三原山の現在!噴火や火口へ飛び込み身投げ事件・事故・心霊現象もまとめ

伊豆大島にある三原山は過去に自殺名所となった時代もあり心霊の噂も存在します。

 

この記事では三原山の場所や行き方、過去の大規模噴火、火口への飛び込み身投げ事件、もく星号墜落事故、数々語られる心霊や不思議な噂、現在の噴火情報や観光地情報などについてまとめました。

三原山は伊豆大島にある火山で戦前には火口への飛び込みや身投げブームも

 

出典:https://www.orion-tour.co.jp/

 

「三原山(みはらやま)」は、東京都大島町の伊豆大島に所在する標高758メートルの活火山です。

 

三原山山頂部には直径300メートル深さ200メートルの切り立った噴火口があり、現在も活発な火山活動を続けています。

 

三原山のある伊豆大島は、東京都の南の海上に連なる伊豆諸島最北端の島で、豊かな自然が広がる人気の観光地ですが、その中央に位置するのが三原山であり島のシンボル的存在です。

 

三原山は古くから伊豆大島の島民からは「御神火様(ごじんかさま)」と呼ばれ信仰の対象とされており、2万年前から現在まで、およそ100年から200年毎に合計で100回前後の大噴火が起きたと推定されています。

 

三原山は戦前の時代から観光地として知られていましたが、1933年に実践女子専門学校に通う美人女子学生が火口から飛び込み身投げをする事件が発生。

 

当時のマスコミがこれを扇情的に報道した事でブームのようになって、全国から自殺者や身投げを一目見ようと野次馬が集まるようになりました。以降、三原山火口からの飛び込み、身投げが相次いで1933年だけで129人もの自殺者が出るという異常事態となりました。(この年だけで944人の飛び込み、身投げ者が出たとの情報もあるが、大島町が発表している記録では129人となっている)

 

そうした暗い過去の事件も影響してか、三原山には心霊の噂も囁かれているようです。

 

 

三原山の場所や地図

 

出典:https://s3cdn.sotoasobi.net/

 

三原山の場所は「東京都大島町野増」で、東京都心から南方向に約120kmにある伊豆大島のちょうど中央に位置しています。

 

下は三原山の場所とその周辺の地図です。

 

 

 

三原山(中央火口)への行き方やアクセス

 

出典:https://oshima-navi.com/

 

三原山への行き方ですが、まずは伊豆大島へと渡る必要があります。

 

伊豆大島へは、東海汽船が各地の港から運行する船(大型客船と高速ジェット船の両方がある)か、東京の調布飛行場からの飛行機での行き方があります。

 

 

三原山のある伊豆大島への船での行き方

 

出典:https://www.tokaikisen.co.jp/

 

船の場合は「東京・竹芝客船ターミナル」、「久里浜港」、「熱海港」、「伊東港」から大型客船もしくは高速ジェット船が運行されています。

 

下は各港からの所要時間をまとめた表です。

 

 港  高速ジェット船  大型客船
 東京・竹芝客船ターミナル  最短1時間45分  最短6時間
 久里浜港  最短1時間  運行なし
 熱海港  最短45分  運行なし
 伊東港  最短35分  運行なし

 

なお、料金については時期によって変動するため、その都度確認が必要です。

 

 

三原山のある伊豆大島への飛行機での行き方

 

出典:https://s3-ap-northeast-1.amazonaws.com/

 

三原山のある伊豆大島へは、東京都調布市にある調布飛行場から大島空港に飛ぶ新中央航空の飛行機での行き方もあります。

 

飛行機での運賃は片道が、大人12000円、子供8400円、往復割引運賃が22400円に設定されています。(2024年1月現在)

 

飛行機での所要時間は片道約25分となっています。

 

 

伊豆大島到着後の三原山への行き方

 

出典:https://www.arinoki.com/

 

伊豆大島到着後の移動は、路線バス、観光バス、レンタカー、タクシー、レンタバイク、レンタサイクルなどが利用できます。

 

