安倍晴明(実在の陰陽師)の死因!式神や播磨の伝説・子孫や現在も総まとめ

映画化や小説家もされている平安時代に活躍した陰陽師・安倍晴明の現在が話題です。

 

この記事では実在した安倍晴明がどんな人物だったのか、式神や播磨での呪術合戦など数々の伝説、現在も続くとされる子孫、安倍晴明が残した陰陽道の現在、死因などについてまとめました。

安倍晴明は平安時代に活躍した陰陽師で実在の人物

 

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小説家や映画化、テレビドラマ化、漫画化などもされて人気の高い陰陽師・安倍晴明(あべのせいめい)ですが、平安時代の京の都で活躍した実在の人物です。

 

西暦960年代から1000年代初めにかけて陰陽師として実際に活躍していた安倍晴明は、その死後に成立した様々な書物や物語の中で伝説的に描かれ、強大な力を持つ「超人」あるいは「異能者」のようなイメージが作り出されました。

 

1988年に、そうした伝説的なイメージを元にして超人的なヒーローとして安倍晴明を描いた夢枕獏さんの小説「陰陽師」が発表されて話題となり、以降小説はシリーズ化され、漫画化、テレビドラマ化、映画化もされて、1990年代から2000年代にかけての安倍晴明ブームを巻き起こしました。

 

こうしたフィクション作品によって名前はよく知られている陰陽師・安倍晴明ですが、実際にどんな人だったのかはあまり知られていません。

 

 

 

陰陽師とはそもそも何者なのか

 

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陰陽師とは、朝廷や貴族の命や依頼を受けて、物事の吉凶を占ったり、祭祀によって災いを退けたりする任務を担った存在で、安倍晴明が所属した陰陽省は、朝廷の直轄組織の1つでした。

 

具体的には、陰陽師が主に行なっていた仕事は、天災や兵乱、政変などの国家的な災害に関わる卜占(占いによって吉凶を見る事)、国家の土木事業に関する土地に関わる卜占、暦(こよみ)の作成や時刻の計測、天体観測や気象観測(データ蓄積とそれに伴う卜占)などで、これには極めて専門的な数学的な知識が必要でした。

 

陰陽師が行った卜占は、統計学とある種の数式を使った占いで「式占」と呼ばれ、当時の社会における陰陽師は専門的な技術を扱う高度な技術者だったと言えます。

 

そして、平安時代の社会では、ネズミが書物を齧った。犬が屋内で糞をした。屋敷の屋根に鳥が群れて集まった。蛇や鳥、鹿などの野生動物が屋敷に迷い込んだといった現代であれば些細な出来事を「怪異」とみなし、何らかの不吉な出来事の前兆だと考えました。

 

平安時代の貴族は、こうした「怪異」が起こると、直ちに使いを走らせて陰陽師を呼び、「怪異占」を行わせて、凶事の内容とそれが起こる時期を占わせました。そして、陰陽師によってその怪異が凶兆である事が明らかにされると、それを回避するために、それが起こる日時には屋敷にこもって外部との接触を徹底的に断つ「物忌」を行いました。

 

これは、当時の貴族社会では極めて重要な事だったようで、数多くの記録が残されており、安倍晴明が依頼を受けて怪異占を行なった記録も多数確認できます。

 

そうした文献によると、安倍晴明は当時の最高権力者であった藤原道長からの怪異占の依頼も頻繁に受けていた事が窺われます。

 

また、当時の貴族は病気の原因を鬼や祟り、呪詛によるものと考えており、病気を治療したり、予防したりするために陰陽師を呼び「禊祓い」を頻繁に行わせました。

 

これについても、安倍晴明は藤原氏のような上級貴族の他に、当時の天皇の禊払いも担当していた事を示す史料が残されています。

 

他にも、陰陽師は、火災防止、疫病の防止、旱魃の解消などのために呪術儀式を行う役割も担い、「呪符」と呼ばれる種々の厄災から人々を守るお守りを作成したりもしました。このように様々な役割を持つ陰陽師は、平安時代の貴族達が日常生活を行う上で必要不可欠な存在でした。

 

