毛沢東は中華人民共和国の建国者で文化大革命で殺戮を引き起こした人物です。
この記事では毛沢東がどんな人で何した人なのか若い頃の経歴や画像、歯磨きなどの面白いエピソード、日本軍との戦いや嫁や子供、孫、晩年や死因、現在はミイラ化されて遺体が保存されている事などについてまとめました。
この記事の目次
- 毛沢東は中華人民共和国建国者で文化大革命で大量殺戮を引き起こした人物
- 毛沢東の若い頃の画像や経歴① 生い立ちや学歴
- 毛沢東の若い頃の画像や経歴② 図書館司書、歴史教師、校長を経て共産党
- 毛沢東はどんな人で何した人① 適当に日本軍と戦いつつ共産党勢力を拡大
- 毛沢東はどんな人で何した人② 中華人民共和国を建国し朝鮮戦争に介入
- 毛沢東はどんな人で何した人③ 大躍進政策と文化大革命で大量殺戮
- 毛沢東の面白いエピソード① 生涯歯磨きをしなかった
- 毛沢東の面白いエピソード② 夜型人間で朝うるさい雀の絶滅を本気で画策
- 毛沢東の面白いエピソード③ 水泳が得意で金槌のフルシチョフを揶揄った
- 毛沢東の嫁は生涯で4人
- 毛沢東の子供は全部で10人で息子が6人と娘が4人
- 毛沢東の孫…ブタ少将・毛新宇と実業家の孔東梅
- 毛沢東の晩年と死因
- 毛沢東の現在…遺体がミイラにされ天安門広場で一般公開されている
- まとめ
毛沢東は中華人民共和国建国者で文化大革命で大量殺戮を引き起こした人物
毛沢東のプロフィール
生年月日:1893年12月26日
没年月日:1976年9月9日(82歳没)
出身地 :清国・湖南省湘潭県韶山沖
毛沢東(もう・たくとう、中国読みマオ・ツォートン)は、中国共産党軍を率いて日本軍や蒋介石の国民党軍を倒して中華人民共和国(中国)を建国した人物で、共産党政権下の中国においては「建国の父」と呼ばれ英雄と称えられている中国の政治家・思想家です。
毛沢東は西側諸国から見れば共産主義国の独裁者のイメージが強く「大躍進政策」、「文化大革命」などにより大量の中国人民を餓死、虐殺に至らしめた暴君として語られる場合が多いです。
毛沢東の若い頃の画像や経歴① 生い立ちや学歴
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毛沢東は1893年12月26日、清国時代の中国・湖南省湘潭(しょうたん)県にある韶山(しょうざん)の農家の5人兄弟の三男として生まれ、長男と次男が早くに死亡したため後継ぎとして育てられました。13歳になる頃には一人前の百姓として働いていたとされています。
毛沢東は農民としての労働の合間にあちこちから本を借りて読書を励むうちに中国近代化を志すようになり、1910年秋、16歳で故郷を離れて湘郷県立東山高等小学校に入学、1911年春には長沙へ行き湘郷駐省中学への入学を希望しました。
しかし、その年の10月に辛亥革命が起こり清国政府軍が反乱を起こすと、毛沢東も湖南駐屯の第25混成協第50標第1営左隊に入隊しこれに加わりました。半年後に清朝が事実上打倒されると毛沢東は軍を除隊して学業に戻り、1912年に長沙の湖南全省公立高等中学校へ入学しています。
毛沢東は20歳の時に湖南省立第一師範学校に入学して恩師となる楊昌済と出会って思想を深め、中国の抱える様々な問題に思いを巡らすようになりました。
毛沢東の若い頃の画像や経歴② 図書館司書、歴史教師、校長を経て共産党
毛沢東は1918年夏に湖南省立第一師範学校を卒業し、1919年5月に恩師の楊昌済に連れられ、当時の中華民国政府の首都であった北京へ赴き、北京大学の図書館で司書補の仕事を得ています。
