ポル・ポトはカンボジアに原始共産政権を敷き数百万人の国民を虐殺、粛清した独裁者です。
この記事ではポル・ポトがその生涯で何したのか、虐殺や粛清と死刑、その目的、名言、2度の結婚と嫁、子供、晩年と最後の様子、死因、墓、ポル・ポト時代を題材にした映画などについてまとめました。
この記事の目次
- ポル・ポトはクメール・ルージュでカンボジアの人々を大量虐殺した独裁者
- ポル・ポトは何したか① 生い立ちと学歴
- ポル・ポトは何したか② フランス留学中に共産主義者に
- ポル・ポトは何したか③ 反政府闘争に加わりカンボジア共産党の書記長に
- ポル・ポトは何したか④ シハヌーク国王と結んでロン・ノル政権と戦う
- ポル・ポトは何したか⑤ ロン・ノル政権を打倒し独裁政権を樹立
- ポル・ポトは何したか⑥ 銀行や病院、学校等を破壊し原始共産主義を強行
- ポル・ポトは何したか⑦ 民衆を大量虐殺し政敵とみなした全ての者を粛清
- ポル・ポト派の独裁政権はベトナム軍の侵攻により瞬く間に崩壊
- ポル・ポトの目的は原始共産主義国家を作り上げる事
- ポル・ポトの名言
- ポル・ポトの嫁① キュー・ポナリー
- ポル・ポトの嫁② ミー・ソン
- ポル・ポトの子供…娘のサル・パチャタ
- ポル・ポトの晩年とクメール・ルージュの最後
- ポル・ポトの最後は死刑ではなく病死で死因は心臓発作だが毒殺説も存在
- ポル・ポトの墓
- ポル・ポトを題材にした映画
- まとめ
ポル・ポトはクメール・ルージュでカンボジアの人々を大量虐殺した独裁者
ポル・ポトのプロフィール
本名 :サロット・サル(Saloth Sar)
生年月日:1925年5月19日(諸説あり)
没年月日:1998年4月15日(72歳没)
出身地 :カンボジア・コンポントム州プレクスバウ村
ポル・ポト(Pol Pot)とは、1975年から1979年までカンボジアを統治した原始共産主義を掲げる国家「民主カンプチア」の指導者で、常軌を逸した圧政により数百万人の国民を虐殺した歴史上最悪の独裁者の1人に数えられる政治家、共産主義者です。
ポル・ポトは、1963年〜1981年までカンボジア共産党の中央委員会書記長、1976年〜1979年まで民主カンプチア首相、カンボジア共産党を粛清した後に結成した民主カンプチア党中央委員会書記長を1981年〜1985年まで務め、当時のカンボジアに存在した過激派共産主義政治団体で武装組織、通称「クメール・ルージュ」(自称はオンカー・パデワット)の精神的指導者として君臨しました。
ポル・ポト率いるクメール・ルージュがカンボジアの独裁権力を握った1975年〜1979年にかけての約4年間に、知識人や旧体制の指導者、非共産主義的な思想を持つ者、反革命分子、さらにはその嫌疑をかけられた多くのカンボジア国民が粛清、虐殺され、また無茶苦茶な政策によって飢饉や医療崩壊も起こり、推計で数百万人が死亡したとされています。(少なくとも100万人以上、カンボジア政府の公式見解では一時は約300万人とされ、当時のカンボジア国民人口の4分の1が虐殺・粛清他何らかの形で死亡したとされる)
ポル・ポトは何したか① 生い立ちと学歴
ポル・ポトは1925年、フランスの植民地統治下時代の仏領インドシナ・カンボジアのコンポントム州プレクスバウ村の裕福な農業経営者の家に、9人きょうだい(女子2人、男子7人)の8番目もしくは7人きょうだいの末っ子(諸説あり)として生まれました。
ポル・ポトの実家は王室につながりのあるエリート階級(親戚が国王の側室)で、裕福で村の中で最も大きな家に住み、ポル・ポトも幼い頃は何不自由のない生活であったとされています。
ポル・ポトは英才教育を受けるために6歳の時に実の兄で王都プノンペンにいた長男のサロット・セインの家に預けられ、当時のカンボジアの慣習にならってタマヨット派の寺院で1年半の間僧侶見習いとして学んだ後、プノンペンの名門私立カトリック校「エコール・ミシェ」に入学しそこで6年間過ごしました。
ポル・ポトは学ぶ意欲はあったようですが勉強はあまりできず2年留年した後、1942年にメコン川沿いの市場の中に新設されたプレアム・シハヌーク校(the Collége Pream Sihanouk)へ進学して寄宿生として6年間学んでいます。
