みどり荘事件とは1981年に起きた強姦殺人事件で、冤罪被害者を出したうえに未解決のまま時効を迎えた事件です。
今回はみどり荘事件の詳細や被害者姉妹が暮らした事件現場の場所、真犯人や真相の考察、宗教との関係、その後や現在についてまとめます。
この記事の目次
みどり荘事件とは
みどり荘事件は1981年の6月17日の深夜から翌18日にかけて発生した、強姦殺人事件です。
事件現場となったのは被害者の女子大生が住んでいた大分県大分市六坊町(現在の六坊南町)にあったアパート「みどり荘」で、被害者の隣の部屋に住んでいた輿掛(くつかけ)良一さんという当時25歳の男性が犯人と見られ、逮捕されました。
しかし1989年3月におこなわれた第一審の公判では輿掛さんには無期懲役の判決が下されたものの、控訴審では一審で提出された鑑定結果などに疑わしい点があると指摘され、1995年6月には一転して無罪判決が出され、輿掛さんは冤罪被害者であったことが明らかになります。
控訴審では真犯人の存在(複数による犯行)が示唆されましたが、大分県警は再捜査をせず、事件は1996年6月28日に未解決のまま時効を迎えています。
みどり荘事件が起きた場所
みどり荘殺人事件の現場となったアパート「みどり荘」は、大分県立芸術文化短期大学のすぐ北側にありました。
被害者の短大生は姉と2人でみどり荘の203号室に住んでおり、被害者は大分県立芸術文化短期大学(事件当時の名称は大分県立芸術短期大学)の1年生、姉は同短大の2年生でした。
キャンパスからほど近かったことから、事件当時のみどり荘には大分県立芸術文化短期大学に通う女子学生が多く住んでいたといいます。
部屋の間取りは現在でいう1Kで、玄関を入ると3畳ほどの小さなキッチンがあり、その奥に畳の和室、玄関の左右に風呂とトイレが配置されているという作りでした。
みどり荘事件の詳細① 事件の発生と姉による遺体発見
事件当日の1981年6月27日、被害者女性と姉は大分工業大学(現在の日本文理大学)と大分県立芸術文化短期大学のジョイントコンサートに参加していました。
コンサート終了後は打ち上げにも姉妹で参加していましたが、被害者女性は1次会が終わったところで帰宅。姉は2次会にも参加したことから、被害者女性は22時30分頃に姉と別れています。
姉と別れた被害者女性は、ほかの女子学生2人とともに男子学生に送ってもらい、みどり荘の近くの信号で1人になりました。この時、時刻は23時15分頃で、被害者女性を送った男子学生は23時30分頃には2次会に合流したとのことです。
被害者女性が襲われたのは帰宅後から日付が変わる前後だったと見られており、28日の0時頃に付近の住民が「助けて!」と叫ぶ女性の声や、203号室から人が争うような物音が聞こえたと証言していました。
その後、「どうして」「教えて」といった会話が普通のトーンで続けられるのが聞こえ、再び物音が響いてやがて静かになったといいます。
そして28日の午前0時30分頃、2次会に参加した姉が友人を伴って帰宅したところ、被害者の遺体を発見したとされます。
姉が帰宅した時には203号室の鍵は開いており、台所と和室の電気もついたままで、台所に首を絞められた被害者女性が横たわっていました。
被害者女性の下半身は裸で、着ていたTシャツも胸までめくられて首には白いオーバーオールが巻き付けられていたといいます。呼びかけに反応せず、口から舌をのぞかせたまま硬直した妹を見た姉は「死んでいる」と直感し、近所に住む知人の男子学生に警察への通報を依頼。
28日の午前0時51分に、この男子学生が近くの公衆電話から警察に連絡をしました。
みどり荘事件の詳細② 警察の到着と遺留品
通報を受けて午前1時には1人の巡査がみどり荘に駆けつけました。巡査は近くの部屋に住む住民に聞き込みを開始しますが、北隣の205号室は電気が消えていて応答なし。(みどり荘には不吉であるという理由から、204号室と104号室がなかった)。
アパート隣の空き地を捜査していたところ、202号室の住民が窓越しに「何しよる?」と声をかけてきたため、巡査は202号室の住民に話を聞くことにしました。
この202号室の住民こそ誤認逮捕された輿掛良一さんで、輿掛さんは酔って寝ていたところ、階下から物音がして目が覚めて「空き巣でも入ったのか?」と思って声をかけたとされます。
