青ヶ島の現在!いじめ/事件/島流しなど怖い話・出身の芸能人・女性が語る今・地図と行き方を総まとめ

青ヶ島は伊豆諸島に位置する島で、日本の有人島のなかでもっとも島民数が少ないことで知られます。この記事では青ヶ島の場所や地図、行き方、怖い話、島流しはあったのか、いじめの噂や事件、出身芸能人、島在住女性の語る島の現在について紹介します。

青ヶ島の場所・地図と概要

 

 

青ヶ島は伊豆諸島に位置する総面積5.97km²の小さな島です。東京都に所属していますが本州とは距離があり、東京港のフェリーターミナルからは約360km、もっとも近い島である八丈島からも約68km離れています。

 

温暖湿潤な気候ですが孤島であるため風を遮るものがなく、海から吹き込む強風に常にさらされる、天候がかわりやすいといった特徴も持ちます。

 

青ヶ島は日本一人口が少ない有人島としても有名です。2022年1月の時点で島の総人口は165名と発表されており、年々世帯数が減り続けているといいます。

 

島内には小学校・中学校までの教育機関はあるものの、高校など義務教育以上の教育機関がありません。そのため、中学卒業後に島を離れる学生や世帯が多いことも人口減少の一因とされています。

 

また火山島でもあり、島北部の黒崎火山と島南部の主成層火山からなる青ヶ島火山は気象庁指定の火山活動度ランクCの活火山にも指定されています。

 

 

 

青ヶ島の人口推移

 

青ヶ島の住民がもっとも多かったのは1881年(明治14年)のことで、この年に最大人口754人を記録しました。

 

その後、年に2回小笠原へ行く船が青ヶ島に寄港するようになり、小笠原諸島の島々に島民が流出して島民は400人前後まで減ったとされます。

 

さらに1905年(明治38年)に東海汽船のマミノエ丸が青ヶ島に寄港するようになり、青ヶ島も本土との交流が可能になりました。

 

しかし、インフラ整備の遅れなどから青ヶ島の住民は400人から減り始め、2005年以降は214人、201人、178人、169人、165人と減り続け、この割合で人口が減少していくと2050年には人口100人を割り込むのではないかと予測されています。

 

出典:https://blog.goo.ne.jp/

 

島民の年齢層は15歳から64歳が約70%を占め、15歳未満と65歳以上がそれぞれ15%ずつとのことです。

 

 

 

青ヶ島の歴史と島を揺るがした事件① 青ヶ島還住

 

出典:https://ja.wikipedia.org/

 

青ヶ島がいつ、どのようにして人間に発見されて、他の土地から移住がはじまったのかは明らかになっていません。

 

八丈島など伊豆諸島の他の島々からは縄文時代や弥生時代の遺跡が出土していますが、青ヶ島からは中世以前の遺物がいっさい発見されていないため、中世以前には定住者がいなかった可能性も指摘されています。

 

この島の存在歴史資料に登場するのは15世紀になってからのことで、それも海難事故の記録ばかりであり、島民の生活などについては不明です。

 

青ヶ島の周囲には黒潮が流れていて波が荒いうえに、島そのものも高い海食崖に囲まれているために船での上陸が難しく、本土や他の島への行き来が困難であることから定住者が現れなかったのではないかと考えられています。

 

そんな青ヶ島の歴史のなかで、もっとも大きな事件となるのが1785年(江戸・天明5年)に起こった天明の大噴火です。

 

 

大噴火が起きる前の青ヶ島

 

出典:https://www.vill.aogashima.tokyo.jp/

 

1780年7月19日から23日まで、青ヶ島は6日間に渡って群発地震に襲われました。そして地震が収まった後の27日に池之沢に噴火口が出現し、大量のお湯が吹き出すという異変が生じます。

 

このお湯は海水が温まったものであり、お湯に飲み込まれた田畑は甚大な被害を受けることとなりました。

 

さらに噴煙も噴き出したことからいっそう被害は拡大し、島名主の七太夫は被害を報告するために八丈島に渡ります。

 

しかしこの時は八丈島役所が見聞調査をしたものの大きな被害はないと判断されて、青ヶ島の農民も通常の年貢を収めたそうです。

 

