トムラウシ山遭難事故とは2009年に起きた山岳事故で、ガイドを含む8名の凍死者が出たことで知られます。
この記事ではトムラウシ山遭難事故の原因、低体温症と奇声の恐ろしい関係、前田和子さんら生存者やツアー会社のその後、現在についてまとめます。
この記事の目次
トムラウシ山遭難事故の概要
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2009年7月16日、北海道の美瑛町と新得町の境にそびえる大雪山系のトムラウシ山で、登山に訪れていたツアー客とガイドが遭難、合計8名が死亡する事故が起こりました。
事故に見舞われたツアーは7月14日から16日までの2泊3日でトムラウシ山を縦走するというもので、参加者は50〜60代の男女15名で3名のガイドが引率についていました。
トムラウシ山は「大雪の奥座敷」と呼ばれ、天候が崩れるとたとえ夏であっても凍死者がでるという過酷な山です。トムラウシ山遭難事故が起きた際も、7月14日の夜から雨が降りはじめ、15日にはツアー客一行は寒冷前線の通過に伴う大雨に襲われました。
そのため夏山でありながら、トムラウシ山遭難事故での死者は全員、低体温症が死因でした。
トムラウシ山遭難事故の詳細・時系列
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事故に遭ったトムラウシ山縦走ツアーを企画したのは、東京都千代田区にあるアミューズトラベルという会社です。
ツアー参加者の年齢層は最年少が55歳、最年長が69歳と比較的高齢で、男女比は男性が5名、女性が10名でした。また、引率をしたガイドは以下のような構成だったといいます。
・吉川寛さん…ガイドリーダー兼旅行管理者。事故当時の年齢は61歳。職務経験は豊富だが、トムラウシ山の登山経験はない
・多田学央さん…メインガイド。事故当時32歳で今回のガイドのなかでは最年少だが、札幌在住でトムラウシ山の登山経験あり
・松本仁さん…サブガイド。事故当時の年齢は38歳。職務経験は豊富だが、トムラウシ山の登山経験はない
なお、この3名は事前に顔合わせなどをしておらず、ツアー初日の7月13日が初対面だったといいます。また3名のうち、日本山岳ガイド協会の資格を持っていたのはリーダーの吉川寛さんのみでした。
7月13日・一行が集合する
ツアー参加者とガイドたちはトムラウシ山に登る前日の7月13日午後1時30分に、新千歳空港のロビーに集合していました。18人全員が揃うと、一行はチャーターしたバスで大雪山の登山口となる旭岳温泉白樺荘に移動。
この日の夜、白樺荘の部屋で天気予報を確認していたメインガイドの多田学央さんは「14日までは天気が持ちそうだが、15、16日は危ないかもしれない」と予想し、ツアー参加者にもその旨を伝えていました。
7月14日・登山1日目
14日の朝、予定通りに早朝5時50分に白樺荘を出発した一行は、徒歩で大雪山旭岳ロープウェイの山麓駅に向かいました。
そこで一行はネパール人のシェルパと合流し、午前6時15分の臨時便で山上の姿見駅に移動。午前9時頃には旭岳山頂に到着しました。5〜6合目付近では強風に襲われましたが、山頂到着時には天気もよく、早朝にはかかっていたガスも消えて遠くまで見渡せるほど視界も良好だったといいます。
続いて一行は雪渓を下って間宮岳の手前に移動し、そこで昼食休憩をとります。この昼食後、女性参加者の1人が高山病により嘔吐したため、吉川ガイドと女性客が一行から遅れるというアクシデントがありました。
ツアー参加者たちは、午後2時40分すぎにはその日の宿となる白雲岳避難小屋に到着。1日目はそのまま休むこととなりました。
夕食後、携帯電話で天気予報をチェックしたガイドたちは、翌日の午後には寒冷前線が通過する影響で天気が崩れるおそれがあると知ります。そこで少しでも早く2日めの宿泊地であるヒサゴ沼避難小屋に到着できるように、出発時間を予定よりも30分早める決定をしました。
7月15日・登山2日目
