日本の侍が盾を使わない理由!定義や階級の歴史・武士との違い・防具もまとめ

平安時代から江戸時代の日本に存在した「侍」は戦闘技術に特化し戦いを生業とする者達を指し世界的にも注目されています。

 

この記事では「侍」の定義や階級の変遷の歴史、武士との違い、侍や武士が防具として手持ちの盾を使わない理由などについてまとめました。

侍は日本の古代から中世にかけて官人とそこから発展した武士の別名

 

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現在では「侍(さむらい)」という言葉はほぼ武士(戦闘を生業とする一族)の同義語として使われていますが、歴史的には時代と共にその定義は変化してきました。

 

侍は平安時代に登場としたと言われており、当初は朝廷や有力貴族、武家に仕える官人(現代でいうところの公務員のイメージ)を指しました。それが次第に特に上級の武士を指す言葉となり、戦国時代には一時的に広い意味での武士を指す言葉になりましたが、安土桃山時代から江戸時代にかけて再び一定階級以上の武士を指す言葉として定義されるようになりました。

 

この記事では、侍の定義の変遷の歴史や階級の変化、武士との違い、防具として手持ちの盾を使わない理由などについて紹介していきます。

 

 

侍の定義の歴史① 平安時代は天皇や朝廷、貴族に使える官人階級を指した

 

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「侍」は平安時代に初めて登場したとされており、当初は天皇家や皇族、有力貴族のそば近くに仕えて朝廷の実務を担い、周辺警護や紛争に対応する警察のような任務も帯びていました。現在でいうところの公務員全般のようなイメージだと言えます。

 

その後、10世紀中頃の承平・天慶の乱(平将門の反乱と藤原純友の反乱)で活躍した地方の武士を、朝廷がアウトソーシングして侍として召し抱えて組織化し、中央や地方の治安維持(敵対的な組織や内乱の鎮圧)にあたらせました。

 

 

侍の定義の歴史② 鎌倉時代は御家人と同義で上位階級の武士を指した

 

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12世紀末に源頼朝が平家を打倒して武家政権である鎌倉幕府を開いて鎌倉時代が始まると、「侍」という言葉は征夷大将軍に仕える「御家人」を指す言葉になり、軍事・警察を担う「侍所」という組織も設立され、官人全般を指した平安時代との違いが生まれました。また、将軍の支配下にない独立勢力は「非御家人」と呼ばれ、これも侍身分と目されていました。

 

鎌倉時代には武士階級は「侍」と「郎従・郎党」に分けられ、将軍に仕えるのが侍、その侍に仕えているのが郎従・郎党でした。郎従・郎党であっても働きなどによって領地や家名を与えられ侍品(さむらいぼん、侍階級である事を示す言葉)として、侍と準同格の身分を与えられる者もありました。

 

したがって、鎌倉時代における侍の定義は、ざっくりと「御家人などの上位階級の武士」という事になります。

 

 

侍の定義の歴史③ 室町時代は将軍に直接仕える上位階級の武士を指した

 

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14世紀前半に鎌倉幕府が滅亡し、建武の新政を経て足利尊氏によって室町幕府が開かれ室町時代が始まりますが、幕府のシステムは概ね鎌倉幕府の時代と変わりなく、「侍」の定義も鎌倉時代と同じく、将軍(幕府)に直接仕える上位階級の武士を指しました。

 

一方、室町時代には、幕府から律令制における国ごとに配置された守護が力をつけて守護大名化しましたが、例え有力守護大名に仕える武士であっても「侍」とはみなされませんでした。

 

その他、特定の主君を持たない浪人や武装化した農民である野武士や臨時の傭兵である足軽も「侍」とは見做されませんでした。

 

したがって、室町時代における侍の定義は「幕府に直接仕える上位階級の武士」という事になります。

 

 

侍の定義の歴史④ 戦国時代は地侍という言葉も生まれ武士と同義に

 

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1467年(応仁元年)から1477年(文明9年)にかけて、足利幕府の後継者問題などが原因となった大規模な内乱「応仁の乱」が京都を中心に起こりました。

 

この応仁の乱がきっかけとなって日本は戦国時代に入り、それまでの伝統的な社会システムが崩壊し、家来が主君を倒して権力を奪う「下剋上」や、親子や兄弟、親族同士による権力争い、力をつけた大名同士の領土争いなど各地で合戦が頻発する混沌とした時代を迎えます。

 

こうした混乱の時代の中で、それまでは、主に幕府に仕える上層階級の武士を指す言葉であった「侍」の定義も大きく変化し、戦闘を生業とする武士全てが侍と呼ばれるようになりました。

 

