山一抗争のヒットマンやその後!山口組と一和会の抗争の真実や原因・死者と逮捕者・わかりやすく解説

国内最大の暴力団「山口組」が2015年8月に分裂し、6代目山口組・神戸山口組との抗争が繰り広げられていますが、山口組は1984年から1989年にも分裂騒動が起こし、山一抗争という暴力団抗争が起こりました。

 

山口組と一和会の山一抗争をわかりやすく解説し、山一抗争の原因や真実、死者一覧・逮捕者、ヒットマンのエピソードやその後と現在をまとめました。

山一抗争とは山口組と一和会の史上最悪の暴力団抗争

出典:ganshoji.com

 

山一抗争とは、1984年8月5日~1989年3月30日にかけて、山口組と一和会の間に勃発した暴力団抗争です。

 

山口組の三代目組長である田岡一雄と若頭・山本健一が相次いで亡くなったことで、山口組の跡目争いが起こり、そこから山口組が分裂して山一抗争に発展しました。

 

この山一抗争は、史上最悪の暴力団抗争事件と言われていて、次の事件・被害を出しています。

 

・抗争:317回
・死者:25名(29名の説もあり)
・負傷者:70人

 

2015年から山口組分裂抗争が続いていますが、その規模・被害は山一抗争の足元にも及ばないものになっています。

 

これだけの死者・負傷者を出し、さらには一般市民が抗争の巻き添えになったこともあるため、山一抗争は「史上最悪の暴力団抗争」と呼ばれています。

 

 

山一抗争をわかりやすく解説①:抗争までの背景

出典:bunshun.jp

 

山口組は、山口春吉が1915年に結成した暴力団です。しばらくは大嶋組の傘下として神戸で活動していましたが、当初は比較的穏健な港湾博徒でした。

 

1946年になると、山口組は田岡一雄を三代目に据えて、神戸だけではなく日本全国に勢力を拡大していきます。田岡一雄が三代目を襲名した時には構成員は33人だけでしたが、1965年には総員9,450名にもなる巨大暴力団になっていました。

 

その田岡一雄が1981年7月23日に急逝します。急死に近い状態でしたので、跡目に関する遺言を残すことができませんでした。さらに、その半年後の1982年2月4日には若頭だった山本健一も亡くなりました。

 

ここから山口組の跡目争いが勃発します。

 

通常、暴力団の組長が死んだ場合、その組の若頭が組長に就任します。しかし、当時の山口組には「組長代行」がいて、組長代行も組長になることを望んだのです。

 

・若頭:竹中正久
・組長代行:山本広

 

山口組の4代目組長候補は若頭・竹中正久と組長代行・山本広の2人がいて、山口組がそれぞれ「若頭・竹中派」と「組長代行・山本派」に分裂したのです。

 

1982年6月に2人の対立が明確になった時点では、「組長代行・山本派」>>>「若頭・竹中派」でした。しかし、9月に入ると地方幹部が若頭・竹中派を支持するようになり、「若頭・竹中派」が「組長代行・山本派」を逆転します。

 

1984年6月5日には、若頭・竹中正久が山口組直系組長会で四代目組長就任のあいさつをします。しかし、この組長会に、「組長代行・山本派」の20人は参加しませんでした。

 

山口組の直参は96人いましたが、この時点では次のような人数分布となっています。

 

・「若頭・竹中派」:46人
・「組長代行・山本派」:20人
・中立:30人

 

「組長代行・山本派」の20人はこの翌日に菱の代紋を事務所から外し、竹中正久の四代目組長就任あいさつの約1週間後の6月13日には山本広を会長とする一和会を結成しました。

 

これで、山口組は完全に分裂して、山口組(4代目組長・竹中正久)と一和会(会長・山本広)の対立が明確になったのです。

 

分裂当時は山口組は4,000人、一和会は6,000人という勢力で、一和会の方が優勢でした。

 

 