15日は朝から雨でした。しかし本格的に降っていたわけではなく、また意外に視界も良好だったために一行は雨具を着用して早朝5時に小屋を出発しました。
しかし平ケ岳に差し掛かったあたりから徐々に雨風ともに強くなっていき、忠別岳を登る頃にはかなりの強風にさらされたそうです。
もちろんツアー参加者は全員、透湿性防水素材の雨具を着用していました。しかし濡れ方にはばらつきがあり、少し服が湿った程度で済んでいる人もいれば、前身ずぶ濡れ状態の人もいました。
さらに、雨のせいで登山道がまるで川のように水浸しになっていたため、ほとんどの人が靴下まで濡れており、足先からの冷えで体力を奪われていったのです。
ヒサゴ沼避難小屋には午後3時頃に到着したとされていますが、この時点で疲労困憊になっている参加者も見られたといいます。
せめて夜はゆっくり休めればよかったのですが、ヒサゴ沼避難小屋の2階には別のパーティがすでにいたため、一行は窮屈なうえ、雨具から滴り落ちた水で床が濡れてしまった1階で一晩を越すことになりました。
一時はおさまるかと思われた雨風も夜更けになると激しさを取り戻し、避難小屋の中も雨漏りがあったそうです。そのような環境で休んだために疲れもとれず、一行は疲弊した状態のまま朝を迎えました。
7月16日・登山3日目
事故当日の16日、午前3時45分に参加者たちが起床した時には、風も雨もかなり強かったといいます。
当初の予定では5時30分に避難小屋を出発する予定でしたが、天候の回復具合や雪渓の登りを考えて、ガイドたちは30分出発を遅らせることにしました。
そして、吉川ガイドは参加者たちに出発時間を5時30分に変更する旨を伝え、出発前になって「今日の我々の仕事は、皆さんを無事に下山させることです。そのため、トムラウシ山には登らずに迂回ルートを通ります」という発表をします。
この日の午後にはアミューズトラベルが企画した別のツアーの参加者がヒサゴ沼避難小屋に宿泊する予定であったため、ネパール人のシェルパは避難小屋に残ることになっていました。
小屋にはガイドが持っていた装備のなかから、10人用テント一張、4人用テント一張、炊事用具などが置いていかれ、引き続き携行していくことになった共同装備は4人用テント一張とツエルトのみでした。
5時半にヒサゴ沼避難小屋を出発した一行は、雪渓に着いたところでアイゼンを装着しました。なお、アイゼンの装着に慣れていない参加者がいたため、ここで時間をロスしたとされます。
雪渓が終わったところから稜線までは大きな岩が転がるコル地形の道で、風速20〜25mの風に煽られて何度も転倒する人も出てくるなど、早くも道行に不安が生じる有様でした。
この様子を見た多田ガイドは「稜線に出た時の参加者の様子次第では、天人峡へのエスケープルートを取るべきかもしれない」と考えたといいます。しかし稜線到着後も3人のガイドはルートを変えることなく、計画通り縦走を続けました。
稜線にも強い西風が吹き荒び、時折、雨もぱらついていました。さらに天沼を過ぎる頃には西風はいっそう強くなり、まともに立っていられないこともあったとされます。参加者は「風が弱くなったときを見計らって移動してください」という吉川ガイドの指示に従って、屈んだ体勢で木道に掴まりながらじりじりと前進しました。
午前8時30分・ロックガーデンに到着
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避難小屋から出て3時間、通常の2倍の時間をかけて午前8時30分頃に一行はロックガーデンに到着しました。
参加者たちは抜きつ抜かれつしながらロックガーデンを登りましたが、最前列のグループと最後尾のグループの間にはかなりの間隔ができており、後方のグループからは前列のグループが見えないほどだったといいます。参加者たちはみな自分の身を守ることに精一杯で、他の人を気に掛ける余裕はなくなっていたのでしょう。
この辺りでついに松本ガイドが吉川ガイドに「これ、まずいっすよ」と引き返したほうが良いのではないかと伺いを立てていますが、吉川ガイドから返事はなく、一行は予定通りの道を進んでいきました。
