されることもありますが、戦後に発生した前者と、中世から存在した後者はまったく別の問題です。

 

このことを踏まえたうえで、かつて「えたひにん」の集落があったことを自治体が公表している地域を紹介していきます。

 

 

①京都・崇仁地区

 

 

JR京都駅の東側に広がる崇仁地区は、全国でも最大規模の被差別部落とされた地域です。

 

16世紀前半、室町時代の頃に六条河原に処刑場が設けられ、河原者(鴨川に住んでいた物乞い)が刑務に就いたことが、一帯が被差別部落になったきっかけとされています。

 

その後、河原者は六条河原で牛や馬の皮をなめす仕事も始め、鴨川の西岸の河原地に「六条村」という自分たちの集落を作りました。戦国時代に入ると武具など皮革製品の需要はいっそう高まり、六条村は拡大していきます。

 

豊臣秀吉が京都の支配者になると、刑務や皮革製造に従事するものは「皮多(かわた)」と呼ばれるようになり、皮革上納や警刑吏役に就くかわりに年貢を納めずに自分たちの村に居住する権利を与えられました。

 

そして江戸時代に入ると京都市東山にあった妙法院の依頼を受けて、六条村は七条通りの南にあった柳原庄に移転します。この頃には六条村の人々は「えたひにん」という身分で呼ばれるようになっていました。

 

その後も六条村の人口は増え続け、村の権力者である年寄たちは奉行所に願い出て、七条高瀬川ぎわの土地に新しい村を開く許可を得ます。この土地は、かつて寛永通宝の鋳造のおこなわれており、その影響で銅気が多く耕作ができない地になってしまったことから捨て置かれていました。

 

新しく開拓された村は銭座跡村と呼ばれ、現在の崇仁地区南部にあたります。

 

明治時代に入って解放令が出た後も差別は色濃く残り、かつての六条村・銭座跡村に居住していた人々は既存の銀行を使うことが許されなかったため、柳原銀行という独自の銀行を設置。この銀行の建物は現在も史跡として保存されています。

 

出典:http://suujin.org/

 

その後、七条の人口が過密になったために、かつて「えたひにん」と呼ばれた人達は東九条に移住を始め、続いて日韓合併を受けて朝鮮半島から渡来した人々もその周辺に住まうようになりました。

 

この両者の関係は決して良好ではなく、一時期は環境や治安の悪さが危惧された崇仁地区ですが、現在では京都市立芸術大学の誘致など再開発が盛んにおこなわれています。

 

 

 

②滋賀・近江八幡市

 

 

滋賀県の近江八幡市は、行政が『近江八幡の部落史』『近江八幡の部落史―くらしとしごと』など、被差別部落であった歴史をまとめた書籍を出版している自治体です。

 

とくに八幡市末広町は滋賀県最大の被差別部落として知られており、もともとは皮革産業が盛んな土地だったといいます。

 

江戸時代に入って皮革の需要が減ってくると薗畑村(現在の御園町)から食肉生産の権利を譲り受けて、「食肉の村」として知られるようになったそうです。これにより、末広町に居住する「えたひにん」身分の人々の仕事も、皮革製造から食肉生産に切り替わっていきました。

 

現在も近江八幡市内、とくに末広町周辺では精肉店が多く見られます。しかし、精肉店を経営している方々が、必ずしも祖先に「えたひにん」の家系というわけではありません。

 

『近江八幡の部落史―くらしとしごと』には、「役場の職員の月給が5,200円だった時代に肉職人の月収は25,000円ほどだった」という旨の記載があり、一攫千金を狙った若者が精肉業に就くことも多かったそうです。

 

なお、近江八幡市はすでに同和行政を終わらせています。

 

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③大阪・大阪市中津

 

 

現在は開放されていますが、大阪市中津も被差別部落であった場所です。

 

この土地にはかつて旧淀川の支流である中津川が流れており、あまりに洪水が多かったことから明治時代に改修工事がおこなわれたとされ、中津川は新淀川の河川敷などに姿を変えました。

 

江戸時代、まだ中津川が存在していた頃にはこの川の左岸に西成郡光立寺村という集落があり、そこには「皮多村」という「えたひにん」が住む地域があったことが、絵地図に記されています。

 

出典:https://livedoor.blogimg.jp/

 

大正時代に光立寺村を含む中津一帯が大阪市に編入したのを機に、光立寺村は中津本町と改称しており、現在は皮多村はもちろん光立寺村という地名も消滅しています。

 

なお、中津地区は1953年に大阪市同和事業促進協議会が発足した際、いち早く加入を表明しており、当時の発表では中津浜通2 、3丁目の一部に131世帯、590名の被差別民が居住しているとされていました。

 

 

 

「えたひにん」が住んでいた地域一覧が存在する?

