飛騨川バス転落事故の場所と原因!運転士の責任・中学生や生存者のその後・口裂け女の関連・慰霊碑に幽霊が出る噂など心霊現象まとめ

飛騨川バス転落事故は104名もの犠牲者を出したバス史上最大級の事故です。今回は事故の場所、原因や運転士の責任、助かった中学生など生存者の現在やその後、現場から口裂け女の骨が出た、慰霊碑に幽霊が出るなど心霊現象について紹介します。

飛騨川バス転落事故とは

 

出典:https://ja.wikipedia.org/

 

飛騨川バス転落事故は、1968年8月18日未明に起きた事故です。集中豪雨により発生した土石流に飲み込まれた2台の観光バスが飛騨川に転落し、104名もの人命が奪われました。

 

被害に遭ったのは、名古屋市内から登山のために乗鞍岳に向かっていた観光バス15台のうちの2台。豪雨のため観光登山を断念し、名古屋方面に引き返していたところで土石流に巻き込まれました。

 

事故当日、奥美濃地域は岐阜地方気象台の記録上最大の豪雨に襲われており、飛騨川も増水し流れの速さも増していました。そこに土石流に押された2台のバスが転落したため、乗客、乗員107名のうち104名が亡くなり、運良く転落時にバスから放り出された3名だけが生存するという悲劇が起きたのです。

 

1つのバス事故で100名を超す死者が出たことは前代未聞であり、飛騨川バス転落事故は現在も日本のバス史上最悪、最大級の被害を出した事故として知られます。

 

 

 

飛騨川バス転落事が起きた場所

 

 

飛騨川バス転落事故は、岐阜県加茂郡白川町河岐の国道41号上で発生しました。現場は白川町にある上麻生ダムの下流で、南側約330メートルの地点。

 

切り立った山と谷に挟まれた細い道路で、事故後も落石の危険がある道路として50年以上、危険視されてきました。2022年に入り、ようやく国道41号では土砂崩れや落石事故が起きやすい場所を避けるバイパス工事がおこなわれています。

 

 

 

飛騨川バス転落事故の詳細① 被害にあったのはタウン誌のバスツアー参加者

 

 

被害に遭ったバスは、名古屋市内の集合住宅で配布されていた株式会社奥様ジャーナルが発行する『奥様ジャーナル』紙上で参加者を募ったバスツアーのものでした。

 

「乗鞍雲上ファミリーパーティ」として企画されたこのツアーは、お盆休みの週末という参加しやすい日程で組まれ、費用も大人1名2000円でお土産や弁当などもつくというお得な内容だったといいます。

 

くわえて当時は乗鞍スカイラインが整備されたことから乗鞍岳登山に注目が集まっており、ツアーには夏休み中の子どもがいる家庭や主婦を中心に750名もの参加希望者が集まりました。

 

最終的に約730名がツアーに参加することとなり、当日、参加者はバス15台に分乗して乗鞍岳に向かったとされます。なお、主催者側はあらかじめ岡崎観光自動車の貸切バスを6台手配していたとのことですが、予想を大幅に上回る参加者が集まったため、ほかに名古屋鉄道系列のバス会社3社から9台のバスを手配したそうです。

 

主催者側が組んでいたツアーの日程は以下のようなものでした。

 

・8月17日の夕方に15台のバスが名古屋市内の各団地にある42ヶ所の集合場所で参加者を乗せる

 

・21時30分に愛知県犬山市内の駐車場で参加者を乗せたすべてのバスが集合する

 

・22時、岐阜県に向けて出発。飛騨川の日本ライン沿いに国道41号を進み、8月18日の午前3時30分から4時の間に畳平に到着

 

・午前4時30分、山頂で御来光を拝む

 

・山頂付近でパーティーをした後、畳平を10時30分〜11時の間に出発

 

・14時頃に下呂温泉に到着。昼食休憩

 

・18時頃に犬山市に到着。各団地の集合場所まで参加者を送り届けて解散

 

行程は片道およそ160kmで、車中泊のため運転士は夜通し運転をすることになります。しかし、中京地区の運転士にとっては無理のある行程ではなく、走りなれた定番のコースであったそうです。

 

 

 

飛騨川バス転落事故の詳細② 事故当日の天候

 