プレアム・シハヌーク校時代、ポル・ポトはバイオリンを学んで校内演劇に参加し、余暇にはサッカーやバスケットボールをして過ごしていたとされます。1945年には友人らと資金を集めて地方を旅行しアンコールワットにも訪れていたようです。
1947年にプレアム・シハヌーク校を出たポル・ポトはプノンペンへ戻り、名門の「シソワット高校(Lycée Sisowath)」に入学し1948年に上級クラスへの進学試験を受けるも失敗。仕方なく、プノンペン北郊外のルセイケオ区のエコール・テクニーク(宗主国フランスのテクノクラート養成校をモデルにした教育機関)に入学して木工技術を学びました。
ポル・ポトは何したか② フランス留学中に共産主義者に
1949年、ポル・ポトは政府の奨学金制度に合格して宗主国フランス・パリ(当時のカンボジア、ベトナム、ラオスはフランスの植民地)の「フランス国立通信工学校(École Française de Radioélectricité)」へ留学しています。
当時のカンボジアでは海外留学できるのはごく一握りのエリートのみでしたが、事情を知る関係者によれば、ポル・ポトは王宮の役人と親しかったためにコネによってこの留学権利を得たとされます。
ポル・ポトはこのフランス留学時に共産主義思想に染まり、フランス共産党との関係を深めつつカンボジアからの留学生仲間らとマルクス主義を学ぶサークル(Cercle Marxiste)を結成。共産主義の活動にのめり込むあまり勉学には見向きもしなくなり3年連続で進学試験に失敗して奨学金を打ち切られ、学位も取得できぬまま1953年1月にカンボジアに帰国しています。
ポル・ポトは何したか③ 反政府闘争に加わりカンボジア共産党の書記長に
ポル・ポトは1953年1月にカンボジアに帰国後、カンボジア人民革命党に加わり共産主義活動を続けました。
カンボジア人民革命党はベトナムの共産主義者ホー・チ・ミンのインドシナ共産党を母体として1951年に結成されベトナム人が指導していました。
当時のインドシナでは、ベトナムの共産主義勢力が中心となってフランスとの独立戦争を戦っており劣勢となったフランスは1953年にカンボジアの独立を認め国王のノロドム・シハヌークによる王政社会主義政権が成立しました。
シハヌーク政権は自らの政権を脅かしかねない共産党勢力を厳しく弾圧。これに伴い、ベトナム共産党はカンボジアから撤退しカンボジア人民革命党への支援を停止。党員の多くがベトナム人のふりをしてハノイへと渡りました。
しかし、ポル・ポトは身分を偽ってプノンペンへ戻り、私立高校「チャムロン・ヴィチェア(Chamroeun Vichea)」で歴史や地理、フランス文学、道徳を教える教師の職を得て働きながら党の幹部として密かに反政府の活動を継続しました。
当時の教え子によれば、教師としてのポル・ポト生徒達に理解させるのが上手く礼儀正しく穏やかな人物であったとの事です。
ポル・ポトはこの頃にソ連や中国、ベトナムなどに依存せずにカンボジアの人民が独力で革命を達成すべきという主張を押し出すようになり、1960年に仲間らと密かにカンボジア共産党を結成。ポル・ポトは1963年には党書記長になって実権を握りジャングルへと潜り、表から姿を消しました。(この頃にシハヌークはポル・ポトら反政府共産主義過激派を「クメール・ルージュ」と呼び始めた)
ポル・ポトは何したか④ シハヌーク国王と結んでロン・ノル政権と戦う
インドシナの共産化を恐れたアメリカが介入し南ベトナムを樹立した事で始まったベトナム戦争が激化した1965年頃、ポル・ポトらクメール・ルージュはジャングルに戻ってゲリラ戦を続けシハヌーク政権打倒を目指しました。
この頃、ポル・ポトは密かにラオス国境を越えて中国へ行き共産党革命を成功させた毛沢東と文化大革命(虐殺と粛清により2000万人が死亡した)に触れて強い影響を受けたとされます。
そして1968年、ポル・ポト派(クメール・ルージュ)は農村を拠点として反政府の武装蜂起を開始。
