サイパン島の戦いの敗因と日本の対応!死者と飛び降り団自決・生き残りの証言・映画もまとめ

サイパン島の戦いは太平洋戦争中にマリアナ諸島サイパン島で起こった日本軍とアメリカ軍の激戦です。

 

この記事ではサイパン島の戦いがなぜ起こったのかの原因や敗因、日本の対応、戦死者と民間人の死者数や飛び降り自決がなぜ起こったのか、サイパン島の戦いを描いた映画についてまとめました。

サイパン島の戦いは太平洋戦争でマリアナ諸島サイパンをめぐる日米の攻防

 

出典:https://pbs.twimg.com/

 

「サイパン島の戦い」とは、1944年6月15日から7月9日にかけて太平洋マリアナ諸島サイパン島で発生した日本軍とアメリカ軍との攻防戦で、太平洋戦争で発生した日本軍と連合軍の戦いの中でも激戦として知られています。

 

サイパン島の戦いは、陸軍第43師団を主力とする約3万〜4万の日本軍と、第2海兵師団、第4海兵師団、第27歩兵師団の主力とする約7万(上陸兵力のみ、予備と海上・航空兵力を合わせると約12万〜16万)のアメリカ軍が戦った激戦で日本軍はほぼ全滅(玉砕)しました。

 

また、サイパン島の戦いの舞台となったサイパン島は、第一世界大戦(1914年〜1918年)の後に日本の委任統治領になっていたため、日本本土や支配地域からの移住民や、仕事で滞在する民間人が大勢おり現地で生まれた日本人も多くいました。

 

サイパン島にいた日本人の民間人はサイパン島の戦いの前年の1943年の時点で約3万人、サイパン島の戦いの時点でも約2万人の民間人が現地に居住しており、サイパン島の戦いでは多くの民間人が戦闘に巻き込まれて、女性や子供を含む多数が亡くなっており、太平洋戦争後には当時の日本の対応(日本政府や軍部、現地指揮官などの対応)が批判されました。

 

 

サイパン島の戦いはなぜ起こったのか原因と背景

 

出典:https://static.chunichi.co.jp/

 

サイパン島の戦いがなぜ起こったのかの原因は、サイパン島の戦いが起こるまでの経緯や背景がわからないと理解しづらいため、サイパン島の戦いまでの経緯を説明した後で、サイパン島の戦いがなぜ起こったのかの2つの大きな原因を解説します。

 

 

サイパン島の戦いが起きるまでの経緯

 

1914年に勃発した第1次世界大戦で、日本は連合国側として参戦して当時ドイツの植民地であった南洋諸島(サイパン島を含む)を無血占領しました。1918年に第1次世界大戦が終結した後、1919年のヴェルサイユ条約により、これらの南洋諸島は日本の委任統治領(実質的には植民地)とされました。

 

1941年12月、日本軍のハワイ真珠湾攻撃やマレー半島侵攻などによって太平洋戦争が始まりました。すでに連合国と戦争(第2次世界大戦)を始めていたドイツやイタリアと日独伊三国同盟を結んだ日本と連合国(主にアメリカ、イギリス、オランダ、オーストラリアなど)との間の戦争の勃発でした。

 

1942年半ばまでは連戦連勝を重ねて太平洋に広大な勢力圏を築いた日本軍でしたが、同年6月のミッドウェー海戦、同年8月から1943年2月のガダルカナル島の戦いなどでの大敗を契機として攻守が逆転。アメリカ軍は1944年までに次々と日本軍の太平洋の占領地を奪取または無力化し、日本軍の主力艦隊や航空戦力を撃破して日本軍を押し返す事に成功していました。

 

そのアメリカ軍による日本への逆侵攻の途上で発生したのがサイパン島の戦いでした。

 

 

サイパン島の戦いがなぜ起こったのか原因① 双方にとって重要な位置にあった

 

出典:https://ryukyushimpo.jp/

 

攻勢を強めるアメリカ軍に対し、日本政府(当時の日本は東條英機内閣による軍事政権)は死守すべき絶対国防圏を定めました。日本が南方の東南アジア一帯の資源地帯と本土を結ぶ輸送路を守るためには、マリアナ諸島やパラオを含む西カロリン諸島の防衛が必須であったためでした。

