三河島事故とは、1962年に常磐線の三河島駅で発生した鉄道の三重衝突事故です。今回は160名の犠牲者を出した事故の原因や運転士の責任、身元不明の遺体番号88、慰霊碑の場所や創価学会の噂、ミンチになった霊が出るなど心霊現象について紹介します。
この記事の目次
- 三河島事故の概要
- 三河島事故が発生した場所
- 三河島事故の時系列① 貨物列車の脱線
- 三河島事故の時系列② 貨物列車に下り普通列車が衝突
- 三河島事故の時系列③ 多くの犠牲者を出した第3の衝突が発生
- 三河島事故の原因① 出発信号の誤認
- 三河島事故の原因② 線路に出てしまった乗客
- 三河島事故の原因③ 情報伝達の遅れ
- 三河島事故の裁判と運転士の責任
- 三河島事故のその後① ATSや列車防護無線の整備
- 三河島事故のその後② 身元不明の遺体番号88
- 三河島事故のその後③ 慰霊碑の建立
- 三河島事故の噂① 事故に創価学会が関わっていた?
- 三河島事故の噂② ミンチになった犠牲者が現れる
- 三河島事故の噂③ 事故現場周辺は心霊現象が絶えない地域だった?
- 三河島事故についてのまとめ
三河島事故の概要
1962年5月3日の21時37分頃、国鉄常磐線の三河島駅構内で鉄道の三重衝突事故が発生しました。
発端となったのは水戸(下り方面)に向かう貨物列車の脱線であり、この脱線事故が起きた4分後に同じ線路を走る取手行き(下り方面)の普通列車が貨物列車に衝突。
普通列車の乗客らは非常用のドアコックを開けて車両から脱出し、上り線側に降りて歩いて三河島駅方面に向かおうとしました。
しかし、そこに上野(上り方面)に向かう普通列車が進入して次々と線路上の客をはね飛ばし、上りの線路上に乗り上げていた取手行きの普通列車にさらに衝突。
これによって停車していた取手行きの普通列車の先頭車両は原型がないほどまでに粉砕され、衝突した上野行きの普通列車も先頭車両が大破し、2両目と3両目は高架下に転落、4両目も脱線するという惨事が発生したのです。
結果、線路を歩行中にはねられた乗客と車両ごと高架下に転落した乗客を中心に、死者160人、負傷者296人、合計456人の死傷者を出すに至りました。
甚大な被害を出した三河島事故は翌年に発生した鶴見事故とともに、国鉄戦後五大事故に数えられます。
三河島事故が発生した場所
三河島事故が起きたのは三河島駅の東350m付近の地点で、線路が4本から3本になる渡り線装置がある場所です。住所では東京都荒川区東日暮里3丁目付近にあたります。
なお、現在もJR三河島駅は存在していますが、事故当時にあった三河島町という地名はなくなっており、三河島町の区域は荒川や東日暮里、西日暮里に編入しています。
これについて「三河島事故の悲惨なイメージが色濃く残る地名を消したかったための区画変更だった」とする都市伝説がありますが、実際には事故の前(1961年10月31日)から三河島町の分割、編入合併は始まっていました。
そのため、三河島事故と三河島町という地名の消失に因果関係はないものと思われます。
三河島事故の時系列① 貨物列車の脱線
三河島事故が起きた5月3日はGWの最中、飛び石連休の第一日目でした。この日は早朝に東北地方で地震があり、さらに東北本線古河駅では脱線事故が起きたことから、常磐線のダイヤは夜間になっても正常には戻らなかったとされます。
最初の脱線事故を起こした貨物列車は、通常であれば三河島駅には停車せずに通過し、そのまま下り本線に合流して目的地の水戸方面に向かう予定でした。
しかし、事故当日は前述のダイヤの乱れの影響で普通列車に2分30秒ほどの遅れが出ていたため、三河島駅で後続の普通列車の到着と出発を待つ必要があったのです。
ところが貨物列車の運転士は常磐線下り本線に入る地点の信号が赤になっていることを見落としてオーバーラン。信号の直前で気付いて非常ブレーキをかけましたが間に合わず、貨物列車は安全側帯の車止めに乗り上げて脱線し、下り本線側にやや傾いた状態で停車することとなりました。
三河島事故の時系列② 貨物列車に下り普通列車が衝突