一方でシハヌーク政権は北ベトナム(共産主義勢力)が南ベトナム解放戦線(ベトコン)を支援するルート(ホー・チ・ミン・ルート)やカンボジア領内に基地を置く事を容認し反米姿勢を取りつつ、ポル・ポト派による農民蜂起も弾圧したため次第に孤立し、1970年に新米右派のロン・ノルのクーデターによって政権が崩壊しシハヌーク国王は北京への亡命を余儀なくされます。
そこでシハヌーク国王は政権奪還のために一転してポル・ポト派に新米のロン・ノル政権打倒を呼びかけました。ポル・ポトはこれに応じ、中国と北ベトナムの武器支援を受けたクメール・ルージュとロン・ノル政権軍との激しい内戦が勃発。
ポル・ポト派(クメール・ルージュ)は農村を勢力下に置いて解放区を作りシハヌーク政権の重税から農民を解放したため農民からの絶大な支持を獲得し勢力を拡大しました。
ポル・ポトは何したか⑤ ロン・ノル政権を打倒し独裁政権を樹立
ポル・ポト派(クメール・ルージュ)とロン・ノル政権政府軍との内戦が激化する中、1973年にベトナム戦争のパリ和平協定がカンボジアを抜きに調印されアメリカ軍はベトナムから撤退し、カンボジア領内の北ベトナム軍も撤退します。
これにより、ポル・ポト派は窮地に陥りました。アメリカ軍はロン・ノル政権を支援するためポル・ポト派の解放区を空爆。1973年2月〜3月までに25万トンもの爆弾が投下されカンボジア農村は壊滅的な被害を受けました。
しかし、このアメリカ軍による大規模空爆は、ポル・ポト派の組織の規律と結束を強固なものとし、一方的に講和して撤退した北ベトナムへの憎しみを募らせる結果を生みました。
1975年4月17日、ポル・ポト派は首都プノンペンを制圧しロン・ノル政権を打倒。ポル・ポト派は実権を握り、国家元首に神輿としてシハヌーク国王を据えて、ポル・ポトは首相に就任しました。しかし程なくしてシハヌークは自宅軟禁状態とされ、ポル・ポト派による独裁政権が誕生する事になりました。
1976年1月にポル・ポト派は国名を「民主カンプチア」に改めています。
ポル・ポトは何したか⑥ 銀行や病院、学校等を破壊し原始共産主義を強行
1975年4月17日、ポル・ポト派(クメール・ルージュ)の軍が首都プノンペンを制圧した時、プノンペン市民は圧政からの解放だと信じて大いに歓迎しました。
しかし、その翌日、ポル・ポト政権は「アメリカ軍の空爆があるので2、3日だけ首都から退去するように」との命令を下しプノンペン市民を集団農場へと移住させました。
実はこの空爆の話は嘘でポル・ポト政権の目的は都市を廃止し農業主体の共同社会を建設を目指す事であり、プノンペン市民は強制的に集団農場へと移住させられ、共同生活と食糧生産を強制される事になりました。
そして、ポル・ポト派は資本主義の全てを否定し、私有財産権と富の蓄積を認めず中央銀行と銀行システムを破壊して貨幣制度を廃止。さらに、学校、科学技術、あらゆる宗教の否定、工場や病院の閉鎖などを強行。また、自動車や自転車を含むあらゆる移動手段を禁止して民衆には徒歩移動を強制し、その他の文明の利器も全て禁止とし、人力による灌漑整備の強制労働を課し、運河やダム、1万5000kmにも及ぶ水路を建設させました。
ポル・ポト派は完全な原始共産制(全ての人々が食料獲得に従事し、食料や衣服などの全ての物は共有される)の成立を目的としており、そのための政策を強行に押し進めた形でした。
当然ながら多く民衆がこれに反発しましたが、ポル・ポト派は反対派を一方的に弾圧し、旧勢力や帝国主義勢力のスパイから国家を防衛するという口実で反発する者の暴力的排除を正当化。結果として民衆の人権と自由は完全に失われる事になりました。
ポル・ポトは何したか⑦ 民衆を大量虐殺し政敵とみなした全ての者を粛清
ポル・ポト派はまず、旧ロン・ノル政権関係者やシハヌーク派の官僚を次々と粛清。そして、教員やマスコミ関係者など、原始共産主義政策を否定するであろう知識人を標的にその地位を剥奪して農村での労働を強制しました。
さらに、ポル・ポト派は都市部の住民、少数民族を次々と集団農場へと送って強制的に食糧生産に従事させました。移住に抵抗したものは全て強制収容所に送られ、社会的に不要な存在だとして虐殺されました。これらの強制収容所の1つが「トゥール・スレン虐殺博物館」として現在も保存され当時の虐殺の悲惨さを伝えています。