この頃には「地侍」と呼ばれる、地方の有力農民や百姓が守護大名や戦国大名、地方領主と主従関係を結び侍とみなされるようになった存在が多く現れました。

 

戦国時代は、合戦で手柄を立てれば誰でも侍身分として認められ、実力があれば立身出世できる時代であったと言え、北条早雲、斎藤道三、明智光秀、田中吉政、木下秀吉(豊臣秀吉)などが低い身分から出世した人物として知られています。

 

戦国時代における侍の定義は「広域に武士全般を指す」といっても差し支えないでしょう。

 

 

侍の定義の歴史⑤ 安土桃山時代には下層階級の武士「若党」を指す言葉に

 

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戦国時代に勢力を伸ばした織田信長が足利幕府を倒し室町時代(戦国時代は室町時代後半にあたる)は終焉を迎えました。

 

その織田信長が天下統一を目前とした1582年(天正10年)に本能寺の変で明智光秀に討たれ、その明智光秀を倒した羽柴秀吉(豊臣秀吉)によって天下が統一され、さらにその秀吉が死に1600年の関ヶ原の戦いを経てその勝利者である徳川家康が江戸幕府を開くまでの時代は「安土桃山時代」と呼ばれています。

 

この安土桃山時代においては、「侍」という言葉は、下層階級の武士である「若党」を指す言葉として使われているのが確認できます。

 

これは1591年(天正19年)に、当時の最高権力者であった豊臣秀吉が、「侍、中間、小物、荒子」ら武家奉公人が百姓や町人になる事を禁じる法令を出しました。この法令文書での「侍」は下級武士である「若党」を指している事がわかっていて、この時代には侍という言葉が下層階級の武士を指す言葉として使用されていた事がわかります。

 

安土桃山時代は織田信長によって幕府が滅ぼされた時代であり、幕府の直臣という意味での侍という言葉は使われなくなったとも考えられます。

 

 

侍の定義の歴史⑥ 江戸時代は幕府では旗本、各藩では中小姓以上の武士

 

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1603年に徳川家康によって江戸幕府が開かれ江戸時代が始まると、「侍」という言葉の定義はまた変わり、江戸幕府において侍は、将軍への謁見が許される「御目見」という家格を指す「旗本」階級の武士を示す言葉として使われるようになりました。一方、将軍に謁見する権利のない武士は「御家人」という階級で区別され、こちらは侍ではないとされました。

 

また、幕府以外の各藩においては、侍は大名の近くに近侍する中小姓以上の階級の武士を示す言葉として使用されるようになりました。

 

そもそも、「侍」という言葉の由来は、身分の高い人の側に控えて仕えるという意味であり、江戸時代になって、その本来の意味に回帰したとも言えます。

 

ただその後、時代が下るにつれて侍と武士の違いの定義は曖昧になっていき、江戸時代中後期から現在に至るまで侍という言葉は再び武士の同義語として使われる事が一般的となりました。

 

 

侍と武士の違い…そもそも元の意味は全く違う

 

侍の定義の変遷の歴史について見てきましたが、その最後のまとめとして侍と武士という言葉の意味の違いについても改めて紹介していきます。

 

まず「侍」という言葉の語源ですが、「サモラフ」という言葉だったと見られています。

 

「サモラフ」は元々の意味は相手の様子を注意深く窺うという意味で使われていたとされ、それが奈良時代頃には身分の高い人の傍に控えて様子を窺いその命令が下るのを待つという意味で使われるようになったとされています。

 

それが平安時代に「サブラフ」と変化し、その連用形で「サブラヒ」という名詞が生まれ「主君の近くで面倒見る事、それをする人」という意味となり、これに「侍」という漢字があてられたと考えられています。

 

一方、「武士」の語源ですが、「武」という漢字は武器や武力、強さ、大きな意味で戦力を表し、「士」という漢字は「有能な男」を意味しています。つまり、「武士」とは武器の扱いや戦闘技術、戦争指揮能力に長けた男を意味する言葉として使われ始めたと考えられます。(山伏、野伏が変化したとする説は信ぴょう性が低い)

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言葉の元々の意味から、侍は「主君に仕える者」、武士は「戦闘の専門家」と定義する事ができ、その根本的な違いが理解しやすいです。

 

歴史における「侍」の定義の変遷も、この違いを理解していれば腑に落ちます。江戸時代はほとんどの武士が幕府や藩に仕えていて浪人も常に主君を探しており、野武士や地方の独立した武装勢力などは存在しなかったために侍と武士の違いが曖昧になっていき、次第に同じ意味で使われるようになったと推測されます。

 

 

侍が盾を使わない理由① 元々盾はあったが手持ち防具としては廃れた

 

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侍や武士は防具として手持ちの盾を使用しませんでした。

 

