ガダルカナル島の戦いの日本軍の敗因!戦没者名簿と死因・人肉や生き残りの証言・場所や目的・映画や現在もまとめ

太平洋戦争での「ガダルカナル島の戦い」は大量の戦死者を出した悲惨な戦いでした。

 

この記事ではガダルカナル島の戦いの場所やいつどのように起こり日本軍が撤収したのかや日本軍の敗因、戦死者の数と死因、戦没者名簿、人肉にまつわる生き残りの証言、映画、現在についてまとめました。

ガダルカナル島の戦いは太平洋戦争で日米の攻守逆転の契機となった戦い

 

出典:https://upload.wikimedia.org/

 

「ガダルカナル島の戦い」は、太平洋戦争中期、1942年8月から1943年2月にかけて、南太平洋西部、メラニシア地域にあるソロモン諸島最大の島「ガダルカナル島」をめぐって発生した、旧日本軍と連合軍(主力はアメリカ軍)との一連の戦いです。

 

ガダルカナル島の戦いは、開戦以来圧倒的優勢であった日本軍が陸上戦闘において大敗戦を喫した最初の戦いであり、これを契機に連合軍の本格的反攻が始まり太平洋戦争における攻守の転換点となりました。

 

ガダルカナル島の戦いでは日本軍は序盤戦で制空権と制海権を失い、十分な武器、食糧、その他物資の補給ができずに、大量の餓死者と病死者を出したため、飢えとガダルカナルをかけて「餓島」(ガダルカナルの略称が「ガ島」であった)と呼ばれました。

 

 

ガダルカナル島の戦いがあった場所は南太平洋西部のソロモン諸島

 

出典:https://solomons.gov.sb/

 

「ガダルカナル島の戦い」の舞台となった場所は、南太平洋西部のメラニシア地域ソロモン諸島の最大の島であるガダルカナル島とその周辺海域および空域です。

 

 

ガダルカナル島の場所は、オーストラリアのすぐ北に位置するパプアニューギニアから東へ1800kmほどです。

 

ガダルカナル島の戦いにおいて主な戦闘が発生した場所はガダルカナル島北部やや西側一帯で、現在のホニアラ(この場所の飛行場を奪い合った)、テナル川、オーステン山などです。

 

 

ガダルカナル島の戦いはいつ発生したのか…戦闘開始と撤収までの経緯

 

出典:https://i0.wp.com/

 

ガダルカナル島の戦いがいつ起きたのかは、アメリカ軍のガダルカナル島上陸が1942年8月7日で、日本軍のガダルカナル島撤収作戦が完了したのが1943年2月7日であるので、「1942年8月7日〜1943年2月7日」にかけてという事になります。

 

ただ、ガダルカナル島の戦いが発生するまでの背景も含めて見ないと、戦いの全体像を把握しづらいため簡単にですがガダルカナル島が発生するまでの経緯と、アメリカ軍の上陸から日本軍のガダルカナル島撤退までを時系列で見ていきます。

 

 

ガダルカナル島の戦いがいつどのように起きたのか① 発生までの経緯

 

日本軍が1941年12月にハワイ真珠湾攻撃とマレー半島侵攻を開始して太平洋戦争が勃発し、日本はアメリカ、イギリス、オランダ、オーストラリアなどと戦争状態に入りました。

 

日本軍は当初は連戦連勝を重ねて勢力圏を拡大し、東南アジアのほぼ全域を占領下に置き、ガダルカナル島の西に位置するニューギニアのほぼ全域とニューブリテン島も攻略。

 

日本軍は続けて、アメリカとオーストラリアを分断すべく、ニューカレドニア、フィジー諸島、サモアの攻略を目指す「米豪遮断作戦」を策定します。

 

ところが1942年6月に発生した「ミッドウェー海戦」において日本海軍が大敗し主力空母4隻とその艦載機、熟練パイロット多数を失いました。

 