最初の脱線事故を起こした車両は貨物列車で乗客がなく、かつ車両が傾斜しただけで済んだことから大きな被害はありませんでした。
しかし動けなくなった貨物列車が停車している地点に、定刻より4分遅れで21時36分に三河島駅を発車した取手行きの下り普通列車が近づいてきたのです。
7両編成であった下り普通列車は時速約40kmで貨物列車に衝突。衝撃で下り普通列車の先頭車両と2両目が脱線し、上り本線を塞ぐような格好に傾いて停車しました。
しかしながら2回目の衝突事故では下り普通列車に乗っていた乗客25名が軽傷を負っただけで済んでおり、まだ重症者や死者は出ていませんでした。
脱線でパンタグラフが外れたことから先頭車両と2両目では停電が起き、下り普通列車の乗客らは非常用のドアコックを操作して扉を開けて列車の外に脱出。上り車線側に降りた乗客らは、とりあえず三河島駅を目指して線路を歩いて進もうとします。
事故直後、6両目にいた車掌は何が起きたのか確認をとるために運転士に連絡を試みましたが、車内電話の応答がなかったために外に出て、先頭車両に向かっていました。
さらに事故現場から100mのところにあった三河島東部信号扱所には2人の職員がいましたが、彼らも三河島駅の助役への事故報告や現場の確認に追われ、事故後すぐに下り本線の信号を停止に切り替えたものの、上り本線の信号操作まではおこないませんでした。
また信号扱所から連絡を受けた三河島駅の助役も、後続の下り列車の運行停止連絡はしたものの、上りの列車については事故発生通知しか出さなかったとされます。
事故現場は三河島駅から350m離れていたうえ、現在に比べて屋外照明も少なく視界が悪かったといいます。そのため三河島駅から目視で脱線車両が上り本線を塞いでいることや、上り本線を乗客が歩いて移動していることなどは確認できなかったのです。
三河島事故の時系列③ 多くの犠牲者を出した第3の衝突が発生
出典:https://rail-to-utopia.net/
第3の衝突事故を起こすことになる上野行きの上り列車は、予定時刻を2分ほど遅れて三河島駅の隣の南千住駅を発車しました。
同じ頃、事故現場付近まで確認に行った三河島東部信号扱所の職員がさきほど脱線した下り列車が上り本線を塞いでいることに気づき、慌てて南千住駅の信号扱所に「上り線支障」の電話連絡を入れています。
南千住駅の信号扱所はすぐに出発信号を停止に切り替えようとしましたが、すでに上り列車は信号所の前を通過。そのまま事故現場の近くまで進入してしまっていたのです。
事故現場付近まで来て線路上に大勢の人がいることに気づいた上り列車の運転士は、慌てて非常ブレーキをかけました。
しかし間に合わず、線路にいた人々を次々にはね飛ばしながら上り列車は進み、その先にあった下り列車の先頭車両に衝突。
最終的に上り車両の先頭車両は衝撃で粉砕、2両目は高架下に転落して線路脇の倉庫に突っ込み、3両目も同じく高架下に転落、4両目が脱線するという大惨事に至り、上り列車、下り列車の運転士、乗客あわせて160名が死亡、296名が負傷するという大きな被害が出たのです。
3回目の衝突事故が起きた時刻は21時37分頃、2回目の衝突事故が起きてから約5分50秒後の出来事でした。
三河島事故の原因① 出発信号の誤認
三河島事故が起きた根本の原因は、最初に脱線をした貨物列車の運転士による信号の確認ミスです。
しかし、このミスも単なる運転士の不注意ではなく三河島駅付近の環境にも原因があるのではないかと指摘されています。
三河島駅の構内の構造は以下のようになっており、一番上にある貨物線は田端駅から続いている線路で、三河島駅の東側で下り本線に合流します。
貨物線、下り本線にはそれぞれ専用の出発信号機が設置されていて、三河島駅から発車する際には必ずこの出発信号を確認してから進出することが定められています。
上の図を確認していただくとわかるのですが、貨物線の終端には「安全側帯」というスペースが設けられており、赤信号の見落としをして、下り本線に合流できない(進路が開通していない)状態で進んでしまった場合には、貨物列車はこの安全側帯で待機することとなります。