8月17日の朝、名古屋市をふくむ中部地方一帯は台風7号の影響で朝からぐずついた天候でした。

 

岐阜県内も雷雲が発達し、時折、激しい雨に見舞われるなどしていたため、岐阜地方気象台は9時30分に大雨・洪水注意報を、11時10分にはくわえて雷雨注意報を発表していました。

 

しかし午後になると雨は小降りになり、夕方17時15分には注意報も解除され、その晩19時の天気予報では「岐阜県の天気は回復、18日は朝から晴天」と報じられたといいます。

 

ところが、20時を過ぎると予報は一変。ゆっくり南下してきた寒冷前線に、勢力を落として熱帯低気圧となった台風7号の暖湿流が湿舌のかたちで流れ込み、猛烈な集中豪雨を発生させるおそれが出たのです。

 

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小規模の雷雲が次々と発生するという不安定な大気の様子を受けて、20時には岐阜地方気象台は再び東濃・美濃および飛騨高山地方に雷雨警報を発令。さらに22時30分には大雨警報・洪水注意報を発令しました。

 

実際に飛騨川バス転落事故の現場近くにある白川町三川小学校観測所では、17日23時から18日午前0時の間に、100ミリの時間雨量を記録。さらに中濃地域にある郡上市美並町では同時間帯に149ミリもの時間雨量を記録しており、これは岐阜地方気象台の観測史上最大の雨量でした。

 

急変した天気による局地的な豪雨に見舞われたことから、17日から18日にかけての深夜、岐阜県内の山間部には以下のような被害が出始めていたとされます。

 

・加茂郡、武儀郡、郡上郡、益田郡、恵那郡で家屋の全半壊および流失104棟

 

・235ヶ所での山崩れ

 

・加茂郡白川町、川辺町、富加村などに災害救助法発令

 

・高山本線の古井駅から下油井駅の間で線路崩落

 

・419箇所で公道損壊が発生

 

・一般加入電話約3,200回線が不通

 

飛騨川バス転落事故の被害に遭ったバスツアーを企画した株式会社奥様ジャーナルも、決して天候について楽観視していたわけではなく、17日には3度に渡って日本気象協会東海支部に問い合わせをし、乗鞍岳の天候について確認をとっていました。

 

しかし、主催者側が心配していたのは標高が高い乗鞍岳の天候や安全性だけで、そこに至るまでの道中の天候はあまり気にかけていませんでした。

 

そのため17日の18時30分に日本気象協会東海支部に問い合わせた際に受けた「乗鞍岳は17日中にわか雨と濃霧が残るが、18日朝には天気が回復する」という回答と、名古屋鉄道が乗鞍岳夏期定期観光バス「のりくら号」の夜行便を17日夜も運行する予定だという情報を得て、ツアーをおこなうことに決めたのです。

 

17日の夕方から夜にかけて、ツアーのバスは予定通りの時刻に参加者を集めて飛騨高山方面に向かっていきました。

 

前述のように17日の20時と22時半には岐阜地方気象台から注意報や警報が出ていたのですが、当時は情報伝達手段が整備されていなかったことから、走行中のバスがこうした情報を入手する方法はラジオ放送などに限られました。したがって15台のバスは、向かう先でどのような自然災害が起きているのかを知らずに目的地を目指したのです。

 

 

 

飛騨川バス転落事故の詳細③ 豪雨と予定変更

 

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乗鞍岳に向かったツアー一行は、岡崎観光自動車のスタッフを乗せたライトバンを先導として乗鞍岳に向かいました。

 

一号車から欠番の四号車を飛ばした七号車までが岡崎観光自動車のバス6台、八号車と九号車が知多乗合自動車のバス2台、十号車と十一号車が東濃鉄道バスのバス2台、十二号車から十六号車までが名古屋観光自動車のバス5台が先導車に続き、乗客と主催責任者、運転士、添乗員ら合わせて合計773人が乗車していました。

 

これに伴走車2台がくわわり、一行の列は600メートルにも及んだといいます。一行は予定より遅れた22時20分に集合場所の駐車場を出発。

 

その20分後、美濃加茂市内を通過したあたりから小雨がぱらついてきましたが、車中泊で遅い時間であったことからバス内では車内放送のラジオを切っていたため、大雨警報を把握することができませんでした。

 

