猿払村は北海道北部にある最北の村で、ホタテ漁で栄えた日本一の金持ち村として知られます。この記事では猿払村の場所や歴史、村民の年収、フェラーリやホタテ御殿、豪邸が立ち並ぶという噂、中国との関係、事件、現在について紹介します。
この記事の目次
猿払村の概要【日本一の金持ち村】
猿払村(さるふつむら)は、北海道の北部・宗谷地方に位置する人口2,650人(2023年12月時点)の村です。
奈良県の十津川村に続いて日本で2番目に面積の広い村であり、開村は大正13年。おもな産業は漁業と酪農業です。とくに漁業は開村当時から盛んで、かつてはニシン漁で賑わいを見せました。
現代では北海道でも随一のホタテの水揚げ地で、ここ数年はホタテ漁によって莫大な収益をあげ、「日本一の金持ち村」として脚光を浴びています。
総務省の発表によると猿払村の平均所得は、東京都の世田谷区や目黒区、神戸の芦屋市を凌ぐほどです。
猿払村がホタテ漁で利益を集めるようになったのは約20年前からで、中国への輸出ルートを開拓したことで、ホタテは北海道の一大産業に発展します。
とくに猿払村のホタテはブランドとして流通し、村には漁師たちが建てた「ホタテ御殿」が並ぶようになりました。
ところが昨年の夏に中国が日本の水産物の輸入全面停止を始めると、猿払村の収入は激減。
輸出できなくなったホタテが過剰在庫となり、漁協は国民にホタテを買うように求めたり、日本政府も公費で猿払村のような漁村を補助するための緊急支援策を講じました。
しかし、世間からはこれまで中国を相手に荒稼ぎをしてきた猿払村に対し、「チャイナリスクを知っての商売だったのだから、自己責任ではないのか」といった厳しい声も寄せられています。
猿払村の場所
猿払村は、宗谷管内のオホーツク海側に位置します。東はオホーツク海、西は豊富町、南は幌延町と浜頓別町、北は稚内に隣接しており、日本の最北にある村です。
北海道の中心地の札幌から向かう場合には車で約7時間かかり、札幌空港から稚内空港に空路で移動し、隣接する稚内から車で猿払村に向かうにしても2時間はかかります。
猿払村の歴史
出典:https://www.vill.sarufutsu.hokkaido.jp/
猿払村の村名は、アイヌ語で葦原・河口を指す「サㇽプッ(sar-put)」からついたとされます。
その名の示す通り、土地の多くが湿地で、かつては「人が住むには適さない場所」と言われていたそうです。
江戸時代に猿払村のあたりを訪れた幕府の役人の手記に、「サㇽプッという土地に、男女のアイヌの人々が合計54人住んでいた」という記載があるため、不便ながらも古くから居住者がいたことがうかがえます。
猿払村が開村したのは大正13年1月1日のことで、宗谷村から分かれて猿払村が誕生しました。
明治時代になるとニシン漁や酪農業、林業が盛んになりましたが、なかでも村を豊かにしたのは石炭産業だったといいます。
昭和22年から41年までの間、村は炭鉱で栄え、ピーク時には村民の数も1万人に迫るほど増えました。
この頃には村に劇場などの娯楽施設や飲食店が多数営業し、大相撲の地方巡業が来るなど賑わいを見せます。
しかし、昭和40年を過ぎると「石炭から石油へ」のエネルギー革命が起こり、石炭産業は下火に。昭和42年には最後の炭鉱も閉山となりました。
この間にも猿払で漁業を営んでいる人もいましたが、こちらも昭和29年頃からニシンの水揚げ量が減り、ホタテも沖合での乱獲が続いて漁獲高が落ちこんでいたといいます。
そのため漁業に就いていた人も、炭鉱で働いていた人もどんどん村を離れていき、残った産業は酪農のみ。住民の生活も困窮を極めました。