安全側帯に入った貨物列車は、速度によっては車止めに乗り上げてしまうおそれがあります。しかし、そのまま本線に進入して普通列車に衝突するよりは圧倒的に被害が少なくて済むため、信号の誤認というヒューマンエラーをフォローする目的で安全側帯が設けられているのです。
三河島事故の発端となった貨物列車の運転士は、下り本線の出発信号を貨物線の出発信号と見誤ってしまったと言われています。
この点については運転士の錯覚による誤認識だとする説のほか、三河島駅を出た貨物線は高架になっている本線に合流するために急勾配を進行することとなり、視界が悪いなか運転するために信号の誤認が起こりやすいのではないか、という考察もされています。
三河島事故の原因② 線路に出てしまった乗客
三河島事故で命を落とした犠牲者の多くは、衝突後に下り列車から降りて線路上に出てしまった人々でした。
乗客の行動に対して運転士や車掌の誘導なく、なぜ勝手に外に出てしまったのかという指摘もされていますが、彼らが自力で非常用のドアコックを開けた背景には1951年に発生した桜木町事故があります。
桜木町事故は横浜市内にある桜木町駅の構内で発生した列車火災事故で、自力で車両のドアを開けて逃げることができなかった乗客が燃え盛る車内に閉じ込められて命を落とすという、悲惨な事故でした。
この桜木町事故を受けて、非常時には乗客が自ら脱出できるようにと自動扉のある列車には非常ドアコックの設置が義務付けられたのです。
乗っていた電車が貨物列車に衝突して動かなくなったことで、10年前に起きた桜木町事故の悲劇を思い出して「早く電車から離れなければ」とパニック状態になってしまった乗客も少なくなかったのかもしれません。
桜木町事故から学んだことが、皮肉にも三河島事故では多くの乗客の命を奪ってしまったとも言えます。
三河島事故の原因③ 情報伝達の遅れ
2回目の脱線事故が起きた時点では人的被害も軽傷者25名と比較的少なく、上り列車の進入を防げていれば、ここまでの大惨事は起きずに済んでいました。
第3の衝突事故が起きてしまった原因は、脱線した下り列車が上り本線を塞いでいるという連絡が遅れてしまったことにあります。
下り列車の運転を停止した時点で上り列車も同じ対応を取っていれば、事故は防げたはずです。
三河島事故が発生した当時、車両を止めるための手続きは以下のような流れでおこなわれていました。
・信号取扱所の係員が三河島駅の助役に報告する
・三河島駅の助役が常磐線列車指令員に報告する
・常磐線列車指令員の判断で列車抑止の判断をする
2回目の衝突事故から3回目の衝突事故まではおよそ5分50秒の時間がありました。
もし、事故時に信号取扱所の係員の判断だけで上り列車の抑止ができていれば、この間に上り列車の進入を防げていたのではないのか?とも指摘されています。
三河島事故の裁判と運転士の責任
事故後、上り列車が来るまでの時間に進入の抑止などができる立場にありながら、対応を怠ったと見られる以下の国鉄職員らが起訴されました。容疑は業務上過失往来妨害罪・業務上過失致死傷罪・業務上過失致傷罪です。
・貨物列車の運転士(機関士)、機関助士、車掌
・下り普通列車の運転士、車掌
・三河島駅の首席担当助役、信号担当兼運転担当、信号担当
・隅田川駅・三ノ輪信号扱所の隅田川駅運転担当
とくに事故現場にいて状況を把握していた貨物列車の乗員および下り普通列車の乗員については、その責任が厳しく問われました。
また裁判では事故時、脳震盪を起こして動けなかったとしていた下り普通列車の運転士が、上り列車衝突直前に運転室から脱出していたこと、脱出していながら事故の報告や乗客の安全確保はおこなわなかったことなどが明らかになりました。
・三河島駅の首席担当助役と信号担当兼運転担当…禁固1年(執行猶予3年)
・三河島駅の信号担当…禁固8か月(執行猶予2年)
・貨物列車の機関士…禁固3年
・貨物列車の機関助士…禁固1年3か月
・下り普通列車の運転士と車掌…禁固1年6か月
裁判の結果、それぞれの職員には上記の判決が下され、実刑判決を受けた貨物列車の機関士と機関助士、下り普通列車の運転士と車掌は懲戒免職処分を受けています。
三河島事故のその後① ATSや列車防護無線の整備
