現在の沖縄県一帯に15世紀〜19世紀にかけて存在した「琉球王国」が話題です。
この記事では琉球王国の薩摩藩の侵攻により日本と中国に両属しながらも貿易で栄えた歴史や創始した王の尚巴志王や最後の王である尚泰王、なぜ滅びたのか、使われていた言語や子孫についてまとめました。
この記事の目次
- 琉球王国は15世紀〜19世紀にかけて現在の沖縄に存在した王国
- 琉球王国の歴史① 三山時代を経て尚巴志が琉球統一し第一尚氏王統が成立
- 琉球王国の歴史② 日本、朝鮮、中国、東南アジアとの貿易で繁栄
- 琉球王国の歴史③ クーデターにより琉球王国第一尚氏王統が滅亡
- 琉球王国の歴史④ 尚円王が興した第二尚氏王統は貿易により全盛期に
- 琉球王国の歴史④ 薩摩藩の琉球侵攻に敗れ薩摩藩など日本の支配が強まる
- 琉球王国の歴史⑤ 明治政府による琉球処分により滅亡へ
- 琉球王国を興した王・尚巴志はドラマ化もされ話題に
- 琉球王国の最後の王は尚泰王
- 琉球王国の言語は琉球諸語で多くの方言があるがルーツは日本の古語と同じ
- 琉球王国はなぜ滅びたのか
- 琉球王国の王族の子孫…最後の王・尚泰王の血筋は現在も存続
- 琉球王国の子孫・末裔だとされる芸能人① 歌手・伊禮俊一
- 琉球王国の子孫・末裔だとされる芸能人② 女優・比嘉愛未
- まとめ
琉球王国は15世紀〜19世紀にかけて現在の沖縄に存在した王国
「琉球王国(りゅうきゅう・おうこく)」は15世紀〜19世紀(1429年〜1879年、厳密には第一尚氏王統と第二尚氏王統に分かれる)にかけて、琉球諸島一帯(現在の沖縄県一帯)に存在した王国です。
琉球王国は、明(1368年から1644年までの中国の王朝)と冊封(中国王朝にその地域の王と認定してもらい君臣関係を結ぶ事)関係を結び、朝貢(中国皇帝に貢物をし、返礼品を受けとる一種の貿易)を続けつつ、当時から盛んであった日本と中国、朝鮮、東南アジアの貿易の中継点として繁栄しました。
1609年に島津氏(薩摩藩)の侵攻を受け、以降、琉球王国は事実上薩摩藩および江戸幕府の支配を受ける事となり、一方で中国王朝(1644年までに明から清王朝へと移行)との冊封と朝貢の関係も継続したため、江戸時代を通じて日本の幕府と中国の王朝に両属する曖昧な状態が保たれました。
しかし、明治維新後、近代的な主権国家を目指す日本政府が明確な領土概念を適用して1879年に琉球併合を強行した事により琉球王国は滅亡しました。
琉球王国の歴史① 三山時代を経て尚巴志が琉球統一し第一尚氏王統が成立
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琉球王国が成立する前、12世紀頃より、琉球諸島では各地に「按司(あじ)」と呼ばれる豪族が現れ、互いに勢力争いを続けていました。
按司は次第に淘汰統合され14世紀頃には、南山、中山、北山の3つの王国にまとまり、この3国の勢力が拮抗した時代が約100年間続きました。(三山時代と呼ばれる)
南山の佐敷按司の長子であった尚巴志が、1416年に北山王攀安知を倒し、1429年に南山王他魯毎も滅亡させて琉球を統一し、これにより「琉球王国」が成立しました。この尚巴志王によって成立した統一王朝は7代63年間続き「第一尚氏王統」と呼ばれています。
なお、三山統一の史実は存在しないとする説もあります。
琉球王国の歴史② 日本、朝鮮、中国、東南アジアとの貿易で繁栄
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尚巴志王によって成立した「琉球王国」(第一尚氏王統)は、中国(明国)、日本(当時は室町幕府)、朝鮮半島(李氏朝鮮)、ジャワやマラッカなどの東南アジア諸地域との貿易を精力的に拡大し、各国の貿易の中継拠点(アジア貿易のハブ)として繁栄を極めました。