この頃の毛沢東は古い中国の儒教思想から脱却し西洋文化文学を受け入れ新たな文化の創造を呼びかける文化革命の舞台となった雑誌「新青年」の熱心な寄稿者となると共に、北京大学の聴講生として講義やセミナーも熱心に参加しています。この頃には既に毛沢東は共産主義の理論を取り入れるために読書にも勤しんでいました。
1919年、毛沢東は長沙に戻って初等中学校の歴史教師に就任し、人々の政治意識を高める事を目的とした機関誌「湘江評論」を創刊。しかし同誌は中華民国政府に目をつけられて4号で発禁処分を受けます。
毛沢東は1920年には長沙師範学校付属小学校の校長に就任し、同時期に啓蒙的な書籍を扱う出版社を設立するなど思想家としての活動を強めました。
そして、毛沢東は1921年の中国共産党の創設に加わり、1923年の第3回党大会で中央執行委員会の5人の委員のうち1人に選出されました。以降、毛沢東は日中戦争、国共内戦などの混乱期の中で共産党内での権力を獲得して行く事になります。その後の毛沢東については次の見出しから紹介します。
毛沢東はどんな人で何した人① 適当に日本軍と戦いつつ共産党勢力を拡大
毛沢東は結局どんな人で何した人なのかも興味がある方が多いようです。
毛沢東がどんな人で何した人なのかは大きく3つの項目に分けられます。1つ目は中国共産党の指導者となり、当時、大陸に進出して支配を強めていた日本軍と適当に戦いつつ、その機に乗じて共産党勢力を拡大し、敵対する国民党を日本軍を戦わせる事により弱体化させた事です。
当初、中国の国民党と共産党は1924年の「第一次国共合作」の成立により協力体制を敷いており毛沢東も中国国民党に入党して農民運動に関わりました。毛沢東はこの頃の運動を通じて、地主支配に苦しむ中国農民の解放を強く志向するようになったとされています。
しかし、1927年4月に蒋介石による「上海クーデター」により国共分裂が起き、共産党は国民党軍からの激しい弾圧を受けるようになります。(第一次国共内戦の開始)
同年4月の共産党大会で中央委員会候補委員に選出された毛沢東は、同年8月「政権は銃口から生まれる」と発言して武力によって政権を打ち立てるという明確な路線を示すと、同年9月9日に湖南省で農民兵を率いて武装蜂起(秋収起義)します。しかしこれは鎮圧され毛沢東は農民兵と共に湖南省と江西省の境の山岳地帯「井崗山(せいこうざん)」に立て篭もり抵抗を続けました。
体制を立て直した毛沢東は、1931年に江西省瑞金に「中華ソヴィエト共和国臨時政府」を樹立して臨時主席に就任します。しかし、蒋介石率いる国民党軍の激しい攻撃に敗れて瑞金を捨てて撤退し1934年10月〜1935年10月にかけて国民政府軍と戦いながら陝西省の呉起鎮へと撤退する「長征」を行いました。
毛沢東はこの長征の最中に開催された「遵義会議」にて農村に拠点を作り開放区を広げる方針を主張、これが支持されて共産党での主導権を握りました。
当時、日本軍が中国大陸へ進出して支配を強めていましたが、1936年には「西安事件」が起こり、共産党と国民党は一致して日本軍と戦うという方針が決まり、1937年に日中戦争が始まると、「第2次国共合作」が成立し毛沢東率いる共産党軍は呉起鎮から陝西省延安に拠点を移し蒋介石の国民党軍と共に日本軍と戦う事になりました。
ただ、毛沢東は日本軍との戦いには全軍の10パーセント程度の戦力しか投入せず、各地の農村を開放して共産党勢力の強化にほとんどの力を注ぎ込みました。これにより、1937年には4万人だった共産党員が1945年には120万人にも達していました。
一方で日本軍と激しく戦った国民党軍は弱体化し、当初は圧倒していた共産党軍との戦力差が大きく縮まる結果を招きました。これは全て毛沢東の策略でした。(毛沢東が日本軍に国民党軍の機密情報を流して支援していたとの説もある)
