ムッソリーニは何した?死因と最後や処刑画像・子孫や孫の現在・身長と生涯まとめ

ムッソリーニは第2次世界大戦時のイタリア首相であり、ファシズムの祖、ヒトラーが師と崇めたことで知られます。この記事ではムッソリーニは何した人物なのか、小柄だったという身長、孫や子孫、死因と死刑に至るまで、最期の画像をまとめて紹介します。

ムッソリーニとは何した人物?【ファシズムの創始者】

 

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ベニート・ムッソリーニは、1922年から約20年にわたってイタリアの第一党であった国家ファシスト党を率いた人物で、第2次世界大戦におけるイタリアを導いた「悪しき指導者」として知られます。

 

首相就任後は複数の大臣職を兼任し、独裁国家を樹立。ヒトラーはこのムッソリーニの体制を真似てナチス政権をつくったとされます。

 

イタリアが早期に第2次世界大戦から離脱したこともあり、三国同盟を結んでいながらムッソリーニが何をしたのか、どのような政策をとったのかということは日本であまり知られていません。

 

ヒトラー、スターリンほどではない独裁者、というイメージを持っている方も多いのではないでしょうか。

 

しかしながら政治家としてのムッソリーニの手腕を評価する声は少なくなく、「歴史上、もっとも偉大なイギリス人」とされるウィンストン・チャーチルも、ムッソリーニのことを「世界発展の座標」とまで評していました。

 

また、ムッソリーニの掲げた労使協調を訴えるコーポラティズムは現代の思想にも通じるものがあり、独裁者としての面だけではなく、思想家・政治家としての価値を再確認するべきだとする指摘もあります。

 

 

 

ムッソリーニの生涯① 生い立ちと少年期

 

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ムッソリーニは1883年7月29日に、イタリア中部のフォルリ県プレダッピオ市のドヴィアに生まれます。1885年には弟、1888年には妹が誕生しており、3人兄妹の長男でした。

 

父親のアレサンドロは鍛冶屋を務める一方で熱心な社会主義者であり、社会主義者の国際組織・第二インターナショナルのメンバーだったとされます。社会主義派の新聞へ論文の投稿もしており、1889年にはプレダッピオの市会議員にも選出されました。

 

なお、ムッソリーニの名である「ベニート・アルミカレ・アンドレア」は父親のつけたもので、メキシコの革命家のベニート・フアレス、イタリアのアナーキストのアルミカレ・チプリアーニ、同郷の社会主義学者、アンドレア・コスタからそれぞれとったそうです。

 

片や母親のローザは敬虔なカトリック教徒で、小学校の教師でした。アレサンドロは仕事そっちのけで社会主義活動に傾倒していたといい、家計を支えたのは母・ローザだったといいます。

 

両親は教育方針も異なっており、無神論者の父が子どもたちにマルクスの『資本主義』などを読み聞かせる一方で、母は子供を日曜学校に連れて行くなどしていました。

 

そのため兄弟間でも異なる思想を持つようになり、弟は母に似て信心深い性格に、ムッソリーニ自身は父に似て無神論になり、日曜学校にも行かなくなったとされます。

 

教会を嫌っていたムッソリーニですが、9歳の時に入学したのは実家から30km離れた場所にあるサレジオ教会の修道士が運営する寄宿学校でした。

 

成績は優秀であったもののこの学校に馴染むことができず、11歳の時に同級生と喧嘩をして相手を刺してしまい、放校処分に。転校先の寄宿学校でも喧嘩から傷害沙汰を起こしたそうです。

 

 

 

ムッソリーニの生涯② 青年期

 

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寄宿学校を卒業したムッソリーニは師範予備校、師範学校へと進学しました。師範学校での成績は優秀で、科目別では歴史、イタリア語、文学、合唱でトップの成績を収めたとされます。

 

この好成績のおかげでムッソリーニは小学校教諭の資格を取得し、師範学校卒業後は母親の代わりにドヴィアの小学校の教壇に立つこともあったそうです。

 

