浅沼稲次郎の暗殺事件&犯人の少年と現在!身長や子孫・刺される画像・その後もまとめ

戦前から戦後期にかけて活躍した政治家の浅沼稲次郎は右翼少年に暗殺されました。

 

この記事では浅沼稲次郎の身長などのプロフィール、嫁や子供、子孫などの家族、浅沼稲次郎暗殺事件の概要、刺される瞬間の画像、犯人の少年の生い立ちと犯行動機、その後や現在などについてまとめました。

 

浅沼稲次郎のプロフィールと経歴

 

浅沼稲次郎のプロフィール

 

生年月日:1898年12月27日

没年月日:1960年10月12日(享年61歳)

出身地 :東京府神着村(現在の東京都三宅村)

身長  :175cm

 

浅沼稲次郎(あさぬま・いねじろう)は、戦前から戦後にかけての政治家で、東京市会議員を経て衆議院議員当選通算9回、東京都議会議員副議長、日本社会党書記長および委員長を歴任しました。

 

浅沼稲次郎は、徹底的に国民目線と弱者の立場に立った社会主義を掲げる政治家であり、その一方で昭和天皇や皇室を深く敬愛していた事でも知られ、民衆から非常に高い人気を集める典型的な大衆政治家でした。

 

しかし、1960年10月12日、日比谷公会堂で演説していた際に反共主義者だった当時17歳の少年・山口二矢に襲撃されて暗殺され、志半ば61歳で亡くなっています。

 

 

 

浅沼稲次郎の経歴① 生い立ち

 

浅沼稲次郎は、伊豆諸島三宅島にある東京府神着村(現在の東京都三宅村)の名主・浅沼半次郎の庶子として生まれました。

 

尋常小学6年生の時、父親が稲次郎の母親とは別の女性と再婚したのを機に、東京府南葛飾郡砂村(現在の東京都江東区)で酪農業をしていた父に実子として認知され引き取られています。

 

砂町小学校に通い卒業後は、陸軍幼年学校を2回受験するも不合格。次いで受験をして府立三中(現在の都立両国高校)に入学しています。府立三中時代には、雄弁大会に出場して人生初の演説を行っています。しかしこの時には緊張のあまりうまくできず散々な失敗だったと本人が後に語られています。

 

1916年、府立三中を卒業した浅沼稲次郎は、父に「早稲田大学に入って政治家になりたい」と希望しますが、父は「政治家というものは財産をすり潰して家を潰す。実業家か慶應の医科に進んで医者になれ」と叱られています。

 

反発した浅沼稲次郎は、どうせいずれは懲役で兵隊に行くのだから、いっそなら軍人を少しやって、その後に改めて早稲田に入ろうと考えて、陸軍士官学校を2回、海軍兵学校を4回受験するもいずれも不合格になっています。

 

 

 

浅沼稲次郎の経歴② 早稲田大学予科に入学し社会主義運動に参加

 

1918年、浅沼稲次郎は父の了解を得られないまま独断で編入試験を受けて早稲田大学予科に入学。父や家族とは一時は絶縁状態になり、家を飛び出して馬喰町の友人が経営する文房具店で万年筆を制作する仕事をさせてもらい、働きながら大学へ通っています。

 

早稲田大学では、浅沼稲次郎はその高身長の巨体を活かして相撲部で副主将を務め、操船部でも活躍し、各科対抗のボートレースに政経科から出場して勝利をしています。この時には早稲田の初代総長の大隈重信に「いい身体だなあ」と褒められたそうです。

 

一方、当時は大正デモクラシーが風靡した時世の中、学生による政治運動が盛んで、浅沼稲次郎も雄弁部に所属し、北沢新次郎教授を中心とした建設者同盟を結成。ロシア飢餓救済運動や軍事研究団反対運動など、社会主義運動へと身を投じています。

 

1923年、早稲田大学乗馬学生団を中心とした右翼学生達により「早稲田軍事研究団」が組織されると、軍閥への協力に反対する学生による軍研反対の集会が開かれました。

 

浅沼稲次郎も反対学生の1人として参加し、決議文の朗読や演説を行い、軍研に賛同する右翼学生や相撲部、柔道部の学生達から殴る蹴るの暴行を受けるなどし、この事件後にも右翼学生団体に合宿所に監禁された上、集団暴行を受けるなどしたという事です。

 

 

 

浅沼稲次郎の経歴③ 早稲田大学卒業後は国家社会主義に傾倒

 