これにより、空母機動部隊による作戦が難しくなった日本軍は、ガダルカナル島に飛行場を建設し航空部隊を進出させ制空権を得て、それを足がかりにして米豪遮断作戦を押し進める方針に転換しました。

 

日本軍はこの方針のもと1942年7月1日にガダルカナルに飛行場設営隊を上陸させました。

 

一方、連合軍は対日反攻作戦の第1段作戦である「ウォッチタワー作戦」を発令し、作戦準備を進める中でガダルカナル島で日本軍が飛行場を建設しているとの情報を掴み、ガダルカナル島を作戦目標に加えました。

 

 

ガダルカナル島の戦いがいつどのように起きたのか② アメリカ軍の奇襲上陸

 

出典:https://stat.ameba.jp/

 

1942年8月5日までに日本海軍設営隊はガダルカナル島ルンガ川東岸地域に飛行場(ルンガ飛行場、現在のホニアラ国際空港がある場所)をほぼ完成させていました。

 

同年8月7日午前4時、アメリカ海兵隊第1海兵師団を主力とする1万900名のアメリカ軍が、基地航空隊、空母艦載機部隊と戦艦1隻、巡洋艦14隻による艦砲射撃の支援を受けてテナル川東岸付近(日本軍が建設した飛行場の数km東)に上陸。

 

日本軍はアメリカ軍の襲来を全く予想しておらず、これは完全な奇襲攻撃となり、ルンガ川東岸に駐屯していた第11設営隊約1350名はほとんど抵抗できないまま壊滅し、飛行場およびルンガ川東岸はアメリカ軍に奪取されました。

 

これを知った日本海軍は直ちに、重巡洋艦5隻を主力とする第8艦隊と、ニューブリテン島のラバウル基地(ガダルカナルから北西約1000km)から、零戦や一式陸攻(陸上基地で運用する中型の爆撃・攻撃機)などからなる攻撃部隊を出撃させて反撃を試みました。

 

航空攻撃では大きな戦果はありませんでしたが、艦隊による夜間攻撃(夜戦)は大きな戦果を上げ米豪艦隊のうち重巡洋艦4隻を撃沈しその他艦船にも損害を与えました。しかし、輸送船団や空母部隊に損害を与える事はできず、戦況を大きく変える事は叶いませんでした。(第1次ソロモン海戦)

 

 

ガダルカナル島の戦いがいつどのように起きたのか③ 上陸した一木支隊が壊滅

 

出典:https://stat.ameba.jp/

 

1942年8月19日未明、アメリカ軍に奪取された飛行場(米軍はヘンダーソン飛行場と呼称)の東約35km地点にあるルンガ岬に、日本軍の一木支隊の先遣隊の916名が上陸しました。

 

日本軍はガダルカナル島のアメリカ軍は2000名ほどと誤認(実際は1万900人)しており、一木支隊は飛行場を奪取すべく進軍を開始。8月20日の22時30分頃に、飛行場から3kmほど東のイル川西岸の米軍への渡河攻撃を敢行するも、圧倒的戦力差に加え米軍は陣地を構築して迎撃体制を整えていたため一木支隊は大損害を出しました。

 

なおも無謀な攻撃を繰り返したため部隊は壊滅し、8月25日までにルンガ岬に撤退できたのは916名中わずか126名でした。

 

 

ガダルカナル島の戦いがいつどのように起きたのか④ 増援の川口支隊も攻撃失敗

 

出典:http://cdn-ak.f.st-hatena.com/

 

1942年8月21日から9月7日にかけて、日本軍は増援として川口支隊を主力とする増援部隊(約5600名、火砲26門)をガダルカナル島に上陸させました。

 

遡ること8月23日〜25日には、この上陸を支援するために出撃した日本艦隊(戦艦2隻、正規空母2隻、軽空母1隻が主力)とアメリカ艦隊(戦艦1隻、正規空母3隻が主力)による第2次ソロモン海戦が発生し、双方ともに空母に損害(日本軍側軽空母1隻撃沈、米軍側正規空母1隻中破)を出しています。結果的には日本軍は制空権、制海権を確保できず、日本軍の輸送船による大規模な増援補給が困難を極める事になりました。