当時は北海道内で「貧乏みたけりゃ、猿払に行け」という言葉が浸透するほど村は貧しくなり、住民は食べるものにも苦労するほどだったそうです。
ホタテ漁に命運をかける
こうしたなか、当時の村長らは昭和46年にオホーツク海にホタテの稚貝を放流し、10年計画でホタテを増やそうと計画しました。
そして10年後、ホタテの水揚げ量は増加しており、以降は猿払村で定期的に稚貝の放流が行われるようになり、ホタテ漁獲高日本一の村となったのです。
その後、北海道が中国への輸出ルートを開拓したことで、日本で水揚げしたホタテを人件費の安い中国に輸出し、中国で加工した後に、欧米に輸出するというビジネスが確立。
これが軌道に乗り、猿払村の漁業組合員はホタテ業で富を築くようになったのです。
猿払村の村民の平均年収
ホタテ放流が成功した1986年頃には、猿払村の漁師の平均年収は4,000万円にもなっていたといい、総務省発表の2022年度・市区町村別平均所得によると、猿払村の村民1人あたりの平均年収は約732万円で、全国で6位とのことです。
また、2018年度の同調査では猿払村の村民1人あたりの平均年収は約814万円、全国3位と発表されており、これはTVでもたびたび取り上げられて大きな話題を呼びました。
猿払村の平均収入を押し上げているのはホタテ漁に従事する漁業関係者で、漁師になれば豊年の都市には20代の若さでも年収2,000万円は当たり前、40代になれば年収3,000万円が普通なのだといいます。
さらに乗船期間が5年を超えると漁業組合の組合員として認められ、60歳で現役を引退しても、78歳まで配当金をもらって生活できるとのことです。
猿払村の噂① フェラーリが車庫にある豪邸・ホタテ御殿が多い?
「猿払村にはホタテ漁で財を築いた漁師が建てた『ホタテ御殿』が立ち並んでいる」と言われていますが、広い村なので、どの地区にも豪邸が建っているわけではありません。
ホタテ御殿が多く見られるのは、漁港のある浜猿払や浜鬼志別周辺だといいます。
町並みは閑散としており、いわゆる「豪邸の立ち並ぶ高級住宅街」という印象はないのですが、道路沿いに建っている家には住宅展示場にあるような大きなものが多いそうです。
土地が安いとはいえ、建物だけで1億円かけて建てられた家も少なくないといいます。
なかには複数台車が格納できるビルトインガレージがある家や、車庫にフェラーリやポルシェなどの高級外車が停まっている家も見られ、その暮らしぶりがTVで取り上げられることもありました。
なんでも漁師は経費になるものがほとんどないため、節税目的で高級車を買う人が多いのだそうです。
ほかに猿払村の豊かさがうかがえるのが、公立学校の豪華さです。
下の建物は猿払村の浅茅野小学校なのですが、公立の小学校とは思えないほど綺麗な外観をしています。
敷地も非常に広く、本校舎以外にも体育館などの真新しい施設が立ち並んでおり、まるで高級リゾートのような印象を受けます。
上で触れた豪邸の多い地区・浜猿払の公立小学校もなぜか校門がお城のようになっており、学校とは思えない凝ったデザインです。
出典:https://minkara.carview.co.jp/
なお、小学校の近くには教職員住宅も建っているのですが、こちらは普通の集合住宅のようで、停まっている車も国産車ばかりとのこと。公務員の教職員は、普通の暮らしをしている様子です。
猿払村が日本一の金持ち村と言っても、漁業関係者以外はそこまで恩恵を受けているわけではなく、浜猿払には団地も建っています。
猿払村の噂② 漁師は完全世襲制・移住者お断りで格差が酷い?