当時のイタリアで低所得層出身者が社会階級を駆け上がるためには、教員になることが手っ取り早かったといい、青年時代のムッソリーニはそのことに気づき、「大衆には教育が必要。教育を施すべき」という父親の思想を受け継ぐこととなります。

 

その後、ムッソリーニは本格的に教職に就くことを希望してドヴィアから150km離れたグァルティエリで小学校教師の職を得ました。

 

実は師範学校時代の成績は優秀であったとは言え、政治思想や活動履歴から若きムッソリーニを採用しようという学校はほとんどありませんでした。しかし、グァルティエリはイタリアで初めて社会主義者が市政を握った場所であったため、故郷から離れた場所での就職となったのです。

 

ところが教師としての評価は良かったものの、私生活で人妻と恋仲になったことが街中に知られてしまい、19歳を目の前にして教師を辞めてスイスへ旅立つことに。

 

そのまま約2年間スイスで放浪生活を続けており、この放浪には徴兵逃れの狙いもあったとされます。

 

 

スイスでの暮らし

 

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スイスでは、イタリア人社会主義者たちの力を借りながら生活をしていたというムッソリーニ。この時期に社会主義者、ジャーナリスト、文筆家として頭角を現したそうです。

 

イタリア、スイス、アメリカなど各国で刊行されたイタリア語の社会主義新聞に寄稿し、着実に知名度を獲得していきました。

 

ただ、これらは原稿料が支払われるような仕事ではなかったため、もっぱら肉体労働で生計を立てていたそうです。

 

さらにムッソリーニはローザンヌ大学の社会科学部に学生登録し、そこで「社会はエリートによって支配される」という思想を強め、「労働エリートによる革命と力の行使が資本主義を打倒する」という考えを深めたといいます。

 

なお、スイス滞在中の1904年の3月にムッソリーニはパリ・コミューンを記念する集会でレーニンと出会っていた可能性があるとされています。

 

この頃、シベリア送りの刑期を終えたレーニンも亡命してスイスで暮らしていました。レーニンも、ムッソリーニの政治家としての能力を高く評価した人物の1人として知られます。

 

 

イタリアへの帰国

 

1904年4月30日、ムッソリーニは徴兵から逃れのためにスイスへ飛んだという理由でボローニャの軍事法廷にかけられ、懲役1年の実刑判決を下されます。

 

幸運なことにこの年の秋にイタリア国王に男児が生まれたことによって恩赦となり、服役は免れましたが、これを機にムッソリーニはイタリアに戻ることとなりました。

 

そして結局、自ら志願するかたちで1905年1月から1906年9月まで兵役につくことに。軍では狙撃隊に配属されます。

 

1905年2月に母親のローザが亡くなるのですが、これを好機とムッソリーニは軍の上司にいかに自分が母親や祖国を愛しているかを切々と訴える手紙を書き、その影響で社会主義者に厳しかった軍隊のなかでの立場が一気に好転したといいます。

 

この行動から見えるように、ムッソリーニという人物はたとえば過激な共産主義者のように「命を落としても信条は曲げない」といったタイプではなく、その時々に応じて柔軟に対応を変えていました。この性格は一国の首相になっても変わらず、イタリアの命運を左右したとされます。

 

 

ジャーナリストとして名をあげる

 

兵役を終えた後、ムッソリーニは再びイタリアで教師の職を得ます。しかし長続きせず、1908年7月には故郷のドヴィアに戻り、その後は父親を伴ってフォルリに転居して社会主義ジャーナリストとして本格的に活動を開始しました。

 

そして1909年2月には当時、オーストリア・ハンガリー帝国のトレンティーノ州の州都・トレン卜の社会党機関誌『ラッヴェニーレ・デル・ラヴォラトレーレ』の編集長に就任し、社会主義日刊紙『イル・ポーポロ』にも参画。

 

26歳の誕生日を控えた同年7月には『イル・ポーポロ』の編集長になり、教会と民主主義を批判する紙面をつくります。

 