安倍晴明はこうした陰陽師の活動で、特に占いにおいては天皇や貴族達からの絶大な信頼を集めていたようで、その技術を賞賛する当時の貴族の日記などが残されています。

 

次の見出しから安倍晴明がどんな人物だったのかをもう少し詳しく紹介していきます。

 

 

 

安倍晴明(陰陽師)はどんな人① 平安時代中頃に活躍した実在の人物

 

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伝説の存在のイメージが強い安倍晴明ですが、残された数々の史料から実在した人物だった事は間違いありません。

 

そうした史料や各地に伝わる伝承から、安倍晴明は延喜21年(西暦921年)に摂津国阿倍野(現在の大阪市阿倍野区)で生まれたと言われています。ただし、出生地については奈良県桜井市安倍だと伝えるものもあります。

 

また、そのルーツについては、壬申の乱で大海人皇子(天武天皇)側で活躍した朝臣・阿倍御主人(あべのみうし)の子孫だと伝わります。

 

他にも奈良時代の学者で、遣唐留学を経て唐朝の高官として活躍した阿倍仲麻呂(あべのなかまろ)を祖先とする説や、阿倍氏の一族である難波氏の末裔ではないかとする説もあります。

 

 

 

安倍晴明(陰陽師)はどんな人② 若い頃は下級貴族で朝廷に仕える官人

 

安倍晴明の幼少期や若い頃については、伝説的な逸話は残されているのものの、その当時にリアルタイムで記録された一次史料は見つかっておらず、確かな事はわかっていません。

 

ただ、鎌倉時代に編纂された説話集「続古事談」には、安倍晴明は天暦2年(948年)、数え年で28歳の時に大舎人寮の大舎人になった事が書かれています。

 

大舎人寮とは、中務省(朝廷内の役所の1つ)に属し、宮廷内に宿直して警備や諸雑事を務める部署でした。安倍晴明が務めていたと伝わる大舎人は大舎人寮の下級役人で、位階(貴族の階級)が六位以下八位以上の貴族の嫡子で21歳以上の者が任命される事が定められていました。

 

安倍晴明はその後、同じく中務省の管下の令制宮司に置かれた陰陽寮(陰陽師を管轄する部署)が取り仕切る祭祀において、雑用係である追儺舎人(ついとなり)を務めた事があり、大晦日の夜に疫鬼や疫神を払う儀式である追儺の儀(ついなのぎ)で、鬼を払う役人を演じた事で陰陽道に興味を抱いたとされています。

 

そして、陰陽寮に属する陰陽師であった賀茂忠行とその子の賀茂保憲を訪ねて師事し、陰陽道を学んだとされています。

 

 

 

安倍晴明(陰陽師)はどんな人③ 陰陽寮で学生として天文道を学んだ

 

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陰陽寮の陰陽師・賀茂忠行と保憲親子の下で陰陽道の手ほどきを受けた若い頃の安倍晴明は、その後、正式に大舎人寮から陰陽寮へと移籍しています。

 

比較的信用度が高いとされる文献群を照らし合わせると、安倍晴明は天徳4年(960年)、数え年で40歳の時に天文得業生(てんもんとくごうしょう)になっています。得業生とは、一般の学生よりも高度な学問や技術を学ぶ特待生で、現在で言えば大学院生のようなものでした。

 

40歳の頃の安倍晴明は陰陽寮の天文得業生として天文道を学ぶ学生でした。

 

安倍晴明の子孫筋にあたる土御門家の家司を代々務めた若杉家に伝わる古文書「若杉家文書」によると、この年(960年)に内裏で火災があり、焼損した霊剣の図を上申し、翌年には霊剣二振の再鋳造に師である賀茂保憲の助手として携わっています。

 

また、この当時から安倍晴明の卜占の技術は朝廷に高く評価されていたと見られ、当時の村上天皇に占いを命じられていたのも確認できます。

 

応和元年(961年)に正式に陰陽師に任命され、康保4年(967年)の冷泉天皇即位に先立って、天皇の政務開始の日時を決める占いも担当し、この頃から貴族社会の中で一定の地位を築いていた事が窺えます。

 

その後、天禄元年(970年)に、陰陽少属(公文書の記録係)に昇進しています。

 

 

 