 

川口支隊も駆逐艦に分乗してタイボ岬のタシンボコに上陸し、9月12日から14日未明にかけて飛行場奪取のための攻撃を敢行しましたが、部隊同士の足並みが揃わずに各個撃破される形となり、約700名の損害を出して攻撃は失敗に終わりました。

 

 

ガダルカナル島の戦いがいつどのように起きたのか⑤ 増援の第2師団も攻撃失敗

 

出典:https://blogimg.goo.ne.jp/

 

一木支隊と川口支隊の小規模な部隊による奇襲攻撃の度重なる失敗を受けて、日本軍はガダルカナルの飛行場奪取には大兵力による正攻法で臨む必要があると方針転換しました。

 

日本軍は1942年10月11日〜15日にかけて、第2師団を主力とする約2万人の兵力と火砲200門以上、装甲車両75両をガダルカナル島に揚陸する作戦を行いました。この上陸作戦は大規模で、空母2隻の艦載機と戦艦2隻を主力とする艦隊とラバウル基地の航空隊の援護のもと輸送船6隻と駆逐艦により大兵力を揚陸するものでした。

 

戦艦の艦砲射撃などによりヘンダーソン飛行場には大損害を与えたものの、基地機能を壊滅させるには至らず、輸送船団は航空機による妨害を受け、兵員はほぼ揚陸に成功したものの食糧は全体の約50パーセント、火砲や装甲車両を含む重火器は約20パーセントほどしか揚陸できませんでした。そのため火力が不足し、正攻法による正面攻撃は難しいと判断され、陽動と迂回による奇襲攻撃へと作戦が変更されました。

 

10月24日、ガダルカナル島に上陸した第2師団を主力とする日本軍は攻撃を仕掛けるも、指揮系統の混乱や準備不足により、部隊間の足並みが揃わずにバラバラな攻撃となり、集中砲火を受けて各個撃破されて大損害を出しました。この総攻撃による日本軍の損害は正確な数はわかっていませんが、数千人の戦死・行方不明者を出しています。

 

 

ガダルカナル島の戦いがいつどのように起きたのか⑥ 度重なる補給失敗で壊滅

 

出典:https://c799eb2b0cad47596bf7b1e050e83426.cdnext.stream.ne.jp/

 

1942年11月10日、日本軍はガダルカナル島へのさらなる増援として第38師団の輸送を開始しました。海軍はその支援のために戦艦2隻を主力とする艦隊を派遣し米豪艦隊との間で「第3次ソロモン海戦」が発生しましたが、日本艦隊は戦艦2隻を失う大敗を喫し、輸送船団は激しい空襲を受けて輸送船11隻中6隻が撃沈され1隻が撃退されたため、わずか4隻のみが揚陸作戦を展開。

 

この4隻も夜明けとともに米軍からの猛攻撃を受けて全て炎上し、無事に揚陸できた戦力は約2000名、重火器皆無、僅かな弾薬と食糧4日分という有様となりました。

 

この時点で、ガダルカナル島の日本軍は2万人〜3万人でしたが、兵力ばかり増えて食糧や弾薬、必要物資の補給が枯渇し、飢餓と栄養失調による伝染病の蔓延により実際に戦闘可能な戦力は8000人程度であったと推測されています。

 

上陸した第38師団は、11月18日に約2000名(当初の戦力の20パーセント以下)の兵力でヘンダーソン飛行場に夜襲攻撃を敢行するも当然のごとく失敗。日本軍の残存兵力は飛行場南東に位置するオーステン山などに立てこもり抗戦するしかありませんでした。

 