その後、1781年の4月までは池之沢の噴火も落ち着いていましたが、5月になると火山灰を噴出する噴火が発生します。

 

この噴火による島全体が噴煙に覆われ、池之沢内の水位が急上昇。そしてその後に一気に水が引いて土壌が流出してしまったことから、島内の農耕地が岩だらけになってしまったのです。

 

この被害を受けて1782年には韮山代官所の手代(農政を担当した下級役人)と名主の七太夫が青ヶ島の被害状況を確認しましたが、この時には池之沢の噴火も収まっており、耕作地の復興が行われていたとされます。

 

 

大噴火が発生

 

出典:http://free-photo.net/

 

しかし、1783年に入るとこれまでになかった規模の噴火が被害から回復しつつあった青ヶ島を襲います。

 

2月には島北部の神子浦(みこのうら)が崩壊を起こし、舞い上がった土砂で田畑が埋もれるという惨事が発生したのです。

 

3月9日には群発地震が発生するようになり、池之沢から出現した噴火口が大噴火を起こし、灼熱した噴石が島内に降り注ぎました。

 

そして噴火時に池之沢付近にいた島民14名(記録によっては7名)が死亡し、61棟の家屋が焼失。巻き上がった火山灰で島全体は暗闇となり、地面にも灰が厚く降り積もりました。

 

そしてこの火山灰のせいで島中の農耕地が壊滅的な被害を受け、水源も灰で埋まってしまったのです。そのため雨が降ると灰混じりの水が水源から流れ出し、生き残っていた家屋まで押し流されるという二次被害まで発生したのでした。

 

この大噴火は相当な規模のものであり、約68km離れた八丈島からも噴煙があがる様子が見えたそうです。

 

 

全島民の避難

 

出典:https://ja.wikipedia.org/

 

青ヶ島を覆う黒煙はなかなか収まらず、また黒潮の流れも激しかったことから噴火直後の島周辺は船が近づくこともできないような有様でした。

 

3月後半になってやっと青ヶ島名主の七太夫が八丈島役所に大噴火の被害を報告し、七太夫と島民たちは「食べるものもない、水さえない、農地も灰に覆われた青ヶ島で暮らすことは不可能であり、八丈島に避難したい」という申し出をしました。

 

これを受けた八丈島役所は4月10日に青ヶ島へ視察へ向かい、火山灰によって食糧難に陥り、住む家すら失った島民の深刻な生活状況と、壊滅的な被害を受けた自然環境を確認します。

 

幕府も当然のことながら青ヶ島の島民には年貢の免除を言い渡し、米などの食糧を送りました。しかし、これで立ち直れるわけもなく、八丈島役所は青ヶ島の全島民を八丈島に避難させる決定を下します。

 

 

さらなる悲劇が島民を襲う

 

出典:https://pixabay.com/

 

こうして4月27日には八丈島から3隻の救助船が到着し、青ヶ島の島民の避難が開始します。この救助船も降りしきる火山灰と噴石、黒潮の激流のなか、なんとか青ヶ島にたどり着いたような状況でした。

 

救助船が着いた時、青ヶ島の島民たちは海の浅瀬に身体をつけて、どうにかして噴火の熱に耐えようとしていたといいます。

 

当時、青ヶ島には約200名の島民がいました。しかし、3隻の救助船に全員を乗せることは困難でした。

 

そのため体力のない高齢者や子どもは我先にと救助船に群がる大人に追いやられ、乗船できずに灼熱の火山灰が降り注ぐなか、なんとか乗せてもらおうと船を追いかけて溺れる者、浜辺に取り残されて乗せてくれ、戻ってきてくれと泣き叫ぶ者が大勢出たそうです。

 

無理に船べりにしがみついてくる者もいたそうですが、ナタで手を切り落とされて海に沈んでいったといいます。

 

青ヶ島は絶海の孤島であり、避難しようにも外部からの助けがなければ困難な状況でした。

 

逃げる場所もなく、空からは昼夜問わずに熱された火山灰が降り注ぎ、餓死寸前という状況にあって島民は心身ともに限界だったのです。

 