そして、集団農場での強制労働によって生産された食料は中国からの武器調達の原資としてほとんどが輸出に回されたために国内の食料が不足し多くの国民が飢餓と栄養失調、過労によって死亡しました。
ポル・ポトはこの悲惨な結果を自身の政策の失敗だとは認めず、裏切り者やスパイがアメリカやソ連、北ベトナムによって送り込まれて妨害しているためだと思い込みました。
猜疑心に取り憑かれたポル・ポトはスパイの摘発を命じ、少しでも疑いのある者や告発(自分が助かるために何の証拠もなく知人や親族をスパイだと告発する者が相次いだ)のあった者は次々と捕えられて収容所に送り込まれ残虐な拷問の末に自白と仲間の告発を強要された上に秘密保持のために虐殺されました。
また、ポル・ポトは自身の政策の矛盾や失敗を指摘しかねない知的階層も危険視するようになり、教師や科学者、医者、薬剤師、技術者などを強制収容所に送っただけでなく、メガネをかけている、本を読んでいる、文字が読める、時計が読める、手に労働のマメがないなど、信じがたい理由で人々を強制収容所へ送り込み虐殺しました。
さらに、ポル・ポトは民衆の絆も警戒するようになり、政府の許可がない自由恋愛と結婚も禁止し、子供が生まれると物心がつく前に親から引き離して洗脳教育を施すなどして家族制度そのものを徹底的に破壊しようとしました。
ポル・ポトの猜疑心は自分の側近や政権内、党内の者にも向けられ、自分の考えに異を唱える者、あるいはその可能性のある者、自分の地位を脅かしかねない優秀な者などを一方的に政敵やスパイと見做し次々と粛清しています。
ポル・ポト派が政権を握っていた約4年間で虐殺・粛清された人々の数は正確にはわかっていませんが、約100万人〜最大で300万人もの人々が虐殺・粛清されたと言われています。
ポル・ポト派の独裁政権はベトナム軍の侵攻により瞬く間に崩壊
ポル・ポト派(クメール・ルージュ)は政権を握った後、ベトナムとの緊張が高まっており小規模な軍事衝突を繰り返していました。
1977年4月30日、ポル・ポト派は、ベトナムのタイニン省の領有を主張してカンプチア革命軍(ポル・ポト派政府軍)に国境を越えさせました。この強硬策はカンプチア革命軍内も動揺させ、軍幹部であるヘン・サムリンやフン・センらが粛清を恐れてベトナムに亡命しています。
1978年12月25日、粛清を恐れてベトナムに亡命していた元クメール・ルージュの幹部らが中心となって結成された「カンプチア救国民族統一戦線」がベトナム軍の支援を受けてカンボジア国内に侵攻。ベトナム軍15万人の攻撃にポル・ポトによる粛清により指揮系統が崩壊していたカンプチア革命軍はほとんど抵抗できないまま総崩れとなってわずか2週間で壊滅し、1979年1月7日、ベトナム軍は首都プノンペンを制圧しポル・ポト政権は成立からわずか3年8ヶ月で倒されました。
しかし、ポル・ポト派(クメール・ルージュ)はジャングルに逃げ込み1999年まで抵抗を続けました。(ポル・ポトは1998年に死亡)
ポル・ポトの目的は原始共産主義国家を作り上げる事
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ポル・ポトは独裁政権を樹立した後、数百万とも言われる人々を虐殺、あるいは粛清しました。
自らの国を崩壊に導こうとしているような異常な行動に見えますが、その目的は自らが理想とする完全な原始共産主義国家を作り上げる事でした。
ポル・ポトが目指した原始共産主義国家は、全ての民衆が農業に従事して食料を生産してそれを民衆が共有し、貿易や経済交渉なども極力行わずに独力の自給自足のみで持続的に国家を維持するというものだったと考えられています。
その目的の障害になるとして貨幣制度が廃止され、学校教育、科学、医療、工場での生産、自動車や鉄道など移動手段までも否定されました。これは財産を個人が蓄積したり専門的な技術を取得する事が格差を生み階級社会を作るという考え方が根本にあったと考えられます。
完全平等な自給自足社会の成立がポル・ポトの目的だったとすれば、当時のカンボジアの人口780万人ではその達成は不可能であったと考えられます。そのためポル・ポトはこの目的を達成するために意図的に人口を減らそうとして数百万人もの虐殺や粛清を行なったのではないかと推測する見方もあります。