事件当時、ホテル従業員の仕事に就いていた輿掛さんは、恋人と一緒に202号室に住んでいました。この日は夕方に恋人と喧嘩してしまい、彼女が怒って実家に帰ってしまったことから1人で飲酒し、そのまま寝入ってしまったといいます。
そのため203号室で事件が起きていたことを知らず、巡査にもその旨を伝えました。
現場検証
警察が事件現場となった203号室に捜査に入ったところ、以下のような遺留品を見つけたとされます。
・被害者の陰部から精液が採取される
・被害者の陰部から血液型B型の血液が採取される(被害者の血液型はA型)
・血液型B型の血液を含む血液型A型の人物の唾液
・姉妹以外の人物の指紋と体毛
室内から盗られたものなどはなく、検死の結果、犯人は素手で被害者女性の首を圧迫した後、被害者本人が身につけていたオーバーオールで絞殺したものと見られました。
近隣住民からの証言
警察は夜が明け、近隣住民が起きてきてから事情聴取を開始。近隣住民からはそれぞれ以下のような証言が得られました。
201号室の住民
22時ころに就寝しようとしたが寝付けず、しばらくするとアパートのどこかから争うような物音が聞こえた。
人が倒れるようなバタン!という音がして、合間に女性の声で「どうして?」という小さな声が聞こえた。
みどり荘近隣(空き地を挟んで東)に住む住民
23時すぎに就寝したが、しばらくしてどこかから「どうして?」「教えて」という女性の声が聞こえた。その後、みどり荘の2階あたりからドタバタという大きな音が聞こえた。
205号室の住民
23時40分ころに寝ようとしたところ、女性の声で「助けて!」という悲鳴が聞こえ、どこかに痴漢でも入ったのかと思い、相談しようと隣の203号室に行ってみた。
ドアをノックすると203号室から悲鳴と物音が聞こえたため、怖くなって自室に戻って布団をかぶってじっとしていた。203号室からは断続的に女性のうめき声のようなものが聞こえたが、しばらくすると普通の話し声が聞こえてきたため「カップルが喧嘩をしていたか、ふざけていただけだったのか」と安心した。
しかし本格的に寝ようと思ってトイレに行き、戻ってきたところで隣の部屋から人がもみ合うような音とともに「神様、お許しください」という声が10回程度繰り返して聞こえてきた。
その後、押し入れを挟んだ壁の向こうからカタカタという物音が聞こえ、恐怖に耐えられなくなって外に出て、そのままタクシーに乗って実家に逃げた。
この時、靴底が木になっているつっかけを履いて走って外階段を降りたため、カン!カン!という大きな音を立てた。
タクシーに乗り込んだのは28日の午前0時40分で、最初に203号室から「助けて!」という悲鳴が聞こえたのは午前0時20分から25分くらいだったと思う。
押し入られたような物音を聞いた住民がいないことから、犯行は被害者女性の顔見知りによるものと見られました。
また部屋の鍵が壊されていなかったことから、当初は警察も被害者が自ら犯人を部屋に招き入れたものと考えたといいます。
みどり荘事件の詳細③ 輿掛さんへの事情聴取
事件直後にも輿掛さんは事情聴取を受けていましたが、28日の午前4時頃にも再び、警察から事件について話を聞かれたといいます。
輿掛さんが「最初に話したこと以外に自分は何も知らない」と答えると、「ほかの住民は全員、警察署に来て聴取を終えている」と言われたそうです。そこで仕方なく輿掛さんは大分警察署に同行することにします。
しかし、実際には警察への同行を求められたのは輿掛さんだけであり、ほかの住民はアパートでの簡単な聴取しか受けていませんでした。
28日の早朝、4時30分ころから6時30分まで大分警察署で事情聴取を受けた輿掛さんは、恋人が家を出て1人になってからどのように過ごしていたのかということを細かく聞かれたうえ、体に傷がないか入念に調べられたといいます。
この時、輿掛さんは首にあった虫さされを引っ掻いたような些細な傷や、仕事中に負ったであろう左手の甲の僅かな擦り傷にまで警察に尋ねられました。しかし自分が警察に疑われているとは思ってもいなかったため、捜査に協力しているつもりで、できるかぎり細かく事情を説明したとのことです。