バスの本数は限られるため、気ままに観光するにはレンタカーかタクシーがおすすめです。自動車での「三原山山頂口」への所要時間は、元町港からなら約15分、大島空港からなら約17分、岡田港からなら約25分ほどです。三原山山頂口は駐車場も整備されているためレンタカーでの来訪も問題ありません。

 

路線バスを利用する場合は、元町港と岡田港から出ている大島バスの「三原山ライン」を利用し「三原山山頂口」のバス停で降車します。

 

三原山山頂口からは各スポットへと続く遊歩道が整備されているため、各地に設置されている地図看板などを見ながら安全に散策できるはずです。

 

 

三原山の噴火① 戦前までの噴火の記録

 

続けて、三原山の噴火の歴史についても見ていきます。

 

三原山は、約2万年前から現在までに、およそ100年から200年の周期で合計で100回ほどの大噴火が起こっていると考えられています。

 

三原山では古くから噴火が起こっていたと考えられていますが、確認できる最も古い記録は1338年頃の様子を記述したとみられる竺仙録の「海中有一座山、名曰大島、毎年三百六十日、日々火出自燃」という記述です。

 

その後、戦国時代にあたる天文21年9月19日(1552年10月17日)付で、元町地区の薬師堂の祈祷札に「御原ヨリ神火出テ同廿七日ノ夜半、江津ニ嶋ヲ焼出」という記録が残されています。

 

さらに時代が下って、江戸時代の天和4年(1684年)から元禄3年(1690年)にかけての噴火、安永6年(1777年)から天明2年(1782年)にかけて起こった大噴火(安永の大噴火)の記録が残されています。いずれの噴火でも大きな被害が出て、幕府からの御救米が下されたとの記録が残されています。

 

 

三原山の噴火② 1950年〜51年の噴火

 

出典:https://www.town.oshima.tokyo.jp/

 

三原山は1950年7月と1951年2月に中規模の噴火を起こしています。この噴火では安永の大噴火以来初めて溶岩流が三原山を越えてカルデラ床にまで流下しました。

 

この噴火まで火口の北東にある剣ガ峰(標高754メートル)が伊豆大島の最高峰でしたが、この時の噴火での噴出した溶岩が冷えて固まって火口の南部が盛り上がり新たに三原新山(標高758メートル)ができ、現在の最高峰地点となっています。

 

この時の噴火では、溶岩流を一目見ようと伊豆大島に観光客が押し寄せ、岡田港桟橋が人でごった返している様子の写真が当時の新聞などで確認できます。

 

その後、三原山は1957年にも噴火を起こし、火口付近にいた観光客が1名亡くなり、53名が重軽傷を負いました。この時には大島町役場の避難指示の対応が遅かったとの批判も出ています。

 

 

三原山の噴火③ 1986年の噴火

 

出典:https://izuoshima-geo.org/

 

1986年11月、三原山は大噴火を起こしました。安永の大噴火以来209年ぶりの大噴火でした。

 

三原山は11月15日に噴火をはじめましたが小康状態が続き、噴火の様子を一目見ようと5000人超の観光客が伊豆大島に押し寄せました。

 

ところが、21日になって噴火が活発化しその日の夕方には大噴火となります。

 

各地で割れ目噴火が発生し、流れ出した溶岩が3000人が住む元町地区の人家まで数百メートルまで迫り、住民は伊豆大島南部へと避難。その日の22時50分には大島町役場は全島民と観光客の島外避難を決定し、翌22日の朝までに島民と観光客合わせて1万226人が船で島外へと脱出しました。

 

この脱出のために東海汽船所属船8隻と周辺の漁船の他、海上保安庁の巡視船、海上自衛隊の護衛艦も救助に派遣され迅速な避難(翌朝早朝5時10分までに避難完了)を成功させています。

 

脱出した島民は約1ヶ月間、東京都内と静岡県の避難所で噴火が終わるのを待ちました。

 

 

三原山事件は女子学生の身投げ報道をきっかけに飛び込み者が相次いだ事件

 

出典:https://bunshun.ismcdn.jp/

 

戦前の1933年、三原山の火口から飛び込み、身投げで自ら命を断つ人が1年間だけで129人(944人説もある、後述)も出ました。

 

