昭和の時代を象徴する伝説的歌手の美空ひばりさんの死因や死の原因、その真相が話題です。
この記事では美空ひばりさんの死因や病気や食生活など死の原因の真相、晩年の伝説的なエピソードの数々、数万人が訪れた葬儀や、現在も全国からファンが訪れるお墓の場所などについてまとめました。
この記事の目次
- 美空ひばりのプロフィール
- 美空ひばりの死因は特発性間質性肺炎の症状悪化による呼吸不全
- 美空ひばりの死の原因と真相① 過度な飲酒と喫煙
- 美空ひばりの死の原因と真相② 玄米とセンナ茶だけの偏った食生活
- 美空ひばりの死の原因と真相③ 病気に効果的な治療が行えなかった
- 美空ひばりの晩年① 原因不明の腰痛に苦しんでいた
- 美空ひばりの晩年② 慢性肝炎や両側特発性大腿骨頭壊死症などの病気で入院
- 美空ひばりの晩年③ 東京ドームでの「不死鳥コンサート」は伝説に
- 美空ひばりの晩年④ 生涯最後のシングルは名曲「川の流れのように」
- 美空ひばりの晩年⑤ 病気を押しての全国ツアーの強行と生涯最後のステージ
- 美空ひばりの晩年⑥ 再入院と死去
- 美空ひばりの葬儀
- 美空ひばりの墓
- まとめ
美空ひばりのプロフィール
美空ひばりのプロフィール
本名 :加藤和枝
生年月日:1937年5月29日
没年月日:1989年6月24日(享年52歳)
出身地 :神奈川県横浜市磯子区滝頭
身長 :147cm〜155cm(諸説あり)
血液型 :O型
昭和の時代を代表する歌姫、大スターである美空ひばりさんは、音楽好きだった両親の影響で、幼い頃から歌謡曲や流行歌に親しんで育ち、天性の歌唱力を示しました。
戦時中には地元の横浜の海兵団や軍需工場を慰問で回って歌を披露し、6歳にして歌の天才と呼ばれるようになります。
1949年、12歳の時に「河童ブギウギ」でレコードデビューも果たし、その年には映画「悲しき口笛」に主演し、デビューして瞬く間に、天才歌手、天才子役として国民的な人気を得ました。
15歳の時には、「リンゴ園の少女」と「リンゴ追分」を収録したシングルレコードが当時の史上最高売上記録70万枚の大ヒットを記録し、十代にして不動の人気を獲得しました。
その後も歌手・女優として活躍を続けた美空ひばりさんは、年齢を重ねるにつれて円熟味を増した歌声でさらに人気を得て「歌謡曲の女王」、「演歌の女王」の名を欲しいままにしました。
私生活では俳優で歌手の小林旭さんとの結婚やわずか2年での離婚や、暴力団との関わりによるスキャンダル、相次ぐ肉親の死など波乱に満ちた人生を歩み、晩年は様々な体調不良に苦しみながらも、病気を押して歌手活動を続け、昭和の時代が終わった1989年(平成元年)に52歳という若さでこの世を去りました。
この記事では、そんな美空ひばりさんの死因や死の原因と真相、晩年のエピソード、葬儀や墓などを中心に紹介していきます。
美空ひばりの死因は特発性間質性肺炎の症状悪化による呼吸不全
出典:http://ranshi2.way-nifty.com/
美空ひばりさんの死因は「特発性間質性肺炎」の症状悪化による呼吸不全である事が明らかにされています。
6月24日は国民的歌手・美空ひばりさんの命日である。代表曲「りんご追分」にちなみ、この日は「林檎(りんご)忌」と呼ばれる。1989年6月24日午前0時28分、特発性間質性肺炎による呼吸不全のため、52歳という若さで亡くなった。
美空ひばりさんの死因の原因となった「特発性間質性肺炎」とは、肺の間質組織の線維化が起こる疾患の総称である「間質性肺炎」のうち、特定の原因が断定できないものを指し、国の指定難病です。
この病気が進行すると肺が硬くなって縮み呼吸が困難になる事があると、専門の医療機関のウェブサイトなどで説明されています。
美空ひばりさんはこの「特発性間質性肺炎」という病気により、呼吸不全となった事が直接的な死因とされています。
なお、美空ひばりさんの死去当時の新聞やニュース報道では死因は「心不全」とされていましたが、実際の死因は「呼吸不全」だったようです。
美空ひばりの死の原因と真相① 過度な飲酒と喫煙
続けて、美空ひばりさんの死の原因や真相について紹介していきます。
美空ひばりさんの死の原因としては、過度な喫煙と飲酒がよく挙げられています。
美空ひばりさんは、自身が四十代になった1980年代に相次いで身内を亡くし、その寂しさを紛らわすために酒とタバコの量が増えて行ったようです。
1981年には、デビュー以来ずっと美空ひばりさんをサポートし、二人三脚で歩んできた母親の加藤喜美枝さんが68歳で亡くなりました。(死因は転移性脳腫瘍)