これに対してさらに批判的な記事を掲載したのが、カトリック教徒、保守派主宰の日刊紙『イル・トレンティーノ』です。

 

『イル・トレンティーノ』の編集長は第二次世界大戦後にイタリアの首相となるアルチーデ・デ・ガスペリであり、2紙の間では凄まじい誹謗中傷合戦が繰り広げられました。

 

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ムッソリーニの言葉は簡潔かつ暴力的なもので、非常に大衆受けが良かったとされます。そして「革命は民主主義や議会では生じない」という彼の主張は、次第に民衆から受け入れられるようになっていったのです。

 

 

結婚と社会主義者としての台頭

 

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1910年1月17日、26歳になったムッソリーニは19歳の恋人・ラケーレと結婚し、同年の9月には長女のエッダが誕生します。そして同年11月には、ムッソリーニの思想に影響を与えた父のアレサンドロが56歳で死去。

 

仕事では結婚直前の1月9日にフォルリの社会主義者たちの新聞『ラ・ロッタ・ディ・クラッセ』を創刊し、フォルリ社会党の総書記に任命されました。

 

1911年9月、リビアをめぐってイタリアがトルコに宣戦布告をしたことに端を発するイタリア・トルコ戦争が始まると、ムッソリーニはこの戦争に反対し、社会党は全国的にゼネストの実施を呼びかけます。

 

しかし大局としては失敗に終わり、フォルリでのストに成功したムッソリーニは10月に逮捕されて懲役1年の実刑判決を受けて投獄されることに。結局、控訴院で減刑されたために5ヶ月半で釈放され、1912年3月12日には出所します。

 

その後、7月に行われた第13回イタリア社会党退会で演壇に立ったムッソリーニは、党による革命を遂行するべきだという過激な持論を展開し、穏健派の追放に成功。圧倒的な支持を得て党の新執行部に選出されました。

 

また、この頃のムッソリーニは、トリノやミラノなどのイタリア南部では工業化や商業化が著しい一方で、ミラノなどの北部は目立った産業がなく貧しいという点に着目し、イタリアの南北格差を解消するということを政策の柱に掲げていたとされます。

 

こうした政策も受け入れられ、イタリア社会党のなかで破竹の勢いで出世していきました。

 

 

 

ムッソリーニの生涯③ 第一次世界大戦とファシズムの誕生

 

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イタリア社会党の指導部に入ったムッソリーニは、党の機関誌『アヴァンティ!』の編集長に任命されました。

 

同時にフォルリからミラノに転居。編集長が変わったことで『アヴァンティ!』の部数は爆発的に伸び、2年で2倍以上に拡大させたといいます。

 

1914年6月、改善されない生活に不満を持つ民衆が決起し、各地でデモやストを行う「赤い一週間」が勃発しますが、ムッソリーニはこれに協力せず、『アヴァンティ!』で扇動するのみでした。

 

というのも、この頃になるとムッソリーニは民衆の暴動で権力が手に入るという単純な幻想は捨てていたといい、赤い一週間で蜂起した民衆が軍隊によってたちまち制圧される様子を見て、あれだけ訴えてきた革命から手をひこうとまで考えていたそうです。

 

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そんななか、悩めるムッソリーニの前に転機が訪れます。第一次世界大戦の勃発です。

 

当時の社会主義者の考えでは国家間での戦争は特権階級によって引き起こされるもので、一般大衆は徴兵され、住む場所が戦地となり、殺されるだけの存在とされていました。

 

そのため戦争は反対するべき行為で、社会主義者は政府の戦争を邪魔するためにストやデモを行うのが常でした。

 

ところが第一次世界大戦前後から社会主義者の間にも考えの変化が生まれており、ドイツやイギリス、フランスの社会主義者の間では自国政府を支持し、戦争を受け入れる動きが見られるようになっていたといいます。

 

各国の労働者たちは国境を超えた階級闘争よりも、国土を拡大したほうが民衆の暮らしに利益があるとして、自国が戦争で勝つことを望むようにシフトしていたのです。

 

