1971年に起こった全日空機雫石衝突事故は162名の犠牲者を出した痛ましい事故でした。
全日空機雫石衝突事故の詳細や場所、犠牲者の遺体の状況やパイロットの断末魔、原因と裁判、生存者のパイロットのその後や現在、慰霊の森の慰霊碑の心霊スポット化をまとめました。
この記事の目次
全日空機雫石衝突事故とは
出典:youtube.com
全日空機雫石衝突事故
事故発生日時:1971年7月30日
犠牲者:162名
事故概要:全日空機と自衛隊機の衝突
全日空機雫石衝突事故とは、1971年7月30日に岩手県岩手郡雫石町上空で、全日空機と航空自衛隊の戦闘機が衝突した事故です。全日空機は空中分解して墜落し、乗員乗客162名(乗客155名・乗員7名)全員が死亡しましたが、自衛隊機のパイロットは自力で脱出して無事でした。
この事故では、犠牲者162名という当時の日本国内の航空機事故最大の犠牲者を出しただけでなく、全日空機は空中分解して、犠牲者たちが空から落ちてくる状態になったため、世間の注目を大きく集め、「空から遺体が降ってきた」や「20キロにわたり飛び散る遺体」のようにセンセーショナルに報道されました。
全日空機雫石衝突事故の詳細
全日空機雫石衝突事故の詳細を見ていきましょう。
・現場:岩手県岩手郡雫石町上空
・全日空機:千歳発羽田行き(ボーイング727-281)
・自衛隊機:松島基地発(F-86F)
全日空機と自衛隊機はどのように衝突し、衝突後はどのような経過をたどったのでしょうか?
全日空機は千歳空港を出発
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1971年7月30日午後1時33分、定時よりも45分遅れて、千歳空港から羽田空港に向けて、全日空58便が離陸しました。
この全日空58便には、機長・副機長・航空機関士とキャビンアテンダント4人の乗員7名と、乗客155名が乗っていました。乗客155名のうち、122名は静岡県富士市の吉原遺族会の北海道旅行団一行の団体旅行客でした。
午後1時33分に千歳空港を出発し、13分後の午後1時46分には函館NDBを通過しています。ここから高度を上げながら、松島NDBに向けてジェットルートJ11Lを運行し、松島NDBは午後2時11分に通過する予定となっていました。
このANA58便の機長は総飛行時間8,000時間超、副機長・航空機関士はそれぞれ総飛行時間2,000時間超でした。
同時刻に自衛隊機が訓練
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全日空機雫石衝突事故を起こした自衛隊機は、航空自衛隊第1航空団松島派遣隊所属のF-86F戦闘機でした。編隊飛行訓練のための有視界飛行方式による飛行で、教官機と訓練機の2機が午後1時28分に松島基地を離陸しています。
・教官機(パイロット:1等空尉31歳)
・訓練機(パイロット:2等空曹22歳)
基本隊形や疎開隊形、機動隊形、単縦陣隊形などの訓練を行った後に松島基地に帰還する予定であり、飛行時間は1時間10分の予定としていました。
松島派遣隊はジェットルートJ11Lの中心線の両側9km、高度7600m~9400mまでは飛行制限空域としていて、やむを得ない場合を除いて訓練飛行禁止とされていました。
教官機が全日空機を視認
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岩手県岩手郡雫石町付近上空、全日空機は高度8,500mを902km/hで水平定常飛行をしていました。同じころ、自衛隊の教官機は高度7,800mを824km/hで飛行し、右旋回を180度行い、左旋回に移りました。
その時、教官機の後方(時計で6時半から7時方向)に訓練機がいて、そのすぐ下に全日空機が接近しているのを視認しています。そして、教官機はすぐに訓練機に対して、接触を回避するように指示を出しました。
全日空機が追突する形で衝突
訓練機は、その時教官機からを1,700m後方、上方910mを高度を上げ下げしながら、教官機の後を追って飛行している時に、教官機から異常事態の通信が入り、全日空機との衝突回避を指示されます。
しかし、この指示が出た時、訓練機のパイロットは自分の右側やや後方(時計の4時から5時方向)の至近距離に大きな物体を視認しました。この大きな物体が全日空機だったのです。
この時、全日空機と訓練機の距離は約500mであり、衝突の約2秒前でした。それでも、訓練機は左60度バンク機動による回避を実施しましたが、訓練機は全日空機に追突される形で2機は衝突しました。
訓練機の右主翼付け根付近に、全日空機の機体の最上部にあるT字尾翼の水平尾翼安定板左先端付近前縁が引っかかるような形でした(上画像のような形)。
約500mの距離(衝突2秒前)になるまで訓練機は全日空機の存在に気付くことができなかったのであれば、気づいた時点ではどんなベテランパイロットであっても、回避することはできなかったと思われます。
全日空機は7秒前に視認か?