美空ひばりさんは、最愛の母の死を悲しむあまり、火葬場で母の棺が入るかまどの中に号泣しながら一緒に入ろうとしたというエピソードが知られています。
さらに母の死からわずか2年後の1983年には長弟のかとう哲也さんが42歳の若さで死去(死因は心不全)し、さらに、1986年には次弟の香山武彦さんまでも、同じく42歳の若さで死去(死因も同じく心不全)します。
また、1981年には父親のように慕っていた田岡一雄さん(三代目山口組組長)が亡くなり、1982年には、若い頃に共に「三人娘」として活躍した同年齢で親友の江利チエミさんが45歳の若さで亡くなっています。
美空ひばりさんは、このようにわずか数年の間に肉親や親しい身内を次々と亡くし、そのあまりにも大きな精神的なダメージに耐えるために過度な飲酒や喫煙をするようになったとされ、それが死の原因の真相だと言われています。
美空ひばりの死の原因と真相② 玄米とセンナ茶だけの偏った食生活
美空ひばりさんの死の原因の真相として実しやかに囁かれているのが、怪しげな韓国系アメリカ人のハワード・ヤングという治療師(と名乗っていた)に受けた治療が死を早めたという説です。
このハワード・ヤングという人物は、玄米のおにぎりと特製のお茶(下剤効果もあるセンナ茶を使用した特製茶)による食事療法と、腸マッサージを使い「どんな病気でも治せる」などと宣伝し、当時、国内で芸能界や実業界、政界などの人物を含めて約600名もの顧客を抱えている人物でした。
1987年に、両側大腿骨骨頭壊死と重度の慢性肝炎などの病気で入院し、退院後も自宅療養を続けていた美空ひばりさんは、このハワード・ヤングなる人物を、ある芸能関係者から紹介されたとされています。
美空ひばりさんは、「どんな病気でも完全に治せる」と豪語するハワード・ヤングの言葉を半信半疑ながらも信じ、この絶食に近いような治療法を取り入れていたようです。
ところがその後、一時は60パーセントまで回復していた肝臓の機能は10パーセント以下にまで悪化。再び入院して病院の治療を受けるも、1989年6月24日に亡くなりました。
ハワード・ヤングの治療が、直接的に美空ひばりさんの死の原因となったという科学的なデータが示されたわけではありません。
しかし、消化が悪く栄養の吸収率の低い玄米と下剤の効果のあるセンナ茶の組み合わせによる治療が、既に病気により弱っていた美空ひばりさんの身体をさらに弱らせたのではないかと推測され、これが死の原因であり真相ではないかとする説が囁かれました。
美空ひばりの死の原因と真相③ 病気に効果的な治療が行えなかった
美空ひばりさんは、両側大腿骨骨頭壊死と重度の慢性肝炎などの病気の治療を続けていましたが、1989年に再入院し直接的な死因となった病気である「特発性間質性肺炎」の診断を受けます。
この病気ではステロイドを使用した治療法が用いられますが、すでに肝硬変の持病を持っていた美空ひばりさんには副作用のリスクからそうした効果的な治療を行う事ができませんでした。
それに比べて、ハワード・ヤングによる、玄米と下剤効果のある特製茶による怪しげな治療により、栄養状態が悪化し肝臓の機能も悪化していたため、この時点で美空ひばりさんに対して行える有効な治療は極めて限られたものだったようです。
こうした事情も、美空ひばりさんの死の原因や真相としてよく語られている内容です。
美空ひばりの晩年① 原因不明の腰痛に苦しんでいた
1985年5月、美空ひばりさんは、自身の48歳の誕生日を祝うゴルフコンペでプレー中に腰をひねった時に両足の内側に引き攣るような激しい痛みを覚えました。
これをきっかけに、美空ひばりさんは原因不明の腰痛を訴えるようになります。
その後、腰痛は徐々に悪化しましたが、美空ひばりさんはそれを周囲に感じさせないような歌唱を見せ、変わらぬ活動を続け、翌1986年には芸能生活40周年記念リサイタルも行っています。
しかし、さらに翌年の1987年初めの全国ツアーでの四国での公演中に、美空ひばりさんの腰と足は、耐えられないほどの激痛に見舞われるようになり、その年には入院を余儀なくされました。
美空ひばりの晩年② 慢性肝炎や両側特発性大腿骨頭壊死症などの病気で入院
1987年4月22日、美空ひばりさんは福岡での公演中に耐えられないほどの体調不良を訴え、現地の福岡県済生会福岡総合病院に緊急入院しました。
検査の結果、美空ひばりさんは、重度の慢性肝炎と肝硬変、両側特発性大腿骨頭壊死症などの複数の病気を患っている事が判明。約3ヶ月半の入院生活を送っています。
美空ひばりさんの病状はかなり深刻なものでしたが、社会的な影響を考えて実際よりも程度の軽い病気として公表されています。
