2025年は太平洋戦争終戦から80年になります。沖縄では1945年3月から激しい地上戦が行われ、多数の犠牲者が出ましたが、その沖縄地上戦の悲惨さを現代に伝えるものの1つに「ひめゆりの塔」があります。
ひめゆりの塔の概要と何があった場所なのかの説明、ガマの中の様子や自決の経緯、戦後のひめゆりの塔の事件や心霊スポットとしての怖いエピソード、場所やアクセス、料金や所要時間などをまとめました。
この記事の目次
ひめゆりの塔とは
ひめゆりの塔は、沖縄県糸満市伊原にあるひめゆり学徒隊の慰霊碑です。
1945年3月からの沖縄戦で動員されたひめゆり学徒隊たちの多くが、沖縄戦末期に沖縄陸軍病院第三外科(伊原第三外科壕)があったガマ(壕)の中で犠牲になりました。沖縄戦で犠牲になったひめゆり学徒隊を慰霊するために、このガマの入口に作られました。
この伊原第三外科壕は戦後にひめゆり学徒隊の遺族らによって発見され、周辺の収容所にいた真和志村の住民によって1946年4月5日にひめゆりの塔が建立されました。
最初のひめゆりの塔は終戦翌年の昭和21年(1946)、付近の収容所にいた真和志(まわし)村民によって建てられました。
引用:【沖縄・ひめゆりの塔】沖縄の歴史を知るのに欠かせない、祈りのスポット。リニューアルした資料館や、足を伸ばして「ひめゆり学徒散華の跡」へも|るるぶ
ひめゆりの塔というと、全国的にも有名な慰霊碑なので、非常に立派で大きなものというイメージがあるかもしれませんが、実は約90cmという小さいものなんです。
これは、建立されたのが1946年4月という物資不足の時代だったこと、さらに政府機関ではなく収容所にいた村民が自主的に建立したこと、当時はアメリカ統治下だったことなどが関係しています。
その後、1957年6月に犠牲になったひめゆり学徒隊の方々の名前を刻んだ「2代目ひめゆりの塔」が建立され、その裏に納骨堂が作られました。
石野径一郎によって有名に
ひめゆりの塔は1946年4月に建立されましたが、前述の通り、とても小さいもので、建立当時はそこまで知名度はありませんでした。
しかし、1949年に小説家の石野径一郎が「ひめゆりの塔」というひめゆり学徒隊の少女を主人公にした小説を出版したことで、ひめゆりの塔は一気に有名になりました。
その後、映画なども作られるようになり、ひめゆりの塔は太平洋戦争・沖縄戦の悲惨さを象徴するものとなり、沖縄県民はもちろん、沖縄を訪れる人たちも参拝するようになりました。
ひめゆりの塔は何があった場所?
ひめゆりの塔は、激戦の末にひめゆり学徒隊の多くが犠牲になった場所ということを知っている人は多いと思いますが、実際には具体的に何があった場所なのか、どんなことが起こったのかはよく知らないという人も多いと思います。
ひめゆりの塔は何があった場所なのかを解説していきます。
沖縄の地上戦が始まる
ひめゆりの塔は何があった場所なのかを知るためには、まずは太平洋戦争末期の沖縄戦について知る必要があります。
1941年12月に開戦した太平洋戦争では、日本は戦線を広げ過ぎたこともあり、連戦連敗でじりじりとアメリカ軍が本土に迫ってきていました。そして、1945年3月26日、沖縄県の座間味島にアメリカ軍が上陸し、同年4月1日にアメリカ軍は守備の薄い沖縄本島中西部から上陸しました。
ここから本格的に沖縄戦が始まります。この沖縄戦は太平洋戦争初の日本国内での地上戦であり、本土決戦のための時間稼ぎをすべく、玉砕覚悟の過酷な戦闘を強いられることになります。
沖縄戦で犠牲になった日本軍・民間人は合わせて約19万人にも上ります。当時の沖縄県の人口は約60万人ですから、どれほど多くの犠牲があったのかわかります。
