大道寺あや子の現在!生い立ちと家族・夫/大道寺将司や子供・かわいい評判・事件とその後まとめ

「連続企業爆破事件」を起こした「東アジア反日武装戦線」のメンバーで指名手配中の大道寺あや子が話題です。

 

この記事では大道寺あや子の生い立ちや実家の家族、結婚した旦那の大道寺将司、子供の有無、かわいいという声、起こした事件内容、現在はどこにいるのかについてまとめました。

大道寺あや子は東アジア反日武装戦線のメンバーで連続企業爆破事件の犯人

 

大道寺あや子のプロフィール

 

生年月日:1948年10月20日

出身地 :北海道釧路市

身長  :162cm

 

大道寺あや子は、1974年から1975年にかけて元財閥系企業や大手ゼネコン企業が狙われた連続爆破テロ事件「連続企業爆破事件」の犯人として国際指名手配されている女で、同事件を起こした反日思想を掲げる極左暴力集団「東アジア反日武装戦線」の主要メンバーの1人です。

 

大道寺あや子は星薬科大学在学中に学生運動に加わるようになり、高校時代の同級生でのちに結婚し旦那となる大道寺将司に勧誘されて、太平洋戦争までの大日本帝国を絶対悪と定義し武力闘争を主張する“研究会”に参加するようになりました。

 

“研究会”はその後、「東アジア反日武装戦線」と名付けられ、メンバーらは自分たちに孤高の存在のイメージを重ねて「狼」というグループ名で活動を開始。大道寺あや子もこの「狼」のメンバーとして、昭和天皇暗殺計画(実行には移されなかった)などに加わり、1974年8月30日には、三菱重工業東京本社ビルで大質量の爆弾を炸裂させて8名を殺害、376名に重軽傷を負わせた「三菱重工爆破事件」を引き起こしました。

 

大道寺あや子や大道寺将司ら「東アジア反日武装戦線」は、その後も次々と企業をターゲットとして爆弾テロ事件を引き起こしました。東アジア反日武装戦線による一連の爆弾テロ事件は「連続企業爆破事件」と名付けられ現在もオウム真理教時件の地下鉄サリン事件と並ぶ戦後最悪のテロ事件だとも言われています。

 

大道寺あや子は連続企業爆破事件を起こした後、1975年5月19日に爆発物取締罰則違反で逮捕されて裁判にかけられましたが、公判中の1977年9月28日に新左翼過激派武装組織である日本赤軍が「ダッカ日航機ハイジャック事件」を起こし、人質をとって大道寺あや子ら、服役および

勾留中の活動家9名の釈放および日本赤軍への参加を要求しました。

 

当時の日本政府(福田赳夫内閣)は日本赤軍の要求に屈し、「超法規的措置」だとして大道寺あや子らを釈放。大道寺あや子はそのまま出国して日本赤軍に合流し現在も国際指名手配されています。

 

 

大道寺あや子の生い立ちや経歴① 小中高と文武両道の優等生で評判だった

 

出典:https://pbs.twimg.com/

 

大道寺あや子の生い立ちや連続企業爆破事件を起こすまでの経歴についても現在までに明らかにされている内容を見ていきます。

 

大道寺あや子は1948年10月20日に北海道釧路市で生まれています。大道寺あや子の旧姓は「駒沢」で、高校時代の同級生だった大道寺将司と後に結婚し大道寺あや子となっています。

 

大道寺あや子は5人兄妹の末っ子で、父親は釧路市内の大手製紙会社に勤務(父親が公務員というのは誤情報)しており実家は裕福な家庭だったようです。

 

大道寺あや子は小学校・中学校、高校時代を通じて学力優秀でスポーツも万能な優等生として知られ、特に「釧路湖陵高校」(現在の偏差値は60〜68)では、成績はオールAでクラス1の秀才であり、スピードスケート部でも活躍するなど男子生徒の憧れの的だったようです。

 

大道寺あや子はスピードスケート部での成績が認められて卒業生総代にも選ばれ答辞を読んでいます。

 

高校時代の大道寺あや子の同級生が「母親のいない同級生が入院した時に自分で作った手料理を持って毎日お見舞いに行っていた」というエピソードを明かしており、高校時代の大道寺あや子は文武両道で性格も良いとして評判の生徒だったようです。

 

 