安倍晴明(陰陽師)はどんな人④ 天文博士として天皇や藤原道長の信頼を得る

 

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安倍晴明は、天禄2年(971年)、数え年で51歳の時に「天文博士」に任命されています。(陰陽少属と兼任)

 

安倍晴明が任命された天文博士とは、陰陽寮に設置された天文道を担当する部署のトップです。

 

天文道とは、天体を観測して記録し研究する学問で、安倍晴明が就任した天文博士は、その天体観測の中で、流星や彗星の出現、日食や月食、月と他の星や、星同士の異常接近、赤気、光暈、白虹などの普段は見られない現象(天文異変)が発見されれば、天文書に基づいて吉凶を占い、その内容を密封して天皇に上申する「天文密奏」を行う役割を担っていました。

 

また、定員10名の天文生を教育する現在でいうところの大学教授のような役割も担いました。

 

天文博士に任官されてからの安倍晴明は、当時の一次資料にも名前がよく見られるようなります。

 

天体異変発見による天皇への天文密奏を何度か行なっている他、天延元年(973年)には円融天皇の怪異の吉凶を占い、天元2年(979年)、数え年で59歳の時に当時の皇太子師貞親王(後の花山天皇)の命を受けて、那智山の天狗を封印する儀式を実施しています。

 

この頃から安倍晴明は天皇の信頼を得たようで、占いや陰陽道の儀式を行なっていた記録が多く見られ、寛和2年(986年)には、太政官庁舎に立て続けに蛇と鳩が現れた事に対して怪異占を実施した記録も残ります。これをきっかけに安倍晴明は花山天皇の信頼を得たようです。

 

この時点の文献で、安倍晴明は正五位下の位階で呼ばれていますが、当時の陰陽師の社会的地位と比較してかなりの高位階(陰陽師は貴族としては最低クラスの従七位上ほどだった)であり、安倍晴明が天皇や貴族社会から高く評価されていた事がわかります。

 

花山天皇退位後も、安倍晴明は一条天皇や、当時の実質的最高権力者であった藤原道長からの信頼を得ています。

 

安倍晴明は、永祚元年(989年)と正暦4年(993年)、に病気で臥せていた一条天皇の禊祓いを行っており、病気が快癒した事から、その功績により正五位上の位階を与えられています。

 

安倍晴明はその翌年の正暦5年(994年)、数え年で74歳の時に陰陽寮を退職し天文博士を退任していますが、その占いの技術の高さにより「前天文博士」という尊称を特例で与えられています。

 

 

 

安倍晴明(陰陽師)はどんな人⑤ 陰陽寮退職後に異例の出世をしている

 

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陰陽寮を退職した後も、安倍晴明の陰陽師としての技術は一条天皇や藤原道長に信頼され、占いや祭祀事などで引き続き重用されています。

 

陰陽寮を退職後の安倍晴明は異例の出世をしており、数え年で75歳の時に主計権助(民部省主計寮副長官)に任じられ、79歳で穀蔵院別当(民部省穀蔵院長官)、82歳で大膳大夫(宮内省膳職長官)、さらに左京権大夫(京職長官)と当時の名誉職に次々と任じられ、位階も最終的に従四位下にまで到達しています。

 

これは、陰陽師としての最高位である陰陽寮長官の従五位下よりも上位の位階でした。

 

この事から、最晩年の安倍晴明がいかに当時の権力者達からの信頼を得ていたのかが読み取れます。

 

ちなみに、従四位下左京権大夫の頃の安倍晴明の禄高(朝廷から支払われていた給料)は、残されている史料から「360石9斗6升」だった事が確認できます。当時の一般民衆の日当は1升から2升ほどの米だった事から、安倍晴明は一般民衆の50倍〜100倍程度の給料を得ていた事がわかります。(1石=100升、禄高は年俸なのでちょうど50倍〜100倍程度になる)

 

現在の感覚でいえば年収数億円規模の高級官僚出身の相談役といったところでしょうか。

 

また、安倍晴明は当時としては驚異的な高齢である80歳を超えてからも陰陽師として第一線で活躍を続けており、数え年で84歳だった寛弘元年(1004年)には、深刻な干魃を解消するために雨乞いの五龍祭を行なって見事雨を降らせて見せ、一条天皇から褒賞を受けた事などが当時の記録に残されています。

