フランスのオラドゥール村は第二次大戦中にナチスドイツの武装親衛隊により住民が虐殺され壊滅した村です。
この記事ではオラドゥールの虐殺がなぜ起きたか、遺体の状態、生存者や生き残り、心霊の噂や加害者たちの裁判、保存された廃墟の観光方法、題材にした映画や現在についてまとめました。
この記事の目次
オラドゥール村は第2次大戦中ナチス親衛隊の虐殺で壊滅したフランスの村
「オラドゥール村」(Oradour-sur-Glane)は、フランスの中央からやや南西に位置するオート=ヴィエンヌ県にあった小規模な村で、第二次世界大戦中の1944年6月10日にドイツ軍のナチス武装親衛隊第2SS装甲師団「ダス・ライヒ」の1個大隊により、当時村にいた住民の大半が虐殺され壊滅し、現在もその廃墟が保存されています。
1944年6月10日の昼過ぎ、ナチス武装親衛隊第2SS装甲師団第4SS装甲擲弾兵連隊第1大隊の約200名はオラドゥール村を包囲し、身分証明書の確認を口実に村人全員を集め、男性を6つの納屋に集めて機関銃で虐殺。さらに女性と子供を教会に集めて焼夷手榴弾によって生きたまま焼き殺しました。(毒ガスを使用したとの説はあるが信憑性は低い)
オラドゥール村の虐殺事件では、女性や子供を含む643名もの人々がナチス武装親衛隊によって虐殺され生存者はわずか20数名でした。(2020年まで公式の犠牲者数は642名とされていたが新たにスペイン人女性1名の犠牲者が確認され643名に更新)
オラドゥール村虐殺事件はなぜ起きたのか背景と経緯
出典:https://upload.wikimedia.org/
オラドゥール村でドイツ軍ナチス親衛隊による虐殺事件がなぜ起きたのかについて背景と経緯についてみていきます。
オラドゥール村虐殺事件はなぜ起きたか① 当時のフランスはドイツ占領下
まず、当時のフランスはナチスドイツの占領下にありました。1940年5月にドイツ軍はフランスへ侵攻して6月中には降伏に追い込みナチスドイツの傀儡政権であるヴィシー政権を成立させていました。
しかし次第にドイツ軍は劣勢となり1944年6月6日にノルマンディー上陸作戦によりアメリカ軍とイギリス軍を主力とする連合軍がフランス北部に上陸。この4日後に発生したのが「オラドゥール村虐殺事件」でした。
オラドゥール村虐殺事件はなぜ起きたか② レジスタンス潜伏の情報をSSが得る
オラドゥール村虐殺を指揮したアドルフ・ディークマンSS少佐
オラドゥール村虐殺事件があった1944年6月当時、ドイツ軍ナチス親衛隊第2SS装甲師団「ダス・ライヒ」はフランス南部に駐屯しており、ノルマンディーに上陸した連合軍を迎撃に向かうところでした。
一方、当時のフランスではドイツ支配に抵抗する民間のレジスタンスが組織されており、各地でドイツ軍に対する破壊活動を行っていました。
そんな中、親衛隊第2SS装甲師団「ダス・ライヒ」所属の大隊指揮官であるアドルフ・ディークマンSS少佐(SS=ナチス親衛隊)は、同じくダス・ライヒ所属部隊の指揮官であるヘルムート・ケンプフェSS少佐がレジスタンスに捕えられたという情報を得ました。
そして、そのレジスタンス組織が潜伏しているとされたのがオラドゥール村でした。(実際にこの村にレジスタンスが潜伏していたのかははっきりしない)
オラドゥール村虐殺事件はなぜ起きたか③ SSが報復として村人を虐殺
詳細な経緯は当時の情報がドイツ軍によって破棄されているためはっきりしていませんが、親衛隊第2SS装甲師団「ダス・ライヒ」は、ヘルムート・ケンプフェSS少佐が殺害されたとしてオラドゥール村に潜伏しているとされたレジスタンスへの報復に動きました。
アドルフ・ディークマンSS少佐指揮下のナチス親衛隊SS大隊約200名は、1944年6月10日の昼過ぎにオラドゥール村を包囲した上で、住民に身分証明書確認のために村の中心部に集まるように命じました。
