日独伊の枢軸国陣営と連合国陣営の間で、約6年に渡って行われた第二次世界大戦。死者総数8000万とされる第二次世界大戦のきっかけや原因、 日本が参戦した理由をわかりやすく説明し、年表、株価への影響、終戦後の敗戦国の処理も紹介していきます。
この記事の目次
第二次世界大戦の概要
第二次世界大戦はドイツ、イタリア、日本の枢軸国と、アメリカ、ソ連、イギリス、フランス、中国などからなる連合国との間に生じた世界規模の戦争です。
きっかけとなったのは、1939年9月にドイツがポーランドに攻め込んだことでした。宣戦布告もなしにポーランドに侵攻したドイツに対して、イギリスとフランスが宣戦布告し、第二次世界大戦が開戦。
ここに当時、国力の増大を図って植民地を増やしたいと考えた日本とイタリアが参戦したのです。
1941年12月には日本が真珠湾攻撃を行い、アメリカとイギリスに対して宣戦布告したことで太平洋戦争も勃発。
こうしてヨーロッパ、北アフリカ、西アジアの一帯、東アジア、東南アジア、北アメリカ、オセアニア、インド洋、東南アフリカ、太平洋という広大な地を戦域とする世界規模の戦争が繰り広げられていきました。
なお、枢軸国対連合国軍の戦いといっても、双方の勢力が一箇所に集まって何度も戦闘を繰り広げていたわけではありません。とくに枢軸国陣営はそれぞれの国が自分の利益を求めて、世界のあちこちで同時多発的に紛争や侵攻を起こしていました。
そのため第二次世界大戦は主にドイツ軍の侵攻によるヨーロッパ戦線と、日本軍の東南アジア南進と対アメリカ戦による東アジア・太平洋戦線に大別されます。
戦争は1939年9月1日から、日本が無条件降伏するまでの1945年8月15日まで、およそ6年に渡って続き、最終的には連合国軍の勝利で幕を閉じました。
しかし連合国軍、枢軸国軍ともに過去に例を見ないほどの被害を出しており、現在に至るまで第二次世界大戦は人類史上最大の死傷者を出した戦争とされています。
第二次世界大戦勃発のきっかけと原因・開戰までの流れをわかりやすく解説
第二次世界大戦が勃発した原因は、さきがけて発生した第一次世界大戦にあります。
第一次世界大戦後の世界の流れを追いつつ、なぜ第二次世界大戦が発生したのかわかりやすく開設していきます。
大国の分裂
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1914年7月28日から1918年11月11日にかけて行われた第一次世界大戦は、大まかにドイツ帝国、オスマン帝国、ハンガリー帝国の三国同盟と、ロシア、フランス、イギリスの三国協商の間での争いでした。
この対戦で敗戦国となったのはドイツ帝国、オスマン帝国、オーストリア=ハンガリー帝国の三国同盟で、とくにドイツは敗戦国として約200兆円、大幅な領土分割という多大な賠償を負うことになります。
オーストリア=ハンガリー帝国はオーストリア、ハンガリー、チェコスロバキアなど民族ごとに国が分割されることになり、同様にオスマン帝国もトルコ、シリアなどに分裂し、国力も分散されました。
一方、第一次世界大戦で勝利を収めた国々にも戦争の被害は色濃く残りました。なかでもロシアの被った被害は甚大で、ドイツ軍の侵攻で戦死者が多く出ただけではなく、経済的な打撃も受けたことから民衆によるデモがあちこちで勃発。
勝戦国であったにもかかわらず国内で社会主義思想が急速に発達した影響により、ロシア帝国は崩壊してしまいました。
そしてソビエト連邦が誕生し、同時にロシア帝国の領土であったポーランド、バルト三国、フィンランドが独立することとなります。
アメリカの台頭
第一次世界大戦後のドイツは莫大な賠償金の支払いにくわえて、戦後の物資不足が原因で欧州全土に巻き起こったハイパーインフレの煽りを受け、大幅に景気が落ち込んでいました。ドイツ通貨のマルクの価値も、戦前の1兆分の1にまで価値が下落したとされます。
こうなるとドイツ国内での社会的不安も極めて大きくなり、アメリカやイギリスなどの列強も自分たちが援助をしないとドイツは崩壊してしまうのではないかと危機感を覚えました。
そしてアメリカがドイツに金銭的な援助を行い、これをもとにドイツが経済の建て直しを図り、戦勝国への賠償金を支払うようになります。