山一抗争をわかりやすく解説②:抗争の勃発

出典:biz-journal.jp

 

1984年8月5日、和歌山県東牟婁郡串本町の賭場で山口組系岸根組組長・岸根敏春が一和会坂井組串本支部若頭補佐・潮崎進を刺殺する事件が起こりました。

 

山一抗争のきっかけとなったこの刺殺事件は、山口組の跡目争いの末に起こったというわけではなく、単純に金銭トラブルの末の事件だったようです。

 

事件の動機・きっかけはどうあれ、この刺殺事件が山一抗争の開始の合図となり、山口組と一和会は泥沼の抗争を展開していきます。

 

8月23日には山口組組長の竹中正久が一和会に絶縁を表明しました。これで、山口組は一和会に宣戦布告をした形になりました。

 

山口組側は、お金や実力行使で一和会の切り崩しにかかります。これにより、一和会の勢力は山口組側に寝返るようになり、さらに独立団体の取り込みもあり、1984年末には山口組側の勢力は14,000人に膨れ上がり、一和会は2,800人に減少しました。

 

   山口組勢力   一和会勢力 
 1984年6月  4,000人 6,000人
1984年12月 14,000人 2,800人

 

勢力比だけで見ると、もうこの時点で山口組と一和会の抗争は勝負あったように見えます。

 

 

山一抗争をわかりやすく解説③:竹中組長暗殺事件

出典:youtube.com

 

一和会は結成当初から敗北を感じ取っていたこともあり、山口組上層部への攻撃を計画するようになりました。

 

一和会二代目山広組の若頭・後藤栄治は舎弟の長野修一を隊長に据えた、山口組への行動隊を結成しました。

 

1984年10月には一和会は、竹中正久の愛人が大阪府吹田市のマンションに住んでいることを掴み、12月にはそのマンションの部屋を借りて、山口組と組長の竹中正久の行動を監視し、さらに近くのマンションには武器の隠し場所となる部屋を借りています。

 

長野は後藤などから25口径ベレッタと25口径タイタン、32口径チーフスペシャル、38口径リボルバー、32口径改造拳銃などを受け取り、試し撃ちを行っています。

 

一和会による計画が着々と進行している中、1985年1月には竹中正久に対して賭博の罪で懲役5ヶ月の実刑判決が言い渡されましたが、病気を理由にして収監を引き延ばしていました。もし、ここで竹中正久が素直に収監されていたら、運命は変わっていて、本格的な山一抗争も起こらなかったでしょう。

 

山口組の四代目組長である竹中正久は実刑判決を受けていたものの、収監を引き延ばし、1985年1月26日には、山口組の若頭・中山勝正とボディーガード役の山口組南組組長・南力と共に、竹中の愛人が住むマンションに到着しました。

 

そのマンションのエレベーター前には一和会のヒットマン3人が待っていました。ヒットマンがからの襲撃によって、南はその場で即死、若頭の中山は騒ぎを聞きつけて部屋から出てきた竹中の愛人に発見されて救急搬送されましたが、数時間後に死亡しています。

 

そして、山口組組長の竹中正久は、3発の銃弾を受けますが、自力でベンツに乗り込んで、運転手の組員に命じて南組の事務所に向かわせました。そして、そこから用意していた救急車に乗せられて大阪警察病院に搬送されます。

 

竹中は9時間にも及ぶ大手術を受け、集まった組員たちは病院前で輸血を申し出るなど病院前は騒然となりましたが、銃撃を受けた翌日の1月27日に死亡しました。

 

この一和会による襲撃で、山口組は組長と若頭、つまり山口組のNo.1とNo.2を一度に失ったことになります。

 

 

山一抗争をわかりやすく解説④:山口組側の報復

出典:takabeya.com

 

組長と若頭を一度に失った山口組は、まずは組織の立て直しを図ります。2月5日に直系組長会を開き、次の人事が決まりました。

 