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自衛隊の訓練機は衝突2秒前に全日空機が至近距離にいることを把握しましたが、全日空機は衝突7秒前に訓練機が接近していることを把握していた可能性があります。
千歳飛行場管制所、千歳ターミナル管制所、札幌管制区管制所との交信や付近を飛行していた航空機が傍受した音声から、コックピット内の状況を分析したところ、全日空機の機長は操縦輪に備わっているブームマイクの送信ボタンが空押しされていたことがわかりました。
・衝突7秒前から0.3秒間
・衝突2.5秒前から約8秒間
通常、送信ボタンを空押しすると、ほかの交信を妨害するために、意識的に空押しすることはありません。それなのに、衝突7秒前から2回も空押ししていたということは、操縦輪を強く握りなおしたと思われます。
運輸省全日空機接触事故調査委員会編「全日本空輸株式会社ボーイング式727-200型,JA8329および航空自衛隊F-86 F-40型,92-7932事故調査報告書(2)」によると、次のように分析されました。
・衝突7秒前(14:02:32.1 – 14:02:32.4):自機の間近に訓練機を視認、あるいはそれ以前より視認していた訓練機が、予期に反し急接近してきたため、操縦輪を強く握る。
衝突2.5秒前(14:02:36.5 – 14:02:44.8):訓練機が斜め前方に接近してきたため緊張状態となり、再度操縦輪を強く握る。衝突後は機体の立て直しを行う。
つまり、操縦輪を握りなおした(送信ボタンを空押しした)衝突7秒前には、全日空機は接近している訓練機の存在を把握できていた可能性があります。
ただ、これはあくまで可能性です。なぜなら、この全日空機にはブラックボックスは装備されておらず、全日空機に乗っていた人は全員死亡したため、実際にいつ視認できたのか、どのような行動を取ったのかなどを確認することができないからです。
全日空機が音速を超えて空中分解
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全日空機は尾翼部分が自衛隊訓練機と衝突したことで、水平安定板と昇降舵の機能を喪失し、操縦不能となりました。しばらくは降下しながら飛行していましたが、降下姿勢から回復できずにスピードが上がり、音速を超えるスピードが出ます。そして、約4,600m付近で空中分解して墜落しました。
この時の全日空機は音速を超えたため、ソニックブームによる「ドーン」という衝撃音と閃光が15km離れた盛岡市内など遠く離れた場所でも確認されています。
また、衝突直後には大きな白い雲のようなものが発生したのをたくさんの人が目撃しています。1971年8月15日発行の「サンデー毎日」では衝突後に白い白煙を出しながら墜落していく全日空機の写真が表紙で掲載されています。
スマホどころか、コンパクトカメラもなかったこの時代、しかも岩手県という地方で、衝突して空中分解後に墜落していく全日空機を写真に撮ることができたというのは、ソニックブームによる衝撃音と閃光がそれだけ大きく、地上にいたたくさんの人が空を見上げたということでしょう。
全日空機は空中分解後に墜落したため、搭乗していた乗員乗客162名は全員死亡しました。しかも、空中で散らばる形になったため、遺体は機体の破片と共に地上に降り注ぐ状態になっています。
この全日空機雫石衝突事故では雫石町各地で残骸や遺体が降り注ぎましたが、全日空機の車輪が民家の屋根に落下して、81歳の住民の女性が負傷しています。これだけの大きな事故が起こり、旅客機と162名の遺体が降り注ぎながらも、地上では死者が出ずに負傷者1名で済んだのは、不幸中の幸いと言えるかもしれません。
訓練機のパイロットはパラシュートで脱出
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全日空機と衝突した自衛隊の訓練機も、衝突後は操縦不能に陥りました。