毛沢東はどんな人で何した人② 中華人民共和国を建国し朝鮮戦争に介入
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毛沢東がどんな人で何した人かとして2つ目にあげられるのは、蒋介石率いる中国国民党及び中華民国国民政府の国民革命軍との国共内戦に勝利して中華人民共和国を建国した事です。
1945年8月14日、日本政府はポツダム宣言を受諾して連合国側に無条件降伏した事により、日中戦争(大陸での日本軍と中国国民党軍、共産党軍との戦争)も終結して各地で日本軍の武装解除が実施されました。
蒋介石は日本軍の武装解除を国民党軍が行う事を共産党軍に通告しましたが、国民党軍の支配が及ばない地域で共産党軍が日本軍の武装解除を強行したため、国民党軍と共産党軍の緊張が高まり一触即発という状態になります。
しかし、国民からは長期の戦争が続く事に反対する声が高まり、ソ連のスターリンもこの時点では国民党政府を支持しており介入があったため、毛沢東は国民党側との連携を模索し蒋介石と重慶で会談を行い、1945年10月には「双十協定」を締結して、ひとまずは内戦を回避する事で合意しています。
ところが、その後の両軍の軍事力の統合では利害の対立が表面化し、1946年6月に蒋介石が共産党解放区(共産党支配地域、農村部が多かった)への攻撃を命令。これによって「第二次国共内戦」に突入します。
この時点で政権を握っていた蒋介石率いる国民党軍は、毛沢東率いる共産党軍の3倍の戦力(国民党軍430万、共産党軍120万)を擁しており、アメリカからの軍事支援も受け、豊富な戦闘経験を持つ旧日本軍人の一部も国民党軍に加わって参戦したため当初は共産党軍を圧倒しました。
しかし、毛沢東の共産党軍(この頃は紅軍と呼ばれていた)は、1947年3月に「人民解放軍」と改称し、解放区で地主の土地を強制的に取り上げて貧農や小作人に分配する事により絶大な民衆の支持を得て勢力を拡大しました。
一方、蒋介石の国民党軍側は共産党の解放区への攻撃を強め、1947年6月には共産党の拠点だった延安の攻略に成功します。しかし、毛沢東率いる共産党はソ連軍が支配していた旧満州国(日本軍が傀儡政権を樹立して工業化していた中国東北地方)へと移動し、そこでソ連軍から、日本軍から鹵獲し兵器の提供を受けるなどの支援を受けて勢力を盛り返し、山岳地帯に国民党軍を引き込んでから叩く戦術で大損害を与える事に成功。
これを契機に次第に戦況は共産党軍が優位に傾き、1948年に入ると各地で反撃に転じた共産党軍が国民党軍を撃破し中国内部へと侵攻、北京、南京、上海などの主要都市を占領。そして、北京に入った毛沢東は、1949年10月1日に「中華人民共和国」の建国を宣言し中央人民政府主席に就任しました。
一方、敗北が確定的となった蒋介石と中華民国政府、国民党軍、及びそれを支持する民間人は1949年終わりから1950年にかけて台湾へと撤退しています。
毛沢東は1950年2月にソ連のモスクワにて「中ソ友好同盟相互援助条約」を締結しソ連と同盟を結んでいます。
1950年6月、日本の敗戦により植民地支配が終わった後、社会主義体制を取る朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)と資本主義体制をとる韓国に分断されていた朝鮮半島で朝鮮戦争が勃発すると、毛沢東は北朝鮮を支援して中国義勇兵を派遣し、一時は占領されていた平壌を奪い返しそのまま38度線付近まで韓国を支援するアメリカ軍(名目上は国連軍)を押し返したところで1953年7月27日に「朝鮮休戦協定」が締結され朝鮮戦争は休戦しました。(したがって現在も北朝鮮と韓国は戦争状態にある)