民衆による革命は不可能だと考えていたムッソリーニも、戦争支持に傾きだしていました。戦争をすることで特権階級や政治家を疲弊させれば、民衆による革命が容易になるのではないかと考えたためです。

 

こうしてムッソリーニは戦争反対、中立の立場を捨てて、場合によっても戦争を容認すべきという持論を『アヴァンティ!』に掲載します。

 

しかしこの考えは依然として戦争反対の態度を崩さなかったイタリア社会党では拒否され、ムッソリーニは『アヴァンティ!』の編集長を追われることになりました。

 

 

 

戦争開幕とファシズムの誕生

 

イタリア社会党からは拒絶されてしまったものの、ムッソリーニの戦争に対するスタンスは民衆からは大きな支持を得ました。逆に時代の流れについていけない古い考えを固持していたイタリア社会党は民衆の支持を失って急速に衰退していきます。

 

1914年7月に第一次世界大戦が勃発すると、当時のイタリア首相のアントニオ・サランドラは中立的政策をとると表明。

 

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これを受けて、もはや戦争賛成派となっていたムッソリーニは革命的左派と協力して行動するべきだと考えます。

 

そして戦争賛成派がつくった「インターナショナル派革命的行動ファッシ」という組織に合流し、1914年12月1日にこの組織をもとにした「革命的行動ファッシ」を発足しました。これが「ファシズム」の原点とされています。

 

ファッシとはイタリア語で「束」を示す「ファッシ」の複数形です。ムッソリーニはイタリア社会党を離れてから発刊した自らの新聞『イル・ポーポロ・ディタリア』で盛んに「ファッシ」という言葉を使って、三国同盟に与するオーストリアやドイツと戦うべきだと訴えました。

 

 

 

第一次世界大戦への参加

 

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1915年の2月末になるとムッソリーニの主張に賛同した人々が次々に声をあげ、イタリア国内には105のファッシが組織され、9,000人を超える人々が活動に参加していました。

 

そして同年5月24日にイタリア政府はオーストリアに宣戦布告。8月31日にはムッソリーニにも招集命令が届き、狙撃舞台に配属されます。

 

途中、チフスに罹って入院したものの、前線に戻ってからのムッソリーニは順調に出世し、1916年8月には上級伍長に昇進しました。また、この頃に妻のラケーレが第2子となる男児・ヴィットリオを出産しています。

 

戦場にいながらもムッソリーニは毎日、戦争日誌をつけて『イル・ポーポロ・ディタリア』の編集部に送り、読者に自分の活躍をアピールしました。

 

しかしイタリア軍の装備は貧弱で、1917年10月から11月の間にはカポレットの戦いでオーストリア・ドイツ軍に大敗を喫してしまいます。

 

この歴史的な大敗を機にイタリア人はナショナリズムに一気に傾いていったとされ、ムッソリーニも社会主義よりもナショナリズムに傾倒していきました。戦争が民衆を高揚させ、団結させることに気づいたのです。

 

この体験が、ムッソリーニが政治家を志すきっかけになったと考えられています。

 

1918年10月、イタリア軍はイギリスとフランスの援護を受けながらオーストリア軍を押し返してトレンティーノ占拠に成功。

 

そして11月3日にオーストリアと休戦、9日にはドイツで革命が起こり、その2日後に第一次世界大戦は集結したのでした。

 

 

 

ムッソリーニの生涯④ ファシズムの台頭

 

戦勝国となったものの、戦後のイタリアは67万人の死者と95万人の負傷者を出していたうえ、参戦に際してイギリス、フランス、ロシアと密約していた三国協商も果たされず、約束した領土も一部しか割譲されませんでした。

 

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イタリアは戦争には勝ったものの講話で負けた状態となり、領土回復という悲願を絶たれた国民の不満は爆発的に膨れ上がります。

 

さらに戦後のイタリアは未曾有の不景気に襲われ、失業者は約200万人にものぼり、物価も1915年から1921年の間に400%も上昇。各地でストやデモが頻発し、まさに革命前夜という状態にありました。

 