・四代目山口組組長代行:中西一男(元舎弟頭)
・若頭:渡辺芳則(元若頭補佐)

 

山口組の人事が決まり、組織が安定したのを機に、山口組は一気に一和会への報復を始めます。

 

<山口組から一和会への報復>
・2月19日:一和会後藤組若頭の吉田清澄を拉致・暴行
→後藤が山口組に「自分が自首する代わりに許してほしい」と詫びを入れる
・2月23日:一和会中井組の3人を襲撃(2人射殺、1人重傷)
・3月5日:一和会溝橋組幹部の大岩正弘が背中を撃たれる
・3月6日:三重県四日市市で一和会幹部2名が胸と腹を撃たれて死亡
・3月24日:一和会組員が足を撃たれてケガ
・3月24日:甲子園球場の駐車場で一和会の相談役の長男を射殺
・4月4日:一和会組員1名を射殺、ほかの組員がケガ
・4月12日:名古屋市内のレストランで一和会幹部を拉致して、1名射殺、1名重傷
・4月14日:一和会幹部が銃撃を受け、組員2名が負傷
・5月11日:一和会水谷一家總長宅に拳銃7発が撃ち込まれる
・5月20日:大型ダンプカーで一和会会長の山本広宅に突っ込み機動隊との銃撃戦

 

<一和会から山口組への反撃>
・3月17日:山口組の事務所に侵入し組員を射殺
・4月23日:山県組組員に発砲し3人が負傷、一般市民も負傷

 

山口組から一和会への激しい報復があり、身の危険を感じた一和会会長の山本広は自宅から一歩も出ることができなくなり、一和会の指揮系統は壊滅、さらに勝敗はついたも同然の状態でした。

 

ただ、一和会トップの山本広の身柄を押さえられなければ、山一抗争は終わりません。

 

そして、1985年8月には神戸でユニバーシアード大会が行われる予定となっていたため、元神戸市長の中井一夫や稲川会会長の石井隆匡などの仲介で、1985年7月末から9月末までの2ヶ月間は休戦することになりました。

 

 

山一抗争をわかりやすく解説⑤:稲川会による仲介・終焉

出典:youtube.com

 

休戦後もまだまだ山一抗争は決着せず、泥沼化していきましたが、まず終結のために動いたのは山口組での一和会でもなく、外部勢力の関東二十日会や関東神農同志会でした。

 

山一抗争が激化する中で、暴力団の資金源である的屋の出店場所である寺社仏閣が暴力団排除を進めたため、これ以上山一抗争が続くと、シノギがなくなってしまうためだったようです。

 

また稲川会会長は、山口組の組長代行・中西一男と若頭・渡辺芳則らに直接、山一抗争の終結を打診し、山口組としてもこれ以上警察に介入されると厄介だったために、終結に向けて動き出しました。そして、1年以上かけて内部折衝を行い、1987年2月8日にようやく終結の指示が出されました。

 

一和会側も山一抗争の終結を了承し、表面上はようやく山一抗争は終結しました。山口組のほぼ完全勝利と言える結末です。

 

 

山一抗争のその後①:竹中武の反乱

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1987年2月に、山一抗争は終結しましたが、それはあくまで表面上のものでした。

 

山口組の中には、抗争終結に反対する勢力もいたのです。その代表が、暗殺された山口組4代目組長・竹中正久の実弟である竹中武です。

 

竹中武は山一抗争中の1984年8月にハワイのマフィアたちからロケット砲や機関銃の購入を持ち掛けられ、その話に乗ったために、連邦麻薬取締局に逮捕されました。武器購入を持ち掛けてきたマフィアたちは連邦麻薬取締局のおとり捜査官だったんです。ただ、1986年に無罪判決で釈放されました。

 