 

そして、安倍晴明は、寛弘2年(2005年)に数え85歳で亡くなっています。平安時代の男性の平均寿命は50歳ほどで、安倍晴明の85歳というのは驚異的な長寿でした。これも安倍晴明が特別な存在とみなされて伝説的に語られる理由の1つとなったと見られています。

 

次の見出しからは、安倍晴明の死後に成立した様々な文献で語られている、晴明の伝説的な逸話について順番に紹介していきます。

 

 

 

安倍晴明(陰陽師)の伝説① 「大鏡」に式神を使ったとする記述

 

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安倍晴明が死去してから100年ほど後、平安時代後期に成立したとされる歴史物語「大鏡」には、安倍晴明が式神を使役していたとする記述が見られます。

 

そのあらすじは以下の内容です。

 

寛和2年(986年)の6月22日の夜、花山天皇が、藤原兼家と道兼親子の謀略により、出家に追い込まれ内裏から東山の花山寺に向かう道中。土御門町口にある安倍晴明の屋敷の前を通った。

 

すると、屋敷の中から「パチパチ」と手を打つ音がすると、安倍晴明の声で「帝が御退位される事を示す天変があったが既に退位されてしまったようだ。すぐに参内して奏上しよう。車(牛車)の用意をせよ」と聞こえた。

 

続けて、安倍晴明が「とりあえず、式神が1人参内せよ」と言うと、目に見えないものが戸を押し開けて、ちょうど花山天皇一向の後ろ姿を目にしたためか、「ただ今、この家の前をお通りになりました」と返事をした。

 

安倍晴明の伝説は数々のフィクション作品で描かれていますが、死去からわずか100年後の平安時代後期にも安倍晴明が式神を使役していたという逸話が書かれていた事になります。

 

この事から、当時の人々にとっても安倍晴明は式神など不思議な力を駆使する異能の人物として見られていた事がわかります。

 

 

 

安倍晴明(陰陽師)の伝説② 「今昔物語集」でも晴明の不思議な力について書かれている

 

さらに、平安時代後期に成立したとされる説話集「今昔物語集」の24巻の16話にも「安倍晴明、忠行に随ひて道を習ふ語」という題名で、安倍晴明の伝説的なエピソードがいくつも紹介されています。

 

今昔物語集で書かれた安倍晴明の伝説は要約すると以下の内容です。

 

安倍晴明が幼い頃に、普通の人では見る事のできない百鬼夜行を見たので、陰陽師・賀茂忠行は陰陽道の奥義の全てを晴明に教える事にした。

 

賀茂忠行が死去した後、安倍晴明は自分を試しに来た老僧の式神を術によって隠した。

 

広沢の寛長僧正のところで、人々から頼まれて草の葉を飛ばして蛙を潰した。

 

式神を使役して、家の蔀(光や風を防ぐための格子状の建具)を上げ下げさせた。

 

上の蛙を潰したという伝説は鎌倉前期に成立したとされる「宇治拾遺物語」にも似た話が書かれています。こちらは以下のような内容です。

 

安倍晴明の広沢の寛長僧正の元へ行って雑談をしていたところ、若い僧たちがやってきて「式神を使えるのなら人も容易に殺せますか?」と尋ねた。

 

安倍晴明は「力を込めれば必ず殺めてしまうので簡単にはできません、虫であれば少しの力で必ず殺せますが、(仏教の教えにおける)殺生の罪に問われてしまうので、そのような事はしません」と答えた。

 

するとちょうど、庭に数匹の蛙が出てきて、池の方へと飛び跳ねて行った。

 

若い僧の1人が「あれを1つ殺して見せてくれませんか?」と晴明に言った。

 

晴明は「罪づくりな人だ。だが私を試すというのならやって見せよう」と言い、草の葉を一枚取ると、呪文を唱えてから蛙の方へと投げた。葉は蛙の上にかかると、蛙は押しつぶされてしまった。

 

これを見た僧達の顔は真っ青になり「恐ろしい」と震え上がった。

 

 

 