こうしたなか、ムッソリーニはジャーナリストから政治家への道を模索し始めました。そして1919年3月に、服役軍人や革命的サンディカリストを集め「イタリア戦士のファッシ」という全国的なファシズム組織を発足します。

 

ムッソリーニの唱えるファシストの要綱

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・女性をふくむ18歳以上の者、全員に参政権を与える

 

・比例代表での選挙

 

・下院議員の被選挙者の年齢引き下げ

 

・王室、上院、世襲の称号の廃止

 

・8時間労働制の導入

 

・労働者の経営参加

 

・教会資産と富裕者の土地の没収

 

・累進課税の導入

 

第二次世界大戦の枢軸国が掲げて思想ということもあり、ファシズム=独裁者による右翼思想というイメージがありますが、上の要綱を見てもわかるようにムッソリーニが訴えたのは「富裕層から労働者を守る」という社会主義的な色合いの強いものでした。

 

 

1919年の惨敗

 

ムッソリーニの主張は労働者、とくに戦争に参加して勝って帰ってきたにもかかわらず、仕事もなく、社会党員から馬鹿にされてきた復員兵からの支持を得ました。

 

彼らは社会党の「赤」に対抗して「黒」をファシストのカラーとし、特別攻撃隊員が戦時下に歌っていたとされる『青春』を歌いながら行進するなどの活動をしました。

 

 

こうしてイタリア戦士のファッシは全国に支部を持つまでに急成長し、1919年、ついに下院議員選挙に打って出たのです。

 

ところが結果は惨敗。ミラノから出馬したムッソリーニも落選し、全国で獲得できた議席はゼロに終わりました。

 

反対に社会党は議席を伸ばし、選挙結果に落胆したムッソリーニは政治家への道を諦めようとさえ思ったといいます。

 

しかしムッソリーニは諦めず、なんとか支持者を得ようと前述のファシスト要綱から左翼的な思想を削除し、「ブルジョア階級も労働者階級も、生産活動にかかわる者はすべて保護されるべき」という路線を展開しました。

 

これが当時のジョリッティ首相から受け入れられ、首相はブルジョア階級を敵視する社会党に対抗するためにムッソリーニを利用しようと考えます。

 

そして1920年の地方選挙ではジョリッティ派とファシストは比例代表の同一名簿で立候補することとなり、ムッソリーニの政治家への道がひらけたのでした。

 

この頃から、当初から社会党相手に暴力行使を持さなかったファシストの活動は、いっそう過激なものとなっていきます。

 

農地を守りたい地主と農民の間での対立が激しかった農村部では、地主がラスという用心棒組織のようなものを雇い、ここにファシストがくわわったことから、急激に地方でファシズムが拡大。

 

さらに過激なファシストが各地の社会党を暴力で制圧する「懲罰遠征」を行うようになります。

 

本来であれば警察がこれを抑えるべきですが、首相が社会党への暴力装置としての役割をムッソリーニに期待していたため、ファシストの暴力行為は容認されていました。

 

組織化された武力攻撃で敵対勢力を殲滅する。政治家にあるまじき行為ですが、これはファシストの常套手段として定着していくこととなります。

 

 

 

ムッソリーニの生涯⑤ 国家ファシスト党とローマ進軍

 

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1921年4月、ジョリッティ首相は議会を解散することとなり、5月15日に総選挙が行われました。

 

ムッソリーニはジョリッティ首相と協力して「国民ブロック」という組織から立候補し、見事に当選を果たし、ついに国政に進出したのです。結果としてこの選挙でファシストは35議席を獲得し、2年前の雪辱を果たしたのでした。

 

議会入りをしたムッソリーニは、ここまで協力関係であったジョリッティ首相への支持を撤回し、首相と袂を分かちます。

 

ジョリッティ側はムッソリーニを利用していたつもりだったのですが、ムッソリーニも単に首相を利用していたにすぎず、議会での求心力を失っている首相と行動してもメリットはないと判断したのです。

 