そんな経緯があったため、竹中武は実兄が暗殺されたというだけでなく、山一抗争に思いっきり参加できなかったという物足りなさがあったのかもしれません。抗争終結に反対した竹中武は、山口組の指示を無視する形で、組員を使って1988年に一和会会長の山本広の自宅を襲撃し、警察官を負傷させました。

 

その後、竹中武は山口組を離脱することになっています。

 

 

山一抗争のその後②:一和会の解散

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山一抗争のその後は、一和会は解散に追い込まれました。山一抗争が終結した後、一和会はその後もしばらく存続します。

 

ただ、竹中武ら抗争終結反対派によって襲撃は続いていました。また、山口組からも圧力がかかるようになり、一和会の幹部である加茂田重政や松本勝美は引退・組の解散に追い込まれます。

 

1988年には200人程度の規模に縮小し、1989年3月19日には山本広は引退と一和会の解散を宣言しました。

 

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3月30日には稲川会本部長に付き添われて、山口組本部に出頭・謝罪し、この出頭・謝罪によって、山一抗争は完全に終結となっています。

 

 

山一抗争のその後③:暴力団取り締まりが強化

出典:bunshun.jp

 

山一抗争の影響によって、警察による暴力団取り締まりは強化されています。それまでも、暴力団による抗争はたびたび勃発していました。しかし、一般市民は巻き込むことはありませんでした。

 

しかし、山一抗争では一般市民にけがを負わせ、神戸で行われたユニバーシアードにも影響を与えるなど、市民の日常生活にも大きな影響を及ぼしたのです。

 

その結果、警察の暴力団の取り締まりは厳しくなり、社会的に暴力団を排除する動きが強まりました。

 

・暴力団員による不当な行為の防止等に関する法律が制定される
・全国暴力団取締り主管課長会議では警察庁長官が山口組壊滅のための指示
・公共施設での暴力団の締め出し

 

現在のような、暴力団排除の動きが本格化したのは、山一抗争後と言えるでしょう。

 

 

山一抗争の原因

出典:youtube.com

 

山一抗争の原因は、山口組の跡目争いです。山口組三代目組長の田岡一雄が急逝し、さらに若頭の山本健一も半年後に死亡したことで、組長代行の山本広と若頭の竹中正久の間で跡目争いが生じ、山口組が分裂しました。

 

次の2つの要因が山一抗争の原因につながったと考えられます。

 

・組長と若頭が相次いで亡くなった
・田岡文子が三代目姐に認定された
 
カリスマ的存在の田岡一雄が急逝、さらに若頭も死亡。それから田岡一雄の妻である田岡文子が警察から三代目姐に認定されたことで、跡目争いがバタバタし、山一抗争につながったと言えるでしょう。

 

 

組長・若頭の死

山口組三代目組長の田岡一雄は、山口組を全国区の暴力団に成長させたカリスマであり、山口組の中で絶対的な権力を持つ支配者でした。山口組の中で田岡に意見できる者はいませんでしたし、表立った対立が起こることもありませんでした。

 

ただ、若頭補佐・菅谷政雄が山口組から絶縁処分を受ける事案が発生した時、山本広はこの事案をうまく収拾することができず、その尻ぬぐいを竹中正久が行ったことがありました。このことで、竹中正久は山本広のことをあまり良くは思っていなかったようです。

 

そのような中、三代目組長の田岡一雄が1981年7月23日に急性心不全で68歳で亡くなりました。以前から体調不良はあったものの、小康状態を保っていたためきちんとした遺言を残すことはできませんでした。ただ、跡目は若頭である山本健一に決まっていたので、この時点では大きな問題は起こりませんでした。

 

しかし、田岡一雄が亡くなった時、山本健一は刑務所に収監されていて、組長に就任することはできていませんでした。

 

そして、そのまま田岡の死去から半年後の1982年2月4日に山本健一も死亡します。

 

山口組は組長も若頭もいないという異常事態に陥るのです。

 

 