安倍晴明(陰陽師)の伝説③ 「宇治拾遺物語」には播磨出身の蘆屋道満との逸話

 

上でも触れた「宇治拾遺物語」には、他にも安倍晴明の伝説的なエピソードが紹介されています。

 

第14巻の10「御堂関白の御犬、晴明等、奇特の事」という題名の逸話では以下の内容が書かれています。

 

藤原道長が法成寺の建立後に犬を連れて出かけたところ、犬が道長を引き留めるようにして入れないようにした。

 

道長はこれを訝しんで、安倍晴明を呼んで占いをさせた。その占いに従って地面を掘らせて見たところ、一組の土器(かわらけ)を2つを黄色のこよりで十文字にくくったものが出てきた。

 

安倍晴明はこれが藤原道長を呪うための呪物だと見破り、それを行ったのが播磨出身の陰陽師の蘆屋道満である事も見破った。

 

安倍晴明は懐から懐紙を取り出すと、鳥の形にくり抜き、頌(しょう)を唱えて投げ上げると、それは瞬く間に白鷲になって南へと飛び去った。

 

晴明は「この鳥が降りてとどまるところが、呪いを行ったものの住むところです。」と伝えたので、藤原道長の家来がその鳥を追って走って行くと、京都六条の貴族の広大な屋敷「河原院」のちょうど六条坊門小路と万理小路の交差するあたりにある門の内側に降りてとどまった。

 

そこで、家来らが屋敷の中に踏み入ったところ、そこに蘆屋道満がおり、藤原顕光に頼まれて呪術を行った事を認めた。

 

藤原道長は蘆屋道満を処罰せずに、播磨へと追放して事を終わりとした。ただし、2度とこのような事をしないように誓紙を出させて誓わせたという事だ。

 

安倍晴明を主人公とした物語の中で敵として登場する播磨出身の陰陽師・蘆屋道満が最初に登場したのがこの逸話でした。

 

「宇治拾遺物語」には、蘆屋道満をはじめとする播磨国の陰陽師が敵役として度々登場しますが、かつての播磨国兵庫県には現在も安倍晴明や蘆屋道満にまつわる史跡や伝説が数多く残っています。

 

特に、安倍晴明が播磨国へと赴き、蘆屋道満と呪術合戦をして勝利したとする伝説はよく知られています。

 

ちなみに、この蘆屋道満も実在の人物で、実際は民間で活躍した法師陰陽師(僧の姿をした非公式の陰陽師)で、主に下級貴族からの依頼を受けて禊祓いなどを行なっていたようです。

 

公式の存在である陰陽寮に所属する官人である陰陽師達と民間の法師陰陽師達との間には利害の衝突があり、それが安倍晴明と蘆屋道満が対決する構図として物語で描かれたとする見方もあります。

 

 

 

安倍晴明(陰陽師)の伝説④ 「古今著聞集」では陰陽師の技で藤原道長を救った逸話が

 

安倍晴明の死後約250年後の鎌倉時代中期に編纂された「古今著聞集」では、晴明は藤原道長を守護する英雄として描かれています。

 

安倍晴明の伝説が登場するのは、「古今著聞集」第7巻の二九五の「陰陽師晴明、早瓜に毒気あるを占ふ事」と題された逸話で、解脱寺の僧正・観修、医師・丹波忠明、武士の源義家らと共に安倍晴明が陰陽師の技を駆使して藤原道長を救ったとして褒め称える内容です。

 

内容はおおよそ以下のようなものです。

 

御堂関白殿(藤原道長)が物忌(凶事を避けるため屋敷に篭って外部と接触を断つ事)をするため、解脱寺の僧正・観修、陰陽師・安倍晴明、医師・丹波忠明、武士の源義家が参籠(付き従って一緒に篭っていた意味か)していた。

 

五月一日(年は記載がなく不明)、南都(奈良の都)から早瓜が献上されてきたため、藤原道長公は「物忌の最中に外からの物を受け取っても大丈夫だろうか?」と陰陽師の安倍晴明に尋ね、占わせた。

 

安倍晴明は占うと「1つの瓜から毒気を感じる」と言い、瓜の山の名から1つを取り出した。

 

