紫雲丸事故の原因!船長と朝日新聞カメラマン・遺体・生存者の現在や呪いの噂もまとめ

紫雲丸事故とは、1950年から1955年に連絡船・紫雲丸が起こした事故の総称です。今回は168名もの死者を出した1995年の事故を中心に詳細や場所、船長や朝日新聞カメラマンへの批判、やったの意味、遺体、生存者の現在や呪いの噂について紹介します。

紫雲丸事故の概要

 

出典:https://twitter.com/

 

紫雲丸は国鉄が運行する鉄道連絡船で、1947年9月に就航しました。岡山県玉野市と香川県高松市の間を運行しており、瀬戸丸と名称変更を経て1966年3月に終航を迎えています。

 

当時は瀬戸大橋も建築されていなかったため、四国と本州を結ぶ鉄道連絡船は交通、運搬手段として重宝されていました。

 

しかし四国の人々の暮らしを支えた一方で、紫雲丸は1950年から1955年の間に5回もの衝突・接触事故を起こしており、これらの事故の総称を「紫雲丸事故」と呼びます。

 

・1950年3月25日…直島と荒神島の間にあたる海域で貨物船と衝突事故を起こして横転。紫雲丸は沈没して7名の死者を出す

 

・1951年8月…高松港内で漁船と衝突

 

・1952年4月…高松港外で石に接触

 

・1955年5月11日…大型貨車運航船の第三宇高丸に衝突。修学旅行のために乗船していた児童生徒100名を含む168名もの死者を出す

 

一般に紫雲丸事故という場合、国鉄戦後五大事故にも挙げられる5回目の事故を指すことも多く、1954年に起きた洞爺丸事故の影響もあって、5回目の事故は連絡船の構造全体や安全基準を見直すきっかけにもなりました。

 

なお、紫雲丸の名称が1995年に瀬戸丸に変更された理由は、この事故を受けて「紫雲丸=死運丸で縁起が悪い」とされたためです。

 

しかし改名後も元・紫雲丸は1960年に高松港で中央栄丸と衝突事故を起こしており、大型の伊予丸や土佐丸が就航したことあって終航を迎えました。

 

 

 

紫雲丸事故が起きた場所

 

1955年に紫雲丸事故が起きた場所は、高松港の沖合4kmの場所でした。

 

 

港内で起きた事故ではなかったことから海中に放り出されて溺死してしまった児童生徒も多く、泳げれば貴重な命が助かったのではないかという声もあがりました。

 

そのため、この事故を受けて公立の小・中学校で水泳の授業が義務化されたという経緯があります。

 

 

 

紫雲丸事故の詳細① 出航から第三宇高丸との衝突

 

出典:http://shisly.cocolog-nifty.com/

 

事故当日の5月11日は瀬戸内海沿岸に濃霧警報が発令されており、海上での視界は50m以下になる可能性も予測されていました。

 

そのような状況で、紫雲丸と衝突事故を起こした第三宇高丸が午前6時10分に宇野港から出航。6時20分過ぎに高松気象台から発令された濃霧警報を無線で受信した第三宇高丸は、マリンレーダーを待機させます。

 

6時35分には第三宇高丸の視界は400〜500mになり、霧中信号を発信させました。

 

一方、紫雲丸は400〜500m先にある漁船がブリッジ前方から目視で確認できたことから中村正雄船長が運行可能と判断し、6時40分に乗客781人乗員60人、貨車等19両を乗せて高松港を出航。

 

しかし6時50分を過ぎた頃には霧が濃くなっており、海上での視界は100m以下になっていたといいます。

 

6時51分には第三宇高丸主席運転士がレーダー上2,500mの距離に紫雲丸の存在を確認しますが、6時53分にレーダー上の距離1,700mに近づいても紫雲丸は目視できない状態でした。

 

6時53分に左舷方向から紫雲丸の霧中汽笛音が聞こえたため、針路を140度としていた第三宇高丸と紫雲丸とは東西に距離が開いており、姿が目視できなくても衝突の危険はないと判断し、第三宇高丸は全速力での航行を継続。