三代目姐問題の勃発

組長も若頭もいない状態で、1982年6月5日に山本広が組長代行に就任します。しかし、その後すぐの6月14日に、兵庫県警は田岡一雄の妻である田岡文子を「三代目姐」と認定しました。
警察は田岡文子を「事実上の山口組の組長」として認定したことになります。

 

文子は田岡死去後、統制の乱れが危惧された山口組内で組長と同等の権威を備えているとして、兵庫県警が「3代目姐」と認定していた。権威だけでなく事実上、権力を掌握し山口組を率いていた「首領」との位置付けだった。

 

引用:(2ページ目)40人の若い衆に「お前たち、 大人数で騒いで恥ずかしくないのか!」警察幹部も感心した組長の妻“姐さん”の胆力 | 文春オンライン

 

暴力団にとって、女性がトップであると公に晒すのは大きな恥でした。確かに、組長代行がいるのに、警察からは、田岡一雄の妻が首領と認定されることは恥ずかしいことですよね。

 

組長代行の山本広はこの異常事態を収拾すべく、組長になることを立候補します。

 

しかし、若頭に就任した竹中正久はそれに反対します。そして、自分も組長になることに意欲を見せました。山口組の中で大きな影響力を持っていた田岡文子は、山本広ではなく竹中正久を支持したことで、竹中正久が山口組4代目組長への就任が発表されたのですが・・・。

 

この時点で、山口組は組長代行・山本広派と若頭・竹中正久派に分裂し、山一抗争が繰り広げられることになりました。

 

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結局は山口組側である若頭・竹中正久派(竹中自身は暗殺されたが)の圧勝で終わりますが、山口組が圧勝できたのは、田岡文子が支持を得たからと言われています。田岡文子が指示したことで、直参が山口組側についたし、稲川会からの支持も得ています。

 

 

田岡文子の意向?

山一抗争の原因は、三代目姐の田岡文子の意向があったという情報もあります。

 

一和会の幹部だった加茂田重政氏は、「順番的には山本広が4代目になるはずだった」と証言しています。しかし、三代目の田岡一雄の妻である田岡文子が竹中正久をかわいがっていたから、無理やり竹中を4代目に据えたようなんです。

 

「三代目の遺言」とかいう例の話やけどな、そんなの絶対ない。いまさら言うても詮無いことやけど、ほんまは山広が継ぐのが筋やろ。よりはっきり言えば、山広に順番がまわってきとった。それをあの人が勝手に決めたんやないか。それを「三代目の田岡の親分の遺言や」と言うて。姐さんのせいで一和会となったいう話もあるけれども、それはたしかやろ。姐さんが竹中を可愛がりよったからな。

 

引用:懐に手榴弾を忍ばせて…「首を縦に振らなかったらピンを離すぞというわけや」山一抗争の主要人物が語る、抗争勃発の“裏側” | 文春オンライン

 

もちろん、この証言は一和会側の人間のものなので、それを全部鵜呑みにするわけにはいきませんが、田岡文子が山一抗争のキーパーソンであったことは間違いないでしょう。

 

四代目に誰が就任するかは田岡文子の意向が大きく働いていて、本来の順番も覆すことができるほど三代目の田岡一雄亡き後、山口組の中で三代目姐の田岡文子が大きな権力を持っていたということですね。

 

ということは、山一抗争の原因はやはり「田岡文子」という存在が関係していたと言えるかもしれません。

 

 

山一抗争の真実:犯人は警察?