錐もみ状態になって機体が高速で回転していたため、パイロットは脱出するための射出座席装置のレバーを引くことができませんでした。しかし、キャノピー(操縦席の天井カバーの部分)が外れていることに気付いたため、安全ベルトを外して、機体から脱出して、パラシュートで水田に降下して無事に生還しています。パイロットがいなくなった訓練機は空中分解して近くの田んぼに墜落しています。
教官機はすぐに全日空機と訓練機が衝突したことを松島飛行場管制所に通報し、その後は現場上空を旋回して、救援機や管制所に位置や状況を報告し続けました。その後、帰投命令が出たため、午後2時59分に松島飛行場に着陸しています。
全日空機雫石衝突事故の場所
全日空機雫石衝突事故の場所は「岩手県岩手郡雫石町西安庭第 47地割」です。御所湖のすぐ近くです。
事故現場は岩手県の県庁所在地の盛岡市中心部から約15kmの場所です。全日空機の残骸は、雫石駅の東2km~3.5km、南3.5km~5kmの場所で発見されたとのことです。犠牲者の遺体も残骸と一緒に地上に落ちてきていますので、遺体もそのあたりで発見されたと思われます。
全日空機雫石墜落事故の犠牲者の遺体は凄惨な状況
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全日空機雫石墜落事故では、全日空機に乗っていた人たち全員が死亡しました。
・乗客:155名(死亡)
・住民:1名(負傷)
真夏の山の中、警察官・消防団・自衛隊員などが捜索しましたが、次のような証言があります。
消防団員だった米沢初美さん(83)も、こう証言する。「腰まで地面に突き刺さった遺体もあった。暗かったから良かった。明るかったら(遺体に)手もかけられなかったかもしれない」
大きなポリ袋もなく「人の体の一部を戦闘服のポケットに入れていた」という。全ては「早く仏様を奇麗にして遺族に返したい」思いから。
落下する中で衣服ははぎとられ、腰まで地面に突き刺さった遺体。人の体を一部をポケットに入れなければいけない状況。想像しただけでも、過酷な現場だったことがわかります。
自衛隊員はこの日の前日まで1週間にも及ぶ厳しい訓練をしていて、この事故当日は代休を取ってお酒を飲んで休みを楽しんでいる隊員が多かったそうです。そんな時、この全日空機雫石衝突事故が起こり、自衛隊員は非常呼集となり、基地に呼び戻されたのです。
訓練疲れに暑さ、一部は寝不足や二日酔いも加わり、鍛え上げた隊員たちを悩ませた。
捜索隊の賢明な働きもあり、事故翌日の7月31日午後4時には犠牲者すべての遺体が収容され、身元確認が行われてから、8月6日には遺族のもとに遺体を返すことができたそうです。
全日空機雫石衝突事故ではパイロットの断末魔が・・・
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全日空機雫石墜落事故では、全日58便に乗っていた乗員・乗客は全員死亡しています。また、ブラックボックスは搭載されていませんでした。そのため、衝突事故が起こった時にコックピットではどんな行動をしていたか、どんな会話があったのかは詳しくはわかっていません。
しかし、追突が起こってから操縦不能に陥ったことを悟った機長は、緊急通信を発して、緊急事態を知らせました。
衝突9秒後(14:02:47.8 – 14:02:53.6):機長は自機が操縦不可能となった事を把握し、緊急通信を発する。「エマージェンシー、エマージェンシー」という音声が記録されているが、後半は絶叫と受け取れる解読不能の音声で終わる。
操縦不能に陥ったことを把握した時の機長の心境はどのようなものだったのか・・・。「エマージェンシー、エマージェンシー、あー-------!!!」というのが機長の最後の言葉だったとのことです。
そして、音速の壁を越えて空中分解。これは乗客はどのくらい状況を把握できていたのでしょうか。
また、この機長の最後の断末魔を聞いた交信相手も、おそらくいつまでも断末魔が耳に残って眠れなかったのではないでしょうか。