早大軍研事件から程なくして、浅沼稲次郎は早稲田大学政治経済学部を卒業。その後も社会主義運動を続け農民組合運動を始め、26歳だった1925年に結党された「農民労働党」の書記長に抜擢されています。しかしこの党は結党からわずか3時間で政府の命令で解散させられています。

 

翌1926年、労働農民党が結成されますが、間もなく右派、中間派、左派の3派に分裂し浅沼稲次郎は中間派の「日本労農党」に参加しています。この頃には、全国労働党組織部長などを歴任しています。

 

1932年、分裂していた無産政党(合法的社会主義政党)が糾合されて社会大衆党が結党されると、浅沼稲次郎もこれに参加し、この頃に同党書記長だった麻生久に心酔し、麻生らの掲げる軍部の革新派との連携により社会主義勢力の拡大を目指す路線に賛同し中央常任委員を務めました。

 

1933年に東京市会議員当選を経て、1936年に衆議院議員選挙に初当選して国政へと進出。当時の浅沼稲次郎は軍部の戦争政策に賛成の立場を示しており、1940年に泥沼化する日中戦争を継続する政府と軍部の姿勢を批判した斎藤隆夫衆議院議員の反軍演説を行なった際に起こった除名運動に浅沼稲次郎も賛成しています。

 

1940年10月に大政翼賛会が発足すると、その臨時選挙制度調査部副部長に就任。しかし、それに前後して心酔していた麻生久が急死すると、浅沼稲次郎は精神面の健康と体調を崩し、1942年の総選挙(翼賛総選挙)への立候補を辞退し一時的に国政から退きました。

 

この年、東京市会議員選挙に立候補するも官憲の妨害を受けて落選。翌1943年に東京都議会選挙に立候補して当選し副議長に就任しています。

 

 

浅沼稲次郎の経歴④ 日本社会党に参加

 

1945年に日本の敗戦によって太平洋戦争が終結すると、同年11月の日本社会党創立に参加して組織部長に就任。GHQの占領政策によって中間派の指導者であった河上丈太郎と三輪寿壮が公職追放となり、浅沼稲次郎は実質的に中間派の中心となりました。

 

1947年には、浅沼稲次郎は衆議院議員運営委員長に就任し、その年に同党書記長の西尾末広が片山哲内閣に初入閣(内閣官房長官)した事に伴い、書記長代理を経て翌1948年に正式に日本社会党書記長に就任しています。

 

1951年、サンフランシスコ講和条約と日米安保条約を巡って社会党の右派勢力と左派勢力が対立。浅沼稲次郎はサンフランシスコ講和条約には賛成・日米安保条約には反対とする折衷案を示して両派の対立をまとめようとしますが、失敗し社会党は右派と左派に分裂しています。

 

1955年、社会党再統一に伴って再び正式に日本社会党書記長に就任しました。この当時は長年書記長を務めながら党のトップである委員長の地位がめぐってこないため「万年書記長」などと揶揄されています。

 

 

浅沼稲次郎の経歴⑤ 「アメリカ帝国主義は日中両国人民の共同の敵」発言が波紋

 

浅沼稲次郎は、1959年3月に第2次中国訪問団の団長として中国を訪問しています。

 

浅沼稲次郎はこの訪中期間の3月9日に中国人民外交学会の張実若会長と会談を行った際に「アメリカ帝国主義は日中両国人民共同の敵である」と発言。

 

さらに、同3月12日の政治協商会議礼堂で演説を行った際に再び同様の発言を行いました。

 

この浅沼稲次郎の発言は日本国内で大問題となり、政府および与党の自由民主党はこれを重大視して、翌3月13日に福田赳夫自民党幹事長(当時)の名前で浅沼稲次郎に対して抗議電報を打っています。

 

自民党が打った電報は、「浅沼稲次郎の発言は同盟国たるアメリカを正面から敵視するもので、我が国の置かれている国際的立場を根本から否定するものと言わざるを得ず、浅沼稲次郎の地位から見ても内外に与える影響は甚大であり、極めて遺憾とせざるを得ない」という内容で、この発言を強く批判すると共に「国際問題についての言動は、その及ぼす影響を十分に考慮し特に慎重を期されるように」と要望する内容でした。

 

国内世論においても、この浅沼稲次郎の発言を批判する声が高まり、訪中団が帰国した際に飛行機のタラップから降りてくる浅沼稲次郎が、中国の工人帽を着用して降りてきた事に対しても大きな反発が起こりました。