ナチス親衛隊の兵士らは、村人のうち成人男性202名を6つの納屋と小屋に分けた上で機関銃でまず脚を撃って動けなくした後、藁を被せて火をつけ生きたまま焼き殺しました。男性は196名が殺害され、6名がかろうじて脱出に成功しましたがこのうち1人はその後すぐに路上で捕捉されて射殺されています。(計197名死亡)
さらにナチス親衛隊の兵士らは、女性と子供を村内の教会に集めて封鎖し、焼夷手榴弾を使って建物に放火し生きたまま焼き殺しました。窓を破り逃げ出した人々も機関銃によって射殺され、247人の女性と205人の子供が虐殺されました。女性の中ではただ1人、マルグリット・ルーファンシュという当時47歳の女性だけが奇跡的に生き残りました。
オラドゥール村虐殺事件の被害者の遺体
オラドゥール村虐殺事件の被害者は生きたまま焼き殺されており、遺体は凄惨な状態だったと推測されますが、遺体の詳細な状況などは伝わっていません。
オラドゥール村虐殺事件から数日後に、生存者により犠牲者の遺体は埋葬されています。(ドイツ軍により埋葬を許可されている、一部ドイツ軍上層部からもこの虐殺に対して糾弾の声が出ていた)
オラドゥール村虐殺事件の生存者(生き残り)は30名以下
オラドゥール村虐殺事件の生存者のロベール・エブラス氏
オラドゥール村虐殺事件の生存者(生き残り)は30名以下でした。(ただし、戦争中という事情もあり事件当時村を離れていた人々が多くいたため村全体が壊滅したわけではない)
オラドゥール村虐殺事件の生存者は、ドイツ軍が村に現れてすぐに異変を察して脱出した約20名と、納屋の裏手から逃げる事ができた5名の男性、窓を破って逃げた後えんどう豆畑の茂みに這い入って一晩中隠れていた当時47歳の女性マルグリット・ルーファンシュでした。
オラドゥール村虐殺事件の生き残りのうち、ロベール・エブラスという方は2014年にオラドゥール村虐殺事件の回顧録として「Avant que ma voix s’éteigne」を出版しています。
オラドゥール村の廃墟には現在も大勢の幽霊が出るという心霊的な噂も
オラドゥール村は大勢の住民がドイツ軍ナチス親衛隊に虐殺された後、ゴーストタウン化していますが、大勢の幽霊が出るなどの心霊的な噂があるようです。
12位のオラドゥール村って、映像の世紀でも紹介されてたけど、心霊スポット的な場所になってたのな。
— もゆる (@moyu_1010) October 3, 2015
オラドゥール村は海外のウェブサイトでも心霊スポットとして紹介されていますが、具体的な心霊エピソードなどは特に伝わっていないようです。
オラドゥール村虐殺を行ったドイツ兵の裁判
オラドゥール村虐殺事件に関与したドイツ軍ナチス親衛隊(ナチス武装親衛隊第2SS装甲師団第4SS装甲擲弾兵連隊第1大隊)の隊員約200名の裁判(軍事法廷)は、第二次世界大戦終結後の1953年からにフランスのボルドーで開かれました。
ただし、実際に裁判で審理されたのはオラドゥール村虐殺事件に関わった約200名のうち終戦まで生き残った65名でした。
さらに、この多くは西ドイツと東ドイツ(大戦後に西側諸国管理の西ドイツとソ連管理の東ドイツに分断された)におり両国はフランス当局の引き渡しに応じなかったため、裁判に出席したのは21名のみで、起訴されたのはうち20名でした。
また、裁判に出席した21名のうち7名はドイツ国民でしたが、14人名ドイツ系フランス人であるアルザス人で彼らは強制的に武装親衛隊に入隊させられたと裁判で訴えました。
1953年2月11日、20名の被告のうち19名が有罪判決を受け、うち5人に懲役刑が、2人に死刑が言い渡されています。しかしこの裁判に対してアルザス地方で反発が起きたためアルザス人は全員が恩赦され釈放されています。さらに、1958年にドイツ人の被告も釈放されました。
その後、オラドゥール村虐殺事件で小隊を率いていたハインツ・バルトSS中尉が東ドイツで拘束され1983年の裁判で終身刑が言い渡されました。しかしその後、1997年に釈放され2007年に亡くなっています。
