バブル崩壊後の日本では「企業テロ」と呼ばれる事件が起こりましたが、その1つが住友銀行名古屋支店長射殺事件です。
この住友銀行名古屋支店長射殺事件の詳細や場所と被害者・犯人について、事件の真相やその後と現在をまとめました。
この記事の目次
住友銀行名古屋支店長射殺事件とは
住友銀行名古屋支店長射殺事件とは、1994年9月14日に住友銀行名古屋支店の支店長が名古屋市千種区にある自宅マンションで射殺された事件です。
たった1発で頭部を撃ち抜いていることや銃には消音器が使われていたと見られることから、プロの犯行ではないかと見られていました。
事件から3ヶ月後には事件で使われた銃を持った男が別件で逮捕されましたが、証拠不十分のためにこの住友銀行名古屋支店長射殺事件では逮捕することができず、そのまま時効を迎えてしまいました。
住友銀行名古屋支店長射殺事件の詳細
1994年9月14日午前7時20分ごろ、名古屋市千種区にある高級マンションの10階にある自宅の玄関前で、住友銀行名古屋支店長である畑中和文さん(当時54歳)が亡くなっているところを、隣に住む住人に発見されました。
被害者の畑中和文さんは次のような状態で発見されています。
・銃弾は右目の上に命中して左後頭部に貫通していた
・壁に右肩をもたれ、右足を折り、左足を投げ出して座るような恰好で亡くなっていた
・血まみれの状態だが、ほかに外傷はなかった
・玄関のドアは開いていて、新聞が放り出されていた
・室内は荒らされていなかった
・自宅内は接客した様子はなかった
これらのことから、被害者の畑中さんは早朝に何らかの理由で(新聞を取るため?)玄関のドアを開けたところを、銃撃されて即死したと見られています。
現場となった自宅マンションは1フロアに2世帯しか入居していない高級マンションで、メインエントランスは完全オートロックになっていて、訪問者は中から住人に鍵を開けてもらわないと入れない仕組みになっていました。また、事件当日は6時30分ごろに新聞配達の人が出入りしたものの、それ以降は誰も出入りした形跡はありませんでした。メインエントランス以外の扉は、マンションの内側からしか開きません。
また、このマンションの住人は当日の午前7時20分ごろにはドンドンという音と悲鳴を聞いているものの、銃声は聞いていませんでした。それ以前に銃声のようなものを聞いたという証言はありませんでした。つまり、被害者の畑中和文さんは、消音器がついた銃で撃たれた可能性が高いと見られています。
犯行に使われた銃はアメリカのスミス&ウェッソン社製の回転式38口径「レディー・スミス」で、2mの至近距離から撃たれていたことが判明しました。
畑中和文さんは毎朝7時40分に迎えの車が来るのですが、出社前を狙った計画的なプロによる犯行だったと推測されています。
・被害者の畑中さんの毎朝の行動を調べていた
・消音器がついた銃を使った
・1発で頭部を撃ち抜いていた
このような事情を調べていた。かつプロの犯行であると推測されました。しかし、現場には犯人を特定するような証拠は残っておらず、目撃者もおらず、第三者がマンションに出入りした形跡もなかったため、捜査は難航を極めました。
住友銀行名古屋支店長射殺事件の場所
住友銀行名古屋支店長射殺事件の場所は、愛知県名古屋市千種区法王町2丁目にある月見ヶ丘マンションB棟10階です。
出典:jiji.com
こちらが当時の現場のマンション画像ですが、これを見るとマンションは10階建てになっているので、被害者の畑中和文さんは最上階に住んでいたようです。
このマンションは1994年当時すでに完全オートロックになっていて、1フロアには2世帯しか入居できない高級マンションでした。
現場のマンションは現在でもまだ残っています。
出典:google.com
事件当時と比べると、周辺はだいぶ開発されていますが、マンションは変わっていないことがわかります。
住友銀行名古屋支店長射殺事件の被害者
住友銀行名古屋支店長殺害事件の被害者は、畑中和文さん(当時53歳)です。
大阪大学法学部を卒業後の1965年に住友銀行に入行します。東大阪支店や本店の総務畑を歩み、総務部次長に就任します。1987年からは次の支店の支店長を歴任します。
・梅田北口支店長(パチンコ業者や水商売との取引が多い)
・京都・四条支店長(平和相互銀行がらみの不正融資案件多数)
・大阪駅前支店長(山口組系フロント企業の口座が圧倒的に多い)
・船橋支店長(闇金融業者が多い)
そして、1991年6月に取締役に就任し、1991年11月に名古屋支店長として単身赴任をしていました。名古屋支店長を務めた後は、常務として本店に戻ることがほぼ決まっていたようです。
上記の歴任した支店は、いろいろと取引に問題がある支店が多く、名古屋支店もイトマンがらみで問題があった視点でした。
住友銀行名古屋支店長射殺事件の犯人は?