三河島事故発生から5日後の5月8日、当時の運輸省(現在の国土交通省にあたる)の大臣であった斎藤昇氏から国鉄に対して、運転事故防止についての警告が出されました。
これを受けて三河島事故特別対策委員会が設置。事故の再発防止に向けた対策が講じられました。
ATS(自動列車停止装置)の整備
三河島事故が発生した大元の原因は、貨物列車の機関士による停止信号の見落としです。しかし人間である以上、機関士や機関助士ら乗務員がどれだけ注意をしても誤認が起きる可能性があります。
そのため起きてしまったヒューマンエラーをフォローする目的で、事故後には国鉄全線にATS(自動列車停止装置)が設置されました。
ATSとは停止信号を出している信号の手前では必ず電車が停まるよう、自動でブレーキ制御をおこなう装置です。
もともと国鉄では1941年に発生した山陽線内で列車の追突・転覆事故を受けてATSの導入が議論されていたのですが、太平洋戦争の影響や輸送需要の急増を受けて対応が後回しになっていました。
しかし三河島事故をきっかけとして導入が急がれるようになり、現在では「鉄道に関する技術上の基準を定める省令」の第57条でもATSの設置が鉄道会社の義務として明文化されています。
列車防護無線の開発
三河島事故では第2の衝突事故と、多くの犠牲者を出した第3の衝突事故の間に5分50秒の時間がありました。この間にスムーズに事故についての伝達ができていれば被害は怪我人25名だけだったはずです。
この教訓を生かして開発されたのが、走行中の列車にほかの列車の異変や事故を知らせる「列車防護無線」です。
防護無線が開発される以前には、列車事故が起きたら事故現場から800m離れた場所に信号雷管を置いて、これを乗務員が踏んで爆音を鳴らし、また乗務員が信号炎管(発煙筒のようなもの)を振ることで周囲に事故発生を知らせていました。
しかし、この方法は次の列車がくるまでに時間的な余裕がないと採用が難しく、とくに列車の本数が多い都市部には不向きでした。
そのため事故が起きたら即座に半径約1kmから2kmの範囲を走行する電車に異変を知らせられる、列車防護無線が開発されたのです。
列車防護無線を受信した側は、危険を知らせるピピピという音を確認したら、すぐにブレーキをかけて運転している車両を停めます。
電車に乗っていて「危険を知らせる信号を受信したため緊急停止しました」というアナウンスを聞いたことがある方も多いと思います。このアナウンスは、列車防護無線を受信したという意味です。
鉄道労働科学研究所の設立
また事故後は、国鉄の職員の労働管理を心理学的、人間工学的、精神医学的にバックアップするための組織として鉄道労働科学研究所が設立されました。
1987年の国鉄分割民営化にともない、現在は鉄道総合技術研究所という名称で運営されています。
三河島事故のその後② 身元不明の遺体番号88
三河島事故の犠牲者160名のうち、未だに身元がわからない遺体が1体だけあります。復元された遺体は推定年齢28〜35歳の男性のもので、身長は163cm程度で丸顔。紺色のスーツと縞模様のネクタイを着用して腕に数珠をつけていました。
警察はモンタージュを作成して新聞等に掲載し、この男性についての情報を募ったといいます。しかし遺体の照会に来た人はいたものの全員が人違いだったという言葉を残しており、ついに男性の身元に繋がる情報さえ出ませんでした。
氏名さえわからない身元不明の遺体は「遺体番号88」と呼ばれ、最終的には三河島駅近くの浄正寺で無縁仏として弔われたといいます。
この男性は当初、列車を降りて線路を歩いていた集団のなかの1人で、上り列車にはねられて亡くなったものと考えられていました。しかし唯一、身元がわからなかったという奇妙さゆえか、本当は三河島事故とは無関係の遺体なのではないかとの見方もあるようです。
たまたま三河島事故発生前後に、付近で起きた別の事故や事件で命を落とした人、もしくは自殺した人の遺体が、事故犠牲者のものと混同されて収容所に運び込まれてしまったのではないか、とも考察されています。