この判断は正しく、選挙の1ヶ月後にジョリッティ内閣は倒れて改良社会主義派のイノヴァエ・ボノーミが就任。しかし、この時点ではどの政党も単独で過半数の議席を占めていなかったため、人民党の協力を得ての首相誕生でした。

 

一方、選挙後もファシストと社会党・共産党との暴力抗争は続いていました。ムッソリーニは暴力に嫌気がさした国民から支持が得られなくなるのではないかと考え、各地で勃発しているファシズム運動を画一化することを決意します。

 

そして1921年11月、イタリア戦士のファッシを解消して、約25万人ものメンバーを持つ国民ファシスト党を結成したのです。

 

 

 

ムッソリーニの生涯⑥ ローマ進軍と政権獲得

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1922年2月、ボノーミ政権も崩壊し、ルイージ・ファクタ政権が設立されますが、もはや自由主義者を中心とした従来の政治では、諸勢力をまとめて議会を運営するのは不可能な状態でした。

 

支持層を拡大していたムッソリーニが、このような好機を逃すわけがありません。弱体なファクタ内閣でさえ認められるのなら、独裁政治も受け入れられるのではないかと考えるようになっていきました。

 

ムッソリーニは次々と大物政治家に接触を図り、王宮内でファシストに好意的であった皇太后らともパイプを繋ぎ、適ししていたフリーメイソンの元も訪れたとされます。

 

そして水面下で人脈を作るとともにローマに進軍して力を誇示し、武力で政権に就く道も模索したのです。このような考えが生じるほど、当時のイタリアは法治国家の機能を失っており、暴力行為が横行していたのでした。

 

こうして19922年10月28日の午前0時、黒シャツを身に着けたファシストが各地の都市に集まり、ムッソリーニの指示でいっせいにローマに向けて行進をはじめることとなります。

 

ローマ進軍を受けてファクタ首相は戒厳令の布告を決め、王宮にむかって国王への署名を求めました。しかしファシズムに国家再建の希望を見出していたのか国王は署名をせず、ファクタ首相の辞表を受理。

 

30日昼にローマに到着したムッソリーニのもとには各地から集った5万人ものファシストが集結し、黒シャツ姿のまま国王に謁見したムッソリーニは王から組閣を命じられ、首相の座に就いたのです。

 

 

 

ムッソリーニの生涯⑦ 政治家としての手腕

 

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首相就任したムッソリーニは、外交・内政両方で数々の成果をあげて国民から圧倒的な支持を獲得していきました。

 

首相・ムッソリーニが成し遂げたことの一部として、以下のようなものが知られています。

 

コルフ島事件

 

ギリシャ・アルバニアの国境策定にあたっていたイタリアの将軍が殺害されたコルフ島事件で、ギリシャに多額の賠償金を突きつけ、この要求を通す。これによって国民は「強い指導者」としてムッソリーニを支持するようになる。

 

フィウメ回収

 

ユーゴスラビアとローマ条約を締結し、本来ならば第一次世界大戦終結の際に戻されるはずだったフィウメを回収する。国民の支持はさらに高まり、国王から最高の勲章を賜る。

 

ローマ教皇庁への接近

 

国家と教会の和解を掲げてローマ教皇庁に近づき、ヴァチカンの利益を保護する政策を実行して教皇の信頼を得る。これによってカトリック政党であった人民党は急激に弱体化する。

 

財政再建

 

省庁の統廃合と公務員の削減を行い、企業に行動の自由を許した。政治が安定したことで海外からの投資も生まれ、1924年には赤字続きであった財政が黒字に転じる。

また公共事業による雇用創出も行い、失業者を大幅に減らした。

 

優れた政策でイタリアを立ち直らせたムッソリーニですが、1924年6月に対立していた第一社会党の書記長・マッテオッティが何者かに殺害されるという事件が起こり、自分やファシスト党の幹部が疑われるという苦境に追い込まれました。

 

この打開策としてムッソリーニが選んだのが独裁への道であり、自分への異を唱える者を排除し、国家の諸権力を転覆させるおそれのある組織に解散を命じたのです。

 