ホタテ漁でそれだけ稼げるのであれば、猿払村に移住希望者が殺到するのではないか?なぜ住民が増えないのか?と疑問に感じる方もいるでしょう。
実は猿払村ではホタテ漁は完全に世襲制となっており、よその土地から来た人はおろか、代々村に住んでいても、先祖が漁業関係者でなければ漁師にはなれないのです。
これによりホタテの乱獲が起こらず、漁師の間で争いも起きないとのことですが、世襲制による悪い影響も噂されています。
ネット上では「猿払村は漁師の子による、それ以外の仕事の家庭の子どもへのいじめが存在する。赴任した警官や郵便局員の子などはいじめのターゲットになりやすい」「村全体に『ホタテ漁の関係者に非ずば人に非ず』といった嫌な雰囲気がある」との話も見られました。
もちろんこれらの話の真偽は不明ですが、職業選択の自由が保障されている時代に、身分制度のようなものが認められていれば、どこかで歪みが出ても不思議ではありません。
猿払村の漁師によると、「漁師同士による競争はなく、助け合いが基本」「漁師は平等で、誰も既存利益を持たない」とのことですが、まず漁師という職業が既得権益なのです。
また、親が漁師であれば自分も無条件に漁師になれるわけではなく、各家庭でホタテ漁師になれるのは実子と養子あわせて2人までというルールがあるとされます。
現状、漁師の直系卑属以外の人がホタテ漁師になりたい場合は、女の子どもしか生れなかった漁師の家に婿入りするという方法しかありません。
しかし、過去には婿入りしたよそ者の漁師が騒動を起こしたことがあったといい、娘婿が跡を継ぐというのはあまり歓迎されないそうです。
猿払村の噂③ 外国人実習生をこき使っている?
猿払村の漁協はホタテの加工工場を運営しており、ここでは水揚げされたホタテを殻から取り出し、洗浄、冷凍までの工程を行っています。
ホタテ漁に関しては世襲制で利益をがっちり守っている猿払村ですが、この工場で働いている従業員の大半は外国人実習生とのこと。
ホタテが一大産業になった際に、地元の人間だけでは工場をまわしきれなかったために中国から約約100人の実習生を受け入れたことがきっかけとなり、以降は外国人実習生なくしては成り立たない状況にあるといいます。
猿払村のホタテ加工工場へ取材に訪れたことがあるというジャーナリストの出井康博氏は、工場の労働環境について以下のように書いていました。
実習生の働くホタテの加工場は、殺風景な海岸にポツンとあった。そこに足を踏み入れた瞬間、私は思わず息を止めた。加工場には潮の香りとホタテの生臭さが充満していて、むせ返りそうだったのだ。
外国人技能実習制度に対してはさまざまな批判があり、なかでも外国人実習生の賃金の低さ、待遇の悪さに対しては「早急に見直すべきだ」「日本の労働環境そのものを悪化させかねない」と批判の声が多くあがっています。
日本人がやりたがらないような過酷な仕事を外国人実習生でまかなう、というのは猿払村に限ったことではありません。国が改善していかなければいけない問題です。
しかし、「日本一の金持ち村」「漁師の年収は3,000万」といった印象が強いことから、猿払村に対しては「自分たちだけ儲けて、外国人労働者を奴隷のように使っているらしい」という印象を持つ人も少なくない様子です。
電車内広告。ホタテは大好きだが、外国人実習生の奴隷労働で賄われている話を聞くと気持ち良く食べられない。 pic.twitter.com/iw0UotknS6
— 保育士おとーちゃん/新刊「保育が変わる 信頼をはぐくむ言葉とかかわり」(東洋館出版社) (@hoikushioto) December 16, 2018
なお、中国の禁輸措置を受けて、2023年10月には政府が北海道のホタテの殻むき作業を、外国人実習生ではなく受刑者の刑務作業にするという支援策を発表していました。
受刑者を使えば、外国人実習生の受け入れにかかる福利厚生費などをカットできるという理由での発案です。
この案はすぐに見送りになりましたが、これに対しても「漁協は政府公認の奴隷を探してるのか?」と厳しい声が見られました。
猿払村の現在・中国の水産物の禁輸措置の影響