大道寺あや子の生い立ちや経歴② 星薬科大学時代大道寺将司と再会し結婚

 

大道寺あや子は「釧路湖陵高校」卒業後は、「弱い人の力になれる職業に就きたい。それならば薬剤師が良い」との考えから東京都品川区の私立の薬科大学「星薬科大学」に推薦で入学。大学ではワンダーフォーゲル部に所属し、自治会活動、学費値上げ反対闘争など活発に活動しています。

 

そしてこの大学時代に、大道寺あや子は釧路湖陵高校時代の同級生で、法政大学文学部史学科に進学していた大道寺将司と再会して交際するようになります。

 

大学3年になる1970年春、大道寺あや子は大学の寮を出て東京荏原の下宿に移り、ここに大道寺将司が頻繁に訪れるようになって半同棲のような状態になっています。

 

大学卒業後、大道寺あや子は新宿区内の病院に薬剤師として就職し、1973年1月20日に大道寺将司と結婚しています。結婚式は、2人の実家のある釧路にある市立の日本料理と庭園の施設「六園荘」でのお互いの親族だけを招いた質素なものだったという事です。

 

 

大道寺あや子の生い立ちや経歴③ 企業連続爆破事件を起こす

 

大道寺将司との結婚後、大道寺あや子は新宿区内の病院を退職して、東京文京区内の化学薬品会社に転職し、薬剤師として臨床検査の試薬を作る仕事に就きました。

 

この転職は、実は爆弾テロに使用する爆弾の材料として薬品を入手する目的でしたが、大道寺あや子の勤務態度は非常によく、連続企業爆破事件を起こして逮捕された後に同社社長が「日本女性の美徳をすべて備えた女性だった」と発言するなど、職場での評価は非常に高かった事がわかっています。

 

また、当時の大道寺あや子と旦那大道寺将司の周囲からの評判も極めてよく、夫妻が当時住んでいたアパートの大家は、大道寺あや子や大道寺将司が逮捕された後の取材で「あたしゃあ、あの若夫婦がひいきでしたからネ、できれば警察が張り込んでることをあの二人に教えてあげたいと思いました」などと発言していました。

 

どのような評価だったにせよ、大道寺あや子と大道寺将司は狂信的な危険思想を持っており、1974年から1975年にかけて連続企業爆破事件を起こし8名の人の命を奪い、数百人の人々に重軽傷を負わせました。

 

大道寺あや子はこの連続企業爆破事件で1度は逮捕されるも、日本赤軍による「ダッカ日航機ハイジャック事件」によって釈放されて海外へ逃亡。現在も逃亡を続けていて国際指名手配されています。

 

 

大道寺あや子の実家や家族の現在

 

生い立ちのところでも紹介しましたが、大道寺あや子の実家は北海道の釧路市で、家族は大手製紙会社に勤める父親と母親と上に4人のきょうだいがいました。

 

大道寺あや子の家族のうち父親については、大道寺あや子が星薬科大学に入学してから間も無くして61歳で亡くなっている事がわかってます。

 

大道寺あや子は父親っ子だったそうで、父親の死に強くショックを受けて、その後はあまり実家に寄り付かなくなり、家族との交流も次第に希薄になっていったという事です。

 

大道寺あや子の実家や家族についてはその後は全く情報が出ておらず、現在母親やきょうだいが存命しているのかも、実家が現在も釧路市内にあるのかも不明となっています。

 

 

大道寺あや子の結婚した旦那・大道寺将司について

 

大道寺あや子の旦那・大道寺将司のプロフィール

 

生年月日:1948年6月5日

没年月日:2017年5月24日(没年68歳)

出身地 :北海道釧路市

 

大道寺あや子が1973年に結婚し、ともに連続企業爆破事件を起こす事になる旦那の大道寺将司についても詳しく見ていきます。

 

 

大道寺あや子の旦那・大道寺将司の生い立ち

 

大道寺あや子が1973年に結婚した旦那の大道寺将司(だいどうじ・まさし)は、北海道釧路港近くの実家で生まれました。家族は父親が地方公務員で、母親は早くに亡くなっています。父親はその後再婚し、その連れ子である義理の兄は北海道議会議員で、その高校生の息子が60年安保反対運動の先頭に立っていた太田昌国でした。

 