毛沢東はその後、1953年6月から「第1次五カ年計画」を提唱し、ソ連の技術資金援助のもと社会主義国家の建設に本格的に着手し、1954年9月27日に全国人民代表会議において初代国家主席に選出されました。
毛沢東はどんな人で何した人③ 大躍進政策と文化大革命で大量殺戮
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毛沢東はどんな人で何た人かとして3つ目に挙げられるのは、「大躍進政策」により数千万人とも言われる餓死者を出し、「文化大革命」により数千万人とも言われる大量虐殺を生み出した事です。
大躍進政策の失敗で数千万人規模の餓死者を出す
毛沢東は1958年5月、「第二次5ヵ年計画」として、ソ連に依存しない重工業化と人民公社(農村集団化)建設により鉄鋼と農作物の大量増産を目指す「大躍進政策」を打ち出しました。
毛沢東は当時世界2位の経済大国だった英国の農・工業の生産指標を15年で追い越すという計画を命じ、目標として年間の工業成長率26~32%、農業成長率13~16%という非現実的な数値を掲げました。
しかし、当時の中国には近代的な溶鉱炉も製鉄技術者も存在せず、十分な原料も入手困難な状況でした。しかし毛沢東の命令は絶対であったため目標値を達成するために原始的な溶鉱炉を全国の土地や農村に人海戦術で設置。製鉄の火力を確保するために全国の樹木を大量に伐採して果樹や園芸用の灌木までも伐採し、原料確保のために鉄製の各種設備、農機具、炊事用具まで民衆に供出させました。
しかし原始的な設備、技術での製鉄であったため生産されたうちの6割超が役に立たない鉄くずという悲惨な結果となります。
一方、農村を組織化して、土地や農具、家畜を公有財産として生産物は労働に応じて分配するという「人民公社」が各地で設立されましたが、結果的に農民の生産意欲が減退して生産力が低下。
これらの失敗により、中国の食糧生産力は大幅に低下し、急激な工業化を目指すために森林伐採をした影響が出て大洪水や干ばつも引き起こされ、大躍進政策発動からわずか数年間で推定2000万人から5500万人もの餓死者が発生したとされています。
権力奪還を目論んで「文化大革命」を発令し数千万人規模とも言われる殺戮を生む
大躍進政策の失敗により毛沢東への批判が強まり、その責任を取る形で毛沢東は劉少奇に国家主席の座を譲りましたが、共産党主席の座にはとどまっており依然として強い権力を維持しており、次第に毛沢東と劉少奇の対立が深まり権力争いが鮮明かします。
絶対的権力の回復を目論んだ毛沢東は、1966年よりブルジョワ思想や資本主義への復帰を目指す反革命的な動きへの批判を呼びかける「プロレタリア文化大革命」を提起しました。
毛沢東の「文化大革命」の呼びかけに、北京大学や精華大学の学生が反応し、毛沢東を熱烈に支持する少年・少女らにより「紅衛兵」が組織され、彼らにより上級幹部や権威的な文化人に対して自己批判を迫る攻撃が始まり過激化していきました。
毛沢東は1966年8月にプロレタリア文化大革命を正式に発令すると劉少奇や鄧小平ら党内の改良派を資本主義に走って実権を奪おうとしているとして激しく批判し、天安門広場で大集会を開催して集まった紅衛兵を激励扇動し、紅衛兵らは北京市街に繰り出して反革命派、保守派のレッテルを一方的に貼った人々を攻撃して吊し上げ、「文化大革命」の動きは1968年頃までに中国全土へと広がりました。
1968年10月には国家主席の劉少奇を除名と解任に追い込み、鄧小平も役職を解任され毛沢東は絶対的な権力の奪還に成功します。
毛沢東によって扇動された紅衛兵は、暴力的な方法で反革命的と見做した人々(文化人や教師、学者などのインテリ層が多くいた)やブルジョワ的(地主や富裕層など)であるとされた人々を大衆の前に晒して自己批判を強要し、激しい暴行を加えてその多くを殺戮しました。