続けて、侍や武士が防具として手持ちの盾を使わない理由についても見ていきます。

 

元々、日本でも手持ちの盾は使用されていた時期があり、弥生時代から飛鳥時代にかけては手持ちの盾を使用していました。これらは木製や革製の盾で片手に持ち使用されていました。

 

これらの手持ちの盾は次第に廃れていき全身を覆う防具の発達した平安時代以降はほとんど使われなくなったとされています。

 

ただ、地面に置いて使うタイプの長方形の置き盾(掻楯)は使用されていて、これを並べて置いて陣地を防御したり、雑兵が前線に並べ配置しその後ろから侍が弓をいかけるといった方法で使われていたと見られています。

 

 

侍が盾を使わない理由② 馬上で大型の弓を操る戦闘法が主流だった

 

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侍や武士が防具として手持ちの盾を使わない理由としては、平安時代からは騎乗での弓を使った戦闘法が侍の主流となった事が挙げられます。

 

当時の戦闘は騎乗の侍や武士同士が遠距離から弓を撃ち合い、決着がつかなければ接近して太刀(大型の日本刀)で戦い、それでも決着がつかなければ素手での格闘戦で勝負をつけるというものでした。

 

当然、馬上で大きな和弓を扱う以上、手持ちの盾を装備する余裕はありません、これが侍や武士が盾を使わない理由の1つです。

 

 

侍が盾を使わない理由③ 着用する防具(大鎧や胴丸)を盾の代わりにした

 

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侍や武士が手持ちの防具として盾を使わない理由としては、着用する防具を盾の代わりにして使ったという事が挙げられます。

 

侍や武士が戦場で着用する防具は鎧ですが、騎乗での和弓を使用しての戦いが主流だった平安時代から鎌倉時代にかけては、騎乗の上級武士や侍は大鎧(おおよろい)と呼ばれる鎧を着用して戦いました。この大鎧の肩の部分は大袖(おおそで)という盾状の部品で、侍や武士は戦場ではこの大袖を盾代わりにして戦ったと言われています。

 

また、大鎧には弓を射る時に開く脇と胸部を防御する防具として、栴檀板(せんだんのいた)・鳩尾板(きゅうびのいた)という盾状の部品もついていました。

 

大鎧は騎乗して戦う事を想定して設計されていましたが、平安時代の中期には徒歩での戦闘にも対応した「胴丸」(どうまる)という鎧が登場し、当初は騎乗の許されない徒歩の下級武士の着用防具として用いられました。

 

しかし時代が移って、騎乗で弓を使った戦法から徒歩での集団戦へと戦法様式が変化すると、騎乗の侍や武士も胴丸を使うようになり、デザインも階級の高い侍や武士にふさわしい華美でものに変化しました。

 

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胴丸の肩部分には、大鎧の大袖ではなく、杏葉(ぎょうよう)と呼ばれる小型の鉄板が付いており、これが盾の代わりに使われました。

 

さらに時代が下って戦国時代に入ると、合戦の頻度が増えて規模も大きくなり集団戦が主流となりました。侍や武士の着用防具も大鎧や胴丸に代わって「当世具足」(とうせいぐそく)と呼ばれる生産性が高い鎧が開発されます。

 

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やがて、鉄砲が伝来して広まり、戦場の主役となると当世具足は防御力と機動性を高めるように改良されていきました。この当世具足にも肩部分に当世袖と呼ばれる盾代わりの板状の部品が取り付けられていました。

 

このように、侍や武士が防具として手持ちの盾を使わない理由としては、着用する防具である鎧の肩部分に盾代わりに使用できる部品を取り付ける工夫をしていたためだと言えます。

 

 

侍が盾を使わない理由④ 両手で扱う武器が主流だった

 

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侍や武士が防具として手持ちの盾を使わない理由としては、両手で扱う武器が主流だった事も挙げられるでしょう。

 

侍や武士が戦場で活躍し始めた平安時代の主流武器は和弓でした。和弓は馬上から弓で鎧を着た敵を射抜くために強い張力で弦が張られ、世界の弓の中でも最強の威力を誇ったとされています。このような弓を扱うのは生半可な筋力では無理で、しかもそれを戦場で速射するわけなので、当時の武士が手持ちの盾を用いる余裕などはありませんでした。

 

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また、この和弓があまりにも強力であったため、持ち盾を装備しても貫かれるだけなので役に立たず、日本の戦場で持ち盾が使われなくなった理由になったという説もあります。

 

平安時代以降、徒歩での集団戦が主流となっても和弓は主力武器として使用され続けました。

 

また、和弓の他にも侍や武士が使用する武器は薙刀、槍、日本刀など両手で扱うものが主流で、これも手持ちの盾を使わない理由だと考えられます。

 