1453年には、琉球王国第一尚氏王統・第5代国王・尚金福王(尚巴志王の五男)が薨去し、その後継をめぐって、王世子の尚志魯(尚金福王の長子)と王弟の尚布里(尚巴志王の六男)が争う「志魯・布里の乱(しろ・ふりのらん)」が勃発。
志魯・布里の乱は、王宮「首里城」が焼失するほどの激しい内乱となり、尚志魯が戦死。尚布里も人心を失って首里を追われたため、琉球王国の王位は、尚忠王(尚巴志王の次男で琉球王国第一尚氏王統・第3代王)、尚金福王、尚布里らの弟にあたる尚泰久(尚巴志の七男)が継ぐ事になりました。
第一尚氏王統第6代国王となった尚泰久王は1458年に「万国津梁の鐘」を鋳造し、そこに刻んだ銘文を持って海洋貿易国家としての「琉球王国」の気概を示したとされています。
琉球王国の歴史③ クーデターにより琉球王国第一尚氏王統が滅亡
第一尚氏王統の琉球王国第6代国王となる尚泰久(尚巴志の七男)は、伊是名島の農夫出身で各地を巡った後首里を訪れた金丸(かなまる)を取り立て側近としていました。
志魯・布里の乱を経て尚泰久が国王となると、金丸も出世し1459年に国王への取次役でもある御物城御鎖側官(貿易長官)に任命されるなど、琉球王国の実質ナンバー2となります。
1460年、第6代国王・尚泰久王が薨去すると、その三男である尚徳が琉球王国第一尚氏王統の第7代国王として即位。
尚徳王と金丸との関係はうまく行かず、血気にはやる若き尚徳王を金丸が諌める事がしばしばあり、やがて疎まれるようになった伝わっています。
1466年、尚徳王は自ら2000の兵を率いて奄美群島の喜界島へ遠征し琉球王国に従わせています。琉球王国の国王が自ら兵を率いて討伐に向かうのは第一尚氏王統の琉球王国を打ち立てた祖父・尚巴志王以来であり、勇敢な行動とも言えましたが、重臣の反対を押し切っての強行であり、次第に重臣達の信頼を失ったと考えられています。
この遠征のすぐ後の1466年8月、金丸は失脚し内間村(現在の沖縄県浦添市内間とその周辺)に隠遁する事になりますが、それから1年足らずの1469年6月(旧暦では4月)に尚徳王が29歳の若さで薨去。その後、尚徳王の世子を即位させるための会議が開かれるも、尚徳王の一族は重臣の信頼を失っていたため王の資質を問われ、その場で隠遁していた金丸を呼び戻して時期王に推挙する事が決まります。
これは、反尚徳王派の重臣達によるクーデターであり、尚徳王の世子達、正室と側室やその一族らは、その多くが誅殺されるか追放され、尚巴志王が打ち立てた琉球王国第一尚氏王統の主だった系譜はここで絶たれる事となりました。
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那覇市識名には現在も尚徳王御陵跡が残されており大型の石碑が建立されています。
琉球王国の歴史④ 尚円王が興した第二尚氏王統は貿易により全盛期に
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1469年、琉球王国重臣らのクーデターにより復権した金丸は尚円(しょう・えん)と号して(名を改めて)、琉球王国の国王として即位。ここからの時代の琉球王国は歴史学的に尚円王が興した新王朝とみなされ、「第二尚氏(だいにしょうし)王統」と呼ばれ、尚巴志王が興した「第一尚氏王統」とは区別されています。
尚円王は即位後は天王寺、龍福寺、崇元寺などを建立して支配力を高め1472年に当時の明(中国王朝)の皇帝・憲宗より、冊封使・官栄を遣わされて明の冊封を受けて琉球王国の新国王として認められています。