その後、下麻生地内から飛泉橋を渡るまでの間に天候は悪化。ワイパーを高速で動かしても拭いきれないほどの激しい雨と稲光、冠水した道路などに見舞われたものの、同じく乗鞍岳方面に進む他社のバスも複数見られたことから、ツアー責任者は不安もなく、そのままバスを進めました。

 

 

ツアー延期と出発地への引き返しを決定

 

23時33分、一行は最初の休憩地であるモーテル飛騨に到着。モーテル飛騨の駐車場には観光バスや乗用車が40台も停車して満車状態で、お盆の帰省による重体だけではなく、悪天候により立ち往生している車が多いことを示していました。

 

そこでツアーの責任者はモーテル内で情報収集をおこない、この先で大規模な土砂崩れが起きていて、国道41号が通行止めになっていることを知ります。さらに復旧作業は夜明け以降になるうえ、土砂崩れは両車線を塞ぐ大規模なもので復旧に時間がかかることも判明し、責任者はやむなくツアーの続行を断念しました。

 

運転士や添乗員とも協議した結果、一週間後にツアーを延期することを決め、この日は名古屋方面に引き返すことを決めたのです。

 

 

 

飛騨川バス転落事故の詳細④ 分かれた明暗

 

8月18日0時5分頃、ツアー一行は来た道を戻ることを決めてモーテル飛騨を出発。途中、5キロメートルほど進んだ場所にある七曲モーテルで岡崎観光自動車のバス6台をのぞく9台が休憩をとったため、一行は先行したバス6台(Aグループ)と、休憩後に遅れて南進した9台(Bグループ)の2グループに分かれることになりました。

 

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後述しますが、この2つのグループのどちらにいたかで乗客の運命は大きくわかれることにます。

 

先行したAグループは0時17分には白川口駅前を通過し、飛泉橋に差し掛かっていました。Aグループの運転士はこの時、白川口駅前に停まっている車が複数あるのを確認していましたが、気にせずに南進。

 

警察による看板も乗鞍岳方面に向かう「北進禁止」というものは出ていたものの、南進を禁じるものは出されていませんでした。そのため、運転士も道路状況に問題はないと考えたのです。

 

一方で遅れて白川口駅前にやってきたBグループは、運転士の1人が自社の同僚が運転するバスが白川口駅前の駐車場に停まっていることを見つけて停車し、同僚に状況を確認。

 

同僚から「この先、飛水峡方面の道路は土砂崩れも起きて危険だと聞いた。そのため運行の中止を会社に連絡しようとしていたところだ」と聞いた運転士は、ほかの8台のバスの運転士と添乗員にもその旨を報告しました。

 

そして運転士たちがそれぞれ自分のバス会社に状況確認をしようと公衆電話に向かったところ、白川町の消防団員と行き合い、飛騨川の増水して危険な状態にある旨と、駐車場からの退避を勧告されます。

 

さらに飛水峡方面から引き返してきた車の運転手からも「飛水峡方面は土砂崩れが起きて車幅が狭くなっており、道路状況も悪く危険だ」との話を聞いたBグループの運転士らは、話し合った結果、白川口駅前の広場にバスを移動して道路が復旧するまで待機することにしたのです。

 

 

 

飛騨川バス転落事故の詳細⑤ 五号車と六号車

 

飛泉橋を渡ったAグループのバスは小規模の土砂崩れに見舞われながらも、土砂をスコップで除去するなどの作業を挟んで南進を続けていました。

 

しかし上麻生ダムから南1キロメートルの場所で大規模な土砂崩れが起きて完全に道が塞がれていたことから、運行不能に陥り、30台の車とともに立ち往生することになってしまいます。

 

そこに先ほど白川口駅前で退避勧告をしていた消防団員が歩いて訪れ、立ち往生していたすべての車に対して白川口駅方への退避を勧告。消防団員らは飛水峡方面で起きた土砂崩れの現況確認に来たところだといい、この場所に留まるとさらなる落石や溢水に巻き込まれるおそれがあると説明しました。

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Aグループのバスはこの勧告に従って白川口駅方へ戻っていきましたが、1時35分頃と1時50分頃に発生した土砂崩れに挟まれ、前進も後退もできなくなってしまいます。

 