さらに第一次世界大戦中にフランスやイギリスはアメリカから援助を受けており、ドイツの賠償金から返済を受けるなどしたアメリカは、急激に経済力をつけ、世界を代表する経済大国にまで成長したのです。
同時にアメリカ大統領のトーマス・ウッドロウ・ウィルソンの呼びかけで国際連盟も設立され、しばらくの間は世界的に軍備縮小、国際協調が主流となりました。
世界恐慌
しかし1929年に入ると世界恐慌が起こり、世界は大混乱に陥ります。
世界恐慌の原因は、戦後の好景気に沸き立つアメリカで、設備や資本への過剰な投資が行われたことです。第一次世界大戦後のアメリカでは供給が需要を上回る生産過多の状態が続き、過剰な投資によって株価も上昇の一途をたどりました。
この状況を見てウォール街の投資家たちが「過剰生産で投資した資金が回収できなくなるのではないか」と危機感を覚え、一斉に所持していた株を売り払ったために1929年10月にアメリカ国内で株価の大暴落が起きたのです。
連動して取り付け騒ぎが起きたことで、銀行も倒産。次いで多数の工場や会社が倒産し、街には失業者が溢れかえるようになりました。
前述のようにこの頃のアメリカは既に世界を代表する経済大国になっており、世界最大の債権国でした。
そのためアメリカを襲った経済恐慌は他の国々にとっても対岸の火事ではなく、主要国は自国の経済を守るために輸入品に高関税をかけるなどして保護貿易主義に転じます。
こうして各国で関税が上がったことで貿易は停滞し、世界恐慌がはじまったのでした。なお世界恐慌時に主要国がとった対応は、以下のとおりです。
アメリカ
セオドア・ルーズベルト大統領によりニューディール政策が実施され、政府が積極的に経済介入することで景気回復を図った。
イギリス
植民地や友好国との経済協力を強化する「ブロック経済」の導入。
フランス
イギリス同様に植民地や友好国との経済連携を図る。
ドイツ
第一次世界大戦後の賠償金支払いも済んでおらず、経済の建て直しも不完全だった最中に世界恐慌が起きたために、国内は大混乱に陥る。そして混乱に乗じてアドルフ・ヒトラー率いるナチス政権が台頭。
イタリア
1921年に成立したベニート・ムッソリーニ率いるファシスト党が、対外侵略の政策を強化。
日本
1927年の金融恐慌の打撃から立ち直る前に世界恐慌が発生したことで、経済、社会ともに混乱を極める。そんな折に政府が打ち出したのは、中国大陸での支配権を拡大することで経済成長を図る計画だった。
ナチスとファシズム
世界恐慌時の対応で、とくに目立つのがドイツとイタリアです。他の国々とは違い、この2国では世界恐慌を機に極端な国家主義思想を展開する政党が実権を握ったのでした。
まずドイツのナチス政権は国家全体を同一化し、自らが認める「ドイツ人」の基準から外れるものは尽く排除していきました。
また大規模な軍備拡大を行い、徴兵制度によって失業者を減らしました。こうしたヒトラーの政策により、債務も膨れ上がったもののドイツ国内の経済は回復を見せます。
戦争にも負け、戦後も不景気でパン一切れさえ手に入れるのが困難であったドイツ国民は、景気を改善したナチスを支持するようになります。
また戦勝国でありながら狙っていた領土が手に入らず、戦後もくすぶっていたイタリアも強い主導者を求めていました。
こうしてドイツではナチス政権が、イタリアではファシスト政権がそれぞれ台頭。
1936年にスペインで内乱が起きた際にはドイツとイタリアが反乱軍を支援し、スペイン政府軍を支援するソ連や国際義勇軍と対立するなど、徐々に両国は諸外国との対立を深めていきました。
満州事変勃発
一方、第二次世界大戦でドイツ、イタリアとともに枢軸国勢力となった日本では、経済立て直しのために軍の主導で中国への侵略が行われていました。
こうして1931年に満州(中国東北部)に進出していた日本軍が柳条湖事件(奉天郊外での鉄道爆破事件)を起こし、中国との間で満州事変が勃発。
1932年には日本軍が「満州国」という国家を中国の領土内に設立し、実効支配を図ります。
しかし、中国はもちろんのこと各国もこれを「傀儡国家」として承認せず、日中間の関係は悪化していきました。
そして当初は局地的だった争いも、1937年に廬溝橋事件(北京郊外での中国軍・日本軍の軍事衝突)が起きると全面的な日中戦争に発展し、中国側は中国共産党と中国国民党が協力して日本軍に対する激しい抵抗を見せることとなります。
日独伊防共協定の締結