 

産経新聞が2015年に配信した記事では、帰国の数日後、浅沼稲次郎は当時の駐日米大使のダグラス・マッカーサーに面会を申し入れてアメリカ大使館を訪ねた際に、マッカーサーから「中国の共産主義者たちが言う『米国は日中共通の敵だ』という主張に、あなたは同意したのか?」と強く問いただされ、浅沼稲次郎がすごすごと引き返したと書かれています。

 

浅沼が立ち上がるとマッカーサーは機先を制するように問いただした。「中国の共産主義者たちが言う『米国は日中共通の敵だ』という主張に、あなたは同意したのか?」

 浅沼が釈明しようとするとマッカーサーは拳(こぶし)で机をたたき、怒声を上げた。「同意したのか? イエスか、ノーか!」

浅沼はすごすごと引き返すしかなかった。

 

引用:先鋭化する社会党「米帝は日中の敵!」 5・19強行採決で事態一転…牧歌的デモじわり過激化 そして犠牲者が

 

ただ、1967年から1968年まで日本社会党の中央執行委員長を務め、後にソビエト連邦の情報機関KGBのスパイだった事が確定した勝間田清一は、この時に浅沼稲次郎はマッカーサーから詰問されたものの、発言を取り消さないと反論したため大激論となったと主張しています。

 

また、日本社会党の機関紙が発行した書籍「邁進 人間機関車ヌマさんの記録」には、浅沼稲次郎はマッカーサーに発言の撤回を強く求められたが、「取消す必要はない。アメリカ国民に対してではなくて、帝国主義政策と社会党が闘うのは当然である」と発言して撤回を拒否したと書かれています。

 

ただし、どちらも日本社会党側の証言(しかもその1人はソ連のスパイ)であるため、あまり信用はできません。

 

 

浅沼稲次郎の経歴⑥ 演説中に右翼少年の襲撃受けて暗殺される

 

訪中時の「アメリカ帝国主義は日中両国人民共同の敵」の発言により、保守派、特に右翼団体からの強い批判を受ける事になった浅沼稲次郎でしたが、周囲に護衛をつける事を進言されても、「私は社会主義者だ。必要ないよ」と断り、「大衆はオレを信じているよ」、「オレを殺そうというものはいない」と確信していたという事です。

 

翌1960年、社会党でも右派勢力だった西尾末広ら32人が社会党を離党して民主社会党(民社党)を結党した事に伴って、鈴木茂三郎委員長が辞任すると、浅沼稲次郎が後任として第3代目社会党委員長に就任しました。

 

浅沼稲次郎は当時急激に激化していた安保闘争を安保改定阻止国民会議を通じて前面に立って戦い、岸信介内閣を総辞職に追い込んでいます。しかし、安保条約自体の廃案を勝ち取るまでには至りませんでした。

 

1960年11月に行われる衆議院議員総選挙の前哨戦として、同年10月12日に東京都選挙管理委員会、公明選挙連盟、NHKの主催による、自民党、社会党、民社党の党首による、立会演説会「総選挙に臨む我が党の態度」が開催されました。

 

浅沼稲次郎は社会党の党首としてこれに参加しましたが、登壇して演説を始めた直後に、聴衆席から突然立ち上がり駆け上がってきた当時17歳の右翼少年・山口二矢に脇差のような刃物で脇腹や胸などを刺され、非業の死を遂げました。享年は61歳でした。

 

後の調べにより、犯人は浅沼稲次郎の訪中時の「アメリカ帝国主義は日中両国人民共同の敵」という発言を問題視して犯行に及んだ事が判明しています。

 

この浅沼稲次郎暗殺事件については後半で改めて紹介します。

 

 

 

浅沼稲次郎の身長は175cmで体重100kg超の巨漢だった

 

出典:https://books.bunshun.jp/

 

浅沼稲次郎の身長は「175cm」で、当時の日本人としてはかなりの高身長でした。この身長に加えて体重100kgを超える巨漢であった事から、当時の民衆からは「人間機関車」のあだ名でも呼ばれ親しまれる存在でした。

 

早稲田大学時代にはこの高身長の恵まれた体躯を活かして、相撲部と漕艇部で活躍しています。

 

浅沼稲次郎は、その高身長の巨体から豪傑のイメージで見られますが、実は繊細な性格で生涯で2度も精神を病んで入院しています。

 