大道寺将司は小学生時代は身体が弱く家に引きこもりがちだったものの、学業成績は非常に優秀で中学時代はクラスで1、2番の成績を維持し特に英語はいつもトップの成績を残していました。

 

中学卒業後、地元の名門校である「釧路湖陵高校」へ進学し、ここで同級生として大道寺あや子と知り合っています。高校時代の大道将司は、大阪外語大学への進学を目指し将来は通訳になる事を夢見ていたという事です。当時のクラスメイトは高校時代の大道寺将司について「きちんとしていて落ち着きがあり、目立つ事を嫌っていつも自分を抑えているように見えた」と評価しています。

 

 

高校卒業後政治活動に本格的にのめり込む

 

大道寺将司は実は高校生当時から政治運動に強い興味を抱いておりデモにも参加していました。そして、大道寺将司が大阪の大学への進学を希望していたのはそこに下層労働者の寄せ場である釜ヶ崎があったためだったようです。

 

大道寺将司は高校卒業後、大阪外語大学の受験に失敗して浪人となりますが、来年再受験するという理由で実家を離れて大阪へと移住し一人暮らしを始め、この頃に釜ヶ崎の寄せ場で労働者を支援する仕事を始めています。

 

大道寺将司は約1年間大阪にとどまり、天王寺図書館で革命書を読み漁るなどして革新的な思想を固めていきました。

 

1968年、世の中は70年安保闘争前の学生運動が次第に盛り上がりを見せ始めた時期でした。大道寺将司は大阪外語大学進学をあきらめて早稲田大学を受験する事にしたと家族に告げて上京。東京都杉並区下井草に下宿し四谷のラーメン屋に就職し生活しながら、盛り上がりを見せる様々なデモに参加していました。

 

そしてこの頃に、大道寺将司は「社会主義研究会」に参加し、ここで知り合った法政大学の学生に法政大学の受験を勧められ、大道寺将司は1969年4月に法政大学文学部史学科に入学しています。

 

大道寺将司はこの頃に、後に東アジア反日武装戦線の仲間となる片岡利明(法政大学文学部史学科)と知り合っています。

 

 

大道寺あや子と再会し仲間らと爆弾テロを企て始める

 

おりしも、この年は大学紛争がピークに達していた時期で法政大学も4月末からバリケード封鎖されました。この期間に大道寺将司は北海道釧路市の実家に帰省しましたが、ここで大道寺あや子と再会。東京に戻った後、大道寺将司は大道寺あや子を社会主義研究会に誘い、次第に距離を縮めて交際するようになりました。

 

大道寺将司と大道寺あや子は狂信的な革命思想を強めていき1971年頃から同様の思想を持つ仲間らと爆弾製作に没頭。北海道の原野で爆破実験を行うと、1971年12月に消化器爆弾と鉄パイプ爆弾を使用して、A級戦犯を祀った熱海伊豆山の「七士の碑」と「興亜観音」の爆破を企てました。この爆破は電気系統の配線ミスで失敗に終わっています。

 

1972年4月6日、大道寺将司や大道寺あや子らは、今度は横浜市鶴見区總持寺の韓国無名兵士の墓に消化器爆弾を仕掛け爆破するも、納骨堂の窓ガラスが割れただけでほとんど被害は出ていません。

 

さらに、1972年10月、大道寺将司と大道寺あや子と仲間らは、大道寺将司らが北海道大学に、大道寺あや子らが旭川にそれぞれ爆弾を仕掛けて戻る計画を実行に移し、北海道大学北方資料館と旭川の「風雪の群像」を同時爆破に成功しています。

 

 

東アジア反日武装戦線を結成し連続企業爆破事件を引き起こす

 

1972年の暮れ、大道寺将司と大道寺あや子と仲間らは話し合い、闘争組織として「東アジア反日武装戦線」を結成。

 

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翌1973年に大道寺将司と大道寺あや子は結婚。1973年暮れ頃に大道寺将司と大道寺あや子、そして片岡利明の3人はこれまでの爆弾製作と実験、実際の爆破などで得た知識をまとめた教程本「腹腹時計」を作成しそれを地下出版する事で同志を募りました。

 

そして、その思想に共鳴した何人かのメンバーが集まり、1974年から1975年にかけて「連続企業爆破事件」が引き起こされる事になりました。

 

 

 

大道寺あや子と旦那の大道寺将司の子供

 