全日空機雫石衝突事故の原因
全日空機雫石衝突事故はいろいろな原因が重なり合って起こった事故でした。全日空機雫石衝突事故の原因を1つ1つ見ていきましょう。
事故の背景
まずは、全日空機雫石衝突事故の間接的な原因である事故の背景を見ていきましょう。
1952年から日本は民間の飛行機が飛べるようになって、航空法が作られました。でも、この当時はまだプロペラ機がメインでした。その後、ジェット機がメインになって、飛行機の本数もどんどん増えていくのですが、その飛行機の進化・増加に法律や環境整備が追い付いていない状態だったんです。
そのため、民間機のジェットルートと自衛隊機の訓練エリアが隣接していて、危険な状態になっていました。旧防衛庁と旧運輸省のコーディネート・調整がうまくいっていなかったことも、この事故の背景としてあったのではないかと航空評論家の小林宏之さんは話していました。
自衛隊幹部のずさんな飛行計画
全日空機雫石衝突事故の原因には、自衛隊のずさんな飛行計画もありました。
松島派遣隊の飛行訓練区域は5つ設定されていて、飛行訓練ごとに1つを割り当てるようにしていました。
どの訓練区域を割り当てられるかは、その日の気象状況などを考慮して決定されるのですが、事故当日に事故を起こした教官機・訓練機が割り当てられるはずだった区域は第4航空団で使用されることがわかりました。
そこで、飛行班長補佐のA三佐は飛行制限空域を考慮することなく、訓練空域を設定したのです。・・・エラー①
A三佐は飛行班長のB三佐にジェットルートが記載されていない100万分の1の地図を見せて、臨時訓練空域「盛岡」を設定するように進言し、B三佐はそれを了承しています。・・・エラー②
B三佐は主任教官のC一尉に「盛岡」の設定を伝達しています。・・・エラー③
B三佐は飛行隊長D二佐にも「盛岡」の設定を伝達し、D二佐はそれを承認しました。・・・エラー④
E一尉は「盛岡」の正確な位置や範囲を確認せずに、教官と訓練生に訓練区域の指示をしています。・・・エラー⑤
このように、当日の訓練区域を教官・訓練生に伝えるまでに何度も訓練区域がジェットルート内に入っていることに気づくことができるチャンスはあったのに、見事なまでにスルーしています。
エラー①:飛行制限空域を考慮しないで、訓練区域を設定した
エラー②:ジェットルート記載のない地図を使って伝達、上官はそれを承認
エラー③:ジェットルート記載のない地図を使って伝達、主任教官もそれを承認
エラー④:飛行隊長も承認
エラー⑤:主任教官は正確な位置・範囲を確認せずに教官と訓練生に指示
この①~⑤の中でどれか1回でも、「あれ?ここジェットルートに被ってない?飛行制限区域に入ってるよね?」と疑問に思えば、この全日空機雫石衝突事故は起こらずに済んだのです。
何の疑問も抱かずに、適当に飛行訓練区域を設定・承認してしまったという自衛隊の体制には、この事故の大きな原因があるでしょう。
教官の誘導・目視ミス
出典:mainichi.jp
この全日空機雫石衝突事故は、教官にも原因があります。教官は当日に訓練区域「盛岡」と指示された時、「だいたい盛岡あたりだな」と思ったのですが、教官は「ジェットルートJ11Lは盛岡市街あたりの上空をほぼ南北に通っている」と認識していたため、その西側で訓練を行えば問題はないと考えてました。しかし、実際のジェットルートJ11Lは盛岡市街よりも西側にありました。
そのため、教官のの認識は誤りがあったことになります。
この時、教官がジェットルートJ11Lのことを考えたのなら、もう一歩、「ジェットルートJ11Lってどこだっけ?」と確認しておけば、こんな悲惨な事故は起こらなかったでしょう。
教官がジェットルートJ11Lの中に入って訓練をしてしまったことが、第一の原因であると「全日空機接触事故調査委員会」は結論付けています。
また、教官は訓練中の視認を怠っていたと裁判で認定されています。訓練生は教官機を追うのに精いっぱいのため、教官が周囲に注意を払う必要があるのですが、教官の全日空機の視認が遅れた、『見張り義務違反』がありました。