この文化大革命によって殺戮されたとされる人数は諸説ありますが、推定で数百万人〜数千万人と言われています。中国政府高官の見解として、文化大革命で殺戮された犠牲者数は2000万人に上るとされており、現在はこれが有力とされています。
毛沢東の面白いエピソード① 生涯歯磨きをしなかった
毛沢東の面白いエピソードとしては、生涯歯磨きをしなかったというエピソードがよく知られています。
毛沢東は生まれた時から歯磨きをする習慣がなく、朝起きるとお茶で口をゆすいでそのまま飲み干し、それからお茶の葉を噛むという口内洗浄法を生涯貫いたとされています。
若い頃から歯磨きをしなかった毛沢東の口内環境は劣悪だったとされ、毛沢東が55歳の時に診察をしたという主治医は「口の中に緑色のペンキが塗ってあるよう」だったと証言しています。この主治医が慌てて歯磨きを促すも、毛沢東は「虎は決して歯を磨かない。それなのに虎の牙はなぜ鋭いのか」などと言って歯磨きを断固拒否したのだそうです。
歯磨きをしない毛沢東の口臭も凄まじかったと言われており、命令で口を開くたびに悪臭が漂うため周囲の側近達が大いに悩まされたというエピソードも伝えられています。
毛沢東の面白いエピソード② 夜型人間で朝うるさい雀の絶滅を本気で画策
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毛沢東の面白いエピソードとしては、夜型の人間で朝になるとさえずってうるさい雀を本気で絶滅させようと計画したというとんでもエピソードが知られています。
毛沢東は若い頃は共産党軍を率いて、日本軍や国民党軍を相手に夜間のゲリラ戦を指揮していたため夜型生活が染み付いており、中華人民共和国を建国して絶対権力を手にしてからも夜型生活を変えませんでした。
そんな毛沢東にとって朝や昼間にたくさん集まってきて鳴き声をあげる雀は非常に鬱陶しかったようで、激しく憎悪するようになり、共産党幹部達に1日に何羽かの雀を捕まえるノルマを課し、北京の小・中学校の生徒と職員に雀の捕獲を命令しました。その結果年間で11億羽もの雀が処分(もはや大量殺戮であり実際には面白いという事はない)されたと言われています。
実は、毛沢東は「四害駆除運動」などとして雀の他にも、ネズミ、ハエ、蚊の徹底的な駆除を命じており、これが中国の生態系を崩し飢饉や災害を招いて「大躍進運動」で大量の餓死者を出す事にもつながったと言われています。
毛沢東の面白いエピソード③ 水泳が得意で金槌のフルシチョフを揶揄った
毛沢東の面白いエピソードとしては水泳をこよなく愛していた事が知られています。
毛沢東は63歳だった1956年に多くの部下を引き連れて長江を泳ぎわたり、それから1966年までの11年間で40数回にわたって長江を横断しています。
また、北京の中南海の邸宅にも室内と屋内に2つのプールを作らせ、晩年はこの室内プールに隣接する宿舎で多くの時間を過ごすようになり、外国からの賓客もこのプール内でもてなし、日本の当時の首相であった田中角栄ともこのプールで面会したと言われています。
当時、ソ連の指導者だったフルシチョフが泳げない事を知ると、毛沢東はわざとこの中南海の室内プールで面会して目の前でプールを何往復もして見せてフルシチョフをからかったというエピソードもよく知られています。
毛沢東の嫁は生涯で4人
毛沢東は生涯で4人の嫁がいました。
毛沢東の嫁① 羅一秀
毛沢東の1人目の嫁は、毛沢東がまだ13歳だった1907年に親の言いつけで結婚した羅一秀という4歳年上の女性です。