一方のアメリカ軍は第3次ソロモン海戦で日本艦隊主力をほぼ撃退した事により安定した補給を確保するに至り戦力を充実させていきました。

 

 

ガダルカナル島の戦いがいつどのように起きたのか⑦ 日本軍の撤収

 

出典:https://lh6.googleusercontent.com/

 

1941年12月17日、アメリカ軍はオーステン山に立て籠もり小規模な夜襲攻撃を繰り返す日本軍を殲滅するため、大規模な包囲攻撃を実施して同地の1300名の日本軍を殲滅しました。

 

12月31日、日本軍はようやくガダルカナル島からの撤収を決定。年が明けた1942年1月に入ってもガダルカナル島各地に散らばった日本軍は抵抗を続けていましたが各所で苦戦し圧倒されていました。

 

1月中旬には撤収作戦のための陽動作戦と準備が開始され、2月1日〜7日かけてガダルカナル島撤収作戦が実行され、駆逐艦部隊によって約1万名の将兵の撤収が成功しています。

 

しかし、ガダルカナル島に上陸した日本軍は約32000人であり、半年の間に約2万名もの将兵の命が失われました。

スポンサーリンク

 

 

ガダルカナル島の戦いの目的は双方にとって重要な戦略拠点の奪い合い

 

出典:https://cdn.4travel.jp/

 

ガダルカナル島の戦いの目的は、日本軍、連合軍の双方にとって重要だった戦略拠点の奪い合いでした。

 

日本軍は、アメリカと連合軍の太平洋方面の反攻拠点であるオーストラリアの分断を目的として、フィジー諸島とサモア諸島の攻略を目指していました。そのためには航空基地を進出させる必要がありその前進基地の場所として最適であったのがガダルカナル島でした。

 

一方の連合軍は、日本軍の米豪遮断作戦の阻止する目的に加えて、この方面からの島づたいの反攻作戦を計画しており、そのためには日本軍の南太平洋方面の重要拠点であるラバウルを攻略する必要がありました。

 

ガダルカナル島の飛行場はこのラバウル攻略の足掛かりとするのに最適な場所であり、これがアメリカ軍が大兵力を投入してガダルカナル島の飛行場を攻略し維持した目的でした。

 

 

ガダルカナル島の戦いでの日本軍の敗因

 

出典:https://nihonsi-jiten.com/

 

ガダルカナル島で日本軍は連合軍(主力はアメリカ軍)に完全に敗北しましたがその敗因は大きく分けると、情報の不足と見切り発車による戦力の逐次投入、陸軍と海軍の連携の破綻、杜撰な作戦計画などが挙げられます。

 

 

ガダルカナル島の戦いの日本軍の敗因① 情報不足と戦力の逐次投入

 

ガダルカナル島の戦いの前、日本陸軍はマレー半島の戦いや南方資源地帯の戦い、フィリピンの戦い、その他島嶼部の攻略戦などで負け知らずの連戦連勝を続けており、連合軍を弱い敵と思い込み舐めてかかっていた側面がありました。

 

特にこれまでに少数兵力による夜襲により何度も勝利を収めていたため、ガダルカナル島においてもその戦術により簡単に飛行場を奪い返す事が可能であると考えていたようです。

 

また、日本軍は一木支隊の投入前、実際には1万人を超える大部隊だったガダルカナル島のアメリカ軍を「2000名ほど」、「アメリカ軍の目的はガダルカナルの飛行場の破壊であり、すでに撤収を考えていて、攻撃を加えればすぐに退却するだろう」と決めてかかっていた事がわかっています。

 

そのため、兵力1000名にも満たず強力な火力も持たない一木支隊は、待ち構えていたアメリカ軍の陣地へ無謀な夜襲突撃をかけてなす術もなく殲滅されました。

 

しかしその後も、日本軍の司令部はガダルカナルにいるアメリカ軍の兵力と練度を大幅に過小に見積り、4000名〜5000名規模の川口支隊を送り込みました。しかも火砲数も足りなかった上に地図も用意していないのにジャングルを分け入り三方面に別れての同時攻撃を企図、結果として部隊の足並みが揃わずに確固撃破されて大損害を受けました。