ポル・ポトの名言
史上最悪の独裁者とも言われるポル・ポトですが、いくつかの名言を残したという皮肉もよく語られています。
ポル・ポトの名言としては下のように、罪のない人々の大量虐殺を正当化するものなどがあります。
罪のない人を誤って殺すのは、罪のある人を殺し損ねるよりマシである。
また、ポル・ポト派はスパイ疑惑をかけられた人の家族まで全て虐殺しましたが、それは下のようなポル・ポトの名言を根拠にして行われたものだとされています。
腐った林檎は箱ごと捨てなければならない
さらに下の名言は、ポル・ポトが子供達に自分を崇拝するように洗脳するために掲げていたスローガンだとされています。
我々は独自の世界を建設している。新しい理想郷を建設するのである。
したがって伝統的な形をとる学校も病院もいらない。貨幣もいらない。
たとえ親であっても、社会の毒と思えば微笑んで殺せ。
今住んでいるのは新しい故郷なのである。我々はこれより過去を切り捨てる。
泣いてはいけない。泣くのは今の生活を嫌がっているからだ。
笑ってはいけない。笑うのは昔の生活を懐かしんでいるからだ。
ポル・ポトの嫁① キュー・ポナリー
ポル・ポトの嫁① キュー・ポナリー
生年 :1920年2月3日
没年月日:2003年7月1日(83歳没)
出身地:フランス領インドシナ・カンボジア・バタンバン州
ポル・ポトは生涯で2度結婚しています。ポル・ポトの1度目の結婚の嫁はパリ留学時代の1950年頃に共産主義活動を通じて知り合ったキュー・ポナリー(Khieu Ponnary)です。
ポル・ポトの1人目の嫁のキュー・ポナリーは、プノンペンの名門「シソワット高校」を首席で卒業して政府の奨学金を得てパリに留学し、カンボジア留学生のマルクス主義研究サークルに参加してそこでポル・ポトと知り合いました。
ポル・ポトは1952年にフランスを先に離れてカンボジアに戻りましたが、1955年に再開し同居を経て1956年7月14日のフランス革命記念日に合わせて結婚しています。
ポル・ポトの1度目の結婚の嫁、キュー・ポナリーは、ポル・ポトの傍で政治にも関わりカンボジア民主婦人連合会長、民主カンプチア女性協会会長、コンポントム州党書記などを務めました。
しかし、1975年までに慢性の統合失調症を発症して精神的に不安定になり、ベトナム人が自分と夫を暗殺しようとしていると妄想するようになり入院しています。
1979年、ポル・ポトはキュー・ポナリーと離婚しました。
キュー・ポナリーはポル・ポト政権が崩壊した後、ポル・ポトの元嫁でありクメール・ルージュの幹部として人民裁判で有罪判決を受けていましたが、1996年にいずれもクメール・ルージュの幹部であった妹のキュー・チリト、その夫のイェン・サリ(人民裁判で死刑判決)がポルポト派から離脱して降伏した際に共に恩赦を受けています。
その後、キュー・ポナリーは2003年7月1日に83歳で死去しました。死因は老衰でした。
キュー・ポナリーさん(ポル・ポト元カンボジア首相の元妻)1日、カンボジア西部パイリンで死去、83歳。親族によると死因は老衰。
ポル・ポトの嫁② ミー・ソン
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ポル・ポトは1人目の嫁だったキュー・ポナリーと離婚した後、1986年の夏に別の女性と再婚しています。
ポル・ポトの2度目の結婚の嫁は、政治活動や共産主義とは関わりのない一般の農民の娘だったミー・ソンという女性でした。
ポル・ポトの晩年はこの嫁のミー・ソンと1986年頃生まれた子供と3人で穏やかに暮らしていたとされています。
ポル・ポトの子供…娘のサル・パチャタ
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ポル・ポトの子供は2度目の結婚の嫁であるミー・ソンとの間に生まれた一人娘です。
ポル・ポトの娘はサル・パチャタという女性で1986年に生まれたとされ、ポル・ポトは高齢になってから生まれたただ1人の子供であるサル・パチャタを溺愛していたようです。