ひめゆり学徒隊が動員される
出典:doyusha.net
アメリカ軍の沖縄上陸が時間の問題となった1945年3月23日、ひめゆり学徒隊が招集されました。
ひめゆり学徒隊とは、1944年に沖縄県立女子師範学校と沖縄県第一高等女学校の生徒で構成され、看護訓練を受けていた女子学徒隊のことです。
1940年代には女子師範学校と第一高等女学校の校舎は「ひめゆり学舎」と呼ばれるようになっていたため、両校の女子学徒隊のことを「ひめゆり学徒隊」と呼んでいましたが、実はこの「ひめゆり学徒隊」という名称は戦後につけられたものという説もあります。
ひめゆり学徒隊の年齢は15~19歳でした。
沖縄陸軍病院で看護要員に
出典:otv.co.jp
アメリカ軍の沖縄上陸に伴い招集されたひめゆり学徒隊は、女子生徒222名+引率教員18名の合わせて240名です。この240名は那覇市の東に位置する南風原町にある沖縄陸軍病院(通称・南風原陸軍病院)に配置され、看護活動を行うことになりました。
「病院」と言っても、きちんとした病院施設ではなく、横穴壕にベッドを備え付けだけの施設です。
そこに10代後半の女子学生たちが、戦争でケガをした人たちの看護をすることになりました。
このひめゆり学徒隊が配属になった沖縄陸軍病院は、最初は外科・内科・伝染病科の3つに分かれていましたが、前線の戦闘が激しくなるにつれ、負傷兵が増えたことから、内科は第二外科に、伝染病科は第三外科に変更になりました。
詳しい負傷兵の人数はわかっていませんが、壕の数や規模から想定すると、沖縄陸軍病院は2000名程度が入院していて、沖縄戦の数ヶ月だけで延べ1万名に達していたとされています。
5月25日に伊原・山城周辺に撤退
ひめゆり学徒隊は南風原町にある沖縄陸軍病院で看護をしていましたが、沖縄本島での激しい戦闘が続き、アメリカ軍が徐々に南下してきて、4月下旬には激しい砲撃に晒されることになります。
5月25日には、陸軍病院は回復の見込みがない患者はそこに放置して、沖縄南部の伊原・山城周辺に撤退することが日本軍から告げられました。陸軍病院に残された患者たちには、自決用の青酸カリが渡されたとのことです。
南部に後退するに際して、多くの重傷患者が「青酸入りミルク」といっしょに置き去りにされたという。
ひめゆり学徒隊は砲弾・銃撃が飛び交う中、患者や負傷した患者を担架などで南部の伊原まで運び、6つのガマ(壕)に分かれます。
しかし、ガマは医療器具や薬品はなく(もともと超不足していたが)、病院としての機能は完全に失われていました。
解散命令後に沖縄陸軍病院第三外科への攻撃で犠牲に
出典:otv.co.jp
沖縄本島南部の伊原にまで撤退したひめゆり学徒隊は、病院の機能がない中でも、負傷者の世話をしていましたが、アメリカ軍の猛攻により、敗戦が決定的になった6月18日夜に日本軍から突然解散命令が出されました。
解散命令が出たことで、ひめゆり学徒隊はそこにとどまり看護をする必要はなく、自由の身になったわけですが、壕(ガマ)のそっとは砲弾が飛び交っている状態なので、「外に出る=死」を意味することになります。
そして、翌朝の6月19日。病院としていた壕から脱出するために、伊原第三外科壕にひめゆり学徒隊の生き残りの人たちが集まりました。しかし、無情にも伊原第三外科壕にアメリカ軍の黄燐手榴弾が投げ込まれ、壕の中にいた96人中87人が死亡しました。
この攻撃で生き残った8人のうち、教師1人と生徒2人は壕を脱出しましたが、砲弾などに被弾して死亡しています。そのため、伊原第三外科壕にいた人の中で、終戦まで生き残ったのはわずか5人(うちひめゆり学徒隊は4人)しかいませんでした。