この飛び込み、身投げブームのきっかけは、1933年1月と2月に実践女子学校に通っていた女子生徒の真許三枝子(当時24歳)と松本貴代子(当時21歳)が相次いで三原山火口に飛び込み、身投げ自殺をした事でした。

 

この2人の飛び込み自殺に、実践女子学校の友人であった富田昌子(当時21歳)が同行していた事がわかり当時のマスコミは「三原山に死を誘う女」、「死の案内人」などの見出しでセンセーショナルに報道。

 

1933年2月、東京の都心にあった旧制女子専門学校の同級生2人(ともに当時21歳)が伊豆大島を訪れ、1人は三原山(758メートル)の火口に身を投げ、1人は保護された。心中と捉えられた小さなニュースだったが、生きて下山した学生は1カ月前も、三原山で友人(同24歳)の自殺に立ち会っていたことが判明。「死の案内人」とされ、たちまち世間の耳目を集めた。この後、三原山で模倣自殺が相次ぎ、島民は防止に追われた。

 

引用:火口に投身、三原山の悲劇 「死に急ぐな」島民が奮闘

 

それから報道はどんどんと加熱していき、2人に頼まれ、優しさゆえに死に立ち会った富田昌子が、まるで2人を自主的に死に誘ったかのように書き立てられ、本人だけでなく家族のプロフィールまでも暴かれます。

 

精神を病んだ富田昌子は実家に引き篭もるようになり約3ヶ月後の4月29日に急死。医者の診断書には「脳底脳膜炎」と書かれていたようですが、本当は自殺だったのではないかとも言われています。

 

この一連の加熱報道により、自殺志願者が三原山に続々と集まるようになり、身投げや飛び込みの瞬間を一目見ようと野次馬も続々と集まって、当時は三原山は人でごった返すような有様となったという事です。

 

行政側も対策のために警察官や監視員を配置していましたが人数が足りずに全て防止する事はできず年間で129名もの飛び込み、身投げ者が出たという事です。

 

この通称三原山事件では、飛び込みや身投げを行なった者や、未遂者を指す「三原山病患者」という言葉も生まれました。

 

 

三原山事件での飛び込みと身投げ死亡者数は129名か944名か

 

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なお、この三原山事件で身投げや飛び込みで死亡した人数は、大島町の公式記録では「129名」となっています。

 

 

一方で、筑摩書房が発行する「日本の百年」シリーズの第7巻の「日本の百年7アジア解放の夢」では、三原山事件では1933年の年間を通じて男性804名、女性140名の合計944名が死亡したとされています。

 

「前年の三原山自殺者が自殺9名、未遂30名だったものが、この年1933(昭和8)年は1月から3月までの間に自殺者32名、未遂67名に達し、年間を通じては男804人、女140人が死んだ」(「日本の百年7アジア解放の夢」

 

引用:三原山噴火口に次々飛び込む若者たち――加熱するメディア報道が導いた悲惨なブームとは

 

あまりにも人数が違うため、どちらが本当の数値なのかはわかりませんが、当時の加熱した報道の様子を見れば、話がだんだんと大きくなり年間944名という実数とはかけ離れた数値が出てきた可能性が高そうです。

 

一方で大島町役場の方は事件を冷静に見て、淡々と事実を記録していたはずなので、どちらの信憑性が高いかといえば大島町の発表する「129名」ではないかと思います。

 

 

 

三原山火口付近で起きた「もく星号墜落事故」

 

出典:https://bunshun.jp/

 

1952年4月9日に三原山で発生した飛行機墜落事故「もく星号墜落事故」も有名です。

 

これは、羽田飛行場(現在の東京国際空港、通称羽田空港)から大阪経由、福岡空港へと向かう予定だった日本航空301便が、離陸後17分後に伊豆大島上空で消息を絶ち、三原山噴火口の東側約1kmの御神火茶屋付近の山腹に墜落しているのが見つかった墜落事故です。

 

乗客33名乗員4名の合わせて37名全員が死亡しました。

 

 

もく星号墜落事故犠牲者37名中パイロットはアメリカ人で乗客は日本人

 

当時の日本は太平洋戦争の敗戦によってGHQの占領下にあり、日本人による航空機の運営は許可されていませんでした。

 