毛沢東は結婚式の後すぐに実家を出て学校に入っており羅一秀とは1度も同居せず、羅一秀は毛沢東の両親と2年ほど一緒に暮らしましたが1910年に20歳で亡くなりました。死因は「赤痢」でした。
毛沢東の嫁② 楊開慧
毛沢東の2人目の嫁・楊開慧のプロフィール
生年月日:1901年11月6日
没年月日:1930年11月14日
出身地 :清国・湖南省長沙府長沙県
毛沢東の2人目の嫁は楊開慧という女性で、恩師である楊昌済の娘でした。
1920年、毛沢東は父の楊昌済の死去後に長沙に戻り、長沙福湘女子中学選修班で学んでいた楊開慧と再会し恋愛を経て結婚し、1927年までに3人の子供(いずれも息子)を儲けています。
楊開慧は毛沢東との結婚後に中国社会主義青年団に加入して女性運動に従事していましたが、1927年の国共分裂により蒋介石による共産党弾圧が始まると、3人の子供を連れて故郷に身を隠しました。
しかし、1930年に国民党軍に捕まり、毛沢東と離婚すれば釈放するという条件を出されるも楊開慧はこれを拒否し処刑されています。
毛沢東の嫁③ 賀子珍
毛沢東の3人目の嫁・賀子珍のプロフィール
生年月日:1910年9月20日
没年月日:1984年4月19日
出身地 :清国・江西省吉安府永新県
毛沢東の3人目の嫁は賀子珍という女性で、1927年に中国共産党に入党し毛沢東が井崗山に拠点を築いた際に毛沢東の近くに仕えるようになり、1928年5月に結婚しています。毛沢東が35歳、賀子珍が17歳でした。なお、この結婚の時に2番目の嫁・楊開慧と結婚しているため不倫関係でした。
賀子珍は、共産党軍が国民党軍に追われて長大な距離を敗走した長征でも毛沢東と行動を共にし、1929年〜1938年までの間に毛沢東の子供6人(息子3人娘3人)を出産しています。
しかし、毛沢東が女性問題を繰り返し起こしたため1937年秋に結婚生活は破局し毛沢東によって追放されています。
毛沢東の嫁④ 江青
毛沢東の4人目の嫁・江青のプロフィール
本名 :李雲鶴
生年月日:1914年3月5日
没年月日:1991年5月14日
出身地 :中華民国・山東省諸城県
毛沢東の4人目の嫁は江青という女性で元々は上海で女優として人気を得ていました。
1933年に中国共産党に入党し、1937年以降に延安で毛沢東と出会い1939年に不倫交際を経て結婚しています。毛沢東は江青と結婚するために3番目の嫁である賀子珍と離婚して追放しています。翌1940年には子供(娘)も生まれました。
1966年の文化大革命では毛沢東の思想を広める役割を果たし、共産党内で絶大な権力を握った「四人組」のリーダー格として当時の共産党内の最高権力者の1人となります。
しかし、1976年に毛沢東が死去すると「文化大革命の主導者」としての責任を問われて逮捕され、1981年に裁判で死刑判決を受けています。その後、無期懲役に減刑され、獄中で文化大革命での自分の行動を正当化しようと足掻くも受け入れられず1991年5月14日に北京の病院で首を吊って77歳で自死しています。
毛沢東の子供は全部で10人で息子が6人と娘が4人
毛沢東には、最初の嫁の羅一秀を除く3人の嫁との間に合計で10人の子供が生まれています。
毛沢東の子供① 楊開慧との間に生まれた息子(長男)・毛岸英
毛沢東の子供(息子)・毛岸英のプロフィール
生年月日:1922年10月24日
没年月日:1950年11月25日
出身地:中華民国・湖南省長沙県撈刀河鎮
毛沢東の最初の子供は、2人目の嫁の楊開慧との間に生まれた息子の毛岸英で、母親の楊開慧が国民党軍に殺害された後に浮浪児になっているところを保護され、ソ連のインタードームに留学し赤軍(ソ連軍)に入隊して独ソ戦を戦っています。
1950年に朝鮮戦争にロシア語通訳として従軍しましたが、1950年11月にアメリカ軍の爆撃を受けて戦死しています。