6月18日夜に出された解散命令は、周囲をアメリカ軍に囲まれた状態で放り出されたのと同じようなものなので、日本軍による解散命令はひめゆり学徒隊を見殺しにしたのと同じことになります。
「解散命令」は、結果的に米軍の包囲網の中に生徒たちを放り出すことになり、その後の犠牲を飛躍的に増やしたのです。
ひめゆり学徒隊の犠牲者数
ひめゆり学徒隊は、1945年3月に召集された時には、学生・教員合計で240人いましたが、終戦時の死亡者数は136人にも上りました。
<ひめゆり学徒隊の犠牲者数>
・召集時:240名(学生222名、教員18名)
・犠牲者:136名(学生123名、教員13名)
この136名の犠牲者のうち、解散命令後に死亡したのは117名もいました。また、アメリカ軍による伊原第三外科壕の攻撃では47名が死亡しています。
伊原第三外科壕では96人中5人しか生き残ることができないという甚大な被害が出たため、この伊原第三外科壕の入口にひめゆりの塔が建立されました。
ひめゆりの塔のガマの中の様子
ひめゆりの塔はガマの入口に建立されています。ひめゆりの塔のガマの中の様子は、現代からは想像もできないほど過酷なものでした。
ガマとは天然の洞窟
出典:sankei.com
そもそも、「ガマ」とは沖縄本島の南部に多く見られる自然の洞窟のことです。石灰岩で形成された鍾乳洞のことを沖縄の方言でガマと言い、沖縄本島には約2000のガマがあると言われています。
このガマは沖縄戦では防空壕として使われていました。
ちなみに沖縄戦時に日本軍の陣地が構築されたり、住民が逃げ込んだりした洞窟を「壕」または「ガマ」という言い方をする。地元のガイドの方によると、琉球石灰岩が浸食されて出来た自然洞窟を「ガマ」と呼び、人工のものを「壕」と呼んで区別しているようだ。
沖縄戦が始まった当初の南風原町にあった沖縄陸軍病院は人工的に掘ったものなので「壕」であり、5月に撤退した後に逃げ込んだ伊原第三外科壕は「ガマ」になります。
沖縄戦では伊原第三外科壕以外にも、「イリユージガマ」「クラシンウジョウ」「糸数アブチラガマ」「チビチリガマ」など、たくさんのガマが使用されていました。
ガマの中の様子①:二段ベッドに患者が溢れる
沖縄陸軍病院の中は、手掘りの壕で通路と二段ベッドが備え付けられた簡素なものでした。重傷者は二段ベッドに寝かされていて、ひめゆり学徒隊の学生たちが次のような業務を行っていました。
・排泄物の片付け
・水や食事の世話
・包帯の交換
・遺体処理
・手術する時に患者を押さえつける
沖縄戦で重傷を負った日本兵たちは、筆舌しがたい状態でした。
元ひめゆり学徒隊・上原当美子さん:
目ん玉が飛び出して、足が切れて、おなかがちぎれてはらわたが出ている、胸が引き裂かれている。足が切れているなど、大惨事なんですよ
そのような日本兵を10代後半の女子が看護をするんです。また、そのような負傷兵の治療のためには手術が必要です。時には、四肢切断を余儀なくされることもありました。しかし、十分な麻酔薬がなかったため、痛くて暴れまわる日本兵を押さえつけなければいけませんでした。
もちろん、抗生剤や鎮痛薬なども不足していましたし、衛生状況はひどいものでしたので、ガマの中の環境は過酷でした。
壕内は血・膿み・ウジの臭いと、患者の唸り・叫び声が充満した阿鼻叫喚の世界であったという。
想像するだけで身の毛もよだつよな環境の中でひめゆり学徒隊の少女たちは働いていたことがわかります。
ガマの中の様子②:ひめゆり学徒隊の生活状況