教官機は接触の44秒前から14秒前の間に全日空機を視認して、訓練機に適切な回避指示を出していれば、事故は避けられたと民事裁判の第一審で結論付けられていますので、教官の注視・視認の怠慢は大きな原因の1つと言えます。
ただ、全日空機と訓練機が衝突して空中分解していく様子を見ていながらもパニックにならずに、しっかりと報告して、その空域にとどまり、やるべきことをやったというのは賞賛すべきことだと思います。
訓練機の未熟さ
訓練生にも原因はあります。裁判では訓練生に原因はないと認定されていますが、「上田晋也のニッポンの過去問」では訓練生の技量不足も原因に挙げられていました。
訓練生は教官機についていくのに必死なので、周辺の注視義務はありません。それでも、衝突の44秒前から30秒前に全日空機を視認して回避していれば、事故は避けられたと言われています。
この訓練機の回避行動は、全日空機の進行方向に旋回してしまったのですが、逆方向に旋回していれば、衝突は避けられなくても、ここまで大事故にならなかったかもしれません。
全日空機側にも原因が
この全日空機雫石衝突事故では自衛隊側の責任ばかりが報道されましたが、全日空側に原因はあったとされています。
全日空はジェットルートJ11Lを飛んではいましたが、「もっと早く自衛隊機に気づくことができたのではないか?」と言われています。
全日空機は後ろから訓練機に追いつく形で追突しました。ということは、訓練機は全日空機の前にいたため(高度は多少違うと思いますが)、訓練機から全日空機よりも、全日空機から訓練機のほうが視認しやすい状況にあったということです。
それなのに、全日空機はおそらく衝突7秒前まで、訓練機と至近距離にあることを認識できていませんでした。しかも、訓練機と衝突の恐れがあると認識してからも、回避行動を取っていません。
あまりにも近くに訓練機がいたから、咄嗟に行動できなかったのか?訓練機が回避してくれると思っていたのかはわかりませんが、全日空機がもっと早く訓練機に気づき、適切な回避行動を取っていたら、このような大惨事の事故は避けられたはずです。
全日空機雫石衝突事故の裁判:刑事裁判
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刑事裁判では教官と訓練生の刑事責任が問われました。
第一審では教官に禁錮4年、訓練生に禁錮2年8ヶ月の実刑判決が言い渡されています。
第二審では教官は控訴棄却として禁固4年のままでしたが、訓練生に対しては第一審の判決を破棄して無罪を言い渡しています。
これは、全日空機は衝突する29秒前から訓練生の注視野外にあったため、衝突を予測することができなかった、注意義務違反はなかったと認定されたためです。
最高裁では、訓練生に対しては第二審の判決を支持して、無罪が言い渡されました。
教官に対しては注意義務違反があったと認定されましたが、教官1人に全部の刑事責任を負わせるのはひどすぎるため、禁固3年執行猶予3年の判決を言い渡しています。
最高裁では自衛隊の体質・体制にも問題があり、自衛隊基地幹部の怠慢があったことを認定しています。しかし、自衛隊幹部は起訴されることはありませんでした。
全日空機雫石衝突事故の裁判:民事裁判
全日空機雫石衝突事故では、民事裁判も開かれました。刑事裁判では教官と訓練生の刑事責任が問われましたが、民事裁判は遺族が国(自衛隊)に対して損害賠償を請求した裁判が起こされ、さらに全日空が国に対して損害賠償等を求める訴訟を起こし、さらに国が全日空に対して損害賠償を求める反訴を提起したため、国と全日空が裁判で争う形になっています。
■第一審(1978年9月20日)
過失割合は、国:全日空=6:4
■第二審(1989年5月9日)
過失割合は、国:全日空=2:1
第二審のほうが国(自衛隊)側の責任が重くなっています。
これは、訓練空域設定自体に過失があって、全日空機はジェットルート内を飛行していたから過失の程度は小さい。自衛隊機が見張り義務を怠った過失の程度が重いと結論付けられたからです。