身動きが取れず、落石や土砂崩れが起きたら一巻の終わりという状況にあって、運転士たちは土砂崩れや鉄砲水の警戒にあたる、屋根をつたって集まり、情報交換をするなど乗客の安全を守ろうと努めていました。

 

一方、乗客のなかにはバスが停車している場所による不平や不公平感を口にする者も出ていました。

 

とくに沢の下に停車していた五号車と六号車の上には、ほとんど土砂や小石が落ちてこなかったため、土砂が堆積した崖の下にいたほかの車両の乗客からは「場所がいい」と羨ましがられていたそうです。

 

運転士も沢の存在は確認していたものの、土砂が剥き出しになっている場所に比べて安全度は高いと判断し、五号車と六号車を移動させようとはしませんでした。しかし直後にこの沢が、飛騨川バス転落事故を起こすことになるのです。

 

 

 

飛騨川バス転落事故の詳細⑥ 事故発生

 

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8月18日午前2時11分、五号車と六号車、七号車が停まっていた道路わきの山肌がゆるみ、長さ約100メートル、幅約10メートルにもおよぶ岩盤崩落と、数箇所での土石流が発生しました。

 

10トンダンプカーおよそ500から1,000台分とも換算される量の岩石と土砂が扇状に流出して3台のバスを襲いかかり、流れに押された七号車は横滑りしてガードレールに激突。なんとかそこでとどまりました。

 

しかし五号車と六号車の上は溢水で滝のように流れ落ちていた沢の水の影響で土石流の勢いが激しく、2台のバスはガードレールを破壊して飛騨川に投げ出されてしまったのです。

 

事故現場付近の飛騨川は普段であれば水深も3〜4メートル程度と浅く、水があるのも川の中央部だけでした。しかし事故当日は豪雨の影響で川幅いっぱいに水が溢れ、道路から15メートル下にまで水位が上がっていました。

 

五号車と六号車は飛騨川の中に姿を消し、乗っていた乗客、運転士、添乗員ら合計107名のうち、104名がバスとともに川に沈みました。

 

助かった3名は運転士、添乗員、乗客それぞれ1名で、全員、バスが川に転落する際に割れた窓から外に投げ出され、運良く木の枝などに捕まることができたために、九死に一生を得たといいます。

 

 

 

飛騨川バス転落事故の詳細⑥ 運転士による通報と救難活動

 

転落を免れたバスの運転士ら4人は上麻生ダム見張所に向かい、ダムの職員が無線で本部に連絡、本部の職員が岐阜県警本部へ通報したことで発覚しました。

 

上麻生発電所職員は運転士や添乗員と協力して乗客や事故現場付近にいたドライバーを誘導し、見張所や水門機械室へ避難させました。そしてその後、消防団員も駆けつけてバスの乗客およそ200名を白川町中学校体育館に避難させ、二次災害を防いだとされます。

 

転落したバスの捜索と生存者の確認には、通報を受けた加茂警察署のほか、4警察署の機動隊と消防団、そして陸上自衛隊などがあたりました。しかし、事故現場は極度に増水した濁流であり、両岸も切り立った崖であることから捜査は難航。

 

犠牲になったバスの1台、五号車は9月19日10時30分の転落現場から約300メートル下流で発見されましたが、車体はくの字型に押しつぶされており、車内には幼児の遺体が3体残されていただけでした。

 

出典:https://ameblo.jp/

 

同時にバスの周辺から23名の遺体が発見されましたが、残りの遭難者や六号車の姿は確認できず、やむを得ず上麻生ダムの放流を止めて飛騨川の水位を下げて捜索を開始することに。

 

8月22日、23日、24日の3日間にわたってダムを操作して水位を下げたところでやっと天井が剥がれた状態の六号車が発見されましたが、車内には子どもの遺体が1体あったのみでした。

 

その後も事故の発生から一ヶ月以上にわたって遭難者の捜索がおこなわれ、多くの遺体が土石流の下から発見されたといいます。しかし最終的に、8名の遺体が見つからないまま現在に至ります。

 

また土石流の下から発見された遺体も損傷が激しく、体の一部だけが発見されるケースもあったために、収容所は混乱を極め、遺体の取り違いも起きていたそうです。

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飛騨川バス転落事故の原因と主催者・運転士の責任

 

出典:https://pixabay.com/

 