1度目の入院は太平洋戦争直前に社会大衆党を解散して大政翼賛会に加わった時で、浅沼稲次郎の思い描いていた形とは異なって同会が軍部の御用機関になったことに悩んでのものでした。

 

2度目の入院は太平洋戦争終結後に社会党が左右に分裂した時で、この時の症状はかなり重く、一時は再起不能とまで言われました。この時には病床で留置場で警察に暴行を受けた時の夢にうなされ続けたと言います。

 

 

浅沼稲次郎の家族① 父親は三宅島神着村の名主・浅沼半次郎

 

浅沼稲次郎の父親は三宅島にある東京府神着村の名主だった浅沼半次郎という人物でした。

 

ただ、浅沼稲次郎は正妻の子供ではなく、愛人との間に生まれた庶子で、尋常小学校6年生になるまでは認知されていませんでした。

 

 

 

浅沼稲次郎の家族② 嫁は衆議院議員・浅沼享子

 

浅沼稲次郎の嫁・浅沼享子のプロフィール

 

生年月日:1904年2月10日

没年月日:1981年3月10日(享年77歳)

出身地 :東京都

(写真後ろの3人は書生で、浅沼稲次郎と嫁の享子の子供ではない)

 

浅沼稲次郎の嫁は社会党婦人問題研究会常務理事で、衆議院議員を1期務めた浅沼享子(あさぬま・きょうこ)さんです。

 

1925年、浅沼稲次郎は、社会主義運動の仲間達とのたまり場にしていた喫茶店で働いていた享子さんと出会い結婚しています。浅沼稲次郎は愛妻家・恐妻家としても知られていました。

 

浅沼稲次郎の嫁の享子さんは結婚後は、公私にわたって浅沼稲次郎を支え、1945年に自らも社会党に入り、婦人問題研究会常務理事に就任しました。

 

浅沼稲次郎が暗殺された後、稲次郎の身代わり候補として擁立され、1960年11月の第29回衆議院議員総選挙に旧東京第一区から立候補し、稲次郎の対立候補だった麻生良方を破って2位当選を果たしています。

 

1963年11月の第30回衆議院議員総選挙には出馬せず、国会議員からは1期のみで退きましたが、その後も1964年9月の中国建国15周年記念式に参列するなど日中友好に尽力しました。

 

 

 

浅沼稲次郎の家族③ 子供は2人いたが子孫については不明

 

出典:https://blogimg.goo.ne.jp/

 

浅沼稲次郎には、嫁の享子さんとの間に2人の子供がいましたが、この2人の子供は表立った活動はされておらず、詳しい事は不明です。また、浅沼稲次郎の子孫についても情報がなく浅沼家が存続しているのかも含め不明です。

 

また、直接的な子孫というわけではありませんが、戦後に日本社会党から東京杉並区議会議員を1期務め、その後右翼に転向して大日本愛国党参与、学生純正同盟顧問を務めた浅沼美智雄は浅沼稲次郎の遠戚にあたります。

 

その他、こちらも直系の子孫ではありませんが、浅沼稲次郎の従兄弟の曾孫にあたるという方のツイートが確認できます。

 

 

 

 

浅沼稲次郎暗殺事件の概要

 

出典:https://say-g.com/

 

浅沼稲次郎は1960年10月12日に日比谷公会堂で演説中に、当時17歳の少年に腹部などを刺されて暗殺されました。この浅沼稲次郎暗殺事件についてももう少し詳しく見ていきます。

 

浅沼稲次郎は、その日、近く解散総選挙が控える状況の中、日比谷公会堂で開かれた自民党、社会党、民社党3党の党首による立会演説会「総選挙に臨む我が党の態度」に社会党党首として参加していました。

 

浅沼稲次郎はこの前年の1959年に第2次中国訪問団の団長として中国を訪問し、演説の場で「アメリカ帝国主義は日中両国人民の共同の敵」などと発言したため、日本国内の保守派から強い反発をうけていました。

 

そうした背景の中、浅沼稲次郎は午後15時頃、民社党代表の西尾末広の演説が終わった後に登壇しましたが、演説を始めた直後から右翼団体からの野次が激しくなり、「中ソの手先、容共社会党を打倒せよ」といった内容のビラがばら撒かれました。

 

司会を務めていたNHKアナウンサーの小林利光が自制を求めると、一時的に場が静まったため、浅沼稲次郎はそれを見計らって、自民党の選挙政策を批判する内容の演説を再開。

 