毛沢東の子供② 楊開慧との間に生まれた息子(次男)・毛岸青
毛沢東の子供(息子)・毛岸青のプロフィール
生年月日:1923年11月23日
没年月日:2007年3月23日
出身地 :中華民国湖南省長沙
毛沢東の2人目の子供は、2人目の嫁の楊開慧との間に生まれた息子の毛岸青です。
母親が国民党軍に射殺された後に兄と浮浪児になっていたところを発見されソ連のインタードームに留学し赤軍に入隊して独ソ戦に従軍。
1947年に帰国して共産党に入党しロシア語の翻訳の仕事をしていたと言われています。一方で母親の死や兄の戦死などによって精神を病み、かなりの期間を精神科病院で過ごしました。
結婚して毛沢東にとっての孫となる息子を儲け、2007年3月に北京市の人民解放軍の病院で82歳で死去しています。
毛沢東の子供③ 楊開慧との間に生まれた息子(三男)・毛岸龍
毛沢東の3番目の子供は2人目の嫁の楊開慧との間に生まれた息子の毛岸龍ですが4歳で亡くなっています。
毛沢東の子供④ 賀子珍との息子3人は2人が幼くして死亡1人は行方不明
毛沢東は3人目の嫁の賀子珍との間に3人の息子が生まれています。
このうち毛沢東にとっての四男は1930年に江西省で生まれましたが生後すぐに死亡。
五男は1932年11月に福建省で生まれた毛岸紅で、毛沢東の弟の毛沢覃に預けられるも1935年に毛沢覃が国民党軍に包囲され死亡した後は消息不明になりました。
六男は賀子珍が毛沢東によって追放された後の1938年6月にソ連モスクワで生まれるも、生まれてすぐに肺炎にかかり生後10ヶ月で死亡しています。
毛沢東の子供⑤ 賀子珍との長女・楊月花と次女・熊化芝は生き別れ
毛沢東は3人目の嫁の賀子珍との間には3人の娘が生まれていますが、このうち2人とは生き別れになっています。
長女の楊月花は1929年3月に福建省で生まれてすぐに離れ離れになり1973年に生存しているのが見つかるも両親とは再会できませんでした。次女の熊化芝は1935年2月に毛沢東らの長征中の貴州省で生まれ、ミャオ族の養子となって両親と別れ2003年に生存が確認されました。
毛沢東の子供⑥ 賀子珍との間に生まれた三女・李敏
毛沢東の子供(娘)・李敏のプロフィール
生年 :1936年
出身地:中華民国・陝西省延安県
毛沢東と3人目の嫁の賀子珍との間に生まれた3人の娘のうち三女の李敏は出生後に延安の農村に預けられていました。賀子珍は毛沢東に追放された後、ソ連モスクワに渡っていましたが、毛沢東は1939年に当時3歳の李敏をモスクワの賀子珍のもとへ送っています。
賀子珍と李敏はモスクワのインタードームで生活し、1947年にようやく中国への帰還を許されています。毛沢東は娘の李敏を手元に置いたものの、賀子珍とは引き離して4人目の嫁の江青に育てさせています。
李敏は北京師範大学卒業後の1959年に結婚して2人の子供(毛沢東の孫)を出産しています。
毛沢東の子供⑦ 江青との間に生まれた四女・李訥
毛沢東の子供(娘)・李訥のプロフィール
生年月:1940年8月
出身地:中華民国・陝西省延安県
毛沢東と4番目の嫁の江青との間に生まれた子供が末娘の李訥です。
1959年に北京大学に入学して歴史学を学び1965年に卒業し、文化大革命の頃、北京市平谷県党委員会第一書記、北京市党委員会第二書記などを歴任しています。
1970年代に結婚しており子供(毛沢東の孫)を出産するも離婚し、毛沢東の死去後に母親の江青が逮捕されると自身も失脚しています。その後は共産党中央弁公庁秘書部で働き、1985年に再婚して2003年に全国政治協商委員会委員に就任しています。
毛沢東の孫…ブタ少将・毛新宇と実業家の孔東梅