事故後、バスツアーを開催した株式会社奥様ジャーナルの社長と生存した運転士らの過失責任を問う動きもありましたが、岐阜県警は事故は予測可能なものではなく、重過失も認められないとの判断を下しました。

 

さらに1968年9月26日には国家公安委員会も業務上過失致死傷罪は適用されないという判断を下し、1969年3月25日に岐阜地方検察庁によって不起訴処分が確定しています。そのため、主催者や運転士に刑事責任は問われませんでした。

 

結果的に飛騨川バス転落事故が起きた原因は、予想を超える豪雨によっておこされた自然災害と、偶発的な判断ミスによる人災が重なったためとされています。

 

一方で遺族は飛騨川バス事故遺族会を結成し、天候の悪化を把握していながら乗鞍岳に向かった奥様ジャーナルと、ツアーを後援した名鉄観光サービス、犠牲になったバスを運転した岡崎観光自動車の3社に対して損害賠償を求めました。

 

賠償請求に対して主催者側は被害者1人あたり40万円、総額4080万円(102人分)の補償案で合意し、示談が成立しました。

 

また遺族会は国の道路管理についても責任を追求し、国家賠償を求める訴訟を起こします。

 

遺族会は犠牲者家族40世帯、119名が総額5億2,312万2,000円の賠償金の支払いを国に求めましたが、名古屋地裁で開かれた第一審では、要求を大幅に減額した約9,396万1,384円の支払いが認められたに過ぎなかったため、遺族会は名古屋高裁に控訴。

 

名古屋高裁は「土石流など、危険な道路状況が予測できる立場にあったにもかかわらず国道41号の通行禁止など、安全を守る措置をとらなかったのは行政の過失」として、一審判決を大きく上回る約4億円の賠償額の支払いを国に命じました。

 

国が控訴しなかったために賠償金額は名古屋高裁が定めたもので確定し、事故発生から判決確定までに発生した利息1億1,900万円を上乗せした金額で、支払いが開始されています。

 

 

 

飛騨川バス転落事故のその後① 当時中学生などの生存者

 

犠牲になった五号車と六号車に乗っていた人のなかで、助かったのは事故当時30歳であった五号車の運転手と、事故当時21歳であった添乗員、そして事故当時14歳の中学生・成田良正さんの3名でした。

 

3名は全員男性で、乗客のなかで唯一の生存者である成田さんは姉と両親の家族4人でツアーに参加し、事故で家族全員を亡くすこととなりました。しかし、事故の後は祖母や親戚の援助を受け、大学まで無事に進学したといいます。

 

なお、2019年に64歳になった成田さんは岐阜日報の取材に応じ、事故後、初めて土石流にのまれた時の心境や生還した時の心境を語っていました。

 

 

 

飛騨川バス転落事故のその後② 慰霊塔の建立

 

 

飛騨川バス転落事故の一周忌を迎えた1969年8月18日、事故現場近くに犠牲者を悼む慰霊碑「天心白菊の塔 」が建立されました。

 

自治体などが資金を出して建てたコンクリートの塔は高さ8.18メートルで、これは事故の発生日にちなんだものです。当時の総理大臣である佐藤栄作元首相が題字を刻んだ石碑も併設されています。

 

天心白菊の塔は建築家の左高啓三さんが設計したもので、佐高さんの父親が事故の起きたツアーに携わったバス会社の社長であったことから、設計を依頼されたのだといいます。

 

この慰霊碑の前では毎年、8月18日に被害者遺族や生存者らが集まって白川町仏教会主催の慰霊祭が開かれてきました。

 

2021年に国道41号のバイパス工事のために解体されましたが、2022年には国道41号線沿いにある美濃白川産直総合施設、「よいいち(41)美濃白川」の敷地内に移設されています。

 

 

 

飛騨川バス転落事故のその後③ 事故後の対策

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飛騨川バス転落事故をきっかけにして、豪雨や豪雪などの異常気象が発生した際の国道の防災体制が見直されました。事故後には道路管理者が過去の災害等の発生状況を鑑みて、異常気象時に通行規制をおこなう基準や区間などを決められるようになっています。

 

また同様の事故の再発を防ぐために気象情報の迅速な伝達も重視され、建設省と気象庁が協力して注意報や警報などの気象情報を伝える専用電話で伝達する仕組みも整備されました。

 

さらに1970年には建設省と警察庁の認可を得て、公益財団法人日本道路交通情報センターが設立。これにより、道路交通情報を集約し、周知する仕組みができたのです。

 

 

 

飛騨川バス転落事故の現場に幽霊が出る?