9時30分頃、ロックガーデンで雨に濡れた岩を登るのに悪戦苦闘している一行を、ヒサゴ沼避難小屋で一緒になったパーティが追い抜いていったことが、事故調査報告書から明らかになっています。
一行の前列グループにいた女性参加者の1人は「あのパーティに参加させて欲しいと思いながら歩いた。ガイドが最後尾の人にあわせて歩いているから、本当に進みが遅かった」と振り返っていました。
そのようにゆっくりと進んでいたばかりか、最後部のグループを待つために前列グループは途中で20〜30分、土砂降りの中を立って待たされたこともあったといいます。
事故調査報告書で松本ガイドはロックガーデンを越したあたりのことを振り返り、「真っすぐ立って歩けないほどの強風だった。真冬の富士山にいるのかと思うほど、寒かった」とコメントしていました。
午前10時・低体温症による離脱者が発生
北沼に一行が到着したのは、午前10時近くでした。本来ならばヒサゴ沼避難小屋から北沼までは2時間半あれば歩ける距離なので、2倍近くの時間をかけてようやくたどり着いたことになります。
北沼からは東斜面に向かって水が流れ出して小川のようになっており、一行はそこを渡らねばいけませんでした。途中、参加者を助けている時に松本ガイドが風に煽られて転倒し、全身ずぶ濡れになるアクシデントがありましたが、なんとか全員渡り終え、北沼分岐に到着。
なお、この時も先に渡り終えた参加者たちは平坦で風を遮ってくれるものも少ない北沼分岐の丘で、強風に吹かれながら遅れている人たちをひたすら待ち続けたといいます。
しかしここで、最後に流れを渡った68歳の川角夏江さんという女性参加者が低体温症で動けなくなってしまい、ついに初の行動不能者が出てしまうのです。
意識が安定しない川角さんのもとに3人のガイドが駆け寄って介抱をしている間、待機している他の参加者の様子もおかしくなっていきます。
そして参加者の1人、62歳の味田久子さんがいきなり嘔吐したかと思うと意味不明の奇声をあげ始めたのでした。
切羽詰まった状況に参加者たちは「これは遭難だ!このまま、ここにいてはみんな死んでしまう!」「動ける人間は先に進むべきだ!」と、ガイドたちに訴え、ガイドたちも「歩ける人は先に進んでいてください」と告げます。
ここで一行は別れ、参加者の野首功さん(事故当時69歳)は、この場に残る川角さんと吉川ガイドを心配して自分の持っていたツエルトを置いていきました。
次々と離脱者が発生
ところが北沼分岐を出発して間もなく、植原鈴子さん(事故当時62歳)、石原大子さん(事故当時61歳)、市川ひさ子さん(事故当時59歳)の3名が低体温症で行動不能になってしまいます。
そして3人のもとに多田ガイドと参加者の野首さんが付き添って残ることとなり、松本ガイドと10名の参加者が下山することとなりました。
この時、先程水のなかに転倒してずぶ濡れになって全身の体温を奪われていた松本ガイドにも低体温症の症状が出ており、本人にも「まずいな」という自覚があったといいます。しかし、10人の参加者たちの体力が刻一刻と奪われていくなかで、多田ガイドと交渉をする暇もないと判断したため、引率を引き受けたそうです。
松本ガイドに引率された一行が歩き始めてすぐに、雪渓に差し掛かりました。行動不能になりそうな人がいると余力のある人が肩を貸し、なんとか進んできましたが、トムラウシ分岐に着く頃には松本ガイドでさえ遅れている人を気に掛ける気力がなくなり、後ろを振り向くことさえしなくなっていました。
参加者の1人が心配して「ガイドさん、(後ろの人達を)待っていてあげなくていいんですか?」と尋ねると、松本ガイドは「一刻も早く下山して、救助を呼ばないといけないから」と返してきたといいます。
その間に足元がふらつきはじめた竹内多美子さん(事故当時69歳)と、彼女を支えていた長田涼子さん(事故当時68歳)、同じくまともに歩けなくなっていた木村隆さん(事故当時66歳)と、彼を支えていた斐品真次さん(事故当時61歳)が集団から遅れをとってしまいました。