家族や友人さえ押しのけて我先に船に乗りたい、とにかく助かりたいという島民が船に押し寄せ、体力のない者が灼熱の青ヶ島に置き去りにされるという地獄絵図が展開されました。

 

そうして最終的に救助船に乗れたのは、108名の島民と1名の流人の合計109名だけだったといいます。

 

避難当時の資料には残されていませんが、当時の島民の過半数が青ヶ島に取り残された後、全員死亡したことが確認されています。

 

 

八丈島への避難

 

出典:http://geo.d51498.com/

 

先んじて調査船で救助されていた人や、大噴火の前から八丈島にいた人などをくわえて約200名の青ヶ島島民が八丈島で暮らすこととなりました。

 

しかし、当時は八丈島も大飢饉に襲われて死者が出るような有様であり、避難してきた青ヶ島島民の暮らしも苦しいものでした。

 

名主の七太夫が江戸に救援依頼に向かったことで米や麦、大豆などを乗せた船が八丈島に送られましたが、そのうちの1隻は島に着く前に八丈島沿岸に激突して大破し、これに乗っていた七太夫も死亡してしまいます。

 

このようななか、1786年に高村三右衛門が私財の500両を青ヶ島島民救済のために寄付し、その一部が青ヶ島の復興に充てられることとなります。

 

しかし、噴火後に定期的に行われていた調査では青ヶ島に再び人が住めるようになるには最低でも4〜5年の時間がかかるとのことで、島民は苦しいなか八丈島での生活を続けざるを得ませんでした。

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青ヶ島復興への道のり

 

出典:https://pixabay.com/

 

1789年に新しく青ヶ島の名主となった三九郎は島の調査を行い、青ヶ島復興計画を立て始めました。三九郎は全員をいっぺんに帰還させるのではなく、まずは少数の島民で島に戻り、復興作業の段階ごとに島民を増やしていこうと考えます。

 

ちょうどこの頃、江戸幕府から257両の青ヶ島復興支援金が出たこともあり、三九郎は食糧や道具などを買い揃えて青ヶ島復隊を編成。1793年7月12日には島民12名が青ヶ島に戻り、島の復興が始まったのです。

 

しかし、復興隊は上陸早々、人がいなくなった島で生き延びて大繁殖したネズミに悩まされることとなります。

 

ネズミはやっと実をつけた麦や粟のみならず、復興隊が持ち込んだ食糧も食い荒らしてしまいました。

 

駆除しても駆除してもまったく減らないねずみに困った復興隊は、地中で実のなる根菜類ならばねずみの被害に遭わないのではないかと考えて、隊員のうち5名を八丈島に送り、種芋を手に入れてこようとします。ところがこの5名は、遭難したのか途中で行方不明になってしまうのです。

 

この後も支援物資を乗せて青ヶ島に向かった船が続けて大破、乗船員が死亡するなどの悲劇が襲いました。

 

 

島民の帰島

 

出典:https://twitter.com/

 

その後も名主の三九郎が物資を積んだ船で青ヶ島に向かう途中に大シケにあって和歌山近くまで流されてしまい、死亡するという悲劇が起こります。

 

この後に八丈島を出た船も青ヶ島に向かう途中に和歌山近くに流されてしまい、結局、復興隊は6年近くも支援物資が届かない状況で孤軍奮闘して芋を育てるなどしてきましたが、生活に必要なものが壊れ始めたために八丈島に戻ることとなりました。

 

そして青ヶ島復興には900両を超える資金が必要なこと、復興に力を入れるほど死傷者が出ること、さらに大噴火から時間がたち、八丈島に住む青ヶ島島民のなかには島の記憶がない者(避難以降に生まれた者)も出始めてきたことから青ヶ島の復興は見送られました。

 

以降、1803年から14年の間、青ヶ島は無人島として放置され、1817年になって新しい青ヶ島名主の次郎太夫が緻密な青ヶ島復興計画を立てて最後の復興に挑むこととなります。

 

次郎太夫はとくに船の遭難対策に力を入れ、彼が名主に就任してからはあれほど多かった八丈島・青ヶ島間での海難事故もなんとゼロになったそうです。このことから次郎太夫は「青ケ島のモーゼ」と呼ばれています。