 

その絶対国防圏の中核であるマリアナ諸島やパラオを含む西カロリンや小笠原諸島の防衛を担当する日本陸軍第31軍が編成され、その司令部がマリアナ諸島の最重要拠点であるサイパン島に置かれました。

 

また、日本海軍も太平洋方面防衛を統括する中部太平洋方面艦隊(名称は艦隊だが主力は基地航空隊と地上部隊)を編成し南雲忠一中将(真珠湾攻撃やミッドウェー海戦の指揮をとった提督)を司令官として司令部を、要衝であるサイパン島に置いたのでした。

 

一方のアメリカ軍にとってもサイパン島を含むマリアナ諸島は日本に向けての侵攻ルート上にある重要地点であり、この地域への大規模な侵攻作戦が計画実行される事になりました。

 

 

サイパン島の戦いがなぜ起こったのか原因② 米軍の目的はB-29の拠点確保

 

出典:https://gakuen.gifu-net.ed.jp/

 

サイパンの戦いがなぜ起こったのかの原因の2つ目として、アメリカ軍にとってサイパンを含むマリアナ諸島が日本本土を攻撃するための重要地点だった事が挙げられます。

 

サイパンを含むマリアナ諸島を支配圏に置けば、長距離戦略爆撃機B-29の航続範囲に日本の関東から中部や関西地方、九州までが全て入り、日本本土の重要都市への戦略爆撃が可能になるためでした。

 

サイパン島の戦いなどでマリアナ諸島を占領した後、アメリカ軍はサイパン島やテニアン島、グアム島などにB-29が発着できる大規模な航空基地を設け、そこから飛び立ったB-29が東京を含む日本の都市部への戦略爆撃を繰り返しました。広島長崎への原爆投下を実施したB-29もサイパン島のすぐ近く(約8kmの距離)にあるテニアン島から出撃したものでした。

 

 

サイパン島の戦いでの民間人の安全に関する日本の対応は何もなし

 

出典:https://upload.wikimedia.org/

 

サイパン島の戦いが発生した当時、サイパン島には約2万人の日本人の民間人と約4000人〜5000人の現地民(チャモロやカロリアン)がいましたが、日本政府や軍部、現地の司令官は民間人や現地民などの非戦闘員に対してほとんど何の対応もしていません。

 

それどころか、民間人のうち16歳〜45歳の男性は戦闘開始の直前に防衛招集されて家族から引き離され、残された女性と老人、子供たちの多くが逃げ遅れて戦闘に巻き込まれて犠牲になりました。

 

こうした民間人をほとんど無視したような日本の対応はその後も続き、グアムやテニアン、沖縄の戦いでも同じ事が繰り返されています。

 

こうした民間人に対する当時の日本の対応は太平洋戦争後に強く批判されています。

 

 

サイパン島の戦いでの民間人死者数は8000〜1万2000人といわれている

 

出典:https://static.life.com/

 

サイパン島の戦いでの民間人の死者数は資料によって異なりますが、概ね8000人〜1万2000人であったとされています。

 

日本兵3万人以上、民間人8千人以上が死亡したサイパンでは、米軍の上陸作戦開始から70年となる15日、日本側関係者も招いて記念式典が行われる。

 

引用:日本兵の日記、米で英訳出版 サイパンで戦死

 

第1次世界大戦後に日本の委任統治領となり、国策会社の経営で砂糖の島として栄えた。激しい地上戦が行われ、日本側は軍人・軍属4万3000人、民間人1万2000人の犠牲者が出た。

 

引用:サイパン島(さいぱんとう)

 

当時の混乱を極めた状況もあって民間人の正確な死者数はわかっていませんが、当時のサイパンの民間人人口(資料によって異なり2万から2万6千とされる)やサイパン島の戦いの後にアメリカ軍に保護された人数(約1万2000〜1万8000名とされる)などから推定し、1万人前後の死者数であった事は間違いないと思われます。

 