大道寺あや子と旦那の大道寺将司の間には子供はいません。

 

大道寺あや子と旦那の大道寺将司は1973年1月に結婚する以前から爆弾テロ事件を繰り返しており、結婚後も爆弾製作に没頭。大道寺あや子は爆弾の材料の薬剤を入手するために化学薬品会社に転職までしています。

 

そして、結婚翌年の1974年の8月30日に東アジア反日武装戦線を名乗り、8人もの死者と376人もの重軽傷者を出した三菱重工爆破事件を引き起こしました。

 

その後も、大道寺将司と大道寺あや子らが中心となった東アジア反日武装戦線は企業関連施設をターゲットとした爆弾テロを1975年5月まで次々と引き起こしました。

 

1975年5月19日、大道寺あや子と旦那の大道寺将司を含む、東アジア反日武装戦線の主要メンバー7人が警視庁公安部に逮捕されました。

 

大道寺あや子と旦那の大道寺将司は結婚から逮捕までの間、爆弾テロの事しか考えておらず、まともな結婚生活を送って子供を産んで育てようなどという考えは全くなかったようです。

 

 

 

大道寺あや子がかわいいといった声も

 

出典:https://pbs.twimg.com/

 

狂信的な大日本帝国批判思想に取り憑かれた挙句、身勝手な理屈づけはされているものの本質的には無差別の爆弾テロを立て続けに引き起こして、無関係な人々多数を殺傷した大道寺あや子は言語道断の許し難い人間ですが、一部では「かわいい」などとその容姿をもてはやすような声もネット上にあるようです。

 

 

大道寺あや子は、学生時代や大学卒業後の職場でも、人間性も含めて、かわいい、美人などと持てはやされていたようですが、8人の死者と376人もの重軽傷者を出した三菱重工爆破事件を引き起こした後、旦那の大道寺将司や片岡利明、爆破予告電話を担当した佐々木規夫らが死者が出た事に焦って罪の意識を感じ責任のなすりつけ合いをしている中、「やってしまった事を今さらぐずぐず言ってもしょうがないでしょ」などと開き直り、次の話をするようにメンバーらに促しています。

 

この言動からも大道寺あや子が人の命を何とも思っていない外道である事は明らかで、かわいいなどという言葉とはそぐわない人間です。

 

 

 

大道寺あや子らが起こした三菱重工爆破事件

 

出典:https://cdn.mainichi.jp/

 

大道寺あや子や旦那の大道寺将司、片岡利明らが中心となった東アジア反日武装戦線は、戦前から太平洋戦争にかけての大日本帝国をアジア侵略を行った絶対悪と定義し、大日本帝国に協力した旧財閥系企業や大手ゼネコン企業をターゲットにし、その関連施設で手製の爆弾による爆破テロを繰り返し「連続企業爆破事件」を引き起こしました。

 

一連の連続企業爆破事件のうち、大道寺あや子が主に関わったのは最大の犠牲者被害者を出した「三菱重工爆破事件」と、「帝人中央研究所爆破事件」、「間組爆破事件」とされています。

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最大の被害を出した三菱重工爆破事件は、ペール缶に20kgもの爆薬を詰めた時限式爆弾2個が三菱重工東京本社の正面玄関前左側のフラワーポットで爆発し、8人の死者と376人もの重軽傷者を出した事件です。

 

 

三菱重工爆破事件実行までの経緯

 

1974年8月30日の午前11時45分、大道寺将司は勤務先(文京区湯島の雑誌販売会社)を昼休みに出て、お茶の水近くの喫茶店を訪れました。

 

コーヒーを飲み店を出て、片岡利明の運転するスバル1000(大道寺将司の愛車)に乗り込みました。トランクには大道寺将司、片岡利明、大道寺あや子が昨夜から夜明けにかけて3人がかりで組み立てた次元式の爆弾2個が積まれていました。

 

時限爆弾は直径29cm高さ35cmの円筒形で重さは爆薬だけで20kgもあり、昼の12時45分に爆発するよう既にセットされていました。

 

大道寺将司が乗り込むと、スバル1000はそのまま約200メートルほど直進して脇道に入り、駐車場に停車。

 

大道寺将司と片岡利明はトランクから爆弾を出し、1人1個ずつ持って御茶ノ水駅へ、駅から個人タクシーに乗って、三菱重工東京本社前まで移動しました。

 