 

その後もねずみによる被害、島民間の仲間割れなどトラブルが続きましたが、1824年4月には青ヶ島の島民ほぼ全員が帰島を果たし、開墾や道路、水源の整備などが開始されました。

 

こうして大噴火から40年もの時間を経て、やっと青ヶ島に島民が戻ってきたのでした。

 

 

 

青ヶ島の歴史と島を揺るがした事件② ソ連船乗組員漂着事件

 

出典:https://pixabay.com/

 

1970年11月26日の18時過ぎ、青ヶ島の北にある神子ノ浦の沖合にソ連の科学調査船が突然姿を見せ、乗組員2名が青ヶ島に漂着するという事件が起こりました。

 

駆けつけた八丈署の青ヶ島派出所の警察官は漂着者を救助しつつ、念のために不法入国の疑いで身柄を拘束。当時は米ソ冷戦まっただ中でしたから、漂着者のふりをしたスパイという可能性も否定できなかったのです。

 

島にはロシア語を理解できる島民がいなかったため、警視庁外事1課に電話をかけ、ロシア語を話せる捜査官に対応を頼んだところ、本当に生物学者と船の機関士が漂着しただけであったことが判明。

 

しかも事故で船が壊れたなどの理由ではなく、好奇心から海流を調べようと船から出て泳いでいたら、青ヶ島まで流されたとのことでした。

 

結局2名は海上保安庁の巡視船に乗せられて科学調査船へ戻され、科学調査船も速やかに日本の領海外に出ていったといいます。

 

冷戦下にこの対応はいささか呑気すぎるのではないかという印象も受けますが、この騒動があった1970年当時、青ヶ島には電話が1つしかなかったそうです。

 

前述した島民還住から随分時間が経っていますが、やはり地理的に本土と行き来が困難であることから、近年になっても青ヶ島のインフラ整備は遅れたままだったようです。

 

 

 

青ヶ島の噂① 過去に島流しがあった?

 

出典:http://www7b.biglobe.ne.jp/

 

江戸時代、伊豆諸島は大島、八丈島、三宅島、新島、神津島、御蔵島、利島の七島が罪人の流刑地となっていたことから、青ヶ島も流刑地だった、島民にも島流しになった罪人の末裔がいるのではないかとの噂があります。

 

ただ本土に近く、島抜けして本土に逃げる罪人が相次いだために早々に大島は流刑地ではなくなり、神津島、御蔵島、利島は島の規模が小さく、罪人を受け入れる余地がなかったことから罪人が流されることはなくなったといいます。

 

そのため伊豆諸島は流刑地というイメージが強いものの、実際に流刑地として機能したのは八丈島、三宅島、新島の三島のみで、青ヶ島が流刑地になった記録はありません。

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ただ、大噴火から避難して青ヶ島にやってきた八丈島には、思想犯や重罪人など他の2つの島よりも罪の重い罪人が島流しにあっていました。

 

流罪人は島の外に出なければ特段咎められることもなかったといい、八丈島に流されてきた人々も普通に島民の手伝いなどをして生計を立てていたそうです。

 

青ヶ島から避難してきた人々も同じような暮らしをしていたとのことなので、八丈島で流罪人と交流したことくらいはあったかもしれません。

 

 

 

青ヶ島の噂② 大量殺人事件があった?

 

出典:https://twitter.com/

 

青ヶ島では過去に大量殺人事件が起きていて不吉だ、との噂もあります。

 

青ヶ島の大凸部と尾山展望公園の間の標高400mほどの高地には東台所神社(とうだいしょ)という神社があり、この神社は1757年(宝暦7年)に色恋沙汰で錯乱した名主の息子が島民7人を斧で殺害し、自らも入水自殺をした挙げ句に祟り神になったために社が建立されたといいます。

 

この神社建立のきっかけとなった大量殺人事件の顛末は、以下のようなものだったそうです。

 

青ヶ島の名主・七太夫の息子の浅の助は、島民の娘・おつなと相思相愛の関係であった。しかし、おつなには許嫁がいたことから両家の親によって2人は引き離されてしまう。

 