1936年11月、ドイツと日本の間に「日独防共協定」という条約が締結されます。これは国際共産主義運動への防衛協力を目的としたもので、ソ連を仮想敵国とみなしていました。
前述のように日本は経済立て直しのために中国への侵攻を進めており、このことでソ連との対立を深めていたため、日独防共協定に賛同したのです。
一方で当時のソ連はヨシフ・スターリン率いる社会主義国家で、農業の集団化と重工業の強化により、貿易に頼らない強固な国家体制を作り上げていました。そのため世界恐慌の影響を受けずに済んでいたのです。
恐慌の影響を受けなかったソ連は、諸外国が経済対策に追われるなか再び強国として返り咲き、周辺への影響を強めていました。
したがって経済の立て直しのために植民地を拡大しようとしていたドイツ、イタリア、日本とソ連の間には軍事的な緊張感が高まっていました。
こうして1937年には日独防共協定にイタリアが加わり、新たに「日独伊防共協定」が締結されます。
植民地の拡大
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1938年になるとドイツは自国の軍隊をオーストリアのウィーンに送り込み、オーストリアを支配下に置きます。さらにチェコスロバキアに対してドイツ、ポーランドと国境が接しているズデーテン地方を割譲するように要求。
この地方は中世以降、長きに渡ってドイツ人の入植が進んでいた土地であり、たびたび民族紛争の舞台にもなっていました。
そういった歴史を踏まえ、また大規模な戦争を回避することができるのなら、とイギリスとフランスはドイツによる要求を支持します。しかし、結果としてズデーテン地方を手に入れたナチスは他の国にも侵攻するようになったのです。
1939年にはチェコスロバキアを支配下に置き、ついに同年の9月1日には正式な宣戦布告をせずにポーランドに攻め込むに至りました。
ポーランドに攻め込む前にドイツはソ連との間に独ソ不可侵条約を結び、ポーランドの西半分をドイツが、東半分をソ連が支配するという約束を取り付けていました。
しかしソ連以外の強国はこれを黙認せず、ドイツは9月3日にイギリスとフランスに宣戦布告。イギリス、フランスもまたドイツに宣戦布告をしました。こうして第二次世界大戦が起こったのです。
なお、ドイツはポーランド侵攻の理由について「ポーランド国内でドイツ系の住民が迫害されており、救助する必要があったため」と述べていました。
もちろん、このような事実はなく、ドイツのポーランド侵攻は第一次世界大戦後にヴェルサイユ条約で分割されることとなった領土を取り戻すことであり、国力の増強が侵攻の理由でした。
第二次世界大戦に日本が参戦した理由
1939年5月、日本が支配する満州とソ連が支配するモンゴルの間で国境紛争が発生し、日本軍はソ連軍と直接衝突を起こしました。
この紛争はノモンハン事件と呼ばれ、名前からは小規模な衝突のような印象があるものの、実際には戦争と言えるレベルの争いでした。機械化されたソ連軍の前に、日本軍は多くの戦死者を出したとされます。
痛手を負った日本は当時の阿部内閣が1939年9月にノモンハン事件を停戦に持ち込み、同時に世界大戦への不介入と、日中戦争の解決を宣言しました。
しかし、日中戦争の泥沼化とその解決の困難さにくわえてアメリカからの日米通商条約の破棄が重なり、わずか4ヶ月半で退陣。
続く米内政権も6ヶ月で総辞職と内政も不安定であり、社会には「政府はあてにならない。植民地の拡大に力を入れている日本軍のほうがしっかりしている」という風潮が漂い始めます。
南方への侵略
一方の日本軍はノモンハン事件で痛手を受けたことから、ソ連とぶつかる北や西への侵攻は避け、中国、東南アジア方面への侵攻を検討していました。
当時の東南アジアはほとんどの国々がイギリスやフランス、オランダなど西洋諸国の植民地となっており、イギリス領のビルマ、フランス領のインドシナ、中国雲南を通って華南に流れる通称「蒋介石支援ルート」は、イギリスやアメリカの軍事物資の物流ルートでした。
そのため日本軍は蒋介石支援ルートを遮断するように東南アジアへの侵攻を行なえば、米英の物流が絶てるうえに、日本と満州を経済ブロック化するために必要な南方の資源も確保できると考えたのです。