 

2度の失敗により、日本軍司令部はようやく予想以上にガダルカナルの米軍が強力である事を悟り、大兵力と大火力による正面攻撃が必要であると考え、第2師団約2万人を造園に送り込みましたが、肝心の火砲と弾薬、装甲車両、食糧の十分な揚陸に失敗。

 

当初の計画通りの正面攻撃は難しくなった挙句、糧食の不足により短期決着を余儀なくされた第2師団は地図の用意もないままジャングルに分け入って側面攻撃をかける戦術を取り、結果として多くの部隊がジャングルの中で迷いバラバラに散発的な攻撃を繰り返し、またしても確固撃破され大損害をだしたのでした。

 

ガダルカナル島の最大の敗因は、正確な情報もなく十分な準備もないまま戦力を逐次投入し、確固撃破されていたずらに戦力と時間を消耗した事だと言えます。

 

 

ガダルカナル島の戦いの日本軍の敗因② 陸軍と海軍の連携が全く機能しなかった

 

ガダルカナル島の戦いの日本軍の敗因として、陸軍と海軍の連携が全く取れていない事も挙げられます。

 

スポンサーリンク

ガダルカナル島の戦いは、日本軍の陸軍と海軍の共同作戦でしたが、元々、日本軍の陸軍と海軍はそれぞれ別々に戦っており、陸軍と海軍の共同作戦の研究がされた事すらありませんでした。

 

ガダルカナル島の戦いでもそれぞれが勝手な方針で戦っていた節があり、海軍は、ガダルカナル島の戦いの2ヶ月前の1942年6月にミッドウェー海戦で大敗を喫して主力空母4隻を失った報復のために陸軍部隊の援護よりもアメリカ軍機動部隊(空母部隊)の撃滅を優先していたと言われています。

 

そのため、陸軍部隊を載せたガダルカナル島への輸送船団の援護のために海軍は全ての戦力を集中させる事をせず、結果としてガダルカナル島への補給は欠乏し、大軍を上陸させたはいいもののその部隊はわずか数回の大規模攻撃を行っただけで武器弾薬、食糧の枯渇によって戦闘能力を喪失し、ただ闇雲に飢えや病気による戦死者を増やす事になりました。

 

これもガダルカナル島の戦いの日本軍の敗因だと言われています。

 

 

ガダルカナル島の戦いでの戦死者と戦没者名簿

 

出典:https://assets.st-note.com/

 

ガダルカナル島の戦いでの日本軍の戦死者数は諸説ありますが約1万9200名〜2万2000名とされており、そのうち戦闘による戦死者が約8500人で残りは飢えやマラリアなどの病気が死因となったと言われています。

 

対するアメリカ軍のガダルカナル島の戦いでの戦死者数は7100名(負傷者7789名以上)とされています。

 

ガダルカナル島の戦いの日本の戦没者名簿は公式には公開されていませんが、有志の方が調べられる限りの戦死者の方々の名前と出身地、階級、所属部隊、戦死された年月日、戦死された場所などをまとめてアメーバブログで公開されています。

 

これだけの情報を集め戦没者名簿としてまとめるのは膨大な労力が必要であったと思われます。

 

 

ガダルカナル島の戦いの日本軍将兵の死因は病死が約75%を占めた

 

出典:https://i.ytimg.com/

 

ガダルカナル島の戦いでの日本軍将兵の戦死者数は上でも書いたように約1万9200名〜2万2000名と推測されていますが、その戦死者のうち約75パーセントが栄養失調症、マラリア、下痢、かっけなどによる病死だったとする記録が残っています。

 