 

ところが6時56分、第三宇高丸の見張人水手長から「見えた!」という叫び声があがります。これを聞いて第三宇高丸の船長が確認すると、急に船首を左転させる紫雲丸の姿が、自船の左舷30度の方角100m前方に見えました。

 

第三宇高丸の船長は急いで機関停止をして左舵一杯の命令を出し、舵を取り切りましたが間に合わず、第三宇高丸は紫雲丸右舷船尾付近に船首を激しく打ち付け、衝突事故が発生したのです。

 

 

紫雲丸事故の詳細② 事故状況と「やった!」と残して姿を消した船長

 

第三宇高丸は紫雲丸右舷機関室に深く突き刺さり、紫雲丸の右舷船腹に縦4.5m、横3.2mの大穴を開けました。機関室の破損によってエンジンルームの主電源装置が爆発を起こし、同時に紫雲丸の船内電燈はすべて消えました。

 

端艇甲板にあった無線室には非常用交流発電設備がありましたが、これを起動する余裕もなかったため、照明のみならず船内放送、船内電話、無線電話などの連絡手段も利用できない状態だったとされます。

 

さらに衝突によって開いた大破口から機関室から水が入り込み、紫雲丸が沈没するのも時間の問題という状態になります。

 

乗組員たちは機関室の水密扉を手動で閉鎖して浸水を食い止めようとしましたが、船尾が沈没していたことから諦めざるを得ませんでした。

 

一方、船内は真っ暗、外は霧で先が見えない、おまけに浸水まではじまり、船内はパニック状態に。左舷に傾いていく紫雲丸のなかで、何が起きたのかわからない乗客たちは我先にと右舷に殺到し、修学旅行で乗船していた小・中学生らは逃げ遅れてしまいました。

 

この時、乗組員に指示を出して乗客を誘導する立場にあった紫雲丸の中村船長は、無言でブリッジを立ち去って損傷箇所の確認に向かうという行動を見せます。

 

さらに、損傷箇所を確認した帰路ですれ違った次席二等運転士に「やった!」と謎の発言をしてからブリッジに閉じこもり、そのまま姿を見せなくなりました。

 

 

紫雲丸事故の詳細③ 沈没と難航する救助活動

 

出典:https://plaza.rakuten.co.jp/

 

閉じこもってしまったまま指示を出さない中村船長に代わり、紫雲丸の副長である立岩二等運転士が乗組員の指揮をとりました。

 

氏家事務長らは立岩二等運転士の指示に従って、上下の遊歩甲板等をつたって紫雲丸に激突した第三宇高丸に乗り移るように乗客を誘導し、約半数の乗客が無事に避難していったといいます。

 

しかし、船内は混乱を極めていたために避難誘導はスムーズにいかず、逃げ遅れや海への転落などで死者が発生しました。

 

とくに体が小さく、体力もない小学生は大人に押されて身動きがとれなくなってしまい、また救命胴衣も天井裏や客席側面など、子どもの手が届かない場所に収納されていたこから被害者が多かったととされます。

 

乗組員らも必死に子どもたちに救命胴衣を配って回りましたが、使い方を説明する時間がなかったため、上手く着用できずに溺れてしまう者や着用する間もなく海に投げ出されたしまった者もいました。

 

そして乗員たちの努力も虚しく、事故からわずか5分後の7時2分頃に紫雲丸は沈没。

 

事故の当日、偶然に現場を通りかかったイカ漁の小舟が救助活動に参加し、50名近くの遭難者を助けるなどの活躍を見せましたが、最終的に乗客、乗組員含めて168名もの人名が失われました。

 

なお、紫雲丸事故では生存者の多くが衝突事故の際に甲板付近にいたとされ、逆に甲板から離れた場所の船室にいた乗客の多くが船とともに海に沈んだといいます。

 

 

 

紫雲丸事故の原因

 