出典:otv.co.jp
ガマの中で生活していたひめゆり学徒隊は、昼夜問わず働くことになりました。休む間もないくらい忙しいのに、自分たちが横になるスペースはないため、ガマの壁にもたれて眠るだけ。しかも、痛みなどに苦しむ患者さんの「痛い、何とかしてくれ」「水」「トイレ」などの訴えが昼夜問わず続きます。
しかも、食べ物も水も十分になく、伊原第三外科壕のガマに移動すると、ピンポン玉くらいのおにぎりが1日1つのみという状況です。
そのような中で生活していたので、生理も止まり、痩せ細っていきました。
食べ物も飲み水も少ないせいか、生徒たちには生理も排便もほとんどなくなり、汚れた衣服や頭にはシラミがわきました。青白くやせ細っていき、高熱におそわれ倒れる者も出てきました。
さらに、水を汲んだり、遺体を処理する時には外に出なければいけませんが、外に出るのは命がけ。「過酷」というだけでは言い表せないくらいひどい環境で生活していました。
ひめゆりの塔から脱出後に自決した人も…
解散命令が出た後、ひめゆりの塔があるガマから何とか脱出したひめゆり学徒隊もいましたが、追い詰められて集団自決したけースもありました。
ひめゆりの塔のガマを脱出したひめゆり学徒隊10人(学生9名と教員1名)は住民たちと共に、アメリカ軍に追われるように南に逃げていき、沖縄本島最南端の荒崎海岸にたどり着きます。
解散命令が出てから3日後の6月21日、荒崎海岸で身を潜めていたひめゆり学徒隊10人は、突然アメリカ軍に自動小銃で攻撃され、手りゅう弾で自決したのです。
「ひめゆり学徒隊散華の跡」の碑が残る荒崎海岸では、米軍の銃撃でパニックとなった教師が手榴弾を爆発させ、生徒と共に自決したという。
引用:ひめゆりの塔&ひめゆり平和祈念資料館:戦争の悲惨さと平和の大切さを発信する沖縄戦の慰霊碑 | nippon.com
南風原町から撤退する時には、ひめゆり学徒隊に自決のための手りゅう弾が手渡されたそうですので、その時の手りゅう弾を使って自決したのでしょう。
ひめゆりの塔事件とは
ひめゆりの塔は1946年4月に建立され、1957年6月には犠牲者の名前が刻まれた新しいひめゆりの塔が建立されています。
その後、1972年に沖縄返還があり、沖縄は日本に戻りました。
そして、1975年7月に太平洋戦争後初となる皇室訪問が行われることになりました。この時は皇太子と皇太子妃(現在の上皇陛下と上皇后陛下)が沖縄を訪問し、ひめゆりの塔に供花する計画でした。
しかし、日本の新左翼系過激派である沖縄解放同盟準備会は、皇室の沖縄訪問をよしとせず、「皇太子上陸を阻止する」と宣言します。
そして、1957年7月17日に皇太子・皇太子妃がひめゆりの塔を訪問した時に、ガマに潜伏していた共産主義者同盟戦旗派(西田派)と沖解同(準)のメンバー計2名が皇太子に向けて火炎瓶を投げつけたのです。
火炎瓶により献花台は炎上したものの、皇太子にケガはなく、皇太子妃も警察官に庇われて地面に倒れ込んだ際に打撲を負った程度で済みました。
皇宮警察はガマの中から這い上がり、皇太子をさらに攻撃しようとしていた過激派にとびかかり、攻撃を阻止するなど活躍しましたが、沖縄県警は攻撃に対して任務放棄をするなどが見られました。
皇太子と皇太子妃は、まずは自分たちの案内役をしてくれた「ひめゆりの会」会長の身を案じ、それから沖縄県警の任務放棄を処分しないように伝え、その後の沖縄訪問スケジュールを事前の計画通りに進めました。
ひめゆりの塔事件の犯人2人は、懲役2年6ヶ月の有罪判決を言い渡されています。
ひめゆりの塔は霊感がなくても怖い?