そのため、航空機の運用、整備、運航はアメリカのノースウエスト・オリエント航空(現在はデルタ航空と経営統合)に委託し、機体も同社からウエットリースされたものでした。

 

そのため、機長と副操縦士は同社所属のアメリカ人パイロットで、客室乗務員のみ日本人でした。乗客は全員が日本人で、当時は航空機運賃が非常に高額だった事もあって活弁士・漫談家の大辻司郎、八幡製鉄社長の三鬼隆、元衆議院議員の直次ら、社会的地位の高い人物ばかりでした。

 

また、事故発生地域の航空管制官は全てアメリカ人でした。

 

 

 

もく星号墜落事故の経緯

 

出典:https://stat.ameba.jp/

 

「もく星号」(レシプロ旅客機の「マーチン2-0-2」)1952年4月9日の午前7時42分に日本航空302便(大阪経由福岡行き)として羽田飛行場を離陸しました。

 

午前7時57分、「もく星号」は「館山通過、高度6000フィートで雲中飛行、8時7分大島上空予定」と管制に報告。その2分後の午前7時59分に伊豆大島上空で突然消息を絶ちました。当時の上空は暴風雨と濃霧の悪天候でした。

 

翌10日の午前8時25分、三原山の山腹に墜落し大破している「もく星号」が発見され、乗客・乗務員37名全員の死亡が確認されました。

 

 

もく星号墜落事故の原因の真相は現在も未だ不明のまま

 

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当時の日本はGHQの占領下にあり、もく星号墜落事故の捜査はアメリカ軍によって行われ、日本政府へは重要な情報が渡されておらず、事故に至った詳しい経緯や原因の真相は未だに不明のままです。

 

当時の新聞報道では、乱気流によって機体が降下した事による衝突事故の可能性や空中分解した可能性などが指摘されていました。

 

その後、航空管制誘導のミスやパイロットに何らかの過失が事故の原因ではとの説が有力視されています。

 

航空管制誘導のミスについては、事故機の離陸直前に航空管制センターの指示の変更(当初の指示に問題があり機長の抗議により訂正された)があった事を示す交信記録(音声データではなくタイプ記録)がアメリカ当局から日本政府に渡されており、その変更を航空管制センターの担当者が把握しておらず、誤った高度を指示した結果三原山に衝突したとする説が言われています。

 

パイロットの過失が事故の原因とする説は、事故当日に機長を羽田飛行場まで車で送った元日本陸軍飛行連隊所属の但木茂という人物の証言が根拠とされています。

 

但木茂氏は、1997年に機長を車に乗せた時、アルコール臭で車内がむせかえり、顔も真っ赤で機長が飲酒している事が明らかで、車から降ろした時の伝票へのサインも忘れるほど酩酊しており、但木茂が催促してサインさせても手が震えて上手く書けないほどだったと証言しています。

 

当時はアメリカ軍の統治下にあった事から、この事実は握りつぶされ真相は闇に葬られたとされています。

 

 

三原山の心霊の噂① 噴火中の三原山でテレビの生放送中に火口に人影

 

出典:https://pbs.twimg.com/

 

三原山にまつわる心霊や不思議な噂についても紹介していきます。

 

1986年の三原山大噴火の当時、ニュース番組やワイドショーでは三原山の火口から溶岩が噴出する映像が繰り返し流されました。

 

この時の映像に、溶岩が噴出する火口付近にいるはずのない人影が映り込んでいるのが発見され、一時大騒ぎとなりました。

 

これは衝撃映像として三原山の噴火がおさまった後もテレビ番組や雑誌などで繰り返し紹介され、三原山で自殺した人の幽霊が現れたのではないかなどの心霊的な噂へと発展しました。

 

しかし、結論から言うとこの人影は心霊的なものではなく、火山の火口にギリギリまで接近し観測と撮影をする活動を行っていた青木章さんという火山探検家の人影だった事が本人の証言により判明しています。

 

青木章さんは全島民避難勧告が出た後もそれに気づかないまま、三原山の火口付近の展望台近くに残って撮影と観測を続けていました。青木章さんの近くにあった展望台はこの噴火によって全破損しており、青木章さんがここから生還できたのは奇跡的であり冒険家の間では伝説として語られる事になりました。