しかし、必死のサポートも虚しく、低体温症になった参加者は次々に意識を失い、動くことができなくなってしまいます。こうなると肩を貸して歩くのも難しくなり、結局は「助けを呼んでくるから、ここで少しだけ待っていてね」と声がけをして、動けるものは行動不能者をその場に置いて、下山することになります。
奇跡的に繋がった110番通報
トムラウシ分岐を過ぎた頃から松本ガイドも転倒が目立つようになっていました。それでも先頭を切って進んでいると、前トム平下部のガレ場に差し掛かった松本ガイドの後ろにいた前田和子さん(事故当時64歳)の携帯電話から着信音が響いたのです。
電話の相手は自宅で待つ前田さんの夫で、その様子を見ていた松本ガイドは、彼女に「その携帯を使って110番通報をしてくれ」と頼みます。
電波状態は極めて悪かったため何度も途中で通話が切れたものの、無事に前田さんは警察に遭難している旨を伝えることができました。この時の時刻は、午後3時55分。なお、110番通報後、前田さんの携帯もバッテリーが切れてしまい、通話不能となりました。
通報後、緊張の糸が切れたのか松本ガイドもついに低体温症の影響で動けなくなってしまいます。前田さんも「一緒に下山しましょう!」「起きて、子どもがいるんでしょう!」と懸命に呼びかけましたが、松本ガイドはうずくまったまま動かず、仕方なく彼女は後ろからやってきた亀田通行さん(事故当時64歳)とともに、彼を置いて下山しました。
一方、先頭集団から大きく遅れをとっていた参加者の間でも行動不能者が出ていました。参加者の1人、真鍋記余子さん(事故当時55歳)は途中で合流した岡恵子さん(事故当時64歳)と励ましあって下山していました。
しかし、トムラウシ公園付近で岡さんが動けなくなり、真鍋さんもシュラフを広げて付き添っていたものの、午後6時頃には岡さんの足が冷たくなっていることに気づいたといいます。
真鍋さんはショックを受けましたが、幸いにも付き添っているうちに体力が戻り、しっかり状況判断ができるほど意識も回復していたため「暗い中1人で動くのは危険過ぎる。今日はここでビバークしよう」と決めて、軽い食事をとってそのまま休むことにしました。
午後11時55分・自力で下山した参加者が救助される
先頭で下山していた亀田さんと前田さんは、不安を覚えながらも歩みを続け、ついに道路に出ることに成功します。そして、通りかかった報道機関の車に救助され、そのまま短縮コースの登山口に設置された本件の遭難対策本部へと搬送されることになりました。
亀田さんと前田さんの2人が下山した時刻は午後11時55分。2人はトムラウシ温泉に送られ、午前3時ころまで事情聴取を受けたとされます。
続いて日付が変わった17日午前0時50分には長田さんと斐品さんの2名が自力で下山して保護され、午前4時頃には戸田新介さん(事故当時65歳)が下山してきました。
7月17日・生存者の救出
17日になるとトムラウシ公園でビバークをしていた真鍋さん、通りかかった登山客に発見された松本ガイドが救助され、その日の昼には松本ガイドも搬送先の病院で意識を取り戻しました。
そして北沼周辺で離脱した多田ガイド、野首さん、介抱している途中に意識を取り戻した石原さんの3名が陸上自衛隊のヘリコプターによって救助されました。
トムラウシ山遭難事故の死者はガイドを含む8名にのぼった
7月17日の救助後、トムラウシ山遭難事故での生存者は以下の10名でした。
・松本仁ガイド
・多田学央ガイド
・野首功さん(事故当時69歳)
・石原大子さん(事故当時61歳)
・真鍋記余子さん(事故当時55歳)
・前田和子さん(事故当時64歳)
・亀田通行さん(事故当時64歳)
・斐品真次さん(事故当時61歳)
・長田涼子さん(事故当時68歳)
・戸田新介さん(事故当時65歳)
亡くなった方は全員で8名、死因はみな低体温症でした。
・吉川寛ガイド
・川角夏江さん(事故当時68歳)
・味田久子さん(事故当時62歳)
・竹内多美子さん(事故当時69歳)
・木村隆さん(事故当時66歳)