2023年8月25日、福島第一原子力発電所のALPS処理水排水を受けて、中国は日本産の水産物の全面輸入停止を発表しました。
2021年以降、日本で水揚げされた水産物の主な輸出先は中国となっており、農林水産省によれば、中国向け輸出額のうち水産物は871億円を占め、そのうちホタテ貝の輸出額は467億円にものぼるとのこと。
日本側は中国に対して即日、禁輸措置の撤廃を求めましたが、中国は2024年1月現在に至るまで禁輸措置を続けています。
その影響で北海道の水産物加工業者の倉庫には、中国に輸出する予定だった冷凍ホタテが山積みになり、この影響はホタテに頼っていた猿払村にも大きな打撃を与えました。
販路を失ったホタテを消費するため、同じく北海道の森町では申し出があった全国の学校に、給食用にホタテを無償提供するという取り組みを発表。
回転ずしチェーンのくら寿司も、急遽予定していたフェアを前倒しにしてホタテを買いとるなど消費に協力しました。
国民に対しても国から「ホタテを食べて、漁業を支援しよう」という呼びかけがされましたが、これに対しては賛否両論あり、目立つのが「食べて支援、と言うわりには値段が高すぎる」という意見です。
肉や魚と違って常食する家庭が少ないであろう貝類を買えと言うのなら、少しくらい安くしてと思う人が多いのは仕方のないことでしょう。
しかし、余ったぶんのホタテを安価で売ってしまうと、国内で卸していたホタテもつられて値下がりしてしまうため、余剰分のみ値下げというのは難しいといいます。
また、中国以外の国に輸出すればいいのではないかとの指摘もありますが、ホタテを日常的に食べる国はあまり多くなく、まずはホタテのPR活動から始めなければいけないため、新しい販路を確立するにも年単位での時間がかかるとされます。
そのため8月31日に政府は、禁輸措置で影響を受けた事業者への支援策を発表。損害の補償や新たな輸出先開拓への補助金などを決定しました。
ホタテ漁師への支援には否定的な声も
ただ、これに対しては冷ややかな目を向けている国民も多く、「もともと日本人ではなく、中国向けの商売をしていたのに、それを税金で補助するのか」という声がネット上でも多く見られます。
ホタテねぇ。。。
単価が高いからって、全部中国に流す判断した経営者の問題であって
知ったこっちゃないんよな
潰れて、国内販路と海外販路両方ある会社が残ればいいやろ
資本主義なんだし、チャイナリスクの管理していない企業だけを救う意味あるか?
無駄金でしかない— じょにぃ 🥞💫🌠 (@dyraiden2) September 30, 2023
中国へのホタテ輸出は農水省の指導で行ったことではなく、北海道の漁協が独自に行ったことです。
中国と日本の関係の危うさや、習近平の鶴の一声で物事がコロコロ変わる独裁政権であることを考えれば、取引を中断されるリスクは念頭に置く必要があったはずです。
いくら村を復興するお金が欲しかったとはいえ、中国以外にも販路を開拓しておくべきだったでしょう。
そのため、「税金で新しい販路を開拓するのはおかしい」「もともとハイリスクハイリターンな商売だとわかってやっていたのではないのか」と批判の声があがりました。
また、世襲制の仕事を税金で助けたところで新しいビジネスモデルにはならず、国益にはつながらない、支援するのなら酪農が先ではないのかといった指摘もされています。
これらの声は直接、猿払村の漁業組合にも寄せられているといい、なかには漁師を中傷するような内容のものまで含まれていると報じられました。
猿払村で起きた有名な事件① 猿払事件
近年、漁師の年収が話題となって一気に知名度をあげた猿払村ですが、法律に興味がある、学んだことがあるという方のなかでは「猿払村といえば猿払事件」という印象が強いのではないでしょうか。
猿払事件は公務員の人権をめぐる有名な判例として知られます。ここでは猿払村の知名度をあげたもう一つの要因・猿払事件について紹介していきます。
猿払事件の概要
1967年1月、猿払村の鬼志別郵便局に勤務する郵政事務次官の大沢克己さんが、第31回衆議院議員選挙の公示にあわせて自分の指示する「日本社会党」のポスターを公営掲示板に貼りだしました。