1476年8月(旧暦では7月)、尚円王が61歳で薨去すると、長子である尚真(1465年に誕生)がまだ幼かったため、尚円王の実弟である尚宣威が琉球王国第二尚氏王統第2代国王として1477年2月に即位しましたが、その即位式において、「ノロ(祝女)」(琉球神道における女性の祭司、神官)が、陽神キミテズリが出現し「尚真の方が国王に相応しい」という神託を受けたと伝え、信託に従い宣威王は即位から半年後に退位し、尚円王の世子である尚真王が12歳にして琉球王国第二尚氏王統第3代国王として即位しました。
なお、この陽神キミテズリの信託ですが、尚真王の母で尚円王王妃であり、女官を掌握していた宇喜也嘉(オギヤカ)が息子を王に即位させるために仕組んだ謀略だったと考えられています。
琉球王国第二尚氏王統第3代国王・尚真王は良政を敷き、六色の帕冠制度の制定、大名、士、百姓の三階級の身分制度の整備。16世紀前期頃までに地方の按司を首里に集住させて中央集権体制を確立する事に成功し、琉球列島を完全に近い形で統一した琉球王国最初の王となりました。
また、明国(当時の中国王朝)、日本(当時は室町幕府)、朝鮮(李氏朝鮮)、東南アジア(ジャワ島やスマトラ島のアチェ王国、マレー半島のマラッカ王国)との貿易を拡大し、琉球王国の全盛期を築き上げました。
琉球王国の歴史④ 薩摩藩の琉球侵攻に敗れ薩摩藩など日本の支配が強まる
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尚円王が興し、尚真王が全盛期をもたらした琉球王国第二尚氏王統でしたが、第7代国王・尚寧王の時代の1609年に、薩摩藩の島津氏が徳川幕府(徳川家康時代)の許可を得た上で、琉球王国への軍事侵攻を実施した事を契機として薩摩藩及び日本国(江戸幕府)の支配を強く受けるようになりました。
薩摩藩による琉球侵攻の背景と経緯
薩摩藩が琉球王国へ侵攻した背景ですが、当時の薩摩藩(戦国大名島津家)は豊臣秀吉の九州征伐(1586年〜1587年)と朝鮮出兵(1592年〜1593年の文禄の役と1597年〜1598年の慶長の役)、関ヶ原の合戦(1600年)などによる度重なる負担によって財政難と統治権力の低下などの問題を抱えていました。
また、朝鮮出兵において、豊臣秀吉は薩摩藩(島津家)を通じて琉球王国に軍役(兵の派遣)と兵糧の供出を要求しましたが、薩摩藩がこの琉球王国の軍役を肩代わりしていました。
こうした経緯もあり、島津薩摩藩は琉球王国との貿易利権を独占して財政を立て直そうとし、琉球王国に対して島津氏の渡航朱印状(貿易の許可証)のな船舶の取り締まりを求めました。
明国(中国の王朝)やその他の諸国との貿易でも利益を上げていた琉球王国にはこの要求を呑むメリットはなくこれを拒否。これにより、琉球王国と島津薩摩藩との関係は敵対へと傾き緊張が高まりました。
さらに、1602年には仙台藩領内に琉球王国の貿易船が漂着するも、徳川家康の命令で無事に琉球王国へと送り返されており、これに対して琉球王国に返礼のために謝恩使を送って徳川幕府に臣下の礼を取るようにと薩摩藩を通じて要求されました。
しかし、琉球王国側はこれを無視したため、徳川幕府により琉球征伐の御朱印(許可)が薩摩藩にくだされ、薩摩藩島津軍による「琉球征伐」が実施される事になりました。
薩摩藩の琉球侵攻に琉球王国はほとんど抵抗せず降伏
かくして、1609年2月、島津薩摩藩は兵3000人軍船80余艘の軍勢を催し、3月に入って琉球王国支配下にある周辺諸島を制圧した後、3月25日に琉球王国の沖縄本島北部、今帰仁の運天港に上陸して今帰仁城などを無血占領した後、再び船団で牧港(現在の沖縄県浦添市北部)へと回航し、そこから徒歩で3月29日の夜更けまでには「首里城」に至りました。