晴明は「祈祷を行えば毒気がはっきりと現れるでしょう」と言い、道長公は僧正・観修に命じて祈祷を行わせた。

 

しばらく念仏を唱えると、瓜がゆらゆらと揺れ始めたので、藤原道長公は医師の丹波忠明を呼び、「毒気を治すように」と命じた。

 

丹波忠明は、瓜を取って回し見ると、その2か所に針を突き通した。すると、瓜の動きが止まった。

 

次に、藤原道長公は武士の源義家を呼び、瓜を割るように命じた。義家が刀を抜いて瓜を斬ると、中で小さな蛇がとぐろを巻いていた。

 

よく見ると、丹波忠明が刺した2本の針はそれぞれ蛇の左右の目に突き刺さっており、源義家は何気なく斬ったように見えたが、蛇の頭を切り落としていた。

 

世に知られた人々(清明ら4人の事)の振る舞いとはこのようなものだ。とても素晴らしい事だ。この出来事が記された日記はわかっていないが、世の人々の間ではよく知られている。

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この伝説からは、当時の社会においては、僧侶、医師、武士と並んで陰陽師が重要な役割を果たしていた事も読み取れます。

 

 

 

安倍晴明(陰陽師)の伝説⑤ 「平家物語」にも晴明の式神の逸話が

 

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鎌倉時代に成立したとされる「平家物語」にも安倍晴明の伝説的な記述が複数見られます。

 

1つは、安倍晴明の5代目の直系の子孫で安倍泰親が、平清盛の娘で高倉天皇に嫁いだ建礼門院徳子の出産の時期と皇子の誕生を「推条」という安倍晴明の代から伝わる陰陽師の技で言い当てたとするエピソードです。(長門本第5巻「中宮御産の事」)

 

2つ目は、源頼光の家来で豪傑で知られた渡辺綱という武士が退治した鬼の腕を持ち帰ったところ、安倍晴明がその鬼の腕を封印するように言ったとする逸話です。(八代本劔巻

 

また、平家物語の異本の1つとされる「源平盛衰記」では、第3巻の「法皇熊野御参詣那智山に籠る事」に、花山天皇が那智山に籠った時に天狗の妨害にあったため、安倍晴明が狩籠に多くの魔類を祭り置いて妨害を防いだとする逸話が、第10巻の「中宮御産の事」には、安倍晴明が使役していた式神「十二神将」を妻が怖がるため橋の下に隠していた逸話が載っています。

 

このように、安倍晴明は当時から様々な文献に登場しており、平安時代から鎌倉時代の人々にとっても伝説的に語られる有名人だったのでしょう。

 

 

 

安倍晴明(陰陽師)の伝説⑥ 人間の父と狐の母の間に生まれた

 

出典:http://www.kuzunohainari.com/

 

安倍晴明は、人間の父親と、神様の神使(あるいは神様そのもの)である白狐の母親との間に生まれたという伝説はよく知られています。

 

安倍晴明の母親が狐だとする伝説が書かれた最古の文献は、中世末期に成立したとされる「三国相伝陰陽輨轄簠簋内伝金烏玉兎集」です。この文献は安倍晴明本人が編纂した陰陽道に関する専門書と伝えられていますが、実際には安倍晴明の死後に成立したものです。

 

これが元となり、安倍晴明の母親は、「葛の葉」と名乗る信太の森の狐で、稲荷大明神の第一の神使(神の使いとして人間と接触する動物)であるとする伝説が各地に残されています。

 

この伝説の内容は概ね以下のようなものです。

 

村上天皇の時代(946年〜967年)に、河内国(大阪府南東部)の石川悪右衛門という男が妻の病気を治すために、兄の蘆屋道満(安倍晴明の敵として度々登場する播磨国の陰陽師)の占いにより、泉国和泉郡の信太の森へと行き、野狐の生肝を得ようとした。

 

信太の森の近く、阿倍野の里には安倍保名という若者がおり、日頃、信太の森の稲荷に参拝していた。すると、悪右衛門の放った狩人に追われた1頭の白狐が飛び出してきて助けを求めてきた。

 

保名は、狐を草むらの中に隠し、追ってきた狩人と戦い怪我を負い意識を失ってしまう。気がつくと、「葛の葉」と名乗る美しい女性に介抱されており、保名は葛の葉に家まで送り届けられる。