オラドゥール村の廃墟は現在も保存され観光地となっている
オラドゥール村虐殺事件が起きてほとんどの住民が虐殺された後、オラドゥール村はそのまま廃墟化してゴーストタウン化しています。
第二世界大戦が終結してフランスからドイツ軍が駆逐された後、シャルル・ド・ゴール大統領(大戦中に自由フランス政府を樹立してドイツ軍に抵抗した軍人で、フランス解放後に大統領に就任)は、オラドゥール村を再建せずにナチスドイツ占領時代の残酷さを後世に伝えるためにそのまま保存する事を決定しました。
現在もオラドゥール村虐殺事件のままの状態で保存されいて観光地として知られています。
オラドゥール村を観光する方法
オラドゥール村はフランスの中部の都市・リモージュから約20kmほどの場所にあります。
観光するには、フランス国鉄(SNCF)のパリのオステルリッチ駅からリモージュベネディクタン駅へ向かい、直結するバスターミナルから直通のバスが出ています。Oradour-sur-Glaneのバス停で降り、徒歩5分ほどでメモリアルセンター(Oradour sur Glane memory centre)がありそこで受付をして地下通路を通ってオラドゥール村の廃墟へ入る事ができます。
オラドゥール村虐殺事件を題材にした映画
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オラドゥール村虐殺事件を題材にした映画としては、1975年公開のフランスと西ドイツ合作映画「Le vieux fusil」があり、「追想 -愛と復讐と男の戦い-」の邦題で日本でも公開されています。
オラドゥール村虐殺事件を題材にした映画には他にも1989年のイギリス映画「Souvenir」、2011年のフランスのドキュメンタリー映画「Une vie avec Oradour」などがありますが、これらは現在の時点では日本では公開されておらず日本語字幕版や吹き替え版は存在しません。
オラドゥール村の現在…生き残りにより西側に村が再建されている
オラドゥール村は、ドイツ軍ナチス武装親衛隊の虐殺により廃墟化した村は戦争遺構として保存されていますが、すぐ近く(西側)に新たに村が再建されています。
再建された現在のオラドゥール村は約2500人が住むのどかな街で、バター、子牛、子羊肉、豚肉、ハムなどを名産品として生産しています。
まとめ
今回は第二次世界大戦中の1944年6月10日にドイツ軍のナチス武装親衛隊による虐殺によって壊滅したフランスの村「オラドゥール村」についてまとめてみました。
オラドゥール村の虐殺事件がなぜ起きたのかですが、当時のフランスはドイツの占領下にあり、その支配に抵抗するレジスタンスが組織されていました。ナチス武装親衛隊はオラドゥール村にレジスタンスが潜伏していると見做し、また、武装親衛隊の将校がこのレジスタンス組織に捕まり虐殺されたとの情報を得た事を口実としてオラドゥール村のほぼ全ての住民を集めて生きたまま焼き殺しました。
オラドゥール村虐殺事件の被害者の遺体の状態は詳しくは伝わっていませんが、生きたまま焼き殺された事から凄惨な状態だったそ思われます。
オラドゥール村虐殺事件の被害者は確認されているだけで643人にも及び、生存者(生き残り)はわずか20数名でした。
オラドゥール村は戦争の悲惨さとナチスドイツの残虐さを後世に伝えるために保存されており、その廃墟には大勢の幽霊が出るなどの心霊の噂も存在するようです。
オラドゥール村虐殺事件の裁判は太平洋戦争終結後にフランスのボルドーで開かれ、5人に懲役刑、2人に死刑判決が言い渡されましたが、その後恩赦により釈放されています。
オラドゥール村を題材として映画には「Le vieux fusil」、「Souvenir」、「Une vie avec Oradour」などがあります。
オラドゥール村は現在は保存管理されて観光地となっており、その西側に新たな村が再建され約2500名の人が暮らしています。