こうして1940年に第二次近衛内閣が成立すると、「大東亜新秩序の建設」「高度国防国家体制の確立」のスローガンのもと、日本では南進論が推し進められ、西欧諸国がドイツ軍への対応に軍事力を割いていたすきを狙って、火事場泥棒的に東南アジアへの侵略を進めようと試みました。
しかしアメリカはこれを許さず、1940年7月に航空機用のガソリンの対日輸出禁止、石油やくず鉄などの対日輸出制限などの制裁を日本に課します。
石油と鉄の輸入の大半をアメリカに頼っていた日本は大打撃を受け、結果として代替の資源を確保するために南方進出に血道を上げることに。
そして日本とアメリカ、イギリスらの関係は悪化の一途を辿っていき、1941年12月8日には日本海軍がハワイ島の真珠湾を攻撃。
この日、日本は午後1時にアメリカに宣戦布告の文書を送り、直ちに攻撃を開始する計画でした。
しかし、手紙の到着が遅れたことで結果として奇襲攻撃となってしまい、このことにアメリカはもちろんのこと、イギリス、フランスも激怒。日本とアメリカの間で太平洋戦争が勃発します。
こうして自国の経済ブロック化と、国内では採掘できない天然資源を有する国を支配下に置く目的で日本は南進を図り、イタリア、ドイツと「日独伊三国同盟」を結んで第二次世界大戦に参戦していったのです。
第二次世界大戦の年表と開戦から終戦までの流れ
開戦当初、第二次世界大戦は大戦とは名ばかりの状態が続いていました。宣戦布告したフランスとイギリスは自ら派兵することなく、ドイツの動向をただ静観していたのです。
これによりドイツの台頭を許し、静かな開戦から想像もつかないような混沌を見せていくこととなります。ここでは第二次世界大戦の開戰から終戦までの流れを、年表とともに見ていきましょう。
1939年9月・開戰
・1939年9月1日…ナチスによるポーランド侵攻。スイス、ノルウェー、エストニア、ラトビア、リトアニアのバルト三国が戦時での中立を宣言。
・1939年9月3日…イギリスとフランスがドイツに宣戦布告。オーストラリア、ニュージーランド、イギリス領インド帝国もドイツに宣戦布告。
・1939年9月4日…日本、欧州の情勢激化を受けて中立を表明。
・1939年9月5日…アメリカが正式に中立を宣言。
・1939年9月6日…ポーランド南部のクラクフがドイツ軍に占拠される。
・1939年9月10日…カナダ、ドイツに宣戦布告。
・1939年9月16日…ドイツ軍、ポーランドの首都ワルシャワを包囲。
・1939年9月17日…ソ連がポーランドへの進軍開始。東部のビャウィストクおよび東ガリツィアを占拠。
・1939年9月19日…ソ連、ノモンハン事件で日本に勝利。日ソ国境紛争が終結する。
・1939年9月26日…ドイツ軍が大規模な歩兵部隊を用いてワルシャワ中心部を急襲。
・1939年9月28日…独ソ境界友好条約が締結される。
1939年9月に開戦した第二次世界大戦。しかし、開戦当初は世界に先駆けて宣戦布告をしたイギリスもフランスもドイツ自ら侵略戦争から手を引くのではないかと楽観視し、ポーランドへの派兵などは行わずにいました。
そのため開戦当初はイギリスとフランスに続き、複数の国がドイツへの宣戦布告をしたのですが、いつまでたっても戦争が始まらないという奇妙な現象が起こりました。
1939年10月・イギリスへの攻撃開始
・10月9日…ドイツ軍がフランス、ベルギー、オランダ、ルクセンブルクへの侵攻の準備に入る。
・10月10日…イギリスのネヴィル・チェンバレン首相、ヒトラーからの和平提案を拒否。
・10月10日…バルト三国がソ連の支配下に入る。
・10月12日…フランスのエドゥアール・ダラディエ首相、ヒトラーからの和平提案を拒否。
・10月14日…イギリスの戦艦ロイヤル・オークが、ドイツのU47に撃沈される。
・10月16日…イギリス本土に初回の航空攻撃。
・10月19日…ポーランドの西側一部がドイツに編入され、ゲットーが設置される。
宣戦布告をしたもののイギリスとフランスが動きを見せなかったことから、ドイツは戦力をポーランド侵攻に集中させ、確実にポーランドを占領下に置いていきました。
ヒトラー政権下で軍事拡大に力を入れていたドイツの前にポーランドは成すすべもなく、侵攻開始から半月程度で国土の一部を明け渡すこととなってしまいます。
一方、1940年になってドイツはフランスとイギリスに早々に和平協定をもちかけていますが、これは2国を驚異に感じていたから、というわけではありません。