また、サイパン島の戦いに巻き込まれた現地先住民の死者数は約1000人に上ったと推定されており、これは当時の先住民の人口のおおよそ4分の1から5分の1にあたる人数です。こうした支配地域の先住民に対する当時の日本の対応への批判もあります。

 

 

サイパン島の戦いでの戦死者数は日本軍が約3万〜4万で米軍は3551人

 

出典:https://pbs.twimg.com/

 

サイパン島の戦いでは日本軍の軍人・軍属の戦死者数が推定で3万〜4万人超、アメリカ軍の戦死者数(行方不明含む)が3551人とされています。

 

サイパン島の戦いで戦った日本軍兵力は約3万2000人〜4万4000人とされており、ほぼ全ての日本軍将兵と軍属が戦死または自決やその他の理由により死亡したと見られています。

 

これは、当時の日本軍が捕虜になる事を徹底的に拒み、最期まで徹底抗戦した事や負傷や病気などで戦えない者は捕虜になるよりも自決を選択(一部は自決を強要されたともいわれている)したためであるとされています。

 

米軍関連機関(Naval Heritage Command Center 旧海軍歴史センター)の資料では、日本軍の守備隊約3万人のうち捕虜になったのはわずか921名で残りは戦死もしくは死亡しておりそのうち日本軍指揮官と約5000人が捕虜になるよりも自決を選んだとされています。

 

Out of the entire Japanese garrison of 30,000 troops, only 921 prisoners were captured; the rest died. The Japanese commanders and some 5,000 others committed suicide rather than surrender.

 

引用:Battle of Saipan

 

 

サイパン島の戦いでの民間人の集団自決や飛び降りはなぜ起こったのか原因

 

出典:https://www.pacificatrocities.org/

 

サイパン島の戦いでは、民間人の集団自決や飛び降りによる自決が多数発生しました。サイパン島での民間人の自決は米軍によって目撃されており、わずかながら民間人の自決の様子を記録した映像や写真も残されています。

 

サイパン島の戦いにおける民間人の自決の様子として、母親が幼い子供を抱きながら崖から飛び降りたり、小学生達が車座に座って手榴弾で自決したり、母親が我が子の首を絞めて殺害した後に自分も自決をしたりといったあまりにも悲惨な話が多数残されています。

 

サイパン島の戦いの後、米軍の従軍記者により撮影された民間人の自決の様子が雑誌「タイム」に掲載されその事実が世界中に知られるようになりました。

 

米軍側の記録によれば、サイパン島の戦いの最終局面において約1000名の民間人が自決しており、その多くが崖からの飛び降りや入水によるものであったという事です。

 

多くの民間人が飛び降りたサイパン島の2つの崖はそれぞれ「バンザイクリフ(サイパン島北端の岬)」、「スーサイドクリフ(北部のマッピ山にある崖)」と呼ばれています。

 

サイパン島の戦いにおいて、軍人よりも殺害されたり拷問を受けたりするリスクが明らかに低い民間人が次々と飛び降りなどで自決をするというのは当時の世界の一般感覚においても異常な出来事でした。このような民間人の自決がなぜ起こったのかの原因についても当時から盛んに議論研究されました。

 

 

サイパン島で民間人の自決はなぜ起こったのか原因① 米軍への強い恐怖

 

スポンサーリンク

出典:https://upload.wikimedia.org/

 

サイパン島の戦いで民間人の自決がなぜ起こったのかの最大の原因は、サイパン島の民間人の間にアメリカ軍に対する強い恐怖心が植え付けられていた事だと判明しています。

 

サイパン島の戦いの折、民間人は軍と共に北へ北へと退避しましたが、軍と行動を共にしていたためにアメリカ軍はほとんど無差別に攻撃(敵が攻撃してくれば民間人がいるから攻撃をしないというわけにはいかない)を行い、民間人にも多くの死傷者が発生しました。

 

サイパン島の戦いの際に志願して従軍看護婦をしていた民間人女性の菅野静子さんは、日本兵の負傷兵で溢れていた野戦病院をアメリカ軍が火炎放射器で焼き払い、命乞いをする負傷兵をアメリカ軍兵士が射殺するところを目撃し、「捕虜になれば絶対に殺される」と確信していたと証言しています。