 

その数日後、葛の葉が保名の家に訪ねてきて、やがて2人は恋仲になり結婚し、男の子が生まれて童子丸と名付けられた。

 

童子丸が5つになった秋頃、童子丸と添い寝をしていた葛の葉は、眠っているうちに神通力を失い、白狐の正体を表してしまう。

 

目覚めた童子丸がそれに気づき、正体を知られた葛の葉は、「恋しくば尋ね来て見よ 和泉なる信太の森のうらみ葛の葉」という一首を残し、信太の森へと帰って行った。

 

保名はこの一首を読み葛の葉がかつて自分が助けた白狐であった事を知り、童子丸を連れて信太の森を訪れた。

 

すると葛の葉が姿を現して、水晶の玉と黄金の箱を保名と童子丸に授けてその場を去った。この水晶の玉と黄金の箱は稲荷大明神から童子丸に授けるようにと預かっていたもので、これによって超常的な力を得た童子丸は、成長すると安倍晴明を名乗り、天文道を極めて天皇を助けて陰陽師として活躍した。

 

 

 

安倍晴明(陰陽師)の伝説⑦ 鳥獣の言葉を理解する事ができた

 

母親が神様の使いの狐、あるいは神様の化身の狐という伝説がある安倍晴明ですが、その伝説から連想されたものなのか、安倍晴明は鳥獣の言葉を理解する事ができたとする伝説も複数の書物が伝えています。

 

伝説の内容は概ね以下の内容となっています。

 

安倍晴明はある日、鳥達の会話を聞いて、当時の天皇(醍醐天皇か村上天皇だと言われている)が重い病気に罹っている事を知り、その事を伝えるために京都へ上った。

 

安倍晴明は、天皇の病の原因を取り除いて見せ、その手柄を認められて易暦博士、縫殿頭の官職を与えられ、京都で陰陽師として活躍するようになった。

 

また、室町時代中期の禅僧・瑞渓周鳳の日記「臥雲日件録」にも、まだ陰陽師になる前の安倍晴明がカラス同士の会話を聞いて、当時重い病気に臥していた村上天皇の病気の原因を知り、都に上ってその原因を取り除いて天皇の生命を救ったとする逸話が記されています。

 

記されている逸話はおおよそ以下のような内容でした。

 

ある日、安倍晴明は、京都の祇園から来たカラスが「内裏(天皇の在所)の北西の方角の地中には、昔から銅器が埋まっているのだが、この銅器に霊が宿っており、その霊の祟りが村上天皇を病気にしているのだとか」と本栖から来たカラスに話しているのを聞いた。

 

安倍晴明はすぐに京都へ行き、その祟りの原因を取り除いたところ、村上天皇の病気はたちどころに完治した。安倍晴明はこの手柄により朝廷に取り立てられ、以降、「天下無双の陰陽師」として知られるようになった。

 

安倍晴明は父親も母親もなく、おそらくは「化生の者」である。

 

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安倍晴明(陰陽師)の子孫

 

出典:https://www.accumu.jp/

 

安倍晴明の子孫についても見ていきます。

 

陰陽道の第一人者としての地位を確立した安倍晴明ですが、その功績によって子孫も代々、陰陽師として活躍しました。

 

安倍晴明には吉昌と吉平という2人の息子がおり、2人とも陰陽師として活躍。吉昌は陰陽寮の長官である陰陽頭(おんみょうのかみ)を務め、吉平も陰陽師を育成する陰陽博士や陰陽頭を補佐する陰陽助を務めています。

 

その後も、6代目(5代目とするものも)の子孫である安倍泰親の代までは安倍晴明の家系は陰陽道の第一人者として朝廷の信頼を得て活躍していましたが、その次の代に内部分裂や後継者争いによって1度没落しています。

 

しかしそれから約100年後、安倍晴明から見て14代目の直系の子孫にあたる安倍有世の代に足利義満に見出され復権を果たし、以降、安倍晴明の子孫は陰陽師の筆頭としてその時代ごとの政権の中枢に関わりました。

 