単にドイツの開戰の目的が第一次世界大戦以前の領土を取り戻すことであったため、無関係の国とのいざこざは避けたかっただけでした。
1939年11月・ソ連のフィンランド侵攻
・11月4日…中立を宣言していたアメリカが兵器の売買でのみ戦争に参加することを表明。
・11月8日…講演中ヒトラーがイギリス軍の空爆にあうが、無事。
・11月16日…ドイツ軍の空爆により、イギリスの一般国民に初の戦死者が出る。
・11月24日…日本軍、広西省の省都南寧を占領。
・11月29日…ソ連、領土をめぐる交渉がまとまらずフィンランドと国交断絶。
・11月30日…ソ連、フィンランドのヘルシンキを空爆。
宣戦布告をしておきながらまったく動く気配のないフランスとイギリス、2国をよそにポーランド侵攻を続けるドイツという「奇妙な戦争」の状態を打ち破ったのは、同じく勢力拡大を狙っていたソ連でした。
ドイツと同盟を結び、ドイツ軍の侵攻で混乱しているすきを狙ってポーランドの半分を占領下に収めたソ連は、続いてフィンランドに狙いを定めます。
フィンランドは元ロシア帝国の首都であったレニングラードと近く、ソ連にとっては対外的な不安からも支配下に入れたい国でした。
しかし、フィンランドからしてみればソ連の領土割譲要求に応じる理由はありません。こうしてフィンランドがソ連の要求をのまなかったことから、ソ連のフィンランド侵攻が開始。
数の上では圧倒的に有利であったソ連ですが、気候や地形を活かしたフィンランド軍の戦闘に翻弄され、侵略は思うように進みませんでした。
一方でソ連の「欲しい領土は次々に手に入れていく」という態度を見せつけられたドイツは、和平への道を捨て、ポーランド割譲後もソ連同様に次々に侵略戦争を起こすようになっていきました。
1939年12月・ドイツとイギリス間での争いが激化
・12月5日…ソ連、フィンランドの防衛線・マンネルハイム線への総攻撃を開始。
・12月13日…ドイツ海軍とイギリス海軍の間でラプラタ沖海戦が勃発。
・12月14日…ソ連、フィンランド侵攻が原因で国際連盟から追放される。
・12月14日…ドイツ海軍、ラプラタ沖海戦で軍艦が大破し、イギリス海軍の勝利となる。
・12月18日…ドイツ空軍、ヘルゴラント・バイトの戦いでイギリス空軍に勝利する。
ここにきてやっと、イギリス軍がドイツ軍との海戦に応じるようになります。しかし侵略されている国への積極的な派兵などは避けており、まだ「奇妙な戦争」の状態が続きます。
1940年・日独伊三国同盟調印
・3月12日…ソ連とフィンランドの間でモスクワ講和条約が締結され、二国間の戦争が終結する。
・3月18日…ヒトラーとムッソリーニの会談が行われる。
・4月9日…ドイツ軍がデンマークとノルウェーに侵攻。デンマークを占拠。
・4月10日…ノルウェーのナルヴィクでドイツ海軍とイギリス海軍が海戦。双方ともに指揮官が戦死する。
・5月10日…ドイツ軍がオランダ、ベルギー、ルクセンブルクに奇襲攻撃を仕掛ける。
・5月14日…ドイツ軍がオランダのロッテルダムに大規模な爆撃を開始。
・5月20日…アウシュビッツ強制収容所開所。
・5月28日…ベルギーがドイツに降伏。
・6月10日…イタリアがイギリス、フランスに宣戦布告。
・6月14日…ドイツ軍がパリに無血入城。
・6月22日…フランスの降伏。
・7月10日〜10月31日…ドイツ空軍とイギリス空軍の間で史上最大の空爆戦、バトル・オブ・ブリテンが勃発。
・9月7日…ドイツ軍機約1000機によるロンドン空襲。
- ・9月9日 … イタリアがエジプトに軍事進攻。
- ・9月27日 …日独伊三国同盟調印。
・10月28日…イタリアがギリシャへ侵攻、ギリシャ・イタリア戦争開戰。
1940年に入るとドイツはノルウェーへの侵攻を開始します。ドイツは鉄鉱石の多くをフランスから輸入していたのですが、敵対国である以上、フランスとの貿易は不可能となっていました。
そのためスウェーデンから鉄鉱石を輸入しており、ここへの足がかりにノルウェーを落としにかかったのです。そして、あっという間にデンマークとノルウェーを手中に収め、続いてフランスへの攻撃を開始。
最初にお互いの間にあるオランダやベルギーを攻撃し、ベルギーから反時計回りにフランスへ侵攻したのです。
1941年・日本の参戦
・4月6日…ドイツ軍、ギリシャとユーゴスラビアに侵攻開始。