さらに手に数珠を持っていたという情報から、事故後には「人間ではなかったのではないか」「この身元不明の男性は付近で自殺した人物の霊で、この怨霊が事故を招いたのではないか」との噂も流れたそうです。
三河島事故のその後③ 慰霊碑の建立
三河島駅近くにある浄正寺には、三河島事故の犠牲者の霊を供養するための慰霊碑が建立されました。浄正寺は三河島駅から徒歩4分ほどの場所にあり、事故発生時には犠牲者の遺体安置所としても使われました。
浄正寺にある慰霊碑には、事故犠牲者の名前が刻まれているのですが、前述の身元不明の遺体番号88については本名が不明であるため戒名のみが刻まれています。
また、遺体番号88の戒名の隣にほかの犠牲者の名前に比べて浅く、目立たないように彫られた名前があり、これは三河島事故で多くの被害を出した上り列車の運転士のものだと言われています。
衝突時、脱線していた下り列車の運転士は外に脱出していたために無事でした。しかし、上り列車の運転士は大破した車両の先頭にいたことから即死だったと考えられます。
事故が起きる前、上り列車の運転手には乗客が線路にいることも脱線した車両が線路を塞いでいることも知らされていませんでした。異常が目視できる段階になってブレーキを踏んだものの事故を起こしてしまったという背景から考えて、この運転士も間違いなく被害者の1人と言えます。
とはいえ亡くなった乗客の遺族らの感情は複雑で「事故を起こした国鉄職員を同じ場所で供養するなんて、とんでもない」と、運転士の名前を慰霊碑に刻むことに対して反対の声が相次いだそうです。
そのため遺族たちの了承を得た後に、ひっそりと、一番最後に運転士の名前は慰霊碑に刻まれることになったのだといいます。
三河島事故の噂① 事故に創価学会が関わっていた?
一時期ネット上では、三河島事故には創価学会が関与していたという噂が囁かれていたようです。その噂というのは以下のような内容でした。
三河島事故の死者160名と負傷者負傷者296名をあわせた456名のうち、120名がある新興宗教の会員だったらしい。犠牲者らが入信していたのは、当時一大勢力となりつつあった新興宗教だった。
この120名は新興宗教に入信する際に、もともと自分の家にあった仏壇や先祖の位牌を焼却処分していた。その祟りで三河島事故が起きたと言われている。
事件当時は雑誌の三面記事にも、心理学者がこの新興宗教を批難する記事を多数寄稿していた。
しかし事故から半年が過ぎた頃、パッタリと新興宗教と事故の関係を考察する記事は取り上げられなくなった。単に話題として飽きられたのかもしれないが、宗教団体側から圧力が掛けられた可能性も否定できない。
噂に登場する宗教団体の名前は不明なのですが、120名の被害者は創価学会の信者だったのではないかと囁かれているようです。創価学会がこの噂話と結び付けられた理由として、以下のような点が考えられます。
・事故が起きた三河島駅のある荒川区、そして周辺の葛飾区、足立区など東京の下町地区は創価学会の信者が多い。
・創価学会の信者の家には「SGI仏壇」という特徴的な仏壇がある。
・創価学会は国鉄の認可のもと1991年まで、総本山への参詣登山のために団体専用列車を仕立てていた。この列車は「創価学会団体臨時列車」と呼ばれていたほど運行本数が多く、創価学会と国鉄が深い関係にあったことが窺える。
まず事故が起きた三河島駅周辺、東京の下町地区に創価学会の会員が多いという話ですが、これは単なる噂ではありません。東京の下町一帯はとくに公明党が強い選挙区として有名で、盤石の支持基盤を誇ってきました。
そのため、なにかの集会に出た創価学会の会員が足立区、荒川区、葛飾区、江戸川区などにある自宅へ帰るために、常磐線に乗り合わせていても不思議ではありません。
なお、事故が起きた1962年5月3日は池田大作氏の会長就任満2年を記念して、第24回総会が開かれていたとの話もあります。
さらに上の理由3つ目と関係する話なのですが、かつて創価学会は総本山への参詣登山など大きな集会がある際には自家用車ではなく、公共交通機関を使う手配をしていました。
これは渋滞などで周辺住民に迷惑を掛けないようにするためですが、信者を大勢乗せることで国鉄に利益をもたらし、繋がりを深くするためだったという面も持ちます。