その後、1987年8月3日に美空ひばりさんは無事退院を果たしています。退院の際には病院の外に多くのファンが詰めかけ、美空ひばりさんがそれに笑顔で応える場面もありました。
しかし、実際には美空ひばりさんの病気は完全には回復しておらず、肝臓の数値は通常値の60パーセント程度で、特発性大腿骨頭壊死症の治療も難しいとの診断を受けていました。
美空ひばりの晩年③ 東京ドームでの「不死鳥コンサート」は伝説に
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1988年4月11日、その年の3月に開場したばかりだった東京ドームのこけら落しコンサートとして、美空ひばりさんの退院後初の復活コンサートとなる「不死鳥/美空ひばり in TOKYO DOME 翔ぶ!! 新しき空に向かって」が開催されました。
この不死鳥コンサートは、ファンにとっては、美空ひばりさんの完全復活を感じさせる素晴らしいコンサートとなり、現在も伝説的に語り継がれ、音源のCD化や映像のDVD化もされています。
しかし、このコンサート時、実際には美空ひばりさんは病気の悪化により、肝臓の数値が20パーセントから30パーセント程度にまで悪化しており、命の危険もある状態で、楽屋に簡易ベッドが設置されて医師が待機し、万一の場合に備えて会場の裏側には救急車がスタンバイしていたのでした。
常人であれば、歌う事はもちろん、立っている事すら難しいような状態でしたが、美空ひばりさんはこのコンサートで39曲を熱唱。最後には花道を歩きながら、駆けつけた大勢のファン達に向けて笑顔で手を振り、完全復活を印象づけました。
しかし、美空ひばりさんは花道を歩き切って裏にたどり着くや、養子(実弟のかとう哲也さんの息子)の加藤和也さんの胸に倒れ込み、そのまま救急車で病院に搬送されています。
結果としてこの「不死鳥コンサート」は美空ひばりさんの命を削り、これを境にして病気の状態は急激に悪化しています。
しかし、美空ひばりさんは、それでもステージに立ち続け、全国での公演やテレビ番組収録と精力的に活動を続けました。1988年6月には極秘で入院もしていますが、驚異的な精神力によってすぐに退院し仕事に復帰しています。
親族や周囲の親しい関係者は休業と入院治療を強く勧めたようですが、美空ひばりさんはそれを拒んで仕事を続けています。最期の瞬間まで歌いながら命を燃やしたいという強い想いがあったのかも知れません。
美空ひばりの晩年④ 生涯最後のシングルは名曲「川の流れのように」
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1988年10月、美空ひばりさんは秋元康さんの企画により、新たなアルバム「不死鳥パートII」の収録を行なっています。(これは美空ひばりさんの生前最後のアルバムとなった)
このアルバムには、美空ひばりさんの生前最後のシングル曲であり、昭和の時代の最後を飾る名曲として現在も語り継がれている「川の流れのように」も収録されています。
美空ひばりさんはこの曲を大変気に入られていたようで、当初は別の曲(ハハハ)がシングルカットされる予定でしたが、「お願いだから、今回だけは私の我が儘を聞き入れて」と「川の流れのように」のシングル化を強く希望され、この曲のシングル化が実現しています。
「川の流れのように」は、現在も美空ひばりさんを象徴する楽曲として、広く愛され続けています。
[youtube https://www.youtube.com/watch?v=IP3A_eXlL1E]
美空ひばりの晩年⑤ 病気を押しての全国ツアーの強行と生涯最後のステージ
1989年に入り、美空ひばりさんは1月中は熱海に家族旅行をしたり、大相撲を見物したりした他、自宅で静養をしながら過ごされています。この頃、病気の状態は平行線を辿っていたものの、回復の兆しは見られませんでした。
同年2月、医師からは病気の状態が芳しくない事を告げられていましたが、美空ひばりさんは、周囲の反対を押し切って全国ツアー「歌は我が命」をスタートさせています。初日の2月6日、福岡サンパレスの公演では、肝硬変の悪化からくるチアノーゼ状態だったそうです。
翌2月7日、美空ひばりさんは北九州市の九州厚生年金会館のステージに立ちました。そしてこれが、美空ひばりさんの生涯最後のステージとなりました。
その日、美空ひばりさんの状態はコンサート前から非常に悪く、新幹線や車での移動に耐えられないほどの状態だっため、ヘリコプターを使用して会場に移動。楽屋に入った後はすぐに横になっています。