 

出典:huffingtonpost.jp

 

山一抗争の原因は山口組の跡目争いですが、真実は違うところにあるという説もあります。山一抗争の犯人は警察ではないか?という噂があるんです。山一抗争は警察が仕組んだ山口組と一和会の抗争であるという説ですね。

 

なぜ、「山一抗争の真実は警察が犯人」という説が出たのでしょうか?それは、警察にとって良い方向に事態が展開していったからです。

 

そもそも、山一抗争の原因の1つとなる「三代目姐問題」。これは、兵庫県警が山口組の跡目争いが勃発していることを知って、田岡文子を三代目姐に認定しました。

 

山口組の組長と若頭が相次いで死亡し、跡目争いが生じていることを警察は知っていました。また、暴力団の不文律として「女性を表に晒すのは恥」という考えがあったことも知っていたはずです。

 

そのような中で、警察は田岡文子を三代目姐に認定したのです。

 

これは、山口組の跡目争いに「火に油を注ぐ」ようなものですよね。警察は山口組の分裂を狙って、三代目姐認定を行った可能性があります。

 

また、山口組四代目組長の竹中正久は一和会によって暗殺され、再び組長・若頭不在という異常事態に陥りますが、この事件についても警察に良い方向に動きました。山口組トップが暗殺されたことで、山一抗争は本格的になっていき、双方の弱体化につながっていくのです。

 

この山一抗争では両者合わせて20億円の資金がつぎこまれ、さらに旧来の資金源が機能しなくなったことで、山一抗争による山口組・一和会の経済的な損失は500億円だったと言われています。また、弱体化を狙ったため、警察は山一抗争を厳しく取り締まらずに長期化させたとも言われています。

 

警察から見ると、山一抗争は山口組・一和会を弱体化させた好都合の内輪揉めということができるんです。だから、山一抗争の真実は警察が犯人と言われるんですね。

 

 

山一抗争の死者一覧

出典:amazon.co.jp

 

山一抗争での死者は25人とも29人とも言われています。山口組側・一和会側、それぞれの死者を一覧にしてまとめました。

 

<山口組>
1985年1月26日:組長・竹中正久
1985年1月26日:若頭・中山勝正
1985年1月26日:南組組長・南力
1985年3月17日:山口組系豪友会内岸本組組員・吉門正光
1985年4月23日:山健組内高橋組々員・川崎竜夫
1985年5月5日:岸本組内南野組々員・西村賢次
1986年2月27日:山口組系竹中組内柴田会組員・井垣道明
1986年2月27日:山口組系竹中組内柴田会組員・星山勲
1987年6月13日:山口組系山健組内中野会副会長・池田一男

 

<一和会>
1984年8月5日:一和会系坂井組串本支部若頭補佐・潮崎進
1985年2月23日:一和会系中井組本部長補佐・横川政博
1985年2月23日:一和会系中井組組員・日浦寿
1985年3月6日:一和会系水谷一家元相談役清水幹一
1985年3月17日:一和会特別相談役大川覚の長男(カタギ)
1985年3月25日:一和会系井志組内高橋組の相談役
1985年4月4日:一和会系中井組々員・門屋義之
1985年4月12日:一和会系水谷一家内隅田組幹部・中本昭七
1985年4月23日:一和会系松美会内光山組々長・光山勝治
1985年5月5日:奥原組若頭・佐々木俊彦
1985年6月23日:一和会系山広組幹部・岩附秀雄
1985年10月27日:一和会幹事長補佐・赤坂進
1985年10月27日:赤坂組々員・田中義昭
1985年12月20日:一和会系中川連合会内愛国青年同盟の幹部・戸田昇
1986年1月21日:一和会系加茂田組内小野会々長小野敏文
1986年1月22日:一和会系松美会内吉田組々員・松岡勤
1986年2月2日:一和会系加茂田組内大響会組員
1986年月21日:一和会副本部長・中川宣治
1987年2月2日:一和会常任顧問・白神英雄
1987年6月22日:一和会系宮脇組内首竜会々長・首沢元人
1988年1月3日:山広組事務局長・浜西時雄
1988年4月11日:一和会系加茂田組内二代目花田組・丹羽勝治組長
1988年10月1日:一和会系神竜会組員・山下竜二

 

これだけたくさんの人が山一抗争で死亡したんですね。山一抗争がいかに激しいものだったかがわかります。

 

 

山一抗争の逮捕者は?