帰宅した輿掛さんは心配して帰ってきていた恋人に話をした後、13時からはホテルに出勤しました。しかし警察はすでに彼を犯人と決めつけていたようで、この日のうちにホテルにまでやってきて、輿掛さんの同僚に勤務態度や、勤務中に怪我をするようなことはあったのかなど聞いて回っていたといいます。
みどり荘事件の詳細④ うそ発見器を使っての聴取
事件から2日が経った6月30日にも警察は輿掛さんに任意の事情聴取をおこなっており、その時間は午前10時から22時までの12時間にまで及びました。
輿掛さんが警察に向かうと署内にはポリグラフ検査の装置が用意されており、警察から「これは『うそ発見器』だ」という説明を受けたといいます。
ポリグラフ検査とは、科学捜査研究所の心理科で行われる以下のような検査です。
俗にウソ発見と言われていれるが、実際は記憶検査の一種。 犯人しか知り得ない事件内容についての記憶を、生理反応の変化を基に判定する科学的鑑定法。
「なぜ自分がうそ発見器にかけられなければいけないのか?」と輿掛さんは不審に感じましたが、警察から「やましいことがなければ応じられるはずだ」と言われ、応じてしまったとのことです。
そして、この日は午後から出勤だったために午前中だけなら聴取に応じられているとあらかじめ警察に断っていたにもかかわらず、2回もポリグラフ検査を受けさせられたうえ、血圧測定もされたことから仕事を休まざるを得なくなりました。
このような警察の動き、そして28日と30日におこなわれた任意の事情聴取について大分合同新聞が報じたことから、輿掛さんは職場から自宅待機を命じられてしまいます。
なお、なぜ何の証拠もなく事件直後から輿掛さんのみが疑われて警察にマークされていたのかについては、みどり荘の住民のうち、彼が唯一の男性入居者だったからではないかと考えられています。
みどり荘事件の詳細⑤ 犯人として輿掛さんが逮捕される
ポリグラフ検査の結果でも輿掛さんに怪しい点は見られなかったにもかかわらず、警察は7月11日、12日、15日にも任意の事情聴取をおこない、体毛や下着などの提出を求めました。
当初は輿掛さんも疑いが晴れるのならばと応じていましたが、あたかも犯人であるかのように報じられ、恋人や実家の親の生活にまで影響が出るようになったことから7月末からは任意の聴取を拒否するようになります。
8月1日からは仕事に復帰し、事件発生前の暮らしに戻ろうとしますが、警察は9月14日にも身体検査令状と鑑定処分許可状をとって陰毛を提出させる、12月11日には酒に酔った輿掛さんと同僚らがタクシー運転手と揉めたとの通報を受けて輿掛さんのみを逮捕するなど、なんとか彼を逮捕しようと躍起になっていました。
そして1982年1月14日、ついに大分警察は輿掛さんの逮捕に踏み切ります。
12月28日に科捜研から毛髪鑑定の結果が届き、被害者女性の部屋にあった体毛3本が輿掛さんのものと一致したためでした。
みどり荘事件の詳細⑥ ナチスの自白剤を使った取り調べ
逮捕された輿掛さんは、2組の取り調べ班から交互に厳しい聴取を受けることとなります。そして当初はこれまでと同様に「酔って寝ていたから何も知らない」と供述していた輿掛さんも、逮捕から4日が経った1月18日に、ついに「自分がやりました」と口にしてしまうのです。
この自白は大分合同新聞でも「犯人は恋人と喧嘩をして、むしゃくしゃして隣人を強姦した」などと大々的に報じられました。
そして輿掛さんは精神鑑定を受けた後に「責任能力あり」として、1982年3月15日付けで強姦致死罪と殺人の罪の容疑で起訴されます。
しかし4月26日に開かれた初公判で、早々に警察の取り調べに対して不審な点が浮上しました。
新聞などでは「犯人は全面的に容疑を認めて事件の詳細を自供」と報じられていたにもかかわらず、弁護団に渡された供述調書には「気がついたら203号室にいて、隣で被害者女性が死んでいた」「犯行の前後の記憶はないが、自分がやったのだと思う」という雑な供述が綴られていただけだったのです。
このような到底、自白とはいい難い供述を引き出すのに、精神鑑定医は「イソミタール」という
自白剤を用いていました。
イソミタールは第二次世界大戦下でナチスが自白強要のために使用したとも言われる薬物で、本来は不安緊張状態の鎮静や不眠症の改善に使われる薬とされています。
この自白剤を使った聴取で、輿掛さんは以下のような供述もしていたとのことです。