・4月17日…ユーゴスラビア降伏。
・4月23日…ギリシャ降伏。
・6月22日〜6月29日…ドイツ軍がソ連に侵攻。ミンスクの戦い勃発。これを受けて日本も対ソ連戦に参戦要求がされる。
・10月18日 …日本で東条英機が首相就任。
・12月8日 …日本軍、アメリカ海軍の真珠湾基地を攻撃。アメリカとイギリスに宣戦布告する。
破竹の勢いで領土を拡大していくドイツを見て、日本国内でも「ドイツに続け」「米英に負けるな」という気運が高まってきます。
こうして日本は日独伊三国同盟に参加。なお、同盟では防共協定とは違い、共通の仮想敵国がソ連ではなくアメリカに定められていました。
これまでのようなアジアの小国への侵略戦争と違い、12月8日にアメリカ海軍に奇襲攻撃を仕掛けるに至りました。同時にシンガポール島攻略のための上陸作戦も開始します。
1942年・アメリカの本格参戦と連合国軍の反撃
・1月1日…アメリカ、イギリス、ソ連、中国による連合国共同宣言調印。
・4月18日…アメリカ空軍、日本の本土への初めての空爆を行なう。
・6月5日…アメリカ海軍、ミッドウエー海戦で日本海軍に勝利。
・8月22日…ドイツ軍、ソ連のスターリングラードに猛攻撃を開始。
・11月19日…ソ連、スターリングラードで大反撃を開始。
・12月31日…日本軍、ガダルカナル島からの撤退を決定。
しかし、戦局を有利に進めていたドイツも1942年に入ると劣勢に転じることとなります。自国の基地を攻撃されたアメリカがくわわったことで、連合国軍が誕生したことも、その理由の1つです。
日本も一時期は第一次世界大戦後に編み出した航空部隊の戦術を武器に、アメリカやイギリスといった強国相手に勝利を重ね、フィリピン、ビルマ、ミャンマーを支配下に収めていました。
ところが、6月のミッドウェー海戦では日本の戦略を研究し尽くしてきたアメリカに敗北を期してしまい、以降は連合軍に負け続きとなってしまいます。
1943年・イタリアの降伏
・1月30日…ヒトラー、スターリングラードに派兵された兵士に玉砕を命じる。
・5月29日…日本軍、アッツ島の戦いでアメリカに破れて玉砕。
・6月10日…連合国軍、イタリア領土内に侵攻を開始。
・7月25日…イタリア首相、ムッソリーニ失脚
・9月3日…連合国軍がイタリア半島上陸。イタリアの降伏。
・9月8日…イタリア降伏。
・11月6日…ソ連軍によりキエフが解放される。
・11月22日…蔣介石、フランクリン・ルーズベルト、ウィンストン・チャーチルによりカイロ会談が行われ、対日方針や戦後のアジアについて協議される。
・11月28日…スターリン、ルーズベルト、チャーチルが集まり、テヘラン会談が行われる。この会談以降、連合国軍の議題は戦後処理に完全に切り替わる。
一方、フランスの降伏を機に地中海での勢力拡大を狙って動いていたイタリアですが、どこに進軍してもイギリス艦隊に敗北を期してしまい、戦果は挙げられませんでした。
もともとイタリア軍は戦争ができる状態にはなく、重工業の技術も遅れていました。そのため自国の領土内で決戦を目前にして、降伏する以外に道がなかったのです。
こうして三国同盟の一角であったイタリアが早々に抜けることとなりました。
また、ドイツも第二次世界大戦中に起きた独ソ戦のなかで最大規模のものであったスターリングラードの戦いで敗北。
ミッドウェー海戦での日本敗北、スターリングラードの戦いでのドイツ敗北により、枢軸国の配色が決定づけられ、連合国軍は戦後処理に向けて動き始めました。
1944年・劣勢に追いやられるドイツ
・1月20日…ソ連、ドイツの占領からレニングラード市を解放。
・6月4日…アメリカ、イギリスによりローマ解放。
・6月6日…連合国軍、北西ヨーロッパへの侵攻作戦・ノルマンディー上陸作戦を開始。
・8月1日…ポーランドでの反ドイツを掲げる武装蜂起・ワルシャワ蜂起が発生。
・8月25日…連合国軍によるパリ解放。
・10月10日…アメリカ空軍が那覇に大規模空爆。
スターリングラードの戦いで負けて以降、ドイツ軍は侵攻を進めていた北アフリカからも撤退、史上最大の戦車戦として知られるクルスクの戦いでもソ連軍に負け越し、弱体化が目立っていきました。
拡大に拡大を重ねた領土を維持するだけの力もなくなり、手中に収めた領土も連合国軍によって奪還されていきます。