 

 

崇仁地区のように、自治体が「土地の歴史」として被差別部落であったことを公表しているケースは非常に少ないとされています。そのため、現在では「自分が住んでいた場所は被差別部落だったのだろうか?」と疑問に感じても、調べる方法はないと思ったほうがようでしょう。

 

かつては中央融和事業協会という社会事業団体が『全国部落調査』という被差別部落の情報を集めた書籍を発行しており、興信所などが「子どもの結婚相手が部落出身者ではないか調べてほしい」「採用予定の学生が部落出身者ではないか確かめたい」といった依頼で使用していたといいます。

 

しかし、この『全国部落調査』は差別を助長するおそれがあるのはもちろんのこと、情報の出どころが不明瞭であり、大阪市立大学名誉教授の野口道彦氏からも「地名の間違いが多く、信憑性も低い」とも指摘されていました。

 

この『全国部落調査』が発行されたのは1936年のことなのですが、1975年に入ると同様に被差別部落の一覧を掲載した書籍が複数発行され、「部落地名総鑑事件」として取り沙汰されました。

 

『全国特殊部落リスト』『特別調査報告書』『同和地区地名総覧』などの名称で販売されたこれらの書籍は、書店ではなく売り込みチラシなどで受注をおこなっていたとされ、社員の素性を秘密裏に調査する目的などで、主に企業が購入していたとされます。

 

また、これらの書籍の発行元は架空の団体であり、労働問題研究所発行、サンライズ・リサーチセンター発行などとそれらしい団体名が著者として記されていましたが、いずれも活動実績はありませんでした。

 

それからさらに時代が下って2016年にも、示現舎合同会社が『全国部落調査』の復刻版を販売する旨を予告し、Amazonで予約を募るという騒動が起きました。

 

復刻版の販売は人権侵害に当たるとして、販売前に東京法務局長が出版の差止めを説示したところ、示現舎合同会社は『全国部落調査』の内容をPDFデータで拡散。

 

最終的には部落解放同盟を原告とした訴訟に発展して、2021年9月27日、東京地方裁判所から『全国部落調査』復刻版の出版・公開の差し止めが言い渡されました。

 

これらの件からもわかるように、自分や他人が住んでいる地域が「えたひにん」の人々と関係のある場所なのか否かを調べることは、現在ではほぼ不可能となっています。

 

また、不動産業界でも事故物件の告知とは違い「この土地は非差別部落だった」「周辺には在日外国人が多い」といったような、差別や人権侵害につながる情報は一切口にできない決まりになっているそうです。

 

 

 

「えたひにん」に多い苗字はある?

 

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日本における苗字の歴史は平安時代後期にまで遡るといわれ、もとは貴族たちがお互いを呼び合うために作られたとされます。

 

その後、庶民の間にも苗字は浸透していきましたが、江戸時代に入ると苗字帯刀は武士などの特権階級にのみ許されるものとなり、町人であろうと百姓であろうと「えたひにん」であろうと、庶民は一律に苗字を名乗れなくなりました。

 

再び庶民が苗字を得るのは、明治に入ってからです。1875年(明治8年)2月13日に「平民苗字必称義務令」が発令されて、今度は苗字を名乗ることが義務となります。

 

この時に、人々は以下のような理由で苗字を決めていたとされます。

 

・自分が住んでいた場所にちなんだ苗字→山の麓に住んでいたから「山口」など

 

・自分が住んでいた場所の方角にちなんだ苗字→村の西に住んでいたから「西村」など

 

・自分の職業にちなんだ苗字→営んでいた店の屋号から「加賀屋」など

 

・地元の有力者や寺の住職にもらった苗字を名乗る

 

また、地域での連帯感を出すために血縁者ではなくても同じ苗字を名乗る人々も少なくなかったといいます。

 