この判決後は国・全日空とも上告しなかったため、過失割合は国:全日空=2:1で決着しています。
全日空機雫石衝突事故の生存者のパイロットのその後
全日空機雫石衝突事故の生存者は、自衛隊の訓練機のパイロットだけでした。訓練機のパイロットは遠心力がかかったため、射出座席装置のレバーを引けませんでしたが、天井のキャノピーが外れたため、安全ベルトを外して脱出し、パラシュートで雫石の東南300mの田んぼに降下して、無事生還することができました。
教官は事故が起こったことを基地に「エマージェンシー、エマージェンシー、チャーリー2(注:訓練機)、民間機727と衝突、、、墜落しました。」と報告し、その場で旋回しながらとどまり、松島飛行場管制所と交信しながら状況を伝え、14時47分に帰投を指示されて、松島基地に帰還しました。
その後、事故発生から33時間後に共感と訓練生は岩手県警に逮捕されて、業務上過失致死と航空法違反の容疑で起訴されています。そして、教官は禁錮3年執行猶予3年の実刑判決、訓練生は無罪判決を受けています。
教官と訓練生のその後のことが気になると思います。
教官は有罪判決を受けたため、自衛隊法の規定により失職しています。再審請求も辞退していて、それ以降はパイロットに復帰することはありませんでした。クリーニング取次・靴修理店を営んでいたようです。
クリーニング取次・靴修理店を営んでいたK氏が95年、筆者に重い口を開いた。追突された言い分は多々あったろう。が、弁解は皆無に近かった。ただ、55歳の手が小刻みに震えていた。居酒屋に誘い、呑みながら取材を続けると震えは収まった。
教官だった元自衛隊員の男性は2005年8月に65歳で亡くなっています。
訓練生は最高裁で無罪となっていますので、最高裁判決後も自衛隊にとどまっています。最高裁判決後に自衛隊に戻った訓練生は、戦闘機のパイロットを辞めて救難隊パイロットになり、人命救助の任務にあたり、2003年10月に定年退職をしたそうです。
全日空機雫石衝突事故のその後と現在
全日空機雫石衝突事故は、当時日本国内の航空機事故最大の犠牲者を出した大きな事故でした。しかも、全日空機が空中分解して墜落するところが写真に撮られ、遺体が上空4,600mから落ちてきて、「黒い豆のようなものが落ちてきた」という証言もあったり、「空から遺体が降ってきた」というセンセーショナルな見出しがあったりして、大きく報道されました。
そのため、この全日空機雫石衝突事故の後に、日本の航空事情は大きく変わり、安全面が重視されるようになりました。
航空路と訓練域の完全分離
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まずは、航空路と訓練区域は完全に分離されました。完全に分離しておけば、自衛隊機が間違って航空路に侵入するリスクは限りなく少なくなります。
事故から約1週間後の1971年8月7日には、次の3点が盛り込まれた「航空安全緊急対策要綱」が発表されました。
・自衛隊訓練空域と航空路を完全分離すること
・訓練空域は防衛庁長官と運輸大臣が協議して公示すること
・その域内を飛行する航空機はすべて管制を受けること
また、1975年には航空法が改正され、安全面が重視されるようになりました。
・管制空域内での曲芸飛行と訓練飛行の禁止
・空港周辺空域における通過飛行の禁止と速度制限
・特定空域の高度変更の禁止と速度制限
・ニアミス防止のための見張りなどの安全義務
・ニアミス発生時の報告義務
・トランスポンダとフライトレコーダー等の装着義務
この事故により空の安全対策が急がれ、空域内を飛行する全ての航空機に官制を受けることを義務付ける「特別官制空域の拡充」「フライトレコーダーやボイスレコーダーなどの装置の義務化」やトランスポンダと呼ばれる「空中衝突予防装置の搭載」も義務付けられました。
これらは旅客機だけではなく、自衛隊機にも適用されることになりました。
安全教育の徹底
