おせんころがし殺人事件は1951年に起きた強姦殺人事件です。この記事では本件の内容、おせんころがしの場所、犯人・栗田源蔵の生い立ち、死刑執行前の最後の言葉、結婚、被害者家族唯一の生き残りの長女のその後や子孫、現在について紹介します。
この記事の目次
- おせんころがし殺人事件の内容
- おせんころがし殺人事件の犯人・栗田源蔵の生い立ち① 出生と家族
- おせんころがし殺人事件の犯人・栗田源蔵の生い立ち② 最初の犯罪
- おせんころがし殺人事件の犯人・栗田源蔵の生い立ち③ 結婚を迫る女性を殺害
- おせんころがし殺人事件の犯人・栗田源蔵の余罪① 小山事件
- おせんころがし殺人事件の犯人・栗田源蔵の余罪② 検見川事件
- おせんころがし殺人事件のその後① 逮捕後の様子
- おせんころがし殺人事件のその後② 栗田源蔵の裁判
- おせんころがし殺人事件のその後③ 栗田源蔵の死刑執行まで
- おせんころがし殺人事件のその後③ 栗田源蔵の最後の言葉
- おせんころがし殺人事件の現在・生き残りの長女の子孫は?
- おせんころがし殺人事件の起きた場所は心霊スポットになっている
- おせんころがし殺人事件と犯人・栗田源蔵についてのまとめ
おせんころがし殺人事件の内容
出典:https://www.chiba-muse.or.jp/
1951年10月11日の未明、行商に出たまま戻らない夫を探しに千葉県勝浦市興津にやってきた母子4人が、同市から鴨川市にまたがる絶壁「おせんころがし」から次々と突き落とされ、長女を除く3人が殺害されるという事件が起こりました。
一家を襲ったのは栗田源蔵という事件当時24歳の男でした。栗田は殺害前日の10月10日に国鉄上総興津駅で偶然知り合った被害者らに声をかけ、「家まで送る」と嘘をついて、千葉県安房郡小湊町(現在の鴨川市小湊)のおせんころがし付近に連れ出したとされます。
栗田は被害者一家の母親(事件当時29歳)を強姦する目的で声をかけていました。しかし道中で母親を口説いても相手にされなかったことに腹を立て、おせんころがしに到着すると次々に子どもたちを殺害していったのです。
まずは6歳の長男を拾った石でめった打ちにしたうえで崖から投げ落とし、同じように11歳の長女も石で殴りつけた後に崖から突き落としました。
そして母親が背負っていた3歳の次女も強引に奪い取り、母親を脅して強姦。命乞いをする彼女のことも首を絞めて殺害し、遺体は崖下に投げ落としました。
母親から奪い取った次女についても、足を持って地面に体を数回叩きつけ、崖に投げ捨てたとされます。
さらに栗田は崖の中腹にとどまっていた子どもたちを執拗に探し出し、まだ息があるのを確認すると口封じのために石で顔や体をめった打ちにして、完全に殺害。11歳の長女だけが草むらに隠れて難を逃れたことから、唯一助かることができました。
その後、1952年1月13日にも千葉県千葉郡検見川町でも栗田は主婦とその叔母を殺害し、主婦の遺体を強姦するという事件を起こします。そしてその時に検出された指紋から逮捕され、おせんころがしでの事件も栗田の犯行であったことが明らかになりました。
逮捕後、栗田は1948年にも殺人事件を1件(自供では2件)、1951年8月にも殺人および強姦事件を1件起こしていたことが発覚。
合計7名を殺害した連続殺人犯として起訴された栗田には死刑判決が言い渡され、1959年に死刑が執行されました。
なお、栗田は一審で2回の死刑判決を言い渡されたのですが、当時これは初めてのケースでした。
おせんころがし殺人事件の犯人・栗田源蔵の生い立ち① 出生と家族
おせんころがし殺人事件の犯人である栗田源蔵は、1926年11月3日に、秋田県雄勝郡新成村で誕生しました。
栗田は12人兄弟に3男として生まれましたが、生活は非常に厳しく、栗田家は典型的な「貧乏子だくさん」の家庭だったといいます。
父親は川漁師をしていたものの体が弱く、母親が1人で家計を背負っていたような状態で、栗田たち兄弟は両親から放置されて育ちました。食事さえまともに与えられなかったとの話もあるほどです。