実はムッソリーニ独裁への道は賭けでした。上記の方針を国民が認めてくれれば独裁政権が樹立されますが、批判が大きければファシスト党は政権から離脱しなければいけない状態だったのです。

 

ムッソリーニのカリスマ性が、政権にしがみつく逃げ道としての独裁を許してしまったと言えるでしょう。

 

 

 

ムッソリーニの生涯⑦ 第二次世界大戦・ヒトラーとの関係

 

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1936年、スペインで左翼政権が発足し、これに反発する組織が反乱を起こすというスペイン内戦が勃発。

 

反政権派にムッソリーニとヒトラーが支援につき、政権派をソ連が支持し、ヨーロッパを巻き込む争いになるのではと危惧されましたが、内戦は1939年4月に反政権派の勝利で終結しました。

 

このスペイン内戦はムッソリーニとヒトラーという2人の独裁者を結びつけるきっかけとなり、ここからイタリアとドイツは会談を重ねていき、1936年には日本をくわえた日独伊防共協定が締結されます。

 

ムッソリーニ政権下のイタリアはイギリスとの関係も非常に良好であったため、当初、ドイツに肩入れをするというよりも英独のバランサーとしてムッソリーニは機能しました。

 

しかし、イギリスと親しいフランスがファシズムに対する嫌悪感を顕にしてことからドイツとの関係に重きをおくようになっていきます。

 

こうして1937年になると、ヒトラーに同調するようにファシズムの敵として反ユダヤを掲げるようになり、1938年には反ユダヤ法を制定。さらに同年には両国の間で軍事同盟が結ばれることとなりました。

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この軍事同盟は鋼鉄条約と呼ばれ、一方の国が戦争状態になった場合には必ず他方は協力しなければならないというものでした。こうして侵略戦争を続けるドイツに引きずられるような形で、イタリアは第二次世界大戦に突入していったのです。

 

ヒトラーはムッソリーニの政治手腕やファシズムという考え方に影響を受けたとされていますが、ムッソリーニもまた、積極的に国土拡大を目指すヒトラーに嫉妬と対抗意識のようなものを持っていたとも指摘されています。

 

 

第二次世界大戦

 

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1940年6月10日、ムッソリーニはフランスとイギリスへの戦線布告をします。この時、イタリアには長期戦を戦えるだけの軍事力はなく、戦争への参加はドイツの短期勝利を信じていたムッソリーニの大失態だったと言えます。

 

列強と比べて重工業発展の遅れから軍の近代化が進んでおらず、軍の編成そのものが近代化に向けて準備中だったところにムッソリーニの独断で宣戦布告してしまったため、そもそもイタリアには開戦時から戦争を勝ち抜く力がなかったのです。

 

第二次世界大戦のイタリア軍は弱かった、という話を聞いたことがある方も多いと思いますが、弱かった理由は圧倒的な軍事力不足にありました。

 

そのためイタリアは海戦早々にギリシャに負け、ヒトラーの指揮下で戦うことになります。政治家としては師匠の立場にありながら、戦時下ではヒトラーの弟子のような立場になってしまったのです。

 

しかもヒトラーもイタリア軍のあまりの弱さに援軍どころか足手まといになることを懸念するようになり、軍の機密に関することも教えなくなったといいます。ソ連侵攻さえ、寝耳に水だったそうです。

 

こうしてイタリア軍はさしたる戦績も残せないまま、1943年8月半ばにはシチリア島のほぼ全域を連合国軍に制圧されてしまいます。

 

 

 

ムッソリーニの最期・死因と死刑画像

 

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敗戦を続けてシチリア島まで陥落させたムッソリーニに対し、イタリア国民は不満が募り、連合国軍への降伏とムッソリーニの排除を求める声が急拡大していきました。

 

イタリアでは憲法上、首相の任命決は国王にあったことから反ムッソリーニ派は内密に国王と会い、ムッソリーニの逮捕を求めたとされます。

 

そして1943年7月25日、ムッソリーニは国王と謁見し、ねぎらいの言葉を賜った後に憲兵に逮捕されることとなったのです。

 