大道寺あや子は事前に現場に来ており、サングラスにパンタロンスーツを着てOL風に変装し、見張り役として玄関前左側のフラワーポット近くに立っていました。

 

大道寺あや子から中止のサインが出ていない事を確認した大道寺将司と片岡利明はタクシーを降車しようとすると、向かいにある三菱電機ビルから会社員風の男が近づいてきました。

 

片岡利明は男が入れ替わりにタクシーに乗ろうとしていると察し、男2人でペール缶爆弾2つを持って下車するのを目撃されるのを避けるため、咄嗟に運転手に「別の用事を思い出したから東京駅まで」と告げました。

 

大道寺将司は片岡利明の機転を察して自分1人で爆弾2つを持ってタクシーを下車し、大道寺あや子の立っている方向へと歩いて、正面玄関左のフラワーポット脇に爆弾2つを置くと、そのまま正面玄関からビル内へ入ってロビーを突っ切り、反対側の不忍通りに出て、歩いて東京駅へ向かい、中央線で御茶ノ水駅まで移動し、何食わぬ顔をして13時前に勤務先へと戻っています。

 

見張りをしていた大道寺あや子も爆弾設置を確認すると足早で東京駅へ向かい、山手線で御徒町駅へ移動し、そこからタクシーで勤務先へと戻りました。

 

12時37分頃、メンバーの佐々木規夫が公衆電話から三菱重工の代表番号に電話をかけ、「我々は東アジア反日武装戦線『狼』である。三菱重工ビルと三菱電機ビルとの間の道路上に2つの爆弾を仕掛けた。すぐに爆発するので、道路上の人、および道路に面したビル内の人を至急避難させなさい。断っておくがこれは絶対にイタズラ電話ではない」と犯行予告を行いました。

 

この犯行予告電話は爆発予定時間のわずか8分前にかけられており、避難が間に合うような時間的余裕がありませんでした。この点でも東アジア反日武装戦線の犯行の雑さが見られ、多くの犠牲者を出す最大の原因となりました。

 

 

爆発により8人が死亡し376人が負傷

 

出典:https://cdn-ak.f.st-hatena.com/

 

12時45分少し過ぎ時限爆弾が炸裂。爆風が立ち並ぶビルのガラス窓を吹き飛ばし、割れ散ったガラス片が多くの通行人がいた道路上に満遍なく飛び散りました。

 

爆心地のフラワーポット付近のコンクリート床には直径30cm深さ1メートルもの穴が開き、正面玄関のサッシ枠は路上に吹き飛ばされて、天井の合金製板も崩れ落ちていました。

 

現場は一瞬で阿鼻叫喚の地獄と化し、爆心地付近で見つかった7体の遺体はほぼ即死状態で、20メートルほど離れた場所で巻き込まれ負傷した男性も搬送先の病院で翌日に死亡が確認されました。

 

周辺ではガラス片を浴びるなどした負傷者が続出。最終的に重軽傷者は376人にも上りました。

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三菱重工爆破事件後

 

三菱重工爆破事件に前後して、2つの過激派グループが「東アジア反日武装戦線」に加わりました。

 

1つは斎藤和と浴田由紀子の「大地の牙」グループで、「三井物産爆破事件」、「大成建設爆破事件」、「間組爆破事件」、「オリエンタルメタル社・韓国産業経済研究所爆破事件」などを実行犯としてひきおこました。

 

もう1つは、桐島聡、黒川芳正、宇賀神寿一の「さそり」グループで、「鹿島建設爆破事件」、「間組爆破事件」などを引き起こしました。

 

東アジア反日武装戦線による連続企業爆破事件は、1974年8月から1975年5月まで約10ヶ月間にわたって立て続けに起こりましたが、警視庁公安部による捜査で犯人らが特定され1975年5月19日に主要メンバー7人(大道寺将司、大道寺あや子、佐々木規夫、片岡利明、斎藤和、浴田由紀子、黒川芳正)が逮捕されました。

 

大道寺あや子も逮捕起訴されましたが、裁判が続いていた1975年8月、日本赤軍がマレーシアのアメリカとスウェーデン大使館を占拠し人質を取る「クアラルンプール事件」を起こし勾留や服役状態の活動家の釈放を要求。これによってまず佐々木規夫が釈放され逃亡します。

 