個別の戦闘ではある程度のデータが残っている。「戦史叢書」(防衛庁防衛研修所戦史室編さん)によると、「ガダルカナル島の戦い」(1942年8月〜43年2月)では、日本陸軍3万1000人のうち約2万人が戦没。その約75%、約1万5000人が栄養失調症、マラリア、下痢、かっけなどによる死者だったという。

 

引用:戦没者230万人6割「餓死」の学説も 無謀な作戦が惨劇招く

 

また、米軍側の資料でもガダルカナル島の戦いの日本軍の戦死者について、全軍の4分の1以下が戦死と戦傷死、4分の1以下が撤収し、残りの死因は病気と飢えであったとされています。

 

「日本の軍陣医学」は、ガ島における日本軍の総戦死者数と死因を次のように見積もっている。おそらく、ガダルカナルで死んだ日本兵のうち、三分の二は病気で死んだ。戦闘で死んだとみられる日本兵の数は1万を超えず、実数はもっと少ないはずである。ガダルカナルで我が軍と対峙した4万2000の日本軍のうち四分の一以下が戦死・戦傷死し、四分の一以下が撤退し、残りの半分以上──2万以上──は病気と飢餓で死んだ。

 

引用:米軍を唖然とさせた日本軍の人命軽視〜重傷病者には「自決」を要求

 

 

ガダルカナル島の戦いでは日本兵が人肉を食べたとの生き残りの証言も

 

ガダルカナル島の戦いでは食糧補給の枯渇により、大量の将兵が極限の飢餓状態に置かれました。

 

ガダルカナル島の戦いに投入された将兵らは食糧が底をつくと当初は、島にいたトカゲやその他の生き物、食べられる植物などを探して食べていたという事ですが数万人でそれをやったのですぐにそれも取り尽くしてしまったという事です。

 

そこで、極限の飢餓状態に置かれた日本兵達が人肉を食べたという話があります。

 

ガダルカナル島の戦いで日本兵が人肉を食べたというのが本当かどうかはわかりませんが、ガダルカナル島の戦いの生き残りの人肉食の証言とするものがネット上でもいくつか確認できます。

 

餓死の恐怖に直面した兵士たちの中には、生きるために死体の肉に手を出したものもいた。飢えに苦しんだ陸軍将兵は、ガダルカナル島を「餓島」と呼ぶようになった。

 

引用:証言「軍刀だけで敵陣へ突撃」戦地:ガダルカナル島

 

スポンサーリンク

下は、ガダルカナル島に補給物資を運んだ船舶(船種は不明)に乗務していたというガダルカナルの戦いの生き残りの方の証言で、オーストラリア兵の捕虜の人肉を晩御飯のカレーライスに入れていたのではないかといった証言をされています。

 

ただ、この方はガダルカナル島の戦いで地上部隊として戦った方ではなく、補給(鼠輸送)の船に乗っていた方なので、人肉食を本当に見たのかどうかは微妙なところです。

 

食料なしで戦う戦争は大変。 ジャングルに隠れている。豪州兵はわいわい話しながらくる。後ろから襲うと、すぐ手を上げて捕虜になった。今朝の捕虜はどうなった?と聞くと、「う ーん」と言って答えない。晩のカレーライスにでも入ったのか? ほとんど人肉だよ。食べ物ないんだから。捕虜は1人も帰ってこない。今朝のお客さんがいない。夜の肉になっている。人の肉も食べないと生きられない。

 

引用:戦場体験史料館・電子版 インタビュー記録 ガダルカナル~ショットランド 鼠輸送

 

下は、NHK戦争証言アーカイブスで匿名のガダルカナル島の戦いの生き残りの兵士による証言で、人肉に手を出した者がいた事が語られています。

 

餓死の恐怖に直面した兵士たちの中には、生きるために死体の肉に手を出したものもいた。飢えに苦しんだ陸軍将兵は、ガダルカナル島を「餓島」と呼ぶようになった。

 

引用:「生き残るために犯した罪」戦地:ガダルカナル島

 