 

侍が盾を使わない理由⑤ 戦闘技術に特化した攻撃力を最大限活かすため

 

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戦国後期から主力兵器となった鉄砲に対しては手持ちの盾はあまり役に立たないため、鉄砲弾除けの防具としては竹を束にした置き型の盾などが用いられました。

 

戦国後期の侍や武士の戦い方は鉄砲や弓を撃ちかけてくる敵に対し、雑兵や足軽に置き型の盾を持たせ、こちらも弓や鉄砲を撃ち返しながら少しずつ接近し、一定の距離まで詰めたところで接近戦における戦闘技術に特化し防御力の高い鎧を装備した侍や武士が切り込んで敵陣を突破し切り崩すものだったという説があります。

 

こうした戦法が主流であれば侍や武士が手持ちの盾を持つ理由はありません、主な防御は足軽や雑兵に任せ、戦闘技術に特化した侍や武士の攻撃力を最大化させていたとも言えます。

 

なお、黒澤明監督の戦国時代の映画や大河ドラマなどでよく描かれる騎馬隊の集団突撃などは斉射を受けて大損害を出すだけなので実際には行われなかったと言われています。

 

このように、侍や武士が手持ちの盾を使わない理由は、矢弾を恐れないからという精神論的な理由ではなく非常に合理的な理由だったと考えられています。

 

 

侍が盾を使わない理由⑥ 戦闘技術の発展による淘汰

 

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侍や武士が手持ちの盾を使わない理由として、両手持ちの武器で相手の攻撃を受け流すような戦闘技術が発展し、手持ちの盾を用いた戦闘技術を淘汰したという説も考えられます。

 

侍や武士の一族を武家といい、彼らは戦闘の専門家として戦場で働く事を生業とし、戦場で功績を上げることで主君から報酬をもらい家を大きくしていきました。そのため、武家は一族の市場価値を高めるため、日々訓練し独自の戦闘技術を発展させていったとされています。

 

市場原理により戦場で勝てない武家は淘汰されていくので、手持ちの盾が姿を消した理由は手持ちの盾を用いた戦闘技術より盾を使わず相手の攻撃を受け流す戦闘技術の方が優れていたと考えられます。

 

つまり、侍や武士が手持ちの盾を使わない理由は、盾を使った戦闘技術が戦場において淘汰されたためだと考えられます。

 

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侍が盾を使わない理由⑦ 地形や気象などの自然条件

 

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侍や武士が手持ちの盾を使わない理由として、日本列島の地形や気象などの自然条件も関係しているかも知れません。

 

広大な平原が多い大陸と違って日本列島は山岳や森、川が多く狭隘な地形が多いため、広く展開した軍隊同士が正面からぶつかる合戦はあまり発生せず、地形を活かした奇襲戦やゲリラ戦が多く発生したと言われています。また、天候も雨や霧が多く地面の状態も頻繁に変化します。

 

こうした地形や気象条件の日本においては、手持ちの盾を持ち歩く事は、防御力を高めるメリットよりも機動性が損なわれるデメリットの方がはるかに大きかったと考えられます。

 

一方で、こうした地形を活かして防御陣を張る戦術は発展したため、即席のバリケードとしても使える置き型の盾は廃れずに残ったと考えられています。

 

 

まとめ

 

今回は、平安時代から江戸時代にかけて存在した「侍」についてまとめてみました。

 

侍の定義は歴史の流れとともに変遷し、平安時代には天皇家や貴族などの上流階級に仕える官人を意味する言葉でした。その後、戦闘を生業とする武士が治安維持や周辺警護を担当する「侍」として用いられるようになり、鎌倉時代から室町時代にかけては幕府に使える階級が高い特定の武士を指す言葉になりました。

 

戦国時代になると武士と侍の境界は曖昧になり、戦場で手柄を立てれば百姓であっても侍身分に取り立てられる道もあったため、侍は武士全般を指す言葉になりました。

 

戦国時代が終わって江戸幕府が開かれると、侍は再び幕府や大名に直接仕える高い階級の武士を指す言葉となりますが、これも時代が下るにつれて一般武士と侍の境界は曖昧になり侍と武士という言葉はほぼ同義の意味で使われるようになりました。

 

侍や武士が防具として手持ちの盾を使わない理由もよく話題にされていますが、これは平安時代には馬上で強い弓を使う戦法が主流だった事や、その後も両手で扱う武器が主流だった事などが理由として挙げられます。他にも着用する防具である鎧が盾の機能を兼ね備えていた事、戦闘技術の発展、日本列島の地形や気象条件などが侍や武士が手持ちの盾を使わない理由だったと考えられます。

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