・物音に気づいて203号室に行ったら、被害者が倒れていた
・自分が行った時には被害者の首には白いものが巻かれていた
・被害者の下半身は裸だったと思う
・死んでいることに気づいたため、怖くなって自分の部屋に帰った
物音に気づいて203号室に行ったらすでに被害者は死んでいた、という供述が本当であれば被害社宅に輿掛さんの体毛が落ちていた理由にもなります。そのため弁護団は、この供述をもとに無罪を訴える方針を決めたとされます。
みどり荘事件の裁判・第一審
第一審で検察側は以下の証人を呼び、輿掛さんの犯行だと裏付ける証言をさせました。
みどり荘102号室の住民
事件が起きたと思われる28日の0時過ぎ、2階の部屋からから男性が女性を追い回すような物音が聞こえた。その後、水が流れるような音を聞いた。
警察に実験してもらった結果、水の流れる音は202号室からしており、住民が中腰で風呂場で水をかぶっていた音だと思われる。
取り調べをした警部補
事件直後の事情聴取で首にある傷について訪ねた時に、被疑者は「以前、仕事で負ったもの」と答えたが、すぐに嘘だと思った。あの傷は新しいもので、嘘をつく理由は被害者の抵抗で負ったのを隠すためだと確信した。
被疑者の恋人
裁判前、逮捕直前にとられたという調書では、恋人は「事件前日には被疑者の首に傷はなかった、被疑者は嘘をついていると思う」と述べていたとされる。
検察側はこれを証言させようと彼女を公判に呼んだが、逆に弁護団から「殺人犯かもしれない人物を心配したり、おにぎりを差し入れたりしたのですか?」と質問され、彼女も「本当は犯人だと思っていない。逮捕まで交際を続けていたし、疑ったことはない」と答えた。
東京医科歯科大学教授・中田修氏
イソミタール使用時の発言の信用性は疑問視される。本人が言いたくないことはイソミタールを使っても引き出せないことがある。
九州大学名誉教授・牧角三郎氏
被疑者の首にあった傷は発赤反応(真皮深層の血管の拡張による充血)であり、これは傷を負った後、2時間から3時間以内に見られるもの。したがって被害者の抵抗によってついた傷の可能性がある。
この証言に対して弁護側は、最初の聴取で首の傷が重要な証拠になると思っていたのなら、なぜ写真を撮っていないのかと警部補に質問しました。これに対して警部補は答えられず、輿掛さんからも「28日の4時頃の事情聴取で傷について聞かれた時、前に負ったものだと説明したところ、警部補も『古い傷だな』と納得していた。一緒にいたほかの警官も聞いていたはずだ」と証言が出ました。
また九州大学名誉教授・牧角三郎氏の証言に対しても、弁護側が「28日の4時頃の事情聴取から遡って2〜3時間前についた傷の発赤反応ならば、事件後についた傷の発赤反応ということになる」と指摘。牧角氏はこれに対して「個人差がある」とはっきりしない回答をしたとされます。
さらに事件直後には出ていなかった102号室の住民の証言についても、「争うような物音を聞いてから2階に意識を集中していた、と証言しているにもかかわらず、205号室の住民が階段を駆け降りた時に鳴ったというカン!カン!という音を聞いていないのは不自然」と指摘しました。
自白の信憑性
証拠とされてきた自白についても、逮捕後に輿掛さんは風邪をひいて発熱しており、薬も与えられず、食事もほとんどとれない状態で朦朧とした意識のまま脅され続けていたことが発覚し、弁護団は信憑性が低いと指摘しました。
弁護側の証人として出廷した輿掛さんの母親は「自白をした直後に会いに行ったが、目も虚ろで頬はこけ、話しかけても口をパクパクさせるだけで、まるで亡霊のようだった」と、通常のコミュニケーションがとれる状態ではなかったと証言。
このことから弁護団は自白についても「強要による虚偽自白」と指摘しました。
無期懲役の有罪判決
公判での弁護団の追求から、全国紙の記者たちも「みどり荘事件の裁判は冤罪、無罪になる可能性が高い」と見ていたようです。
しかし、1989年3月9日の第一審の判決公判で、輿掛さんに下された判決は「無期懲役」でした。
大分地方裁判所は弁護団が判定基準があいまいだとした毛髪鑑定の結果を重要証拠として採用し、自白についても必ずしも真実ではないとは言えない、としました。
また傷や102号室の証言についても、弁護団の指摘をなかば無視するかたちで「証拠として採用できる」との判断を下したとされます。