下は、米軍の捕虜になったガダルカナル島の戦いの生き残りの海軍中尉の方の人肉食にまつわる証言だという事です。

 

以下は米軍捕虜となった帝国海軍中尉が、米軍からガ島の事情聴取を受けた時の記録です。「相次ぐピストン輸送にもかかわらず、ガ島の陸軍は食糧の欠乏に喘いでいた。ガ島は正しくは餓であった。ヤシの新芽や、ヤシガニなどはご馳走のうちで、二個師団の将兵は野ネズミ、トカゲなども取りつくした。敵の爆撃がひどいため、昼間はタコ壺に伏し、夜はトカゲを焼いて食う。そのうちに人肉を食うようになった。

 

引用:ガダルカナル島で人肉を食べる兵士達

 

この方は米軍の捕虜になった際にそのように証言したという事のようですが、亡くなった戦友の尻の肉を煮て食う、生きている他の部隊の兵を襲って殺し食べる、撃墜されパラシュート降下してきたパイロットに人肉を食べるなどの衝撃な内容も証言しているという事です。ただ、これは出典が示されておらず事実かどうはわかりません。

 

いずれにしてもガダルカナル島の戦いが人肉食の話が出るほどの地獄であったという事は伝わってきます。

 

 

ガダルカナル島の戦いを描いた映画① 「シン・レッド・ライン」

 

出典:https://pbs.twimg.com/

 

ガダルカナル島の戦いを描いた映画としては1998年公開の「シン・レッド・ライン」がよく知られています。

 

映画「シン・レッド・ライン」は、ガダルカナル島の戦いの中で、1942年12月に発生したオーステン山の戦いが描かれています。

 

この映画には同名の原作があり、作者のジェームズ・ラモン・ジョーンズは実際にガダルカナルの戦いにアメリカ陸軍第25歩兵師団第27歩兵連隊に所属して従軍していました。

 

映画「シン・レッド・ライン」は戦争の悲惨さの表現に重点が置かれたもので、ガダルカナル島の戦いの中の局地戦をピックアップして描いていて、全体の背景などはほとんど描かれていないため評価が分かれる作品です。

 

何よりも日本側の視点から描いたガダルカナル島の戦いはもっと悲惨であろうと感じてしまい、日本人の立場から見ると少して冷めてしまうかも知れません。

 

 

ガダルカナル島の戦いを描いた映画② 自主制作映画「ガダルカナル」

 

出典:https://bacchus-tokyo.com/

 

ガダルカナル島の戦いを描いた自主制作映画「ガダルカナル」のプロジェクトがあり、2023年に上映会がありました。

 

 

この映画は今後公開されるかどうかはわかりません。

 

 

ガダルカナル島の戦いの現在

 

スポンサーリンク

出典:http://www.japan-solomon.com/

 

ガダルカナル島の戦いの現在ですが、宮城県仙台市に慰霊碑が建立されており、有志による清掃が行われています。

 

来年で終戦から80年となるのを前に、太平洋戦争のガダルカナル島の戦いで、犠牲となった宮城県の戦没者を追悼する仙台市内の慰霊碑で2日、清掃が行われました。

青葉区の常盤台霊苑に、戦没者の遺族と有志でつくる2つの団体から合わせておよそ20人が集まりました。

 

引用:「戦没者のことを忘れない」ガダルカナル島の戦いでの犠牲者追悼する慰霊碑を清掃 日本軍約2万2000人が戦死や餓死 仙台

 

また、ガダルカナル島現地にも、ホニアラ(飛行場)の西約6kmにコカンボナ村に戦没者を弔う慰霊碑が建立されており、現在も献花が続けられています。

 

 

 

まとめ

 

今回は、太平洋戦争中に発生した日本軍と連合軍の激戦「ガダルカナル島の戦い」についてまとめてみました。

 

ガダルカナル島の戦いがあった場所は、南太平洋西部のメラニシア地域ソロモン諸島の最大の島であるガダルカナル島とその周辺海域および空域です。

 