・岡恵子さん(事故当時64歳)
・植原鈴子さん(事故当時62歳)
・市川ひさ子さん(事故当時59歳)
トムラウシ山遭難事故が起きた原因① ガイドの判断ミス
トムラウシ山遭難事故が起きた原因の1つにあげられるのが、ガイドたちの連携のなさ、そして相次いだ判断ミスです。
そもそも7月16日の早朝の時点で雨風ともに勢いが凄く、また天気が回復する見込みもなかったのですから、ヒサゴ沼避難小屋で待機するという選択肢もあったはずです。
参加者のなかには「5時半に出発する」と聞かされた時に「このまま、ここで天気の回復を待つのでは駄目なのか」と愕然とした人もいたといいます。
またヒサゴ沼避難小屋を出て早々にアイゼンの装着ができない、大幅に遅れを取るといった参加者が出ていたことを考えると、その時点で「初心者を連れての下山は無理だ」と判断して小屋に戻る選択肢もあったと思われます。
実際に松本ガイドも意識を取り戻した後、「引き返したほうがいい、と思う場面は何度もあった。しかしガイドも皆、極限状態でまともな判断ができず、少しでも早い決断をと焦っているうちに取り返しのつかないところに来てしまった」と、自分を含むガイドの判断に問題があったことを認めていました。
トムラウシ山遭難事故が起きた原因② 旅行会社の経営体質
3人のガイドの間で意思疎通がはかれていなかった、ガイドがトムラウシ山について知識がなかったことが遭難事故の大きな原因ではありますが、そもそもこの旅行を企画したアミューズトラベルがガイドの顔合わせや事前打ち合わせの場を設けていなかったことが一番の問題だと指摘されました。
トムラウシ山では2002年にも夏に遭難事故が起きており、その時も2名の死者がでていました。そのため旅行会社は最悪の事態を想定して、トムラウシ山に慣れている社員をガイドに選ぶべきだったのですが、3人のうちトムラウシ山に登った経験があるのは多田ガイドだけでした。
またこのツアーでは予備日が設けられておらず、ガイドには日程通りに下山しないといけないというプレッシャーがあったと思われます。事前の準備や安全対策にかけるべき時間やコストをカットし、利益重視をしていた会社の体質が、この事故を招いた最大の原因だとも言えるでしょう。
トムラウシ山遭難事故が起きた原因③ 参加者の知識不足
トムラウシ山遭難事故の生存者の行動を見てみると、早い段階から雨具のなかにフリースを着込む、雨水が吹き込まないように完全防備する、無理だと感じたら先に進まずに安全な場所でビバークするなど、登山に慣れた対応をしていることがわかります。
一方で亡くなってしまった人のなかには「今のうちにダウンを着ておいたほうがいいよ」など、同じ参加者からアドバイスをされたにもかかわらず、状況を軽く考えて軽装でいた人もいたことが明らかになっています。
旅行会社側が「登山初心者でも歓迎」を謳っていることもあり、「ガイドがいるのだから気軽に参加できるのだろう」と考えてしまう人も少なくなかったのかもしれません。
事故発生直後にはツアー参加者は準備不足だった、夏山だと思って防寒具を用意していなかった等と報じられていましたが、事故調査報告書によると参加者は全員、きちんとした装備を持ってきていたといいます。
しかし、ガイドから着てくださいと言われなかったためかせっかく持ってきた防寒具の着用を怠り、低体温症を招いてしまったと考えられます。
また途中でガイドの判断に違和感を覚えることがあっても、「体調が悪い人もいるのだから、ことを荒立てるのはよそう」といった考えから、異を唱えずにいたと証言する生存者もいました。
トムラウシ山遭難事故に巻き込まれたツアー参加者は比較的高齢で、互いに助け合うなど、極限状態であっても分別のある行動をしています。しかし自分以外を尊重し、周囲に気を使ってガイドの決定に反対する人がいなかった結果、事態が悪化してしまったのではないかとも指摘されています。
トムラウシ山遭難事故で問われた旅行会社の責任と現在
トムラウシ山遭難事故後、北海道県警は業務上過失致死の疑いがあるとして、7月18日にツアーを催行した旅行会社・アミューズトラベルの札幌営業所に家宅捜査に入りました。