15時5分頃、聴衆の席に座っていた17歳の少年・山口二矢(やまぐち・おとや)が壇上へと駆け上がり、刃渡り約33cmの刃物で、体当たりをするようにして浅沼稲次郎の左脇腹を刺し、さらに続け様に左胸を刺しました。

 

犯人の山口二矢はその場で取り押さえられ、浅沼稲次郎は数歩よろめきながら歩いた後に崩れ落ち、側近に抱き抱えられて病院へと運ばれました。浅沼稲次郎の左脇腹の傷は深さ30cm以上に達して大動脈が切断されており、15時40分に日比谷病院に運び込まれた時には既に心肺停止の状態で、ほぼ即死の状態でした。

 

犯人の山口二矢は犯行動機を記した書状を懐に忍ばせていました。山口二矢が記した「斬奸状」は以下の内容でした。

 

汝、浅沼稲次郎は日本赤化をはかっている。自分は、汝個人に恨みはないが、社会党の指導的立場にいる者としての責任と、訪中に際しての暴言と、国会乱入の直接のせん動者としての責任からして、汝を許しておくことはできない。ここに於て我、汝に対し天誅を下す。 皇紀二千六百二十年十月十二日 山口二矢。

 

犯人の山口二矢が掲げた犯行動機は「浅沼稲次郎が日本の赤化(社会主義化)を図っている事」、「中国訪問時の『アメリカ帝国主義は日中両国人民の共同の敵』という売国的な発言」、「国会議員として国民を扇動している事」でした。

 

 

 

浅沼稲次郎が刺される瞬間の写真が撮影されている

 

出典:https://pbs.twimg.com/

 

浅沼稲次郎暗殺事件では、犯人の山口二矢に浅沼稲次郎が刺される瞬間の写真が各マスコミのカメラマンによって撮影されています。

 

出典:https://webronza.asahi.com/

 

浅沼稲次郎が刺される瞬間の写真は各新聞の一面や雑誌「サンデー毎日」のトップ写真にも使用され大きな反響を呼びました。

 

特に、毎日新聞写真部の長尾靖は、浅沼稲次郎が刺される瞬間の写真によって、暗殺事件の翌年にピュリツァー賞と世界報道写真大賞を受賞しています。これは、日本人として史上初のピュリツァー賞の受賞となりました。

 

 

 

浅沼稲次郎暗殺事件の犯人は17歳右翼少年の山口二矢

 

浅沼稲次郎暗殺事件の犯人・山口二矢のプロフィール

 

生年月日:1943年2月22日

没年月日:1960年11月2日(享年17歳)

出身地 :東京都台東区谷中

 

 

浅沼稲次郎暗殺事件の犯人は、山口二矢(やまぐち・おとや)という当時17歳の少年でした。

 

浅沼稲次郎暗殺事件犯人・山口二矢は、1943年2月22日に東京都台東区谷中で生まれました。家族は両親と兄がおり、父親は東北帝国大学出身の厳格な人物で自衛隊幹部だった山口晋平、母親は大衆作家・村上浪六の三女、文化史家の村上信彦は伯父にあたります。

 

兄の朔生は学業に秀でた人物でしたが、早くから右翼思想に傾倒し、極右団体「大日本愛国党」の党員となり、1959年のメーデーで検挙されています。

 

その兄の影響を受け、山口二矢も1959年5月に大日本愛国党に入党し、反左翼の運動に身を投じるようになりました。

 

山口二矢は街頭での活動で過激な行動を繰り返し、反安保のデモ隊に襲いかかり、ビラ貼りを制止しようとする警察官とも揉み合いになるなどして10回以上も警察に検挙され、1959年末には東京地裁に保護観察4年の処分を下されています。

 

1960年に入り、急速に拡大する安保反対運動に危機感を抱いた山口二矢は、愛国党のやり方に物足りなさを感じるようになり、左翼陣営の指導者をターゲットにした暗殺を計画。党に迷惑をかけないように同年5月29日に年長の同志2人と共に愛国党を脱党しました。

 

そして、同年10月12日の読売新聞朝刊で、この日に3党首立会演説会が日比谷公会堂で開催される事を知り、浅沼稲次郎暗殺事件を実行に移しました。

 

 

 

浅沼稲次郎暗殺事件のその後① 犯人の山口二矢は少年鑑別所で自殺

 

出典:https://say-g.com/

 