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1955年から1960年にかけておこなわれた海難審判では、紫雲丸事故の原因は紫雲丸船長の中村正雄および、第三宇高丸船長の三宅実による職務上の過失だったと判断されました。

 

事件当日は瀬戸内海に濃霧警報が発令されており、事故現場となった海域の視界にも霧の影響が出ていたにもかかわらず、紫雲丸も第三宇高丸も速度を下げることなく、海上衝突予防法の規定に違反する速度で航行していました。

 

とくに紫雲丸の中村船長の行動には不可解な点が多く、以下の点が事件の原因だと目されています。

 

・高松港を出航した後、紫雲丸は500m直進してから北西に航路を変更する予定だった。にもかかわらず、中村船長は100m程度直進してすぐに北西に舵を切っていた

 

・航行中、中村船長は目視で安全確認をしておらず、ブリッジでマリンレーダーだけを見ていた

 

・衝突事故が起きる直前、第三宇高丸が迫ってきているにもかかわらず左に舵をきって旋回した

 

なかでも事故を起こした直接の原因である紫雲丸の突然の左転については、なぜそのようなルールに反した行動をとったのか議論がなされました。

 

第三宇高丸が右舷対右舷通行をしようとしている、と中村船長が誤認識をして左転したのではないかとも考えられています。

 

しかし、肝心の中村船長が事故後にブリッジに閉じこもり、そのまま紫雲丸とともに海に沈んだため、左転の理由は推測の域をでず、現在も謎のままです。

 

 

海難審判と刑事事件の判決

 

事故後、第三宇高丸の三宅船長と二等運転士、紫雲丸の立岩二等運転士を受審人とする海難審査が開かれ、三宅船長のみが2ヶ月15日間の業務停止命令を受けました。

 

また、行政処分である海難審査とは別に、上記の3名を含む合計7名の乗組員が業務上過失艦船沈没および業務上過失致死罪の疑いで起訴されました。

 

刑事裁判では三宅船長が禁錮1年6ヶ月(執行猶予2年)、紫雲丸の立岩二等運転士と第三宇高丸の穴吹三等運転士が禁錮2ヶ月(執行猶予1年)という判決を受けています。

 

 

 

紫雲丸事故の被害・死者数

 

紫雲丸での死者は168名にのぼり、うち100名が修学旅行のために乗船していた小・中学生でした。168名の死者の内訳は以下のとおりです。

 

修学旅行関係者

合計108名が犠牲になる(うち児童生徒100名、 引率教員5名、父母など関係者3名)

 

  • ・愛媛県三芳町立庄内小学校(現在の西条市立庄内小学校)の児童29名、PTA会長1名

 

・高知県高知市立南海中学校の生徒28名

 

・広島県木江町立南小学校(現在の大崎上島町立木江小学校)の児童22名、引率教員3名

 

・島根県松江市立川津小学校の児童21名、引率教員2名、父母2名

 

紫雲丸関係者 

中村船長を含む2名

 

  • 一般乗客
  • 58名

 

亡くなった小・中学生100名のうち、81名が女子、19名が男子でした。また、引率の教員や保護者のなかにはいったん避難誘導をおこなった後、客室に残っている子ども達を助けに向かい、そのまま亡くなった人もいたとのことです。

 

小・中学生に被害者が多く出た理由として、前述した救命胴衣などの理由のほか、親が持たせてくれたお金で購入したお土産を持っていこうとして逃げ遅れた、修学旅行のために買ってもらった、借りた旅行カバンを持っていこうとして逃げ遅れたという事情もありました。

 

紫雲丸事故が起きた1955年当時は、まだ敗戦の影響が庶民の暮らしに出ており、物も少なく、人々の生活は決して豊かではありませんでした。

 

そのため「苦労して親がお金を稼いで、お小遣いを渡してくれたのに」「こんなに良い旅行カバンを貸してもらったのだから、返さないと」という、いじらしい責任感や感謝の気持ちが、子どもたちが命を落とす原因にもなってしまったのです。