そして翌日19日にアミューズトラベルの松下政市社長は会見を開きましたが、そこでの発言は終始言い訳を口にしているといった印象で、批判が集中しました。
松下社長は「トムラウシ山がそこまで危険な山だという認識はなかった」「ツアー中の決定権はガイドリーダーに一任している」「防寒着などはきちんと持ってくるように参加者に伝えていた」等と話し、事故の責任は亡くなった吉川ガイドにあると強調したのです。
北海道県警は社長の訴えを認めず、天候急変時の対応やツアーの中止基準を会社側が定めていなかったことなどを理由に松下社長ら4人を業務上過失致死傷容疑で書類送検しました。
しかし2018年3月に松下社長ら3人を容疑不十分で不起訴、吉川ガイドについては容疑者死亡で不起訴処分との決定をしています。
地検は不起訴とした判断について、アミューズトラベルが低体温症の危険や必要な装備の周知について、携行品リストを示すなどして対応していたと指摘。ガイドについては「ツアー中止や続行の最終判断はツアーリーダーにあり、2人のガイドは助言する立場。2人が助言をしなかったとは断言できない」とした。
なお、2012年11月3日にもアミューズトラベルは万里の長城をめぐるツアーで3名を凍死させる遭難事故を起こし、翌月19日に旅行業登録を取り消す処分を受けて廃業しています。
トムラウシ山遭難事故のその後・生存者の前田和子さんやモンベルが話題に
トムラウシ山遭難事故では、生存者の登山知識や低体温症を防ぐ対策なども注目されています。
110番通報した後、自力で下山した前田和子さんは、タオルに穴を開けた簡易装備を制作し、それを首からかぶって防寒具の内側に装着して体が濡れるのを防いでいました。
また、単独で下山してきた戸田新介さんがモンベルの雨具とフリースを着ていたことから、登山愛好家の間で「モンベル最強」「登山ウェアならモンベル一択なんだよなあ」とモンベルの防寒着の機能性が話題に。
さらに戸田さんが着ていたのは山で目立つとされる青色であったため、ネットでは「青モンベル最強伝説」という言葉まで生まれました。
トムラウシ山遭難事故では奇声と低体温症の関係も注目された
またトムラウシ山遭難事故では、下山中に奇声をあげる人がいたことも怖い、どうして、と話題になりました。
低体温症になると体温35℃前後で歩行が遅れる、眠気が出る、震えが止まらなくなるといった症状があらわれます。
次いで体温が32〜33℃に下がると転倒や意識障害が起きるのですが、山で低体温症になると、比較的早くこの段階まで症状が進んでしまうのです。
低体温症では身体の深部温度が下がることに伴って血液の温度も下がり、それによってヘモグロビンから酸素が放出されにくくなるため、脳が酸素不足に陥り、意識障害が引き起こされます。
そして大脳皮質の機能も落ちることで感情の抑制がきかなくなり、奇声をあげる、赤ちゃん言葉で話すといった理性のたかが外れたような行動を起こすのだといいます。
凍死する人は裸の状態で見つかることが多い、という話を聞いたことがある方もいるでしょう。これも脳が正常に機能しないことで体温調節中枢にも異変が生じ、凍えるほど寒い状態を「我慢ができないほど暑い」と身体に勘違いさせてしまうためなのだそうです。
トムラウシ山遭難事故についてのまとめ
今回は2002年に起きたトムラウシ山遭難事故について、事故の詳細や事故が起きた原因、旅行会社のその後などについて紹介しました。
旅行会社の事前準備や認識の甘さが原因で起きる事故を防ぐため、2004年にはツアー登山で遵守すべき項目をまとめた「ツアー登山運行ガイドライン」が定められ、以降はツアー登山の質や安全性も向上したとされています。トムラウシ山遭難事故は、そのような対応が取られているなかで起きた事故でした。
この事故では絶景が臨めると楽しみにしていたであろう登山で8名もの人が命を落とし、残った人もサバイバーズ・ギルトに悩まされたといいます。二度と同様の悲劇が起きることがないよう、願うばかりです。