住友銀行名古屋支店長射殺事件では、犯人はプロで銃の扱いに慣れている人物ではないかと見られていましたが、犯人は一向に特定できませんでした。
しかし、事件から2ヶ月後に犯人が思わぬ形で浮上してきました。
1944年11月11日に、住友銀行本店に「融資してくれなければ、青酸カプセルを飲む」と1本の電話が入りました。そして、その電話の男が本店に拳銃を持って現れ、銀行員が警察に通報して銃刀法違反の容疑で逮捕されました。
逮捕された男は近藤忠雄(当時73歳)で、17年前の19877年9月に2人を監禁して現金2億8000万円を奪う愛知医大三億円強奪事件を起こして、懲役13年の実刑判決を受け、1992年に出所したばかりでした。
近藤忠雄は取り調べの最中に、「このピストルで名古屋支店長を殺害した」と供述し、住友銀行名古屋支店長射殺事件の実行犯であると言い出したのです。そして、鑑識の結果、確かに名古屋支店長の畑中和文さんを殺害した弾丸と近藤忠雄が所持していたピストルの線条痕が一致しました。つまり、住友銀行名古屋支店長射殺事件では、近藤忠雄が持っていたピストルが使われたということです。
殺人容疑での取り調べが行われましたが、近藤忠雄の供述はあやふやな部分があり、次のような矛盾点が出てきました。
・「男の供述からは犯行時間に間に合わない」
・「マンション玄関はオートロックで、鍵が無い場合は住人にインターホンで連絡して中から開けてもらないといけない」
また、どのように犯行に及んだかなど詳細な証言がなく、近藤忠雄が実行犯であると立証できるだけの証言を得ることはできませんでした。そのうち、近藤忠雄は実行犯であることを否定するようになり、「事件について知っているが言えない」と口を閉ざすようになりました。
そのため、近藤忠雄を住友銀行名古屋支店長射殺事件での立件は見送られることになりました。
ただ近藤忠雄は、住友銀行本店に拳銃を持って現れた銃刀法違反と恐喝未遂罪のほかに、1994年11月に住友銀行頭取の家に脅迫状を郵送した脅迫罪で懲役7年の実刑判決が確定しました。
このほか、1993年4月に名古屋市で現金を奪おうとした強盗未遂罪で懲役3年の実刑判決、1993年2月のJRA理事長襲撃事件での強盗傷害罪で懲役4年の実刑判決が言い渡されます。
さらに、この近藤忠雄に拳銃を課した暴力団幹部が特定されています。しかし、この暴力団幹部からも住友銀行名古屋支店長射殺事件に関する供述は得られず、銃刀法違反での逮捕・起訴のみ(懲役5年)で、住友銀行名古屋支店長射殺事件に関する容疑での逮捕・起訴はできませんでした。
つまり、完全に犯人と思われる人物、しかも実行犯と指示した暴力団員が特定できているのに、証拠不十分で逮捕・立件することができなかったということになります。
住友銀行名古屋支店長射殺事件の真相
住友銀行名古屋支店長射殺事件の真相を考察していきましょう。一体なぜ、畑中和文さんは銃で殺害されなければいけなかったのでしょうか?