こうして6月には史上最大の上陸作戦と称されるノルマンディー上陸作戦が実行され、敵国の上陸日や人数、ルートなどを読み違えたドイツ軍は連合国軍の侵入を許してしまい、パリも明け渡すことになってしまいました。
西からはアメリカとイギリス、東からはソ連が迫るなか、ドイツは完全に挟み撃ちをされる格好になったのでした。
1945年・終戦
・1月2日…ドイツ・ニュルンベルクが連合国軍によって空爆される。
・1月17日…ソ連、ワルシャワ解放。
・2月13日…ソ連、ブタペスト解放。
・2月18日…アメリカ軍、小笠原諸島の硫黄島に上陸。硫黄島の戦いが開戰。
・4月1日…アメリカ軍が沖縄本島へ上陸。
・4月16日…ソ連軍によるベルリン総攻撃開始。
・4月28日…ムッソリーニの銃殺刑が行われる。
・4月30日…ヒトラーが自殺。
・5月7日…ドイツが無条件降伏を表明。
・7月26日…ポツダム宣言
・8月6日…広島に原爆投下
・8月9日…長崎に原爆投下
・8月15日…ポツダム宣言を受諾し、日本が無条件降伏を表明。
1945年4月にはついに首都ベルリンにまでソ連軍が迫り、ドイツは完全に追い詰められることとなります。
もはや敗戦が確定したことにより、4月30日にはヒトラーが自害。遺言によってドイツを正式な代表となったカールデニッツは、無条件降伏を表明しました。
こうして最後まで残った日本も連日の爆撃を受けて敗戦以外ありえない状態でしたが、ソ連を介して講話が結べるのではないかという可能性にかけて、無条件降伏を拒みました。
そのため2度の原爆投下を受けることとなり、8月15日になってやっと無条件降伏を受け入れることとなったのです。
第二次世界大戦の死者総数
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第二次世界大戦での死者総数は、民間人の死者が3800万〜5500万、軍人や兵士の死者が2200万〜2500万で合計5000万人〜8000万人とされており、これは当時の世界の総人口の約2.5%にあたります。
なお、もっとも軍人が多く戦死したとされるのはソ連で、その数は1450万人にも上ったといいます。続くドイツが285万人の戦死者であるのに比べて、あまりにも膨大な数です。
これはスターリン政権下で優秀な人材が処刑され尽くしていたソ連では、戦争の際に数にものを言わせて攻め込む人海戦術しかとれなかったからだと指摘されています。
他国では守備が手薄なところに兵士を送り込むなど、戦死者を出さないよう周到な戦略が練られていた一方、優秀な将校が粛清されていたソ連では「とにかく突っ込め」という単純な戦略しかとれなかったのです。
一方、日本の戦死者は軍人が230万人、民間人が80万人、合計で約310万人と最後まで降伏をしなかった敗戦国としては少なく感じられます。
これは日本の本土決戦は終戦直前に行われただけで、ほとんどの戦場が東南アジアなどの外国であったためとされています。
第二次世界大戦時の株価
アメリカの代表的な株価指数であるS&P500(スタンダード・アンド・プアーズ500種指数)の第二次世界大戦中の推移を見てみると、開戰から1945年8月15日までの間に株価は11台から4近く下がったものの、1945年末には17.36まで回復しており、大きな影響はなかったとされています。
日本の株価指数も140前後で推移しており、終戦までさほど変化しませんでした。
ベトナム戦争やアフガニスタン紛争やイラク戦争でも株価が大幅に下がることはなく、戦争よりもリーマンショックのような金融危機が起きた時のほうが、株価に与える影響は圧倒的に大きい傾向にあります。
第二次世界大戦の敗戦国その後
第二次世界大戦後、敗戦国の処理はヨーロッパによる戦後処理と、アメリカによる日本の戦後処理に大別されました。
ここでは敗戦国のドイツ、イタリア、そして日本が終戦後にどのような処理を受けたのか見ていきましょう。
ヨーロッパの戦後処理
終戦後、ドイツとイタリアはヨーロッパの戦勝国によって厳しく管理されることとなります。
とくに大戦中に甚大な被害を出したドイツについては、今後2度とナチスのような過激な政党が台頭することがないよう、慎重な管理が求められました。
そのためにまずニュルンベルク裁判が行われ、ナチスの残党が厳しく処分されました。
