学校行事での事故は教師や学校側に大きな責任問題が生じますが、全国的にも有名な名門学校では過去に2つの大きな事故を起こし、複数の生徒が犠牲になりました。
逗子開成中学・高校のボート遭難事故と八方尾根遭難事故の概要、それぞれの原因(教師か生徒か)やその後と現在をまとめました。
この記事の目次
逗子開成中学・高校は2つの大きな事故があった
逗子開成中学・高校は神奈川県逗子市にある中高一貫の私立の男子校です。1903年に東京の開成中学の分校として開校し、神奈川県内では最も歴史のある私立の男子校で、名門学校と言われる学校の1つです。
大日本帝国海軍による横須賀海軍鎮守府の軍人の子弟教育の要請を受けて開校したという経緯があり、戦前は海軍の軍人の家族が多かったり、海軍兵学校を志す生徒がたくさんいました。また、現在でも正規授業の中で1.5kmの遠泳やヨット実習などの海洋教育を行っています。
このような逗子開成中学・高校ですが、1903年の開校から現在までに、生徒を巻き込む大きな遭難事故を2度も起こしています。
・1910年1月:ボート遭難事故(生徒12人死亡)
・1980年12月:八方尾根遭難事故(生徒5人・教師1人死亡)
これら2つの遭難事故について詳しく見ていきましょう。
逗子開成中学・高校の遭難事故①:ボート遭難事故
出典:shonanbb.net
逗子開成中学・高校の遭難事故の1つ目は、1910年1月に起こったボート遭難事故です。
1910年(明治43年)1月23日、この日は日曜日で学校はありませんでした。逗子開成中学の生徒11人と逗子小学校の小学生1人の計12人は、軍艦「松島」から払い下げられた学校所有のボートで学校の許可なく勝手に海に出て、江の島まで行く予定で葉山を出艇しました。
しかし、七里ヶ浜の行合川の沖合1.5kmの付近で突風にあおられて、ボートが転覆します。このボートの転覆は江の島や七里ヶ浜の漁村で目撃されました。ただ、この日は不運にも消防出初式だったため、漁船が1隻も出ていなかったため、救助の出動が遅くなりました。
ボートの転覆が確認されてすぐ、半鐘が鳴らされて、漁船や横須賀軍港からの掃海艇、駆逐艦などが生徒たちの捜索を行いましたが、事故の4日後の1月27日までに遭難した12人全員が遺体となって発見されました。
この犠牲者の中には兄弟がいて、中学生の兄が小学生の弟をしっかりと抱きかかえた状態で2人一緒に発見されたとのことです。溺れても最後の最後まで弟を守ろうとしたものと思われます。
このボート遭難事故が起こったことを受けて、当時葉山御用邸で静養中だった皇太子嘉仁親王(のちの大正天皇)が急遽逗子開成中学・高校を訪問したそうですので、この遭難事故がいかに大きな事故として認識されていたかがわかります。
逗子開成中学・高校のボート遭難事故の原因は教師?生徒?
逗子開成中学・高校のボート遭難事件の原因は何でしょうか?直接的な原因は突風です。鎌倉は谷が入り組んでいて、谷を通り抜ける北風が海でぶつかると、「ならい」と呼ばれる突風が吹くことは地元漁師の間では知られていました。
また、冬の七里ヶ浜は天候が変わりやすく、急な西風が吹くこともあると言われています。
逗子開成中学の生徒ら12人が乗ったボートは、この突風に煽られて転覆しました。
ただ、この事故の根本的な原因は教師側にあったのか、生徒側にあったのかを見ていきましょう。
生徒は許可を得なかった
ボート遭難事故があった日は日曜日で学校は休みでした。そして、生徒たちは学校のボートを使うのに、学校の許可を得ず、無断で海に出ました。
このボートは学校の監督下にあり、艇庫の管理は石塚先生という教員が担当していました。それなのに、勝手に許可なく無断でボートを使用し、遭難したのですから、結果論で見れば、生徒の責任が多いように思えます。
しかも、生徒たちは自分らの蛮勇を誇示するためにボートを無断で使用し、海鳥を猟銃で撃ち落として怪しい材料を集めて食べる「蛮食会」で食べようと思っての行動だったようです。
これらのことから、遭難事故が起こった当初は生徒たちが無断でボートを使ったことが原因と見られていました。
教師は監督不行き届きで責められる
ボート遭難事故が起こった当初は原因は生徒にあるという論調でしたが、次第に世論は教師にも原因があるいう方向に傾いていきました。
標的にされたのは学生寮の監督と艇庫の管理を任されていた社会科教師の石塚巳三郎です。