琉球王国軍は薩摩藩島津軍を上回る4000人を動員して抵抗の構えを見せましたが、薩摩藩島津軍の鉄砲などの装備数で圧倒的に上まっており、ほとんど抵抗できないまま圧倒されて敗れ4月5日に尚寧王が和睦(降伏)を申し入れて首里城は開城しました。
琉球王国は薩摩藩と江戸幕府従属も冊封体制も維持され日本と中国の両属状態に
降伏した琉球王国は実質的に薩摩藩の支配下に置かれる事になり、捕虜となった薩摩藩の尚寧王は本土に連行され、駿府城の徳川家康と江戸城の徳川秀忠に謁見させられてから琉球王国へと戻されました。これにより、琉球王国は事実上幕藩体制に組み込まれ、薩摩藩と江戸幕府による琉球王国への支配が強まりました。
一方、島津薩摩藩の琉球侵攻の本当の目的は、琉球と明国との貿易を支配して利益を得る事でしたが、明国は冊封体制での朝貢という形以外での貿易を認めていなかっため、薩摩藩は実質的に琉球王国を支配しつつも、その事実を中国側(明国とその後成立した清王朝)には隠し、琉球王国を形式上存続させた上、冊封関係の維持と朝貢による貿易の維持と拡大を図りました。
この結果として、琉球王国は薩摩藩や江戸幕府など日本に従属しながら冊封体制を維持して中国の王朝との主従関係も維持するという両属の状態となりました。
琉球王国は島津薩摩藩の侵攻を受けた際に、宗主国である明国に救援を求めましたが、明国はこれを黙殺しました。これは、当時の民国が先の豊臣秀吉による朝鮮出兵に、李氏朝鮮軍への援軍を送った事で国力が疲弊しておりとても琉球王国支援のために渡航して援軍を派遣する余裕がなかったためでした。
そして、衰退した明国は遼東地方の女真族を統一したヌルハチが建国した後金(後の清)の独立と侵攻がきっかけとなって1644年に滅亡し、中国の王権は「清王朝」へと移りました。
その後、1663年に中国の清王朝から琉球王国へ冊封使として張学礼が遣わされ、琉球王国と中国王権との冊封関係は維持されました。
琉球王国の歴史⑤ 明治政府による琉球処分により滅亡へ
1609年の島津薩摩藩の侵攻によって琉球王国は薩摩藩及び日本(江戸幕府)に従属した一方で、中国の王権(明国、清王朝)との冊封関係も維持し両属の状態となりましたが、この状態は江戸時代を通じて維持されました。
これはすでに触れたように、琉球と中国王権との冊封貿易の利益を獲得したい薩摩藩の思惑によるものでこの事が江戸時代に大きな問題に発展する事はありませんでした。
しかし、19世紀の半ば頃になると欧米列強諸国の世界進出の手が東アジアにも迫り、1853年5月には日本に先駆けて琉球王国にペリー提督率いるアメリカ合衆国の黒船が那覇に来航し、首里城を訪れて開港を迫りました。その後、7月にはペリーの黒船は浦賀に来航して江戸幕府にも開港を迫ります。
翌1854年3月31日、ふたたび来航したペリーの黒船により、江戸幕府は不平等条約である日米和親条約を結んで下田と箱館(現在の函館)を開港。さらに7月11日までにペリーの黒船は那覇え向かい琉球王国も不平等条約である琉米修好条約を締結し那覇港の開港に応じました。
その後、日本と琉球王国は共に、フランスやオランダなどのその他の西洋列強諸国とも不平等条約を結ばれています。
そして日本では1867年から1868年にかけて明治維新によって徳川幕府が滅亡し、王政復興により明治政府が成立。中央集権体制の国家を目指す日本明治政府は1871年に廃藩置県を実施して薩摩藩を含む各藩は解体されます。琉球王国に対しては、1872年に琉球王国を廃して新たに琉球藩を置く事とされ、最後の王である尚泰王を琉球藩主としました。