またドイツは西側と東側に分割され、西側をアメリカ、フランス、イギリスが3分割して管理、東側をソ連が管理することに決定。さらに首都のベルリンも戦勝国によって分割管理されることとなりました。
なお、第二次世界大戦前にドイツに併合されていたオーストリアは、1955年にオーストリア国家条約を調印して主権を取り戻しましたが、主権回復の条件としてアメリカとソ連から永世中立国でいることを言い渡されています。
その他、イタリアなどの敗戦国はパリ講和条約で定められたとおりに、賠償金を負い、領土変更に応じました。
日本の戦後処理
一方、日本の戦後処理はアメリカ一国が担いました。まず、ドイツ同様に日本でも極東国際軍事裁判が開かれ、戦時下の首相であった東條英機ら戦争犯罪人とみなされる人物が処分されていきました。
そして日本国民は、政府を通じて間接的にマッカーサー率いる連合国軍総司令部(GHQ)の支配下に置かれることになります。
つまり日本国民はそうと知らないまま、GHQの支配下に置かれることとなったのです。
こうしてアメリカ主導のもと、二度と侵略戦争を起こさないよう、日本では非軍事化が進められていき軍隊は解体。
さらに農地を所有しているだけで耕作をしない地主と、実際に工作をしていながら成果物の大半を地主に納める小作人の間の格差を是正する目的で農地改革や、軍国主義の経済的基盤とされる財閥解体も行われ、労働力、土地、 資本の3つの面から、軍国主義の復活を防ぐべく、改革が進められました。
また独裁的な政治が行われないよう民主化も進められ、大日本帝国憲法に代わって日本国憲法が発布されます。
日本国憲法では前文で「戦争を再び起こさない」という決意表明がされており、平和的生存権や国民主権、戦争放棄、戦力不保持、象徴としての天皇といった、第二次世界大戦前の日本の価値観を打ち崩すような条文が多く取り入れられました。
このように戦後の日本は完全にアメリカの統治下にありました。
日本が主権を取り戻したのは、1951年にサンフランシスコ平和条約が締結されてからのことです。この条約には以下のような内容が盛り込まれていました。
・台湾と澎湖諸島に対する権利、権限の放棄。
・朝鮮の独立承認。朝鮮に対する権利、権限の放棄。
・千島列島、南樺太に対する対する権利、権限の放棄。
・北マリアナ諸島、パラオ、マーシャル諸島、ミクロネシア連邦に対する権利、権限の放棄。
・南極に対する対する権利、権限の放棄。
・スプラトリー諸島、パラセル諸島に対する権利、権限の放棄。
・南西諸島、南方諸島、沖ノ鳥島、南鳥島をアメリカ合衆国の信託統治領とする。
・第一次大戦後に連合国軍としてドイツに有していた債権の放棄。
領土や賠償金など、さまざまな事柄について定められたサンフランシスコ平和条約に調印することで、やっと日本からGHQが撤退。日本は主権を取り戻しました。
しかし、実効支配が終わった後も日本とアメリカの親密な関係は続き、現在に至ります。
第二次世界大戦の終戦はいつ?
日本がポツダム戦争を受諾し、天皇陛下による玉音放送が1945年8月15日正午にラジオで流されたことから、日本では毎年8月15日は「終戦記念日」に指定され、終戦も1945年8月15日とされてきました。
しかし、アメリカなど第二次世界大戦に参加した多数の国では終戦は9月2日、もしくは9月3日という認識があります。
これは実際に日本が降伏を表明した比ではなく、日本が降伏文書に調印した日を終戦日として扱うためです。
なお、現行の高校の日本史の教科書の多くでは終戦日は「1945年9月2日」となっており、8月15日については「日本が降伏することを国民に発表した日」と記述されています。
第二次世界大戦についてのまとめ
今回は1939年9月から1945年8月の約6年間に渡った第二次世界大戦について、原因や日本が参戦した理由、大まかな流れを中心に紹介しました。
日本の歴史は小学校や中学校でも必修科目として勉強しますが、第二次世界大戦については触れる程度で、教科書にもほんの短い記載しかされていません。そのため高校で世界史を履修するか、個人的に書籍を読むなどしない限りは、戦中、戦後の歴史を学ぶ機会は少ないと言われています。
第二次世界大戦では、こと敗戦国の日本にとっては苦しい話や耳の痛い話も多くあります。しかし、この戦争によって現在の日本や諸外国との関係は築かれました。過去の失敗を学ぶことで、未来に活かしていきたいですね。