また、栗田は幼児期から夜尿症(おねしょ)が治らず、これは死刑直前まで改善されなかったといいます。
そのため小学校に入ると夜尿症が原因のアンモニア臭や生来のおとなしい性格が災いして、クラスメイトからいじめに遭いました。
これが原因となって3年で小学校を中退することになった栗田は農家に奉公に出ますが、夜尿症にくわえて盗み癖もあったことから、奉公は長続きせず、働き口を転々とすることとなります。
おせんころがし殺人事件の犯人・栗田源蔵の生い立ち② 最初の犯罪
1945年6月、19歳になった栗田源蔵は徴兵されて弘前の歩兵第31連隊に入隊します。しかし、ここでも夜尿症が原因で僅か2ヶ月で除隊を言い渡されてしまいました。
1945年6月といえば第二次世界大戦の末期であり、戦力的に不利であった日本軍は1人でも多くの兵が欲しかったはずです。
そんな時期に除隊になるということから、栗田の夜尿症がいかに深刻なものであったのかわかります。
除隊を命じられた栗田は1945年の年末には北海道に流れ、今度は美唄炭鉱の鉱夫の職に就きました。
これまでは自信にかけ、内向的な性格であった栗田でしたが、炭鉱で荒々しい鉱夫たちと仕事をすることで変化が生じ、徐々に粗暴な面が出てきたとされます。
そして1946年8月には美唄炭鉱の近くの農家から米を盗み、闇市に流して金を稼ぐという事件を起こします。
この一件で栗田は逮捕され、懲役1年6ヶ月の有罪判決を言い渡されて服役することとなりました。
おせんころがし殺人事件の犯人・栗田源蔵の生い立ち③ 結婚を迫る女性を殺害
出所後も栗田は更生するどころか窃盗や傷害、物価統制令(戦後の混乱に乗じて、不当高価取引、買占め、売り惜しみなどを禁止する法令)の違反などの罪を重ねていきました。
そして1948年になる頃には、栗田の職業は「闇米ブローカー」になっていたのです。
栗田は「総武グループ」という闇米ブローカー集団の中心人物となり、食糧難に乗じて荒稼ぎをしていきます。
この「総武グループ」のなかには女性メンバーもいました。そして女性メンバーの1人が栗田のことをいたく気に入り、まんざらでもなかった栗田は当時17歳であったA子と交際を開始し、結婚の約束までしたとされます。
しかし栗田は同じ「総武グループ」のメンバーの21歳の女性・B子とも関係を持つようになり、この女性にも結婚を約束したことから三角関係に陥いることに。しかもA子とB子は同じグループにいただけではなく、友人同士であったために栗田の二股は彼女らにもあっさりとバレてしまったのです。
双方から自分を選ぶように迫られた栗田は、1948年の2月に執拗に結婚を迫ってきたB子を殺害します。
静岡県駿東群原町の海岸で女性を殺害した栗田は、そのまま海岸に彼女の遺体を埋めて、何事もなかったように「総武グループ」に顔を出しました。
ところが後日、恋敵であり友人の女性が姿を消したことを不審に思ったA子から、栗田は質問攻めに遭うことになります。
奇しくもB子が埋められている静岡県駿東群原町の海岸に栗田を呼び出したA子は、「B子と暮らしてるんじゃないのか?」「B子を選ぶのか?」と栗田を問い詰めました。
これに対して栗田は疑われてもいなかったB子の殺害をあっさりと白状し、「B子は殺してそのへんに埋めた、好きなのはお前だけだよ」などとA子に告げたといいます。
恋敵だったとはいえ、友人が殺害されているという突然の告白を受けたA子は激しく混乱。警察に連絡すると言い、栗田にも自首を勧めました。
しかし、当然ながら栗田が自主に応じるはずもなく、警察への通報を恐れた栗田によってA子も手ぬぐいで首を絞められ、殺害されてしまったのです。
A子を殺害した後、栗田は遺体を海岸に埋めました。しかも埋める前に栗田は、A子の遺体を強姦したとされます。
この事件は、1952年に栗田が検見川で殺人事件を起こして逮捕されて自供を得るまで発覚しませんでした。また、A子とB子の2人の殺害を栗田は自供しましたが、起訴されたのは殺人1件のみでした。
この最初の殺人事件が明るみに出ていれば、後に続くおせんころがし殺人事件やほかの事件は防げていたかもしれません。