また、安倍晴明の直系の子孫は室町時代中期から後期にかけての有宣の代に「土御門家」を名乗るようになり、明治時代の陰陽寮解体まで陰陽師として活躍。

 

陰陽寮の解体後も安倍晴明の子孫は華族としてその家名を保ち続け、その血脈は現代まで続いています。ただし、土御門家の菩提寺梅林寺によると、直系の子孫との連絡が半世紀近く前に途絶えており、現在も消息不明だという事です。

 

平安時代の陰陽師(おんみょうじ)安倍晴明の直系子孫である土御門家の菩提(ぼだい)寺・梅林寺(京都市下京区)で、一族の墓が長年の劣化で崩壊しそうな状態になっている。半世紀近く子孫の消息が不明になっているためで、寺側は対応に苦慮しつつも、千年以上にわたって天文や暦法をつかさどった一族の供養を続けている。

 

引用:安倍晴明の子孫の墓ピンチ 京都、連絡取れず寺が供養

 

 

 

安倍晴明(陰陽師)の現在

 

安倍晴明の現在についてですが、陰陽道については「天社土御門神道」という神道系の団体に受け継がれています。

 

天社土御門神道は、安倍晴明の子孫の家系である土御門家の家臣筋の藤田家が代表を務めており、土御門家との交流はすでに途絶えてしまっているそうです。

 

そして、この天社土御門神道も現在は後継者がおらず途絶の危機に陥っているとのニュースが報じられています。

 

平安時代の陰陽師(おんみょうじ)・安倍晴明(あべのせいめい)を祖とし、1000年以上の歴史を誇る陰陽道(おんみょうどう)「天社土御門神道(てんしゃつちみかどしんとう)」(本庁・福井県おおい町)が存続の危機にひんしている。

 

引用:晴明直系 陰陽道 途絶の危機 平安から1000年後継なく

 

この事から、現在はもはや安倍晴明が発展させた陰陽道の術は衰退し、途絶の危機にあるようです。

 

一方、現在も安倍晴明の子孫達が6つの家系に分かれて、社会の裏側で活躍を続けているという説も存在します。これについては、安倍成道という方が安倍晴明の子孫(水の家系第27代)を名乗り作家としてデビューした事から出てきた説のようです。

 

ただし、この安倍成道さんが本当に安倍晴明の子孫であるとする証拠は示されていません。

 

 

 

安倍晴明(陰陽師)の死因

 

出典:https://2.bp.blogspot.com/

 

安倍晴明の没年は寛弘2年(西暦1005年)とされていて、享年は85歳(数え年)との記録が残されています。

 

しかし、安倍晴明の死因が何だったのかについては確かな記録がなくわかっていません。

 

平安時代の男性の平均寿命は50歳ほどで、40歳になれば老人と言われた時代なので、85歳というのは当時としては驚異的な長寿であり、死因は老衰だったのではないかとも言われています。

 

 

 

まとめ

 

今回は、平安時代に実在した陰陽師・安倍晴明についてまとめてみました。

 

安倍晴明がどんな人かをざっくりといえば、元々は下級貴族の出身で、当時の国家機関であった「陰陽寮」に所属し、当時の先端技術・学問であった陰陽道を駆使して活躍し、天皇や貴族の信頼を得て出世した人物という事になります。

 

安倍晴明は実在する人物ですが、その死後に様々な文献や物語で超常的な力を持つ天才陰陽師として描かれ、現在もフィクションの世界で活躍する伝説的な存在となりました。

 

安倍晴明の伝説としては、母親を神使の白狐とする逸話や、強力な式神を駆使して様々な活躍をしたという逸話、播磨出身の陰陽師・蘆屋道満との呪術を用いた戦いなどがよく知られています。

 

安倍晴明の子孫については、隆盛と没落を何度か繰り返しながらも血脈を保ち続け、明治時代に陰陽寮が廃止されるまで陰陽師のトップとしてその時代時代の政権に関わり続けました。現在もその血筋は続いているとされますが、表舞台には出ておらず、安倍家(土御門家)の菩提寺との連絡も途絶えているとの事です。

 

安倍晴明は85歳という当時としては信じられないような長寿で死去していますが、死因については記録が残されておらず不明です。

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