さて、青ヶ島には変わった風習があった。それは女性は月経の間、集落から離れた場所にある小屋で暮らすというものだ。

 

浅の助はおつながこの小屋にいる間ならば会えると思い、人目を忍んで小屋に通い、2人きりで時間を過ごした。

 

しかし、ここを出ればもう浅の助と会うことはできない、離れ離れになってしまうと悲観したおつなは、小屋を出る直前に自死を選んでしまう。

 

おつなの死を知った浅の助は激怒と悲しみの末に発狂。斧を片手に島民7人を惨殺、4人に重傷を負わせた後に海に入って入水自殺を果たした。

 

大量殺人を犯した祟り神を鎮める目的で建てられた東台所神社ですが、現在はなぜか縁結びの神様として観光客に人気が出ているといいます。

 

東台所神社には新神様、乙名様、テンニハヤムシャという3体の神様が祀られており、このうちの新神様が祟り神と化した浅の助で、乙名様は恋人のおつなのことだそうです。

 

あの世で結ばれて成仏してくれ、という願いで新神様と乙名様を祀っていることから縁結びの神社として有名になったのでしょう。

 

ただ、この神社を参拝して良縁に恵まれるには条件があり、比較的安全かつ楽な尾山展望公園からのルートではなく、急な石段を登る神社正面のルートを通らないといけないのだとか。

 

また、一緒に祀られている「テンニハヤムシャ」という神様は青ヶ島で信仰されている神様とのことですが、何者なのか、いつから信仰されているのかなどがいっさい不明の謎の神です。

 

 

 

青ヶ島の噂③ いじめや村八分が酷い?

 

出典:https://ja.wikipedia.org/

 

青ヶ島に移住するといじめに遭う、閉鎖的で村八分が酷いという噂もネット上では見られました。

 

この噂はおそらく「青ヶ島村役場いじめ解雇事件」が原因ではないかと考えられます。

 

2011年に青ヶ島の役場の職員が複数人いっせいに解雇になり、その後、不適正な事務処理を正し、なんとか職員の超過勤務手当てを捻出しようと補正予算案を作ろうとしていた職員など、何らかの理由で村長や役所の上層部に対して不利益な行動を起こしていた職員が解雇されていたことが発覚するという事件が起こりました。

 

役場職員は村を相手取って不当解雇の取り消しを訴え、2014年に職員側の勝訴が確定しています。

 

この裁判を経て青ヶ島役場がクリーンな環境になるのかと思いきや、その後も2018年には青ヶ島村役場の会計には総額2億2千万円もの不正契約があることが発覚。

 

そのうち約1億円が東京都からの交付金であったことも明らかになり、東京都が調査に乗り出す事態となりました。

 

人口200名にも満たない小さな島で立て続けに不祥事が発覚したことから、青ヶ島は行政組織が腐敗しきっている、権力者が真面目な島民を搾取する前時代的な感覚が未だに残っているというイメージを持たれってしまったようです。

 

ただ移住者をいじめる、村八分にするという習慣や島民同士の陰湿ないじめはないといい、島民は全員お互いの顔を知っているために犯罪も起こりにくいのだといいます。

 

実際に島の外から移住してきた男性は青ヶ島での暮らしについて以下のように話していました。

 

「休日は島の皆さんとバレーやサッカーを楽しんでいます。島の子供たちの優しさに癒やされますし、人も皆、温かい。村や学校の行事には島民がほぼ全員参加するんです。すごいでしょ? 船が来ないと物が届かない不便さはありますが、自分の生きる力を見つめ直す機会になります」 

 

引用:村役場が全国紙に求人広告で話題に。どんな島なのか? 人口160人の東京の秘境・青ヶ島に行ってみた

 

 

 

青ヶ島の噂④ 撮影禁止の禁足地がある?