出典:huffingtonpost.jp

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山一抗争では、逮捕者は560人にも及んでいます。しかも、この「逮捕者」というのは、山一抗争での「直接」の逮捕者になります。

 

ということは、直接ではなく間接的に関わっていた逮捕者を含めると、さらに逮捕者は増えるはずです。

 

山一抗争での抗争事件は317件ですから、1つの事件に複数人が関わっていたとなると、やはり逮捕者はかなり多くなることは間違いありません。

 

山一抗争のヒットマンたち

山一抗争では、たくさんのヒットマンたちが犯行に及びました。ヒットマンたちのエピソードやその後などをまとめました。

 

 

竹中組長暗殺のヒットマン

出典:huffingtonpost.jp

 

山口組4代目組長の竹中正久を暗殺したヒットマンは長野修一です。実際に銃撃したのは、田辺豊記・長尾直美・立花和夫の3人ですが、実行部隊の隊長を務めていたのが長野修一でした。

 

長野修一は一和会二代目山広組若頭・後藤栄治から竹中組長の暗殺の行動隊長に任命され、武器を受け取って拳銃の試し撃ちなどを行い、実行犯のヒットマンたちをまとめ上げていました。

 

そして、暗殺事件の当日も、長野修一は現場にいました。銃撃こそ行っていないものの、現場にいたことは間違いありません。なぜなら、竹中組長が乗った車に轢かれているからです。

 

竹中組長は3発の銃弾を受けましたが、自力で車に乗り込んで、車でその場から離れていますが、その時の車に長野修一ははねられて、その場で逮捕されました。

 

その後、無期懲役の判決を受け、熊本刑務所に収監されています。熊本刑務所では竹中組の関係者から暴行を受けたこともあったそうです。

 

長野さんは94年にクマケイで竹中組の関係者から暴行を受けていて、これは私も聞いたことがありました。当時は長野さんとは存じませんでしたが、この件について長野さんは「これは褒めてやりたい。私も立場が逆なら同じことをしてます」と書いていて、さすがという感じでした。

 

引用:四代目山口組組長射殺事件の“ヒットマン”からの手紙――元極妻が語る、「人殺し」ヤクザの心情(2020/06/21 16:00)|サイゾーウーマン

 

2020年時点ではまだ熊本刑務所に収監されていますが、仮釈放に向けての面接も行っているとのことで、もしかしたら仮釈放されているのかもしれません・・・。

 

それにしても、刑務所の中で暴行を受けるなんて、映画やドラマの中だけのことだと思っていましたが、実際にそのようなことがあるんですね。

 

 

女装したヒットマン

出典:youtube.com

 

山一抗争では、女装したヒットマンも登場しました。

 

鳥取県倉吉市に山口組系の竹中組傘下である輝道会があり、その組員の山本尊章と清山礼吉は一和会の幹部であり倉吉市に拠点を持つ赤坂進に狙いを定めました。

 

清山礼吉は小柄で雰囲気が子どもっぽく、スナックに行った時に遊び半分で女装をしてみたら似合っていると言われたことから、女装をして赤坂に近づく計画を立てます。

 

ソープランドで働く知り合いの女性から服やアクセサリー、メイク道具などを借りて女装の練習をして、半年後にはかつらを使うまでになっていました。

 

そして、女装が板につくようになると、赤坂が時々来店するスナックにホステスとして入り込みました。そして、赤坂が来店した時には接客するようになり、少しずつ距離を縮めていきました。清山礼吉は赤坂とホテルに入った時に刺し殺してやろうと考えていたようです。

 

しかし、1985年10月27日に思わぬチャンスが訪れます。清山は赤坂に営業の電話をかけ、赤坂が来店することになりました。清山は兄貴分の山本尊章に赤坂が来るので襲撃の準備をするように伝えます。山本はスナックのカウンターに座り、赤坂襲撃のタイミングを計っていました。