 

こうした状況があり、サイパン島の民間人は、捕まって酷い目に遭った上に殺されるくらいならば自ら自決をした方がマシだと考えた方が多かったようです。

 

 

サイパン島で民間人の自決はなぜ起こったのか原因② 米軍は鬼畜だと宣伝された

 

出典:https://tanken.com/

 

サイパン島の戦いにおいて民間人の自決がなぜ起こったのかの原因として、太平洋戦争勃発後、日本国内でアメリカ軍やイギリス軍は鬼畜のような恐ろしい者達であると繰り返し宣伝されていた事が影響したとも指摘されています。

 

サイパンでは軍が民間人に対し、アメリカ軍に捕まれ酷い虐待や拷問を受けた挙句に殺されるのだから潔く自決を選んだ方が良いと教え込まれていたとされます。

 

アメリカ軍がサイパン島の戦いの後に実施した調査によれば民間人の生き残りのうち70パーセント以上が「米軍に捕まったら拷問される」と信じていた事が明らかにされました。

 

また、サイパン島の民間人が米軍に捕まれば拷問されると信じた原因は、軍の指導や教育よりも、「朝日新聞」、「婦人公論」、「雑誌キング」などが、「男や子供達は戦車やスチームローラーで轢き殺され、女たちは船に連れ去られて敵兵の慰み者にされる」などとセンセーショナルに報じており、それを読んだ日本将兵が民間人に話して広まっていた事が影響したとの分析結果も出ています。

 

 

サイパン島の戦いの生き残りの方の証言

 

出典:https://www.yomiuri.co.jp/

 

サイパン島の戦いで実際の現場で何が起きていたのかは、生き残りの方の証言で知る他ありません。サイパン島の戦いの生き残りの方の証言をいくつか紹介します。

 

 

サイパン島の戦いの生き残りの方の証言① 陸軍通信兵だった岡崎輝城さん

 

サイパン島の戦いの当時22歳の陸軍通信兵だったという岡崎輝城さんは、米軍の上陸開始時、水平線が見えないほどの米軍艦艇が押し寄せるのを見て絶望に駆られたそうです。

 

部隊は退却を繰り返し、塹壕に隠れて激しい艦砲射撃に身を潜めていると突然横にいた部隊の仲間がもたれかかってきたそうです。見ると、頭部が吹き飛んでおり噴き出した血で岡崎輝城さんは真っ赤に染まったといいます。

 

数日後、部隊は山中へと撤退してそこで銃撃戦が発生。その最中に民間人の若い女性が逃げてきて岡崎輝城さんの前へ倒れ込むと「兵隊さん、娘をお願いします」と言い残してそのまま生き絶え、一緒にいた幼い姉妹が「お母ちゃん、起きて」と叫び女性の体を揺すったそうです。

スポンサーリンク

 

岡崎輝城さんは助けてあげたいと思ったそうですが、すぐに敵の戦車が接近してきて後退命令が出されて幼い姉妹をその場に置き去りにするしかなかったという事です。岡崎輝城さんは今でもこの姉妹の泣き叫ぶ声が耳の中で響いていると話されていました。

 

岡崎輝城さんその後、戦闘の中で迫撃砲の破片を受けて気を失い米軍の捕虜となって生き残る事ができ終戦後に日本へ引き揚げたとの事でした。

 

 

サイパン島の戦いの生き残りの方の証言② 警備兵だった近藤軍八郎さん

 

サイパン島の戦いの当時、警備兵としてサイパン島にいた近藤軍八郎さんは、アメリカ軍に追い詰められてジャングルを彷徨い島の北端へと追い詰められたそうです。

 

幾度かの銃撃戦により重傷を負いましたが、初子さんという民間人の女性の献身的な看病により生き延びる事ができ、米軍の捕虜となって終戦後に帰国する事ができたそうです。

 

しかし、民間人の初子さんは洞窟内でアメリカ軍の銃弾を受けて亡くなったのだそうです。

 