 

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青ケ島の二重式火山の外輪山の頂上にある大里神社は、島の総鎮守であり、古くから島で信仰されてきた独特な宗教の祭祀に使われてきた場所です。

 

そのため島の聖域とされている場所なのですが、この大里神社について「撮影が禁じられている」「立入禁止の禁足地」という噂があるといいます。

 

調べてみたところ、大里神社は公式に写真撮影禁止とされているわけではなく、かつて神社で行われていた祭事や人を寄せ付けないような雰囲気から「写真を撮らないほうがいい」と囁かれるようになったようです。

 

大里神社の巫女は沖縄のユタのような存在で、大里神社で旧暦の11月25日に行われる「デイラホンの祭り」という秘祭の時に巫女が「デイラホンの呪歌」という呪歌を歌うと、死者が蘇るとされています。

 

ただ「デイラホンの呪歌」は死者を蘇らせるだけではなく、生者から生気を奪うこともあると言われており、そのせいか祭りは巫女と大里神社の社人以外は参加できないという決まりがあったそうです。

 

デイラホンというのが何を祀った神なのかは、東台所神社に祀られているテンニハヤムシャ同様に不明だといい、いつからこの秘祭が行われているのかも明らかになっていません。

 

しかしこの祭りは昭和40年代を最後に断絶しているそうで、祭祀の途絶えた大里神社はあまり手入れがされずに敷地内は雑草が伸び放題になっている様子です。

 

そのため参拝する人を拒むような不気味な雰囲気が漂い、秘祭が行われていた神社という過去も相まって「写真を撮ってはいけない」「禁足地らしい」という噂が誕生したのではないかと考えられます。

 

 

 

青ヶ島の噂⑤ 桃太郎に出てくる鬼ヶ島のモデルになった?

 

江戸時代から明治にかけて活動した民俗学者の近藤富蔵氏の著書『八丈実記』によると、かつて青ヶ島には男島(おのしま)、オフの島、鬼ヶ島、小鬼島(おがしま)、葦島という異名があったといいます。

 

しかし桃太郎伝説が生まれたのは岡山ですから、青ケ島が鬼ヶ島となると距離がありすぎます。

 

どうやら青ケ島には桃太郎の物語が終わった後に生き延びた鬼がたどり着いた場所という伝承があり、そこから鬼ヶ島という異名がついたのではないかとのことです。

 

また、鎌倉時代前期までに書かれたとされている『保元物語』では伊豆諸島に島流しになった源為朝が、鬼の子孫だと名乗る島民が住む島にたどり着き、この島に「蘆島(あししま)」という名前をつけるという話が出てきます。

 

『八丈実記』にも青ケ島の異名として葦島(あししま)という呼び名があがっていることから、為朝が流れ着いたとされる鬼の末裔が住む島は青ケ島のことで、これが鬼ヶ島の由来になったのではないかとも考察されています。

 

 

 

青ヶ島の噂⑥ 島に仙人がいる?

 

出典:https://livedoor.blogimg.jp/

 

2014年3月14日放送の『水曜日のダウンタウン』で「生まれた島から一歩も出たことがない人」を探すという企画が取り上げられ、そのなかで紹介されたのが青ケ島の仙人こと広江民和さんです。

 

取材クルーの態度に腹を立て、鎌と金槌を持って「ぶっ殺してやる」と言って追いかけてくる姿や、和解後に話した「もし大噴火が起きたら、島と一緒に終わりでいい」「両親を置いて島を出れない」といった青ケ島や家族に対する思いが話題にとなり、広江さんは一躍人気者となります。

 

その後もテレビ局やYouTuberが青ケ島を訪れては彼を取材しようとしては怒られ、まるで広江さんは著しく沸点の低い乱暴な人で、周囲とのかかわりを拒んでいる孤高の人のように取り上げられていました。

 

しかし、青ケ島での生活をYou Tubeで発信している佐々木加絵さんによると「TVでのたかみずおじ(広江さんのこと。佐々木さんとは親戚だという)の姿は嘘。本当は優しくて働き者。突撃取材のような失礼なことは辞めてほしい」とのこと。

 

仙人と聞くと他の島民とまったくかかわらずに暮らしている変わり者という印象を受けますが、実際にはそんなことはなく、佐々木さんのインスタグラムにも穏やかに笑っている広江さんの写真がアップされています。

 

 

 

青ケ島の怖い話

 