毛沢東には少なくとも4人の孫がおり、そのうちはっきり経歴がわかっているのは次男の毛岸青の息子である毛新宇と三女の李敏の娘である孔東梅の2人です。
毛沢東の孫① 毛新宇
毛沢東の孫・毛新宇のプロフィール
生年月日:1970年1月17日
毛沢東の孫である毛新宇は、中国人民大学を卒業後、中央党校理論部で修士号を軍事科学院で博士号を取得し、2008年7月に軍事科学院戦略部副部長に就任し、2010年に少将に任官されています。
中国内ではあまり評判が良くなく、恰幅の良い見た目から一部で「ブタ少将」などと揶揄されているようです。
毛沢東の孫② 孔東梅
毛沢東の孫・孔東梅のプロフィール
生年月日:1972年1月1日
出身地 :中華人民共和国・上海
毛沢東の孫である孔東梅は実業家で、北京航空航天大学英米文学科を卒業後、保健会社「泰康人寿」に入社し、1999年にアメリカのペンシルベニア大学の国際政治学科に留学。2001年に帰国した後、北京東潤菊香書屋有限公司を設立しました。
1996年に資産家の陳東昇と不倫交際し未婚のまま3人の子供(毛沢東のひ孫)を出産しています。2011年に陳東昇は離婚し孔東梅と結婚しています。
毛沢東の晩年と死因
毛沢東の晩年ですが、1970年代に入る頃から体調が悪化し、1972年にアメリカのニクソン大統領と北京で会談した際には椅子から立ち上がれないほど衰弱していたようです。
ニクソンの会見後には、筋萎縮性側索硬化症を罹患している事が判明し1975年には白内障も悪化。同年秋には肺気腫から心臓病を併発して深刻な状況に陥りました。
そして、1976年9月9日、毛沢東は北京の中南海の自宅で82歳で死去しました。毛沢東の死因は「気管支炎と肺炎から来る心不全」とされています。
毛沢東の現在…遺体がミイラにされ天安門広場で一般公開されている
毛沢東の現在はすでに死亡していますが、その遺体は防腐処理をされてミイラ状態にされて、北京市内の天安門広場、毛主席紀念堂内に安置されており現在も一般に公開されています。
毛沢東のミイラ遺体は、水晶で出来た棺の中に安置されています。水晶は低温、遮光、遮断の三つの条件を完全に満たしており腐敗を完全に防いでいるとされています。
なお、一般公開されている毛沢東のミイラ遺体は実は偽物の蝋人形で、本物のミイラ遺体はこの地下に厳重に安置されているという噂もあるようですが真偽不明です。
ちなみに、毛沢東は晩年に火葬を希望しており、ミイラ化されて公開(ある意味で見せ物)される事を望んでいなかったようです。
まとめ
今回は、中華人民共和国を建国した毛沢東についてまとめてみました。
毛沢東がどんな人で何した人かですが、中国では日本軍や国民党軍に勝利して中華人民共和国を建国した英雄であり、日本を含む西側諸国にとっては大躍進政策と文化大革命によって大量の餓死者と殺戮を引き起こした独裁者、暴君と見られている人物です。
毛沢東は若い頃は人民を解放するという理想に燃える革命家であり、そのために邁進した英雄的人物でしたが、中華人民共和国を建国して絶対的権力を握った後は暴君と化し多くの人々を死や不幸に追いやりました。
毛沢東の面白いエピソードとしては、生涯歯を磨かなかった事や雀を絶滅させようとした事、水泳が得意で40回以上も泳いで長江を横断するという無茶をやった事などが知られていますが、いずれも面白いというよりはどちらかというとサイコパス的なエピソードだと感じられます。
毛沢東は生涯で4人の嫁を持ち、合計で10名の子供(息子6人娘4人)が生まれていますが、そのほぼ全員はが悲劇的な最期を迎えています。また、毛沢東には少なくとも4人の孫がいます。
毛沢東は晩年は体を壊し、衰弱して1976年9月9日に82歳で死去しました。死因は「気管支炎と肺炎から来る心不全」とされています。