近藤軍八郎さんは帰国後、初子さんのために鎮魂の写経を続けられたのだそうです。

 

 

サイパン島の戦いの生き残りの方の証言③ サイパン出身の民間人・有銘政夫さん

 

有銘政夫さんは、日本の委任統治領だった1931年にサイパンで生まれた民間人で、サイパン島の戦いの当時は12歳でした。

 

現地の国民学校に通い、太平洋戦争が勃発した後には手榴弾を投げるための模擬訓練や竹槍訓練などがあったそうです。

 

サイパン島にアメリカ軍が上陸した後は、両親ときょうだい達と北へ向かい避難したそうですが、父は常に手榴弾2個を携帯し1つは敵に投げる用、もう1つは自決用だったという事です。

 

有銘政夫さんは他の民間人が崖から飛び降りて自決するのも目撃しており、死にきれなかった人達が大勢岸に上がって来た事や、家族がお互いに縄で繋いで海に飛び込み全員が溺死した事や、ある父親が自分の家族を1人ずつ海に投げ込んだ事などを証言されています。

 

有銘政夫さんの父親も事あるごとに「自決しよう」と家族に言ったそうですが、妹が「死ぬのは怖い」と言い、母親が「死ぬのが嫌だと言っている子達を無理やり死なせるわけにはいかない、子供達が死ぬのを見届けてから私も死ぬ」と父親に言って自決を思い止まらせていたそうです。

 

ある日、父親は有銘政夫さん達に「用を足しに行ってくる」と言ってどこかへ行ってしまいそのまま帰ってこなかったのだそうです。

 

その後、有銘政夫さんと家族はバンザイクリフ近くのジャングルに逃げ込み、敵に囲まれました。有銘政夫さんは「水を腹一杯飲んでから自決しよう」と考えてきょうだい達を連れてジャングルを出て近くの民家へ行って水を飲み近くになっていた果実を食べて一息ついたそうです。

 

気がつくと米軍に囲まれており、そこで保護されました。有銘政夫さんは米軍に捕まると恐ろしい目に遭うと教えられていたそうなのですが、実際に保護されてみると彼らは怪我を治療してくれ収容所ではしっかり食事が出るなど、聞いていたとの実際の扱いとの違いに衝撃を受けたそうです。

 

有銘政夫さんときょうだい達は、終戦までは他の保護された子供達とサイパンに造られた学校で民主主義の教育を受け、終戦後の1946年の年明け頃に米軍占領下の沖縄へと移されています。

 

サイパン島の戦いの生き残りの方の証言はここで紹介した以外にも数多くあり、当時の様子を鮮明に知る事ができます。

 

 

サイパン島の戦いの敗因

 

スポンサーリンク

出典:https://upload.wikimedia.org/

 

サイパン島の戦いで日本軍は序盤こそ激しい反撃により米軍に一定の損害を与えたものの、圧倒的物量の前に大きな損害を出し中後半の戦闘では一方的な惨敗となりました。サイパン島の戦いの敗因はいくつか考えられます。

 

 

サイパン島の戦いの敗因① 防御準備の遅延により陣地化が全くできていなかった

 

サイパン島の戦いの敗因として、日本軍の防御準備の遅れがまずは挙げられると思います。

 

当時の日本軍上層部は、サイパン島を絶対国防圏の重要拠点と位置付けて兵力こそ3万〜4万とそれなりに大きなものを送り込んでいましたが、アメリカ軍のマリアナ諸島への侵攻はまだ先だと楽観視していた事や、海軍が防衛よりも決戦思想に傾倒していた事、陸軍の防衛戦略の迷走などにより、サイパン島の要塞化などの防御準備がほとんど進んでいませんでした。

 

強力な陣地構築にはコンクリートなどの資材が必須ですが、日本軍は兵員と火砲や装甲車両、武器弾薬の輸送を優先したため資材の輸送を後回しとし、米軍を上陸を開始する1944年6月の時点でその大半が日本本土に置かれたままでした。

 