さらに、1977年9月28日、日本赤軍は「ダッカ日航機ハイジャック事件」を起こし、再び活動家の釈放を要求し、大道寺あや子と浴田由紀子が釈放され国外に逃亡しています。

 

 

 

大道寺あや子は現在も国際指名手配中

 

出典:https://www.keishicho.metro.tokyo.lg.jp/

 

日本赤軍による「ダッカ日航機ハイジャック事件」で釈放され国外逃亡した大道寺あや子は、その後日本赤軍に合流して消息を断ち、現在も国際指名手配されています。

 

国際指名手配後の1985年5月19日、東アジア反日武装戦線の支援者らが開いた集会にメッセージを寄せるなどしています。当時、大道寺あや子はイスラエルのパレスチナ自治区にいたと見られています。このメッセージの内容は仲間らを讃えた内容で全く反省している様子は見られませんでした。

 

その後、大道寺あや子は1999年に香港で日本赤軍最高幹部の重信房子と密会していた事が確認されています。以降、大道寺あや子がどこにいるのか確かな情報は現在まで出ていません。

 

大道寺あや子は存命であれば2024年2月の現在は75歳になっているはずです。

 

 

大道寺あや子は現在どこにいるのかも話題に

 

大道寺あや子が現在どこにいるのかも盛んにネット上で話題にされています。

 

大道寺あや子が現在どこにいるのかは全くわかっていませんが、一部では南米に潜伏しているのではとの噂もあるようです。

 

2001年に日本赤軍の最高幹部の重信房子が獄中から「日本赤軍としての解散宣言」を行なった際に、大道寺あや子が坂東國男(あさま山荘事件犯人)とともに「日本赤軍解散宣言無効宣言」の声明を出し、世界革命闘争を続けると発表したとの説があります。(ただし、出典不明で真偽は不明)

 

この解散無効宣言発表時、大道寺あや子らが潜伏していたのが南米だと言われていて、現在も南米に潜伏しているのではとの説があるようです。

 

ただ、警視庁公安部からそうした情報が公式に発表された事はなく真偽不明で大道寺あや子が現在どこにいるのかは全くわかっていません。

 

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大道寺あや子の旦那・大道寺将司は現在はすでに死去

 

出典:https://pbs.twimg.com/

 

大道寺あや子の旦那の大道寺将司は、連続企業爆破事件で起訴され、1987年3月24日に最高裁で死刑が確定しています。

 

しかし、共犯者の大道寺あや子らが逃亡を続けていて裁判が終了していないために、死刑は執行されませんでした。

 

大道寺将司はその後、2017年5月24日に収監中の東京拘置所で68歳で死去しています。死因は多発性骨髄腫と発表されています。

 

 

まとめ

 

今回は、1974年から1975年にかけて「連続企業爆破事件」を起こした極左暴力集団「東アジア反日武装戦線」の主要メンバーで現在も国際指名手配されている大道寺あや子についてまとめてみました。

 

大道寺あや子は、1948年10月20日生まれ、北海道釧路市の出身で、家族は大手製紙会社勤務の父親と母親、上にきょうだいが3人いる末っ子で実家は裕福だったようです。

 

大道寺あや子の生い立ちについては、小中高と成績優秀でスポーツもでき、優しい性格もあったクラスでも人気の高い生徒だったようです。

 

大道寺あや子の旦那は東アジア反日武装戦線でともに爆弾テロを起こした大道寺将司です。

 

大道寺あや子と大道寺将司は「釧路湖陵高校」の同級生で、東京都品川区の私立の薬科大学「星薬科大学」に進学した後に再会して狂信的な革命思想などで意気投合し1973年に結婚しています。大道寺あや子と旦那の大道寺将司の間に子供はいませんでした。

 

若い頃は才色兼備の魅力的な女性として学校や職場でも評判だったとされ、ネット上でも、若い頃の大道寺あや子がかわいいなどの声が見られます。

 

大道寺あや子は連続企業爆破事件後に1度逮捕されるも、日本赤軍が起こした「ダッカ日航機ハイジャック事件」により釈放されて国外逃亡して日本赤軍に合流。現在も逃亡を続けていて国際指名手配されています。

 

現在、大道寺あや子がどこにいるのかはわかっておらず、一部では南米に潜伏しているとの情報も出ていますが根拠はほとんどなく真偽不明となっています。

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