 

また、この1986年の三原山噴火時には、青木章さんの他にも各メディアの命知らずのカメラマンが噴火の様子を撮影するために火口付近に潜入し続けていたとも言われています。

 

本人の証言により、この人影は心霊現象でない事が判明していますが、当時のワイドショー番組が、噴火する三原山の火口付近の人影を捉えた映像を衝撃的な出来事、あるいは不思議な現象なのかと紹介しているシーンがyoutubeに投稿されていたので紹介しておきます。

 

 

 

三原山の心霊の噂② 大規模噴火でも山頂の三原神社はなぜか無傷だった

 

出典:https://cdn-ak.f.st-hatena.com/

 

伊豆大島では古くから三原山は三原大明神として信仰の対象とされ「御神火様」と呼ばれて親しまれてきました。

 

江戸時代の「伊豆國大嶋差出帳」の記述によれば天明9年(西暦1789年)には三原神社が鎮座しておりいつの頃からか(少なくとも大正時代以前)三原山の山頂の火口付近に小祠が設けられています。

 

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この三原神社の分社が泉津集落の中にあるのですが、そこに設置されている説明看板によると、1910年から1923年の噴火、1950年と1953年の噴火では火口から溶岩が溢れ出すもなぜか溶岩流はこの小祠を避けて通り、全島民が避難を余儀なくされた1986年の大噴火の時ですら、この小祠の直前で溶岩流は両側へと避けるように流れを変えたため、小祠は全く無傷のままだったそうです。

 

宗教学者の鎌田東二氏の著書「神道とは何か: 自然の霊性を感じて生きる」には、この三原神社の逸話が取り上げられ、これは大島の七不思議とも言われていると紹介されています。同書では「社殿の屋根のすぐ際まで溶岩がせり出してきているにもかかわらず、そこでストップしている」と、とても不思議な事例としてこの逸話が書かれています。

 

 

三原山の心霊の噂③ 何かに火口へ引きづり込まれそうになった体験談も

 

出典:https://tokyo-tozan.com/

 

1933年に年間129名もの飛び込み、身投げ者が出て自殺の名所とも呼ばれるようになった三原山にはどこか暗いイメージもあり心霊体験談も存在します。

 

これは、2019年5月に三原山の火口まで登った方の心霊体験談です。

 

この方は、1人で三原山を訪れて遊歩道を登っています。その日は天候が良くなく、火口付近に近づくにつれて霧が濃くなっていくような気象だったということです。

 

夕方近くになって陽が落ちて薄暗くなり、火口の外周を1人歩いていると、突如強い風が吹いて押されたかと思うと、この方がいた部分の柵だけがいきなり壊れ、そのまま何かに引っ張られるかのように急な崖を転落し、後少しで火口に落ちるところだったそうです。

 

この時、転がり落ちたというよりは何かに肩を掴まれて引きづり下ろされるような不思議な感覚があり、恐ろしくなって必死に崖を這い上がり、逃げるように下山されたそうです。

 

この方は、下山後すぐに駐在所に駆け込んで火口近くの柵が壊れて崖下に転落した事を報告したそうなのですが、駐在の警察官に「あなたもですか?今年に入って柵が壊れて頭から落ちたのはあなたで3人目です」と言われてゾッとしたのだそうです。

 

この方が転落するまでに2度も柵が壊れる転落事故があったのが事実だとすれば、管理側は入念に安全性のチェックを行なっていたはずです。それにもかかわらず人がいる部分だけ柵が壊れて引っ張り込まれるように落ちたというのは、何か目に見えない力が人を火口に引きづり込もうとしているのではないのかと考えてしまい恐ろしくなります。

 

 

三原山の心霊の噂④ 伊豆大島に響いた怪音

 

出典:https://oshima-navi.com/

 

1988年9月10日の19時40分頃、伊豆大島全体に響き渡るような「ドーン」という轟音が響き渡りました。

 