大沢さんは郵便局で勤務する一方で労働組合協議会の事務局長も務めており、この時の選挙では労働組合全体の意向で、日本社会党を応援することになっていたといいます。
大沢さんはまず、6枚のポスターを自ら公営掲示板に貼り、その後は顔なじみのお客さんや集配担当者などの同僚にも「これを貼ってほしい」と配り、「貼ってください」という依頼付きで郵送でも知人にポスターを配りました。
こうして大沢さんが配ったり掲示したりした日本社会党のポスターは、合計186枚にものぼったとされます。
国家公務員法では、102条で公務員の政治的行為を禁止しています。(当時、郵便局は国の管轄だったため、働く職員も公務員扱いだった)。
第百二条 職員は、政党又は政治的目的のために、寄附金その他の利益を求め、若しくは受領し、又は何らの方法を以てするを問わず、これらの行為に関与し、あるいは選挙権の行使を除く外、人事院規則で定める政治的行為をしてはならない。
引用:国家公務員法
ポスターを貼ったり配ったりする活動を大沢さんは郵便局の勤務時時間外に行いました。
しかし、公務員が政治的目的を有する文書の配布や掲示をすることは、国家公務員法違反で人事院規則違反だとして訴えられてしまったのです。
有罪判決が出れば、大沢さんには3年以下の懲役刑、もしくは10万円以下の罰金刑に処されてしまいます。
こうして迎えた旭川地裁での第一審でしたが、ここでは大沢さんに無罪が言い渡されました。
勤務時間外に行った政治行為については公務員法の範疇ではない、処分は必要最小限の域を超えているとの判断からです。
ところが検察側は無罪判決に納得せず、札幌高裁へ控訴。二審も一審の無罪判決を支持したため、検察は最高裁判所に上告します。
最高裁判でも意見がわかれたものの、最終的には一転して有罪判決が下され、大沢さんは5000円の罰金刑に処されました。
猿払事件の争点
最高裁で有罪判決が言い渡されるにあたり、問題となったのが公務員の人権の制限です。
政治的意見の表明は憲法21条が定める表現の事由によって認められているものであり、公務員の政治活動を禁止する国家公務員法102条が違憲ではないのかと争われたのです。
最高裁は判決で、国家公務員法102条が政治活動を禁止する対象は国民全般ではなく、中立の立場が求められる公務員に対するものであるため、制限は違憲ではないと判断。
公務員については憲法15条で「全体の奉仕者」と定められている以上、特定の国民の利益につながるような行為をしてはいけないとして、公務員に中立性を損なうおそれのある政治的中立性を損なう行為を禁止するのは憲法の許容範囲だとしました。
猿払村で起きた有名な事件② インディギルカ号遭難事件
出典:https://sarufutsu-vill.note.jp/
インディギルカ号遭難事件は、1939年に起きた猿払沖でのソ連の貨物船・インディギルカ号の転覆事件です。
ここでは、700人あまりの死者が出たインディギルカ号遭難事件について紹介していきます。
インディギルカ号遭難事件の概要
1939年12月12日の未明、猿払村の浜鬼志別海岸の「トド岩」にソ連貨物船のインディギルカ号が乗り上げ、転覆するという事故が起こりました。
インディギルカ号は乗員・乗客あわせて約1,100名を乗せてマガダン地方からウラジオストックに戻る途中で、大時化・暴風雪という悪天候から舵取りを誤り、横転したとされます。
当時、日本とソ連の関係は非常に緊迫したものでした。
満洲国とモンゴル人民共和国の間の国境線をめぐり、満州国と協力関係のある日本と、モンゴル人民共和国と協力関係のあるソ連は敵対関係にあり、これが発展して5月から9月にノモンハン事件が勃発。
そのほとぼりも冷めないなかで、インディギルカ号が日本の領海内で転覆事故を起こしたのです。
横転した船からは大勢の人々が海に向けて投げ出され、船底が岩礁に引き裂かれたことによって急速な浸水が発生し、みるみるうちにインディギルカ号は沈んでいったとされます。
船内は出口を求める人でパニックになりましたが、外は外で極寒の海が広がり、脱出したところで生存はほぼ不可能。
この状態でインディギルカ号は流され続け、辿りついた先は浜鬼志別海岸の沖合約800mの地点でした。