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ポル・ポトの子供であるサル・パチャタは2014年に結婚し、現在は米農家として働いている事が明らかにされています。
ポル・ポトの晩年とクメール・ルージュの最後
ポル・ポトの晩年とポル・ポト派(クメール・ルージュ)が衰退し消滅するまでの経緯についても見ていきます。
ベトナム軍の侵攻により、ポル・ポト派(クメール・ルージュ)の政権は倒れましたが、その後もクメール・ルージュはジャングルに入って勢力を維持し、ベトナム軍の後ろ盾で樹立されたヘン・サムリン(カンプチア救国民族統一戦線の議長)政権軍と、その後も駐留したベトナム軍との内戦が続きました。
ポル・ポトはなおもクメール・ルージュの指導者として強い影響力を維持し、中国とアメリカの支援(ソ連が北ベトナムとヘン・サムリン政権を支援したため)を受けながら、ベトナムへの抵抗を呼びかける事でカンボジア国民の支持を得ようとし、虐殺行為の停止命令、(農場での)集団での食事の停止、子供を両親の元へ戻す、個人の所有権の解禁などイデオロギーを大幅に軟化させ「周囲の裏切り者に過度に信頼を寄せたために間違いを犯した」と、それまでのクメール・ルージュの政策が間違いであったと認める発言もしています。
しかし、多くのカンボジア国民はクメール・ルージュによる虐殺・粛清の記憶から、ポル・ポト派を支持する事はありませんでした。
1986年にのソ連のペレストロイカの影響により方針を変化させてヘン・サムリン政権への支援を停止。一方でシハヌーク国王がヘン・サムリン政権に接近するなどしたためポル・ポト派は民衆の支持を完全に失い孤立しました。
ポル・ポトはこの頃にガンを患い、中国北京の軍病院で治療を受けています。
1989年の東西冷戦が終結するとベトナム軍がカンボジアから撤退を表明。1991年にはパリでカンボジア和平協定が調印されるも、ポル・ポト派は兵力削減の同意に従わずにタイ国境付近でゲリラ戦を続けました。これにより、ポル・ポト派は国際社会からも孤立し中国からの支援も打ち切られ戦力は急速に低下しました。
和平協定により、カンボジアは「国連カンボジア暫定統治機構」に暫定統治され、1993年に民主的な総選挙が実施されました。ポル・ポト派はこの選挙のボイコットを民衆に呼びかけるも予定通り選挙は実施され、それによりシハヌーク国王支持派が政権を取り、シハヌーク国王が復帰して1993年9月に「カンボジア王国」が成立しました。
こうしたカンボジアをめぐる国際情勢の変化に、ポル・ポト派は置いていかれる形でジャングルの中で孤立し党員の離脱が続出しました。
1996年には、ポル・ポト派のナンバー2であったイエン・サリが妻のキュー・チリト(ポル・ポトの最初の嫁・キュー・ポナリーの妹)と自分に忠誠を誓う約4000名の兵士と共に降伏を表明しポル・ポト派から離脱しました。
これによりポル・ポト派の戦力は半減し、ポル・ポト自身もガン治療を受ける事もままならず体調を悪化させ、大動脈弁狭窄症と脳卒中を発症して身体の左側が麻痺し、晩年は毎日酸素吸入が必要なほど衰えていました。
パリ留学時代からの仲間であったイエン・サリとキュー・チリトの裏切りにより、ポル・ポトは猜疑心に駆られ、側近であったソン・センを粛清しその家族も虐殺しました。この行為が残った幹部らの反乱を招き、ポル・ポトは逮捕されて人民裁判にかけられ終身禁錮刑を宣告されました。この時、ポル・ポトの側近3名には死刑が宣告され処刑されています。
そして、ポル・ポトはそのすぐ後の1998年4月15日に死亡した事が発表されました。死因は「心臓発作」と発表されていますが、不審な点が多く実質的にクメール・ルージュにより死刑に処されたのではないかといった見方もありました。
ポル・ポトの死亡後、クメール・ルージュは幹部のタ・モクにより抵抗が続けられましたが、これも1999年には投降してポル・ポト派は完全に滅亡しました。
ポル・ポトの最後は死刑ではなく病死で死因は心臓発作だが毒殺説も存在