日本政府は1874年、遡ること1871年11月8日に琉球王国の御用船が台湾に漂着して船員が原住民のパイワン族に殺害される「琉球島民殺害事件」を口実として、日本は台湾出兵を強行。当時台湾を併合していた中国の清王朝はこれに抗議するも、イギリスの調停もあって1874年10月に日清互換条款が締結され事実上琉球を領土だとする日本の行動が認められる事となりました。
ただ、中国の清王朝はこれによって琉球王国の日本への帰属を正式に認めたわけではなくその後も琉球に対する清国の宗主権の主張は続き、琉球王国内部にも清王朝への帰属を主張する動きも出ました。
これを受けて日本の明治政府は琉球に対して中国の清王朝との冊封関係と朝貢(人の行き来)を断ち、藩王である尚泰王自ら上京するように再三に渡って迫るも、尚泰王はこれを拒否。
業を煮やした日本の明治政府は1879年3月に軍隊300名余、警察官160名余りを派遣して武力によって首里城を明け渡させ、廃藩置県を布告。同年4月4日には琉球藩が廃止されて沖縄県が設置され、沖縄県令に鍋島直彬が任命されるに至って、琉球王国は完全に滅亡する事となりました。これは「琉球処分」と呼ばれています。
こうした事態に、中国の清王朝が琉球は清王朝の冊封国であると主張して抗議し、日本と中国新王朝との関係が悪化し、1894年の日清戦争へとつながります。日本がこの戦争に勝利して台湾を割譲させる事が決まった事により、事実上琉球王国のあった琉球諸島(琉球の他、奄美諸島、南西諸島も含む)は日本の領土であると認められる事になりました。
琉球王国を興した王・尚巴志はドラマ化もされ話題に
1429年に三山統一を果たして琉球王国(第一尚氏王統)を興した最初の王は尚巴志(しょう・はし)王ですが、2024年1月に「琉球歴史ドラマ尚巴志」がRBC琉球放送され、オンデマンド配信もされた事で話題になりました。
尚巴志王の役は沖縄県出身のイケメン俳優・金城大和さんが演じています。
「琉球歴史ドラマ尚巴志」は現在もHuluなどでオンデマンド配信されています。
また、琉球王国を舞台にしたドラマとしては、琉球放送創立65周年特別番組として制作され2020年に放送された「琉球歴史ドラマ尚円王」も話題になりました。こちらはタイトルの通り、第二尚氏王統の初代国王である尚円王を主人公とした作品です。
こちらもHuluなどでオンデマンド配信されています。
琉球王国の最後の王は尚泰王
琉球王国最後の王・尚泰王
生年月日:1843年8月3日(道光23年7月8日)
没年月日:1901年8月19日(58歳没)
出生地 :琉球王国首里(現在の沖縄県那覇市)
琉球王国は1879年に日本の明治政府により滅亡させられましたが、琉球王国の最後の王となったのが尚泰王(しょう・たいおう)でした。
琉球王国最後の王・尚泰王は琉球王国第二尚氏王統の第19代国王で琉球王国第二尚氏王統を興した尚円王の直系の子孫です。琉球王国の王府史書「中山世譜」によれば、尚円王の父である尚稷王は、保元の乱で流罪になった源為朝(源頼朝、源義経の叔父)の直系の子孫であると記されています。
琉球王国最後の王・尚泰王ですが、琉球王国第二尚氏王統第18代国王尚育王の次男として生まれ、父親が34歳の若さで薨去し、長兄も既に死去していたため4歳にして琉球王国国王に即位しました。
琉球王国最後の王・尚泰王は、1872年に日本の明治政府に琉球藩王とされ同時に華族身分とされて東京に藩邸も与えられています。そして、1879年の琉球処分で琉球藩が廃止されて沖縄県が設置され琉球王国が完全に滅亡すると、首里城からの退去を命じられて東京の藩邸へと移住しました。
ちなみに、この時に琉球王国最後の王・尚泰王は「東京見物ができる」と嬉しがっている様子だったそうです。