無事だった船長や乗組員はこれ以上船が沈む危険性がないことを確認すると、避難用のボートに乗って浜辺に向かい、救助を求めることにします。
なんとか浜鬼志別海岸に到着した乗員らは、目についた民家の扉を叩きました。この民家の家主は漁師の神源一郎さんという方で、神さんがこんな夜中にと不審がりながら扉を開けたところ、見上げるような大男が5人、ずぶ濡れで倒れ込むように家に入って来たといいます。
言葉が通じないため、最初は何を言っているのかと戸惑った神原さんでしたが、ジェスチャーから船が転覆したことを把握し、すぐに近くに住む弟の家に駆けこんで警察に連絡するように頼むと、自分は遭難者の救助に向かうべく船を出しました。
神さんの弟からの通報を受けた稚内警察署は、ただちに人員を現地に派遣しましたが、悪天候のためすぐに救助船を出すことができず、立ち往生することになってしまいます。
一方で神さんら村民らは「目の前で沈んでいく船を見殺しにできない」と果敢にも大時化の海に漁船を出し、救助に乗り出してきました。
しかし、インディギルカ号に辿りつく前に波にのまれて転覆してしまい、漁師たちは泳いで浜まで戻って来たそうです。
結局、救助船が出せるほど天候が回復したのは13日の午前のことで、救助船3隻が6時間かけて合計395名の救助に成功。
インディギルカ号の船長が「船内にはもう誰もいない」と証言したため、救助活動は打ち切りとなりました。
犠牲者が出てしまったのは不幸なことですが、助けられる命は救えた。誰もがそう感じた矢先に、思いがけない事態が発生します。
3月15日になって現場にやって来たソ連函館領事館の総領事が、「横転した船にまだ人影が見える」「日本は遭難者の救助を怠ったのではないか」と指摘したのです。
これを受けて16日に再び救助船が確認に出たところ、なんとインディギルカ号には25名もの生存者が置き去りにされていたことが発覚します。
こうして漁師らの奮闘もあってインディギルカ号遭難事件は幕を閉じ、後に猿払公園には犠牲者のための慰霊碑も建立されました。
インディギルカ号遭難事件の闇
緊迫した状況下でありながらも敵国の国民を助けたとして、美談のようにも語られることがあるインディギルカ号遭難事件。たしかに猿払の漁師らの行動は勇敢で、称賛されるものです。
しかし、どうして船長が「もう船内に人はいない」と言っていたのに、実際には取り残されていた人がいたのでしょうか。
1991年になって、歴史学者の原暉之氏が「ソ連の公文書をあたった結果、インディギルカ号には強制収容所からの送還者が乗っていた可能性がある」と指摘しています。
インディギルカ号は「ダリストロイ」という組織に所属していたのですが、この組織は政治犯などを使って金の採掘を行うために、強制収容所を運営していたとされます。
遭難時、インディギルカ号はマガダンから出向していましたが、マガダンはシベリアの強制収容所への入り口です。
さらに救助された人々から「船には囚人も乗っていたが、転覆時に囚人が船から出ようとしたところ、乗員が押し戻していた」「囚人に発砲していた」といった証言も出ていたといいます。
船長が「もう船には誰もいない」と言ったのも、もしかしたら取り残された人々は囚人で、人間にカウントしていなかった、もしくは囚人の正式な数を把握していなかったためという可能性があります。
そんな非人道的なと思う方もいるかもしれませんが、当時のソ連ならばそのくらいのことはやりかねません。
その証拠に、インディギルカ号の船長はソ連帰国後に裁判にかけられ、なんと銃殺刑に処されたことが明らかになっています。
猿払村についてのまとめ
今回はホタテ産業で日本一の金持ち村になった、北海道最北の村・猿払村について紹介しました。
日本の平均年収からは想像できないような大金を稼ぎ、しかもその利権を世襲で囲い込んでいることが報じられたことが影響し、現在は窮地に立たされているという猿払村に対しても冷ややかな声が目立ちます。
税収が減れば漁師以外の仕事に就いている住民の生活にも影響が出るでしょうし、見捨ててよいとは言えません。しかし、新たな販路開拓の補助については違和感を持つ人が多いのは仕方なく感じられます。