 

出典:https://www.pakutaso.com/

 

飛騨川バス転落の事故現場、2021年まで慰霊碑があった周辺ではたびたび心霊現象が報告されています。

 

とくに多いのが女性の幽霊を見たというもので、ずぶ濡れの女性に「名古屋はどっちですか?」と聞かれたという体験が見られました。ずぶ濡れの幽霊はほかにも目撃されており、おそらくバス事故で亡くなり、自宅に帰れない人の魂が事故現場周辺を彷徨っているのではないか?と囁かれています。

 

ほかに深夜に飛騨川を覗き込むと無数の手や足が見える、手が伸びてきて引きずり込まれそうになるという噂もあるようです。

 

 

 

飛騨川バス転落事故の現場付近で起きた心霊現象

 

飛騨川バス転落事故の事故現場付近では、以下のような心霊現象の体験談が報告されています。

 

乗鞍岳にスキーに行った帰り道、国道41号線の白川町付近のバス停でヒッチハイクをしている3人組に行きあった。

 

夜更けになぜ、こんな場所に?と気味悪く思ったが、気の毒に感じて話しかけると「岐阜駅まで行きたいんです。そうしたら電車で帰れるので」と答えた。

 

岐阜駅は家に帰る通り道にあったため、3人を乗せて走った。よく見ると3人の服装は妙に古めかしく、まだ若く見えるがどのような関係なのかわからないほどよそよそしい。変だな、と感じたが詮索する気もなかったので、そのまま岐阜駅に送り届けた。

 

岐阜駅に着くと3人は「ありがとうございます。これで帰れます。それにしても、この辺もずいぶん変わったんですね」と言って車を降りた。

 

そして車を降りたところで3人の姿は煙のように消えたのだ。驚いて3人が座っていた後部座席を見ると、そこはじっとりと濡れていた。

 

また、かつて天心白菊の塔があった辺りではサイレンの音が聞こえる、という体験談もネット上で見られましたが、これは居眠り防止のために車を感知すると鳴るサイレンの音であり、心霊現象ではありません。

 

出典:https://twitter.com/

 

岐阜県内の道路には上のようなフクロウが描かれた居眠注意の標識があり、車を感知するとドライバーの眠気覚ましのために音が鳴る仕組みになっています。

 

この標識はかつて鹿児島県の国道などにも設置されていたようですが、現在は数が減って岐阜県以外ではあまり見られなくなったそうです。そのため初めて聞いた人が怪奇現象かと勘違いをしてしまう様子です。

 

 

 

飛騨川バス転落事故の現場から口裂け女の骨が出た?

 

出典:https://plaza.rakuten.co.jp/

 

飛騨川バス転落事故の遭難者の捜索をしている際、川の底から転落事故が起きる前からここに遺棄されていたと思われる白骨化した頭部が発見され、それを復元したところ口が耳のあたりまで裂けた口裂け女のものだったらしい、という都市伝説もあります。

 

なお、口裂け女は1969年の12月に岐阜の美濃加茂郡八百津町で目撃されたのが最初で、それ以降、マスコミに取り上げられて全国的に流行したという経緯を持つため、前年に岐阜県内で起きた大事故が口裂け女と結び付けられたのではないかと思われます。

 

 

 

飛騨川バス転落事故についてのまとめ

 

この記事では1968年8月に起きた日本史上最大規模のバス事故、飛騨川バス転落事故について紹介しました。

 

ここで中止の判断をしていれば、ラジオをつけたままにしていれば、この時点で引き返していればといういくつもの選択を悪い方向に進んだ結果、飛騨川バス転落事故は起きてしまいました。

 

五号車と六号車が転落している様子を目の当たりにした七号車の乗客のなかには、寝ていたところ子供の叫び声で目を覚ました、今でも事故の時に聞いた声が忘れられないという方もいるといいます。まさに地獄のような一夜だったのでしょう。

 

亡くなった104名の方々のご冥福とともに、同様の悲劇が起こることがないよう祈ります。

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