浅沼稲次郎暗殺事件のその後、現行犯逮捕された犯人の少年・山口二矢は、警察の取り調べに理路整然と応じていましたが、犯行から3週間後の11月2日、勾留されていた東京少年鑑別所の単独室(東寮2階2号室)で、ベッドのシーツを裂いて紐状にし、裸電球を覆う金網に巻き付けて首吊り自殺しました。

 

壁には歯磨きを粉を水で溶いた液を使い指で「七生報国 天皇陛下万才(原文のママ)」と書かれていました。

 

また、犯人の山口二矢は、辞世の句として「国のため 神州男児 晴れやかに ほほえみ行かん 死出の旅路に」、「大君に 仕えまつれる 若人は 今も昔も 心かわらじ」という2句を残しています。

 

右翼団体は山口二矢を英雄のように祭り上げ、12月15日に在京右翼のほぼ全員である約3千人が参列する慰霊祭が、事件のあった日比谷公会堂で執り行われています。

 

また、命日の11月2日には毎年、右翼団体が「山口二矢烈士墓前祭」として追慕祭を執り行っています。大日本愛国党の本部祭壇には現在も山口二矢のデスマスクが祀られています。

 

 

 

浅沼稲次郎暗殺事件のその後② 暗殺への抗議集会が起こり選挙にも影響

 

出典:https://image.chess443.net/

 

浅沼稲次郎暗殺事件のその後、犯人の山口二矢と、背後にいると思われた極右団体の暴挙を非難する抗議デモや抗議集会が日本全国で行われました。

 

集会には各地の合計で約44万5千人が、デモには約37万人が参加したと推計されています。浅沼稲次郎は一般大衆だけでなくマスコミ関係者からの人気も高く、毎年浅沼稲次郎の明日には、浅沼にゆかりのあったメディア記者達が集まり、その死を悼みました。

 

また、浅沼稲次郎が暗殺された事で、大衆の同情が集まり、1960年11月の衆議院議員選挙では、日本社会党は議席を増やし、民社党は議席を大きく減らして惨敗しました。これによって日本社会党は野党第一党の地位を確立し、その後長く続く55年体制確立の原因となりました。

 

 

 

浅沼稲次郎の現在① 左派の間や地元では偉人として語り継がれている

 

出典:https://cdn-ak.f.st-hatena.com/

 

浅沼稲次郎の出生地である三宅島や、社会民主党では、現在も浅沼稲次郎は安保闘争で岸信介首相を辞任に追い込み、命を賭して戦い抜いた偉人として奉られています。

 

三宅村神着にあった浅沼稲次郎の生家は現在は公園になっており、浅沼稲次郎の銅像が建立されています。また、社会民主党本部にも浅沼稲次郎の胸像が設置されています。

 

 

 

浅沼稲次郎の現在② 多摩霊園に墓所

 

出典:http://www6.plala.or.jp/

 

浅沼稲次郎の墓所は東京都府中市の多摩霊園にあります。巨漢だった浅沼稲次郎を表しているような大きな墓石のお墓で、現在もお参りに訪れる人が後を絶たないようです。

 

 

 

まとめ

 

今回は、戦前から戦後期にかけて活躍した社会主義者の政治家・浅沼稲次郎についてまとめてみました。

 

浅沼稲次郎は、身長175cm体重100kg超の巨漢で「人間機関車」などの愛称で国民に親しまれた典型的な大衆政治家でした。

 

家族は、父親が三宅島にある東京府神着村の名主だった浅沼半次郎、妻は社会運動家の仲間らとのたまり場の喫茶店で働いていた浅沼享子の存在がわかっています。嫁の浅沼享子との間に子供がいたようですが、詳しいその後は不明で直系の子孫が存続しているのかどうかもわかりません。

 

浅沼稲次郎は庶民派の政治家であり、大衆からの人気がありましたが、社会党委員長として訪中団団長として訪中した際に「アメリカ帝国主義は日中両国人民共同の敵」とアメリカを敵対視するような発言をして批判を呼び、特に右翼団体からの強い反発を招きました。

 

そして、1960年10月に日比谷公会堂で演説をしている最中に、聴衆席から突然駆け上がってきた当時17歳の右翼少年・山口二矢に襲撃されて刃物で脇腹や胸などを刺され暗殺されました。享年は61歳でした。

 

犯人の山口二矢は事件の3週間後に少年鑑別所の個室内で首を吊って自殺しており、その後極右団体によって英雄化されています。

 

現在、浅沼稲次郎は左派勢力の間では偉人として奉られており、社会民主党本部には銅像も建立されています。

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