杜撰な生徒指導とボート管理が事故の原因である、学校や教師の怠慢であると言われるようになりました。そして、事故で亡くなった生徒の保護者からは、「責任は石塚舎監にあり、今、直ちに、この遺体を元の生きたる姿に戻して返せ」と言われるようになります。
そして、石塚巳三郎の名前は新聞に掲載され、世間からのバッシングを受けるようになりました。
逗子開成中学・高校のボート遭難事故のその後
鎌倉女学院の教師が作った鎮魂歌でさらなるバッシング
逗子開成中学・高校のボート遭難事故の2週間後に遭難生徒追悼大法会が開かれ、姉妹校である鎌倉女学院の教師である三角錫子が作詞した鎮魂歌「真白き富士の根(七里ヶ浜の哀歌)」が披露され、このボート遭難事故が美化されるようになります。
このことで、教師の石塚巳三郎へのバッシングはさらに強くなっていったのです。
石塚巳三郎は学校を去り、「石塚」姓を捨てた
ボート遭難事故があった1月23日は、実は石塚巳三郎は同僚教師と一緒に逗子開成中学・高校を去る教師の見送りに行き、その帰りに一緒に行った同僚教師に三角錫子との見合いを勧められていました。
石塚巳三郎は姉妹校で教師をしていた三角錫子に好意を持っていたこともあり、そのまま見合い話を進めてもらうことになっていたのです。そんな時に、ボート遭難事故が起こり、石塚巳三郎は不眠不休で生徒の捜索に当たりました。
しかし、教師である自分に遭難事故の責任があると言われるようになり、新聞で名前を晒され、見合い予定だった三角錫子が作った歌で、さらにバッシングを浴びるようになるという悲惨な状況に追い込まれます。
石塚巳三郎は、この後すぐに学校に辞表を出して、傷心の旅に出るようになり、岡山県立農学校の教師となり、そこで結婚して婿養子になりました。そして、新聞で晒された「石塚」の姓を変えて生活するようになりました。
石塚巳三郎の息子であり小説家の宮内寒弥は、事件をもとにした小説『七里ヶ浜』を1978年に発表し、平林たい子文学賞を受賞しています。
事件の真相を知り正しく書くことによって、宮内氏は父の無念と自身の屈辱を晴らすことができた、著者はそう伝えている。
校長は賠償金の支払いに奔走
ボートの管理責任を問われて、教師の石塚巳三郎は逗子開成中学・高校を退職することになりました。それに対し、学校の責任者である校長の田邊新之助は引責辞任することはありませんでした。
ただ、辞任しなかったからと言って、責任逃れをしていたわけではありません。校長として莫大な損害賠償金の支払いに奔走していたのです。この損害賠償金の支払いのために、姉妹校である経営母体が同じである鎌倉女学院の所有地を売却することになりました。
引責辞任せずに、学校存続のため、学校長としての責任を全うするために学校に残るのも修羅の道だったと思います。
逗子開成中学・高校の事故②:八方尾根遭難事故
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逗子開成中学・高校の遭難事故の2つ目は、1980年12月の八方尾根遭難事故です。
1980年12月25日、冬休みを利用して唐松岳に登るため、逗子開成高校の山岳部生徒5人と引率教師1人は夜行列車を利用して白馬駅に行き、翌12月26日に白馬村の八方尾根から唐松岳に向かう冬期登山を計画していました。
12月26日は八方山荘から第二ケルンまで登ってテントを張り、翌27日は唐松岳登頂を目指して出発しましたが、計画通りに行程が進まず、第三ケルンまで引き返しました。
そして、そこで天候が崩れてホワイトアウト状態になり、テントに戻ることができなくなります。この日の第三ケルンまでは目撃者がいましたので、12月27日に第三ケルンにいたことは間違いありません。
しかし、その後生徒5人と教師1人の行方は分からなくなり、12月28日には遭難対策本部が設置され、12月30日には自衛隊の捜索隊がテントを発見しましたが、行方は分からないままでした。この時は後に「五六豪雪」と呼ばれる記録的豪雪だったため、捜索は困難を極め、一度捜索は打ち切りになります。
そして、雪が溶けた1981年5月に6人全員が遺体となって発見されています。
遺体の発見状況から、道に迷って水辺でビバークした時に死亡したか、その前に死亡して川まで流されたものと見られています。
逗子開成中学・高校の八方尾根遭難事故の原因は教師?
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逗子開成中学・高校の八方尾根遭難事故の原因は何でしょうか?