みどり荘事件の裁判・控訴審
大分地裁の判決を受けて、弁護団と輿掛さんは即日控訴し、協力を申し出た弁護士をくわえるなど弁護団を拡充して控訴審に臨みました。
そして1990年3月14日に開かれた控訴審では、弁護団は自白の信憑性、傷を負った時期のほか、科捜研の毛髪鑑定の結果の3点について争う方針を決めます。
とくに毛髪の鑑定結果については再鑑定を引き受けてくれる専門家を探し歩き、九州大学理学部の柳川堯助教授のもとを訪ねました。
柳川助教授も弁護団の再三の依頼に再鑑定を引き受け、「科捜研の鑑定結果は科学的とは言えない」という鑑定書を提出。柳川助教授の鑑定では、被害者女性の姉と輿掛さんの毛髪に含まれる、塩素、カリウム、カルシウム等の量はほぼ同等で、どちらのものか鑑定するのは不可能だと結論付けられたのです。
また柳川助教授は科捜研に回された輿掛さんの体毛のサンプルが少なすぎて、彼の毛髪の特徴を特定することもできないはずだと指摘しました。
検察側は柳川助教授の鑑定に対して反論書を提出しましたが、的外れな内容だったとされます。
さらに福岡高等裁判所は、現場に残された毛髪と被害者女性の陰部から検出された精液のDNA鑑定を職権でおこなうことにしました。そして遺留品の毛髪と輿掛さんのDNAが一致したとの結果が出たのです。
しかし、弁護団はこの結果を覆す隠し玉を持っていました。DNA鑑定にかけられた遺留品の毛髪の長さは15.6cm、対して事件時の輿掛さんの毛髪は非常に短く、しかもパンチパーマをかけていて、まっすぐに伸ばしても5cmほどしかなかったのです。
結果、科捜研の鑑定も福岡高裁が職権でおこなったDNA鑑定も「科学の名を借り、思い込みだけでおこなわれた杜撰な鑑定」と断じられることとなります。
逆転無罪へ
最終的には13人にまでになった弁護団や柳川教授、250人にも及ぶ支援者の協力を得て、1995年6月30日に輿掛さんは無罪判決を勝ち取りました。
事件時に25歳の青年であった輿掛さんは、福岡拘置所を出た時には39歳になっていました。14年9ヶ月もの年月が過ぎてしまったのです。
そして警察は輿掛さんの無罪が決まった後も、なぜかみどり荘事件の捜査を再開せず、1996年に事件は時効を迎えることとなりました。
みどり荘事件の真相考察① 真犯人は学生?
控訴審のなかで、弁護団は被害者女性の絞殺に使われたと見られるオーバーオールに付着した体毛を鑑定し、この体毛の持ち主の血液型がO型であることを突き止めていました。
また、司法解剖の結果、実は遺体の膣内に残されていた精液はA型またはO型の人物のものであることがわかっていたことも、弁護団の調査で明らかになりました。(このことは鑑定書に付けられた付属説明文書に描かれていたものの、裁判時にはなぜか説明書が剥がされていた)。
被害者女性の陰部に付着していたとされる血液はB型であり、輿掛さんもB型であったことから彼の犯行が疑われたとされます。
しかし、遺体には少なくともB型の人間とO型の人間の痕跡が見られ、みどり荘事件は複数犯によるものと考えられます。
もっとも鮮明に事件時のことを証言している205号室の女性の証言から、203号室から家のドアをこじ開けるような異常な物音はしなかったことが明らかです。ということは、事件直後に考察されていたように犯人は被害者女性の知り合い男性だったと思われます。
また、凶器が被害者女性が着ていたオーバーオールであったことから、犯人は部屋にあがった時には殺害を予定していなかった、性交のみを目的にしていた可能性が高いと推測できます。
さらに「どうして?」と尋ねる声や、いっとき普通に会話をしていたとの証言から、犯人はジョイントコンサートに参加していた男子学生のなかにいるのではないかとの考察ができます。
当日に被害者女性が帰ってきた直後に犯行に及んでいることや、姉がいないことを知っていたことを考えると、飲み会から抜け出して被害者女性の家に行き、適当な理由をつけて上がり込んで性交しようとしたところ激しく抵抗され、殺害した後に再び何食わぬ顔で飲み会に合流したのかもしれません。
複数人で示し合わせて犯行に及んだのであれば、飲み会の場にずっといたように口裏を合わせることも容易だったはずです。
みどり荘事件の真相考察② 真犯人は宗教関係者?