おせんころがし殺人事件の犯人・栗田源蔵の余罪① 小山事件
交際相手らを殺害した後、栗田は「総武グループ」を辞めて窃盗で生計を立てるようになります。
闇米ブローカーを辞めた栗田は福島市、郡山市、宇都宮市など土地勘のある場所を転々としながら盗みを繰り返していました。なお、1949年から1951年までの間には酒に酔った勢いで殺人未遂事件を起こし、秋田刑務所に収監されていたとされます。
1951年8月8日、栗田は栃木県小山市城山町にある小山駅にふらりと立ち寄り、また人を殺害します。
この日、窃盗目的で小山駅にやって来た栗田は昼間から盗んだ酒を飲み、夕方になると町内を歩き回りながら窃盗に入る家を物色していました。
そして、とある一軒の民家の窓を覗いてみた際に、若い母親が赤ん坊に添い寝する姿が目に入ったのです。
この様子を見て母親に欲情した栗田はズボンを脱いでから母子がいる家に侵入。見知らぬ男が上がり込んできたことに気づいて母親が悲鳴を上げると、栗田は母親を押し倒し、布で首を絞めあげながら強姦におよびました。
母親を殺した後、栗田は室内を物色して着物や帯などを盗み出し、部屋を出る前に母親の遺体に布をかけて、もう一度強姦したといいます。
さらに台所から炊事用の鍋や釜を持ち出してなぜか庭に埋め、勝手口で大便をしてから被害者宅を後にしました。
なぜ犯行と関係のない調理用具を庭に埋めたのかは不明ですが、犯行現場で排泄をすると度胸がつく、落ち着くという説が昔はあったいい、戦後はこのよう行為をする犯罪者が複数見られたそうです。なおこの時、室内にいた赤ん坊だけは無事でした。
おせんころがし殺人事件の犯人・栗田源蔵の余罪② 検見川事件
出典:https://www.library.city.chiba.jp/
1952年1月13日、窃盗目的で千葉県千葉郡検見川町を訪れた栗田は、またもや殺人事件を起こしました。
この日、栗田は目をつけていた検見川町内にある民家に盗みに入る予定でした。この民家には以前も盗みに入っており、一回の窃盗では持ち出しきれないほど着物や帯があったために、もう一度盗みに来ようと考えていたのです。
ところが家に侵入したところで、この家の25歳の主婦に見つかって悲鳴をあげられたため、すぐに彼女の首を絞めて殺害。
そこに一緒に住んでいた60代の叔母がやってきて、犯行を見られたことからナイフで叔母も刺し殺します。
栗田は2人の女性を殺害した後、25歳の主婦の遺体を強姦してからそそくさとこの家から逃げ出しました。
しかし、14日、15日と被害者宅から人が出てこないことや物音が聞こえないことを訝しんだ近隣住民が警察に連絡をしたことから、事件が発覚。
勝手口が開いていたために、千葉県警は犯人は勝手口から出入りしたものと見て捜査を開始しました。
この民家の勝手口は入り組んだ裏路地に繋がっていたため、犯人は盗癖があり、かつ検見川町の地理にあかるい者と絞り込まれます。
この頃、栗田は検見川町に住む姉夫婦の家に転がり込んでいました。さらに町内で窃盗や傷害を起こす不良グループのリーダー格として仲間内から「はやぶさの源」と呼ばれており、前科もあるために警察からマークされていました。
そのため、真っ先に疑惑の目を向けられた栗田は1月16日に姉夫婦の家で寝ていたところを取り押さえられ、逮捕されることとなります。
なお、栗田の姉夫婦の家からは被害者の叔母の血液がついた刺身包丁が見つかり、被害者宅からも栗田の指紋が検出されました。
逮捕後も栗田は犯行を否認していましたが、これらの物証が決定打となって1月17日には検見川事件の犯人と断定されたとのことです。
おせんころがし殺人事件のその後① 逮捕後の様子
検見川事件の犯人として逮捕された後、栗田源蔵は拘置所で高熱を出して寝込むこととなりました。
当初、警察関係者は「初めて人を殺害し、殺人罪に問われるショックで熱を出したのだろう」と見ていたといいます。しかし、すぐにその見立ては間違っていたことが明らかになるのです。