出典:https://www.youtube.com/

 

青ケ島のなか心霊スポットとして有名なのは、上で紹介した大里神社です。やはり「デイラホンの祭り」の言い伝えと雰囲気のせいか、祭りが途絶えてから生まれた島民の間でも心霊スポットとして扱われているといいます。

 

大里神社に向かう途中には玉石の階段を登るのですが、この階段の途中で身体が重くなっていき、気分が悪くなって帰ったという体験談や、参拝を終えて階段を降りていく途中で社の方から獣が叫ぶような奇妙な声が聞こえてきたという体験談がネット上では見られました。

 

意外だったのが、天明の大噴火の際に救助船に乗り遅れた人々が腕を切られ、置き去りにされて命を落としたなどの恐ろしい話が資料上に残っている青ケ島の海岸が心霊スポットになっていないことです。

 

不謹慎ではありますが、過去にこのような大惨事や凄惨な事件が起きた場所は後に心霊スポットとして恐れられるようになる傾向が強いです。

 

ただ調べてみても、海岸で起きた惨事については「青ケ島復興の際に大量発生したネズミは、島に取り残されて死んだ人達の生まれ変わりだと恐れられた」といった話しかなく、近年になっても怖がられているわけではない様子でした。

 

 

 

青ケ島出身の芸能人はいる?

 

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青ケ島からはこれまでに実業家などが輩出されていますが、島出身の芸能人というのはいないようです。

 

篠原ともえさんは母方のお祖母様が青ケ島出身で在住とのことですが、本人は東京都青梅市出身であるため、ルーツが青ケ島にあるものの厳密に島出身の芸能人ではありません。

 

ただ篠原さんは青ケ島に対する思い入れが強いと語っており、2010年には夢だったという「凱旋ライブ in 青ヶ島」も行っています。

 

 

 

青ケ島在住の女性You Tuberが伝える島の現在

 

 

佐々木加絵さん(39歳)は、2020年から青ケ島での暮らしを配信し続けている女性YouTuberです。

 

佐々木さんは青ケ島生まれだといいますが、ずっと島で暮らしていたわけではなく、高校進学と同時に本土(東京都内)に移り住み、そのまま就職して「もう何もない青ケ島には帰れない。本土での暮らしが最高!」と感じていたそうです。

 

しかし、ご両親が夫婦で経営する予定でいた旅館を建設している最中にお父様が急逝。

 

青ケ島には49日の法要が終わるまで、毎週法事を行い、参列者への食事も喪主の世帯の手料理を振る舞わなければいけないという決まりがあるのだそうです。

 

この法事をお母様1人でこなすのは酷すぎると感じたことがきっかけで、佐々木さんは勤務先を退職して実家に帰る決意を固めたのだといいます。

 

 

島の若者の結婚事情は?

 

佐々木さんによると、島内では年齢が近い適齢期の異性が数人しかいないため、男女ともに配偶者は島の外で見つけるしかないのが現状なのだそうです。

 

男性の場合はリゾートバイトで青ケ島を訪れていた女性と交際をはじめ、そのまま結婚して夫婦で島に定住するケースもあるものの、女性は本土の男性と交際・結婚すると相手の仕事の都合もあるため本土に移住してしまうケースが圧倒的に多いのだといいます。

 

そうなると少子化が進んでしまい、どうしても島の人工は減少していってしまいます。

 

このことを重く考えた佐々木さんは島内にシェアハウスをつくり、若者が移住しやすい環境を整えているとのことです。

 

また結婚後の暮らしについては保育園もあり、働きながら子育てができる環境ではあるといいます。しかし、お店が少ないことからファミリー層を呼び込むには以下のような問題点もあると佐々木さんは指摘していました。

 

あとは、移住してくる人にとって不便な点もまだまだ多いと思います。島には商店が1つあるのですが、お弁当やお惣菜は売っていないので基本的に毎日自炊しなきゃいけなくて……。一人暮らしの人はもちろん、小さい子どもがいる家庭も大変ですよね。疲れて家事をしたくないときは誰にだってあるのに。

 

引用:絶海の孤島・青ヶ島在住の38歳女性が明かす、“日本一人口が少ない村”の結婚事情「人口が166人だけだから…」

 

 

島にいじめはある?移住者もなじめる?