ひめゆりの塔は沖縄県内でも屈指の心霊スポットとして知られています。
ひめゆりの塔の歴史的な背景を考えると、ひめゆりの塔を心霊スポットとして紹介することは非常に不謹慎だと思います。ただ、ひめゆりの塔は霊感がない人でも、何かしら霊の存在を感じる事が多いほどの場所なんです。
ひめゆりの塔は心霊スポット
出典:jiji.com
ひめゆりの塔が立つ伊原第三外科壕のガマは1945年6月19日の朝に、アメリカ軍の黄燐手りゅう弾の攻撃を受けて、壕にいた96人中87人が死亡した悲惨な歴史を持つ場所です。
このような経緯があり、ひめゆりの塔を訪れた人は気分が悪くなるなど異変を感じる人が続出しています。
ひめゆりの塔は沖縄への修学旅行のプランに組み込まれることが多く、霊感がある人は入れないこともあるんだとか。
都内の私立高校男性教諭は「修学旅行先というのは歴史のある土地だから、心霊スポットと重なりがち。ただ、戦争の舞台で多数の戦死者が出ただけに沖縄は他の場所とは桁違い。伊原第一外科壕、糸数壕、ひめゆりの塔など、霊感のある人は中に入れない場所ばかりなんです」と語る。
沖縄戦が始まってから、ひめゆり学徒隊は過酷な環境で負傷した日本兵の看護をしてきました。
そして、最後は日本軍に見捨てられ、アメリカ軍の黄燐手りゅう弾などで亡くなってしまったのですから、その犠牲者の思いを考えたら、ひめゆりの塔は霊感がある人はもちろん、霊感がない人でも何かしらを感じとってしまうのは仕方がないかもしれません。
怖いエピソードもたくさんある
ひめゆりの塔では、次のような怖いエピソードがあります。
・頭が痛くなる
・全身がしびれる
・涙が止まらなくなる
・全身が重くなる
・立てなくなる
・吐いてしまう
・近づけなくなる
・手足がしびれる
・ろれつが回らなくなる
・めまいがする
霊感がないけれど、ひめゆりの塔では気分が悪くなるというSNSへの投稿もたくさんありました。
出典:x.com
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インターネットにはこんなエピソードもありました。
帰りはほとんど那覇市に向かって、国道331号線を帰ればよいはずですが、ナビが何故か、左に曲がれ曲がれと言ってきます。
近道なのかな?と思い、国道を外れて、
ナビに従い走っていくと。
だんだんと人気の無い、真っ暗な
海の方向に行くのです。
引用:【終戦記念日】ひめゆりの塔の話【本当にあった怖い話】 | 永崎ひまるオフィシャルブログ「ふくふく開運日和」Powered by Ameba
この方は那覇市に戻るようにナビを設定したものの、何度も何度もひめゆり学徒隊が集団自決をした海のほうに案内されたとのことです。
ひめゆりの塔の場所・アクセス
出典:topics.or.jp
ひめゆりの塔の場所は沖縄県糸満市伊原671-1にあります。
ひめゆり学徒隊の犠牲者が最も多かった伊原第三外科壕のガマの上にあります。
那覇市内や那覇空港からは車で30~40分程度、那覇空港自動車道の豊見城ICからは車で20分程度です。那覇市内からバスで行く場合は、糸満市内で乗り換えが必要なので、片道60~90分はかかります。
観光で沖縄に行く場合は、バスよりもレンタカーやタクシーでひめゆりの塔に行く方が良さそうですね。
ひめゆりの塔の料金や所要時間
ひめゆりの塔の見学・参拝は無料です。
ただ、ひめゆりの塔の奥には1989年に完成したひめゆり平和祈念資料館があり、そこを見学するための料金は個人だと大人450円、高校生250円、小中学生は150円かかります。
ひめゆりの塔やひめゆり学徒隊の詳細や歴史的な背景などをより深く理解するためには、料金を払ってひめゆり平和祈念資料館も一緒に見学することをおすすめします。
所要時間は資料館を合わせて30分~1時間程度ですが、もっと時間をかけてじっくりと見学する人もいるようです。
A.多くの方が30分~1時間程度で見学していますが、2~3時間かけて見学される方も少なくありません。内容をゆっくりご覧になりたい方はお時間に余裕を持ってご来館ください。
ひめゆりの塔平和祈念資料館は歴史的資料の展示だけでなく、生き残ったひめゆり学徒隊の証言映像などもあります。
ひめゆりの塔・沖縄地上戦をもっと深く知りたい人は訪れるべき場所と言えるでしょう。
ひめゆりの塔のまとめ
ひめゆりの塔の概要やひめゆりの塔の場所で何があったのか、ガマの中の様子と集団自決について、ひめゆりの塔事件、ひめゆりの塔と霊感・心霊の怖いエピソード、場所やアクセス、料金・所要時間をまとめました。
戦後80年経ち、語り部として当時のことを語る人は少なくなっていますが、絶対に忘れてはいけない歴史、そして二度と繰り返してはいけない歴史と言えるでしょう。