1998年4月15日に72歳で死亡したポル・ポトの死因は、クメール・ルージュによって「心臓発作」と発表されましたが、遺体の爪が変色していた事から、本当の死因は毒殺か服毒自殺ではないかとする説があります。
最後を悟ったクメール・ルージュの幹部が、虐殺や粛清の責任を全てポル・ポトに押し付けるために毒殺したとも、自分の身柄がアメリカに引き渡される計画を知ったポル・ポトが最後を悟ってバリウムとクロロキンの混合薬を摂取して自殺したとも言われていますが真相はわかっていません。
ポル・ポトの遺体は仏教式の簡単な葬儀の後、古タイヤや家具などの粗大ゴミと一緒に火葬され、その場所にそのまま埋められました。ポル・ポトの嫁のミー・ソンと子供のサル・パチャタが火葬に立ち会い、「世間が何と言おうと、私達にとっては優しい夫であり父でした」とのコメントを発表しています。
ポル・ポトの墓
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ポル・ポトの墓は、ポル・ポトの最後の地であるタイ国境の町・アロンベンの北16kmほどの地に残されています。
ポル・ポトの墓は墓碑もなく、粗末なトタン屋根に「ポル・ポトはここで火葬された」と書かれた看板が取り付けられているだけのもので、野晒しにされています。
墓とはいってもポル・ポトの遺体はここには埋葬されていません。ポル・ポトは民衆に恨まれているので遺体が荒らされる可能性があるため嫁と娘ら親族が遺体はどこかへ持ち去って埋葬したという事です。
ポル・ポトを題材にした映画
ポル・ポト政権時代を題材にした映画は多くありますが、1984年公開の「キリング・フィールド(The Killing Fields)」と、2017年からNetflixで独占配信されている映画「最初に父が殺された」が名作です。
いずれの映画もポル・ポトという人物にスポットを当てた映画ではなく、ポル・ポト政権時代のカンボジアの圧政と虐殺に焦点を当てた作品となっています。
いずれの映画も史実に基づいてかなり忠実にポル・ポト時代が描かれており、当時の雰囲気をリアルに感じ取る事ができる作品となっています。ただ、その分だけ精神的にかなり“キツい”映画です。自己責任で鑑賞してください。
まとめ
今回は、1975年から1979年までカンボジアに原始共産主義を掲げる独裁政権を敷き、100万人〜300万人もの国民を虐殺、粛清したとされ、史上最悪の独裁者とも言われるポル・ポトについてまとめてみました。
ポル・ポトは、学生時代にパリに留学し共産主義に染まり、帰国後に過激な共産主義活動に身を投じ、ベトナム戦争の混乱に乗じて政権を握り、極端な原始共産主義国家を作り上げる事を目的とし、結果として虐殺と粛清を引き起こしました。
ポル・ポトの名言として、「罪のない人を誤って殺すのは、罪のある人を殺し損ねるよりマシである。」、「腐った林檎は箱ごと捨てなければならない」などの恐ろしい内容が伝わっています。
ポル・ポトは生涯で2度結婚しており、1度目の結婚の嫁は共産主義活動の仲間だったキュー・ポナリーで、2度目の結婚の嫁は農民の娘であるミー・ソンでした。ポル・ポトとキュー・ポナリーとの間には子供は生まれませんでしたが、2人目の嫁のミー・ソンとの間には娘が1人生まれています。
ポル・ポトのただ1人の子供である娘のサル・パチャタは2014年に結婚し、米農家として生活しているようです。
ポル・ポトの晩年は政権を倒されてジャングルの中で抵抗を続け、長くカンボジアに混乱をもたらしました。晩年は病気により衰弱し仲間の裏切りもあって猜疑心に駆られ、側近を粛清してその家族も虐殺するなどして部下から見放されて裁判にかけられ死刑は免れたものの終身禁固刑を宣告されて失脚しました。
ポル・ポトの最後は1998年4月に心臓発作で死亡したとされていますが、本当の死因は毒殺か服毒自殺だったのではないかと言われています。
ポル・ポトの墓は、最後の地であるタイ国境の町・アロンベンの北16kmほどの地に残されていますが、トタン屋根だけの粗末なもので野晒しにされています。
ポル・ポト時代を描いた映画としては1984年公開の「キリング・フィールド(The Killing Fields)」とNetflixで独占配信の映画「最初に父が殺された」が名作です。