琉球王国最後の王・尚泰王は明治天皇に拝謁し、従三位に叙されるとともに、名誉職である麝香間祗候に任じられ、さらに1885年に侯爵、1887年に正三位、1892年に従二位、1897年に正二位、1901年に従一位に叙されており、日本の明治政府からも高位の人物として丁重に扱われていたと思われます。
琉球王国最後の王・尚泰王は1901年8月19日に58歳で東京府東京市麹町区富士見町(現在の東京都千代田区富士見町)の藩邸で亡くなりましたが、ご遺体は貸切列車と船で沖縄へと移されて、沖縄での葬儀が執り行われました。
尚泰王の葬列には一般の多くの沖縄県民が詰めかけ、琉球王国への想いを持つ職人が「無料奉仕」をしたと伝わっています。
尚泰の亡きがらは1901年8月29日、尚家邸(旧中城御殿跡、現那覇市首里)を出発し、歴代国王が眠る玉(たま)陵(うどぅん)まで運ばれた。葬列は警部巡査を先頭に、警護を挟みながら馬、僧侶、士族、親族、ノロなどが続いた。沿道には一般県民が詰めかけた。制服を着た沖縄師範学校生も並んだ。 葬儀は尚家主催だったが、多くの職人が「無料奉仕」したとされる。ひつぎを安置するみこしを新調する大工や漆塗り師、玉陵の墓室を開閉する石工や左官などだ。
また、特に命令などはなかったにも関わらず、多くの一般の沖縄県民が尚泰王の死去後に自主的に喪に服していた事も伝えられており、琉球王国が滅亡してから20年以上が経過した当時も、沖縄の人々にとって琉球王国と尚家に対する特別な想いが残っていた事が窺い知れます。
琉球王国の言語は琉球諸語で多くの方言があるがルーツは日本の古語と同じ
琉球王国で使われていた言語は「琉球方言」で、琉球語、琉球諸語とも呼ばれるもので、現在も沖縄県や奄美群島などで使用されている琉球方言と同じ言語ですが、当然ながらそれも時代とともに変化しているはずです。
琉球王国時代から使われていた言語が琉球諸語とも呼ばれる理由は、非常に多くの地域の方言があったためです。
琉球王国時代、支配層では琉球方言のうち「首里方言」と呼ばれる言語が中央語として使用されていたものの琉球王国全体の共通言語としては普及しておらず、琉球諸島の地理的な広さや海で隔てられている地域も多い事から、地域ごとの言語方言の差が非常に大きく、同じ琉球王国に属する人同士であっても言語が通じない事が多くあったとされています。
琉球王国時代から使われている琉球諸島の言語は、沖縄本島以北の「北琉球諸語(北琉球方言)」、宮古列島以南の「南琉球諸語(南琉球方言)」に大別でき、北琉球諸語はさらに「奄美語(奄美方言)」と「沖縄語(沖縄方言)」に、南琉球諸語は「宮古語(宮古方言)」、「八重山語(八重山方言)」、「与那国語(与那国方言)」などの多くの言語が話されていた事が明らかにされています。
また、琉球王国は、日本、中国、朝鮮、東南アジアの貿易のハブとして栄えた地域柄、日本や中国など各国の言語を話せる者も多くいた事が伝わっています。
琉球王国の時代から話されていた言語(琉球方言)と、日本語はルーツが同じである事が研究によりわかっています。ただ、言語として分岐したのが紀元前後から奈良時代の間だとされており、言語として通じるという事は全くありません。
琉球王国はなぜ滅びたのか
琉球王国は日本の明治政府により、1879年に滅亡しましたが、なぜ滅びたのかも注目されています。
歴史のところでも触れたように、琉球王国は中国の王朝との冊封関係を維持しつつ、日本の幕府や薩摩藩にも従属する両属の状態を長く維持し国を保ってきました。
琉球王国自体は日本と中国の脅威にはならず、なおかつ中国の王朝にとっても日本の政権にとってもメリットのある存在であったため両属の状態で何百年にも渡って存続できたと考えられます。(薩摩藩侵攻の前も琉球王国は日本の政権に緩やかに従う立場だった)