こうしてファシスト政権は幕を閉じたのですが、国民の期待とは裏腹にムッソリーニの逮捕は戦争終結には繋がりませんでした。

 

暴走するヒトラーを講和の席につかせて戦争を終結できる人物は、ムッソリーニしかいなかったからです。またムッソリーニであればイギリスのチャーチル首相との関係も良好であったため、連合国軍との交渉も適任でした。

 

そこまで考慮せずにムッソリーニを逮捕したため、イタリアは彼を盟友と慕うヒトラーを激怒させてしまい、ムッソリーニ奪還を試みるドイツ軍への対策を余儀なくされます。

 

こうしてイタリアは戦争を続ける体力がないにもかかわらず、1943年から1945年までの間、ドイツ軍と連合国軍の戦場となったうえに、ドイツが占拠するナポリ以北と連合軍が支援するナポリ以南でわかれ、イタリア人同士の内線まで勃発するという苦難の日々を過ごすことになったのです。

 

 

ムッソリーニの最期

 

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1943年9月、ドイツ軍の特殊部隊によってムッソリーニは幽閉されていたグラン・サッソ山から救出され、ローマに戻ることとなりました。

 

そしてヒトラーから戦争への協力を乞われ、ヴェネツィアとミラノの中間地点に自らを元首とする「イタリア社会共和国」を建国します。

 

しかし、連合国軍だけではなくソ連の指示で革命を企てる共産党主流派のパルチザンからも攻撃を受け、1945年の春には妻子に連絡してスイスへ亡命するように指示しました。

 

次いで4月26日、ムッソリーニ本人もコモを経由してスイスに向かう途中で、母国に撤退するドイツ軍に合流して一緒に逃亡を図りました。

 

ところが4月27日にパルチザンに捕捉されてしまい、逮捕。28日には同行していた愛人のクラレッタらとともに銃殺され、61年の生涯を終えたとされます。

 

ムッソリーニらの遺体は4月29日の朝にはミラノ中央駅のロレート広場に見せしめとして逆さ吊りにされた後、連合軍によって回収されました。

 

出典:https://ja.wikipedia.org/

 

 

 

ムッソリーニの子孫・孫の現在

 

出典:https://ja.wikipedia.org/

 

ムッソリーニの孫であるアレッサンドラ・ムッソリーニは、ネオ・ファシストの政治家として1992年から2020年まで活動しており、下院議員(5期)、上院議員(1期)、欧州議会議員(2期)を歴任しました。

 

母親の姉が女優のソフィア・ローレンであるため、当初は伯母の英才教育のもと女優の道を進んでいましたが、ある芸能関係者から「仕事をするならムッソリーニの姓は捨てたほうがいい」と言われて、芸能界を引退したといいます。

 

医師免許も持っており、芸能活動から政治活動に移行するまでの間は外科医として勤務し、一男二女を育てたという才女です。

 

 

 

ムッソリーニの身長は低かった?スターリンやヒトラーとの比較

 

ムッソリーニの身長は169cmと伝えられています。写真を見る限り恰幅がよく、恵まれた体格をしている印象があるので、思ったより小柄だと感じる方も多いのではないでしょうか。ちなみに体重は70kgだったといいます。

 

第二次世界大戦下のほかの指導者としてはヒトラーが175cmと以外に高身長なこと、スターリンの身長が162cm程度であったことが知られています。

 

 

 

ムッソリーニについてのまとめ

 

今回はイタリアの元首相、ムッソリーニの生涯と第二次世界大戦下でのヒトラーとの関係、最期や死刑画像について紹介しました。

 

第二次世界大戦での指導力だけを見ると頼りなく、ヒトラーに利用されることさえなかったという印象のムッソリーニですが、平時の政治家としての手腕や思想は秀でており、その点を評価する声が多いのも頷けます。

 

おそらくヒトラーと同時期に存在しなければ、国民から糾弾されるような最期ではなく、さらに評価も変わっていたのでしょう。

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