総本山である大石寺と創価学会の関係が悪化し、参詣登山が中止になった影響で、1991年に「創価学会団体臨時列車」がなくなるまでは、国鉄(JR)にとって学会員は上客だったそうです。
国鉄と東京の下町地区の両方と縁があるうえ、信者が専用の仏壇を購入する宗教ということで、噂に出てくる新興宗教は創価学会だと考えられたのでしょう。
しかしながらもとの噂については不明瞭な点が多く、とくに「被害者のうち120名が同じ新興宗教の信者だった」「雑誌の記事でも取り沙汰された」という箇所については有力な情報源が一つも見つけられませんでした。
いずれにしても創価学会の陰謀で事故が起きたという噂ではなく、仏壇や位牌を処分したために祟りで事故が起きたという噂ですから、真偽を証明する方法もありません。しかし、このような噂が流れるほど当時の国鉄と創価学会は密な関係にあったことがわかります。
三河島事故の噂② ミンチになった犠牲者が現れる
事故発生後、衝突事故が起きた線路はもちろんのこと、高架下にまで犠牲者の方々の体の一部が散らばり、三河島駅周辺は血の海の状態にあったといいます。
周辺に住んでいた人のなかには、事故の影響で心に深い傷を抱えてしまった人も少なくなかったそうです。
電車に乗り合わせていた人や救助活動に参加した国鉄職員や医療関係者だけではなく、近隣の人の生活まで狂わせてしまうような凄惨な事故であったためか、事故現場周辺では三河島事故の犠牲者の霊を見たという体験談の報告が数多くあがっています。
とくに常磐線の運転士が事故現場に差し掛かったところで、手足や首がちぎれた人や、腰から下のない人が血だまりのなかで、なくなった体の一部を探して蠢いている幻覚のようなものを見た、という話は多く聞かれます。
三河島事故の噂③ 事故現場周辺は心霊現象が絶えない地域だった?
三河島駅の隣の南千住駅の近くには江戸時代から明治初期にかけて、小塚原処刑場という処刑場がありました。この刑場は江戸の三大刑場と呼ばれる大きさで、磔刑、火刑、獄門という処刑のほか、遺体の腑分け(解剖)や試し斬りもおこなわれていたとされます。
小塚原処刑場ではおよそ20万人の罪人が処刑されたといい、処刑された人々の遺体も火葬などはされずに適当に土をかけて放置されていたために、野犬やイタチなどに食い荒らされて悲惨な状態にあったそうです。
また同じく南千住には、遊女の投げ込み寺として有名な「浄閑寺」という寺院があります。この寺は安政の大地震で吉原遊廓で多くの遊女が命を落とした際、その遺体が持ち込まれたことから投げ込み寺と呼ばれるようになったといいます。
花又花酔の川柳に、「生まれては苦界、死しては浄閑寺」という遊女の心情と生涯を詠んだものがありますが、この浄閑寺とは、南千住に実在する浄閑寺のことです。
浄閑寺で葬られた遊女のなかには、足抜けの直前に嫉妬に狂った客に殺された者、覚えのない罪を着せられて火炙りになった者、梅毒で苦しみながら亡くなった者など、非業の死を遂げた女性も数多くいました。
このように望まぬ死を迎え、遺体になっても家族のもとに還れなかった人々が数多く眠る場所の近くで起きた事故であるためか、「三河島事故は、土地に眠る怨霊が起こした事故だ」とする声もあったそうです。
三河島事故についてのまとめ
この記事では、国鉄五大事故のひとつに数えられる三河島事故の時系列や原因、事故後の対応などについて紹介しました。
通勤や通学など遅れてはいけない状況で電車が停まってしまい、「危険を知らせる信号を受信したため緊急停止しました」と車内アナウンスが入ると、つい乗客としては「危険ってどういうことだろう?すぐ動くのだろうか?この忙しい時間帯に、わざわざ止まらなければいけないほどの事情なのか」などと考えてしまいがちです。
しかし、すぐに停車して安全確認をとっているのは三河島事故と類似の事故の再発を防ぐためであることがわかりました。
残念ながら三河島事故の後も大規模な鉄道事故はたびたび発生しています。しかし、これほど多くの被害者をうむ大事故が起きることだけは今後もないように祈りたいです。