しかし、江戸幕府が滅びて明治政府ができると、西洋列強諸国に対抗するために近代的で中央集権国家の建設を目指すようになり、そのためには明確な領土概念を適用して琉球諸島を自国に組み込む必要があると考えました。
そのために明治政府はかなり強引に琉球王国の廃止と日本への併合を押し進めました。これ琉球王国がなぜ滅びたのかの最も大きな理由だと言えます。
琉球王国がなぜ滅びたかの説明としてはもう1つ可能で、貿易の形が大きく変化した事が挙げられます。
中国の明王朝は15世紀の終わりから16世紀後半にかけての約100年間以上に渡って中国人の渡海を禁止する「海禁」という政策をとっていました。
この政策は海に出た中国人が倭寇(海賊)化する事を防ぐための施策でしたが、それでは東南アジアや日本との貿易ができないため、自国の代理として琉球王国に独占貿易の特権を与えていました。琉球王国はこれによって莫大な利益を上げて繁栄する事になりました。
しかし、16世紀の後半に明朝が海禁政策を取りやめ、中国商人や日本の商人が海外へと進出するようになると、国力に乏しい琉球王国は急激に衰退しこれが薩摩藩や日本の政権からの外圧を招き滅亡へとつながっていきました。
琉球王国の王族の子孫…最後の王・尚泰王の血筋は現在も存続
琉球王国王族の子孫・23代当主・尚衞さん
琉球王国は1879年に滅亡しましたが、なにも王族やその血族が皆殺しにあって滅亡したというわけではなく、最後の王である尚泰王やその一族は華族とされて日本人の貴族階級として存続しています。
したがって、琉球王国の王族の子孫は現在まで脈々と受け継がれています。
琉球王国最後の王である尚泰王の後、琉球王国の王族の子孫である尚家は、第20代当主・尚典(しょう・てん)、第21代当主・尚昌(しょう・しょう)、第22代当主・尚裕(しょう・ひろし)、そして、現在は第23代当主・尚衞(しょう・まもる)さんへと受け継がれています。
琉球王国の王族の直系の子孫である第23代当主・尚衞さんですが、琉球王家の祖先を供養する伝統祭事「清明祭(ウシーミー)」を、歴代の琉球王国の王が葬られている沖縄県那覇市首里の陵墓「玉陵」で催し伝統を継承されています。
一方、琉球王族の直系の子孫である尚衞さんには、1984年に長男の尚猛(しょう・たける)さんが誕生しており、この方が琉球王国の直径の子孫として現在の時点でわかっている最も若い方という事になります。
この琉球王族の直系の子孫である尚猛は2019年と2020年に琉球王家の祖先を供養する伝統祭事「清明祭(ウシーミー)」の祭主を務められています。
琉球王国第二尚氏の歴代国王が葬られている那覇市首里金城町の玉陵(たまうどぅん)で29日、御清明(うしーみー)が執り行われた。第二尚氏直系24代当主の尚猛さん(36)が昨年に引き続き二度目の祭主を務め、歴代の王を供養した。
ところが、「週刊新潮」(2024年1月25日号)が、尚衞さんと長男の尚猛さんとの間に亀裂が入っており、息子が健在であるにも関わらず尚衞さんが三重県出身の神職・孝之さんと満喜さん夫妻と養子縁組をして、祭祀の後継者として養子の2人を指名している事を報じています。
琉球王国の王族の子孫の方の中には、全く琉球王国と関係のない人物が祭祀の後継者に指名された事に対して疑問を抱いている方も一部おられるようです。
琉球王国の子孫・末裔だとされる芸能人① 歌手・伊禮俊一
琉球王国の子孫・末裔とされる伊禮俊一
生年月日:1982年11月3日
出身地 :沖縄県島尻郡伊是名村
琉球王国の子孫、末裔だといわれている芸能人や有名人も存在します。
沖縄の伊是名島出身のシンガーソングライターの伊禮俊一(いれい・しゅんいち)さんは、琉球王国第二尚氏王統の初代国王である尚円王の子孫だとされています。伊是名島は尚円王の出身地ともいわれている島です。