1986年の大噴火の記憶もまだ新しかった伊豆大島の島民達は、またしても三原山が噴火を起こしたのではと警戒を強め、気象庁大島観測所も「三原山が噴火した模様」との臨時噴火情報を出しています。

 

ところが、観測所職員と大島署のパトカーが三原山山頂に確認しに行っても、火口は静穏で噴火の兆候は見られませんでした。

 

1時間ほど確認した後、気象庁の観測所は「噴火ではない」とする修正情報を発表。

 

しかし、島民全員が噴火と間違えるほどの大轟音を聞いており、島民達は「あの音の原因は何だったのか」と気味悪がったという事です。その後、気象庁も轟音の音源は不明とのコメントを発表しています。

 

 

三原山の現在① 火山活動を続けており火口内等では警戒が必要

 

出典:https://izuoshima-geo.org/

 

三原山は現在も活発な火山活動を続ける活火山です。

 

ただ、1986年の大噴火以降は大きな噴火は起こっておらず静穏な状態が続いています。

 

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しかし、次の噴火に向けてマグマの蓄積が進んでいると見られており、警戒する事は必要との見方が示されています。

 

2024年1月現在、気象庁は三原山の噴火警戒レベルを最も低い1に設定しています。また、現在の警戒事項として以下の内容も発表されています。

 

火口内で噴気の噴出等が見られます(この範囲に入った場合には生命に危険が及ぶ)。火口内等では警戒が必要です。

 

引用:国土交通省気象庁 火山活動の状況(伊豆大島)

 

 

三原山の現在② 火口の絶景や裏砂漠が観光スポットとして人気

 

出典:https://media-cdn.tripadvisor.com/

 

三原山は現在も人気の観光スポットで、特に火口部は絶景ポイントとして人気を集めています。

 

三原山頂口より山頂へと登り、火口周辺をぐるりと周るお鉢めぐりのコースが整備されており遮るもののない絶景を堪能できます。天気が良い日であれば海を挟んで富士山の絶景も楽しめます。

 

また、三原山の東側一帯に広がる「裏砂漠」も三原山の人気の観光スポットとなっています。

 

裏砂漠は国土地理院が発行する地図で、日本国内で唯一「砂漠」と表記されている、日本唯一の砂漠地帯で、一帯はスコリアと呼ばれる火山岩で地表が覆われ独特な雰囲気を醸し出し、まるで異世界に足を踏み入れたような非現実感を味わう事ができます。

 

 

まとめ

 

今回は、東京都心から南に位置する伊豆大島にある活火山「三原山」についてまとめてみました。

 

三原山の場所は伊豆諸島の最北端の「伊豆大島」のほぼ中央に位置し、行き方は各地の港からの高速ジェット船と大型客船、調布飛行場からの飛行機があります。現地では路線バスやタクシー、レンタカーなどが利用可能です。

 

三原山の噴火は直近では、1950年から51年にかけての噴火、全島民が島外避難を余儀なくされた1986年の大噴火がありますが、それ以来は大きな噴火は起こっていません。

 

戦前の1933年1月2月には女学生2人が相次いで火口に飛び込み、身投げ自殺をする事件が発生。これを当時のマスコミが煽情的に報道したため全国から自殺志願者や飛び込みを見ようとする野次馬が殺到する事態となり、この年だけで129名もの身投げ者が出る異常事態となりました。

 

1952年4月9日には、三原山の山腹に旅客機が墜落し乗客乗員合わせて37名が死亡した「もく星号墜落事故」も発生。この事故はGHQに占領されていた時代に発生した墜落事故という事もあって日本政府に重要な情報が渡されず、現在も不解明な点が多く残されています。

 

そうした暗い過去もある三原山には心霊や不思議な噂も存在しており、大噴火時に火口で人影が撮影された事件(後に心霊現象でない事が判明)、山頂の三原神社を溶岩流がなぜか避けて通る不思議な話、過去に引きづり込まれるように落下する事件が頻発する噂、正体不明の怪音が島全体に響き渡る話などが伝えられています。

 

三原山は現在も活火山ですが、大規模な噴火の兆候は見られず静穏な状態です。観光地としても人気で、火口からの絶景や東側一帯に広がる裏砂漠は特に人気のスポットとなっています。

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