そのため、強力な防御陣地の構築がそもそも不可能で、砲撃や爆撃に弱い木や土を主に使用した陣地を作るのがやっとの状況でした。上陸阻止において主力となるべき重砲陣地もコンクリートの不足からまともな掩体壕が作れずに上空から丸見えの状態(そのために空爆で大きな被害を受けた)となっていました。

 

 

サイパン島の戦いの敗因② 水際戦術に固執し艦砲射撃や航空攻撃で甚大な被害

 

出典:https://upload.wikimedia.org/

 

サイパン島の戦いの敗因としては、日本軍が水際で上陸してくる敵を撃滅する戦術に固執したため、海岸線に陣地と兵力を集中的に配置しており、上陸戦前のアメリカ海軍による激しい艦砲射撃により水際陣地と兵力が大被害を受け大きく損耗しました。

 

その後、比較的に被害の小さかった精鋭の砲兵部隊が効果的に反撃してアメリカ軍上陸部隊に大損害を与えたもののこれも航空攻撃や艦砲射撃によって程なくして沈黙させられました。

 

それでも日本軍は上陸したアメリカ軍を水際で総攻撃をかけて敵を海へと追い落とす戦術にこだわり、戦車や歩兵部隊による反撃を試みて、艦砲射撃の支援を受けた米軍と戦い大きな損害を出して撃退されました。

 

仮に、日本軍が最初から水際戦術を捨てて内陸部に敵を引き込んでから効果的に叩く戦法を取っていれば、持久戦に持ち込んで米軍に大きな損害を強いる事が可能性であったとする見方があります。

 

 

サイパン島の戦いの敗因③ 主力の第43師団の練度不足

 

サイパン島の戦いの敗因として主力であった第43師団が急編成された部隊で練度不足であった事も挙げられます。

 

第43師団は、サイパン島の戦いの前年の1943年に日本本土防衛のために新たに編成されたばかりの部隊で実戦経験はなく、内地の防空や工業地帯の訓練を重点的に行い、地上戦闘訓練や島嶼防衛訓練はほとんど積んでいませんでした。

 

サイパン島防衛には、独立山砲第3連隊、戦車第9連隊、横須賀鎮守府第一特別陸戦隊などの歴戦の精鋭部隊も派遣されていましたが、主力となる第43師団が練度不足であったためそうした精鋭部隊を十分に活かす事ができずに敗因となったとの見方がされています。

 

 

サイパン島の戦いを描いた映画では「太平洋の奇跡-フォックスと呼ばれた男-」が良作

 

スポンサーリンク

出典:https://pbs.twimg.com/

 

サイパン島の戦いを描いた映画では、2011年に公開された日本映画「太平洋の奇跡 -フォックスと呼ばれた男-」が良作です。

 

この映画はサイパン島の戦いに参加した元海兵隊員のアメリカ人作家のドン・ジョーンズ氏の「Oba, the Last Samurai: Saipan 1944-45」を原作とした作品でした。

 

同映画で竹野内豊さんが演じた主人公の大場栄大尉は実在の人物で、サイパン島守備隊が玉砕した後もわずか47名の兵を率いてゲリラ戦を展開して戦い続け神出鬼没の戦術で4万5000人のアメリカ軍を手玉に取り、アメリカ兵から畏敬の念を込めて「フォックス」とあだ名された男でした。

 

海兵隊員としてサイパン島で戦ったドン・ジョーンズ氏は大場栄大尉の戦いぶりに感銘を受け、大場栄大尉本人の承諾と改訂を受けた上で事実に即した小説として「Oba, the Last Samurai: Saipan 1944-45」を執筆し1982年に発表しました。

 

映画「太平洋の奇跡 -フォックスと呼ばれた男-」はこれを映画化したもので、日本人としてはかなり胸が熱くなる内容となっています。

 

サイパン島の戦いを描いた映画としては他に、2022年のタイ映画「1944 サイパン攻防戦80年目の真実」がありますが、こちらは事実を全く無視した内容で荒唐無稽であり観る価値はありません。

 

 

まとめ

 

今回は、太平洋戦争の後期である1944年6月15日〜7月9日にかけてマリアナ諸島のサイパン島で行われた日本軍とアメリカ軍との激戦「サイパン島の戦い」についてまとめてみました。