逗子開成中学・高校の八方尾根遭難事故が起こった1980年12月下旬、事故現場付近には逗子開成高校の山岳部だけでなく、大学登山部などのパーティーがいました。ただ、遭難したのは逗子開成高校登山部のみ、他のパーティーは遭難することはありませんでした。
教師は学校に許可を得ていなかった
八方尾根遭難事故は、逗子開成高校の登山部生徒5人と顧問教師1人が犠牲になりました。つまり、学校の部活動(課外活動)をする中での遭難事故です。
しかし、この顧問教師は学校に登山旅行の届け出をしていませんでした。学校の課外活動なのに、学校に無届けで活動し、遭難したのです。
もちろん、届け出をすれば遭難せずに済んだ、遭難しても生還することができたというわけではありません。届け出を出していても、遭難を防ぐことはできなかった可能性は高いです。
それでも、届け出をすべきところをやらずに、学校の知らない所で遭難事故を起こしてしまったということに関しては、完全に教師に責任があると言えるでしょう。
複合的な要因が原因?
この八方尾根遭難事故の原因は、複合的なものが重なったと言われています。
まず1つ目は悪天候です。五六豪雪と呼ばれるほどの記録的豪雪があり、普段の冬期登山以上に厳しい状況でした。
その他、準備不足やスキル不足、余裕のない日程などが原因として挙げられます。
事故原因について「(登山部の)力量と山域選定の不適が計画段階において内在していた」と厳しく糾弾した。
冬山登山の装備としてはしっかり準備していましたが、唐松岳にアタックした12月27日はワカン、ツェルト、磁石、ヘッドランプ、非常食を持って行かず、テントに残したままだったのです。
また、冬の唐松岳は難しいルートというわけではありませんが、高校登山部のための「安全で初歩的な訓練」には不向きですし、日程も予備日を入れるべきでした。
このような原因があり、逗子開成高校の八方尾根遭難事故は起こってしまったのです。
逗子開成中学・高校の八方尾根遭難事故のその後
責任の有無で裁判沙汰に
逗子開成中学・高校の八方尾根遭難事故では、責任の所在で揉めることになりました。前述のように顧問教師は学校に届け出をしていませんでしたので、逗子開成高校は「これはあくまで私的な旅行であり、学校は関係ない」と主張しました。損害賠償の支払いも拒否しています。
しかし、この主張に遺族は納得しませんでした。そして、学校を相手に1982年3月に損害賠償請求を求める裁判を起こしたのです。
徳間書店が救済
遺族に裁判を起こされた逗子開成高校は、学校内でも責任に対する意見は二分し、学校運営が危うくなりました。そこに登場したのが徳間書店の社長である徳間康快氏です。
徳間康快氏はこの逗子開成高校の卒業生で、事態を収拾して再建するために、経営に参入してきたのです。
徳間書店の財力で理事会の主導権を握り、裁判所からの和解勧告を受け入れて、遺族が主張する学校側の管理責任を認め、1984年1月に遺族と和解しています。
遺族と和解が成立した後も、徳間康快氏は逗子開成高校の経営の主導権を握り、次々に改革を行っていきました。
徳間康快氏は中学部を再設置して1985年から募集を開始し、少しずつ中高一貫教育を受ける生徒の割合を増やし、エリートを育成する進学校へと成長させました。2003年には高校から入学するコースは廃止され、完全に中高一貫教育になっています。
また、歴史・立地を生かした海洋教育などを推進し、特徴ある進学校に生まれ変わっています。
逗子開成中学・高校の事故の現在:追悼集会が開かれている
逗子開成中学・高校は1903年の開校以来、2回も大きな遭難事故を起こしています。1回目のボート遭難事故では12名の生徒(1名は小学生)の命が失われ、2回目の八方尾根遭難事故では5名の生徒と1名の教師の命が失われました。
その悲惨な事故を経て、逗子開成中学・高校では、現在でも毎年追悼集会を行い、命の大切さを生徒たちに認識させています。
1月22日(月)体育館にて七里ガ浜ボート遭難事故・八方尾根遭難事故 追悼集会を行いました。
昨秋実際に八方尾根に慰霊登山を行った教頭、そして学校長が当時の様子を語る中、体育館に集う生徒たちはみな静かに、命を失った先輩たちに思いを寄せていました。
八方尾根遭難事故は12月、ボート遭難事故は1月に起こったので、毎年1月に2つの追悼をまとめて行っているようです。
学校の中には「ボート遭難の碑」と「いのちの碑」がありますし、稲村ヶ崎にも「ボート遭難の碑」があります。さらに、教職員や卒業生の中には毎年八方尾根に慰霊登山を行っている人もいるとのこと。
これらの悲惨な遭難事故を忘れないために、そして同じような遭難事故を二度と起こさないために逗子開成中学・高校は出来る限りのことをしていると言えるでしょう。
逗子開成中学・高校の事故のまとめ
逗子開成中学・高校の2度の遭難事故(ボート遭難事故と八方尾根遭難事故)の概要や原因は教師や生徒にあるのか、遭難事故のその後と現在をまとめました。
どちらも明らかに逗子開成中学・高校の過失というわけではないですが、学校が関係している遭難事故であることは間違いありません。どこの学校でも二度と同じような遭難事故が起こらないようにしてほしいですね。