琉球王朝の始祖、尚円王(しょうえんおう)の子孫であるシンガーソングライター伊禮俊一(いれいしゅんいち)が、沖縄県を中心に大きな話題になっている。
琉球王国・尚円王の子孫だとされる伊禮俊一さんは、幼少の頃より「伊是名尚円太鼓」という太鼓チームに入り国内外の公演に参加したという事です。「尚円太鼓」は「尚円王」の名前に因んで名付けられたようです。
琉球王国・尚円王の子孫だとされる伊禮俊一さんは中学2年の時にギターを始め、伊是名村立伊是名中学校の卒業歌を作詞作曲。卒業後は沖縄県立南風原高校郷土芸能コースに進学してここで三味線を学び、沖縄県立大学へと進んで琉球古典音楽を専攻されています。
2005年には琉球古典芸能コンクール安冨祖流三線部門最高賞に輝き、安富祖流古典音楽の教師免許を取得後に大学を卒業し、本格的に音楽活動を始められています。
2010年にビクターエンターテイメントよりメジャーデビューし、2022年に最新のアルバム「南国ビート」を発表されています。
琉球王国の子孫・末裔だとされる芸能人② 女優・比嘉愛未
琉球王国の子孫・末裔とされる比嘉愛未
生年月日:1986年6月14日
出身地 :沖縄県具志川市
身長 :169cm
血液型 :B型
NHK朝ドラ「どんど晴れ」、ドラマ「コード・ブルー -ドクターヘリ緊急救命-」シリーズなどで知られる人気女優の比嘉愛未さんは、2016年に琉球王朝の末裔だと聞かされて驚いたというエピソードを明かされています。
女優の比嘉愛未が2日、都内で行われた映画『カノン』公開記念舞台あいさつに登壇。同作の内容にちなみ「家族から聞いてビックリしたことは?」とのテーマで、「最近(地元の)沖縄に帰った時に、101歳のひいおばあちゃんから『ウチは、琉球王朝の末えいだったんだよ』と言われました」と明かした。
比嘉愛未さんが琉球王国の子孫・末裔だという情報はこれ以降は特に出ておらず、これが本当の話なのか、どのような関係の子孫であるのかなどはわかっていません。
まとめ
今回は、15世紀〜19世紀にかけて琉球諸島一帯に存在した王国「琉球王国」についてまとめてみました。
琉球王国の歴史は、尚巴志という王が1429年に三山を統一して始まったとされ、この王朝は「第一尚氏王統」と呼ばれています。琉球王国第一尚氏王統は7代63年間続き、中国(明王朝)と冊封関係を結び、日本(室町幕府)、朝鮮(李氏朝鮮)、東南アジアとの独占貿易を許されて海洋国家として繁栄しました。
その後、1469年に重臣達によるクーデターが起こり、尚円王を初代王とする「第二尚氏王統」が興りました。第二尚氏王統も中国の明王朝と冊封関係を結んで貿易で栄えましたが、1609年に島津薩摩藩の侵攻を受けて敗北し、中国王朝との冊封関係を維持したまま日本(江戸幕府および薩摩藩)にも従属するという両属の状態となり、これが江戸時代が終わるまで続きました。
その後、明治維新により江戸幕府が倒されて明治政府が成立し、1879年に琉球王国は廃止されて沖縄県となり日本へと併合されて琉球王国は滅亡しました。
琉球王国がなぜ滅びたのかは、明治政府が西洋の列強に対抗するために中央集権的な近代国家を目指す中で曖昧な主従関係をよしとせずに、かなり強硬に沖縄併合へと動いた事が一番の理由でした。
琉球王国の言語は現在も沖縄県や奄美群島などで使用されている「琉球方言」と呼ばれる言語で、日本語の古語とルーツは同じである事が研究によりわかっています。
琉球王国の最後の王や一族は明治政府により華族とされ日本の貴族として血脈をつなぎ現在も子孫は存続しています。また、芸能人や有名人にも琉球王国の子孫や末裔だとされる方がおり、シンガーソングライターの伊禮俊一さんや女優の比嘉愛未さんが琉球王国の子孫である事を明かされた事があります。