 

上でも触れましたが、やはり移住者の少ない孤島となると島民の結束が固く、移住者はなじめないのではないか、島民にしかわからないルールがあり、それを破ると村八分になるのではないかという点を心配する人は多いようです。

 

佐々木さんのYou Tubeチャンネル『青ヶ島ちゃんねる』にも、「移住に興味があるけど、うまくやっていける気がしません」という質問が多く寄せられるといいます。

 

仕事についてはリモートでできるもののほか、看護師や村役場の職員、発電所の所員などは募集が多いために資格や経験のある人は就職に困らないのではないかとのこと。

 

島民同士のいじめや村八分などについては、「人数が少なすぎてそんな陰湿なことはできない」のだそうです。

 

でも運命共同体みたいなところがあるので、島ではひとりひとりの存在をすごく大切にしている。仕事をしている人の顔も見えるから、例えば「ここにゴミを捨てると◯◯さんが困るな」と想像できるんです。もし船が遅れたとしても、怒る人はいません。

 

引用:「青ヶ島には差別や偏見がないけど…」絶海の孤島出身の38歳女性が語る、東京本土で感じた“都会と離島のギャップ”

 

青ケ島の島民同士の関係について、佐々木さんは上のように語っています。

 

これだけ聞くと島民は優しい人ばかりで過ごしやすそうな印象も受けますが、仲がこじれるようなことがあっても付き合いを辞めることができないような狭い島なので、気の合わない人同士でも折り合いをつけてうまくやっていっているそうです。

 

 

インフラ事情は?

 

 

住民の家には住所がなく、名前だけ書いておけば手紙が届くという青ケ島。島には信号も1つしかないといいます。

 

どれだけ寂しい場所なのだろうかと思いきや、上の動画で佐々木さんが紹介している島の様子を見ると、どこも綺麗で驚かされます。とくに村立の小中学校はとても綺麗で大きく、渡り廊下から海が見えるという贅沢な環境で、近くには新しく公園も建設されたのだそうです。

 

また、絶海の孤島という青ケ島で気になるのが水はどうしているのか、すぐに断水するのではないかという点ですが、現在は雨水を貯めるタンクが増設されており、30年近く断水は起きていないのだといいます。

 

2020年には島内の光回線ケーブル工事が完了し、現在では本土と変わらない通信環境も整っているとのことです。

 

 

 

青ケ島への行き方

 

出典:https://ja.wikipedia.org/

 

青ケ島に行くには、まず飛行機か竹芝桟橋から出ているフェリー「橘丸」で八丈島に向かう必要があります。

 

飛行機は羽田空港と八丈島の往復便があり、1日3本運行。羽田から八丈島への所要時間は50分程度です。

 

フェリーの「橘丸」は1日に1本のみの運航で、所要時間は約11時間。運賃はそこまで変わらない(客室によってはフェリーのほうが高い)ので、お好みの方法を選ぶと良いでしょう。

 

八丈島からも海路か空路で青ケ島に向かうこととなります。海路ならば八丈島の底土港から定期船の「くろしお丸」に乗り、約3時間で青ケ島に到着します。

 

空路ならばヘリコプター「東京愛らんどシャトル」で青ケ島に迎えますが、こちらは1日に1本の運航のうえに定員が9名と少ないため早めの予約が必須です。

 

 

 

青ケ島についてのまとめ

 

今回は東京都に所属する日本一住民の少ない有人島・青ケ島について、島の歴史やいじめ、殺人事件などの噂、島の現在をふくめて紹介しました。

 

島へ向かう定期船も運休になることが多く、またヘリコプターの予約が取りづらいことから青ケ島は日本一上陸が難しい有人島とも言われています。また天候に恵まれて首尾よく到着できても、海が荒れれば予定通りに帰ることができなくなり、数週間島で足止めを食うのもザラだといいます。

 

青ケ島に訪れた方の感想を見ると「大きな岩が浮いているような佇まいが圧巻」「異世界感がすごい」とのことなので、一度は行ってみたいですよね。

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