栗田が逮捕されると、他県の警察からも「似たような手口の事件があるので照会したい」という連絡が数多く寄せられました。
そして、小山での事件とおせんころがし殺人事件の犯人も栗田源蔵なのではないか、との嫌疑がかけられたのです。
おせんころがし殺人事件のその後② 栗田源蔵の裁判
栗田源蔵はまず、逮捕の原因となった検見川での殺人事件について刑事裁判にかけられました。そして1952年8月13日、一審を担当した千葉地裁が死刑判決を言い渡します。
その2ヶ月後に栃木警察本部と小山地区警察の捜査課が小菅刑務所に収監されている栗田のもとを訪れ、小山での主婦殺害事件について追求し、1952年の12月までに自供を得ることに成功。
おせんころがし殺人事件については、事件のあった夜に栗田は秋田県沼館町内で別の窃盗事件を起こして、後日逮捕もされていたことから、当初はアリバイを主張していました。
しかし、この殺人未遂事件は別の人物が起こしたものであり、この人物から「罪を肩代わりしてくれないか」と頼まれた栗田が、おせんころがし殺人事件のアリバイにもなると考えて罪を被っていたことが発覚します。
アリバイが崩れたことからおせんころがし殺人事件についても、栗田は犯行を認めました。
こうして検見川事件とは別に、小山事件とおせんころがし殺人事件、そして静岡での交際相手殺害事件の裁判が、宇都宮地裁でおこなわれることになったのです。
追加で5人の殺害容疑で起訴された栗田は、1953年12月21日に再び死刑判決を言い渡されました。
現在であればすべての事件をあわせて起訴するのが通常ですが、この当時は県警同士の連携がとれていなかったために、栗田の裁判は2回開かれたとされます。
このように同一人物に対して一審が2回おこなわれて、2回ともで死刑判決を受けたのは日本の裁判史上初のケースであり、30年後に勝田清孝事件で同様の判決が下るまでは唯一の事例でした。
おせんころがし殺人事件のその後③ 栗田源蔵の死刑執行まで
宇都宮地裁でも死刑判決を言い渡された栗田は、身柄を東京拘置支所に移されました。
拘置所内でも反省する様子はなく、看守にも暴言を吐き、1日のうちに50回も房内の報知機を使って意味もなく看守を呼び出すなどの嫌がらせを続けたとされます。また拘置所内でも夜尿症は続いており、これも職員を辟易させました。
しかし、1954年になると栗田は体調不良を訴えるようになり、房内のガラスを割るなどして自傷行為を見せ始めました。
東京高裁への控訴の準備もしていたものの、上記のような症状が見えて精神状態が不安定になってからは、栗田は「早く楽になりたい」「なんでもいいから、ここから出たい」などと訴えるようになり、1954年の10月21日には突然控訴を取り下げています。そのため、この日をもって栗田源蔵の死刑が確定しました。
また獄中で栗田は「懺悔録」という手記を綴っており、1954年12月には出版を希望して新聞社や出版社に手紙を送ったり、マスコミにツテのある知人を探すなどしていました。
しかし周囲は非協力的であり、手紙を出した会社からも「たいして売れないだろう」と相手にされなかったといいます。
なお、「懺悔録」のなかには以下のようなことが書かれていたとされます。
・ほかの殺人事件は認めるが、おせんころがし殺人事件は自分が犯人ではない
・自分が9歳の頃、奉公に出た先で知り合った老人から「女と寝る時は、相手の首を絞めたり、叩いたりすると具合がよくなる」と教えられた
しかし手記では「おせんころがし殺人事件は濡れ衣だ」と主張しつつも、栗田は1955年2月に牧師が教誨師として拘置所に来た際には、「おせんころがし殺人事件で死んだ母親が、子どもたちを連れて泣いている夢を見る」と訴えていました。
自分が犯人でなければ亡くなった母子の顔は知らないはずですから、このような夢を見ると話している時点で、無罪を訴えるのは矛盾しています。
ところが栗田は依然としておせんころがし殺人事件は濡れ衣だと訴え、1955年7月にはおせんころがし殺人事件についてのみ、再審請求をおこなったのです。