このような苗字の由来から考えて、「えたひにん」の身分の人々は牛馬の死骸処理や皮革製造の職に就いていたこと、また血を洗い流すことができるなどの理由から川沿いに住んでいたことから、「皮」「革」「馬」「牛」「川」「河」などの漢字がつく苗字を名乗ったのではないか?とも考えられています。

 

出典:https://ja.wikipedia.org/

 

実際に落語家の初代 ・桂 春団治は、本名が「皮田藤吉」で、先祖は革製品の加工を生業にする被差別民だったことを公表しています。そのため苗字にこれらの字が使われていて、先祖に被差別民がいるというケースもあるのでしょう。

 

また「皮田」という苗字は珍しく、詮索を受けてしまうおそれがあるためか、祖父母の代までは「皮田(かわだ)」と名乗っていたのが、父母の代から「川田(かわだ)」と漢字を変えているという場合もあるようです。

 

なお、先祖に「えたひにん」の身分の人がいる血筋に多いのではないか?と言われている苗字はありますが、もちろんその苗字の人の祖先が全員、被差別民だったとは限りません。

 

仮に祖先が被差別民だったとしてもその人個人には責任も関係もないことですから、「苗字に○という字がついているから、『えたひにん』だ!」などという発言は決してしないでくださいね。

 

 

 

「えたひにん」を先祖に持つと公表している芸能人・有名人

 

出生地が非差別部落と噂されている場所に近かったり、経歴が明かされていないなどの理由から「もしかしたら、部落出身者なのではないか?」と囁かれている芸能人は少なくありません。

 

ここでは、当の本人が「先祖に被差別民がいた」と自分のルーツを明かしている芸能人、有名人の方々について紹介していきます。

 

 

 

①三國連太郎

 

出典:https://www.kosho.or.jp/

 

2013年に急性呼吸不全で急逝した、昭和を代表する名優・三國連太郎さん。彫りの深い日本人離れした顔立ちから、若い頃は「ハーフなのではないか?」と囁かれた三國連太郎さんですが、生前に非差別部落出身であることを公表していました。

 

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といっても、三國連太郎さん自身の血縁者に被差別民がいたわけではなく、養父が被差別民の血を引いていたそうです。

 

三國連太郎さんの母親は若くして一家離散の憂き目にあい、それから1人で広島にやってきて海軍将校の家で住み込みの女中をしていたといいます。しかし、妊娠をしたことでこの家を追い出されてしまい、途方に暮れていたところでとある男性と出会い、結婚をして群馬県太田市内で暮らすことになります。

 

この男性こそが三國連太郎さんの養父であり、彼は三國連太郎さんのことを実の子と思って大切に育て上げたそうです。

 

出会った時には身重だった母の人生を引き受け、自分にも愛情を注いでくれた養父のことを三國連太郎さんも尊敬し、慕っていたといいます。

 

俳優として大成してからも「父を尊敬している」と公言しており、差別問題に関する講演会にも参加していました。

 

なお、三國連太郎さんの実子といえば同じく人気俳優の佐藤浩市さんですが、三國さんの養父が非差別部落出身であっただけですので、佐藤浩市さんと被差別部落の間には関係はありません。

 

三國連太郎さんが差別問題に取り組んでいたこともあり「佐藤浩市さんにも被差別民の血が流れている」と噂されることがあるようですが、これは誤解です。

 

 

 

②野中広務

 

出典:https://ja.wikipedia.org/

 

小渕内閣の官房長官、自民党幹事長などを歴任し、一時は総理就任も噂されていた政界のドン・野中広務氏も、自身が京都の被差別部落出身であることを公表していました。

 

野中広務氏が幼少期を過ごした京都府の旧園部町は在日韓国朝鮮人の労働者も多く、野中氏の実家ではあまりの過酷さから逃げ出してきた人々を匿っていたとの話もあります。

 

また、戦災孤児も多い地域だったため野中広務氏の父親は保護司として身寄りのない子どもたちが道を踏み外さないよう、支え続けていたのだそうです。

 

京都府議会議員、京都府副知事を務めていた時代から自分の出自を明かしていた野中広務氏ですが、部落解放同盟を票田にしていたわけではなく、同和団体とは距離を置いていました。

 

過去には部落解放同盟の幹部に対して「差別をダシに利権をあさり、被差別部落を票田にする人間を私は軽蔑している」「そのような活動をすれば人々の部落に対する目は冷たくなり、差別は再生産される」と語ったとの話もあります。