名古屋支店はイトマンやその他の債権を抱えていた
出典:weekly-economist.mainichi.jp
住友銀行名古屋支店は、イトマン事件に大きく関与していました。イトマン事件とは1991年に発覚した総合商社の伊藤萬株式会社(イトマン)を巡る特別背任事件です。イトマンから絵画取引やゴルフ場開発、不動産投資・融資などで約3000億円が暴力団など闇社会に消えていきました。
イトマン事件の中心人物である伊藤寿永光(暴力団の山口組の周辺者)は、畑中和文さんの前任の住友銀行名古屋支店長だった人物を通じて、イトマンの名古屋支店長の加藤吉邦と知り合います。そして、伊藤寿永光はイトマン社長に「2000億円プロジェクト」という話を持ち掛け、そこからイトマンは伊藤や許永中に言われるがままにゴルフ場開発や不動産投資などに多額の資金を投入させていくのです。
住友銀行名古屋支店は、伊藤に対して怪しい多額の融資を行い、伊藤の犯罪スレスレのビジネスを手助けしていきます。そして、住友銀行名古屋支店は業績を一気に伸ばしました。つまり、被害者の畑中和文さんが着任する前の住友銀行名古屋支店はイトマン事件で暴力団と近づき、美味しい思いをしたということになります。
このイトマン事件と住友銀行名古屋支店のやり取りは、住友銀行の頭取で「住友銀行の天皇」と呼ばれた磯田一郎ももちろん関与していて、イトマン事件によって引責辞任することになりましたが、磯田一郎は「イトマンのことは墓場まで持っていく」と口を頑なにつぐんでいました。
被害者は磯田一郎の追い落としをしようとしていた
出典:zakzak.co.jp
住友銀行名古屋支店長射殺事件の被害者である畑中和文さんは、イトマン事件に大きく関与していた「住友銀行の天皇」である磯田一郎の追い落としに奔走していたと言われています。つまり、「反磯田一郎派」だったということになります。
そして、磯田一郎の引責辞任によって、磯田一郎の派閥を追い出すことができて、イトマン事件の後始末の意味もあり、畑中和文さんは名古屋支店長に着任したのです。
暴力団から狙われた?
磯田一郎氏がいくら口をつぐんで引責辞任したからと言って、イトマン事件は沈静化することなく、住友銀行全体の不正融資や暴力団との関係、不良債権の実態が深刻などが暴かれていきました。
そこに、反磯田派の畑中和文さんが支店長に着任したとなれば、さらに不正は暴かれます。暴力団にとっても、住友銀行にとっても不都合なことです。磯田一郎が引責辞任して住友銀行を去ったとしても、影響力は残っていたでしょう。
そこで、暴力団が畑中和文さんを消したのではないでしょうか?この住友銀行名古屋支店長射殺事件では、住友銀行は捜査に協力的ではなかったという情報もありますので、暴力団と住友銀行は裏で結託していた可能性もあります。
住友銀行名古屋支店長射殺事件のその後と現在
近藤忠雄は死亡
住友銀行名古屋支店長射殺事件では、実行犯は近藤忠雄で暴力団が裏で指示していたと考えられます。近藤忠雄は少なくとも事件について重要な情報を持っていたことは間違いありません。
住友銀行名古屋支店長射殺事件の真相を知るためのキーマンだった近藤忠雄は、殺人罪では逮捕されなかったものの、ほかの事件で実刑判決を受けていて、2009年6月が刑期満期で出所予定でした。
しかし、事件当時はすでに73歳と高齢だったこともあり、2009年1月の出所前に病気で亡くなっています。これで、事件の真相は一気に遠のいてしまいました。
時効を迎えて未解決事件に
住友銀行名古屋支店長射殺事件は2009年9月14日午前0時に時効を迎えています。現在では殺人事件は時効がありませんが、当時の時効は15年でしたので、2009年9月14日に時効となったのです。
時効となったことで、捜査は終了となり、殺人犯はそのまま何の刑罰もなく、現在も普通に社会で生活していることになります。そして、この事件は永遠に真相はわからないままとなりました。
住友銀行名古屋支店長射殺事件のまとめ
住友銀行名古屋支店長射殺事件の詳細や場所、被害者と犯人、事件の真相やその後と現在をまとめました。住友銀行名古屋支店長射殺事件はバブル期の闇の部分が起こした事件なのかもしれません。事件の真相は永遠にわからないのが悔しいですね。