 

サイパン島の戦いは、絶対国防圏の重要拠点としてサイパン島に兵力を送り込んでいた日本軍と、日本への侵攻拠点としてまた、B-29の出撃基地としてマリアナ諸島攻略を目指していたアメリカ軍との間で発生した戦いでした。

 

サイパン島の戦いは日本軍がほぼ全滅となる推定で3万〜4万人超の戦死者を出して敗北し、居住していた日本人の民間人の死者数も8000人〜1万2000人にも上りました。そのためサイパン島の戦いでは民間人の被害を避けようとせず死者数を増やし、むしろ自決を促すような日本の対応が太平洋戦争終了後に批判の対象となりました。

 

サイパン島の戦いでは多くの民間人が崖から飛び降りたり手榴弾を使ったりして自決をし、世界に衝撃を与えました。このような民間人の自決がなぜ起こったのかの原因は、当時のサイパン島の民間人が、日本の軍部やマスコミによる宣伝によってアメリカ軍を恐れており「捕まれば拷問される」と信じていたため、捕まるくらいなら自決した方がマシだと考えていたためだとされています。

 

サイパン島の戦いの生き残りの方の証言が数多く残されておりそれにより当時のサイパン島の状況を知る事が可能です。

 

サイパン島の戦いを描いた映画では「太平洋の奇跡 -フォックスと呼ばれた男-」があります。

記事に関連するキーワード

キーワードからまとめを探す

関連する記事①

今見ているまとめと同じカテゴリーの記事

ガダルカナル島の戦いの日本軍の敗因!戦没者名簿と死因・人肉や生き残りの証言・場所や目的・映画や現在もまとめ

小早川秀秋の死因!家系図や子孫・関ヶ原で裏切った理由・その後も総まとめ

日本の侍が盾を使わない理由!定義や階級の歴史・武士との違い・防具もまとめ

スカフィズムは本当に実在?拷問の内容と手順・漫画も総まとめ

パラオの現在!親日や日本語が公用語の州・植民地の歴史・事件や治安・直行便など行き方・観光スポットや大統領もまとめ

即身仏は日本の山形でなぜ多い?作り方と失敗・見れる場所・現在は禁止の理由も総まとめ

吉原の花魁の歴代美人ランキング12選!一番きれいな高級遊女とは

毛沢東の死因!何した&どんな人?歯磨きなど面白いエピソード・殺戮や文化大革命・日本軍との戦い・歴代の嫁と子供や孫・ミイラ化の遺体まとめ

関連する記事②

今見ているまとめに近い記事

りらくる社長/出上幸典の転落死の真相!創業者/竹之内教博による原因解説や現在も総まとめ

アメリア・イアハートの生涯と死因!日本軍の関与・飛行機記録や名言・映画化やソアリンのモデルの噂を総まとめ

上島竜兵の遺書や自殺の真相!死去の原因・有吉弘行との関係・葬儀や命日も総まとめ

東尋坊の現在!なぜ有名?飛び降り自殺や事件と事故・心霊現象・場所やアクセスまとめ

京阪電気鉄道置石脱線事故の犯人/中学生とその後現在!賠償金と裁判・場所や原因を総まとめ

かぼちゃの馬車事件とその後!スルガ銀行とスマートデイズの関係など問題点・菅澤聡社長の現在もまとめ

第二次世界大戦の原因と年表!死者総数や日本が参戦した理由・敗戦国その後や終戦も総まとめ

幽体離脱の芸能人/有名人11人の体験談&エピソード!原因の心理学的解説とやり方もまとめ

記事へのコメント

気軽に意見を書いてね

前後の記事

興味があればチェックしてね

ガダルカナル島の戦いの日本軍の敗因!戦没者名簿と死因・人肉や生き残りの証言・場所や目的・映画や現在もまとめ

渡辺泰子(東電OL殺人事件)の生い立ち・親や家族・経歴!事件の真犯人や真相・犯人の無罪判決や死因などまとめ

カテゴリー一覧

カテゴリーからまとめを探す