 

 

 

③村崎太郎

 

 

「日光さる軍団」を主催する猿まわし師の村崎太郎さんも、2008年に被差別部落出身であることを明かしています。

 

山口県光市で育ったという村崎太郎さんは、父親が部落解放同盟の活動家で、全国部落解放運動連絡会・山口県本部副委員長を務め、叔父も全国部落解放運動連絡会・中央副委員長を務める団体の実力者だったそうです。

 

村崎太郎さんによると猿回しという演芸は被差別部落でうまれた文化で、同郷の知人からは「猿回しを仕事にするなんて『わたしは部落民です』と言ってまわるようなものだ」と批難されたこともあったといいます。

 

村崎太郎さんが部落出身だと公表するきっかけとなったのは、前の奥様である栗原美和子さんとの出会いであり、フジテレビのプロデューサーであった栗原美和子さんが、村崎さんの半生をドラマにしたいという企画を立ち上げたことから2人は親しくなりました。

 

そして栗原美和子さんの著書『太郎が恋をする頃までには…』と、村崎太郎さんの著書『ボロを着た王子様』で、村崎さんが部落出身であることをカミングアウトするのですが、本の出版後も周囲は腫れ物に触るような扱いで、部落や差別については誰も聞いてこなかったそうです。

 

その後、「部落出身者に出自を後ろめたく思ってほしくない」「アンタッチャブルな話題だと思ってほしくない」という一心で、村崎太郎さんは日本全国を回る旅に出て、ハンセン病療養所や児童養護施設などを巡っているといいます。

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④上原善広

 

 

『日本の路地を旅する』『一投に賭ける』などの著作で知られるノンフィクション作家の上原善広氏も、大阪府松原市の被差別部落出身であることを公表しています。

 

上原善広氏の父親は精肉店を経営しており、部落解放同盟にも所属していたといいます。少年時代に両親が離婚して生活を転々としたこと、さらには兄が自分の同級生にわいせつ行為をして学校に行きづらくなったことなどが原因で、中学生時の上原善広氏はシンナーに手を出すなどして非行に走ったそうです。

 

しかし、担任教師の励ましがあって立ち直り、それからはスポーツ推薦で大学進学、中学の非常勤講師を経て作家デビューを果たしています。

 

また差別や部落についても高校時代から研究を続けており、2016年に前述の『全国部落調査』復刻版の発刊騒動が起きた際には「出版していいと思います。私達は穢多であることを誇るべきだ。故郷を隠す必要はない」と独自の見解を述べました。

 

 

 

「えたひにん」発言でアイドルが炎上?

 

 

2021年1月、アイドルグループ「たこやきレインボー(通称・たこ虹)」の元メンバーである春名真依さんが、グループのYouTube ライブ「たこ虹の家にいるTVリターンズ#26」にて「えたひにん」という発言をして炎上騒ぎになりました。

 

春名真依さんは特定の人を貶めようとして「えたひにん」と言ったわけではなく、餓鬼のフィギュアの説明をする時に魑魅魍魎という言葉と混同して「えたひにんみたいな〜」と、言ってしまっただけです。

 

差別的な意図はなく、本人も「私の無知により、ご不快な思いをさせてしまい申し訳ございませんでした」と謝罪をしましたが、事態を重く見た所属事務所は彼女の活動自粛を決断。

 

ネット上では「悪意があったわけじゃないんだし、番組中に謝るだけで良かったんじゃないかな」「繊細な問題だから事務所も慎重になるんだろうけど、流石にかわいそう。引退だけはさせないでね」等の声が寄せられました。なお、春名真依さんは2022年3月には芸能活動を再開しています。

 

 

 

「えたひにん」についてのまとめ

 

今回は日本の中世に作られた身分「えたひにん」の意味や現在の教科書ではどのように説明されれいるのか、「えたひにん」が住んでいたとされる被差別部落などについて紹介いたしました。

 

差別用語でもあるため「えたひにん」という言葉や被差別部落は触れてはいけない問題、関係のない人間はコメントしてはいけない問題という印象も根強くあります。歴史や道徳の教科書でも、あまり深くは触れていませんでしたよね。

 

しかし、実際に日本に存在した差別です。利権も絡んでいるので難しい問題ではありますが、正しく理解しようと向き合う姿勢は忘れずにいたいです。

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