「神様、お許しください」と言う声がブツブツ聞こえてきたということから、真犯人は宗教関係者、特定の宗教を熱心に信仰していた人物なのでは?とも指摘されています。
被害者女性は周囲の住民に聞こえるほどの大声で抵抗していたにもかかわらず、205号室の女性が怖くなって部屋に帰ってからは、うめき声が聞こえたきり、「助けて!」といった悲鳴は聞こえなくなったといいます。
また、犯人に出血させるほど激しく抵抗した被害者女性が、205号室の女性が来た後は急に静かになるというのも不自然ではないでしょうか。
このことから、犯行は以下のような流れでおこなわれた可能性も考えられます。
適当な理由をつけて犯人が203号室に入る
→犯人が被害者女性をレイプしようと襲う
→抵抗されて大声をあげられる
→悲鳴を聞きつけて205号室の住人が来る
→慌てた犯人が被害者女性の首を絞める
→首を絞めたままレイプする(「うう」と被害者女性がうめき声を出す)
→被害者女性が亡くなる
女性のうめき声の後に聞こえた話し声というのは、犯人同士の会話、もしくは犯人の独り言だった可能性もあります。
また「神様お許しください」という言葉とドタバタという大きな物音は、犯人の信仰に基づく何らかの儀式だったのではないかと考察されているのです。
たとえば仏教の五体投地は、離れた場所にも響くような物音をたてるとされています。
その心を表す行が五体投地だ。二月堂の礼堂に出た練行衆が、はね板に体を打ちつけて祈りを捧げる。堂外に遠く離れた場所でも「ドン」という大きな音が聞こえる。
真犯人が何者であったのか、今となっては想像の域を出ません。もちろん学生でも宗教関係者でも、被害者の顔見知りでもない人物だった可能性もあるでしょう。
ただ最初から警察が輿掛さんが犯人だと決めつけ、他の人物の捜査をしなかった、輿掛さんを有罪にすることだけに血道を上げてしまった結果、真犯人が捕まらず、事件が未解決になったのは確かです。
みどり荘の事件のその後・輿掛さんの現在
みどり荘事件の冤罪被害者、輿掛良一さん「無実を証明するため、弁護士が手弁当で活動してくれた。一審の無期懲役判決が確定していたら自分はここにはいない。借金によって弁護士が自分の思う活動ができないようになっては困る。」 pic.twitter.com/2yL7xzayaq
— ビギナーズ・ネット (@beginners_net) August 6, 2016
無罪判決を受けた後、輿掛さんは職業訓練所に通って大型重機の操作を学んで採石場に勤務したといいます。
そして、2年間働いてから刑事補償をもとにダンプカーを購入。現在は個人事業主となり、結婚もしているとのことです。結婚の際、媒酌人として立ち会ったのはみどり荘事件で第一審から戦い続けてくれた徳田弁護士だったそうです。
また輿掛さんは現在も、仕事の傍ら冤罪撲滅を訴える講演や活動をおこなっています。
みどり荘事件についてのまとめ
この記事では1981年に起きた未解決事件、みどり荘事件の詳細と犯人とされた輿掛さんの冤罪疑惑が晴れるまでの道筋、真犯人の絞殺について紹介しました。
時効が成立してしまった現在となっては、余罪で検挙でもされないかぎり、真犯人がわかる日はこないのでしょう。冤罪被害者とされて14年以上を拘束されて不安のなか過ごした輿掛さんはもちろん、被害者女性本人や遺族のためにも、このような事件は二度と起きてほしくないですね。