 

赤坂が店を出ようと席を立ったその時、山本は赤坂とボディガード役の組員に発砲し、発砲音を聞きつけて駆け付けた組員を清山が刺しました。この襲撃で山本に発砲された赤坂と組員は死亡、清山に刺された組員は重傷を負っています。

 

半年以上かけて女装をして、ターゲットが来るスナックで働き、ターゲットに近づいて襲撃チャンスを待つなんて、ものすごい執念ですよね。

 

女装したヒットマンなんて、映画でも出てこないような設定のように思いますが、現実にもあるんですね。

 

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また、いくら小柄とはいえ、やくざ者の男が女装してスナックのホステスをしているなんて、客は「なんか声が野太い?」、「仕草ががさつ?」、「なんか変じゃない?」と思わないものなのでしょうか?

 

ヒットマンの清山礼吉はとんでもない美少年で、女装ががっちりハマるタイプだったのかもしれませんが、ターゲットの赤坂があまりにも鈍感なタイプで、「女ならだれでも良い」という感じだったのかもしれません。

 

 

ヒットマンが組長に出世

出典:youtube.com

 

山一抗争当時、ヒットマンとして一和会会長宅を襲撃した罪で逮捕され、実刑判決を受けたことがあるヤクザが、約30年後の2016年にも逮捕された事件がありました。

 

逮捕されたヒットマンは、30年後には山口組直系の竹中組の組長に出世していて、親戚の家に拳銃5丁・散弾銃1丁・実弾80発を隠し持っていて、銃刀法違反の疑いで逮捕されたのですが、なぜか処分保留で釈放されています。

 

山一抗争でヒットマンとして逮捕されたヤクザが30年後には山口組直系の組長に出世しているなんて、当時「出所後は悪いようにはしないから、ヒットマンになってくれ」などの口約束があったのでしょうか?

 

 

山一抗争の現在:山口組分裂抗争再び

出典:nikkan-gendai.com

 

山一抗争は山本広が一和会の解散を宣言し、山口組本部に出頭して謝罪したことで終結しました。

 

その後、山口組は1989年に渡辺芳則が山口組5代目組長に就任し、新たな体制で再出発しています。1992年には直系組織数が120超という大組織に成長しました。5代目体制中の1995年1月17日には阪神淡路大震災が起こりましたが、この時は組織を挙げて災害救援活動を展開し、本部前で炊き出しを行うなど、地域貢献をしています。

 

しかし、5代目が2005年7月に引退を表明して、若頭だった司忍が6代目に就任すると、山口組は再び分裂抗争の事態に陥りました。

 

2015年に6代目の司忍らの出身母体にあたる名古屋の弘道会と関西地方の山健組を筆頭とする諸団体との間で不協和音が生じ、6代目山口組と神戸山口組に分裂し、2015年9月から2016年3月までに23都道府県で86件の抗争事件が発生しています。

 

さらに2017年には神戸山口組から任侠団体山口組が分裂し、山口組は事実上3つに分裂しました。この山口組の分裂抗争は2023年時点でも収束しておらず、山口組は兵庫、愛知、大阪、京都、岐阜、三重の6府県の公安委員会により特定抗争指定暴力団に指定されています。

 

 

山一抗争のまとめ

山口組と一和会の山一抗争の詳細な経緯やその後、山一抗争の原因や真実の犯人、死者一覧、逮捕者の数やヒットマンエピソードと現在などまとめました。

 

山口組の跡目争いで勃発した山一抗争ですが、キーパーソンは三代目姐の田岡文子だったことは間違いありません。田岡文子の存在が山一抗争が始まるきっかけでもあり、山口組側が勝利する要因でもありました。

 

山一抗争は死者約30人、逮捕者560人を出す史上最悪の暴力団抗争事件でした。現在も山口組は分裂抗争を行っていますが、一般市民に被害が出ないうちに終息してほしいですね。

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