楽屋では、万一の事態に備えて医師が付き添い、酸素吸入器も準備されていました。医師の判断では、美空ひばりさんは肝硬変の悪化による食道静脈瘤という病気で、いつ倒れて吐血してもおかしくない状態であり、養子の加藤和也さんも医師から「倒れて出血したらもう終わりです。喉を切開して血を抜かないと、窒息してしまう。いつ倒れてもおかしくない」と警告されていたそうです。
しかし、美空ひばりさんは、常人では考えられないような気力によって全20曲を歌い終えています。
2月8日、美空ひばりさんは済生会福岡総合病院に検査入院しますが、既に身体は限界を迎えていたようです。3月上旬は自宅静養となり、コンサートツアーの継続を断念。
それでも、美空ひばりさんは、4月17日に予定されていた自身の故郷でもある横浜に新たに開場する横浜アリーナでのこけら落とし公演への出演に執念とも言える強い意欲を見せていたようです。
周囲は、体調を案じて強く引き止めましたが、美空ひばりさんは「私は『横浜アリーナ』の舞台に立ちたい。ここでの公演だけは這いずってでもやりたい!」と、譲ろうとせず、当時18歳だった養子の加藤和也さんと「あんたが死んじゃったら、俺はどうすればいいんだ!」と言い争いになったとのエピソードも明かされています。
美空ひばりの晩年⑥ 再入院と死去
美空ひばりさんは、1989年3月に順天堂大学医学部附属順天堂医院に入院しました。
熱望していた横浜アリーナでのこけら落としコンサートへの出演の中止。そして、年内の歌手活動休業が発表されました。
効果的な治療が行えないなど絶望的な状況でしたが、美空ひばりさんは、入院中もファンに向けての肉声のメッセージを録音し発信しています。しかし、その声は弱々しいもので、マスコミは「復活は絶望的」などの悲観的な報道を行いました。
そして、1989年6月20日、美空ひばりさんは呼吸困難を起こして重体となり、4日後の6月24日午前0時28分に52歳で亡くなりました。
美空ひばりさんの最後の言葉は、担当した医師らへの「よろしくお願いします。頑張ります」という言葉だったそうです。
美空ひばりの葬儀
死去翌日の6月25日にお通夜が、翌26日に葬儀が行われています。美空ひばりさんの葬儀は密葬で東京都目黒の自宅で行われました。
葬儀には芸能界やスポーツ界、政界からも多くの弔問客が訪れています。また、美空ひばりさんの遺体が霊柩車で出る際には、約6000人ものファンが沿道を埋め尽くしました。
そして、7月22日にも青山葬儀場で葬儀(本葬)が執り行われました。この時には40代〜50代の女性ファンを中心に4万2000人もの弔問客が訪れています。これは当時の史上最高人数と記録されています。
葬儀の喪主は養子の加藤和也さんが務め、生前親交の厚かった、歌舞伎役者の萬屋錦之介さんや俳優の森繁久彌さん、プロ野球選手の王貞治さん、歌手の和田あき子さん、お笑いタレントの石橋貴明さんらが弔辞を読み上げました。
そして、この葬儀では、北島三郎さんや雪村いづみさん、森昌子さん、藤井フミヤさん、近藤真彦さんら美空ひばりさんを慕っていた歌手仲間達が「川の流れのように」を歌い、美空ひばりさんを弔いました。
美空ひばりの墓
美空ひばりさんの墓は、横浜市港南区日野中央1-13-1にある、市営日野公園墓地にあります。菩提寺は横浜市港南区の唱導寺です。
現在も美空ひばりさんのお墓には、全国からお墓参りに訪れるファンの方が絶えないようです。
まとめ
今回は、昭和の時代を象徴する伝説的な歌手である美空ひばりさんの死因や死の原因の真相、晩年などを中心にまとめてみました。
美空ひばりさんの死因は「特発性間質性肺炎の症状悪化による呼吸不全」です。
その死の原因やその真相については、親族や親しい身内の相次ぐ死による寂しさを紛らわすための過度の飲酒や喫煙が影響したという説や、怪しげな韓国系米国人治療師のハワード・ヤングによる、玄米とセンナ茶を使った特製茶による偏った食生活により体調を悪化させ、それが死につながったとする説、進行した肝硬変などにより病気に対する効果的な治療が行えなかった説などが囁かれています。
晩年の美空ひばりさんは、病気の悪化により入退院を繰り返しながらも、病状の極度の悪化をファンに悟られないようにして活動を続けていました。晩年の1988年の東京ドームでの「不死鳥コンサート」や、生涯最後のシングル「川の流れのように」は、現在も伝説的に語り継がれています。
1989年7月22日に執り行われた青山葬儀場での美空ひばりさんの葬儀(本葬)には、全国かた当時の史上最高人数とされる4万2000人もの弔問客が訪れています。
美空ひばりさんのお墓は、出身地横浜市にある市営日野公園墓地にあり、今も多くのファンがお墓参りに訪れています。