 

 

 

紫雲丸事故のその後① 船長の「やった!」の意味とは

 

衝突事故が起きた後に船長が呟いたという「やった!」という言葉の意味についても、事故後にはさまざまな考察がされました。

 

文字にすると故意に事故を起こして「やった!」と言ったかのようにも見えますが、海難審査の記録では「やったー」と話したと記録されており、やらかしてしまった、やってしまったという瀬戸内の方言なのではないかとも指摘されています。

 

中村船長はブリッジに閉じこもった後、乗組員が「船長も避難してください!」と呼びかけたにもかかわらず扉を開けず、返事さえしなかったといいます。おそらく自分が起こしてしまった事故の責任を取るために、紫雲丸と沈む覚悟だったのでしょう。

 

このことから破損箇所を見に行って、「なんということをしてしまったのだ」という意味で「やった」とつぶやき、ブリッジに向かったのではないかと考えられています。

 

 

紫雲丸事故のその後② 朝日新聞カメラマンへの批判

 

出典:https://pbs.twimg.com/

 

紫雲丸事故が報じられた際、朝日新聞の報道カメラマンが撮影した転覆していく紫雲丸と溺れる人々が収められた写真が公開され、大きな論争を呼びました。

 

詳細は明かされていませんが、この写真を撮影したカメラマンは紫雲丸から第三宇高丸に逃げたところで写真を撮った、もしくはもともと第三宇高丸に乗っており、偶然、事故現場に居合わせたものと見られています。

 

そのため、「こんなに近くで写真を撮っている暇があるのなら、救助活動に協力するべきではないのか?」「人が、それも子どもが死んでいる事故現場の写真をよくも呑気に撮っていたものだ」と批難が集中したのです。

 

一方で「カメラマンが救助に向かったところで被害者が1人増えていたか、足手まといになった可能性が高い」「悲惨な事故現場の写真を残すことは、悲惨な事故を繰り返さないという戒めにもなる。報道カメラマンは仕事をしただけだ」とカメラマンを擁護する声もあがり、論争が起こりました。

 

難しい問題ではありますが、このような報道と人命救助についての論争はたびたび起きており、有名なものとしてはピューリツァー賞を受賞した『ハゲワシと少女』という写真と、それについての批判などが挙げられます。

 

 

 

紫雲丸事故のその後③ 発見されていない遺体

 

 

紫雲丸事故で亡くなった小・中学生の遺体のなかには、客室から甲板に続く階段に折り重なるように倒れ、言葉に出来ないような無惨な状態で発見されたものもあったといいます。遺体の捜査、搬出活動に関わった人の多くが現場の悲惨さに衝撃を受け、しばらくの間、自分が見たものを口にすることができない状態だったそうです。

 

生徒の遺体の中には、旅行カバンを大切そうに抱えていたものもあったとされます。

 

事故後は5月12日の夜明けから潜水による捜索作業が開始されましたが、引き上げられた遺体は当初用意していた高松桟橋の遺体仮安置所だけでは収容しきれない数となり、急遽、桟橋駅建物の屋上にも収容施設を設けることとなりました。

 

収容所に搬出された遺体は防腐処理の注射をされた後、遺族によって身元確認がされ、自分の家へと帰っていったといいます。

 

紫雲丸事故の犠牲者のうち、166名の遺体は事故が起きた5月中に発見されました。しかし、残り2名のうち1名の遺体は事故発生から7ヶ月も経過した12月2日に事故現場から15kmも離れた沖合でやっと発見され、残る1名については未だに見つかっていません。

 

 

 

紫雲丸事故のその後④ 本州四国連絡橋の構想が具体化される

 

出典:https://ja.wikipedia.org/

 

本州と四国を結ぶ陸路の必要性についてはかねてから議論されており、古くは明治22年に讃岐鉄道が開通した際に、橋を架ける構想が県議会で提案されていました。

 