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また、全日空では安全教育が徹底されることになりました。
ANAグループ安全教育センター(ASEC)は、若手社員からの「過去の事故を風化させない施設が必要である」との提案に基づき2007年に東京都大田区下丸子に創設されました。
この安全教育センターには2006年に雫石衝突事故現場の山の斜面で発見された事故機の残骸(窓枠や座席など事故機の部品10点)が展示されています。全日空機雫石衝突事故から50年以上経ちますが、全日空は安全意識が高まったこともあり、全日空機雫石衝突事故以降、死亡事故は1件も起こしていないとのことです。
1971年、雫石上空での空中衝突事故以来、お客様の死亡事故は50年以上発生していませんが、その記録は明日の安全を保障するものではありません。
尊い命を失ったあの全日空機雫石衝突事故を無駄にすることなく、安全面に生かしているんですね。
全日空機雫石衝突事故の慰霊の森(慰霊碑)は心霊スポットに
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全日空機雫石衝突事故が起こった後、犠牲者を弔うために事故現場近くに「慰霊の森」が整備されています。慰霊碑も立てられ、2003年(33回忌)までは毎年慰霊祭も行われていました。2003年以降も遺族たちによる「一般財団法人慰霊の森」や地元住民の方々、全日空社員らによって、大切に維持されています。
犠牲者には静岡県富士市出身の人が多かったことから、2019年には富士山の方角を向いている「航空安全祈念の塔」が建立されました。
2020年には「慰霊の森」から「森のしずく公園」に名称が変わっています。
ちなみに、この慰霊の森は「この辺りに機体や犠牲者などが落ちてきた」という場所ですが、慰霊の森の場所に直接墜落したわけではありません。
心霊スポットとして有名
この慰霊の森は心霊スポットとして有名な場所です。慰霊の森は162名が犠牲になった全日空機雫石衝突事故の慰霊碑がある場所であり、山の中の鬱蒼とした場所にあります。そのため、「The 心霊スポット」という雰囲気が漂っているんです。
日本最恐心霊スポット慰霊の森とかありますけど…
— むずむず即身仏ツアー (@OKOTANIAN) July 11, 2022
①慰霊の森は最近まで機体の一部が見つかる等、遠い記憶のものではない。心霊スポットになっていることも知ってはいるが、軽々しくいくところではない。いろんな話を聞くと、基本連れて帰ってきてしまうことが多い気がする。
— ど~もくん@盛岡市 (@domokunBS) February 5, 2020
人気Youtuberのはじめしゃちょーは、この慰霊の森を訪れて、「日本で1番ヤバい心霊スポット」として動画で紹介しました。慰霊の森の慰霊碑を「ラスボス」と呼び、さらに雪の上で転んで「はい死んだ」と笑った動画をアップして、大炎上しています。
はじめしゃちょーは炎上を受けて、動画を非公開にして謝罪しました。
はじめしゃちょーさんは2月6日、ツイッターで「諸事情につき動画を非公開にさせていただきました」とし、「不快に思われた方、申し訳ありませんでした」と謝罪した。
引用:はじめしゃちょー、不謹慎動画で謝罪 「慰霊の森」を心霊スポットと紹介…墜落事故の追悼の場: J-CAST ニュース
心霊スポットとなっているのは理解できますが、それでも遊び半分・からかい目的で訪れて良い場所ではありませんね。
全日空機雫石衝突事故のまとめ
全日空機雫石衝突事故の概要と詳細、事故の場所や犠牲者の遺体の状況、機長の最後の断末魔、事故の原因、裁判の判決、その後と現在、慰霊碑・異例の森の心霊スポット化をまとめました。
全日空機雫石衝突事故は本当に痛ましい事故でした。いろいろな原因が重なったことで起こった事故であり、遺族としてはやりきれず、怒り・悲しみをどこにぶつけて良いかわからなかったと思います。
もう2度とこんな痛ましい事件が起こらないようにしてほしいですね。