自供は刑事に脅された、自分には窃盗事件のアリバイがあると訴えましたが、この再審請求は翌月には棄却されました。
その後は物証のある検見川事件についても再審請求をおこない、「真犯人は自分の妹の夫と友人で、この2人には強姦の余罪がある」などと訴えましたが、こちらもあっさり棄却。
こうして苦し紛れの嘘を重ねた後に、栗田は1956年2月10日に宮城刑務所仙台拘置支所に移送されます。
当時の東京拘置所には死刑のための設備がなかったため、宮城刑務所仙台拘置支所への移管は死刑執行が迫っていることを意味していました。
おせんころがし殺人事件のその後③ 栗田源蔵の最後の言葉
仙台拘置支所に移送された後も栗田はしつこく再審請求や抗告申立を重ねました。これは弁護士から「申立をしている間は死刑は執行されない」と入れ知恵をされていたためです。
栗田の申立はどれも棄却されましたが、棄却されるとすぐに即時抗告をおこない、まるで反省をしていない様子だったといいます。
しかし、死刑が迫っていることを感じてか仙台拘置支所に移ってから栗田はどんどん衰弱していき、やがて申立を続ける気力も失います。
そうして1954年10月14日、ついに死刑が執行されることになりました。享年32歳。死刑の頃になると栗田は逮捕前の筋骨隆々で粗暴な外見とはうってかわり、痩せこけておどおどした様子に変わり果てていたといいます。
死刑直前に栗田がどのような最後の言葉を告げたかは明かされていませんが、逮捕後の栗田が放ったという言葉のなかでよく知られているものがあります。
それは死刑判決が言い渡されてから精神科医に対して述べた言葉で、「先生、生きたいんです。助けてください」というもの。
これまで何の恨みもない相手を次々と殺し、幼い子どもまで残虐な方法で殺害したにもかかわらず、最後まで自分が死ぬのが怖かったという栗田源蔵。
どの口で「生きたい」などと烏滸がましいことが言えたのでしょうか。栗田は死刑の瞬間まで改心することなく、どこまでも非道で、身勝手な殺人犯でした。
おせんころがし殺人事件の現在・生き残りの長女の子孫は?
おせんころがし殺人事件での生き残りとなった11歳の長女は、事件が起きた10月11日の朝には現場近くを通りかかった僧侶によって無事に保護されました。
ほかに事件の目撃者もいなかったため、長女は警察の現場検証にも立ち会っていたといいます。
栗田が死刑になった後、長女がどのように過ごしたのかは明らかにされておらず、子孫がいるのかも不明です。しかし遺族となってしまった父親とともに、平穏に過ごしたことを願わずにはいられません。
おせんころがし殺人事件の起きた場所は心霊スポットになっている
おせんころがし殺人事件が起きた「おせんころがし」は、千葉県の勝浦市から鴨川市にまたがる断崖です。
おせんころがしという地名の由来となった、「お仙」という女性の碑が勝浦にあるため、おせんころがし殺人事件も勝浦市内で起きたと誤解されることがありますが、事件現場となったのは鴨川市小湊に位置する鴨川雀島の入り口付近でした。
地名の由来である「お仙」もおせんころがしから身を投げて自殺していること、おせんころがし事件が起きていること、さらにおせんころがしの入口付近にあったラブホテル「行川アイランド」から2013年に多量の血液が付着した持ち主不明のTシャツが発見されたことなどから、おせんころがし一帯は千葉県屈指の心霊スポットとされています。
おせんころがし殺人事件と犯人・栗田源蔵についてのまとめ
今回は1951年に起きたおせんころがし殺人事件と、その犯人・栗田源蔵の起こしたほかの事件や栗田の生い立ちなどについて紹介しました。
犯行に及んだ理由や逮捕後の様子を知るにつけ、栗田源蔵という人物が恐ろしいほどに自分勝手で残虐な性格の持ち主であったことがわかります。国会で死刑制度の是非が議論になった際、「栗田源蔵のような者もいるのだから、死刑は必要」との声があったというのも頷けますね。
最期まで冤罪を主張し、死刑回避を訴えた栗田。しかし、死刑判決が言い渡された時から現在に至るまで、おせんころがし殺人事件に冤罪の可能性が浮上したことは一度もありません。