ガダルカナル島の戦いがいつあったのかは1942年8月から1943年2月にかけてです。

 

ガダルカナル島の戦いの目的は、日本軍と連合軍双方にとって重要な戦略拠点であったガダルカナル島の奪い合いでした。

 

ガダルカナル島の戦いで日本軍は完膚なきまでに敗北し、これが太平洋戦争の攻守が逆転の契機となったとされています。日本軍の敗因は情報の不足と戦力の逐次投入、杜撰な作戦計画と海軍陸軍の連携の破綻による補給の崩壊などが挙げられます。

 

ガダルカナル島の戦いの戦死者数は約2万人にも上りましたが、戦死者のうち75%の死因が病死と餓死であったと言われています。

 

ガダルカナル島の戦いでは補給の破綻により日本軍将兵が極度の飢餓状態に置かれ、人肉を食べた者もいたという生き残りの方の証言も出ています。

 

ガダルカナル島の戦いは1943年2月の日本軍の生き残りの撤収により終結しましたが、現在も現地には日本軍戦死者の遺骨や遺品がたくさん残されたままになっています。

 

ガダルカナル島の戦いを描いた映画としては1998年公開の映画「シン・レッド・ライン」がよく知られています。

 

ガダルカナル島には、戦死者を弔う慰霊碑が建立されており、現在も献花が続けられています。

記事に関連するキーワード

キーワードからまとめを探す

関連する記事①

今見ているまとめと同じカテゴリーの記事

吉原の花魁の歴代美人ランキング12選!一番きれいな高級遊女とは

ムッソリーニは何した?死因と最後や処刑画像・子孫や孫の現在・身長と生涯まとめ

サイパン島の戦いの敗因と日本の対応!死者と飛び降り団自決・生き残りの証言・映画もまとめ

スカフィズムは本当に実在?拷問の内容と手順・漫画も総まとめ

第二次世界大戦の原因と年表!死者総数や日本が参戦した理由・敗戦国その後や終戦も総まとめ

日比谷焼打事件はいつで場所は?発生原因・戒厳令や内閣の対応などわかりやすく解説【大正デモクラシーの起点】

パラオの現在!親日や日本語が公用語の州・植民地の歴史・事件や治安・直行便など行き方・観光スポットや大統領もまとめ

小林多喜二の最期の写真や死因は?母親など家族や子孫・拷問死となった事件もまとめ【代表作・蟹工船】

関連する記事②

今見ているまとめに近い記事

嵐真由美さん失踪事件と現在!姉や夫と子供など家族・真相の考察や解決した噂もまとめ

第一ホテル殺人事件の真相!犯人と被害者の女性医師・事件場所や心霊現象を総まとめ

左海誠二(騎手)の死因は心筋梗塞?ワクチン?結婚や嫁と子供(息子)・引退後を総まとめ

足立区女性教師殺人事件と犯人/和田信也の現在!事件の詳細や犯行動機の謎もまとめ

メキシコカッターの動画を見る方法は?被害者や犯人のその後現在もまとめ【検索してはいけない言葉】

住友銀行名古屋支店長射殺事件の犯人と真相・その後現在!事件の詳細と被害者も総まとめ

福島便槽内怪死事件の真相と犯人!場所や画像・被害者の菅野直之・原発の関連・木村藤子の霊視など総まとめ

夕張市の現在!財政破綻の原因とその後・出身有名人・借金時計・人口推移とゴーストタウン化もまとめ

記事へのコメント

気軽に意見を書いてね

前後の記事

興味があればチェックしてね

トゥールスレン虐殺博物館の現在!遺体や拷問部屋・生存者と生き残りの理由・心霊の噂・場所や入場料もまとめ

サイパン島の戦いの敗因と日本の対応!死者と飛び降り団自決・生き残りの証言・映画もまとめ

カテゴリー一覧

カテゴリーからまとめを探す