その後、大正、昭和と元号が変わっても国会や市議会で取り上げられてきたのですが、戦争をはさんだことで構想は白紙状態となっていました。

 

しかし、紫雲丸事故が起きたことで改めて四国と本州を結ぶ安全なルートの必要性が見直され、架橋誘致運動が活性化。事故から4年後の1959年には国鉄と建設省が橋を架ける場所やルートについて調査を開始しました。

 

そしてその後、1988年に児島・坂出ルートが完成して四国と本州が鉄道で結ばれ、次いで神戸・鳴門ルート尾道・今治ルートの3つのルートでも結ばれることとなったのです。

 

 

 

紫雲丸事故のその後⑤ 事故は紫雲丸の呪いという噂が広がる

 

出典:https://ameblo.jp/

 

1995年の大事故以前にも4回の事故を起こし、うち1回は死者を出していたことから、「紫雲丸は呪われている」という噂もまことしやかに囁かれるようになりました。

 

紫雲丸の名称は高松市にある「紫雲山」から付けられたものでした。しかし紫雲(紫の雲)というのは仏教で縁起の良いものとされていますが、「念仏行者が最期を迎える時に阿彌陀仏が乗ってくるのが紫雲」という言い伝えがあることから、死者を迎えに来るもの、という意味があり縁起が悪いと言われるようになったのです。

 

また前述しましたが紫雲は「しうん=死運」にも繋がり、実際に紫雲丸は死を呼ぶ船だと噂されたことから、事故後にサルベージされ整備された紫雲丸は厄祓の意味を込め、1955年10月11日をもって「瀬戸丸」と改名することとなりました。

 

 

紫雲丸事故のその後⑥ 生存者の現在

 

出典:https://www.youtube.com/

 

高松市内にある西方寺では、毎年5月に紫雲丸事故の犠牲者の鎮魂を祈る追悼式が開かれています。

 

多い時には100名以上が参加したとされますが、遺族や生存者の方々も高齢化が進み、また近年は新型コロナウイルスの影響もあることから、2022年5月11日におこなわれた追悼式の参加者は7名だったと報じられました。

 

生存者のなかには事故から67年が経過してなお、サバイバーズ・ギルトに苦しんでいる方もいるといいます。

 

南海中学校の3年生として級友たちと紫雲丸に乗船し、事故に巻き込まれた生存者の女性は、瀬戸内海放送の取材に対して当時を振り返り「あれは、まさに地獄そのものだった」と語ったうえで、苦しい胸のうちを明かしていました。

 

「ずっと中学卒業してからこの年まで、生きとることがごっつい悪いことしたみたいでね。みんなに責められてる感じするし、『なんで生きちゅー?』って1回言われたことあった」

 

引用:168人が犠牲になった紫雲丸の沈没事故から67年 生存者は今 香川

 

女性は紫雲丸事故で、28名もの同級生を亡くしたといいます。事故のことや若くして死んだ同級生らのことが忘れられず、四国遍路にも出たそうです。

 

また生存者のなかには「紫雲丸事故の悲劇を繰り返したくない、事故を風化させたくない」という思いから、小学校などで講演活動をしている方もいます。

 

 

 

紫雲丸事故についてのまとめ

 

この記事では修学旅行中の小・中学生100名を含む168名もの死者を出した最悪の海難事故、紫雲丸事故の発生原因やその後について紹介しました。

 

紫雲丸事故が起きた原因のひとつに挙げられる濃霧ですが、紫雲丸が航路としていた海域は霧が発生しやすく、事件前までは見通しが悪くても速度を下げない船が多かったという話もあります。

 

また、陸路がなかった頃にはひっきりなしに瀬戸内海を貨物船や連絡船が行き来していたため、航行の安全性よりも「時間通りに着くこと」が重視されていたそうです。

 

残念ながら紫雲丸事故の後にも海難事故は発生しており、記憶に新しいところでは知床遊覧船沈没事故が起きています。これ以上悲しい事故が起きることがないよう、航行の際には安全確認の徹底を願いたいです。

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